Search
カテゴリー:旅行記
所用があり、関西方面に出かけておりました。
他の予定が終わってからの出発なので、夜行バスを利用して大阪駅前に早朝到着。
うめきた(大阪駅北地区)地区は、大規模再開発が進み、10年前に来た時から比べて大きく変貌していました。
帰路は空路を選択。
伊丹駅から伊丹空港まではレンタル自転車を借りて、空港の周りを巡りながら移動してみました。
伊丹空港の付近は下河原緑地や空港展望台など、大阪(伊丹)空港に離陸側する飛行機がビル群や山々を背景に次々と着陸する飛行機を眺める場所がいくつかあります。
日曜日ということもあり、多くの人で賑わっていました。
今回は、ほぼ直行直帰の行程でしたが、時間が取れればゆっくりと過ごしてみたい場所です。
横浜そごう美術館で開催されている「KAGAYA 星空の世界 天空の贈り物」展に行ってきました。
KAGAYA 星空の世界 天空の贈り物■2024年5月1日(水)~7月1日(月)[会期中無休]
■6階=そごう美術館
■開館時間:午前10時~午後8時
事前予約不要
■入館料
一般1,400円、大学・高校生1,200円、中学生以下無料主催:そごう美術館
後援:神奈川県教育委員会、横浜市教育委員会
協力:株式会社河出書房新社、コニカミノルタプラネタリアYOKOHAMA、ソニーグループ株式会社(50音順)
特別協力:株式会社広済堂ネクスト
協賛:株式会社そごう・西武空を見あげることをきっかけに広がる世界は、果てしない―
写真作品約100点と、16mの巨大映像で体感する天空の世界
世界中を駆け巡り、絶えず変化する星空を絵や写真、映像やプラネタリウム番組などさまざまなかたちで表現するKAGAYA。
天文普及にも力を注ぎ、人々に星空の魅力を伝え続けています。
本展では、KAGAYAの代表的な写真作品、新作32点含む約100点を「四季の星空」「月のある空」「オーロラ」「天の川を追う星の旅」「一瞬の宇宙」、そして新章「天空を映す」のカテゴリーに分け、一挙に展示いたします。
あわせて本展では、KAGAYAが撮影した迫力あふれる新作映像作品を体験できるコーナーを新設。美しい音楽とともに、16mの大画面で放映いたします。
美しい写真や、臨場感あふれる映像作品を通して、はるかなる星空の世界をお楽しみください。
(展覧会の説明文より引用)
展示作品は、決められたエリアでの写真撮影OKで、美しく撮影できるように照明等の配置が考慮されています。
積極的にSNS等にお願いしますということでした。
いくつか作品をピックアップしてみます。
展示作品の撮影場所は、日本各地、世界各地の広範囲に及びます。
作品の数々を実際に肉眼でご覧いただくことをお勧めします。
こちらのリンク先に優待割引チケットがあります。
KAGAYA 星空の世界 天空の贈り物
そうだ京都に行こう(1)の続きです。
京阪電車に乗り、清水五条下車します。
正式名称は蓮華王院本堂。
内部は撮影禁止の為写真はありませんが、鎌倉時代に再建された南北約120メートルの長大な本堂には本尊千手観音坐像はじめ千体千手観音立像など国宝に指定された諸仏が並びます。
国立博物館に寄託されていた仏像が本堂に還座したことにより、1001体が勢ぞろいしました。
三十三間堂の向かいには京都博物館があります。
[京都市交通局]市営206(東山通・北大路バスターミナル行)
五条坂を登り、清水寺へ。
修学旅行生や外国からの観光客が多く訪れています。
本堂は音羽山の断崖に建つ1633年再建の木造建築で本尊千手観音菩薩をお祀りしています。
清水の舞台は日本古来の伝統工法による丈夫な構造で、国宝指定されています。京都市街が一望できます。
紅葉にはまだまだ早いですが、彼岸花がみごろを迎えていました。
産寧坂は三年坂とも呼ばれ、清水寺参道の清水坂から北方面へ下る石段を含めた坂道で、その先二年坂へと続きます。
二年坂から八坂神社、円山公園、高台寺と東山地区の観光地を結ぶ道なので、多くの観光客でにぎわっています。
文化財保護法に基づき重要伝統的建造物群保存地区として選定されており、スターバックスも景観に溶け込むデザインをしています。
建仁2(1202)年、天台・密教・禅の三宗兼学の道場として創建。
正嘉元(1258)年に東福寺開山円爾弁円禅師により復興、正元元(1259)蘭渓道隆禅師により臨済宗の道場として開山されました。
風神・雷神の屏風が出迎えてくれ、方丈、大書院、小書院では禅庭を眺めながらゆったりと過ごすことができます。
法堂の天井には小泉淳作画伯筆の双龍が睨みを利かせています。
■梅小路鉄道博物館
この日は鉄道博物館が休館日のため、梅小路公園を経て東寺へ。
[京都市交通局]市営207(祇園・九条車庫行)
東寺は、創建以来1200年、平安遷都とともに建立された官寺(国立の寺院)です。
真言宗の総本山であり、本尊は薬師如来。教王護国寺とも称されます。
東寺の北大門から北総門までの櫛笥小路は平安時代以来そのままの幅で残っているとされます。
その東側に位置する観智院は鎌倉時代、後宇多法皇によって東寺の寺僧の住房が計画され、南北朝時代の延文4(1359)年に創建されました。
午後の新幹線で京都から新横浜へ。
2日間の小旅行でしたが、効率よく巡ることができました。
また、折りを見てゆっくりと訪れたいところです。
今月某日、諸行事予定の合間をみて、京都へ行ってきました。
紅葉にはまだ早い時期ですが、これまでゆっくりと訪問したことのない場所をぐるりと巡る旅です。
午前の新幹線にて新横浜から雄大な霊峰富士を眺めながら京都へ。
2時間もかからずに京都駅へ到着しました。あっという間ですね。
京都駅でバスの一日乗車券を購入。
公共交通機関が縦横無尽に通っているので便利ですね。
スマートフォンで行きたい場所を入力すると、経路候補、乗場、発車予定時刻を提示してくれます。
京都駅北口バスターミナルから[京都市交通局]市営9(西賀茂車庫前行)
■二条城
二の丸御殿内は撮影禁止の為、写真はありませんが、書院造の日本建築史上重要な国宝の建物です。
各部屋には狩野派による障壁画が描かれ、欄間彫刻や飾金具などの多彩な装飾も見応えがあります。
庭園は、メンテナンスが各所で行われていました。
今年は夏の暑さが厳しかったこともあるのでしょうか、アオコのためにお掘の水は緑に染まっています。
[京都市交通局]市営50(立命館大学前行)
■北野天満宮
貞昌院の隣には日本三体の永谷天満宮がありますが、こちら北野天満宮は全国天満宮の総本社となっています。
広大な境内に立派な拝殿が並んでいます。
北野天満宮から路面電車(嵐電)に乗って仁和寺へ。
住宅の合間をゆっくりと進んでいきます。
仁和寺山門前で昼食。
仁和4年(888)創建の真言宗御室派の総本山。
将棋の竜王戦が行われる会場としても知られ、今月17-18日には第36期竜王戦七番勝負第2局(藤井惣太八冠ー伊藤匠七段)が行われる予定です。
[京都市交通局]市営26(京都駅前行)
枯山水の石庭で有名ですが、広大な境内と蓮池は見応えがあります。
1450年、室町時代に細川勝元が創建した禅宗のお寺です。
[京都市交通局]市営26(京都駅前行)
正式名称を鹿苑寺。相国寺の塔頭寺院の一つ。
池越しに眺める舎利殿「金閣」は金箔が1987年に貼り替えられたことで一層美しく映えています。
[京都市交通局]市営26(京都駅前行)
賀茂川と高野川の合流地点に位置し、正式名称は賀茂御祖神社です。
十二単衣と王朝の舞・神様の台所(大炊殿)の特別拝観が行われていました。
[京都市交通局]市営26(京都駅前行)
鴨川沿いの納涼床は二条から五条にかけての上木屋町・先斗町・西石垣・下木屋町の4つのエリア、90軒余りの店が並ぶとされます。
スターバックスの川床でフラペチーノをいただきました。
八坂神社は祇園さんとして親しまれています。
国宝の本殿はじめ、他摂社・末社、建造物29棟が重要文化財として指定されています。
。
そうだ京都に行こう(2)に続きます
所用があり関西方面へ出向きました。
(といっても、ほぼとんぼ返りではありましたが)
最終便ということもあり、空港はガラガラです。
搭乗率も6割程度というところでした。
非常口席は席間隔が広く足元に余裕があるのでおすすめです。
航空機は飛行中、客室内の気圧が下がっているため、上空でカラのペットボトルの蓋を閉じると、地上ではこんなに潰れてしまいます。
空港からの南海ラピートもほとんど空席でした。
エスカレーターを右側に乗る光景を見ると関西に到着した実感がわきます。
大阪と言えば、これらの看板。
この場所では哀悼の意を捧げさせていただきました。
鉄道の結節点の駅であるため、線路が複数交差しています。
熱海に出向く機会がありましたので、起雲閣へ行ってきました。
起雲閣は、大正8(1919)年に内田信也氏の別荘として築かれ根津嘉一郎氏に受け継がれた名邸です。
戦後、桜井兵五郎時代に旅館として改装され、文豪の宿として、将棋や囲碁の対局の場として愛されてきました。
門をくぐり、和館「麒麟・大鳳」の正面玄関から入ります。
大正8(1919)年に完成した起雲閣初期の建物です。
ここで、ガイドの方に説明をいただくことができました。
座敷は、簡素な造りながら、大正ガラスを通して庭園をながめることができる空間となっています。
群青色の壁「加賀の青漆喰」は、戦後、旅館の時代に塗られたものです。
洋館「玉姫」は、根津嘉一郎氏の時代、昭和7(1932)年に完成しました。
併設されたサンルームは、大きな窓とステンドグラスの天上と、床の色鮮やかなタイルが特徴です。
インを基調にしています。
玉姫は、正面中央に暖炉があるヨーロッパのデザインを基本にしていますが、「折上格天上」など日本の神社仏閣に見られる建築様式が用いられています。また「喜」の文字をデザインした中国風の彫刻や、シルクロード沿いで見られる唐草模様の彫刻で飾られています。
洋館「玉渓」はヨーロッパの山荘をイメージした造りです。暖炉の上には三尊佛、サンスクリット語の飾り掲げられています。
「閑雲」は、茶室として使われていた時の名称です。
洋館「金剛」は、暖炉上部にトランプマークの螺鈿細工が施されています。
洋館「金剛」併設のローマ風浴室。
ステンドグラスの窓やテラコッタ製の湯出口など建築当時の面影を残しています。
和館「孔雀」。
「床の間」や「付け書院」のある座敷など、建築当初のものが残されています。
庭園は、池泉回遊式庭園で、眺望や散策をゆったりと楽しめます。
起雲閣は、現在は熱海市所有の建物となり、維持保存されています。
天気が良いので、三浦半島の南端、城ヶ島までドライブしてきました。
横浜横須賀道路を使えば1時間程度で到着でき、気軽に行ける場所ですね。
城ヶ島大橋を渡り、城ヶ島へ。
城ヶ島公園には、去年(令和2年)にできたばかりの新安房崎灯台があります。
三浦大根をモチーフにしたかわいい灯台です。
ウミウの展望台を経て馬の背洞門へ。
波も穏やかで、透明度の高い海です。干潮に近かったので、浅瀬がいくつもできていました。
馬の背洞門は、風化が進んでいるために、洞門の上は乗ることはできません。
(その手前までは登ることができます)
潮風が心地よく、ゆったりした時間を過ごすことができました。
スバル360は、できる限り毎日乗るようにしています。
調子よく走っています。
横浜スタジアムを会場に、イルミネーションイベントがはじまりました。
先日、当ブログでご紹介した都市型イルミネーション「ヨルノヨ-YOKOHAMA CROSS NIGHT ILLUMINATION-」との連携開催です。
Vega Luminiqueとは、こと座のベガのような明るい星を意味しているそうです。
ちょうど、今の時期はお釈迦様が坐禅に入り、12月8日朝の明星(こちらは恒星ではなく、惑星)を見て大悟されたということですので、共通する部分があるのかもしれませんね(まあ、あまり無いでしょうけれど)。
開催初日の様子を動画にしましたので、どのようなイベントなのかをかいつまんでご紹介します。
横浜スタジアムのグラウンドに入ることができる貴重な機会でもありますので、時間を見て参加してみるのもよいかもしれません。
※屋外イベントではありますが、密を避けるため、人数制限される場合があります。
横浜スタジアムのライティングイルミネーションイベント「BALLPARK FANTASIA Vega Luminique」が始まりました。
ハマスタのグラウンドに入って光と音の演出を楽しむことができます。
開催日 2020年12月7日(月)~12月12日(土)
時 間 18:00~21:05
①18:10-18:40、②18:40-19:10、③19:10-19:40
④19:40-20:10、⑤20:10-20:40、⑥20:40-21:05
※30分間の演出を全6回公演(⑥のみ25分間)
みなとみらい地区で「ヨルノヨ-YOKOHAMA CROSSNIGHT ILLUMINATION-」が開催されています。
メイン会場はワールドポーターズと赤レンガ倉庫の間にある新港中央広場です。
新型コロナウイルス感染症対策のため、会場では体温計測とアルコール消毒が徹底されます。
また、入場者が密にならないような配慮がされています。
人・もの・文化が交わり、歴史を紡いできた横浜。
新旧の文化が共存する国内でも稀有な場所。
ヨルノヨは、そんな横浜の人と場所の記憶を光で表現します。
人々が行き交うことで生まれる痕跡と
文化を記憶する歴史的な建物や
人々に愛されてきた植物、木々たちが一体となり
大規模なスケールで交差する
光が織りなすパノラマイルミネーションをお楽しみください。
約160年に渡り脈々と積み上げてきた
独特の文化と自然観に包まれる
横浜でしか感じることができない
幻想的な光と音の世界へようこそ。
(公式プレスリリースより)
山下公園に出かけてきました。
通りの銀杏並木は黄色く色づき始めています。
公園内の薔薇園では、秋薔薇が見ごろを迎えていました。
濃厚な香りが漂います。
山下ふ頭では、12月19日から公開されるガンダムの動作確認が行われていました。
首を左右に振ったり、両腕、指を動かしたり、足を上げ下げしたり。
12月19日から公開される『GUNDAM FACTORY YOKOHAMA』では、どのようなパフォーマンスを見せてくれるのか楽しみです。
開催期間
2020年12月19日(土)〜2022年3月31日(木)
去年春にブログ記事で紹介した みなとみらい地区のロープウエィの進捗状況です。
保護司の研修で、合同庁舎に出向く用事があったので、工事の様子を眺めてきました。
桜木町駅から汽車道に沿って敷設され、新港ふ頭の運河パークまでの630mの区間を結ぶ「YOKOHAMA AIR CABIN(仮称)」というロープウェイで、2021年春に開業予定だそうです。
(当初は2020年開催されるはずだった東京オリンピックに合わせての開業予定でした)
ロープウェーのルートはこんな感じです。
(Googleの航空写真に赤で線を描いてみました)
桜木町駅東口の広場、コレットマーレの前にロープウェイの駅が建設中です。
バスロータリーをまたぐ形で、かなり大規模な駅ですね。
運河に建設された鉄塔もおおむね出来上がっています。
やがて、ここにワイヤーが張られ、36基のゴンドラが運河の上を運行する予定です。
このあたりの景観はだいぶ変わりそうですね。
距離はそれほど長くはなく、2分半ほどで到着するようですが、桜木町駅から運河パークまでの空中散歩は観光の目玉になりそうです。
帰りに通った馬車道駅前BankARTでは、トリエンナーレの作品も。
こちらの作品は、川俣正氏による「都市への挿入」。
貞昌院墓地参拝専用モノレールを製造している工場は、九州・福岡県の大宰府天満宮にほど近い場所にあります。
検収を終えた後、大宰府天満宮と九州国立博物館に立ち寄りました。
大宰府天満宮は年間850万人以上の参詣者がある神社ですが、新型コロナウイルス感染症による自粛などの影響で、参詣客はまばらでした。
参道入口から鳥居を望む。参道わきには特徴的なデザインのスターバックスがあります。
手水舎には色とりどりの紫陽花が浮かべられていました。
九州国立博物館では、「九州国立博物館開館15周年記念・大宰府史跡指定100年記念特集展示 筑紫の神と仏」と、特別展示「きゅーはくどうぶつえん」が開催されていました。
こちらも、館内はほとんど来館者がなく、貸切り状態。
興味ある内容でしたのでゆっくりと回ることができました。
大宰府天満宮と九州国立博物館の間にある大宰府遊園地も閑散としていました。
■大宰府政庁跡
7世紀後半以降、日本と世界を結ぶ玄関となった役所跡です。
大和朝廷は那の津の官家をここに移し、奈良・平安時代を通して、防衛と海外の窓口となる役所を設置しました。
規模は平城京や平安京に次ぐものであり、南北22条、東西24坊の都市が計画されていました。
現在は、礎石などの遺構整備され、公園となっています。
以前のブログ記事 福岡佐賀研修旅行3 で書きましたが、海外との窓口が置かれた九州北部は、宋の貿易商や禅僧たちが往来し、国際色豊かな地でありました。
中世の港は、現在の港よりもずっと内陸側にあり、那の津・渡唐口には、宋からの船が行き交い賑わいました。
貿易で財を成し得た商人や博多豪商たちが多く、曹洞宗の開祖・道元禅師の一行も商船に乗って宋へ旅立ったと考えられます。
渡航の手続きを担っていた大宰府政庁は、九州の統括と大陸への玄関口、そして海外からの要人を迎える迎賓館としての役割を担っていました。
那の津は、大宰府の窓口として、入出港の要となる港町であったことでしょう。
この近辺には道元禅師に関連すると思われる場所がいくつかあります。
詳細は 福岡佐賀研修旅行3 をご覧ください。
日本では、正月行事を太陽暦で行うことが多いのですが、中国では旧暦で「春節」をお祝いする風習があります。
海外に広がる中華街でも、春節は行われており、横浜の中華街でも春節行事が盛大に行われています。
今年の旧暦の元旦は1月25日(金曜日)でした。
横浜中華街の冬の風物詩、春節の様子を動画に記録しましたので、今回の記事は写真ではなく動画にて報告いたします。
2020年1月26日、横浜中華街の春節祝賀パレード「祝舞遊行」が行われました。華やかな皇帝衣装隊、獅子舞、龍舞のほか、華やかな衣装によるパレードです。
午後4時 出発:山下町公園→関帝廟通り→福建路→西門通り→中華街大通り→南門シルクロード→山下町公園
華やかな春節の行事は2月8日まで続きます。
天気が良かったので、三浦半島方面に出かけました。
横浜横須賀道路に乗ると、浦賀まで自動車専用道路で直結しているので便利です。
ということで、まずは観音崎灯台へ。
観音埼灯台は、明治2年に日本で最初に建てられた洋式灯台で、現在の灯台は関東大震災後に建てられた3代目のものです。
灯台の光りは7万7千力ンデラで、東京湾入口の最も狭い浦賀水道の区間の安全を守っています。
浦賀水道は海上輸送のバイパスということもあって、船舶がひっきりなしに通っています。
対岸見える観音像は、東京湾観音です。
観音崎から国道134号に入り、東側の海岸沿いを走ると、三浦海岸の付近で大根を干している光景を見ることができます。
三崎生鮮ジャンボ市場は、地場の野菜や魚介類が並ぶ大型スーパーです。
三崎口駅周辺には、広大な畑が広がっています。
大根も収穫の時期を迎えていますので、その一部が天日で干されて漬物用として出荷されます。
三浦半島西側を走ると、ちょうど夕日が相模湾し沈む光景を眺めることができました。
この後、葉山~逗子を通って帰宅。
3時間ちょっとの小旅行でした。
毎年、正月三が日が過ぎた1月4日に高尾山に登っています。
高尾山は、平成19年に富士山と並んでミシュランの三ツ星に指定され、都心からの交通の便がよいこともあり、特に多くの登山客でにぎわう山です。
また、ケーブルカー、リフトで登山道の半ば過ぎまで一気に登ることができること、登山ルートが6通りあるので、登山者に合わせたルート選定ができるのも魅力の一つです。
去年の同時期に比べて、参拝・登山客でにぎわっています。
倍以上の人出でしょうか。
蛸杉の前を通り、
暖かい一日で、参道に日差しが差し込みます。
薬王院からさらに山頂をめざします。
山頂では、富士山が望めるはずなのですが、この日は雲に覆われていました。
横浜方面の遠望も、すこし霞がかかっています。
下山の途中で、イノシシに遭遇しました。
草をむしゃむしゃと食べています。
動画ver.
追記:高尾山口駅から徒歩3分ほど南に進んだ場所には、TAKAO 599 MUSEUMがあります。
興味深い展示や、おいしいコーヒーがいただけたり、おすすめのスポットです。
神奈川県第二宗務所第五教区・教化部の研修の続きです。
松久寺を出発、ハイランドの住宅地裏手の尾根道に点在する名越切通しへ向かいます。
名越切通しは、鎌倉時代に屋根道を掘り割って造られたとされる山道で、鎌倉と三浦半島方面を結ぶ重要な古道でもあります。
切通しの周辺には、鎌倉の防衛のために造られたと考えられる大切岸や、火葬施設、やぐらなどの埋葬施設など、中世の鎌倉の歴史的景観を今なお残しています。
切通しの脇には日蓮宗 法性寺があります。
山号は猿畠山(えんばくさん)。地元では古くから「おさるばたけ」の愛称で親しまれており、日蓮宗の開祖・日蓮聖人が、幕府の役人達に襲撃された時に、白いお猿が現われて助けたという伝承があります。
山門には白い猿が彫られています。
切通道には、多くの横穴があります。
このような横穴は「やぐら」であり、13世紀から16世紀ごろにかけて崖に横穴を掘って造られ、主に内部に石塔を建てるなどして、埋葬、供養するための施設です。
このような山道を進んでいきます。
まんだら堂やぐら群に到着しました。
まんだら堂やぐら群は、小坪トンネルの上に位置し、2m四方程度のものから小規模な横穴まで、150以上の存在が確認されているやぐら群です。
これだけまとまった数のやぐら保存されていることはとても貴重なことです。
まんだら堂やぐら群は、公開時期が決まっておりますので、訪問する際には、公開期間をご確認ください。
ここで、午後4時半になりましたので、名越切通路を鎌倉・大町方面にすすみ、鎌倉駅に至って研修を終了しました。
研修部の皆様、参加の皆様、お疲れさまでした。
神奈川県第二宗務所第五教区・教化部の研修の続きです。
円覚寺を後にして、鶴岡八幡宮西側に位置する「道元禅師鎌倉御行化顕彰碑」があります。
顕彰碑の位置と、設置の経緯についてはこちらをご覧ください →道元禅師鎌倉御行化顕彰碑
「道元禅師鎌倉御行化顕彰碑」は、建長寺を通り鎌倉中心地へと結ぶ県道21号線沿いにあります。
鶴岡八幡宮へお越しの際は、すぐ近くですので、是非お立ち寄りください。
ちょうど、昼の時間になりましたので、顕彰碑のすぐ脇にある「鎌倉 里のうどん」にて昼食。
鎌倉野菜たっぷりの冷やしうどんをいただきました。
鶴岡八幡宮では、2010年に積雪のために倒壊してしまった大銀杏のひこばえが順調に育っている様子が見えました。
→こちらも併せてごらんください→ 鶴岡八幡宮大銀杏の復活を願う
境内は多くの海外からの観光客でにぎわっています。
鶴岡八幡宮から浄明寺方面に進み、曹洞宗 松久寺様へ拝登。
元々は東京都港区にありましたが、国道拡張工事によって、鎌倉市浄明寺5丁目のこの地に移ってきました。
ただし、書類上は、未だ東京に籍があり、曹洞宗東京都宗務所直轄寺院となっています。
法堂にて、拝登諷経、拝登させていただきました。
本尊は六身一体地蔵菩薩です。
開山堂には、菅原道真公が自彫されたとされる尊像が祀られています。
境内は、鎌倉石を採掘した石壁に囲まれていて、静寂な雰囲気です。
岩肌には、イワタバコが群生していました。
墓地は急な石階段を上った先にありますので、スロープカーが設置されていました。
4人乗りの斜行エレベーターといったほうが分かりやすいでしょうか。
次のブログ記事に続きます・・・・
神奈川県第二宗務所第五教区・教化部の研修で鎌倉エリアを廻りました。
大船駅に集合、横須賀線にて北鎌倉駅へ。
北鎌倉駅ー円覚寺(白雲庵・富陽庵・円覚寺内拝観)-道元禅師顕彰碑ー昼食ー鶴岡八幡宮ー松久寺ー法性寺ーまんだら堂やぐら群ー大町ー鎌倉駅 という、全行程徒歩による研修です。
まずは、北鎌倉駅から円覚寺へ。
モミジのさわやかな緑が目に染みます。来月には見事な紅葉がみられることでしょう。
三門は空・無相・無願の三解脱を象徴し、煩悩を払い去り涅槃へ至る門とされます。
三門の奥、仏殿前の広場で幼稚園の運動会が行われていました。
仏殿は関東大震災で倒壊しましたが、昭和39年に再建されました。
竜の絵天井が見事です。
禅堂では摂心が行われていました。
居士林は在家の方のための坐禅道場で、定期的に坐禅会が開催されています。
修行僧の坐禅道場、選仏場。元禄12年に建立されました。
大方丈。
各種法要のほか、坐禅会や説教会、講座なども行われています。
円覚寺に点在する塔頭のうち、白雲庵と富陽庵に拝登させていただきました。
まずは白雲庵。
こちらは、2006年にも拝登いたしております。こちらのブログ記事を参照ください→道元禅師降誕の日と鎌倉歴史散歩
臨済宗大本山円覚寺の塔頭の一つ。
円覚寺第十世で暦応3年(1340)10月4日に示寂(じじゃく)した東明恵日(とうみんえにち)禅師の塔所です。
正和年間(1312-16)に退居寮として開創されました。
東明恵日禅師は曹洞宗を修めた中国元の高僧で、1309年、時の執権北条貞時の招きで来日し、1310年円覚寺第10世となり、暦応3年当寺にて遷化するまで、建長寺(18世)、寿福寺などの住職を務めた。また、白雲庵学林を形成し、関東五山文学の中心拠点となりました。
室町時代末期に臨済宗に転宗され、今に至っています。
白雲庵の名の由来は、禅師が中国白雲山の住職だったこと、また「白雲抱幽石」という漢詩の一節に因んでいます。
円覚寺には、江戸時代前期には40の塔頭がありましたが、現在は18の塔頭があります。白雲庵はその中で最も古い塔頭です。
本堂天井画・雲龍は入江正巳画伯によるものです。
日本における禅宗の展開をみる場合、鎌倉時代前期には、求法伝法を目的とした入宋僧が多かったのですが、鎌倉後期になると、多くの禅僧を中国大陸から招聘するようになります。
その一人が東明恵日禅師であります。
石造灯篭(百済時代)。
上から眺めると、鳥の巣の中にヒナが見える、遊び心あふれる意匠をみることができます。
本尊は文殊菩薩。
開祖上杉朝宗氏木像と、大仙庵開祖桃渓徳悟禅師尊像をお祀りしています。
円覚寺の入口猫。
堂々としていて近づいてもまったく動じません。
次のブログ記事に続く・・・
SZI松本結集の翌日、上高地へ。
台風18号の動向が心配ですが、到着時には風はやや強いものの雨は降っていませんでした。
河童橋から眺める梓川は流量が平時よりもかなり多いようです。
河童橋から梓川を上流に進み、明神池を目指します。
爽やかな清流を眺めながら、歩くこと40分ほど
穂高神社奥宮参道に到着。
明神橋を渡り、さらに5分ほど歩くと明神池に達します。
この頃から、少しづつ風雨が強まってきました。
明神池の周りを一周。
この日は天気の影響か、ハイカーもかなり少なかったのでゆっくりと散策することができました。
紅葉が進み、青空が広がっていたら、さぞかし素晴らしい光景が広がっていたことでしょう。
明神池から河童橋への帰路は、台風18号の影響がかなり大きくなり、横殴りの雨模様になってしまいました。
上高地へは約30年ぶりの訪問でしたが、また落ち着いたころに時間をかけて散策したいものです。
平成から令和へ移り変わる10連休。
時間をみつけてみなとみらい地区へ出かけてきました。
この日は好天に恵まれ、水陸両用バスがのんびりと運航していたり、大桟橋には大型客船の姿も。
横浜赤レンガ倉庫では、恒例のドイツの春祭り”Yokohama Frühlings Fest 2019で賑わっています。
フリューリングフェストは、ドイツでは春の訪れを祝うお祭りです。移動遊園地が設置されたり、ドイツの様々なビールを楽しむことができます。
フリューリングフェストのメイン会場となる特大テントでは、横には約30メートルの巨大なビールカウンターを設置し、日本初上陸のビールや会場でしか飲めない限定ビールを販売する。特設テントにはこのような楽しいステージも。
赤レンガ倉庫に隣接する JICA横浜 海外移住資料館 では、
ペルー日本人移民120周年記念企画展示
「ペルー日本人移民の歴史」が行われていました。
ペルー日本人移民120周年を迎え、日本人移民たちが、幾多の困難に遭遇しながらも乗り越え、ペルーにおける日系社会を形成してきた足跡が展示されています。
横浜市仏教会(市仏連)の参拝旅行で成田山新勝寺への参拝旅行に出かけてきました。
■成田山新勝寺とメグミルク工場見学の旅
日時 平成31年4月22日(月)
行程 横浜駅前~高速道路~成田山新勝寺~川豊(昼食)~メグミルク野田工場~高速道路~横浜駅前
天気にも恵まれ、朝7時30分横浜駅を大型バスで出発。
バス車内にて会長挨拶
首都高湾岸線の羽田空港近辺で少し渋滞がありましたが、その後は順調に進み、予定通りに成田山新勝寺に到着しました。
成田山新勝寺(なりたさん しんしょうじ)は、日本の千葉県成田市成田にある真言宗智山派の仏教寺院であり、同派の大本山の一つである。山号は成田山。山号を付して「成田山新勝寺」、あるいは山号のみで「成田山」と呼ばれることが多い。本尊は不動明王で、当寺は不動明王信仰の一大中心地である。そのため、成田不動、お不動さまなどといった通称でも広く親しまれてきた。開山は平安時代中期の天慶3年(940年)と伝えられる。寺紋は葉牡丹。
参詣者数において関東地方屈指の寺である。初詣の参拝客数は、2006年に約275万人、2007年に約290万人を数えており、神社仏閣としては、明治神宮に次ぐ全国第2位(千葉県内第1位)、仏閣に限れば全国第1位の参拝客数である。今も昔も加持祈祷のために訪れる人が多いことでも知られる。成田国際空港に近いことから、外国人観光客にも人気がある。(Wikipediaより引用)
まずは3班に分かれ、境内拝観へ。
大本堂の右手前に配置されている三重塔は、1712(正徳2)年に建立され、現在は重要文化財に指定されています。
総高は25m、大日如来を中心に五智如来が祀られています。
雲水紋の彫刻がほどこされた各層の垂木は一枚板で作られた珍しいもので、一枚垂木と呼ばれています。
三重塔の1層目には「龍」、2層目には「麒麟」、3層目には「獏」が配置されています。
大本堂内で、まずは拝登の般若心経を皆で読経。
その後、御護摩修行・お手綱参拝をいただきました。
(御護摩修行中は写真撮影ができないため写真はありません)
御護摩修行は、平安時代に朱雀天皇より勅命を賜った寬朝大僧正が御護摩祈祷によって平将門の乱(939・天慶2年)を収めたという縁起があります。
それ以来、毎日欠かさず行われてきました。
4月の土日祝日は1日8回、平日は1日5回行われおり、毎回たくさんの方が参列されています。
御護摩修行が厳修される大本堂は、1968(昭和43)年建立。
御本尊は不動明王、その右に矜羯羅童子、左に制咤迦童子を従えています。
そのほか四大明王・平成大曼荼羅などが祀られています。
大本堂裏にはこのような光景が広がっています。
釈迦堂の前ではネモフィラが満開になっていました。
釈迦堂は1858(安政5)年に本堂として建立。現在は重要文化財に指定されています。
中央に釈迦如来や、その周囲に普賢、文殊、弥勒、千手観音の四菩薩が祀られいます。
外壁には欅彫りの五百羅漢や二十四孝の彫刻がほどこされています。
大本堂の前で集合写真。
成田山新勝寺の参拝を終え、昼食は成田駅にほど近い川豊のうなぎ会席を堪能しました。
この後、メグミルク野田工場へ工場見学という行程でした。
正月三が日と土日の合間、1月4日に高尾山に登ってきました。
高尾山は、平成19年に富士山と並んでミシュランの三ツ星に指定され、都心からの交通の便がよいこともあり、特に多くの登山客でにぎわう山です。
また、ケーブルカー、リフトで登山道の半ば過ぎまで一気に登ることができること、登山ルートが6通りあるので、登山者に合わせたルート選定ができるのも魅力の一つです。
三が日はさぞかし混んでいたであろう山麓駅は、4日の昼ということもあったのでしょうか、だいぶ空いていました。
待ち時間なし。
薬王院からさらに山頂をめざします。
思ったより気温が高く、暖かい日差しが差し込みます。
午後2時過ぎに登り始めたので、山頂では、富士山の山頂付近に近づいている太陽の様子を眺めることができました。
高尾山は標高600メートル弱の山ですが、北方向に奥秩父連山・日光連山、北東方向には筑波山、八王子~立川、中央線沿線の市街地、そして新宿など都心の高層ビル群、スカイツリー、横浜ランドマークタワーや東京タワーまで一望出来ました。
1つ前のブログ記事「不忠の義士」の公演が行われた12月14日は、赤穂浪士討ち入りの日、泉岳寺・冬の「赤穂義士祭」が行われる当日ということもあり、泉岳寺境内は多くの参詣者でとても賑わっていました。
泉岳寺における赤穂義士祭のスケジュール
11:00 墓前供養 (浅野長矩公之墓所)
12:00 東阿部流献茶式、義士追善供養(本堂にて)
14:50 義士行列到着(財界二世学院主催)
赤穂義士墓地には朝から多くの参拝客がお詣りをされていました。
「赤穂義士祭」のクライマックスは、今年で29回目を迎える「赤穂義士祭パレード」。
東京・中央区役所の正門前を出発し、総勢約55名による当時の義士たちを模したパレードが行われました。
<赤穂義士祭パレード タイムスケジュール>
11:50 東京・中央区役所正門前集合。出発式後パレード開始
12:30 築地川銀座公園にて記念撮影
12:50 歌舞伎座前にて記念撮影
13:45 増上寺到着。休憩後パレード再開
14:20 芝5丁目交差点を右折。第一京浜を泉岳寺方面へ
14:40 都営浅草線泉岳寺駅横『財界二世学院ビル』前到着
14:50 パレード泉岳寺到着
~15:30 義士墓参り
16:30 アンコールパレード(財界二世学院ビル前~泉岳寺)
15:00泉岳寺境内に赤穂義士たちが到着します。
本堂前でご挨拶
そして赤穂義士墓地へと向かいます。
墓前に到着。
吉良上野介の首を槍の先に括り付けておりますが、今年からは血糊の演出が加わっています。
とてもリアルですね。
本堂内では、赤穂義士の供養法要が営まれました。
曹洞宗第二宗務所第五教区(近隣の曹洞宗組寺)の研修旅行で伊豆半島慶派の仏像を巡る旅に出かけてきました。
朝8時、大船駅西口のR寺様出発。バスにて一路西へ向かいます。
箱根新道で箱根峠を越え、最初の目的地である「かんなみ仏の里美術館」へ。
伊豆半島の付け根に位置する函南町桑原区では、平安時代に造られた「薬師如来像」、鎌倉時代の「阿弥陀三尊像」など、24体の仏像群が、地域の方々により守られてきました。
これら仏像群の散逸を防ぐために、仏像は函南町に寄付され、この美術館が建てられました。
「阿弥陀三尊像」は源頼朝の舅 時政が、戦死した息子の慰霊のために、慶派の仏師・実慶に造像させたと考えられています。
内部は撮影禁止の為、所蔵されている仏像郡は公式サイトでご確認ください。
また、実際に間近でお参りすることもお薦めします
続いて、韮山の願成就院へ。天守君山 願成就院 公式ホームページ
火曜、水曜は閉門されているのですが、特別に開けていただき、伽藍をご案内いただきました。
北条政子の父親で鎌倉幕府初代執権であった北条時政により、娘婿の源頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のため文治5(1189)年に建立された寺院です。
その後、仏堂、仏塔など伽藍造営がなされ、伊豆屈指の大寺院として栄華を誇った。
しかし延徳3(1491)年に全焼してしまいます。ただ、本尊を始めとする仏像数躯は僧侶らの手によって運び出され焼失は免れました。
江戸時代に北条氏貞により再建され、昭和30年代には大御堂が建立され、国宝指定されている運慶作の仏像がお祀りされています。
大御堂で本尊上供諷経を営みました。
境内には、平成五百羅漢の石像が並んできます。希望者が制作指導を受けながら造り、お祀りされます。
昼食後、修善寺へ向かい、伊豆最古の木造建築とされる「指月殿」へ。
この寺院は北条政子により2代将軍の菩提所として建立されたものです。
指月とは経典を意味し、宋版大蔵経などを収める経堂でしたが、かなりの経典が散逸してしまい、現在は修禅寺の宝物殿に収蔵されています。
本尊は釈迦如来坐像(静岡県指定文化財)。杉材の寄木造りで高さ203cmもあります。
狩野川を挟んだ対岸に修禅寺があります。
法堂で本尊上供のあと、堂頭老師に伽藍をご案内いただきました。
修禅寺では、飼育していた兎が増えすぎたため、里親を募集しているそうです。
希望される方は、修禅寺にお問合せください。
研修旅行は一泊二日の行程でしたが、私は残念ながら翌日朝から行事が入っておりますので、最終電車で横浜に帰りました。
狩野川の修禅寺前から続く竹林の径、夜はライトアップしているので散策も良いですね。帰路に付く途中、この竹林を通っていきました。
修善寺駅からは伊豆箱根鉄道駿豆線に。
ハロウィンのデザインでラッピングされた車両でした。
2日目の行程に参加できなかったのは残念でしたが充実した旅でした。
今回の研修旅行は教区教化部の企画によるものです。お疲れ様でした。
横浜市仏教会(市仏連)の参拝旅行で栃木県方面に出かけてきました。
■大谷寺・鑁阿寺参拝と足利フラワーパークを巡る旅
日時 平成30年4月26日(木)
行程 横浜駅~東北道~大谷寺参拝~大谷資料館~ロマンチック村(昼食)~鑁阿寺参拝~足利フラワーパーク
その(2)では、大谷資料館をご紹介いたします。
宇都宮市の北西にある大谷町からは、大谷石(おおやいし)という名称で珍重される凝灰岩が産出されます。
この大谷石は、東西8km、南北37km、地下2~300mの広大な範囲に分布しており、埋蔵量は10億トンと推定されています。
江戸時代中期には採掘が本格化され、ツルハシによる手掘での採掘が行なわれました。石切り職人1人が、厚さ6寸×巾10寸×長さ3尺の「六十石」(ろくとう)石を12本くらいのペースで採掘していたそうです。
採掘の機械化により、1957(昭和32)年にオートメーション採掘第1号機が実用化し、1960(昭和35)年には全採掘場で機械化されました。現在では、機械化がさらに進歩し、垣根掘り、平場掘り、裁断、化粧削りなど、採掘や色々な加工が機械で出来るようになりました。
永年の採掘により、「大谷石地下採掘場跡」としての巨大な地下空間が形成されました。
この地下採掘場跡は、野球場がまるまる入ってしまう程の大きさがあり、壮観かつ、幻想的な雰囲気を持つ巨大地下空間として、現在ではコンサートや美術展などが度々開かれています。
今回の旅行では、この地下空間にも入ってきましたので、その内部をご紹介します。
階段を降りていくと、このような光景が広がります。
内部の温度は約6度。
おおむね一年中同じ温度が保たれています。
人と比べると、どれほど広大な空間化がわかると思います。
ライトアップにより、幻想的な雰囲気が醸し出されています。
周りが岩肌なので、残響効果も高くなっています。
ところどころ、天井の一部から地上の光が差し込んできます。
雨の日には、そのまま雨水が流れ込み、その雨水が溜まって池になっています。
コンサートや撮影、結婚式、展示会などに利用される機会が増えているということも納得できます。
横浜市仏教会(市仏連)の参拝旅行で栃木県方面に出かけてきました。
■大谷寺・鑁阿寺参拝と足利フラワーパークを巡る旅
日時 平成30年4月26日(木)
行程 横浜駅~東北道~大谷寺参拝~大谷資料館~ロマンチック村(昼食)~鑁阿寺参拝~足利フラワーパーク
その(1)では、寺院参拝の部分をご紹介いたします。
今回は大型観光バス2台分の参加をいただき、横浜駅を定刻どおりに出発しました。
前日の荒天から一転、雲一つない青空が広がり、絶好の観光日和となっています。
出発後、山本市仏連会長挨拶
途中、サービスエリアでの休憩をとりながら一路 最初の目的地である大谷寺(おおやじ)へ。
大谷寺は天台宗の寺院で、山号は天開山。
坂東三十三箇所のうちの第19番札所に指定されています。
大谷寺の名前のとおり、この周辺は建築や墓石の材料として使われる大谷石の産地にあり、観音堂の建物は大谷石の崖の中に建てられています。
また、山門先の道路を挟んだ向かい側には巨大な平和観音が見えます。
平和観音は、高さ27メートル。太平洋戦争の戦死戦没者の供養と、世界平和を祈って昭和29年に建立、昭和31年に開眼法要が営まれました。
本尊は千手観音像で、大谷石の岩壁の観音堂の中に安置された丈六(約4.5メートル)の千手観音で、大谷観音と呼ばれて親しまれています。
観音堂の内部では、大谷観音をはじめ、国の特別史跡および重要文化財に指定されている大谷磨崖仏群をお参りすることができます。
この観音堂において、大谷観音様の前で一同般若心経を読経しました。
内部は撮影禁止の為、建物の外から撮影しています。
山門の前で記念撮影。
この後は、大谷石採掘場後である大谷資料館を見学しました。
それは、次のブログ記事 その(2)でご紹介します。
昼食はロマンチック村にて、地産地消の料理を堪能しました。
午後の行程は、足利に向かい、鑁阿寺(ばんなじ)を参拝。
鑁阿寺は足利学校のすぐ隣に位置しています。
鑁阿寺は、真言宗大日派の寺院で、山号は金剛山。
足利氏の館(やかた)であり、日本100名城の一つでもあります。
四方に門が設けられ、境内の周囲には土塁と堀が巡らされています。
南門から堀を渡って参拝しました。
本堂は国宝指定されています。
入母屋造、本瓦葺き、間口5間、奥行5間の堂々とした造りです。
正安元(1299)年に建立され、応永・永享年間に大規模な改造が行われ、現在の姿になりました。
本堂の形式は、密教寺院における禅宗様仏堂の初期の例として、また関東地方における禅宗様の古例として貴重なものとなっています。
本堂内で、由緒縁起のお話をいただきました。
境内の鐘楼、経蔵などは国指定重要文化財に指定されています。
藤、つつじ、シャクナゲなどが満開となり、今年一番、最高の見頃を迎えているということですが、残念ながら別の用事のため、私は鑁阿寺で離脱、横浜に戻りました。残念。
きっと素晴らしい花々の光景を見ることができたことでしょう。
公式プロモーションビデオを張っておきます。
宗門の公務で能登半島へ出向きました。
石川県宗務所への公務(日帰り)です。
往路は羽田空港から能登空港へ。
雪に覆われた北アルプスの山並みを眺めながらのフライトでした。
能登空港に到着後、七尾にある宗務所へ向かう途中、少し迂回して總持寺祖院に拝登させていただきました。
能登半島といえば、2007年3月25日 9時42分に能登半島沖を震源として大地震が発生し、總持寺祖院など多くの建物に甚大な被害が出ました。
これまでもブログ記事で何度か記いています。
能登地方で震度6強の地震が発生
能登半島地震・追記
能登半島地震・あなたの心を能登へ
能登半島地震からの復興を願い
總持寺祖院門前の蕎麦屋さん
鶴見萬燈の夕べ 点描
石川県、鶴見区合同懇親会
総持寺祖院山門が曳家により移動
それから11年ほど経過しました。
震災により倒壊した手水舎は修復が完了しています。
しかし、参道を進むと、仮設足場に覆われた山門が目に入ります。
曳家により一度移動し、それが元の位置に戻され、屋根などの本格的な修復が始まったところです。
さらに、回廊の下には線路が敷かれ、これから曳家を行う準備がされています。
僧堂、大祖堂の前では重機が作業を行っています。
祖院の寺務所は、現在は一時的に仏殿に移されています。
能登地震から11年が経過しても、まだまだ本格的な復旧復興には至っていないことがよくわかります。
継続的な支援が大切なことだと痛感しました。
宗務所での公務も終わり、帰路は能登半島の日本海側を通り金沢駅へ。
途中、千里浜なぎさドライブウエイを通りました。
このように砂浜を通行できるのは、日本で唯一この道のみ、世界でも数カ所しかないそうです。
砂の目が非常に細かく、砂が締まった状態になるために、普通のタイヤでも通行できるのです。
金沢からは かがやき で一路東京へ。
日帰りでの往来がごく当たり前にできるようになり、とても便利になりました。
福知山城を堪能したところで時刻は 17:30。
福知山城から福知山駅は歩いて15分ほどなので、帰着のための時刻を調べると 16:44発の京都行きのさき18号がある。
けれども、せっかくここまで来たので、天橋立まで足を延ばしてみることにしました。
ちょうど、16:50発の特急に乗ると、天橋立に1時間半ほど滞在して、日帰りで横浜に戻ることができるのです。
途中、WILLER TRAINS KTR8000形「丹後の海」などとすれ違いながら30分ほどで天橋立に到着。
天橋立を展望することができる天橋立ビューランドは午後5時で閉園してしまうため、天橋立を渡ってみることにしました。
天橋立智恩寺を参拝し、
廻旋橋を渡ると
阿蘇海を南北に隔てる砂州が続きます。
しばらく進むと、三人寄れば文殊の知恵の知恵の松。
そして、砂州の真ん中あたりには、周囲が海に囲まれているにも関わらず真水が湧き出る磯清水があります。
口に含んでみると、確かに塩味がしません。
自然の不思議ですね。
すぐ傍はこのような砂浜が続いています。
さらに進むと、砂州の一番細いあたりに。
左右に海が広がっています。
左)阿蘇海 右)宮津湾
倒れかかっている松もありますが、富栄養化が進み、松の根が横に張りにくい土壌になっている影響のようです。
だいぶ日が沈んできました。
文殊堂まで戻ると、山門がライトアップされていました。
はしだて10号の発車時刻にちょうど良い具合にたどり着きました。
この時刻からでも当日中に横浜に戻ることができるのです。
なので、せめて天橋立駅周辺のお店や、ビューランドの開園時間を午後6時30分くらいまで延長してくれると、観光客はありがたいのではないかと感じました。
宗門関連の公務で福知山へ赴いておりました。
東海道新幹線で京都へ、そこから特急「はしだて」に乗換え。
1時間半で福知山に到着しました。
車窓からは福知山城の雄姿を望むことができます。
せっかくなので、公務終了後、福知山城に登ってみることにしました。
福知山城(郷土資料館)
福知山城は、 天正8年(1580) ごろ、丹波平定に成功した明智光秀が丹波の拠点として新たに城を築いたのが始まりとされています。
以来、 戦乱の時代、城主が交代する中、順次整備が進められ、慶長5年(1600) ごろに完成したようです。
明治時代のはじめに廃城令で取り壊され、 石垣と銅門(あかがねもん)番所だけが残されていましたが、市民の瓦1枚運動などの熱意によって、3層4階の天守閣が、 昭和61年 (1986) 11月に再建されました。
天守閣は、 望楼型の独立式を基本として復元され、初期天守閣の特徴がよく現れたものとなっています。
石垣は、 築城当初の面影を残すもので、野面積み、乱石積み、穴太積みなどと呼ばれる、自然石をそのまま用いた豪放なもので、 福知山市の指定文化財となっています。
一見乱雑に見えますが、 石材は奥に長く用いられて、強固な石垣が組み上げられています。
石垣内部に石塔類が使われるなど、 安土城や二条城など織田信長にかかわるお城に共通する特徴を持っています。
深さ50m (城郭内湛水井としては日本一の深井戸)の「豊磐(とよいわ)の井」は、今も海抜30mの高さまで清らかな水をたたえています。
天守閣内部は郷土資料館として公開し、 古代から近代にかけての、城や福知山にかかわる歴史資料を展示しています。
望楼からの城下の眺めは抜群です。
(福知山観光協会のサイトより)
ということで、街を見下ろす高台にそびえる天守閣からの眺めは素晴らしいものがあります。
石垣の独特の石積みも味わいがありますね。
九州最後の炭鉱として、平成13年に閉山した“池島”で、坑内をでトロッコに乗車し元炭鉱マンガイドの案内をいただくツアー「坑内体験」が実施されていますので、参加してきました。
※このツアーは「長崎さるく/学さるく/池島炭鉱さるく」にて3日前までに予約(大人2680円/小中学生1340円)することで参加可能です。
【炭鉱ツアー行程】
池島炭鉱倶楽部(炭鉱概要の説明)※昼食タイム(各自ご用意または炭鉱弁当) →坑外トロッコ電車停留所(キャップランプ、ヘルメット、保安靴等装着後(乗車)) →水平坑道奥部電車停留所(下車) →【坑内徒歩見学:約1時間(約600m)】坑道堀進跡(本物の巨大掘進機ロードヘッダー等) →石炭採掘現場復元箇所(採炭機ドラムカッター展示・ドラム模擬運転、穿孔(せんこう)機オーガー操作体験) →坑道内に設置された炭鉱操業時写真展示コーナー見学 →坑内発破の映像、発破スイッチ模擬操作体験コーナ →坑内救急センター跡(緊急避難所) →水平坑道内電車停留所(乗車) →坑外トロッコ電車停留所(下車) →(徒歩約300m。歩行途中石炭積み込み機、旧石石炭火力自家発電所、貯炭場等説明)
まず最初に視聴覚室で池島炭鉱の概要を10分ほどのビデオにて学習します。
その後、いよいよトロッコに乗車。
ゆっくりと坑内を進んでいきます。
切り端の最先端。
ドリルで穴をあけ、ハッパを掛けることによって岩盤を掘削しながら進んでいきます。
現在この場所は、掘削技術を東南アジアなど海外に伝えるための研修施設の役割を果たしています。
大型のロードヘッダーとドラムカッター。
大きな機械は部品を搬入して坑内で組み立てられます。
実際にロードヘッダーを動かしていただきました。
池島は新しい炭鉱であり、最新の技術がふんだんに取り入れられています。
採掘した石炭をそのままベルトコンベアで坑外に運び出す設備や、事故対策のための避難シェルターや通信機器、監視システムなどが整っています。
そのため、労働者の環境は他の炭鉱に比べてかなり良かったのではないかということがうかがい知れます。
池島では大きな炭鉱事故は幸いにして無かったそうですが、それでもエネルギー需給に関する時代の変化や海外からの安い燃料の影響で閉山されることとなってしまいました。
現在では東南アジア諸国からの研修生たちが技術を習得しています。技術の伝承はまだ生きているのです。
通信ケーブルとして、なんと光ファイバーも使用されていいました。
こちらは避難シェルター。
万が一の事故に備えて、何カ所か設置されています。
内部には非常用の通信設備、食料、水、酸素吸引用のボンベも備え付けられています。
古いタイプの支保工。
これは設置するために何十人もの人手が必要でした。
機械化が進み、必要人工が少なくて済むようになり、また安全性も向上しています。
池島炭鉱の坑道全体図。
池島は右上の赤着色の部分です。
島はあくまでも海底(600メートル以深)へ降りるための立坑入口であり、基本的に島以外の海底の部分を掘削していました。
(島の部分を掘削すると島の地盤が沈下する懸念があるため)
坑道は池島より沖合の小蟇島・大蟇島およびその周囲の海底にまで及び、坑道をまず掘削してそこから幅約100メートルで面的に採炭するというように掘り進められていきました。
日本各地に炭鉱は何カ所かありますが、実際に坑内に入り、それらを体験することができる場所は、この池島炭鉱だけです。
日本の経済を支えてきた産業の歴史を学ぶ機会を得ることができました。
永い間、一度行ってみたかった場所に、念願かないようやく行くことができました。
その場所は、長崎県長崎市の沖合に浮かぶ小島、池島。
九州最後の炭鉱の島でもあります。
炭鉱の島と言えば、端島(軍艦島)が有名ですが、端島は今では限られた場所しか上陸することができず、建物の近くまで行くことができません。
しかし、池島は平成13(2001)年11月まで炭鉱が稼働しておいたため、その面影を伝えるガイドツアーも実施されています。
また、昭和45(1970)年には8000人近くの方が居住しており、狭い島に工場、病院、学校、団地が次々と作られ、賑わっていた、その痕跡を間近に感じ取ることができます。
【基本データ】
●面積/1.06km2●周囲/4.0km
●人口/157人(H28)・293人(H22)・472人(H17)・2,799人(H12)・3,543人(H7)
※平成12年以降、急激に人口が減少。 現在は150名ほどの居住人口になっています。したがって、建物のほとんどが空き家です。
(上写真は国土交通省国土が場情報1974年・ほぼ人口がピークのころの航空写真)
池島へ渡る航路としては、神浦港、大瀬戸港、佐世保港からのアクセス手段がありますが、今回は大瀬戸港から池島に向かいました。
↑これが池島港です。
かつては、名前の由来になった「池」があり、港を築造するために池を浚渫し一部を海に繋げて港にしています。
港の向こうに鉱山の選炭工場跡が見えます。
工場敷地内は立入禁止エリアですが、周囲の道路から内部の様子や発電施設、ジブローダーなどの大型の機械を眺めることができます。
↓この立坑から海底深く掘削された坑道に入ります。
池島はピーク時には8千人もの居住があったため、狭い土地に効率よく住むことができるよう高層のコンクリート造の団地群が造られました。
しかし、炭鉱が閉山になった後、急速な人口減少のため、団地は居住の無い状態で放置されることなり、建物が急速に劣化し始めています。
あと十何年か経過すると、端島の団地群のような状態になるのでしょう。
そうなれば倒壊の危険から、団地のエリアは立入禁止になることも予想されます。
建物を覆いつくす植物を見ると、自然の力はとてつもなく大きいことを感じます。もとの島の様子に還っていくのもそれほど時間がかからないかもしれません。
かつては子供たちが遊ぶ声が響いていたであろう公園の遊具も草でおおわれていました。
↓これは8階建て住宅です。エレベーターが無いのですが、高低差を利用して、反対側の道路から5階部分にアプローチすることができます。
建物と建物を結ぶ橋は、腐食が進んでいて崩壊寸前ですね。建物の中には入ることはできません。
池島には、宿泊施設(中央会館)があります。
せっかくなので、泊まらせていただきました。(素泊まり3500円ほど)
夜には部屋の窓から池島小学校の建物と満天の星空を望むことができます。
中央会館は素泊まりなので、夕食は島で唯一の食堂「かあちゃんの店」でいだきました。
おすすめメニューはトルコライスとちゃんぽん。
壁は来訪者の絵で埋めつくされていました。住民にも来訪者にも愛されている島唯一の食堂です。
この裏手に銭湯もあります。
また、中央会館でも入浴は可能ですので、快適に過ごすことができました。
日本の高度経済成長を支えてきた炭鉱施設。
その炭鉱の歴史に触れることができる機会が、あと何年続くかわかりませんが、今のうちに得難い体験ができて本当によかったと感じます。
端島(軍艦島)よりは知名度は低いですが、おそらく満足度は池島の方がずっと上だと思います。
この状態がいつまで存続するかわかりませんが、次第に変化していく池島を訪問するとしたら「今」がお勧めです。
歴史を伝える場所としての役割を果たしている池島を多くの方に知っていただきたいものです。
滞在期間中、炭鉱ツアーにも参加しましたので、次のブログ記事にてご紹介いたします。
(つづく)
ひとつ前の記事「葬祭マネジメント講座」で出向いた近くに、名勝・六義園があります。
六義園は近くの小石川後楽園とともに江戸の二大庭園とされています。
柳澤吉保が「回遊式築山泉水庭園」として7年の歳月をかけて造り上げました。
名称の由来は中国漢詩集『毛詩』にある「詩の六義(風・賦・比・興・雅・頌)」と、それを紀貫之が和歌の「六体」としたことによります。
せっかくの紅葉の季節ですし、ライトアップも実施しているということなので訪れてみました。
あいにくの雨模様、しかも講義の終了が閉園1時間前だったため、駆け足の散策ではありましたが、それでも人がそれほど多くなく美しい光景を堪能することができました。
入園時(午後8時20分ごろ)にはかなりの雨が降っていたため、池の水面が波立っていて反射光が拡散されてしまっています。
しかし、園内を一周し、閉園間際になったころ雨は止んで、湖面が平らになってくれました。
シンメトリーの反射像が美しさを際立たせています。
ライトアップにも工夫がされていて、このように青い光で照らしながら、時々ミストを拡散させて幻想的な雰囲気を作り上げています。
紅葉はピークまであと少しといったところ。
来週あたりが見頃なのではないでしょうか。きっと来園者も多くなることでしょう。
東京都区内にも手身近な場所に、名園は数多くあります。
ゆっくりと巡ってみたいものです。
広島からの帰路、呉に立ち寄りました。
まずは、市域を見渡せる灰ヶ峰へ。
標高737mもあるので、高尾山や函館山よりもずっと高い位置から見下ろすことができます。
夜には日本三大夜景にも数えられるほどの絶景となります。
11月いっぱいまで展望台が工事中ですが、展望は楽しむことができます。
気象レーダー観測所と工事中の展望台。
この展望台の基礎は、かつての高射砲の台座を利用しています。
灰ヶ峰に続く道路へ向かう本通りの途中には「千福一杯いかがです~」でおなじみの日本酒千福醸造元、三宅本店があります。
シンボルの煙突は空襲にも耐え現存しています。
呉全域は、戦時中の空襲でそのほとんどを消失しましたが、空襲を免れた建物もあるいます。
こちらは旧澤原家住宅の三ツ蔵。
旧澤原家住宅主屋は宝暦6(1756)年、前座敷と表門は文化2(1805)年、そして、この三ツ蔵は文化6(1809)年建築の建物です。
呉市西部、川原石の付近は空襲被害を受けなかった地域で、やはりかつての街並みの雰囲気を残しています。
写真は、呉線に残されている目隠し塀(呉線を走る列車から呉軍港が見えることを防ぐために建てられた塀)の基礎です。
川原石から少し歩くと、両城の200階段にたどり着きます。
ここは、映画「海猿」で、海猿たちが訓練のためボンベを抱えて駆け上がるシーンでも有名です。
階段の段数は、実際には260段ほどです。
それにしても、転がり落ちそうなほど急な階段ですね。
階段を登りきると、呉の港を西側から一望することができます。
両城の200階段のすぐ脇には、両城防空壕が保存されています。
この防空壕は、元々は海軍軍需部の倉庫として造られ、戦時中に防空壕として利用されました。
呉市内にもかつては多くの防空壕があり、防空壕により多くの命が救われた反面、せっかく避難したものの煙や水が入ってきて多くの方が命を失ったということです。
軍港と坂の街、呉を時間を見つけてまたゆっくりと巡ってみたいものです。
広島での公務の帰りに広島市・平和記念公園へ。
現在は10ヘクタールほどある広大な公園ですが、戦時中は市内有数の繁華街であり、この中島地区に約1300世帯、4400人ほどの方が暮らしていました。
住民の方々だけではなく、勤労奉仕動員の集合場所も、この中島地区(中島本町・材木町)であったため、集合していた学徒(広島県立二中・市立高女・市立造船工業学校)、近郊の安佐郡川内村などからの義勇隊員など、多くの市民と建物が昭和20(1945)年8月6日午前8時15分の原爆投下によって一瞬のうちに破壊されました。
中島地区は原爆爆心地から半径500メートルの地点にあるため、45度の上空から原子爆弾の放射線と熱射を受けたことになります。
終戦後、昭和24(1949)年8月6日公布の「広島平和記念都市建設法」により、恒久平和の象徴の地として公園として整備することが公布され、昭和25(1950)年から平和記念公園として建設がすすめられたものが現在の広島平和公園です。
今回は夜に訪れました。
広島駅前からは広島電鉄市電に乗り、原爆ドーム前で降りると、相生橋から広島平和公園に渡ることができます。
相生橋からの光景。左が原爆ドーム(広島県物産陳列館として開館、原爆投下当時は広島県産業奨励館)、右側が広島平和公園。
相生橋は現在T字型になっているので、直接広島平和公園に繋がっています。
昼間は多くの人が行き交う公園内ですが、この時間帯は他にほとんど人が居らず、ゆっくりと散策することができました。
広大な公園内ですが、冒頭で書いた通り、原爆投下直前までは市内有数の繁華街であり、多くの方々が生活されていた場所だったのです。
レストハウス(当時は大正屋呉服店)
平和の灯。
ここには、広島原爆の残り火が灯されています。
原爆投下数日後に、市内の書店地下室倉庫でくすぶっていた火を発見した方が、カイロに火を移し、九州の自宅に持ち帰られたものです。
その残り火は、平和の灯火として、福岡県八女市旧星野村役場で現在も絶やすことなく灯され続けています。
現在、広島平和公園のほか、大船観音寺など全国十数カ所で大切に灯されています。関連ブログ記事→神聖なる平和の灯火
平和の池には、慰霊碑があります。原爆犠牲者のみ霊を雨風から守るという意味で屋根が掛けられていて、設計は丹下健三氏によります。
慰霊碑からは、原爆の火、原爆ドームが一直線に見渡せるように設計されています。
広島平和公園から元安川の対岸に原爆ドームがあります。
ちょうど昇り始めた月が周囲をやさしく照らしていました。
原爆ドームは、当時は広島県産業奨励館と呼ばれていました。建築家ヤン・レッツェルによる設計で三階建てのネオ・バロック風の建物です。
ほぼ、真上に原爆が炸裂し、中央のドームとその周囲の枠組み、外壁だけを残して建物は破壊されました。
爆風を真上から受けたことにより、建物は奇跡的に全壊を免れました。1996年にユネスコ世界遺産に登録された理由もその一つです。
■原爆投下直前と直後のの中島町のジオラマ
かつての街の様子や生活されていた方々に思いを馳せながらゆっくりと時間は過ぎてきました。
宗門の公務で11月6日広島県宮島に出かけてきました。
公務の時間は正午から午後5時頃まででしたので、その前後に会場近くの宮島・厳島神社に参拝しました。
11月6日は潮見表では中潮。
中潮とはいえ、潮位を見るとかなりの潮位差があります。
満潮 11:00 潮位392cm
干潮 17:06 潮位 79cm
その差 3m20cm。しかも、公務の前後がちょうど満潮と干潮の時刻になっています。
潮位100cm以下で鳥居まで歩いて行くことができ、250cm以上で神社がが海に浮かんで見えます。
ということで、絶好の条件なので2度参拝してきたのです。
まずは満潮時刻付近の厳島神社。
沖から鳥居を通して御本社正面を眺めます。さすがに潮位が高いですね。
続いて干潮時刻付近。
参拝客が大鳥居の付近に集まっています。
潮位は79cmなので、大鳥居よりさらに沖合まで歩いていくことができました。
能舞台のすぐ前にも歩いて到達できます。
夜が更けていくにつれて、ライトアップにより建物や大鳥居がくっきりと浮かび上がってきます。
潮位も次第に上がってきました。
それにしても、高さ16m、主柱の根廻り10mもある日本最大規模の木造の鳥居は、間近で見ると圧巻です。
柱は砂に埋まっているわけではなく、ただ置いてあるだけです。
笠木の中に重りが入っており、鳥居の重みによって安定して立っているということなのです。
満潮と干潮の姿を1日で堪能することができました。
曹洞宗の公務で、鹿児島 高知 長野 岩手 と短期出張が続いています。
今回は北海道・札幌へ出向きました。
ほぼとんぼ返りで公務以外の時間はあまりとれないのですが、それでも移動中や食事などが楽しみの一つです。
羽田空港から離陸後、夢の国を上から眺めることができます。
雲海の向こうに富士山が。
(左)ハート形に見えるのは渡良瀬川遊水地です。
(右)恐山。宇曽利山湖もハート型に見えますね。
今回の公務の会場近くには中島公園があり、休憩の合間に散策を楽しみました。
目的の公務。無事終えることができました。
有意義な質疑応答もいただきましたので、可能な限り今後に反映させていただきます。
札幌にも路面電車が活躍しています。
環状線なので、効率の良い運行ができますね。
停留所では運行情報をリアルタイムに確認することができて便利です。
そして札幌といえばラーメン。
ラーメン横丁と、ラーメン共和国の店で堪能しました。
味噌ラーメンはハズレが無くていいですね。
公務を終えて帰路につきます。
新千歳空港には初音ミクのショップもあるのですね。
(遅い時間だったので閉まっていました)
夏休みの最後ということもあり、帰りの便は満席。
搭乗ゲートで便の振替えに協力いただければ1万円の謝礼を…というアナウンスが流れるほどでした。
公務出張は半分の山場を越え、残りラストスパートへ!
先週の 鹿児島へ に引続き、宗門の公務で四国・高知へ。
鹿児島は1泊2日の行程でしたが、今回は日帰り。
昼に高知に到着し、午後いっぱいの行事があり、行事終了直ちにとんぼ返りの日程です。
とはいえ、せっかくの初めての高知なので、移動時間の合間、休憩時間の合間にちょっぴり市内を巡ってきました。
高知空港到着後、タクシーの運転手に”オススメ”の昼食場所を伺ったところ、紹介されたのが「ひろめ市場」です。
土佐の名物料理、鮮魚、雑貨などの店舗が60以上出店している市場とフードコートを合わせたような場所です。
市場内で注文した食べ物は、広場内のテーブル・椅子で自由に食事ができます。
昼間から、多くのお客さんでにぎわっています。
海外(特に中国)からの観光客も目立ちます。昼間からジョッキを傾ける光景も当たり前に広がっていてうらやましい限りです。
カツオの藁焼きのパフォーマンスをしている「明神丸」で「カツオの塩たたき丼」を注文しました。ウマイ!
ひろめ市場からほど近い場所に高知城があります。
もちろん天守閣に登りました。
鹿児島もそうでしたが、高知にも路面電車が走っています。
行き交う色とりどりの電車は見ていて飽きません。
はりまや橋交差点では、市電同士が直交するクロスポイントがあります。
線路と架線の形状が美しい。
※市電は運転手がポイント切替の操作をします。
そして、はりまや橋。
やはり渡ってみないといけないですね。
ということで、わずかな時間でしたが、高知の要所を巡ってきました。
観光だけでなく、もちろん本題の仕事も無事終わらせました。
今度は時間を取ってゆっくりと堪能したいと思います。
鹿児島と言えば桜島。
町のいたるところから錦江湾の対岸に雄大な姿を眺めることができます。
桜島は比較的新しい火山であり、日本の地質百選、国際火山学及び地球内部化学協会による特定16火山にも指定されています。
宿泊したホテルのフロントにはこのような掲示がされていました。
滞在した5月17日夕方から18日朝にかけても、数回の小噴火を見ることができました。
この程度の噴火は日常茶飯事ですし、風向きが北風なので鹿児島市には影響がほとんどありません。
滞在期間中の様子をタイムラプスで撮ってみました。
50倍速の早送りです。
鹿児島空港に到着すると、エントランス前にこのような像がありました。
吹上浜砂の祭典がおこなわれていることをお知らせする砂の彫刻です。
→公式サイト http://www.sand-minamisatsuma.jp/
鹿児島には前日入りしているので、少し足を延ばして行ってみました。
平日の開催終了時刻間際ということもあって、人影もまばら。広い会場に広がるたくさんの砂の像をゆったりとみることが出ます。
贅沢な時間です。
それにしても一つ一つの砂像のレベルがとても高い!
プロの芸術家から小学生たちのグループまでたくさんの砂像を堪能することができました。
今年は30回記念大会ということで、特別ゲストの中川翔子(しょこたん)デザインの砂像も展示されておりました。
※デザイン画は公式サイトより引用、実物は実際にご覧に立ってください。
※開催は5月31日までということです。
■関連リンク
宗門の公務の仕事で鹿児島へ。
今年いっぱい、全国の7管区を回ります。
内容の詳細はここでは書くことを控えますが、全国の宗議会議員様、宗務所役職員様、教区長様等々に曹洞宗の制度(宗制度・財務規程)の内容および変更案等の説明をさせていただき、意見交換、質疑応答を行うものです。
限られた時間ですので、効率よく、かつ分かりやすくを心掛けたいと考えております。
ということで、初回、鹿児島への空路です。
関東上空を覆う雲がいい感じで広がっています。
宮崎を通り、鹿児島へ。
大型連休に入りました。
行楽地に出向く方も多いことでしょう。
相模原市中央区田名の相模川河川敷では、1000匹を超える鯉のぼりが群泳する「泳げ鯉のぼり相模川」が開催されています。
(4月29日~5月5日まで)
所要があり近くを通ったので立ち寄ってみました。
青空の下、心地よい風に煽られて雄大に泳ぐ姿を見ることができました。
パノラマで撮影してみましたので、ご覧ください。
(視点移動もできます)
5月5日まで開催されておりますので、お出かけになってみてはいかがでしょうか。
茨城県・国営ひたち海浜公園「みはらしの丘」の満開のネモフィラの丘を見に行ってきました。
天気は薄曇りでしたが、薄日が差すと青く輝きます。
時折風が吹くと、まるで青い波のようでした。
ネモフィラは、直径3センチほどの瑠璃色の小さい花で、葉の形が唐草模様に似ているため、「ルリカラクサ(瑠璃唐草)」とも呼ばれます。
菜の花も丁度見ごろを迎えており、青と黄とのコントラストが美しい。
チューリップやスイセンも色とりどりの絨毯のように咲いています。
ネモフィラはゴールデンウィークいっぱいが見ごろとのことです。
また、四季それぞれに様々な花々が咲いていますので、ゆっくりと時間を取って訪れてみてはいかがでしょうか。
■関連リンク
国営ひたち海浜公園公式サイト
横浜市仏教連合会主催・春の仏跡参拝旅行が行われました。
今回は、日帰りで深川不動尊参拝と、西洋美術館の旅です。
バス2台分の参加をいただき、晴天の元横浜を出発しました。
■深川不動尊
深川不動堂は、成田山新勝寺の東京別院です。
元禄16年開創。「深川のお不動様」と親しまれています。
成田山新勝寺の御本尊は、弘法大師自らが敬刻開眼されたと言われており、深川不動堂は、その御分霊を勧請しています。
ちょうど朝一番の御祈祷の時間に間に合ったので、護摩供養法要に参列、そのあと仏教連合会長主導による般若心経の読経をいたしました。
その後、2版に分かれ、集合写真、諸堂拝観により境内をご案内いただきました。
旧本堂の後側に、内仏殿が建立されています。
お願い不動尊をお参りした後、1階、2階、4階と、それぞれご案内いただきました。
クリスタルの奉納仏「祈りの廻廊」や、LEDで彩られた四国霊場八十八カ所の巡拝コースなど、先進的な照明装置を効果的に使っています。
4階にある日本最大級の天井画「大日如来蓮池図」は見ごたえがあります。
深川不動尊の後は、神楽坂に移動し、「鳥茶屋」でうどんすきの昼食をいただきました。
■国立西洋美術館
世界文化遺産に登録されたことが記憶に新しい。
本館は、フランス人建築家で近代建築の巨匠ル・コルビュジエによる建築作品群の一つです。
写真撮影ができるというのも魅力の一つですね。
■迎賓館赤坂離宮前庭散策
行程の最後は、赤坂の迎賓館前庭の見学・散策です。
ちょうど直ぐ近くの赤坂御苑で春の園遊会が行われていた時間帯と重なったため、物々しい警戒でした。
迎賓館は、ネオバロック様式の壮麗な洋風建築で、緑青の屋根、花崗岩の外壁、各種の装飾類などが調和のとれた美しさをかもし出しています。
正面中央の玄関はバルコニー付。屋根には甲冑を形どった装飾が左右対称に施されています。
天気にも恵まれ、無事旅行行程を終えることができました。
曹洞宗神奈川県第二宗務所主催檀信徒研修旅行に参加しました。
日時 平成28年11月15.16日(1泊2日)
場所 長野方面
暖かい秋晴れの下、横浜駅からバスで長野へ向かいます。
1日目最初は長国寺へ。
真田山 長国寺
創立 天文16(1547)年
開山 伝為晃運
開基 真田幸隆
本尊 釈迦牟尼仏
天文16(1547)年、信濃国在地領主・真田幸隆が、伝為晃運禅師を開山第一世に招き、菩提寺として松尾城内に「真田山長谷寺」を建立したのが始まりです。
その後、永禄7(1564)年に松尾城外へと移され、禅寺として伽藍整備が進みました。江戸幕府が開かれ、真田信之が上田藩主となる元和8(1622)年、松代移封に伴い現在の場所へと移転。長松寺から長國寺名称が変更され今日にいたっています。
法堂にて研修旅行の開講諷経を修行。
各自焼香ののち、堂長老師から由緒縁起をいただきました。
真田家の菩提寺であるため、寺域には真田一族ゆかりの寺宝が数多く残っています。
特に明治5(1872)年の大火での焼失を免れた「初代松代藩主真田信之公の御霊廟」「四代真田信弘公御霊屋」は、往時の繁栄を忍ばせる豪華な造りとなっています。
霊廟の裏手には松代藩祖・初代真田信之から十代にわたる墓所があります。
庫裏玄関には大きな魚鼓が屋根空間から吊り下げられていました。
紅葉も、まさに見ごろのピークでした。
松代藩鐘楼。日本電信発祥之地でもあります。
次に松代の真田亭邸へ。
九代藩主・真田幸教が、義母・貞松院の住まいとして1864(元治元)年に建築した松代城の城外御殿です。
主屋・表門・土蔵・庭園がなど江戸末期の御殿建築の様式をよく伝える貴重な建物です。
釘隠しの意匠も素晴らしい。
真田邸のすぐ近くに樋口家住宅があります。
樋口家は藩の目付役なども務めた家柄で、主屋、土蔵、長屋、屋敷神の祠、表門、土塀、板塀が修景・復元されています。
1日目は上山田温泉に宿泊。
2日目は善光寺参りからスタートです。
善光寺は、一光三尊阿弥陀如来を御本尊とし、約1400年の歴史があります。
境内の紅葉が美しい。
旅程は、上田城へと続くのですが、私は「仏教街頭相談」へ出仕するため長野から「かがやき」で東京へ向かいました。
それにしても1時間程度で到着するとは、早い!
横浜市仏教会主催移動研修旅行の行程で、築地市場に立ち寄りました。
平日の昼過ぎにもかかわらず、場外市場は多くの人でにぎわっています。
海外からの観光客も相変わらず多いですね。
築地市場は世界中に知れ渡る「築地」ブランドとして確固たる地位を築きあげています。
しかし、昭和10年の開業から75年以上が経過し、施設の老朽化が進んでいる状況や、建物の一部が劣化により破損して落下するなど、安全性に多くの不安があることは否めません。
また、市場の狭隘化も著しく、荷置き場所が不足して一時的に荷を屋外に置かざるを得ない状況などもあります。
物流面においても、駐車場や荷さばきスペースが大幅に不足しているため、トラックの入場待ちや渋滞が発生、さらに、混み合った場内のいたるところで荷の積み下ろしなどが行われるなど作業が非効率になっています。
さらに、目の前の晴海通り、新大橋通には大型トラックやバスなどが頻繁に行き交っているので大気汚染の影響も少なからず受けているはずです。
水産棟の施設内通路、特にマグロ類売り場横の通路には昨年から路面に直径15センチ以上ある陥没穴が数多く出現しています。
その中には30年近く前に埋められた貨物列車用の線路が顔を出すほどの深い穴もあり、セメントで埋めるなどの暫定修理や再舗装で対処しています。
建築物の劣化も深刻で、雨漏りやコンクリート片の落下もあり、また、アスベストの問題も指摘されています。
築地市場移転の延期により施設の補修対策予算が来年度も2億円程度計上されているそうですが、抜本的な対策、具体的には早急な移転が必要なことは一目瞭然です。
------------------------
移転候補地の豊洲新市場は、土壌汚染の問題と、それに対応する汚染処理の問題が連日ニュースになっています。
盛土をして対策をしているという事実と異なる説明を行ってきたことは、市場関係者、都民はもとより、世間への信頼を損ねる大きな失態でした。
豊洲市場と築地市場との一番の大きな違いは、豊洲市場は「外気から隔絶され気温を保つことができる閉鎖型の市場」であるということ。
外気の汚染が広がらないような区分けもされているので、地下水の影響はもとより、トラックの排気ガスに日常的に晒されている築地市場よりもはるかに衛生的で清潔な建物といえます。
耐震性に関しても同じで、現状の築地市場と豊洲市場では耐震性はケタ違いでしょう。
また、豊洲市場の地下空間をもつ建物構造は、決して不適切な構造では無いと考えます。
(もし私が設計担当だとしても、地下空間構造を持つ建物にしたと思います)
しかし、そのような構造にしたのかという設計思想を、なぜ最初からきちんと詳らかに説明してこなかったのでしょうか。
そういった一つ一つの手順を省略していく姿勢では、とても信頼関係が回復されるとは思えません。
時間は限られておりますので、今後の対応をしっかりと行って欲しいものです。
豊洲市場に移転するためには衛生的な市場としての信頼を一から再構築していくしかありません。
「豊洲の新しい市場では、国際的な衛生管理手法である「HACCP(ハサップ)」に準拠しており、ここに流通する食品は一度も外気にさらされることなく仲卸から購買事業者の元へと届く」ことを改めてアピールし、それをきちんと運用、衛生管理が徹底されていることを日常的に情報公開することが最低限必要でしょう。
さらに、2020年に予定されているオリンピックとの絡みがこの問題をさらに複雑なものとしています。
築地市場移転の理由の一つは施設の老朽化というものでありますが、もう一つは環状2号線の建設が絡んできます。
この道路は元々何十年も前から都市計画決定されていた道路でしたが、オリンピックの重要な交通路として建設が急がれることとなりました。
築地市場に隣接した計画地には立坑が掘られ、道路工事が進められています。
周辺泥地図の案内看板にもすでに環状2号線のルートが描き込まれていますね。
老朽化の進む築地市場の移転と環状2号線の道路計画の行方に注視していく必要があります。
さて、世界全体を見渡すと、魚介類の1人当たり消費量は右肩上がりとなっています。国外では魚介類の消費が拡大しているのです。
反面、日本の魚介類の1人あたり消費量は“魚離れ”によりは減少しています。
このため、築地市場での取扱数量は年々減少する傾向にあります。
それゆえに築地市場の中小卸・仲卸業者は経営が厳しいところが多く、廃業に追い込まれる業者が後を絶ちません。
(帝国データバンクの調査によれば、2003年1月~2016年8月で築地市場内の企業の倒産・休廃業の件数は111に達しています)
縮小する日本国内での消費の中で、市場の経営をどのようにするのか。
問題は山積している中、一刻も早く豊洲移転問題を解決の方向に導いていただくことを願います。
※築地市場の移転問題に関心のある方は、是非築地市場の現状を実際の目でご覧いただくことをお勧めいたします。
横浜市仏教連合会主催の檀信徒研修旅行が行われました。
市内各宗派の檀信徒の皆さんのバス3台になる多くのご参加をいただき、この上ない秋晴れのもと各所を巡ってまいりました。
日程 平成28年10月24日(月)
行程 横浜ー増上寺ー昼食(品川プリンスホテル・ハプナ)-築地市場ー寛永寺ー東京都庁展望台
まずは、浄土宗大本山増上寺へ。
本尊 阿弥陀如来
三縁山広度院増上寺と称し、明徳4(1393)年 酉誉聖聰上人により、現在の紀尾井町に創建されました。
その後、慶長3(1598)年に現在の港区芝公園に移転し、江戸期には徳川将軍家の菩提寺として、また、浄土宗の大本山として120以上の堂宇、100軒を超える学寮、3000名を超える僧侶が所属していました。
しかし、明治維新、戦災などにより多くの伽藍が消失、戦後の再開発などを経て大殿の再建など諸堂の整備が進められ現在に至っています。
到着後、記念撮影の後、大殿にて拝登法要。
全員で般若心経を読経しました。
かつては徳川将軍家の霊廟が大殿の南北に並んでおりましたが空襲で大部分が消失。大殿の奥に改装されました。
徳川15代将軍のうち、6人の将軍と将軍正室として2代秀忠夫人崇源院、6代家宣夫人天英院、11代家斉夫人広大院、13代家定夫人天親院、14代家茂夫人静寛院の5人、将軍の側室としては3代家光の桂昌院、6代家宣の月光院など5人、その他、将軍の子女を含む計38人が埋葬されております。
墓所の入口、鋳抜門(かつての6代将軍徳川家宣霊廟の中門)
増上寺に埋葬されているのは
徳川秀忠(1579年 - 1632年、家康の三男)
徳川家宣(1662年 - 1712年、家光の三男甲府城主綱重の長男)
徳川家継(1709年 - 1716年、家宣の四男)
徳川家重(1711年 - 1761年、吉宗の長男)
徳川家慶(1793年 - 1853年、家斉の二男)
徳川家茂(1846年 - 1866年、家斉の七男で紀州家十一代斉順の長男)
です。
それにしても、素晴らしい霊廟が空襲により焼失してしまったのはとても残念なことです。
参拝の後、大殿手前左の経蔵で経典を回しました。
午後の行程は築地市場(次頁で記載)、寛永寺へ。
本尊 薬師如来
東叡山寛永寺
元和8(1622)年、天海大僧正が徳川2代将軍秀忠公と相談し、徳川家の安泰と江戸庶民の平安を祈る道場として建設が始まり、寛永2(1625)年に発足しました。
山号は東の比叡山という意味で、比叡山が延暦という年号を勅許を得て寺号としたのと同様に寛永の年号が寺号となっています。
延暦寺を見立てたため、琵琶湖に相当する不忍池、竹生島の宝厳寺を見立てた弁天堂、清水寺を模した清水観音堂などが整備されました。
江戸期は寺領2100石、寺域17万坪を有しており、特に根本中堂は間口45.5m、高さ32mの大伽藍でありましたが、慶応年間に消失、寺域のほとんどが国に没収されてしまいました。
明治期以降、川越喜多院から移築した根本中堂など再整備が進み、現在に至っています。
徳川慶喜公近親の部屋、葵の間。
江戸から明治にかけての徳川家、慶喜公はとても難しい時代を過ごすことになります。また、将軍家も13代家定、14代家茂公が短い期間で交代する時期でもありました。
日本国内は佐幕派と公武合体派、尊王攘夷派など様々な派閥が衝突を起こし、倒幕の流れが優勢になる中、議会の開設を考えた慶喜公は慶応3(1867)年に大政奉還を決定します。
薩摩・長州連合は王政復古の大号令を発し、徳川家の領地の返還を要求、これに徳川家が反発して鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争が起こります。
この戦いでは当初優勢と言われていた旧幕府軍が敗戦を重ね、わずか数日で終結。
慶喜公は江戸に戻り、寛永寺の葵の間で謹慎生活を過ごすことになります。
勝海舟が尽力した無血開城により、慶喜公は厳罰を免れ、寛永寺から水戸へ退去しました。
これらの措置を不服として彰義隊による徹底抗戦、上野戦争がが起こり、その際に寛永寺は根本中道などの伽藍を消失します。
寛永寺・葵の間
その後、徳川家霊廟を参拝しました。
寛永寺に埋葬されているのは
徳川家綱(1641年 - 1680年、家光の長男)
徳川綱吉(1646年 - 1709年、家光の四男)
徳川吉宗(1684年 - 1751年、御三家で、紀州家二代光貞の四男、家康の曾孫)
徳川家治(1737年 - 1786年、家重の長男)
徳川家斉(1773年 - 1841年、御三卿で、一橋家二代治済の長男、吉宗の曾孫)
徳川家定(1824年 - 1858年、家慶の四男)
です。
将軍家霊廟の内部は撮影禁止のため撮影しませんでしたが、霊廟の様式は時代により異なっています。
霊廟は、正式には御本尊、位牌、霊殿、二天門、勅額門、鐘楼、水盤舎、井戸屋形、中門、廻廊、拝殿、相之間、本殿、透塀、仕切問、装束所、そして唐問、拝殿、中門、宝塔という構造をとります。
8代綱吉公の墓所からは、質素倹約を旨とし、既設の霊廟の一部を拡張することにより霊殿関係の一切の建物を略した構造となっています。
鋳抜門の内部は極楽浄土の世界が具現化されており、将軍は宝塔の内部に御本尊の足元で安らぎの眠りにつくという精神で宝塔が造られています。
この日、増上寺、寛永寺にある2つの徳川家の霊廟を参拝しましたが、増上寺、寛永寺それぞれに徳川家6代づつ同じ数の宝塔があります。
その他の徳川将軍を含めて、霊廟の場所をまとめると下記のようになります。
徳川家康 日光東照宮
徳川秀忠 増上寺
徳川家光 日光東照宮(輪王寺)
徳川家綱 寛永寺
徳川綱吉 寛永寺
徳川家宣 増上寺
徳川家継 増上寺
徳川吉宗 寛永寺
徳川家重 増上寺
徳川家治 寛永寺
徳川家斉 寛永寺
徳川家慶 増上寺
徳川家定 寛永寺
徳川家茂 増上寺
徳川慶喜 谷中霊園
なぜ、このように夫々が埋葬されているのか、敢えてここではその詳細は記しませんが、是非その理由を調べてみてください。
きっと新しい発見があると思います。
所用があって長野方面に行って参りました。
その行程の中で北陸新幹線の上田でしなの鉄道に乗りかえる必要がありましたので、せっかくなので2時間ほど時間を取って歴史ある上田の街を巡ってきました。
今回利用したのは、上田駅前にある「まちなかレンタサイクル」。
なんと、無料で貸し出してくれるのです。
ありがたい。
上田駅から北へ。
懐かしい街並みが続きます。
少し進んだところで西方向へ進むと上田城に到着です。
上田城は、真田幸村の父、真田昌幸によって築城された名城です。
第一次・第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城として知られていますね。
それにしても大河ドラマの効果は大きいようで、平日にもかかわらず多くの観光客が訪れていました。
堀の形状も実に巧妙に造られています。
今月公開された映画「真田十勇士」のテナントショップもありました。
自転車での街巡り、わずか2時間ではありましたが堪能することができました。
低い目線で小廻りの効く旅もいいものですね。
真言宗豊山派の大本山護国寺に参拝いたしました。
護国寺は天和元(1681)年、徳川綱吉が母・桂昌院の願により桂昌院祈願寺護国寺として建立されました。
本尊は桂昌院念持仏の琥珀如意輪観音です。
参拝した4月18日は、ちょうど観音様の縁日で朝からの御開帳があり、まずは本尊様にお参りをいたしました。
御開帳の締めくくりとして、閉帳法要に参列いたしまいた。
法要後、岡本永司貫首老師(護国寺53代)に由緒縁起のご説明をいただきました。
本堂(観音堂)正面に祀られている本尊は如意輪観世音菩薩で、堀田正虎の母・栄隆院尼寄進によるものです。
また、冒頭にも触れたとおり護国寺は徳川五代将軍綱吉の母・桂昌院祈願寺護国寺として建立されていますので、いたるところに桂昌院の家紋(九連石)が印されています。
護国寺は震災、戦火を免れてきた貴重な寺院です。
東京近郊にある大本山の中で、創建当時の本堂が残されているのは護国寺のみです。
とても貴重な文化遺産でもあります。
天井絵や、絵馬、そのほか装飾の一つひとつが実に見事でした。
使われている木材は欅を主としており、丸柱は直径50センチを超える柱が52本にも及びます。
木材の調達には紀伊国屋文左衛門が携わったとされています。
ゆっくりと参拝させていただいた後、抹茶の御接待をいただきました。
参加者130名にご丁重な接待をいただきました。ありがたいことです。
心より感謝申し上げます。
(つづく)
横浜市仏教連合会(市仏連)主催 春の仏跡参拝旅行が開催されました。
日程 平成28年4月18日(月)日帰り
行程 柴又帝釈天参拝~昼食(柴又川甚)~皇居特別参観~護国寺参拝
参加 横浜市内仏教寺院(市仏連加盟寺院)及び檀信徒
春の仏跡参拝旅行は日帰りの行程で、今回参加は130名。バス3台での旅行となりました。
市仏連には各宗派の寺院による団体ですので、それぞれの寺院では普通の旅行では行えない特別な拝観を毎回いただいております。
朝8時、横浜駅天理ビル前を予定通り出発。
まずは葛飾、柴又の帝釈天に向かいます。
柴又帝釈天は、日蓮宗経栄山 題経寺の通称です。
開山は禅那院日忠上人(1629年開山)、題経院日栄上人開基です。
柴又駅から帝釈天に続く参道は、平日朝にも関わらず参詣者が多いですね。
おなじみのお店が並びます。
二天門をくぐると、境内正面に帝釈堂があります。
手前の拝殿と奥の内殿から成り、ともに入母屋造瓦葺で、拝殿屋根の唐破風と鳥破風が特徴的です。
到着後、お茶の接待の後、内殿で特別祈祷法要をいただきました。
(内殿での法要の写真はありません)
この内殿は大正4(1915)年、拝殿は昭和4(1929)年に建てられ、帝釈天の板本尊が安置されています。
その左右に持国天と多聞天が配されています。
法要の後、帝釈堂内殿の外部の装飾彫刻を拝観。
欅で造られた彫刻は実に見事です。
法華経説話が視覚化され、具現化されています。これら彫刻は大正11年から昭和9年にかけて加藤寅之助をはじめとする彫刻師が1面ずつ制作したものです。
戦火を免れできたことは奇跡的なことなのかもしれません。
帝釈堂の奥に広がる庭園、邃渓園(すいけいえん)がまた見事です。
ちょうど新緑の季節で、鮮やかな緑色の光景が広がっています。
昭和40年に庭師永井楽山により造営された泉式庭園です。
本堂棟上より出現したとされる本尊(長さ2尺5寸、 幅1尺5寸の板牌)の別刷りも展示されておりました。
午前中のゆったりとした参拝を終え、近くの川甚にて川魚料理の昼食をいただきました。
すぐに矢切の渡しがあり、このようなのんびりとした光景が今も残されています。
(続く)
台北市中正区の東和禅寺に拝登しました。
東和禅寺は、台湾が日本統治時代であった明治43(1910)年、曹洞宗永平寺・總持寺の両大本山別院(曹洞宗台湾別院)として東門町(現在の中正区)に建立された寺院です。
台湾における曹洞宗の拠点となった寺院であり、台灣佛教中學林を併設し、大正3(1914)には台湾風様式の観音禅堂が落慶。
しかし、戦後は中国本土からの軍人・民間人の不法占拠により建物が破壊され、廃寺となりました。
↑かつての曹洞宗台湾別院。現在は本堂は壊され、左側の観音禅堂が本堂として使用されている。
その後、観音禅堂が台湾の僧侶により買い戻され、東和禅寺として現在に至っています。
本堂はかろうじて残っていたのですが、1993年に老朽化のため取り壊され、その場所に台北市青少年音楽センタービルが建っています。
東和禅寺の案内看板が表の大通り(仁愛路)ではなく、山門の先の細い通路に掲げられているため、案内としてはとてもわかりづらくなっています。
春節の法要が行われておりましたので、法堂で参列させていただきました。
開山堂、位牌堂、そして壁にはこれまでの歴史をものがたる写真が掲示してありました。
道元禅師750回大遠忌の日本からの参拝団の写真もありました。
かつての曹洞宗寺院が、台湾仏教として現在も活動している姿を実感することができました。
台湾滞在中は、菜食主義料理である素食をたっぷり堪能しました。
日本でいうところの精進料理でありますが、台湾では単に宗教的な理由というよりは、健康食として一般に広く普及しています。
台湾料理は肉料理が多いイメージが強いが、健康志向の高まりも手伝って、素食は台湾の日常食のひとつになっている。台湾では素食専門店を表す卍マークを看板に表示した食堂、レストランを多くの街角にみることが出来る。台湾は国民の10%がベジタリアンである。この数字はアジアでは第1位のインドの31%に次ぎ、2番目に高い比率である。
台湾素食には大乗仏教や道教の全真教などで食べることが禁じられている三厭(天厭:空を飛ぶ鳥・鶏など、地厭:地を這う牛・豚など、水厭:水中の魚介類)および五葷(ネギ、ニラ、ニンニク、ラッキョウ、タマネギ)を一切用いない。肉だけでなく動物由来の油、卵、乳製品も一切使わない。出汁にも肉や魚介類を一切使っていない。昆布とシイタケは出汁だけでなく、食材としても好んで使われる。
ベジタリアン料理というと「青臭い生野菜や味の薄い代用料理」と思われがちだが、台湾素食はベジタリアン料理を食べなれない者でも満足出来る味付けと工夫がなされている。とりわけ、モドキ料理の「素鶏」、「素肉」、「素魚」、「素魷魚」などと呼ばれるゆば、「豆干」(豆腐を押し固めたもの)などの豆腐食材、麩などのグルテン、蒟蒻などの食材を用いて肉や魚やイカの食感を巧みに表現している。なかでもグルテンを白身に海苔を皮に見立てたウナギ料理は本物と騙されるほど巧みに作られている。これらの料理は福建省や上海市周辺など、中国大陸における素食が伝わったものが多いが、台湾素食は洋菓子を乳製品なしで作ったり、和食の刺身風のものを用意し、味付けも台湾料理や客家料理などのものを取り入れるなど、台湾の食文化の影響を受けながら独自の発展を見せている点が特徴的である。
また、台湾で素食は高級レストランから屋台まで幅広く食べられるが、中でも素食の自助餐(ビュッフェ形式のセルフサービス食堂)は台湾のどこにでもみられる一般的な庶民の味である。このようなスタイルの店では、保温され並べられた料理を客が自由に取りレジで会計する。臭豆腐は単独の鍋で保温してある定番の一品、ご飯は白米以外に玄米や五穀米など2、3種類から選べる。通常は無料の自由にお代わりできる菜食スープがある。これらが素食自助餐の基本的なスタイルである。
台湾では、台北駅の駅弁にも素食のものがあり、台湾の航空会社、旅行会社は素食の機内食の要求にも十分に対応している。
(ウィキペディア「素食」項)
典座和尚、信者さんたちが作ってくださる料理やはもちろん、
佛光山の寺院・道場内にも「滴水坊」という素食レストランでがあり、そこでのメニューも洗練されていてとても美味しいです。
ごく普通のラーメン、カレーうどん、ピビンバ、一口ビーフ、ハンバーガー、ホットドック・・・のように見えますが、全て素食(ベジタリアンメニュー)です。
食感や味がとても工夫されています。
上の9つの写真は佛光山の滴水坊での食事です。
また、台湾には、一般の素食レストランも数多くあり、素食に特化したバイキングレストランもあります。
今回の旅行中にいただいた素食の一部を、写真でご紹介いたしました。
素食レストランのリストを見ると、本当に数多くあることが分かります。
日本では、このようにクォリティーの高い完全ベジタリアンレストランを探すことが難しいのが残念です。
精進料理があったとしても、何か特別の日であったり、ちょっとかしこまった席であったり。
日常気楽に、ごくあたりまえに食する習慣がほとんどないのが残念です。
せめて宗門系のホテルなどで、普通に素食をいただくことができたら良いですね。
台湾素食に学ぶことは多いとつくづく感じます。
■関連情報
このたび動物性食品一切不使用のカップ麺 「我逢麺(がほうめん)」(製造販売:味源、監修:大本山總持寺)が発売されました。
總持寺香積台売店のほか、↓下記サイトからも購入できます。
http://zen-foods.jp/
精進料理とは動物性の食材を使わず、野菜や豆類、穀類を工夫して調理した料理のこと。 素朴でありながらも各食材が持つ特徴を生かし、創意工夫された料理といえます。...
これまで、日本のカップ麺には動物性食品一切不使用のものがありませんでした。そこで精進料理を、ごくあたりまえのように気軽にいただけるよう開発されたものです。
なぜ今まで無かったのか、不思議です。
高雄から新幹線で台北へ。
台北でローカル線に乗り換え、松山駅で下車すると、すぐ目の前に佛光山台北道場があります。
本堂に拝登させていただきました。
本堂には二十四天が祀られ、明日夜間の「供佛齋天」の準備と習儀が行われていました。
-------------------------------
一夜明け、旧暦正月八日夕刻より「供佛齋天」の法要が始まりました。
供佛齋天は午後七時から始まり、夜半を越え、深夜二十五時過ぎまで及ぶ長い長い法要です。
■差定
一、厳浄壇上
一、灑淨
一、傳供献齋
一、上供
一、送聖
何時間にも及ぶ法要なので、区切りごとに休憩時間が取られ、また、合間に法話が行われます。
傳供献齋では、二十四天それぞれに、献供がなされます。実にカラフルで、盛りだくさんの供物です。
それらを、正装した信者さんが二十四天それぞれの佛前に運んでいきます。
そして、僧侶に渡され、さらに前列の随喜衆に渡されます。
そして、一つ一つの献供物が随喜者一人一人の手に次々と回され、全員が掲げた後、佛前にお供えされます。
これを全ての供物で行ないますので、時間を掛けた長い法要になるのです。
傳供献齋が終わると、次の上供で施主の読み込みが行われていきます。
佛祖礼と施餓鬼の意味合いが融合した要素もあります。
旧暦正月八日夕刻には、このように各寺院、各道場で供佛齋天が行われているのです。
佛光山での生活にも少しづつ慣れてきました。
この日の小食飯台は、豆乳、饅頭、そして副菜はしぐれ煮、レタスの湯引き、煮豆です。
例によって、食事の際は左上の饅頭は副菜皿の右へ、豆乳は副菜皿の左に移動していただき、右の碗のみ持っていただきます。
従って、饅頭をちぎって、三口いただき、あとは、その饅頭の碗の中に左の豆乳を注ぎ、また副菜を入れて、右の器でを持って頂くことになります。
朝食後は、(女性側の)学林を案内いただきました。
学生たちの寄宿舎です。
図書館、坐禅堂、教室などが並んでいます。
図書館には経典や祖録などが充実しており、自由に学ぶことができます。
畳を使った勉強スペースもあります。
廊下には、新年行事の差定や配役が貼りだされていました。
早暁の鐘、太鼓、朝課の維那、鳴らしものなどの役も決められています。
その後、一般の参拝客向けの展示スペースへ。
仏教の教えをわかりやすくマンガで解説した展示もありました。
興味深い内容です。
佛光山にはこの日の昼まで滞在し、その後、台北への新幹線に乗るために高雄駅へ向かいました。
途中、高雄市中心街にある佛光山南屏道場を訪問。
佛光山南屏道場は近代的なビルの中に本堂、坐禅堂、レストランなどがあります。
静かに写経できるスペースもあり、落ち着いた雰囲気です。
こちらの坐禅堂でお茶をいただきました。
美術館では展示解説をスマートフォンアプリ・NFCクラウドで見ることができます。
先進的!
本堂では、新春旧暦8日に行う「供佛斎天」法要の準備が進められておりました。
私たちは、これから台北へ向かい、佛光山台北道場でこの「供佛斎天」法要に随喜することになります。
高尾駅から新幹線で台北へ。
次のブログに続く
日が暮れる頃、春節の佛陀記念館正面に人が集まってきました。
スマートフォンやカメラを構えている人も多いですね。
カウントダウンが始まります。
三・二・一・・・・・・
花火で仏教の絵物語が描かれていきます。
この花火大会は春節の期間、毎晩開催されています。
You tubeに動画がUPされていますのでご紹介します。
この花火大会が終わると、参拝の人々は佛陀記念館と佛光山をつなぐ佛光大道へ向かいます。
佛光大道には数え切れないほどの提灯が灯されています。
さらに進んでいくと、光のトンネルも。
どこかで見たことのあるキャラクターもありますね。
坂を登り切ると、佛光山の如来堂が見えてきます。
頂上には今年の干支、羊の巨大モニュメントが設置されています。
この羊のモニュメントも一時間おきにレーザー光線とともにショーが行われます。
夜も更け、10時近くになりました。
ゴール地点は大雄法殿(16時間前に朝課をしていた場所)。
ここで、僧侶の法話があり、参拝者は手にしたキャンドルを地面に置き、一日の行事が終わります。
明朝も、朝課の時間が早いので、宿坊に戻って就寝することにしましょう。
高雄の佛光山に隣接して、佛陀記念館があります。
この佛陀記念館は2011年に竣工したばかり。佛陀記念館の部分だけで実に998,250㎡の広さを有するとてつもない規模の施設です。
いわば、巨大礼拝施設+仏教テーマパークと言っても良いかもしれません。
(ちなみに東京ディズニーランドは 510,000㎡、シーは 490,000㎡)
春節の期間は「平安燈会」として佛光山・佛陀記念館それぞれ約一ヶ月間にわたり朝から番までさまざまな行事が同時進行で開催されています。
台湾全土から、あるいは世界各地から多くの来場者があります。
下写真が佛陀記念館入口の大門です。ここを左へ進むと佛光山(臺灣佛光山(2)参照)となり、その間の大駐車場群、そしてこの大門周辺の駐車場には大型観光バスがびっしりと留まっています。
大門をくぐると礼敬大庁。
この礼敬大庁は1400坪の複合施設があり、1階には百貨店のようなテナントが並んでいます。
スターバックスも、当たり前のようにあります!
豆乳アイスクリームが美味しい!
礼敬大庁を通り抜け、メインストリートの成佛大道を進みます。
目の前には巨大な佛光大仏(高さ108m)、そして、両側には八つの大塔が並んでいます。
振りかえると先ほど通ってきた礼敬大庁が。
規模が半端ではない。
成佛大道を進んだ突き当りに万人撮影台、そしてその先に本館の施設があります。
万人撮影台は、100メートル四方あり、文字通り一万人以上が集まることができます。
そして、本館は3つの殿堂、常設展示ホール、4つの美術館、2千人収容の大覚堂ホール、レストランなどから成っています。
大覚堂ホールでは、雑技団の公演が行なわれており、たっぷり堪能する事が出来ました。
お釈迦さまの一生を視覚的に展示するスペースや、仏教説話(貧者の一燈)を4D映像で上映する施設もあり、本館内の展示を見て回るだけでも最低半日以上は必要です。
この他、タイ国から贈呈された金佛座像を祀った金佛殿、須弥山を模った普洛伽山観音殿、ミャンマーの白玉臥佛を安置した玉佛殿などがあり、参拝者であふれていました。
東側の一角には雙閣楼があります。
金閣寺を模してデザインした建物で、一階が精進料理レストラン、二階が茶室となっています。
ここで、台湾式のお茶をいただきました。
朝早くから佛陀記念館に入って各施設を回っているうちにだんだんと夕方が近くなってきました。
時間をとっていただき、礼敬大庁の応接室で佛光山のご住職とお話することができました。
この一日のことが翌日の新聞記事としてさっそく掲載されていました。
情報が早い!
・・・ということて、一日があっという間に過ぎ、だんだんと日が暮れてきました。
応接室からは、成佛大道と佛光大仏を望むことができます。
そして日没後には階下の成佛大道に溢れんばかりの人波が!
その理由は、次のブログ記事をご覧ください。
高雄の佛光山に宿泊し、2日目の朝。
午前五時の境内に灯りが灯り始めます。
女性用の大悲殿と男性用の大智殿は谷を挟んだ両側にあり、暁の鐘鼓を聞くために、大悲殿前で待機しました。
大悲殿の正面には叢林学院があり、学生用の宿泊施設があります。
木版が鳴らされ、その後、鐘が鳴らされます。
鐘は谷の向こうの大智殿と交打します。
その後、太鼓を打ち鳴らします。風、雨、雷を表現した独特の打法です。
大悲殿・大智殿から朝のお勤めをするために比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷が大雄寶殿に集まっていきます。
大雄寶殿では千人規模のお勤めが行われます。
だんだんと空が明るくなってきました。
朝課ではの課踊位は中央に近い最前列。
法要中は写真を撮ることができませんので、入堂時の一コマ。
一時間ほどの朝課が終わり、列を作って雲居楼へ向かいます。
こちらで小食飯台。
この斎堂が埋まります。両面相対し、前列には比丘、比丘尼が着座。正面には五観の偈が書かれています。
千人規模の四衆が一堂に介して同時に食事をいただく光景は圧巻です。
供養呪をお唱え中に、淨人にてきぱきと給仕してもらえます。
メニューは、栗粥、白飯、豆腐、キャベツの湯引きでした。
給仕後、栗粥を副菜皿の右へ、白飯を副菜皿の左へ移動し、3口頂いて食事が始まります。
栗粥以外の器は持ち上げず、栗粥の中に移してから、栗粥の器を持ち、頂くのが作法です。
食事中は音を立てないように心がけます。
再進、淨水を受け、食事が終わると、食器はこのように重ね、箸は先を向こうに置きます。
結斉偈を唱えている間に、淨人が食器を片づけていきます。
この後、隣接されている佛陀記念館へ参拝。
その桁外れの規模に驚かされることとなります。
2月下旬にブログ更新が一部滞っておりました。
この期間、春節の台湾へ旅行に行っておりましたので、順次ご紹介していきます。
旅行期間は平成27年2月23~27日(旧暦1月5~9日)です。
羽田空港を早朝便にて出発、雪に覆われた富士山を右に眺めながら南下していきます。
約4時間ほどで台北松山空港に到着。
街のあちこちで爆竹が鳴らされています。
いっぺんにこんなにたくさん爆発させるのですね。
台北からは新幹線にて南へ向かいます。
台中で一旦下車し、日月潭と、その畔にある玄奘寺に参拝しました。
日本統治時代(1918年)に発電に供するダム湖として造られた湖で、日月潭は台湾有数の観光地です。
現在でも発電が続けられており、台湾の水力発電全体の半分以上の発電量を誇っています。
日月潭に浮かぶラル(拉魯)島はサオ族の祖霊が宿る場所(聖地)とされています。
1999年に起きた台湾大地震の震源に近い場所でもあります。
日月潭の日潭・月潭の境に玄奘寺があります。
その名の通り、玄奘法師が祀られており、遺骨が祀られています。
遺骨は日中戦争で南京から埼玉県の慈恩寺に持ち帰り祀られていたものを、1952年に玄奘寺の中で祀られることとなりました。
その後、台南へ向かい、佛光山台南別院で夕食をいただきました。
精進料理のフルコースです。
佛光山台南別院は、台南市役所の正面に位置し、1000人収容の大本堂とホール、美術館、カルチャースクール教室などを兼ね備えた近代的な建物となっています。
心からのお見送りを受けて、いよいよ高雄の佛光山本部へ向かいます。
到着した時には既に夜10時近くでしたので、境内のライトはだいぶ落とされていました。
しかし、そのとてつもない規模はなんとなく分かります。
明朝は朝のお勤めから参加しますので、佛光山の宿坊で就寝です。
旅行に出かけるたびに街で見かけたものをスナップしています。
今回の旅行は宗務所主催檀信徒研修旅行という、ある程度制限された中でしたが、その中で写真に収めたものをいくつかご紹介します。
■あちこちにある仏壇
各家の門の入口には祭壇が設けられています。
円錐形のバナナの葉に花が飾られた御供えが備えられています。
2枚目はレストランの祭壇。
3枚目はクルーズ船の舳先。
そして、こちらは鳥居?神仏混合か?と思いきや、弓状の仏具が台の上に置かれているだけでした。
■日本からの支援によるインフラ整備
空港や道路わきに、どこの国の支援によって作られたインフラなのかが明示してあります。
参考リンク=ODA見える化サイト(ラオス)
きちんとこういう情報を出してくれるのは素直に嬉しいですね。某国にも見習って欲しい。
■どこかで見たような・・・?
商店の店先で、こんなものを見つけました。
かっ○えびせん?ポ○デリング??
そして日本語もよく見かけます。
タイのオイシ・グループ関連企業、イチタン・グループの緑茶シリーズ。
巨大オブジェで大々的に宣伝していました。
■ラオスではバイクを無免許、ノーヘル、定員オーバー、スピードオーバー、片手運転、飲酒運転・・というのが目立ちます。
工事の材料が置きっ放しになっている道路もスイスイ。
自己責任にまかせて放任している面もあるのでしょうが、この部分は改善したほうが良いかも。
■カオス的電線
こんな状態で、どの電線がどういう電線なのか区別つくのでしょうか。
■三輪タクシー・トゥクトゥク
ちょい乗りにはもってこいです。流れる空気がとても心地よく感じます。
■ゆったりと流れるメコン川
ビエンチャンを流れるメコン川の夕陽をゆったりと眺めることができました。
対岸は、タイです。
こちらはゾウ乗りツアーの一行。
象使いライセンスを取得できるコースもあるそうです。
■凱旋門
パリの凱旋門を模して作られもので、もともとは戦没者の慰霊碑として1960年から建設が始められました。
他にあまり高い建物が無いので、ビエンチャンの街を一望することができます。
■お犬様
ラオスにも街に犬ををく見かけます。
しかも、托鉢僧の通る道筋を堂々と歩いたり(左)、僧侶の宿泊施設のど真ん中に堂々と寝ていたり(右)、かなり偉そうです。
■ラオスの十二支
鼠、牛、虎、兎、竜、蛇、山羊、馬・・・・・・続きが知りたい
■朝市にて
魚を縦にして全体を焼くことが出来るのでしょうか。
■ビア・ラオ
いったい何杯飲んだことでしょうか。
ビールは地元のものが一番美味しいように感じます。
■洗濯物
寺院では、このように袈裟を干している光景を良く見かけました。
■Speaker for iPhone
ナイトマーケットにて。
シンプルな構造にアマー・G・ボーズ博士も脱帽しそう。
■ラオスの料理たち。
■これまでのシリーズ
シンガポールで見かけたものあれこれ
大阪で見かけたものあれこれ
ハワイで見かけたものあれこれ
長崎・熊本で見かけたものあれこれ
ドイツで見かけたものあれこれ
中国で見かけたものあれこれ
フランスで見かけたものあれこれ
モンゴルで見かけたものあれこれ
スリランカで見かけたものあれこれ
曹洞宗と深い関わりがあり、宗務所婦人会活動の「絵本を送る運動」でもつながりがある公益社団法人 シャンティ国際ボランティア会(=Shanti Volunteer Association, 以下 SVA) のラオス事務所を訪問しました。
SVAは1980年にカンボジア難民の緊急救援活動のために曹洞宗東南アジア難民救済会議(JSRC)が設立されたのが前身です。
1981年の緊急救援活動プロジェクトの終了にあたり、JSRCのボランティアの有志が、それまで行っていた活動を継続させるためにシャンティ国際ボランティア会を立ち上げました。
■SVAの主なあゆみ
1981年 JSRCのボランティアが曹洞宗ボランティア会(SVA)を結成。
1984年 初の開発事業をタイ・スリン県バーンサワイ村で開始。
1985年 タイのラオス難民キャンプで印刷活動が始まる。図書館活動開始。フェアトレード事業「クラフト・エイド」を開始。
1989年 タイ・バンコクに職業訓練センター開設。
1991年 カンボジア事務所開設。
1992年 ラオス事務所開設。「曹洞宗国際ボランティア会」と改称。
1995年 阪神・淡路大震災支援。「社団法人シャンティ国際ボランティア会」となる。「絵本を届ける運動」を開始。
2000年 ミャンマー(ビルマ)難民支援事業を開始。
2003年 アフガニスタン事務所開設。
2011年 「公益社団法人シャンティ国際ボランティア会」となる。東日本大震災被災者支援を行う。
2012年 宮城県と福島県で移動図書館プロジェクトを開始。
ビエンチャンにあるラオス事務所にてラオスの現状とラオス事務所の活動についてお話いただきました。
SVAラオス事務所の主な活動は、学校建設・学校教育・学校外教育・伝統文化支援となっています。
ラオス人民人主共和国は、中華人民共和国、ミャンマー、ベトナム、カンボジア、タイに囲まれた内陸の国であり、北部は山岳地帯、南部は平野部、そしてメコン川沿岸地区に分けられます。
ラオスの人口は約650万人で、人口密度は低く、国土面積は日本の約半分です。
政府公式でラオ族、プータイ族、カム族、モン族など49の民族が暮らし、6割がラオス語、残りはラオス語を日常言語としない民族です。
宗教は67パーセントが仏教徒、その他アミニズム、キリスト教などが信仰されています。
ラオスは秘められた戦争国であり、例えばベトナム戦争ではアメリカ軍の攻撃の影響がなかったとされていますが、実際は200万トン以上の爆弾が投下され、2億7000万個中8000万個が不発弾となっています。
国民1人当たりの不発弾の量は世界最大とも言われます。
このため、不発弾による人的被害は多く、年間死傷者300名のうち50%は子供です。1964年~2007年の死傷者は50000人に及びました。
ラオスでは1975年以降内戦が繰り返され、反政府勢力との衝突やアメリカ軍側の助けをしたモン族が弾圧を受けるなど、人口の1割が難民になりました。
(CURRENT UXO Operation LAO PDR 2008)
貧困地域では農地を切り開き、金属を売る生活を強いられました。
ラオスの学校制度は5・4・3・5制。
公立大学は4校で、教員資格・教員養成学校は8箇所(就学前、初等)3箇所に留まります。
小学校数は8871校、小学校が設置されていない村は 2092村(20%)
5年生まで運営できない学校は4588校、1校あたりの教育者は平均3名となっています。
また、教育予算に占める外国支援の割合は6割にも及び、支援の重要さを示しています。
ラオス教育における問題は
・留年率、退学率の高さ。
・学校まで遠い、校舎がない
・教員質の低さ、人数の不足
・教材不足 教科書以外に子供用図書がない
・家庭の貧困、教育費が高い
などです。
人口の73%が農業従事者であり、主要とする稲作により自給自足がなされているため、家事や農業の手伝いなどの労働力として子供は貴重な働き手となります。
したがって、通学したり勉強する時間が無く上記の問題が発生するのです。
プロジェクトの一つの柱、学校建設では、ルアンパバーン県ヴェンカム郡を中心に活動を行なっています。
この郡は、143郡中13番目の貧困郡で、県の中心部から4時間ほどの距離に位置します。
また、67校のうち8割が複式学級であり、先生の負担も大きくなっています。
ヴィエンカム郡の教育の問題のまとめ
・適切な学習環境の不足
・教員の数の不足
・教育の質の低さ
・予算の不足
・他地域との格差
(世界銀行の支援対象になっていない)
SVAの行なっている学校建設では、村の建設委員会を設置し、村との契約書(建設同意書)を村、教育委員会、SVAと交わした上で進められています。
建設委員会の仕事は木材は村が調達 森林局との交渉を行い、3ヶ月の準備期間の後に建設が始まります。
建設に当たっては建設業者入札制度をとり、建設業者、建築士、SVA職員、村人で建設過程を共有しながら、建築代金の支払いは確認後に行うことにしてるそうです。
ことことにより、コミュニティーの参加が促進され、行政による現場の状況の理解も改善されました。
ソフト面での活動では学校運営、研修会の実施などが行なわれています。
学校外支援事業では、図書スペース 学校、公共施設、移動図書館等の整備、ソフト面としての図書館運営 図書館員育成トレーナー、分類方法の指導などが行なわれています。
本の支援としては、図書出版支援事業として1年で4タイトルの絵本を出版したり、絵本を届ける活動をすすめています。
絵本の出版は、ラオス作家協会と協力して、推薦図書を絵本化して出版しています。
今後の展開として、2014年からSVAはルアンパバーン県、ヴィエンチャン郡を対象に少数民族の子供たちのための小学校建設がコミュニティを通じて改善されることを目標に、就学前、初等教育の実施、複式学級運営研修会の実施、第二原語としてのラオス語を学ぶための指導法、少数民族の民話の絵本、紙芝居作り、少数民族の生活に合わせたフラッシュカードの製作、フラッシュカードの使い方、手作り教材の作り方の研修、移動図書館活動の実施、読み聞かせのプロジェクトなどが計画されています。
最後に、宗務所より些少ではありますが寄付をお届けさせていただきました。
今後も活動にご協力させていただきたいと考えております。
SVAのみなさま、本当にお世話になりました。
ルアンパバーンから空路、ラオスの首都ビエンチャンに向いました。
メコン川を眺めながら南に進みます。
ビエンチャンは16世紀の半ばセタティラート王により首都に定められたラオス最大の都市です。
数多くの仏教寺院が点在していますが、最初にワット・シーサケットを拝登しました。
ワット・シーサケット(Wat Si Saket)は、ラオスの1818年に建立され、当時の様式を保っている点でビエンチャン最古とされる寺院です。
ルアンパバーン様式=優美な大屋根が特徴
ビエンチャン様式=本堂を取り囲むように広縁風のベランダを持つ
本堂と、周囲を四角形に囲む回廊には6,840もの仏像が安置されています。
しかし、そのほとんどは戦争や内戦によって破壊されたり装飾の宝石類や金細工等が失われてしまいました。
ラオスの寺院の多くは、シャム(現在のタイ)により破壊され、その後再建された際には当時と異なる形で再建されました。
しかし、ワット・シーサケットは当時の様式を保っています。
回廊の脇に、頭部が失われた多数の仏像が並べられていました。
これまでシャムによる占領、フランス植民地時代、ラオス内戦時代と、数多くの戦乱を経ていることが実感できる光景です。
ワット・ホーパケオ (Ho Pha Kaew)
1565年セタティラート王の命により建立された寺院です。
しかし1779年 シャム王国との戦いにより建物は焼失し、安置されていたルアンパバーンから遷仏されていたエメラルド仏は持ち去られてしまいました。
⇒ラオス研修旅行(4)ルアンパバーンの寺院
1936年に再建された際は当時とは異なる形となり、現在は寺院としての機能はありません。
中庭にはジャール平原から運ばれた石の壷もあります。
タートルアン(That Luang)
タートルアンは、ラオスの中で最高の寺院と位置づけられています。
3世紀にブッダの胸骨を納めるために建立したとの伝承があります。
1566年 セタティラート王により東西南北四つの寺院として再建されましたが、現在は北と南の寺院のみがが残るのみです。
それでもかなりの規模があります。
1828年にシャム王国との戦いにより建物は破壊され、1936年に改修されて現在に至ります。
正面に見える黄金の仏塔がタート・ルアンです。
タート=仏塔
ルアン=大きな
タート・ルアン正面手前に首都をルアンパバンからビエンチャンに遷都したセーターティラート王の像があります。
その付近からタート・ルアンをバックに一同で記念撮影をしました。
セーターティラート王の像左手にはWat Thatluang Neuaがあります。
タート・ルアンは蓮の花を模した3層構造になっていています。
そこに入るためには、チェックポイントがあり、男性用と女性用の入口に分かれており、女性は巻スカートを着用しなければなりません。
観光客用に、巻スカートのレンタルがあります。
中に入ると仏塔の周りは芝生になっています。
↑写真は、布施をする際に用いる御輿状のものです。
10名ほどの僧侶を先頭に、タート・ルアンの周囲を歩く一行に出会いました。
僧侶の後には、たくさんの紙幣がくくりつけられたものや、花が飾られた御輿を持って行列をなしています。
そして、タート。ルアンの真裏に設けられた僧侶が並ぶ祭壇のスペースに至り
紙幣や供物などを僧侶に納めます。
なお、旧暦12月の満月の日にはラオス最大の仏教祭、タート・ルアン祭が開催されます。
この祭りには、ラオス国内外から多数の僧侶が集まり盛大に開催される最重要の仏教行事の一つです。
今年2013年は11月17日(日)が満月となり、その一週間前から祭りが徐々に盛り上がり、17日にピークとなります。
タート・ルアンの右手にある Vat That Luang Taiにはすでに僧侶(+信者(+イヌ))の宿泊施設も埋まり始めています。
そして、タート・ルアン寺院の夜の様子は次のブログ記事でご紹介します。
ラオスの伝統工芸品に織物と手漉き和紙があります。
工芸品の工房があつまるバーンサンコン村を訪問しました。
ナイトマーケットにも様々なデザインの工芸品が並びますが、バーンサンコン村では特に質のよいものが揃っているそうです。
ラオスの織物は、手織りが未だ残っており、ここでも天然の染色で染付けがなされています。
貞昌院の周辺でも、戦前は養蚕や機織が行なわれていましたが、その頃を想起されるような光景がまだ見られるのです。
デザイン性の高い織物たちは、見ているだけでも飽きません。
手触りも機械織りとは異なり、とても滑らかです。
織物の模様は刺繍ではなく浮織りや縫取織りなどの、手の込んだ技法で作られます。
ダイアモンド柄は「目」を表現し悪霊を払う意味があります。
また、星型の花や幾何字文様は、幸運や繁栄を呼び込みます。
売り場の商品の前にはお供え物が。
和紙の工房では、紙すきが行なわれていました。
村々には、寺院が必ずあります。
バーンサンコン村の寺院はとても立派でした。
ルアンパバーンのメインストリート、シーサワンウォン通りは、夕方になると車両の通行が禁止され、歩行者天国になります。
たちまち沢山のテントが手際よく組み立てられ、シートが敷かれ、様々な商品が並べられていきます。
テントは整然かつ隙間無くびっしりと道路を埋め尽くしています。
商品の陳列も整然と並べられ、見ているだけで楽しくなります。
このナイトマーケットで良く見られる手工芸品は、モン族をはじめとする少数民族によるもので、色鮮やかなデザインや機能性など他の東南アジア各国のお土産よりも質が高く感じます。
しかも、しつこい客引きは皆無といってよく、店の人たちもにこやかで、実に気持ちよく買い物が出来ます。
車両通行禁止になっていないサッカリン通りにも屋台がずらり。
ナイトマーケットが終わると、それぞれの店のテントをたたみ、商品を再び丁寧に梱包し、子どもをバイクの前後に乗せて家々に帰っていきます。
朝市、ナイトマーケットは、このように毎日毎日繰り返し行なわれいます。
世界遺産の街、ルアンパバーンとメコン川、その支流のナムカーン川を一望できる小高い丘がプーシーの丘です。
ラオス研修旅行(3)朝市・タラート のシーサワンウォン通りの目の前にあります。
街の中心部にあるワット・マイ寺院前に登り口があるので判りやすいです。
この階段を登ります。328段。頑張りましょう!
頂上にはタート・チョムシー仏塔がそびえています。
月が次第に丸くなってきました。
メコン川と反対方向にはナムカーン川が流れています。
ルアンパバーンでメコン川と合流します。
いよいよ日没。
たくさんの見物客に見守られながら、静かに沈んでいきます。
川面がキラキラと輝いています。
静かな余韻を残しつつ、空はだんだんと紺色に変わっていきました。
プーシーの丘から戻ってくると、ワット・マイ寺院前のシーサワンウォン通りはすっかりナイトマーケットの準備が整っていました。
次はナイトマーケットの様子をご紹介します。
東チベット高原に源流を発し、南アジアを貫くメコン川は、ミャンマー・ラオス国境、ルアンバパーン・ビエンチャン・タイ・ラオス国境を流れて、カンボジア・ベトナムへと流れる大河です。
早朝には川霧に包まれていたメコン川でしたが、日が昇るにつれて青空が広がりました。
ゆったりと時間をとってクルーズをしました。
強烈な日差しが照りつけます。
けれども川面を抜ける風は涼しく、とても心地よい船旅でした。
船着場は、竹で組まれた桟橋か、板が渡してあるだけの簡易なものです。
メコン川沿いの寺院へ向う僧侶たちも、船を使っています。
ルアンバパーンから上流に1時間半ほど入ったところにあるパークウー洞窟に立ち寄りました。
洞窟は崖をくり抜いたような洞窟内には4000を超える仏像たちが祀られています。
新旧様々な仏像が混在しています。
ラオスの方々がお参りのたびに運び込んで祀っていくようで、その数はどんどん増えています。
雄大なメコン川は、雨季と乾季で流量が大きく異なります。
その水面の上下により、流域には肥沃な土地が形成されています。
しかし、近年メコン川はダム建設と治水工事の2つの問題を抱えています。
一国だけの問題ではなく、複数の国を流れる川ですから、上流の影響は下流の国に深刻な影響をもたらします。
例えば、中国では漫湾ダムをはじめとした12のダムが計画がメコン川で計画されています。
水量の低下と治水工事の進展により、水位は低下し、漁獲量は4分の1に減少しているそうです。
カンボジアのデルタ地域でも、農業生産は絶妙な水量のバランスの上に成り立っており、それが崩れることで、15世紀にクメール王朝を滅亡させた大規模な飢饉と壊滅的な洪水というシナリオの再現が危惧されています。
メコン川流域問題は東南アジア全体の深刻な問題であるといえます。
豊かな光景が何時までも続くことを願います。
ラオスは14世紀ランサーン朝建国以来上座仏教が信仰されている仏教国です。
(上座部仏教60%、アニミズムやその他の宗教40%・仏教とアニミズムは混用されて信仰されていることもある)
世界遺産の街、ルアンパバーンには多くの仏教寺院が維持されています。
最初に、ラオスで最も美しいとされるワット・シェントーン(Wat Xienthong)に拝登しました。
ワット・シェントーンは1560年に、セータティラート王により建立され、1975年まで王家の寺院として、宮廷行事などでも大きな意味を果たしており、歴代の王の戴冠式が行われました。
メコン川河岸から参道として石段が設けられていて、途中にはこのようなユニークな狛犬が置かれています。
本堂は北ラオスの伝統的な建築様式であり、高い三角屋根が緩やかなカーブを描きながら地面近くまで続いています。
本堂の外壁には大きな樹木が美しいモザイクで描かれています。
本堂内で拝登諷経を営みました。
壁面には地獄を描いた壁画や、大きな銅鑼が常設されています。
境内には黄金の建物が併設されており、シーサワーンウォング王の葬儀の際にご遺体を乗せた御車が保存されています。空を見上げるとワット・シェントーンの屋根装飾の付近に月が輝いていました。
だんだん丸くなってきています。
この月が満月になると、ビエンチャンで開かれているラオス最大のお祭りタートルアン祭りが佳境を迎えます。
次にワット・マイ。
ルアンパバーンの中心部にある寺院です。
正式名はワット・マイ・スワナ・プーン・ラームという長い名前で、18世紀末にアヌルッタ王により50年もの年月をかけて建立されたとされています。
本堂は五重構造です。
本堂を参拝。
正面の釈迦牟尼仏の裏にもう一体の仏像が配置されています。
西側にはエメラルド色の仏像が安置されています。
壁面にも仏さまがびっしり。
正面のレリーフは輪廻転生が表現されています。
ワット・マイの隣には王宮博物館があります。
かつての王宮で、王宮として使用していた当時の調度品、贈答品などが展示されています(建物内部は撮影禁止)。
ラオスのシンボル、「パバーン仏」も展示されています。
ルアン・パバーンの名前は、パバーン仏から来ています。
その由来は、1353年ラーンサーン王国を建国したファーグム王が、1357年にクメール王妃の要請に応えて、クメール王から仏教使節団を迎えたときに上座部仏教が伝わり、その時にパバーン仏が贈られたことによります。
1560年、ビエンチャンに遷都した際にもパバーン仏は残され、街の名称がルアンパバーンと改められました。
1707年、パバーン仏はビエンチャンへ遷仏されましたが、1777年にはタイ(当時はシャム)が進攻し、パバーン仏はシャムに奪われてしまいます。
4年後に一度返還されましたが、1828年に再びシャムへ持ち去られてしまいました。
1866年パバーン仏はルアンパバーンに再び返還され、1887年にワット・マイ寺院に安置されることとなりました。
その後1947年からは王宮へ移されました。
王宮博物館横にはパバーン仏が安置されているホー・パバーンがあります。
毎年新年には、パバーン仏の灌仏式がここで行なわれています。
壁の補修が行なわれていました。
ラオスとタイには、上記のパバーン仏の他にも宗教的な確執が残されています。
ワット・シェントーンには、かつてエメラルド仏が安置されていました。
エメラルド仏は少なくとも3体(ワット・マイ・スアン・ナ・プーム・アハーム、ワット・シェントーン、ワット・ビスン・ナラート)あり、その後、西暦1564-1778年、ランサーン王国の新首都がビエンチャンに遷都とともにビエンチャンのワット・ホー・パゲオに遷仏されることとなりました。
1777年 シャムによるビルマおよびヴィエンチャン王国への攻撃が開始され、1778年 ルアンパバーン王国は1778年にシャムに占領され、属領となってしまいます。
1779年にはラーマ1世がエメラルド仏をヴィエンチャンから略奪してトンブリー(現在のタイ・バンコク)へと持ち去ってしまいました。
現在は、タイのワット・プラケーオに安置され、そのまま今日まで至っています。
このことについて、ラオスでは隣国タイがエメラルド仏を奪い去ったと主張し、ラオス政府はタイ政府に返却を求めています。
タイにあまり良い感情を持たないラオス人が多い理由は、このようなかつての事情があるのです。
宗教的な感情の対立はなかなか容易には解決しません。
旅行に出かけるたびに街で見かけたものをスナップしています。
今回の旅行は短い期間でしたが、その中で写真に収めたものをいくつかご紹介します。
■マーライオンたち
シンガポールの象徴、マーライオンは何種類かあります。
ベイエリアにあるマーライオンと小マーライオン。
そして、セントーサ島には巨大マーライオンがあります。
■巨大観覧車とF1
世界最大級の観覧車、シンガポールフライヤーは、一つのゴンドラに30人も乗ることが出来ます。
眼下ではF1の準備が進められていました。
こちらがF1のトロフィー。
特産の錫で出来ています。
■シンガポール川
川岸から飛び込む少年たち
■Hop on バス
市内要所を巡ってくれるHop on バス。
屋上がオープンになっているバスもあり、便利に利用させていただきました。
■中華街の提灯
夜の中華街も、とてもにぎやかです。
以前はかなり治安が悪かったエリアでした。
洗濯物の干し方が特徴的ですね。
■シンガポールスリング
ジンベースのカクテルで、ラッフルズホテルが発祥とされています。
■アクロバティックなお茶のサービス
四川豆花荘にて。
それにしても見事です。
■クラーク・キーのバーにて
シンガポール川を行き交う観光船を眺めながら、敢えておでん!
タイガービールでなく、敢えてサッポロ!!
■シンガポールの地下鉄
日本への帰路、空港へ向う地下鉄。
通勤通学ラッシュでものすごい混雑でした。
■微速度撮影で見るシンガポール
早朝から夜更けまでのタイムラプス(微速度撮影)をしてみました。
そして、ベイクルーズ!
大阪で見かけたものあれこれ
ハワイで見かけたものあれこれ
長崎・熊本で見かけたものあれこれ
ドイツで見かけたものあれこれ
中国で見かけたものあれこれ
フランスで見かけたものあれこれ
モンゴルで見かけたものあれこれ
スリランカで見かけたものあれこれ
シンガポールといえば、世界一の貿易港。
その貿易額は7050億ドルで、シンガポール全体のGDP2370億ドルの3倍にも達します。
コンテナ取扱規模、取扱貨物総重量は、実に東京・横浜・神戸・名古屋港の合計×2倍程度の規模があります。
港の近くには、海を埋め尽くすほどの貨物船が常に待機しています。
情報の発信・集約の機能がますます進化している活気溢れる街であるとつくづく感じます。
以下、滞在中に撮影したベイフロントエリアの光景です。
シンガポールの象徴といえば、マーライオン。
世界三大がっかりに挙げられるマーライオン・・・けれども、なかなかのものです。
以前はポンプの故障で水が出なくなったり、近くに橋が出来て正面から見えなくなったりしていましたが、2002年からマーライオン・ピアに移転され、観光用の桟橋が設置されました。
そして、マリーナ・ベイ・サンズの完成によって、シンガポールを代表する光景の地位を確保しています。
マリーナ・ベイ・サンズと、世界最大級の観覧車、シンガポールフライヤー
シンガポールフライヤーに乗ってみます。
沖合いにはたくさんの船が行きかっている様子が見えます。
マリーナ・ベイ・サンズの屋上を眺めるとこのような感じです。
よく、こんな構造物を作りましたね~
マリーナ・ベイ・サンズの直ぐ隣には、ガーデン・バイ・ザ・ベイがあります。
昨年オープンしたばかりの植物をテーマにした近未来的な巨大公園です。
宿泊したホテルの窓からはベイエリアが一望できました。
一日眺めていても飽きない!
早朝の光景は行きかう遊覧船も無く、水面は鏡のように平らです。
夜には2回のレーザーショーあり、ライトアップと噴水、音楽のコラボレーションが楽しめます。
ベイエリアからシンガポール川を数百メートルさかのぼるとボート・キー、クラーク・キーがあります。
日没後は、人が溢れ返とても賑やかです。
川に沿って並んでいるショップハウスやテラスから川面にキラキラと輝く夜景を眺めながらの食事は最高です。
早朝から夜更けまでのタイムラプス(微速度撮影)をしてみました。
そして、ベイクルーズ!
シンガポールのアラブストリートに入ると、街の雰囲気はこのようになります。
モスクは、ラッフルズ卿がシンガポールに上陸後、島の元所有者であったサルタンのために、1824年に創建されました。
現在の建物は、1924年に建設された2代目のものです。
建物の横には礼拝の前に体を清める洗い場があり、堂内には一切の像が祀られていないシンプルな構造になっています。
絨毯の模様は、一人ひとりの礼拝位置を示しています。
信者はもちろん、観光客でも肌を露出した格好は厳禁です。
そのために、基準に反する服装の場合には、ガウン・マントのようなものを入口で貸してくれます。
イスラム教では1日5回の礼拝が行なわれます。
モスクは1階が男性用、2階が女性用。
完全に男女のエリアが分かれています。
堂内は信者しか入ることの出来ない場所があり、また入場できる時間も決まっているので、事前によく確認しておくことが必要です。
次に、中華街の中心部にあるヒンドゥー教寺院、スリ・マリアマン寺院です。
なぜ中華街にヒンドゥー教寺院が・・というと、スリ・マリアマン寺院が建てられた1827年当初は、インド人の街だったからです。
その後、中華街がじわじわと拡張されて、現在のような位置関係になっています。
佛牙寺龍牙院は、すぐ近くにあります。
表通りからは、このような色鮮やかなゴープラム(仏塔)がよく見えます。
この仏塔が目印です。
寺院の外側も内部も、ヒンドゥー神話の神々がびっしり彫り込まれています。
門をくぐり、広間に入ると、様々な神様の彫像や絵天井に目を惹かれます。
曼荼羅の描かれた天井に圧倒されます。ラクシュミー、シヴァ、パールヴァティー、サラスヴァティー、サラスヴァティー、マリアマン・・・・・
ドーム全体をパノラマで撮ってみたのが右写真です。
(もちろん全ての写真は撮影許可を得ています)
広間では、さまざまな祈りの儀式が行なわれており、さらに、結婚式の様子も垣間見ることができました。
鮮やで神秘的なインドの神話の世界に溢れるヒンドゥー教寺院でした。
シンガポールはまさに世界中から様々な人種が集まってきます。
それぞれの人種、民族がコミュニティーを形成し、街を作り上げています。
民族構成は華人77%、マレー人15%、インド人7%、その他1%とされています。また、土着の民族が無く、ほぼ移民の子孫により構成されているという特徴があります。
シンガポールは通りを一本入ると様相が一変しますので、中華街、インド人街、アラブ人街・・・と街並みの変化を眺めるのも、街歩きの楽しみの一つです。
そして、それぞれの街の中核をなすのが宗教施設です。
いくつか巡ってきましたので、順にご紹介していきたいと思います。
まずは、中華街に新しく出来た壮大な伽藍をもつ「新加坡佛牙寺龍牙院」です。
■佛牙寺龍牙院
2007年に完成したばかりの伽藍で、まさにピカピカに光り輝いています。
総工費は実にS$62000000(約53億円)!!!。
信者からの寄付が半分で、シンガポール政府からの出資が半分という、出資比率が半官半民の寺院です。
堂々たる伽藍は、唐王朝時代の建築様式であり、ミャンマーで発見された「仏歯」をお祀りするために建てられました。
結夏安居が行なわれていて、一日4回の大般若経読経を中心とした差定が航海されています。
安居僧、信者により、ものすごい速度で大般若経が読まれていきます。
ホール全体に響き渡る読経の迫力はとにかく凄いの一言です。
正面には巨大な弥勒菩薩、周囲の壁には100体の仏像が安置されており、きらびやかに光を放っています。
ホールの奥には、さらに小ホールがあり、そこでは施餓鬼にあたる法要が随時行なわれています。
それにしても、その迫力には圧倒されます。
この建物は、4階建てになっていて、2階には図書館や売店、3階には仏教博物館「龍華展覧館」があります。
最上階には佛歯が祀られています。
シンガポールでは華人の割合が圧倒的に多く、その勢いは増すばかりです。
寺院の伽藍の大きさ、活性度からも、そのことがよく汲み取れます。
6月2日から6日にかけてシンガポールに行ってきました。
あまり知られていないことだと思いますが、正式な曹洞宗寺院・日本寺がシンガポールにあります。
日本寺で毎年6月4日に行なわれている開山忌法要、および施食会法要に随喜いたしました。
その際に、日本寺および、日本寺のある日本人共有墓地についての沿革を調査して参りましたので、報告いたします。
日本人墓地は110年もの歴史をもつ公園墓地です。
墓地面積は 29,359平米、墓標数は910基を数えます。
ただし、墓標数は現在残されている数であり、当時は木の墓標や、墓標すら無く埋葬された日本人も数多いのです。
また、明治から昭和初期に掛けて日本からシンガポール(当時は英領)に渡った日本人の多くは「からゆきさん」と呼ばれる農村、漁村などの貧しい家の娘さんたちでした。
からゆきさんとして海外に渡航した日本人女性の多くは、農村、漁村などの貧しい家庭の娘たちだった。彼女たちを海外の娼館へと橋渡ししたのは嬪夫(ピンプ)などと呼ばれた斡旋業者、女衒たちである。こうした女衒たちは貧しい農村などをまわって年頃の娘を探し、海外で奉公させるなどといって、その親に現金を渡した。女衒たちは彼女たちを売春業者に渡すことで手間賃を得た。そうした手間賃を集めたり、投資を受けたりすることによって、みずから海外で娼館の経営に乗り出す者もいた。
こうした日本人女性の海外渡航は、当初世論においても「娘子軍」として喧伝され、明治末期にその最盛期をむかえたが、国際政治における日本の国勢が盛んになるにつれて、彼女らの存在は「国家の恥」であるとして非難されるようになった。1920年の廃娼令とともに海外における日本人娼館も廃止された。多くが日本に帰ったが、更生策もなく残留した人もいる。
第二次世界大戦後、からゆきさんの存在は「戦前日本の恥部」として一般に知られることは少なかったが、1972年の山崎朋子『サンダカン八番娼館』の出版によって広く知られるようになり、以後、からゆきさんについてのルポルタージュや研究書が現れた。
からゆきさんの主な渡航先は、中国、香港、フィリピン、ボルネオ、タイ、インドネシアなどアジア各地である。特に当時、アジア各国を殖民支配していた欧米の軍隊からの強い要望があった所へ多く派遣された。 また、さらに遠くシベリア、満州、ハワイ、北米(カリフォルニアなど)、アフリカ(ザンジバルなど)に渡った日本人女性の例もある。(ウィキペディアからゆきさん 項)
自ら渡航したからゆきさんも多かったようですが、大部分は経済的事情で売り渡されたり、または誘拐されて強制的に渡航させられた方もかなりいたようです。
いずれにしても、一番の被害者は何も知らずに渡航させられた女性たちです。
異国の地で、娼館へ売られ、当地で死去した日本人たちの遺骨は牛馬の棄骨場に埋められていたという記録があります。
この事実をタブー視するのではなく、人権問題として、また歴史的事実としてきちんと整理して検証していく必要があるでしょう。
日本人の遺骨が牛馬の棄骨場に埋められていたということを悲しんだ二木多賀治郎は、1888(明治21)年、同胞の渋谷吟治、中川菊三と連盟で英国植民地政庁に自己所有地8エーカーを日本人共有墓地として使用する申請を行い、3年後に正式許可を得ました。
それが日本人共同墓地のはじまりです。
1896(明治26)年には、兵庫県出身の釈種楳仙老師がシンガポールに渡り、日本人共有墓地の中に草庵を造りました。
曹洞宗僧侶の渡航によって、それまで供養もされずに牛馬の棄骨場に埋められていた からゆきさんなどのシンガポールの地で没した日本人たちが、ようやく人間らしく供養されることとなりました。
その後、1911(明治44)年には、墓地内に曹洞宗釈教山西有寺が建立され、大正時代に入ると日本人会が設立され、共済会と協同で墓地管理を行こととなります。
戦争の色が濃くなってくると、日本人墓地には、からゆきさん、戦前活躍した日本人たちとともに戦争関係の軍人たちも埋葬されていきました。
しかし、日本の敗戦により、日本人共有墓地は英国に接収され、寺院伽藍は朽ち果ててしまいます。
1969(昭和44)年になり、ようやく福田庫八郎他3名がシンガポール高等裁判所に日本人共有墓地の土地の返還を申請し、許可を得るものの、シンガポール政府は日本人墓地を含む市内42箇所の墓地に対して埋葬禁止令を発令しました。
1985(昭和60)年、日本人墓地に埋葬されている方々を継続的に供養するために、曹洞宗により御堂(日本寺)が再建され、日本人会に寄贈されました。
以降、日本寺は日本人会により管理され、毎年6月4日に神奈川県西有寺および関連寺院により開山忌、施餓鬼法要が営まれています。
ただし、日本寺は宗教法人の法人格は取得しておらず、シンガポール内での位置づけはあくまでも墓地公園内の御堂です。
さらに、シンガポール政府より、日本人共有墓接収の告知があり、その期限が5年後(2019年1月)に迫っています。
日本寺の存続のみならず、110年の歴史を重ねる日本人共有墓地は、現在存続すら危うい状況にあります。
日本人共有墓地には、立派な墓もありますが、ただの石が置かれているだけの墓もあります。
また、墓の存在すら失われている墓地も数知れずあります。
6月4日の法要には、西有寺御住職、日本寺関連寺院、神奈川県第二宗務所所員、寺族さん、関連のみなさまにより営まれました。
また、開山忌に引き続き行なわれた施食会法要では、日本人共有墓地に眠る全ての御霊に、また、東日本大震災をはじめ多くの天災地変や戦争で亡くなられた全ての方々に対して回向されました。
日本人にとって、シンガポールの日本人共有墓地は、大正、昭和の日本人海外史が偲ばれる重要な場所です。
また、からゆきさんという人権侵害の象徴ともいうべき事実を記録している場所でもあります。
シンガポールへお越しの際は、是非足を運んでいただき、お参りをしていただきたい場所だと感じます。
2013年5月22日、東京スカイツリーが開業一周を迎えました。
この日は、午後7時より「粋」「雅」「七夕」「防災の日」「オリンピック・パラリンピック招致」「シャンパンツリー」「冬雅」「冬粋」「ホワイトツリー」「キャンドルツリー」「桜『咲』」「桜『舞』」の12種類のライトアップが行なわれています。
このうち、防災の日以降を観ることができました。
(キャンドルツリー以降は帰路途中の撮影です)
様々な表情の東京スカイツリーをお楽しみください。
左より「防災の日」「オリンピック・パラリンピック招致」「シャンパンツリー」「冬雅」「冬粋」「ホワイトツリー」「キャンドルツリー」「桜『咲』」「桜『舞』」
Time Lapsでも撮影してみました。
大型連休に入りました。
今年は平日を挟んで前半と後半に分割されています。
そのため、行楽は近くへ・・という傾向にあるようです。
今日は、午後の時間に家族で潮干狩りに出かけました。
潮見表によると、潮干狩りに最適となっています。
昨年は千葉県の木更津海岸へ出かけましたが、今年はずっと近場の金沢区・海の公園です。
車で20分ほどの場所にこのような公園があるということは有難いことです。
しかも、海の公園は有料の潮干狩り場ではなく、ルールさえ守れば砂浜で自然に繁殖している貝を、誰でも、いつでも無料で自由に採ることができる場所です。
混んでいるかと思いきや、駐車場にすんなり入ることができました。
人出もそれなりにありますが、想像ほどではありません。
ゆったりと潮干狩りを楽しむことが出来ました。
水洗い場や売店が充実しているのも良いですね。
潮干狩りを楽しんだ後、徒歩圏内にある八景島シーパラダイスで過ごしました。
■関連ブログ記事
日本の心の故郷、まほろばと称される奈良県明日香村へ、研修旅行の帰りに立ち寄って来ました。
僅かな時間でありましたが、これまでに回っていない場所を中心に雪の情景を堪能しました。
明日香村役場で地図をいただいて出発!
まずは岡寺に向かいます。
■岡寺は、正式名称は 真珠院 東光山 龍蓋寺であり、岡寺はいわゆる通称です。
寺伝によると、約1300年前に天智天皇の勅願によって義淵僧正が建立したとされています。
本堂には日本最大かつ最古とされる如意輪観音座像の塑像が祀られています。
像高4.85mの堂々とした塑像です。
雪が降りしきる境内をゆったりと拝観させていただきました。
■石舞台古墳
築造は7世紀初め頃と推定され、大化の改新で滅んだ蘇我入鹿の祖父・蘇我馬子の墓という説が有力です。
方形の墳丘、堀、外堀が復元されていました。
当時の高度な土木技術の一端をうかがい知れます。
中に入ってみると、岩の隙間から水滴が落ちて、まるで水琴窟のように美しい音を奏でています。
■亀石
そのユーモラスな表情から、明日香村のマスコット的な存在になっています。
みぞれが地面に小さな水溜りを作って、まるで亀が水を飲んでいるように見えますね。
■鬼の俎(まないた)・鬼の雪隠(せっちん)
この2つの石は、近くに配置されています。
元々は同じ古墳の石室だったものが崩れて現在の配置になったようです。
この小高い丘全体がキトラ古墳です。
今回の明日香村訪問は、日程の合間の行程でした。
是非たっぷりと時間をつくって再訪したいと思います。
曹洞宗関東管区所長会参加のために日光へ出かけました。
日光への玄関口、浅草では丁度ほおずき市が開催されていました。
仲見世通りが人の波で埋め尽くされています。
外国の方も多いですね。
浅草は賑やかさが似合います。
風物詩、ほおずき市は、本格的な夏に向けて涼しさを与えてくれます。
東武浅草駅名物の列車乗降用ステップ。
隅田川を渡り、浅草松屋に急カーブで入ってくるホーム構造のため、列車とホームの間に隙間ができてしまいます。
列車の長さにも制限があるようです。
あっという間に日光到着。
会場となった旅館で抹茶を頂き、直ぐに会議に入ります。
-------------------------------------------
翌日、朝6時前から朝食の間に散策をして参りました。
大谷川は豊富な水が流れています。
掛かっている橋は神橋。
陽が昇って来ました。
西参道からロマンチック街道を渡り、田母沢御用邸記念公園正面通を歩きました。
このあたりは、自然石で造った石升の簡易水道があります。
飲用はできませんが、近くの湧水の豊富な水を利用しています。
この流れが、大谷川に注いでいきます。
浅草も日光も、世界に誇る日本の観光地だと感じます。
浅草は、だいぶ観光客・参拝客が戻ってきた感がありますが、日光は震災前の7割程度だそうです。
日本人にも海外からも多くの方々に訪れていただきたいものです。
※この記事の写真は、Xperia mini proで撮影しました。
宮戸島は、松島の島々の一番外洋に位置しています。
松島市の観光地は、松島湾に点在する島々で津波が減衰され、被害が軽減されたとされています。
しかし、その津波をまともに受けたのが、奥松島の島々でした。
宮戸島もそのひとつ。
特に、月浜、室浜は島の東の海岸ですからその被害は甚大なものでした。
震災直後に目の当たりにした光景は表現する言葉も無いほどでした。
(このブログでは震災直後の月浜の写真は掲載しておりません、ご諒承ください)
震災から1年3ヶ月あまり。
月浜は瓦礫がすっかり片付けられており、美しさを取り戻しつつある砂浜には静かな波が打ち寄せていました。
空き地となっている場所には、民宿を中心とした集落がありました。
月浜の入り口には、案内図が震災前そのままに掲げられています。
この地区の方々は、現在、小高い丘に建てられた仮設住宅で過ごされています。
けれども、復旧復興にむけて歩みを進めています。
月浜の民宿のうち、「山根」さん(上のパノラマ写真中央部の3階建ての旅館)が営業を開始したということで、今回の旅程の宿泊場所とさせていただきました。
民宿の直ぐ隣が月浜地区の仮設住宅の建てられている場所になっているのですが、皆さん歓迎してくださいました。
食事は、三陸の海の恵みがふんだんに盛り込まれているものです。
松島湾の牡蠣(この冬に捕れたものを冷凍していたもの)、三陸の身の厚い牡蠣、里浜のアサリ、油の乗ったカマ、刺身、ワカメなどなど。
海の幸を堪能いたしました。
お世話になった山根の女将さんと。
津波は、この建物の一階部分の天井まで襲い、看板は波に攫われてしまったままの状態です。
幸いなことに建物自体は残ったため、内部を徹底的に修復して、再開にこぎつけました。
これから、海水浴シーズンを迎えます。
旅館の目の前は綺麗に片付けられ美しさを取り戻した砂浜です。
宮戸島・月浜にかぎらず、これから宿泊施設も順次再開していくことでしょう。
観光で訪れてくれることが何より嬉しいと話されていました。
私たちが宿泊した部屋の脇では、燕がさかんに巣の補強を行なっていました。
それは幽霊の行列
一瞬にして着物は燃え落ち
手や顔や胸はふくれて、
紫色の水ぶくれはやがて破れて、
皮膚はぼろのようにたれさがった。手をなかばあげてそれは幽霊の行列、
破れた皮を引きながら力つきて人々は倒れ、
重なりあってうめき、
死んでいったのでありました。爆心地帯の地上の温度は六千度、
爆心近くの石段に人の影が焼きついています。
だが、その瞬間にその人のからだは、蒸発したのでしょうか。
飛んでしまったのでしょうか。
爆心近くのことを語り伝える人はだれもいないのです。焼けて、こげただれた顔は見分けようもなく、
声もひどくしわがれました。
お互いに名乗りあっても信じることはできないのです。赤ん坊がたった一人で
美しい膚のあどけない顔でねむっていました。
母の胸に守られて生き残ったのでしょうか。
せめてこの赤ん坊だけでも、
むっくり起きて生きていってほしいのです。
(原爆の図 第一部 解説より)
1945年8月6日 広島に、9日 長崎に人類史上初めて投下された原子爆弾は、20万人にも及ぶ死亡者を出し、その数は今日も増え続けています。
その惨状は、言論統制の影響もあり、伝えられることが大葉に制限されました。
当時東京に住んでいた水墨画家の丸木位里氏は、「広島に新型爆弾が落とされた」ことを聞き、原爆投下3日後の広島に入り、一面焼け野原に広がる戦慄の光景を目にしました。
1週間後、妻の油彩画家 丸木俊氏が広島に入り、夫婦で救援活動を行います。
それから5年後経過し、発表された『原爆の図 第1部 幽霊』は、世界中に大きな衝撃を与えました。
原爆といえは、大きなキノコ雲程度の情報しか発信されなかった時代です。
屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2mというスペールの大きい画面いっぱい描かれた生身の人間をテーマにした生々しい絵画は、原爆のもたらした凄惨な状況を訴えけてきます。
原爆の図は、はじめは1作だけ、その後は3部作にという構想だったようですが、夫妻は次々と32年に亘り描き続け、とうとう15部を数えました。
丸木美術館では、《原爆の図》のうち、現在1~14部が常設展示されています。
第1部 幽霊
第2部 火
第3部 水
第4部 虹
第5部 少年少女
第6部 原子野
第7部 竹やぶ
第8部 救出
第9部 焼津
第10部 署名
第11部 母子像
第12部 とうろう流し
第13部 米兵捕虜の死
第14部 からす
第15部 長崎
各部の詳細については、ここをクリックして丸木美術館のサイトで閲覧できます
※なお、第15部の 長崎 だけは、長崎原爆の状況を描いたものであるということで、長崎原爆資料館に寄贈され展示されています。
原爆の図が常設展示されている丸木美術館は、丸木位里・丸木俊夫妻により建てられた美術館です。
都幾川のほとりの閑静な環境にあります。
交通アクセス、詳細については 丸木美術館パンフレットをご参照ください。
横7.2m、縦1.8にも及ぶ壮大な絵画が14部展示されております。
実際にご自身の目で観ていただくことをおすすめします。
美術館の一角に、原爆観音が祀られていました。
■関連ブログ記事
ウシ:ノースフィールド
長崎での慰霊法要
2011ゆめ観音アジアフェスティバル報告(3)
今日は長崎原爆投下の日
2つのグラウンドゼロ公開
キャンドルナイトin大船2011報告
アメリカ人の見た日本の空襲
平和への祈り 大船観音から
65年目の広島原爆の日に
戦争遺跡写真とトーク
2010年夏キャンドルナイトin大船観音報告
横浜刑務所とテニアン北飛行場
キャンドルナイトin大船開催報告
採火合宿@大船観音・貞昌院
原水爆禁止国民平和大行進@大船観音
「GATE」上映会及び講演会報告
核兵器、廃絶だけに意味
キャンドルナイト報告?笑顔が広がりますように
原爆投下は長崎を最後に
広がるねがいと平和の灯火
「広島原爆の火」の採火式を行います
神聖なる平和の灯火
Flame of the Atomic bomb in Ofna kannon
広島原爆の日に
民生児童委員の研修旅行で熱海に出かけておりました。
研修会場が伊豆山にあるということで、早朝この付近を皆で散策。
伊豆山といえば、やはり伊豆山神社です。
伝承では紀元前5~4世紀に創建されたとされる由緒正しい神社です。
明治維新以前は、真言宗・般若院の別当寺院と伊豆大権現が祀られていました。
多くの仏教者や修験者が修行を積んだ霊場であったと同時に、歴代皇族の篤い崇敬の対象でもありました。
また、源頼朝が伊豆国に配流された際には、伊豆山神社に再興祈願をしたり、北条政子との縁をとりもった場所でもあります。
そのために、縁結びの神社としても有名となっています。
源頼朝と北条政子が座ったとされる腰掛石もあります。
綺麗なベンチ型になっていますね。
伊豆山神社の本殿は、長い参道の石段を登った山の上にあるのですが、これまで、石段が何段あるのか不明だったそうです。
そこで、平成22年、きちんと石段の定義をした上で、伊豆山地区町内会・観光協会・旅館組合など関係団体により「伊豆山神社参道階段・市道伊豆山神社線階段調査」が行われました。
その結果、837段であることがわかりました。
相当な段数ですね。
このあたりからの見晴らしは、本当に素晴らしいです。
本殿向かって左奥に、新しい朱塗りの鳥居があります。
この鳥居は、平成22年4月に、キョンキョン(小泉今日子さん)によって寄進・奉納されたものです。
キョンキョンと、伊豆山神社を兼務する初島・初木神社の禰宜堀口恵子宮司が懇意であり、その縁によるもので、堀口宮司が参拝用駐車場との結界として新たな鳥居を造りたいということを知ったキョンキョンが、「私がしてあげる」と、奉納を申出たそうです。
さすがキョンキョン!
伊豆山神社に参拝した後、民生児童委員の方のご実家のみかん畑で夏みかん狩りをさせていただきました。
研修の間は天候に恵まれ、充実した2日間でした。
まるで青空を鯉たちが悠々と泳いでいるような不思議な光景・・・・
現在、富士山北麓には富士五湖がありますが、かつては山中湖周辺には宇津湖という巨大な湖がありました。
しかし、貞観地震(東日本大震災で有名になった震災です)に付随する西暦864年の富士山熔岩流出により、宇津湖は二つに分断され、山中湖と忍野湖が出来ました。
忍野湖はやがて水位が低下し、湧池・濁池・鏡池・銚子池・菖蒲池・底抜池・お釜池・出口池という8つの池が点在する忍野八海となっています。
池の底からは透明度の高い湧き水が豊富に湧き出していて、名水100選にも指定されています。
富士山熔岩流出は、西麓は一面を覆い、そこに次第に植生が復活し青木ヶ原樹海となりました。
樹海には数多くの風穴が点在し、そのうち富岳風穴と鳴沢氷穴は規模が大きいことで有名です。
内部の気温は夏でも氷点下に近く、巨大なつららが形成されています。
天然の冷蔵庫として使用されていました。
冒頭の写真は、忍野八海にある池の写真↓をさかさまにしたものです。
水深8メートルある池は、透明度が高く、底がはっきりと見えます。
家族旅行で富士五湖に出かけました。
普段は100キロ以上離れて富士山を望んでいますが、近くで眺めると本当に雄大で美しいと感じます。
さまざまな表情の富士を楽しむことが出来ました。
日本人と富士山は、切っても切れない関係にあります。
また、世界中のいろいろな国をを見渡しても、首都からその国の最高峰が見えるという国は日本以外ほとんどありません。
しかも、円錐形で独立した頂きが当たり前のように日常の光景として見えるのは、唯一日本だけと言ってよいでしょう。
場所によって、時間によってさまざまな姿を見せてくれます。
■関連ブログ記事
上永谷から望む富士山
旅行は思いがけない発見が楽しみの一つでもあります。
見かけたものあれこれシリーズ、ハワイ・オアフ島編です。
今回はスケジュールがびっしりで、街歩きの時間があまり取れませんでたが、その中でいくつかご紹介します。
まずはこちら。
寺院の中の様子は日本と異なる部分があります。
参列席の長椅子、そしてこのような経典を置く台が設置されています。
日系人も五世、六世と世代が進み、日本語を読み書きできない参列者もごく当たり前になっています。
経典もこのように英訳されたり、ローマ字の振り仮名が記載されています。
内陣とその前に置かれた説法台。
そして、必ず国旗が掲げられています。
本堂の前にパトカーが。
ここの国際布教師は、ポリスチャプレンとしても活躍されています。
ハワイの曹洞宗僧侶・寺族を中心としたメンバーによる祭り太鼓/宗明太鼓のパフォーマンス。
日本文化の象徴として、寺院とメンバーの方々、地域の方々との絆を結ぶ大きな役割を担ってきた歴史ある太鼓です。
オアフ島上空にて。
さすがレインボーアイランドですね。
見事な虹が洋上に現れました。
とあるレストランにて。
サーカスに売っちゃうよ!というフレーズは日本でもかつては耳にしました。
けれども、このように堂々と掲示されていて、それをジョークとして大らかに受け止める姿勢は、今の日本ではまず有り得ないでしょう。
最後に、ワイキキビーチからホノルルのダウンタウン方面を望んだパノラマを。
■関連ブログ記事
長崎・熊本で見かけたものあれこれ
ドイツで見かけたものあれこれ
中国で見かけたものあれこれ
フランスで見かけたものあれこれ
モンゴルで見かけたものあれこれ
スリランカで見かけたものあれこれ
東日本大震災から1周年の日をハワイ・ホノルルで迎えました。
宿泊したホテルはとても景色の良い部屋でしたので、出かける際には、バルコニーに持参したカメラを置いていきタイムラプス(Time Lapse) 撮影しました。
タイムラプスとは「微速度撮影」とも呼ばれ、長い時間をかけてゆっくり変化していく光景を短時間に圧縮したものです。
夜明けから日没宵の口まで、時間の流れをご覧ください。
東日本大震災の津波は、この映像の丁度一年前、ハワイ諸島にも到達し、3メートルを超える津波が襲いました。
オアフ島、ケエヒ・ラグーンでは25隻の船が沈み、ドックの2/3が損壊。ハワイ島・コナではリゾートホテルが破壊されるなど、深刻な被害が発生しています。
海は大きな災害を引き起こす源でもあります。
しかし、それにも増して私たちに大きな豊かさをもたらしてくれます。
(L)Sta Lourdes Shrine
(C)Suicide cliff, Mappi
(R)Hara-kiri gulch
Suicide cliff, Tinian
Coral Tree Ave, Garapan
■関連ブログ記事
La panorama photographie en France
現在、サイパンには2つの仏教系寺院があります。
そのうちの1つは日本の超宗派による寺院 サイパン国際礼拝堂 南溟堂です。
移動研修の一つとして、南溟堂への拝登が行程の中に組み込まれています。
南溟堂は、静岡県出身の国際布教師・秋田新隆老師が21年前に発願、建立のための資金の殆どを負担され、さらに戦没関係者、岐阜県仏教会、信徒会の協力を得て5年の年月を費やし、平成2年10月にガラパンの砂糖王公園(シュガーキングパーク)に一角に開創された超宗派の寺院です。曹洞宗の僧侶、秋田新隆老師ご夫妻により護られておりましたが、このたび平成23年11月19日を以って退任され、日本に帰国されることとなりました。
東京宗務所の役職員、研修旅行参加者により拝登およびサイパン島戦死病没者諸精霊、中部太平洋地区戦没者諸精霊、戦役殉難諸精霊への慰霊法要を営み、その後秋田老師よりお話をいただきました。
秋田老師よりいただいた提言の中には
・無住の状態になってしまうので、サイパンに住して南溟堂を護持する後継者を求めている。
・ガラパン地区には梅花大会や講習会を開催できる公共のホールが幾つかある。ホテルも充実しているので是非サイパンを使って欲しい。
・サイパンは、日本から一番近い英語圏の島である。日本人学校は週一回だけ使っていてそれ以外は空いているので、中高生が短期留学や修学旅行に利用するには最適。もっと若い日本人にたくさん来て欲しい。
等々、具体的で切実な願いもいただきました。
近年は日本人観光客の減少で、サイパンへの航空便も減少傾向にあり、成田からはデルタ航空の757機による運行しかありません。
その反面、中国や韓国からの観光客の増加が目立ちます。
かつて数万人もの日本人が暮らしていたサイパン、そして最大の激戦地となった場所という、日本人にとってはかけがえのない大切な場所です。
私も秋田老師と同様、多くの日本人、特に教育者や学生、僧侶、寺院関係者が訪問すべき場所であると感じます。
マリアナ諸島の主要4島のうち、「グアム」と「サイパン、テニアン、ロタ」は同じようで全く性格が異なっています。
グアムは自治権のあるアメリカ準州ですが、「サイパン、テニアン、ロタ」は米国主権下における北マリアナ自治政府による内政を行い、外交・防衛等を米国に委ねるという形式をとっています。
従って、入国に関しても「サイパン、テニアン、ロタ」に関しては中国、韓国からもビザ無しで入国が可能でした。
しかし、2009年11月28日より北マリアナ諸島連邦に米国移民法が適用され、2年間の猶予期間を以って、今年11月28日よりアジア系の移民の状況ががらりと変わる(つまり中国、韓国、フィリピン系の方々が帰国せざるを得ない)ことが予想されます。
また、アメリカと同様の入国管理が適用されるようになると、日本を除く多くのアジアの国がサイパン渡航に際しビザが必要になります。
そうなると、サイパンやテニアンの観光産業への衰退は免れません。
「恩を返すとき」 北マリアナ・ロタ島で被災者受け入れへ のように、マリアナ諸島の住民は日本人の先人から多くのことを学び、多大なる恩恵と教訓を受けたと感じ、日本に対してとても友好的な感情を持っています。
だからこそ、かつての日本の戦跡は現地の住民たちによって維持されています。
移民法が改正された今、まさに日本の旅行者増加を行う意味のある時期であるといえます。
サイパンにあるもう1つの寺院は、韓国曹渓宗系の吉祥寺です。
バンザイクリフに程近いマッピ山の麓にあります。
昨年訪れた際には住職さん不在でしたが、今回は住職さんがいらっしゃいましたので拝登させていただきました。
昨年よりも施設が充実していました。
近くにはバンザイクリフで命を落とした韓国人慰霊碑もあり、多くの韓国人の方が参拝され、また坐禅会も行われています。
サイパンの最北端、バンザイクリフの直ぐ近くに ラストコマンドポスト があります。
マッピ山の岩肌を刳り貫いて造られた日本軍最後の司令部の跡とされている史跡です。
しかし、そこは本当のラストコマンドポストではありません。
サイパン北西海岸のタナパグ(現在のサンローク)から内陸に1キロほどほど入った峡谷が日本軍最後の司令部の置かれた本当のラストコマンドポスト、通称「地獄谷」であり、南雲忠一中将自害の地でもあります。
自由行程の日に行ってみました。
ここが通称「地獄谷」の入口です。
奥に見える山の斜面の洞穴群が本当のラストコマンドポストです。
地獄谷に入るためには、民家の畑と鶏舎、豚舎があるこの場所を通らなければなりません。
バンザイ突撃が行われた1944年7月6-7日には、戦場は「死の谷」と呼ばれるほど死体が累累と積み重なっていた場所です。
鬱蒼としたジャングルを分け入って進むこと20分ほど・・・・
途中から急斜面を登ったところでようやく洞穴群にたどり着きます。
洞穴は悉くアメリカ軍の火炎放射器による攻撃のため、内部が焦げ付いています。
雨季ということもあり、むっとする湿気と暑さ、そして独特の場の雰囲気があります。
大本営本部との通信も困難となり、兵器、弾薬そして食料も消費しきってしまった中で、指揮官をも失った3000名もの日本軍兵士たちは太平洋最後の防波堤として故郷を守る思を抱きながら、無念の最期をここで迎えることとなりました。
一つひとつの洞穴に日本酒を注ぎ、読経させていただきました。
1944(昭和19)年6月16日、アメリカ軍第27歩兵師団はサイパンに上陸後、直ちにアスリート飛行場に向け進撃しました。
アメリカ軍は火炎放射器で一気に畑を焼き払っては進むという作戦によりその日の夜には飛行場に到達します。
飛行場を死守したい日本軍は戦車第9連隊を中心に約8000名が総攻撃を行ないましたがアメリカ軍の圧倒的戦力の前に全滅してしまい、翌18日にはアスリート飛行場がアメリカ軍の手に渡ってしまいました。
6月27日、日本軍第317大隊はアスリート飛行場奪回の為に600人規模の夜襲をかけましたが、アメリカ軍に包囲され全滅。
タポチョ山を拠点に置いていた日本軍はサイパン北部へ後退を余儀なくされ、6月29日から地獄谷の洞穴内に拠点をおきます。
最大の街、ガラパンでは6月28日から5日間に亘り激しい市街戦が行われ、約2万人もの民間人、日本軍部隊は日本軍は島の北端マッピ崎に追い詰められます。1万人を越える日本人が、最北端のマッピ岬の断崖から80メートル下の海に次々と身を投じました。
サイパン島の皇軍将兵に告ぐ。米軍進攻を企画してよりここに二旬余、全在島の将兵及び軍属はよく協力一致、善戰敢闘、随所に皇軍の面目を発揮し負荷の重任を完遂せんことを期せり。 然るに天の時を得て、地の利を占むる能はず、人の和を以て今日に及びたるも、今や戦ふに資材なく、攻むるに砲類悉く破壊し、戦友相次いで倒る。無念七生報復を誓ふ暴虐なる進攻依然たり。サイパンの一角を占領するといえども熾烈なる砲撃下に散華するにすぎず、今や止まるも死、進むも死、生死須らくその時を得て帝国男子の真骨頂あり。今や米軍に一撃を加へ太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く、生きて虜囚の辱めを受けず勇躍全力を尽くして従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし。茲に将兵とともに聖壽の無窮皇国の彌栄を祈念すべく敵を索めて発進す。続け。(『中部太平洋方面艦隊司令長官訓示』)
7月6日、南雲中将は陸軍最高指揮官・斎藤義次中将と連盟で「中部太平洋方面艦隊司令長官訓示」を出し、地獄谷の洞穴で自害します。
南雲中将らが自害した夜、残った日本軍兵士約3000名(歩兵第118連隊・歩兵第135連隊・歩兵第136連隊・43師団司令部・43師団野戦病院・独立山砲第3連隊・船舶工兵16連隊・海軍各種部隊などとされる)は、将校、士官無しの「バンザイ突撃」を開始。
この戦闘でアメリカ軍に死傷者658名の損害を与えたものの、日本軍はほぼ全滅。
7月9日にアメリカ軍はサイパン島の占領を宣言しました。
地獄谷の洞穴から戻ると、地元の方がそこに生えていた椰子の実を採ってご馳走してくれました。
椰子ジュースがこんなに美味しいとは。
この付近にはまだ様々な遺物が転がっています。
地獄谷の入口にある民家には地獄谷から集めた砲弾が無造作に置かれています。
この地も、不発弾が多いそうなので充分な留意が必要でしょう。
そして、この地獄谷も民有地を通った先にあり、地元の方々の温かい協力をいただいています。
サイパンにはこのような場所が残されているということ、そしてサイパン攻防の歴史を私たちは知っておく必要があります。
■関連ブログ記事
タポチョ山とアスリート飛行場
サイパン一番の繁華街、ガラパンの北東、現在のキャピトルヒルの山の尾根に「日本軍無線基地跡」がひっそりと残されています。
この場所は、メインストリートから外れた場所にあり、道路は未舗装で陥没が酷いため、車ではなかなか行けない場所です。
道路わきにバイクを止め、このような小径を抜けると日本軍無線基地跡が見えてきます。
建物は二階建てで、何棟かが渡り廊下で繋がっている構造になっていますが、長年の経過によって建物の裏側は完全に薮で覆われてしまっています。
内部は二階の床が抜け落ちてしまっていて、ガランドウの状態となってしまっています。
アメリカ軍は、1944年6月に行うサイパン侵攻のために、軍事機密情報の収集に全力を注ぎました。
その結果、各島周辺の潮流、天候、地質、軍事施設、海岸の特徴、水、燃料の状況などを詳細にまとめあげていました。
特にアスリート飛行場周辺、ガラパン市街、タナパグ港、チャランカノア地域の建物一棟一棟に至るまで詳細な地図が作成されています。
↑右図の赤で着色した「無線基地」が、冒頭の日本軍無線基地です。
ガラパン地区は「南洋の東京」と称されるほど近代的で発展した街でした。
↑1930年代のガラパン地区の街並み。
けれども、1944年6月のアメリカ軍上陸によって、ガラパン地区はもとより、全ての街が悉く破壊されてしまいました。
そのため、かつての建物が残されているということは実に貴重なことであるといえます。
アメリカ軍の爆撃を受けた形跡が無く、かつての日本人による建築物でこのような良好な保存状態の建物は、日本軍無線基地跡以外、他に見当たりません。
サイパン随一といえる隠れた史跡です。
今回の行程ではフリーの時間が一日半取ってあることで、前回の旅行では回れなかったところ、そして通常の観光ルートでは回ることができない場所へ訪れることにしました。
1920-30年代の日本統治時代には、サイパン、テニアンには広大なサトウキビ畑が広がっていました。
それぞれの集落には神社が祀られておりましたが、現在残されているものは少なく、遺されているものでもジャングルの中に放置されるなど保存状態が良好でないものが殆どです。
この集落にあった「八幡神社」は2003年にアメリカ国立史跡登録されたこともあり、保存状態が一番良いものです。
八幡神社には、玉依比売神・息長帯姫が祀られ、建立年は1924(大正13)年とされています。
当時の集落のあったであろう場所はジャングルで覆われてしまっているので、現在は神社の裏山の民家から入っていくしかありません。
保存状態が良いといっても、このような感じの状態です。
それでも、現地の方々によって草刈がされ、維持管理していただいていることに感謝です。
境内には、かつての生活用品や砲弾などの武器が集められていました。
八幡神社へは、民家の庭先を通っていく必要があります。
番犬をなだめ、鶏たちを眺めながらの道のりです。
それでも、私たちを快く迎え、案内していただきました。
帰りには、庭先にタワワに成っているグアバをご馳走になりました。
甘酸っぱくて美味しいものです。
海外神社のデータベースは、海外神社のデータベースのブログ記事でも書きましたが、神奈川大学21世紀COEプログラム「人類文化研究のための非文字資料の体系化」の中の「海外神社跡地調査」組の成果として纏められています。
今後私たちに出来ることは、住民の方々の厚意に甘んじるばかりでなく、これら日本人の築きあげてきた生活の形跡を後世にきちんと伝え保存していく方策を私たちの手で早急に講じていくことだと思います。
そうでなければ、数十年後には、すっかり記憶、記録から消し去られてしまうということにもなりかねません。
■関連リンク
海外神社のデータベース
サイパンからテニアンにはセスナで渡ることになります。
たった10分のフライトですが上空から見るべき所はたくさんあります。
↑テニアン北部に見える4本の白い筋は、アメリカ軍がサイパン占領後に整備したノースフィールド飛行場です。
北(=写真右)からA(エーブル)、B(ベイカー)、C(チャーリー)、D(デビッド)と名づけられています。
↑少し近づいた写真。一番左の筋がB(ベイカー)、その右がA(エーブル)です。一番右奥の空地が原爆搭載ピットのある場所です。
エーブルの先、右側に空地が見えますが、日本軍が作ったウシ飛行場の駐機場です。
アメリカ軍はそのまま利用していましたので、当時のまま残されています。
その端に日本海軍第一航空艦隊司令部の建物が残されています。
司令部の建物だけあって、重厚につくられています。
しかし、ジャングルに埋もれつつあり、かつ崩壊の危険があるために立ち入り禁止です。
地熱を防ぐために、床下に通気穴が取られる構造になっていることがわかります。
昭和19年8月3日にテニアン島がアメリカ軍に占領されてから、日本軍が作ってきたウシ飛行場を大幅に拡張し、圧倒的な建設力で巨大なノースフィールド飛行場を短期間で整備したのです。
(左写真)日本軍のウシ飛行場。テニアン島北方向より。周囲はサトウキビ畑が広がっている。
(右写真)アメリカ軍がウシ飛行場を拡張して作ったノースフィールド飛行場。西方向より。左からABCD滑走路(Dは建設中)。
当時はジャングルではなく、とても幅広い滑走路であったことが判る。
アメリカ軍の作った滑走路は、珊瑚礁を砕いて敷き詰める構造となっており、そのままの状態で現在も残されています。
この滑走路から、大量のB-29が日本に向けて飛び立ち、各都市に無差別空爆を行いました。
また、広島・長崎に投下された原子爆弾(リトルボーイ、ファットマン)も、この滑走路から飛び立ったのです。
このように、4本の8590ft(2590m)級の滑走路があるのですが、現在は一部草木に覆われてしまっていて年々周囲のジャングルの侵蝕により滑走路の幅が狭まってきています。
周囲は手付かずのジャングルが広がっています。
ジャングルの中には弾薬庫や燃料庫があり、破壊され焼け爛れた状態で残されています。
このあたりには不発弾も多いそうなので、コース以外のジャングルにむやみに侵入することは避けるべきでしょう。
■関連ブログ記事
横浜刑務所とテニアン北飛行場
テニアンに残される戦跡
ホワイトビーチからテニアン島に上陸したアメリカ軍は一気に南下し、島南部にあった最大の集落、テニアン村に侵攻しました。
サイパンのバンザイクリフが日本に一番近い北部にあるのに対し、テニアンのスーサイドクリフが島の南端にあるのは、アメリカ軍が北から侵攻してきたことと、島のほとんどが平坦地で、隠れることが出来る村周辺の場所は南部のカロリナス台地しか無かったからです。
住民たちは、のカロリナス台地に避難、岸壁の洞窟などに身を寄せて生活していました。
水も食料も無い局限の状況の中、アメリカ軍の掃討作戦に最後まで投降しなかった人々は、いよいよ追い詰められて切り立った断崖絶壁から飛び降りました。
その数は知れませんが、民間人と兵士併せて2000人とも言われています。
海は深い藍に、そして抜けるような青空が広がっていました。
スーサイドクリフは自殺岸壁という意味です。
ここで慰霊法要を営みました。
残念なことに、あげられていた塔婆が折られて転がっていました。
某国の人々が壊してしまうそうです。
また、日本人たちが平和の祈りを捧げている周囲をバイクで騒音を立てながら走り回ったりということが良くあるようです。
テニアン島で現在一番大きな街は、島の南部サンホセです。
大きいといっても島全体の人口は約3千人ですからちょっとした集落のような感じです。
サンホセを見渡す丘より。
左上がサンホセの港。現在は定期航路もなく、ほとんど港として使われていません。
しかし、戦前には1万人以上の日本人がサンホセ(当時の名称はテニアン村)に暮らしていました。
1944(昭和19)年、アメリカ軍により撮影された航空写真です。
日本人によるテニアンの開発は松江春次による南洋興発会社がサイパンからテニアンに進出した1926(大正15)年に本格的に始まりました。
南洋興発の製糖事業はミクロネシア全域に事業を拡大し「南国の楽園」と称される時代を築きます。
平地の多く土壌が良いテニアンはサイパンよりもサトウキビ栽培に適しており、1935(昭和10)年までの間に島の3分の1がサトウキビ畑になるほど製糖産業が栄え、島の人口は17,900人に達し、大いに賑わいました。
テニアン島は製糖業の中心地となり、島のほとんどがサトウキビ畑となったのです。
島にはサトウキビを収穫するための軽便鉄道が巡らされ、線路はテニアン村の製糖工場に運ばれ、砂糖が大量生産されていたのです。
1930(昭和5)年には一日の生産量が1200トンにも達し、さらに1934(昭和9)年にはさらに生産量1200トンの第二工場が完成しました。
このことについては、前回の旅行記に纏めてあります⇒ 製糖の島テニアン
サンホセの街のあちこちには、かつて日本人が暮らしていた時代の遺構が数多く残されています。
南洋興発の製糖工場は、現在はありませんが事務所と研究所の建物は残されています。
(写真左)テニアン警防団本部跡
(写真中)消防団跡
(写真右)専習学校敷地跡
水産組合魚市場建物跡の前には、グラマン戦闘機のエンジンとプロペラが置かれてされています。
魚市場の建物は、猛烈な砲弾を浴びて穴だらけの無残な姿のまま放置されています。
一年半前には、このプロペラはエンジンから外れた形で無造作に芝生に横たわっていたのですが誰かが並べたのでしょう。
エンジンの部品が散らばっていますので、きちんと整理して保存するようにしないと、いつ無くなってしまうか分りません。
戦後66年という時間の経過により、それらは次第に風化して、私たちの記憶から失われていきつつあります。
前回訪問した1年半前からも、状況が変わっている遺構が幾つかありました。
ほとんどの遺構は、現在の住民の方の敷地内にあります。
消防団跡は、シャッターが付けられ倉庫として使われているようですし、パラボラアンテナをつけたり物干し場にしたりされています。
刑務所跡地は雨季には薮に覆われてしまい、建物自体あるかどうかすら分らない状況です。
保存のための対策が早急に必要だと感じます。
静かに寄せる波、白い砂浜。
砂浜には椰子のみが波に洗われています。
そして、その砂を手に掬うと・・・・・
このように星の砂がたくさん見つかります。
星の砂は、海中に棲息する有孔虫の殻のうち、骨格部分のみが残されてこのように星の形になります。
砂浜が白いのは、砂がサンゴや有孔虫の殻で出来ているからです。
太陽の角度によって海の色はエメラルドグリーンから濃紺までバラエティーに富んだ様々な表情をみせてくれます。
海水の透明度も世界有数だそうです。
このビーチはテニアン島の北西のチュルビーチです。
しかし、一見平和に見える砂浜も、第二次世界大戦では悲劇の舞台となりました。
砂浜には、傷跡生々しいトーチカが残されています。
トーチカ上部の鉄骨には鉄筋のほかに線路が使われています。
昭和初期、日本統治時代にはテニアン島には沖縄や福島、山形などからの移民により開墾され椰子、砂糖、コーヒー、綿花の生産が行なわれました。
これまであまり産業の無かった島が近代化され、特に砂糖王と呼ばれる松江春次の興した南洋興発による砂糖生産は昭和初期には台湾に次いで東洋第2位の生産量を誇り、日本からの入植者は約15700名を数えました。
また、テニアン北部に南洋諸島最大のハゴイ飛行場(ウシ飛行場)があったこともあり、戦時中は日本軍の最重要基地として陸海軍合わせて約8500人もの軍人が駐屯し、第一航空艦隊に属する七六一空(龍部隊)の九六陸攻と一式陸攻40機が配置されました。
ハゴイ飛行場は1939(昭和14)年に日本人により建設された飛行場で、1450mの滑走路を誇っていました。
しかし、戦況が悪化し、アメリカ軍機動部隊により1944(昭和19)年には度々の空襲を受けるようになり、2月23日に飛行場施設は壊滅し日本軍の航空戦力は潰滅的な打撃を受けてしまいます。
日本軍は満州遼陽から陸軍第50連隊を移駐させるも空しく、7月8日にはアメリカ軍によりサイパン島が占領され、8月3日にはテニアン島が占領されてしまいました。
テニアン島へのアメリカ軍機動部隊の上陸ポイントは、日本軍のテニアン港付近に上陸するという想定に反し、テニアン島北部の通称ホワイトビーチからのものでした。
日本軍にとっては裏をかかれた格好となり、そのために上陸作戦はあっという間に終了してしまいます。
そのホワイトビーチというのが、冒頭で紹介したチュル・ビーチです。
現在は平和な海岸ではありますが、ここがテニアン島への上陸拠点となった場所なのでした。
アメリカ軍は占領後ハゴイ飛行場を拡充し8590ft(2590m)級の滑走路を4本建設しました。
ハゴイ飛行場にはB-29戦略爆撃機が大量に配備され、サイパン島・アスリート飛行場、グアム島・アンダーセン飛行場と共に日本本土空襲の拠点となったのです。
しばらくブログの更新を怠っておりました。
今週月曜日(11月14日)から金曜日(11月18日)にかけて、サイパン・テニアンに行っておりました。
昨年2月に訪問してから2度目となります。
前回の旅行記録は このページの最下部 に纏めておりますのでご参照ください。
今回は東京都宗務所主催・海外移動研修として、その中で同行させていただきました。
一昨年秋に 東京都婦人会研修会 の人権学習講師として、私がお話させていただいたことが契機となり、「是非、現地学習をしたい」ということによって行われました。
東京宗務所の前役職員の皆様、青少年布教委員の皆様とともに行程の企画を練って実現されたものです。
参加者は、東京宗務所の皆様、東京管内寺院僧侶、寺族23名でした。
団体旅行ではありますが、フリーの日も一日半あり、かなり自由度の高い行程でありましたので、個人的には(1)前回行くことが出来なかった場所へ行くこと、(2)同じ場所が一年半の時間でどれだけ変化しているかを実感すること、を主な目的として参加しました。
初日にサイパン国際空港でセスナに乗換え、まずはテニアン入りしました。
雨季ということもあり時折局所的にスコールが見られます。
サイパン国際空港離陸直後、海面から出る見事な虹が私たちを迎えてくれました。
虹の辺りにはスコールが降っているのです。
様々な発見がありましたので、順次このブログで報告していきたいと考えております。
■参考:前回(2010年2月のサイパン・テニアン旅行記)
太平洋を南下中
アクセルとブレーキ
ハートブッダ
コバルト・ブルー
南極老人星
三代目の飛行場
教会の中の鳥居
サイパン国際礼拝堂南溟堂拝登
タポチョ山とアスリート飛行場
バンザイクリフ
製糖の島テニアン
テニアンに残される戦跡
移ろいゆくもの変らないもの
クリスマスローズ
迷走する普天間移設問題
旅行は思いがけない発見が楽しみの一つでもあります。
見かけたものあれこれシリーズ。
まずは、晧臺寺参道になっている眼鏡橋。
護岸の石組みにはハートの石が埋められています。
(埋められている場所はここでは記載しません。長崎にお出かけの際には是非見つけてみてください)
このほか、グラバー邸など、長崎の観光地の各所に埋められていたりします。
長崎と言えばちゃんぽん。
ちゃんぽん発祥の地、四海樓で戴きました。
ダイヤモンドプリンセス号。
あまりの大きさに圧倒されます。
2002年、三菱重工業長崎造船所内にて建造中に火災を起こしたダイヤモンドプリンセスはこの船ではなく、火災時同時に建造していた2番船(サファイアプリンセス)が急遽ダイヤモンドプリンセスとして改修されたものです。
火災を起こした方の船は、後年サファイアプリンセスとしてデビューしました。
島原の棚田は石組みで段が組まれています。
背後は平成新山。
時々大きな被害の源となる山々ですが、普段は豊かな恵みをもたらしてくれます。
雲仙地獄に掲げられた標語。
「温泉の 温泉タマゴは メチャうまい」
ある意味、とてもインパクトがあります。
ちなみに、初めの句を「おんせんの」と読んでしまっては、ただの幼稚な標語としか読めません。
そこにはこの地の語源に関する深い意味が隠されています。
島原と熊本を結ぶフェリーに、カモメたちがついてきてスナック菓子をねだってきます。
右写真は自分撮りに挑戦。
そのフェリーでは、私たちのバスの前に牛さんたちが並んでいました。
熊本城では、タイムスリップした戦国武将、侍、忍者たちが出迎えてくれました。
長崎も熊本も路面電車が大活躍しています。
帰りの飛行機、ソラシドエアーのボーイング737機は納入されたばかりで、運行から僅か6回目のフライトだそうです。
全てがピカピカ。
島原よりフェリーにて熊本に渡りました。
熊本では、まず大慈寺様に拝登させていただきました。
大慈寺は、大本山永平寺の四門首(代表的な末寺4か寺=宇治の興聖寺、大野の宝慶寺、加賀の大乗寺、そして肥後の大慈寺)の4大末寺の一つであり、弘安元(1278)年、寒巖義尹禅師によって開創された名刹です。
寒巖義尹禅師は、道元禅師の高弟であり、宋に二度渡り研鑽を積まれ、帰国後、安国山聖福寺に住した後、肥後の地に如来寺、大慈寺を開創され、九州地方における曹洞宗の基盤を築かれました。
また、順徳天皇の第三皇子でもあったために、明治時代初期の廃仏毀釈の影響はさほど受けず、境内には神仏混合のまま現在まで受継がれています。
但し、伽藍は正平、永正年間、その後天文9(1540)年の戦乱、明和年間と度重なる火災に見舞われました。
一時荒廃しまった時代もあったそうですが、大正時代には澤木興道老師が講師として入られ、また昭和60年にはかつての伽藍様式にて再建されています。
仏殿に鎮座されます釈迦牟尼佛。
見上げると天井絵が見事です。
十大弟子の残り8人は現住職により建立され、佛殿正面(一枚目の写真)に祀られています。
法堂。本尊様は釈迦三尊佛です。
稲荷堂にて。
なお、愛知県の豊川稲荷妙厳寺は、大慈寺の流れを汲む寺院です。
戦時中供出から免れた梵鐘1287年のもので、重要文化財に指定されています。
今回の宗務所主催檀信徒研修旅行は雲仙温泉に宿泊する行程としました。
雲仙一帯は国立公園第1号であることから分るとおり、火山群によるダイナミックな地形と、豊かな温泉地、はっきりとした四季の変化が楽しめる日本有数の観光地です。
歴史あるゴルフ場もありますし、由緒あるホテルには、国内外から数多くの著名人も訪れています。
雲仙温泉街は、点在する「地獄」の間近の位置にあります。
旅館の中にまで硫黄の匂いが漂い、窓からはダイナミックな水蒸気を望むことができます。
掛け流しの温泉は濃厚な乳白色の「硫酸塩温泉」でした。
旅館の庭の池・・・・ではなく、これも温泉源。
窓の外は「雲仙地獄」の入口です。
しかし、このような豊かな温泉も、20年前の雲仙普賢岳大噴火では大打撃を受けました。
それは、火山による直接的な被害ではなく、「風評被害」によるものでした。
雲仙普賢岳の大噴火による火砕流、土石流は火山の東側の島原地区には災害をもたらしましたが、西側に位置する雲仙温泉にはほとんど噴火の影響や被害はありませんでした。
しかし、「風評」は無情です。
あたかも雲仙地方全体が壊滅的被害を受けて、近づくことのできない危険な場所であるという印象が日本全体に植えつけられてしまったのです。
雲仙を訪れた観光客は、噴火の直前の1990年には約550万人、うち宿泊者は138万人とされていましたが、噴火が始まるとともにパッタリと落ち込み、徐々に回復基調にあるものの、2008年は観光客が388万人、宿泊者は67万人に留まっています。
雲仙温泉はとても良い温泉でした。
そして、宿泊した宮崎旅館の「もてなし」のこころも満喫しました。
風評被害の解消までには20年の月日を経てもまだ不十分なのかもしれませんが、「正しいものの見方」が広まっていくことを切に願っています。
猛烈な熱風で変色してしまったコンクリート、捻じ曲がった窓枠・・・・
小学校のこのような姿を見るのはなんとも言えない気持ちになります。
校舎の背後に聳える山は、雲仙普賢岳の平成新山です。
1989年(平成元年)11月に火山活動が始まり、一旦は小康状態になったものの、翌1991年(平成3年)2月12日に再噴火、噴火の勢いは増して行き、5月15日からは土石流が発生し始めました。
さらに火口周辺に溶岩ドームが形成され始め、それが自重で崩壊。ついに斜面に崩落する形で、その破片が高熱の火山ガスとともに時速100km以上のスピードで火砕流となって斜面を駆け下り、大きな被害がもたらされました。
島原から熊本に渡るフェリーから見る雲仙普賢岳の平成新山。
20年経った今でも山頂から港にかけて茶色い火砕流と土石流が通った跡が明確に残されています。
まだ記憶に新しい20年前の雲仙普賢岳の噴火は、火砕流と、その後の豪雨による土石流により、西側の水無川および島原市の千本木地区に大きな被害をもたらしました。
火砕流により報道関係者16名、火山学者ら4名、消防団員12名、タクシー運転手4名、警察官2名、役所の職員2名、住民4名、死者行方不明者43名と9名の負傷者という大惨事となってしまいました。
避難勧告区域における報道のあり方にも一石を投じた災害でありました。
冒頭の写真は、かつての大野木場小学校です。
校舎は、火砕流の直撃は免れましたが、高温の熱風と高温ガスが校舎背後から襲いかかり、一瞬のうちにこのような姿になってしまいました。
ガラスが溶けてしまっていますので、800度以上の高温ガスであったことが推測されます。
校舎は20年経った今でも、そのままの姿で保存されています。
そして、敷地内には砂防みらい館が建てられ、災害の記録が展示されています。
長崎県の島原半島中央部にある雲仙岳は、普賢岳・国見岳・妙見岳三峰・野岳・九千部岳・矢岳・高岩山・絹笠山などから構成されていますが、これまでも度重なる災害が繰り返されてきました。
特に、「島原大変肥後迷惑」の語源となった1792年5月21日(寛政4年旧暦4月1日)の大爆発に伴う津波災害(津波の高さは実に10m以上!と云われる)は、肥前・肥後で死者、行方不明者1万5000人という甚大な被害となっています。
「何度災厄に見舞われても、その度に島原半島は立ち上がり、復興してきました。蓄積したものを生かし、糧にすることで私たちは前よりも強くなるんです」
地元の方の前向きな力強いことばが印象的でした。
20年前の雲仙普賢岳の噴火にでは、警戒区域が設定され、11,000人もの方々が避難生活を強いられました。
現在でも山体崩壊の恐れがあるため、警戒区域に指定された区域が継続して残されています。
昭和20年8月9日、アメリカ軍が長崎市へ投下した原子爆弾は、午前11時02分長崎市上空で炸裂しました。
広島に続き、実戦で使われた2発目の核兵器でありました。
長崎の当時の人口は約24万人。
そのうちの、実に14万9千人が死没。建物の約36%が全焼または全半壊という、まさに壊滅的な状況でした。
(原爆投下直後の長崎市。左奥に見える建物が浦上天主堂です)
今後20年は人も住めないし植物も生えないだろうと言われていた市街も、今は原爆が投下されたことすら想起させないほどに復興しています。
けれども、原爆投下という事実は決して風化させてはいけません。
長崎平和公園にある原爆無縁殉難者供養塔で慰霊法要を営ませていただきました。
平和公園は、元長崎刑務所のあった場所でした。
刑務所は爆心地にもっとも近い公共の建物であったこともあり、刑務所職員18名、官舎住居者35名、受刑者・刑事被告人81名、合計134名全員が即死してしまいました。
原爆の威力を物語っています。
爆風を受けて大きな被害を受けた建物は、現在ではその礎石のみが残されています。
爆心地(グラウンドゼロ)は、この公園の直ぐ隣です。
九州には幾つかの曹洞宗専門道場(修行道場)があります。
晧臺寺はそのうちの一つ。
長崎で有名な観光名所、眼鏡橋を渡った直ぐ先に位置します。
眼鏡橋は、参道の一部である訳です。
晧臺寺は、山号を海雲山と称し、山号額には勅賜が付けられています。
慶長13年(1608)、 備前国松浦郡山口村(現在の佐世保市相浦町)飯盛山洪徳寺第七世・亀翁良鶴大和尚により創建されました。
当時の長崎は、キリシタン信者が大多数を占め、その中で廃れつつあった仏法を復興する基点となるべき寺院ともいえます。
慶長18年(1613)、キリシタン禁教例の発令により、キリシタンにとっては受難の時期を迎えます。
第二世玉林寺住持一庭融頓大和尚により、鈴木正三と共に キリシタン転宗教化を進め、晧臺寺の末寺(光雲寺・永昌寺・高林寺)を開創しました。
現在の伽藍の礎は、第三世月舟宗林大和尚により整備建立されてました。
本堂弥壇上はお釈迦様・文殊様・普賢様の三尊像が祀られています。
実に穏やかな表情をされています。
佛殿には、高さ3.4メートルの昆慮舎那仏坐像が鎮座されれています。
享保8年(1723)、第十一世古岳日峻大和尚代に完成したものです。
眉間に仏舎利が納められています。
佛殿の正面には、「常寂光」の大額。
実に見事な伽藍です。
晧臺寺は曹洞宗の認可道場として明治29年(1896)に認可されました。
なお、現住職の大田大穣老師は、大本山永平寺監院の要職に就かれています。
■関連リンク
ドイツ声明ツアー初回公演地となった ヴィッテンベルク(Wittenberg)は、正式には ルターシュタット ヴィッテンベルク(Lutherstadt Wittenberg)といいます。
その名の通り、近世ヨーロッパ史上の重大事件の一つ「宗教改革」の立役者であるマルティン・ルターゆかりの歴史ある街であり、ルターが生まれた アイスレーベンと合せてユネスコ世界遺産に登録されています。
1517年、ヴィッテンベルク大学教授のマルティン・ルターが城聖堂 (The Castle Church)の扉に『95ヶ条の論題』を提示したことが宗教改革の口火を切ることになりました。
現存する建物は19世紀に再建されたものです。
町役場前の広場にはルター像が設置されています。
街の中心を貫くルター通りを中心に、小ぢんまりとまとまった街ですので、徒歩で主要な場所を回ることができます。
ルター・ホール (Luther Hall)は、生前ルターが住んでいた家です。
現在は宗教改革に関する展示物が豊富な博物館となっています。
ドイツの観光スポットとしてあまりにも有名なロマンチック街道 (Romantische Straße)。
ロマンチックとは、抒情的 ・ 可愛い ・ 情緒的 ・ 甘美 ・ うっとり ・ 情緒 ・ 美しい ・ 典雅 ・ 甘い・・・などと同義の意味がありますが、ロマンチック街道の「ロマンチック」はこれとは異なり、「ローマへの巡礼の道」という意味です。
2000年前には、ローマ帝国は、ヨーロッパ全土と北アフリカ、中東の半分をその領域としていました。
「全ての道はローマに通ず」のとおり、ローマを中心として石畳の道路が軍用道路として建設されました。
そのローマ帝国時代に建設された道路が「ローマへの巡礼の道」であり、そのうちのヴュルツブルクからフュッセンまでの366kmの街道ルートが「ロマンチック街道」です。
なお、それまで歴史上の名称に過ぎなかったローマ時代の街道に「ロマンチック街道」と命名したのは日本人のドイツ観光局長であり、高度経済成長期に若い女性向け旅行情報雑誌などで紹介され有名になりました。
今回のドイツツアーで、ヴィッテンブルクからシュトゥットガルトに向かう途中、ロマンチック街道の集落に立ち寄りました。
立ち寄った街は、アウトバーン6号線沿いにあるフォイヒトヴァンゲン (Feuchtwangen)。
9世紀に設立された修道院を中心に発展した街で、かつてはフランケン地方の中心都市の一つだったそうですが、主要な観光ルートから外れていることもあり、落ち着いたたたずまいを残しています。
ツアー一行とたくさんの仏具たちを安全に運んでくれた大型バスの会社は、この街に本社があります。
運転手さん、そのご家族もこの街の住民です。
新しい発見との出会いは、街歩きを楽しくさせてくれます。
私たちの常識は必ずしも常識とはいえないということもわかります。
ということで、恒例の"見かけたもの"シリーズ、ドイツ編です。
なでしこジャパン、決勝リーグでドイツと対戦し見事勝利!4強入りおめでとう!
ドイツといえばアウトバーン。
日本の高速道路との大きな違いは、ガードレールや側壁がほとんど無いこと、それに照明もありません。
制限速度は130km/h、それ以上出した場合は保険の適用外。自己責任となります。
サービスエリアのトイレはデポジット制で0.7EUR。サービスエリアの売店で利用できる金券をもらえます。
歩道や交差点には自転車専用を示す赤く塗られた領域があります。
自転車乗りに優しい、というより自転車優先の考えなのですね。
鉄道、地下鉄の駅には改札口がありませんから、自転車もそのまま街→ホーム→電車へ。
改札口が無い代わりに、ホームに設置されている「改札機」にチケットを通します。
ケルンには中世・ロマネスク時代の史跡が数多く残されています。
(1)遺跡発掘現場(2)水道管(3)St.Andreas教会(4)現代的な建築も中世の壁面を巧く利用している
eau de Cologne(オー・ド・コローニュ)= Koelnisch Wasser(ケルンの水)。4711本店ではオリジナルシールで包んでくれます。
日本人デザイナーによるトイレ。ガラスが透けていますが、使用中は曇りガラスになります。
シュトゥッツガルトのゆるキャラ「中世くん」(本当の名前は不明)
ツアー一行とたくさんの仏具たちを安全に運んでくれた大型バス。
そして運転手さん、そのご家族。
太陽光や風力発電設備は、やはり目立ちます。
レンガの積み方は、やはりドイツ積み?
(左)ライン川対岸から見る大聖堂。
(右)ケルン中央駅は大聖堂の直ぐ近くです。
南塔の上部に登ることができます。
螺旋階段を登った先には
目の前には北塔の壁面が見えます。
見上げると塔の先端が・・・・
眼下には絶景が広がっています。
楽譜で描いた大聖堂。
見事です!
太陽の位置によって、大聖堂はさまざまな色に変化します。
(左)夕方(といっても、夏のドイツの日の入りはかなり遅いです)、黄金に輝く大聖堂
(右)深夜ライトアップされる大聖堂
現在の大聖堂は3代目。
初代大聖堂は4世紀に完成、2代目は818年に完成しました。
しかし、1248年に火災により消失。
直ぐに3代目の建設が始まったものの、16世紀の宗教改革などの影響で1842年まで建設が途絶えてしまいます。
現在の大聖堂が完成したのは建設開始から600年以上が経過した1880年であり、当時は世界一の高さを誇る壮大な建物でありました。
そのコンセプトは”天”。
天国へ一歩でも近づこうとしてひたすら高さを求めた建物です。
ケルン大聖堂は第二次世界大戦による空襲で内部が激しく破壊されたものの建物自体は辛うじて残りました。
(終戦直後のケルン:Wikipediaより引用)
戦後に復旧工事が行われ、大聖堂は現在の姿に復元されています。
ステンドグラスの一部はゲルハルト・リヒターにより近代的なモザイク模様のものとなっています。
右の写真は、大聖堂内部を撮影しパノラマ合成したものです。
■東日本大震災発生から二週間後、2011年3月25日には、ケルン大聖堂で「東日本大震災犠牲者追悼ミサ」が行われました。
その様子をビデオで見ることが出来ます。
Informationen zum Medium
Mit einem zentralen Gottesdienst im Kölner Dom hat die katholische Kirche in Deutschland am Freitagabend der Katastrophenopfer in Japan gedacht. An der Feier nahmen neben dem japanischen Generalkonsul in Düsseldorf, Kiyoshi Koinuma, auch der Trierer Bischof Stephan Ackermann sowie der Kölner Oberbürgermeister Jürgen Roters (SPD) teil. Es zelebrierte Weihbischof Heiner Koch.
Echte Fründe ston zesamme!
これは、本当の友達という意味です。
東日本大震災からの復興を願い、ケルン独日協会(Deutsch-Japanische Gesellschaft e.V. Köln)で作られたTシャツです。
龍吟会のメンバー全員に配られました。
今年は日独交流150周年の年となり、2010年10月から2011年10月にかけてさまざまな交流事業が行われています。
2011ドイツ声明公演は、ドイツ各地の独日協会の皆様の招聘と多大なるご協力によって開催されました。
日本とドイツの関係は、江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約(1858年)として交わされた不平等条約の是正を求めて、総勢38名の「文久遣欧使節」をベルリンへ公式に派遣したことから始まります。
正使として、竹内保徳(下野守)、副使は松平康英(石見守)、目付は京極高郎(能登守)、そのほか柴田貞太郎(組頭)、福地源一郎、福沢諭吉、松木弘安(寺島宗則)らが正式にベルリン入りしています。
特に、ドイツ入りの前泊地となったケルンでは、オランダからの特別列車を用意され、食堂で昼食の饗応を受けたあと、ケルンに一泊、ケルン大聖堂では大歓迎を受けた記録が残されています。
「ワインとアルトビールでリラックスし、両刀を腰に差した丁髷姿の日本人数名が群集の前にようやく姿を現わした。使節団に7名随行していた通詞(通訳)の中に福沢諭吉も混じっていたが、日本人を初めて見る地元の新聞記者が群衆の前に進み出て対話した・・・」(当時の新聞記事)
以来、現在に至るまで日本とドイツは友好的な関係を継続しています。
冒頭のTシャツの話に戻ります。
日の丸と折鶴、そしてハートのデザインは、ケルンで日本文化を学ぶ学生によってデザインされました。
そして、背中には Stand up Japan!の文字が。
ドイツも日本と同様、戦争により壊滅的な被害を受けました。
その中から復興し、現在の経済大国としてに日本とドイツがあります。
東日本大震災でも、きっと負けない。一日も早く元気なニッポンに戻って欲しいというドイツからの願いが込められています。
ケルンでの公演の会場となったKöln St. Cäcilien . Museum Schnütgenは、貴重な展示品が並ぶ博物館です。
そのため、入館には厳重なチェックがあります。
しかし、このTシャツで統一した私たち、そして独日協会の方々はチェック無しで入ることができました。
Tシャツの効果は絶大です。
東日本大震災からの一日も早い復興を願い、そして全ての災害で犠牲となられた方々を悼み、皆の心を一つにしてドイツでの声明公演を行ってきました。
折角ベルリンを訪れたのですから、ベルリンの壁は見ておかなければなりません。
ということで、EAST SIDE GARELLYを歩いてきました。
禅僧、ベルリンの壁を行く・・・・
ベルリンの壁は、現在シュプレー川沿いの約1.3kmが保存されている他は、ほとんどの壁が取り壊されてしまっています。
こんなにも薄い壁が都市を分断していたのですね。
壁の基礎はL字型の下のコンクリートとなっていますが、東側の方がずっと幅が広がっています。
穴を掘って地下から逃亡できないように対策されているのです。
日本地区への迂回路という作品には、民度の低い国の旅行者から落書きがされていました。
残念なことです。
↑こちらはポツダム広場前のベルリンの壁。
壁のあった場所にはレンガによって位置が示されています。
第二次世界大戦後、ドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソビエト連邦の4ヶ国による占領を受けることになりました。
このポツダム広場は、一面の瓦礫から復興し、新しい街並みとして蘇っています。
ソ連で発生したペレストロイカによって民主化を求める声は強さを増し、1989年11月9日、ついに東西冷戦の象徴となっていたベルリンの壁は崩壊しました。
このニュース映像で有名になったブランデンブルク門は、今や多くの人びとが自由に行き交う観光地となっています。
冷戦時代には、このような光景は想像がつかなかったことでしょう。
ブランデンブルク門の直ぐ南には、ホロコースト記念碑(Denkmal für die ermordeten Juden Europas)広場があります。
悲しい人類の過ちの一つです。
今回のドイツ声明公演に際しましては、宗務庁国際課様、ヨーロッパ総監部様、ドイツ国内の禅道場様には多大なる協力を戴きました。
この日はヨーロッパ総監部様のご案内により、法要仏具の拝借を快くお受けいただいたベルリンの道場に拝登させていただきました。
ベルリン道場 禅光寺(Zen‐Vereinigung Deutschland e.V. Zenkoji)は、ベルリン南部の幹線道路沿いの建物の中にあります。
元々は工場の倉庫だったところを道場として改装しています。
重厚な扉が印象的です。
拝登後、Tenryu Tenbreul老師はじめ、メンバーの方々からの手厚いおもてなしを受けました。
行持は綿密に行われています。平成23年度文化庁国際芸術交流支援事業 2011年声明ドイツ公演
(3)Romanische Sommer Köln 2011(主催 Westdeutscher Rundfunk、Kulturradio WDR 3)
ロマネスクの夏2011音楽祭 ケルン市内に点在するロマネスク時代の教会を会場として開催される伝統をもつ音楽祭です。
開催期間のうち、禅-空華龍吟会はKöln Schnuetgenで行われるコンサートに招聘されました。
Romanische Sommer Köln
06.Juli 2011 Um 22Uhr -Köln St. Cäcilien . Museum Schnütgen
Priesterensemble „Zen Kûge Ryûginkai" der zen-buddhistischen Sôtô-Schule (Japan) . Matsumoto Jôtai, Leitung
Mit Unterstützung der Toyota Deutschland GmbH und der Deutsch-Japanischen Gesellschaft e.V. Köln
最終第3回目の公演はケルンで23年間に亘り開催されている伝統的で評価の高い音楽祭に参加する機会を得ました。
ロマネスク時代の教会が、現在は博物館(Köln St. Cäcilien . Museum Schnütgen)となっています。
貴重な美術品が並ぶ会場ですから、警備は厳重です。
博物館の協力もあって、このような音楽祭が永年継続的に開催されています。
舞台の上にも美術品が陳列されているので、進退等には充分に配慮する必要があります。
事前の打合せが念入りに行われました。
開場の時間が近づくと、予定客席を大きく越える方々のご来場をいただきました。
博物館の陳列品を火災から守るために、消防法で厳密に定員が決められています。
それでも立ち見を増やしていただいたにも関らず、数十人の方々が会場に入ることができなかったということです。
夜遅い時間にも関らず多くの列席を戴いたことは本当に嬉しいことです。総領事のご来場も戴きました。
会場は音の反響時間が他のホールに比べて格段に長くなっています。
それゆえ、声明の響きが体中に沁み亘ります。
最終公演も無事終了。
充実した公演ツアーは大円成しました。
日本から海外に紹介するべき文化として、伝統的な分野を決して疎かにしてはならないのです。
平成23年度文化庁国際芸術交流支援事業 2011年声明ドイツ公演
(2)バーデンヴェルテンベルク州音楽祭(主催 Stadt Koeln/Kulturamt )
バーデンヴェルテンベルク州音楽祭の開催される シュトゥットガルトは、伝統のあるバレー、オペラ、交響楽団が拠点を構える音楽の都です。バーデンヴェルテンベルク州独日協会主催音楽祭が開催され、禅-空華龍吟会はStuttgart LiederhalleにあるMozart-Saalでの公演に招聘されました。
Ritualgesang der zen-buddhistischen Soto-Schule
02.Juli 2011 um 20 Uhr - Mozartsaal des Kultur- und Kongress-Zentrums Liederhalle zu Stuttgart
Shomyo 声明 Ritualgesang der zen-buddhistischen Soto-Schule 曹洞宗
Priesterchor „Zen-Kuge Ryuginkai“ 禅-空華龍吟会
Im japanischen Buddhismus wird die rituelle Praxis von Shomyo, dem unbegleiteten Solo- und Chorgesang der Priestergemeinde bestimmt. Shomyo bedeutet den Schriftzeichen nach soviel wie „Klarheit der Stimme“ oder „Erleuchtete Stimme“, was auf die religiöse Funktion dieser Vokalmusik hindeutet: sie soll das Streben hin zum buddhistischen Heilsziel der „Erleuchtung“ befördern. Neben der einfachen Rezitation umfasst Shomyo vor allem meditative oder hymnische Gesänge. Wie der Gregorianische Choral für die europäische Musik, so bildet Shomyo eine wichtige Grundlage für die traditionelle japanische Musikkultur.
Wie allen Zeremonien liegt auch „Tanbutsu’e“ ein festes liturgisches Konzept zugrunde:
第1回目の公演を終えて、ドイツを南に550キロ。次の公演地であるシュトゥットガルトに到着しました。
さすがに大きな工業都市であることを感じます。
街の中心に程近いリンデルハーレ(Liederhalle)のモーツアルトホールが今回の会場です。
歴史あるこのホールで公演を行うことはとても名誉なことです。
荷物を搬入口から運び入れると、せり出しエレベーターから舞台上に直接届きます。
近代的な設備です。
モーツアルトホールは横に長い舞台、それを取り囲む非対称五角形の設計となっているために、両班の配置が横一線に近いハの字型としました。
差定は前回のヴィッテンブルクと同じ内容ですが、ホールの形状に併せて臨機応変に調整しています。
柔軟に対応できるということは素晴らしいですね。
禅-空華龍吟会のドイツ声明ツアーは、ドイツ北部の街ヴィッテンブルクからスタートしました。
(1)Himmel auf Erden 国際宗教音楽祭(主催 WittenbergKultur e.V.)
Himmel auf Erden 国際宗教音楽祭は、宗教改革の都市ヴィッテンベルク市で開催される国際宗教音楽祭であり、バーゼル室内管弦楽団、アンハルト劇場のミュージシャン、ベルリンラウテンカンパニーなどのアンサンブルの他、アジア、アフリカ、オーストラリア、アメリカ、ヨーロッパ各地からの参加があります。禅・空華龍吟会は、日本の伝統的法式・音楽である声明を紹介するために招聘されました。
Himmel auf Erden: Shômyô-Gesänge
30. Juni 2011 - 17:00 Uhr - Phönix Theaterwelt
mit dem Priesterensemble „Zen-Kuge Ryûginkai“ der japanischen Sôtô-Schule (Zen-Buddhismus)
Unter Shômyô versteht man den vornehmlich unbegleiteten Gesang eines Mönchs- oder Priesterchors im japanischen Buddhismus, der sich in Japan zu einer ganz eigenständigen Tradition von Vokalmusik ausgesprochen meditativen Charakters entwickelt hat. Shômyô bildet eine der Grundlagen der gesamten traditionellen Musikkultur Japans.
ヴィッテンベルクのは小ぢんまりとした街です。
公演会場「フェニックスシアター」は、街の真ん中を貫く「ルター通り」から少し住宅街に入ったところにあります。
なかなかポップな外見ですが、設備の整った立派な会場です。
主催者の事務所でポスターやパンフレットが作られています。
前日打合せで、プロジェクターに投影するスライドの製作を行いました。
大きなスクリーンに投影するために画質には妥協がありません。
通しリハーサルで、仏具を並べてみます。
なかなか良い感じの会場です。
舞台上には巨大なスクリーンがセットされ、ここに写真スライドやドイツ語の字幕解説が投影されます。
逆から観ると人の動きが美しいシルエットとなっています。
差定
■禅道場の紹介スライド
■暁天坐禅
■歎仏会法式(Musikalische Zeremonie zum Lobpreis Buddhas)
入堂 (Einzug von Priestergemeinde und Leitendem Zelebranten)
普同三拝 (Drei Verbeugungen)
般若心経 (Rezitation des Herz-Sutras)
散華の偈 (Gesang zu fallenden Lotosblüten)
讃仏の偈 (Lobgesang auf Buddha)
帰依文 (Reverenz gegenüber Buddha)
歎仏の偈 (Zweiter Lobgesang auf Buddha)
仏名 (Anrufung der Namen Buddhas)
懺悔の文 (Gesang der Reuebekenntnisse)
七仏宝傲Shichi-butsu hogo (Bekenntnis zu den Sieben Buddhas)
普回向 (Allgemeiner Segen, Übertragung der Verdienste)
三帰依 (Dreimalige Reverenz gegenüber Buddha)
退堂 (Auszug von Leitendem Zelebranten)
■東日本大震災鎮魂慰霊法要 (Ritual zu Befriedung der Seelen der Erdbebenopfer in Nordjapan, 11.03.2011)
古式懺法鉢 (Klangschalen)
入堂 (Einzug des Leitenden Zelebranten)
大夜念誦 (Anrufung Buddhas)
十仏名 (Anrufung der zehn Namen Buddhas)
舎利礼文 (Reverenz gegenüber einer Reliquie Buddhas)
地蔵歎偈 (Gesang zum Lobpreis des Bodhisattva Kshitigarbha)
回向 (Totengebet zum Gedenken an die Opfer des Großen Erdbebens)
退堂 (Auszug des Leitenden Zelebranten und der Priestergemeinde)
古式懺法鉢 (Klangschalen)
ステージライトを浴びると荘厳な雰囲気になりますね。
音の広がりも良い感じです。
導師退堂、最後の音がす~っと消えていくと、会場は大きな拍手に包まれました。
スタンディングオベーションもいただき反響の大きさを実感しました。
ロビーではたくさんの質問が寄せられます。
仏具の梱包が手際よく進められ次の公演に備えます。
大きなダンボールに十数個の荷物と各自のスーツケース。
荷物だけで相当な量となります。
ドイツでは予定通り順調に日程をこなしています。
機内の新聞にて。
ドイツでは3月、4月、5月と連日一面トップのかなりの紙面を割いて連日福島第一原子力発電所関連の報道がなされていたそうです。
この福島県民の内部被爆検査の記事も、日本での報道よりもよほど具体的で詳細です。
福島第一原発事故直後には在日ドイツ国民全員にドイツ政府より放射能汚染状況が知らされました。
原発に近い場所に住んでいる日本人は、なぜのんびりと過ごしてるのだろう、放射能測定器も3月下旬の段階で無料で大量に送ることができたのに、何故日本からのオファーが無いのかと強く疑問を感じていたそうです。
一回目の公演(ヴィッテンベルク)は無事終了しました。
この街はプロテスタントのメッカと言っても良い古い町です。
観客の皆様、そして主催者からは「普段、儀礼になじみが無く、また宗教音楽の公演でバックグラウンドに宗教性がきちんと配されているものは初めてなのでとても新鮮であった」という感想をいただきました。
詳細は帰国後追記します。
---------------------------------
翌日550キロを移動し、今晩二回目の公演が Stttgart で行われます。
これからリハーサル。
余談ですが、なでしこジャパンの試合がここから10キロほど離れたスタジアムでありました。
快勝おめでとう!
新しい発見との出会いは、街歩きを楽しくさせてくれます。
私たちの常識は必ずしも常識とはいえないということもわかります。
ということで、恒例の"見かけたもの"シリーズ、スリランカ編です。
コロンボ市内の通勤ラッシュはとにかくダイナミックです。
各方面からのバスが猛スピードで次々と到着しバス停で通勤客を吐き出し、別の乗客を乗せて発車していきます。
見ていて飽きません。
列車もバスも一々ドアを閉めません。
鉄橋の上でも全く動じることなく平然としています。
ダイヤ表示の変更も臨機応変です。
交差点に信号があることは珍しいのですが、これは歩行者用信号です。
あと何秒青なのかが表示されています。
(日本では青になるまでに何秒かという表示が多いですね)
小学校の授業が終わり、保護者によるお迎えの光景。
教習は公道を使って行なわれるそうです。
日本のように自動車学校敷地内で練習することはありません。
Lマークが教習車を示します。
佛旗も張られていますね。
バスの運転台にも仏様。
リクシャのフロントガラスには様々な宗教が同居していました。
日本の中古車は大活躍で、日本の会社のロゴをそのまま消さずに使っているものをたくさん見かけました。
ただ、上写真はちょっと変わっていて、日本の文字を適当に並べています。
恐らく後から書き足したのでしょう。
日本製であることをアピールしているのか、ファッションなのか、面白いですね。
寺院で見かけた立派なプレス印刷機。
圧倒的な存在感です。
強風で壁が倒れてしまったのでしょうか。
しばらく放置していても誰も気にすることないようです。
ホテルの部屋の窓にサルが来るので餌を与えないでくださいと表示してありました。
案の定たくさんのサルがやってきました。
成田からコロンボに行く途中でマレ(モルジブ)を経由、たくさんの新婚カップルが降りていきました。
2時間ほど畿内清掃につき合わされます。
スリランカではあらゆる場所で仏像や仏旗を見かけました。
ホテルのロビーにも、公立学校の壁や校庭にも、病院にも。
スリランカは教育費は完全無償となっています。その殆どは国立学校であり、必ず校庭に仏様が祀られており、生徒たちはお参りしてから授業を受けます。
テレビやラジオ番組も、放送開始は読経、僧侶による法話から始まります。
大きな交差点には仏像が祀られています。
日本でいうところの道祖神のような感じで、ごく当たり前に日常の光景の中に溶け込んでいます。
夜にはこれらは七色のライトで照らし出され輝きます。
観光バスが通ると街の人たちは足を止め、手を振ってくれます。
特に僧侶であることがわかると合掌してくれます。
店番の女の子が歩道に出てきて合掌し、深々と頭を下げる光景には本当に感動しました。
朝食前に散歩がてら街の寺院を幾つか巡ってきましたが、どの寺院もお参りされる方の姿であふれています。
供養の灯明は絶える事がありません。
バスで移動中、葬列に出会いました。
スリランカでの葬儀は、葬儀当日は午前中に自宅に僧侶をお招きして読経をしていただき、昼を挟んで午後になってから村人たちで葬列を組んでお棺を火葬場に運び、荼毘に付した後埋葬されます。
日本における葬儀と手順はそれほど変わらないですね。
無宗教を自称される方が多い今の日本から見るとちょっと珍しい光景ですが、スリランカではごく当たり前の日常の光景なのです。
子どもたちの目の輝きが印象的でした。
スリランカの犬はどこでもお構い無しに寝そべっています。
たとえ交叉点の真ん中でも世界遺産の上でも。
そして皆痩せています。
猿も多いです。
朝、ホテルの部屋の窓をコツコツ。
机の上にあったオレンジをねだっているようです。
チョウは派手なものが多いですね。
紅い模様がハート型に見えるものもありました。
スリランカ各地にはため池が点在しています。
水鳥の楽園でもあります。
ちょっと珍しい木より。
左から ジャックフルーツ、根性無しの木(現地の人曰く)、ロウソクの木、チョウジ
欄の種類も豊富。蓮の花はこの時期にも咲いているのですね。
最後の花の写真はブッダツリーとよばれる花で、寺院によく植えられているものだそうです。
レストラン店舗前の装飾として水盆にこの花を浮かべてある光景を良く見かけました。
幼稚園訪問の際にいただいたレイも、この花で作られていましたし、佛歯寺参拝の際にもこの花を両手に持ってお参りしました。
夜には満天の星空を眺めることができました。
右に見える明るい星はカノープス、下中央に見える十字は南十字星ではなく「にせ十字」です。
本物の南十字星はこれよりももう少し下に見えるはずですが山で隠れています。
古代遺跡シギリヤ。
スリランカ中央部に火山マグマが固まってできた高さ370mの垂直に切り立った岩があります。
これはシギリヤロックと呼ばれ、かつては仏教僧の修行場でありました。
5世紀後半に、カシャパ王(477-495年)は王位継承の地位を奪われる恐れを感じ、弟モッガラーナを追放し父を殺してまで政権を握り、このシギリヤロックの上に宮殿を建設します。
シギリヤロックに続く観光用の桟橋が作られています。
頂上までは1200段もあります。
左下に桟橋を写しました。
このような桟橋を只管歩いて登ります。
途中に見事な壁画が遺されています。
シギリヤレディーです。
どの時代にも落書きをする輩はいるものです。
かなり前の落書きで「こんなに美しい女性がいるのなら結婚するんじゃなかった」と刻まれたものもあるそうです。
さらに進むと岩山の北側中間の少し平らな場所に到達します。ここが宮殿の入口です。
両側にはライオンの爪が装飾されています。
ようやく到着!
眺めが見事。
はるか遠くにダンブッラ石窟寺院が見えます。
頂上の宮殿の基礎から、かつての広大な宮殿の様子が偲ばれます。
カシャパ王は、シギリヤロックを中心に、周りには城壁と堀を巡らし、万全に見える防御体制を取りました。
これは恐怖心そのものを如実に表しています。
この岩山の頂上にあったとされる宮殿で孤独な王様は何を思っていたのでしょうか。
インドへ追いやられていた弟、モッガラーナはインドから攻め入り、カシャパ王は敗れます。
カシャパ王の時代は僅か11年で終焉となりました。
ちょっと気になったこと。
垂直の岩山を登る桟道が一部壊れていて応急処置がなされていました。
けれど、板と荒縄での処置とは・・・・
スリル満天、スケールの大きさに圧倒されたシギリヤロックでした。
ポロンナルワは10~12世紀頃シンハラ王朝の王都として栄えました。
古代都市ポロンナルワは、10~13世紀に栄えたシンハラ王朝の古都です。
それまでの首都アヌラダプラがタミル族の侵略を受けたため、993年に首都となりました。
シンハラ王朝歴代の王が仏教の普及に努めたため、たくさんの仏蹟が残されています。
広大な遺跡群から、かつての都の繁栄ぶりを偲ぶことができます。
左写真は7階建の大宮殿。
右写真は遺蹟の入口にあるムーンストーン(象などの神聖な紋様が刻まれた半月型の石)です。
これより先は神聖な場所であるために裸足になり脱帽するという境界でもあります。
描かれている動物は、それぞれ象=誕生、馬=老、ライオン=病、牛=死を表すとされますが、ポロンナルワのムーンストーンはヒンドゥ教の影響により牛が描かれていません。
ガル・ヴィハーラという磨崖仏が遺されています。
一つの壁に左より坐像、小さい坐像、立像、涅槃像と並んでいます。
おおらかで柔らかい表情が印象的です。
スリランカには貴重な仏教遺跡が数多く遺されています。
いくつかを巡って参りました。
ダンブッラ石窟寺院は、セイロン島のほぼ中央、キャンディの72キロメートル北方に位置する世界遺産登録の寺院です。
スリランカにおいて、最も保存状態がよい石窟寺院として知られており、周辺には80以上の洞窟が点在し、その中核は、5つの石窟によって構成されています。
これらの石窟はアヌラーダプラ時代(紀元前1世紀-993年)、ポロンナルワ時代(1073年-1250年)に大部分が建設され、153の釈迦牟尼像、3つのスリランカ王像、4つのヒンドゥー神像、総面積2,100平方メートルに及ぶ壁画の数々…圧倒的な迫力をもっています。
涅槃像の足元には弟子のアナンダ像、釈迦像の頭部にはヴィシュヌ像が配置されています。
一同自然に手を合わせ、読経させていただきました。
蒸し暑い中、汗をかきながらの法要ですがそんなことを気にするものは誰もいません。
第2窟は、マハラジャの石窟とも呼ばれ、石窟群の中では最大の石窟です。
ヒンドゥーの影響が強く、16体の釈迦の立像と40の釈迦の坐像の他にサーマン、ヴィシュヌなどが安置されています。
窟内天井からは聖なる水が湧いていて、病気を治す力があるとされています。
水が湧く部分には魚の絵が描かれています。
それにしても仏・仏・仏…仏様で埋め尽くされています。
右手を大地につける仏画もあり、それぞれが圧倒的な迫力を持っています。
身延山スリランカ別院は1994年、総本山身延山久遠寺開宗750年記念事業の一環として建立された寺院で、こちらにも幼稚園が設置されています。
当初は予定には無かったのですが、余裕が出来たために急遽訪問することとなりました。
幼稚園は昼に終わり、私たちの訪問が夕刻になったにも関らず、園児たち、保護者総出でのお出迎え。
スリランカの教育復興や日本とスリランカの親善交流に大きな役割を果たしている寺院の一つです。
こちらでも本堂で法要を営みました。
現在、スリランカには曹洞宗の寺院がありません。
しかし、他宗の活動を目の当たりにすると、日本の禅宗寺院もスリランカに出来ると良いとちょっぴり感じました。
スリランカ大菩提会は1891年に仏教の復興、仏跡の復興、学問的研究、社会福祉のために発足し、幅広い活動を行っています。
現在使用されている仏教は、大菩薩会創立者、アナガリータ・ダルマパーラ師により生み出されたものです。
最近は日本政府や、日本の寺院からの援助により活動が広がっています。
創設者アナガリータ・ダルマパーラ師の没後、パンニャッテッサ大僧正に受継がれ、現在はバーナガラ・ウパニティッサ僧正が管長を勤められています。
到着とともに歓迎を受けました。
スリランカ大菩提会には幼稚園が併設されており、日本の童謡などの歌と踊りをお披め。
教室の様子も見学させていただきました。
その後、仏間にて拝登諷経を日本式・スリランカ式併修して営みました。
仏教が縁となったスリランカと日本の交流が生きていることが実感できる訪問でした。
スリランカでは仏教徒70%、ヒンドゥー教徒15%、キリスト教徒8%、イスラム教徒7%となっており、7割が仏教徒の仏教国です。
スリランカの仏教については追って書いていきたいと思います。
国内には様々な仏教寺院があり、その代表ともいえるのがスリランカ中央の古都キャンディにある佛歯寺です。
正式にはダラダー・マーリガーワ寺院。
通称の佛歯寺の名の通り、仏歯が祀られており、チューラワンサ(小史)の伝承によれば、4世紀にインドのカリンガの王女がスリランカのシンハラ王家に嫁ぐ際にもたらされたとされ、以来王権の象徴となりました。
王都が移動するごとに仏歯も移され、現在はシンハリ朝により16世紀に建てられた佛歯寺に納められています。
仏教徒の信仰の対象としても強い力を持っています。
佛歯寺は真夏に行われるペラヘラ祭は仏歯を乗せた象の行列と、それを祝賀する踊りの祭典として有名です。
仏歯の祀られているられているダンマチャッカ(法輪堂)下層部には日本からの仏像も安置されています。
この上に仏歯がお祀りされているのです。
二階に上り、廊下を進んだ先に見える黄金の扉を抜けた先に仏歯が祀られています。
扉の先は撮影厳禁。
掌に花(ブッダツリーの花)を持ってお参りしてまいりました。
境内の像は僧侶たちにも大人気。
世界仏教徒連盟(The World Fellowship of Buddhists=WFB)創立60周年記念祝賀行事および第25回世界仏教徒会議スリランカ大会が開催され、全日本仏教会のツアー一員として参加してきました。
世界仏教徒会議は2年おきの開催。昨年、日本の浅草で開催され、今年はスリランカ大会です。
一般コンファレンスは11月14日~17日までの日程で開催され、最終日に記念祝賀行事が行なわれました。
今回の記念行事は、スリランカのD Jayaratne首相が中心となっての国を挙げての行事でありました。
会場に向かう幹線道路に国旗と仏旗が掲げられています。
今の日本では考えられない光景ですね。
会議のテーマは“Reconciliation through the teachings of The Buddha”(釈尊の教えを通した和解)。
40を超える国から約600人の仏教代表者が集まりました。
大統領や国の要人も参加される行事ですから警備も物々しく、持ち物検査を受けてから会場に入ることになります。
カメラ、ビデオ等の持込、撮影は厳禁でしたので大会中の写真はありませんがとても盛大な大会でした。
スリランカで長い間続いていた内戦は終結を迎え、今はようやく平和の夜明けの時期を迎えています。
今回開催されたスリランカ大会は、上座仏教、大乗仏教、チベット仏教…あらゆる仏教国から平和に向けて歩みだしたスリランカの地に一堂に会して、仏教文化と平和について相互交流が行なわれました。
記念祝賀行事中 Mahinda Rajapaksa大統領も参列され、世界仏教徒連盟(WFB)から平和への貢献を顕彰し名誉勲章が贈られました。
すべてに亘ってダイナミックな経験をさせていただいたスリランカツアーの報告としてこのブログに徐々に書いていきたいと思います。
木は人の心を知っている
愛されれば応えて生きようとしてくれるのだから
『木の声がきこえる―樹医の診療日記』(山野忠彦著/講談社/1989年)より
今年3月10日、突然強風で倒れてしまった鶴岡八幡宮の県指定天然記念物「大銀杏」。
4月には小さな新芽がたくさん顔を出したというニュースがありましたが、その後どうなっているのでしょうか。
大切に、大切に…鶴岡八幡宮の大銀杏の根元に新芽
八幡宮は大銀杏の再生を願い、倒れた幹部分を根付かせるため先月(3月)14日に移植した。その一方、地面に残った根元から若い芽が出ることも期待していた。 大銀杏の樹齢は推定千年。境内の記帳所では倒木から1週間後の先月17日から(4月)1日までに、再生を祈る人々約2万5千人が記帳したという。
(産経新聞2010年4月1日)
なかなか鶴岡八幡宮境内まで行く機会に恵まれず、お盆過ぎにようやく叶いました。
まず目に飛び込んできたのは、元生えていた場所に立派に育っている苗木(挿し木やヒコバエ)たちです。
背丈は既に2~3メートルほどあるでしょうか。
ぐんぐん育っています。
なんという生命力でしょう。
大銀杏が倒れてから、鶴岡八幡宮・鎌倉市・神奈川県は連携して素早い再生の手を打ちました。
倒れた幹は3つに切断され、根元から高さ4mの部分が、元の場所から7m西側に移植されました。
そして、元の場所には10cm程に切り分けられた枝が植えられました。
それらが、この夏を乗り切り、見事に再生しています。
移植された幹からもたくさんの枝が伸びています。
再生を祈る人々の願いを乗せて、さらに勢いが増しているような感じがします。
銀杏は生長が早いですから、2~30年もすれば立派な大木に成長していることでしょう。
これからも順調に育ってくれることを心より願います。
午前中に参拝したとはいえ、気温は既に35度を越える猛暑となりました。
暑さを和らげてくれるのは蓮池の涼しげな花たち。
もう見ごろは過ぎていますが、まだまだ楽しめます。
■関連ブログ記事
鶴岡八幡宮大銀杏の復活を願う
横浜市仏教連合会・奉讃会の旅行で、鉄道博物館に立ち寄りました。
新しく埼玉にオープンした鉄道博物館に行くのは今回初めてです。
それにしても広いですね。
神田にあった交通博物館とはずいぶん印象が異なります。
日本の鉄道の黎明期から順に辿ることができます。
銘板にも歴史の重みが刻まれています。
案内を館内ボランティアの方に戴きながら廻ります。
特に、座席の坐り心地など、あまり気づかない比較をすることが出来ました。
今の電車のシートが如何に無機質で硬いかがよくわかります。
メーテルが坐っていそうな車両もありますね。
交通博物館では輪切りの新幹線が展示してありましたが、こちらは0系の先頭車両一両がそのまま展示されています。
「21形式新幹線電車(0系新幹線電車)車号21-2」(1964年製造)
東海道新幹線開業に向けて最初に量産された360両のうち大阪方先頭車両。
日本の高度経済成長を支えた貴重な車両です。
六角精児さん、越中詩郎さんが来ていました。
プレス向けの公開イベントのようです。
六角さんって鉄ヲタだったでしょうか。それとも『電車男』繋がりかな。
・・・新番組「鉄道写真物語 1枚にかける旅」(BS12)の番宣トークショーだったようです。
やはり生粋の鉄ヲタでした。
横浜市仏教連合会・釈尊奉讃会では、市内の宗派を越えた寺院僧侶・檀信徒合同で参拝旅行を行なっています。
6月21日、大宮方面への一日旅行がありましたので参加してきました。
バス2台を連ねての旅行です。
【行程】
平成22年6月21日(月)
・東光寺 (拝登・拝観)
・関東管区教化センター(法話)
・昼食
・鉄道博物館(見学)
・高岩寺(とげぬき地蔵・拝観)
行程の最初、東光寺さまにおいて拝登諷経を営ませていただきました。
導師・市仏連会長 玄野老師
拝観の前に、曹洞宗関東管区教化センター主監老師よりご法話を賜りました。
その後、東光寺ご住職による由緒縁起、伽藍の拝観を丁寧にいただきました。
良いものを見るということは、眼の保養にもなります。
特に檀信徒の皆様にとっては、他所の寺院の中を詳細にご案内いただく機会はあまりないために、よい刺激になったようです。
関係諸師の皆様方にはご丁寧なご接待ご案内、ありがとうございました。
心よりお礼申し上げます。
■追記
東光寺様では、毎年春にさいたま市のアートフルゆめまつりの東光寺会場として、市民参加型の法要を模索して実践されています。
その模様は このブログ記事をご覧ください。
テニアン島は現在は人口3,200人のノンビリした島です。
かつての激戦が嘘のように海岸には波が打ち寄せています。
この光景は戦前も戦後もほとんど変っていないのでしょう。
美しい砂浜・・・・
海岸に植えられている椰子の木は、かつて入植者たちが植えたもの。
大きく大きく育っています。
砂は珊瑚が砕けたもので、場所によって細かさは様々です。
隣の海岸では、星の砂も。
岩場では、波が洞穴から噴出している荒々しい光景も見られます。
別名「潮吹き海岸」
実に豪快です。
島の南北を結ぶ道路は、アメリカ軍占領後ブロードウエイと名づけられました。
左にセントラルパーク、右にロングビーチ。
マンハッタンに似た区画としたのでしょう。
テニアン島もサイパン同様に悲しい歴史も残されています。
南端には「スーサイドクリフ(自殺岸壁)」と名づけられた岬がありました。
ここでも慰霊法要を営ませていただきました。
下を覗くにはかなり勇気が要ります。
テニアンで一番大きな集落、サンホセでは、かつては1万人規模の日本人入植者の大きな街が形成されていました。
現在も村のあちこちに面影が残されています。⇒こちらの記事も併せてご参照ください
住宅地の合間の草むらに戦闘機のプロペラやエンジンの残骸が無造作に転がっていたりします。
よく残っていたものだと関心します。
現在、この島は急速に変化していることが実感できます。
とにかく、中国、韓国系の資本流入が物凄いのです。
旅行者も、日本人より他のアジア系のほうがずっと多いのではないでしょうか。
サンホセの街には巨大なカジノホテルが聳えています。
これも中国系のホテルです。
中は新年休暇を過ごす中国人でごった返していました。
テニアン空港にはカジノホテルの計画図(右写真)が掲げてありましたが・・・・・こんな風に拡張されるのでしょうか!?・・・
かつて数万人もの日本人入植者がいたテニアン島は、戦後のんびりした島であり続けました。
しかし、今後数年で大きく変ってしまうことが危惧されます。
特に、スーサイドクリフの慰霊碑は最近悪戯の被害にあっているそうで、入口にゲートが造られたものの、管理人常駐していないため意味を成していないそうです。
現在テニアンに在住する日本人は僅か十数人ということです。
草の根的に守っていくには限界があるでしょう。
日本人が街を築いていた足跡も、慰霊碑も、戦跡も、それらを保存し後世に伝えていく手段を早急に講じる必要性を感じます。
失われてしまってからでは手遅れなのです。
テニアン島は沖縄や福島、山形などからの移民により開墾され椰子、砂糖、コーヒー、綿花の生産が行なわれました。
特に南洋興発による砂糖生産は昭和初期には台湾に次いで東洋第2位の生産量を誇り、日本からの入植者は約15700名を数えました。
しかし、テニアン北部に南洋諸島最大のハゴイ飛行場(ウシ飛行場)があったこともあり、戦時中は日本軍の最重要基地として陸海軍合わせて約8500人もの軍人が駐屯し、第一航空艦隊に属する七六一空(龍部隊)の九六陸攻と一式陸攻40機が配置されました。
ハゴイ飛行場は1939(昭和14)年に日本人により建設された飛行場で、1450mの滑走路を誇ります。
上写真は海軍司令部の建物です。
二階建てコンクリート造り、アメリカ軍の爆撃の跡が生々しく残されています。
海軍司令部の北部には燃料貯蔵庫がありました。
建物は爆撃を受け大火災を起こし、その規模の大きさは天井から剥がれ落ちている巨大なコンクリート片や、飴のように曲がってしまったクレーンのレールからも想像できます。
燃料ドラムも生々しくそのまま残されています。
1つの建物は完全に爆破されてしまい、鉄筋がむき出しの破片が散らばっています。
これらの建物もジャングルの木々に侵蝕されつつあります。
こちらは発電所跡。
頑丈な造りだったことが判ります。
爆撃の跡が生々しく残っています。
ハゴイ飛行場滑走路脇にあるエプロンにも・・・
戦況が悪化し、アメリカ軍機動部隊により1944(昭和19)年には度々の空襲を受けるようになり、2月23日に飛行場施設は壊滅し日本軍の航空戦力は潰滅的な打撃を受けてしまいます。
日本軍は満州遼陽から陸軍第50連隊を移駐させるも空しく、7月8日にはアメリカ軍によりサイパン島が占領され、8月3日にはテニアン島が占領されます。
アメリカ軍は占領後ハゴイ飛行場を拡充し8590ft(2590m)級の滑走路を4本建設しました。
ハゴイ飛行場にはB-29戦略爆撃機が大量に配備され、サイパン島・アスリート飛行場、グアム島・アンダーセン飛行場と共に日本本土空襲の拠点となってしまいました。
ハゴイ飛行場は、広島、長崎への原爆投下を行なったB-29が発進した飛行場であることも忘れてはなりません。
原子爆弾積荷が行なわれたピットは当時そのままに保存されていました。
積荷当時に撮影された写真を並べてみると、時間の経過が信じられない程そのままの姿であることが判ります。
(左)リトルボーイ (中)ファットマン 積荷場跡
(右)1945年、原子爆弾搭載時にアメリカ軍が撮影したリトルボーイ
2日目はサイパン島の南隣にあるテニアン島へ渡りました。
現在は人口僅か3000人ほど、日本人は十数人しか住んでいないのんびりした島です。
テニアン島も、サイパン同様スペイン領の時代にはスペイン人からの迫害を受け、一時期無人島となり、その後ドイツ領となる時代には流刑地とされました。
1914年以降、日本が統治することとなり、多くの入植者が渡り始めます。
日本人によるテニアンの開発は南洋興発会社がサイパンからテニアンに進出した1926(大正15)年に本格的に始まりました。
南洋興発の製糖事業はミクロネシア全域に事業を拡大し「南国の楽園」と称される時代を築きます。
テニアン島は正に製糖業の中心地となり、1930(昭和5)年には一日の生産量が1200トンにも達し、さらに1934(昭和9)年にはさらに生産量1200トンの第二工場が完成します。
平地の多く土壌が良いテニアンはサイパンよりもサトウキビ栽培に適しており、1935(昭和10)年までの間に島の3分の1がサトウキビ畑になるほど製糖産業が栄え、島の人口は17,900人に達し、大いに賑わいました。
事業は製糖業から清酒、鉱業、農業へと発展した背景にはミクロネシア全体の人口の6割を占めていた沖縄県出身者の貢献がありました。
往時の面影は島の各所に残されている遺構から偲ぶしかありません。
島の北部中央の茂みの中に埋もれつつある南洋興発会社の建設した神社の鳥居と本殿跡です。
柱には建立年が1941(昭和16)年とありました。
本殿までに二本の鳥居があり、一の鳥居、二の鳥居を抜ける参道の面影だけが残されています。
鳥居の前には当時の線路が一部残されています。
線路が木の成長により幹の中にめり込んで地面から押し上げられています。
時間の経過を如実に示しています。
列車の車輪の一部のような金属片も落ちていました。
一番大きな街は島の南部サンホセであり、当時は1万人以上の日本人がここに暮らしていました。
左写真は1944(昭和19)年、アメリカ軍により撮影された航空写真です。すでに制空権を獲得し侵攻準備が着々と進んでいたのでしょう。往時の整然と整備され賑わっていたたサンホセの街の様子がよくわかります。
右写真は航空写真(1)の南洋興発製糖工場を(2)方面から撮影したと思われる当時の写真です。(工場の煙突と貨物駅の線路からそのことが推測されます)
街に遺されている往時の足跡を訪ねてみました。
上の写真の製糖工場があったと思われる場所には、南洋興発の社屋建物の骨格だけが残されていました。
社屋跡の前には次のような看板が掲げられていました。
南洋興発の主産業の中心は「砂糖の島」と呼ばれたテニアン島であった。テニアン島に進出した南洋興発は昭和3年に開墾をはじめ、昭和5年に1日原料生産量1200トンの最初の工場を完成し、昭和9年には生産量1200トンの第2工場を完成し、南洋屈指の工場となった。
製糖業の最盛期を迎え、人口も増え、学校や街ができ「南国の楽園」が創立された。
しかし、その夢も戦争により全て失われた。
失意に帰郷した沖縄出身者が再びテニアンを訪れ南洋興発の跡地に立った際、旧き良き時代への思いを新たにした。日本全国からこの地に移住してきた人々の功績を称え、この跡地を後世に残して頂きたい。
そのほか、航空写真(2)の場所には現在の街並みの中に混在して、戦前の警防団跡、消防団跡、刑務所跡など、当時の建物の一部が残されています。
戦争により、これら全てが失われてしまうのです。
セスナから眺めたテニアン島中央?北部。
海の向こうにサイパン島が見えます。
整然と広がっていたであろう日本人の開墾したサトウキビ畑も街も、今はもうありません。
冒頭の写真の南興神社の遺構もこの茂みの中に埋もれていきつつあります。
アスリート飛行場とタポチョ山の陥落により、サイパンにおける日本軍はほぼ全滅となりました。
島の日本兵や民間人たちは北へ北へと追いつめられ、最北端のマッピ岬の断崖から80メートル下の海に次々と身を投じました。
飛び降りた人の数は実に1万人を数えるとも言われ、一帯の海は真っ赤に染まり、遺体で埋め尽くされたといいます。
2005年には天皇・皇后両陛下がこの地に慰霊訪問されています。
多くの方が身を投げたバンザイクリフの岸壁から下を見下ろすと、波が渦を巻いて岸壁に当たって高く打ち砕けています。
この岬は日本の方向を向いています。
飛び込んだ人々は「天皇陛下万歳」と叫んで飛び降りたと言われていますが、その思いは故郷を思い、故郷を守る一心だったのではないでしょうか。
ただただ心より哀悼の意を捧げるのみです。
バンザイクリフを見守る観音様の前で慰霊法要を営ませていただきました。
それまで天気が比較的良かったのですが、法要中に一転スコールのような雨に見舞われ、ずぶ濡れになりながらの読経となりました。
一同、涙雨なのかと。忘れられない思い出となりました。
バンザイクリフの直ぐ近くにはサイパン島北部に置かれていた日本軍司令部の跡が残されています。
マッピ山の岩肌を刳り貫いて造られた建物は、砲弾の跡が生々しく残り、60年を超える時代の経過を物語るように太い木の根が侵蝕しています。
砲筒は海に向けられたままの状態で保存されています。
これら戦跡や慰霊碑は自然の経年変換のほかに、悪戯による人為的破壊も少なからずあるようです。
ただただ朽ち果てていくのを見守るだけでなく、保存の具体的対策を早急にとらなければならないでしょう。
■追記
Youtubeに「サイパン・沖縄戦を生き延びた住民達の証言」がアップロードされています。
http://www.youtube.com/watch?v=ZQQOa6yeffE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=THJNjlIm-9U&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=h6GCT-ZkwTw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=ONqPMwEou2E&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=9GboyrsDBmg&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=oGYsg_fYe10&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=t0v0PLMzAv0&feature=related
サイパン島中央にそびえるタポチョ山に登ってみました。
この山へ続く道はかなり悪路でしかも急坂のため、普通の乗用車では走ることは相当厳しいと感じました。
バギーやレンタルバイクによるツアーと何度かすれ違いましたので、態と未舗装のまま残しているのでしょう。
戦時中はこのような道路もなく、山頂に到達することはかなり大変だった筈です。
山頂に残されたパネルでは、人力でパネルには重装備の大砲を人力で運ぶ写真が展示されていました。
日本軍守備隊は西方フィリピンからの第一移動艦隊が援護に到着することを信じ、それまでアメリカ軍を拘束するための大射撃をこの地から指示しました。
山頂からの眺めをパノラマ写真にしてみました。
右にアメリカ軍が上陸したレッドビーチ、中央にアスリート飛行場が見えます。
この場所からは360度、サイパン島全域が見渡せます。
レッドビーチから上陸したアメリカ兵は、アスリート飛行場とタポチョ山を目指します。
この2つが陥落となればサイパン全域を掌握したも同然になるからです。
6月16日、アメリカ軍第27歩兵師団が上陸後、直ちにアスリート飛行場に向け進撃しました。
アメリカ軍は火炎放射器で一気に畑を焼き払っては進むという作戦によりその日の夜には飛行場に到達します。
飛行場を死守したい日本軍は戦車第9連隊を中心に約8000名が総攻撃を行ないましたがアメリカ軍の圧倒的戦力の前に全滅してしまい、翌18日にはアスリート飛行場がアメリカ軍の手に渡ってしまいます。
6月27日、日本軍第317大隊はアスリート飛行場奪回の為に600人規模の夜襲をかけましたが、アメリカ軍に包囲され、全滅してしまいました。
旧アスリート飛行場(現サイパン国際空港)の敷地にも日本人慰霊碑が建立されています。
(ここでも慰霊法要を営ませていただきました)
日本軍は組織的な反撃が出来ず、ゲリラ的な攻撃を散発的に行なうしかなくなり、斎藤中将は防御に適したタポチョ山に防御線を敷きます。
着々と進行するアメリカ軍の様子を、この山からどのような気持ちで眺めていたのでしょうか。
パノラマ写真の手前側に広がるのは「死の谷」と呼ばれた高原です。
サトウキビ畑や洞窟に潜伏する日本軍の機関銃攻撃は、アメリカ軍の進行を遅らせ、いつのまにかこのような名前が付けられたのです。
アスリート飛行場がアイズリー飛行場としてアメリカ軍により運用開始されるようになると、空からの偵察も可能となり、日本軍は完全に追い詰められることとなります。
6月30日、ついにこのタポチョ山がアメリカ軍によって陥落されました。
7月7日、斎藤中将は残存部隊約3000名に総攻撃を命じ、陸海軍によるバンザイ突撃が行われました。
この戦闘で米アメリカ軍に死傷者658名の損害を与えたものの、日本軍はほぼ全滅。
パノラマ写真に写る一帯は両軍の死体が累々と積み重なる惨状となりました。
事実上サイパン島の日本軍は全滅し、7月9日にアメリカ軍ターナー中将がサイパン島の占領を宣言するに至りました。
今回の旅行はSOTO禅インターナショナル(SZI)主催により行なわれました。
昨年末の元国際布教師OB会・SZIに集まったメンバーの、次はサイパン結集でという一言が発端となり実現に至ったものです。
目的の1つは、サイパン国際礼拝堂(以下南溟堂)(Nanmeido: The Saipan International House of Prayer)への拝登でありました。
南溟堂は、静岡県出身の国際布教師・秋田新隆老師が20年前に発願、建立のための資金の殆どを負担され、さらに戦没関係者、岐阜県仏教会、信徒会の協力を得て5年の年月を費やし開創された超宗派の寺院です。
平成2年10月に落慶法要がニューヨーク、シアトル、岐阜、愛知、静岡県から400人もの参列により盛大に厳修されました。
大導師は岐阜県仏教会会長・正眼寺住職・谷耕月老師、導師は秋田老師とニューヨーク大菩薩禅堂・嶋野栄道老師が勤められました。
(余談ですが、先週は嶋野老師をお招きしてSZI主催の講演会を開催させていただいております。これもご縁だと感じます)
昨年2月まで秋田老師はハワイ・ヒロ大正寺の住職として着任されており、任期を終えられ、南溟堂を護持するためご夫妻でサイパンに移られました。
地元の新聞『Saipan Tribune』のインタビューに師は「南溟堂はサイパン市長事務所により管理されていたものの何年も無住だった。これからは戦没された方々の、アメリカ人、日本人、現地の方の区別なく、み霊を慰めるために寺を護持することが私の義務であると思う」「私は、生涯このお寺を護持するためにサイパンに居ることを決めた」と答えられています。
⇒Japanese who built House of Prayer returns to Saipan『Saipan Tribune』
SZI会長導師により拝登諷経並びに慰霊法要を営ませていただきました。
天徳巍々 慧日遠照三千界
玄猷耿々 慈光遍及万億年
仰冀洪霊 俯賜臨照
上来 諷誦経呪 所集功徳サイパン島戦死病没者諸精霊
中部太平洋地区戦没者諸精霊
戦役殉難諸精霊回向報地荘厳
伏願
万邦和楽 万難消滅 火盗潜消 所縁吉祥
法要後、秋田老師に由緒縁起をお話いただきました。
暑い南の島で水も思うように飲めないまま散華した軍人、民間人、原住民、また闘いに明け暮れた相手国の人々・・・・サイパンには慰霊碑は数多く建てられているけれど、どれも野ざらしとなっています。
せめて屋根のついたお堂でゆっくり水を飲んで貰い、ゆっくり供養したい・・・秋田老師は南溟堂発願の動機を静かに語っておられました。
南溟堂の本尊は慈母観音。左右に梅花観音、阿弥陀如来をお祀りしています。20人ほどが坐ることができる坐禅単もあります。
本堂天井の中心からは大梵鐘が吊り下げられています。
この大梵鐘は岐阜県仏教会の呼びかけにより造られ、船でサイパンに運ばれてきました。
サイパンの地から平和を願う佛声は、世界に向けて響き渡っています。
拝敷の上に梵鐘があるという一寸珍しい光景ですが、屋外に梵鐘を置くと悪戯の被害にあってしまうためこのような構造になっているということです。
実際、秋田老師がハワイに居られて住職不在の時期には心無い何者かに本堂のガラスが壊され進入され、仏具の一部(仏像の光背、獅子吼など)を破壊されてしまいました。
現在も傷跡が残されています。
秋田老師夫妻を囲んで・・・
南溟堂は砂糖王公園の中にありますが、一番奥に位置するためにツアーのルートには入っていません。
「訪問者、旅行者、地元住人も、毎日開いている寺に参詣して祈りを捧げてくださるようお願いしたい」(秋田老師のことばより)
サイパンへ旅行される方は、是非南溟堂へお参りされることをお勧めします。
大きな地図で見る
(上の地図ではThe Saipan International House of Prayerと表記されています)
サイパン西海岸南部ススペ地区では、不思議な光景が見られます。
カトリック墓地の入口に鳥居、そして墓石の合間に石灯籠など。
鳥居を潜った先の拝殿には「inari」と書かれたキリスト像が掲げられています。
複雑なサイパンの歴史を如実に物語っている光景です。
元々ここにはスペイン統治下時代に建立されたマウント・カーメル教会がありました。
しかし、日本統治下時代には教会の墓地の中に砂糖工場と、さとうきびの豊作を願う南興神社が作られました。
南興神社の南興とは「南洋興発」のことです。
史料によると、南興神社の祭神は天照大神・大国主神・経津主神・罔像女神となっています。
「inari」キリスト像の土台の上にはお稲荷さんが祀られていたのでしょうか。
太平洋戦争アメリカ軍の上陸による戦闘でマウント・カーメル教会は破壊され、1949(昭和24)年、現在の姿に再建されました。
現在は、歴代のファザー、シスターの墓石が「INRI」(キリスト)の前に配されています。
また、砂糖工場の建物は、教会併設のマウント・カーメル高校として使用されています。
鳥居や石灯籠が何故撤去されずに残っているのか、キリストがなぜ神社本殿の上に掲げられているのでしょうか。
その理由の1つには撤去することによる「神社の祟りを恐れた」ということがあるかもしれませんが、この神社の建立主がサイパン発展に貢献した「砂糖王」松江春次であることが一番の理由であるように感じます。
松江春次は島にとって特別な存在なのでしょう。
また、この教会の墓苑には日本人の名前を刻んだ墓石も数多く残されていますし、サイパン在住の日本人の墓地もあります。
宗教と人種を越えた混在がこの場所では見られます。
戦前のサイパンを写した古写真を見つけました。
撮影年代は不明ですが、南洋興発の時代ですから昭和初期のものでしょう。
キリスト教会が教会として機能している様子がわかります。
戦前から信仰としてのキリスト教、仏教、神道が混在していたことを示しており、実に興味深い写真です。
そして、写真にはキリスト像も写されています。日本型の墓石も見えます。
マウント・カーメル教会のキリスト像は、元々別の場所にあったものが、戦後、神社の本殿の社が取り外され、そこに祀られたということが読み取れます。
これほどまでに簡単に上陸を許してしまった理由にはアメリカ軍がパラオ諸島に攻撃を行うと予期していた日本軍側の読み違いと、一旦サイパン北部に艦隊をちらつかせた揺動作戦に乗せられたことなど様々な悪条件が重なったことが挙げられます。
結果、独混47旅団、戦車第4中隊などが全滅してしまいます。
翌夜、形成を逆転するべく、約1000名の日本軍歩兵隊がレッドビーチを占領するアメリカ軍に対し44台の戦車と共に夜襲をかけました。
アメリカ軍海兵隊には約3500名の負傷者を出したものの、日本軍の歩兵隊はほぼ壊滅し、この地区に暮らす数万人もの民間人も、それまでの平穏な生活を一気に失うこととなります。
レッドビーチに残されている日本軍の戦車。トーチカの上に乗せられています。
後ろに見える海よりアメリカ軍が上陸しました。
私たちが訪れたこの日は碧い碧い穏やかな海であったことが印象的でした。
マウント・カーメル教会入口に付近にある日本人戦没者慰霊碑において慰霊法要を営ませていただきました。
たまたま来られていた日本人の方も一緒にお参りされていました。
ふと空を見上げると火焔樹の花が満開でした。
日本人たちはこの花を見て、桜並木を思い出したそうで「南洋桜」という別名があります。
大きなサヤエンドウのような実をつけている木もよく見かけました。
マウント・カーメル教会のあるススペ地区は、サイパン国際空港から主要なホテルのあるガラパン地区に向かう途中で必ず通る場所です。
しかし、サイパンを訪れる日本人観光客のほとんどは、ここを通り過ぎていくだけです。
サイパンの攻防をアメリカ側から見た資料があります。
日本側の史料と比較してみると双方の視点から概観することができます。
『サイパン侵攻(The Invasion of Saipan)』(Brian Blodgett著)
前のエントリー記事の写真は、サイパン国際空港です。
この空港は、歴史上三代目の飛行場でもあります。
1933(昭和8)年、日本統治時代のサイパンのサトウキビ畑の中に開かれたのが初代の飛行場「アスリート飛行場」でした。
(往時のアスリート飛行場)
二代目の飛行場は「アイズリー飛行場」
アメリカ軍がサイパンを占領すると同時に、アスリート飛行場を拡張して日本本土への空襲を行なうためのB29基地として第73爆弾飛行隊が駐留しました。
サイパンのあるマリアナ諸島は16世紀にマゼラにより発見されてから3世紀に亘りスペイン統治下にありました。
しかし、島民に対するのキリスト教化に次第に島民は反感を抱くようになり、スペイン・チャモロ戦争が起こります。スペインは軍隊を派遣し、島民が大量虐殺や移住させられたことにより、一時的に無人島となります。
その後、ドイツ統治時代にはサイパン島は流刑地とされてしまいます。
第一次世界大戦により南洋諸島全域は日本が委任統治することとなり、砂糖の生産などによりサイパンが南洋の玄関口となり栄えます。
横浜にあった飛行場の記事で書いたとおり、1939(昭和14)年には大日本航空海洋部が発足し、横浜?サイパン方面の定期便が運行を開始しています。
横浜の水上飛行場から毎週飛んでいたという記録があります。
横浜 5:30発 ⇒サイパン 15:30着 翌7:00発⇒パラオ14:00 (この他ヤルート、ポナペなど)
現在は成田からジェット機で3時間あれば到着するサイパンは、当時は水上飛行機によって10時間もかけて運行していたのです。
一番有名な日本人は砂糖王と呼ばれた松江春次でしょう。
松江氏はサドウキビの栽培をサイパンに伝え、精糖事業での成功を収めました。
ガラパン地区の砂糖王公園には、松江氏の銅像が戦禍を免れ残されています。
砂糖王公園にはシュガートレインのSLも保存されていました。
当時の地図を見ると島内にはシュガートレインの線路がぐるりと敷設されています。
このようなSLが島内を忙しく走り回っていたのでしょう。
日本人入植者を中心に島の人口は約3万人にも膨れ上がりました。
(サイパン国際空港に掲示してあった地図より・赤丸がアスリート飛行場)
しかし、戦争の影はだんだんと濃厚となり、1941(昭和16)年には大日本航空海洋部は海軍に徴用され横須賀鎮守府第七輸送機隊となり、アスリート飛行場も軍用の意味合いが強くなっていきます。
第二次世界大戦はサイパンに再び悲劇をもたらします。
島に日本軍の司令部があったこともあり、また、日本本土への攻撃の拠点としてのサイパンの重要性は日米双方共通の認識があった(つまりこの地の攻防が戦局を決する)ため、1944年6月アメリカ軍上陸作戦の際には住民を巻き込んでの激しい戦闘が繰り広げられました。
サイパン各地には、今も生々しい戦跡が残されています。
今回の旅行は、それらの足跡を眼で確かめる旅でもあります。
何回かに分けて報告を兼ねて記事としてまとめて行きたいと思います。
SOTO禅インターナショナル・国際布教師OB会inサイパンの目次です。
■サイパン
三代目の飛行場
教会の中の鳥居
サイパン国際礼拝堂南溟堂拝登
タポチョ山とアスリート飛行場
バンザイクリフ
■テニアン
製糖の島テニアン
テニアンに残される戦跡
移ろいゆくもの変らないもの
■現地よりケイタイにて
太平洋を南下中
アクセルとブレーキ
ハートブッダ
コバルト・ブルー
南極老人星
モンゴルにおいて遊牧民の住居・ゲルを訪問すると、北面に設置された仏壇に祀られたダライ・ラマ14世法王の写真を見ることが出来ます。
街のいたるところでもダライ・ラマ法王の写真を見かけます。
写真(左)はスーパーマーケット横に掲げられた看板
写真(右)はBuddhist Meditation centerの瞑想堂内
ダライ・ラマ法王とモンゴルの関係は深く、というより、ダライ・ラマという称号自体 1578年に当時モンゴルを支配していたアフタイ・ハーンがチベット仏教ゲルク派の高僧・ソナム・ギャツォを招聘し、贈った称号です。
「ダライ」はモンゴル語の「海」であり、チベット語では「ギャツォ」となります。
ダライ・ラマ14世法王の法名は「テンジン・ギャツォ」でありますね。
「ラマ」はチベット語の「指導者」を意味しています。
清朝の時代には、チベット仏教があまりにも盛んになりすぎて、人口の半数近くが出家してしまい、労働人口が激減したという問題を引き起こしたほどだったそうです。
しかし、1917年のロシア革命勃発以降、モンゴル人民政府を樹立徹底した親ソ・社会主義路線をとるようになると1929-32年に行われた厳しい宗教弾圧が徹底的に行われます。
モンゴル語のキリル文字使用が決定されたのもこの頃です。
識字率を高めるという大義名分でしたが、その本当の目的はモンゴル文字で書かれた古典書籍を読むことが出来ないようにするということのようでした。
1990年にはようやく一党独裁が放棄され、1992年には新憲法が制定され、社会主義は放棄されました。
人民革命時には、唯一ウランバートル市内のガンダン寺のみ宗教活動が許されており、社会主義放棄後はガンダン寺が中心となって国内寺院の復興が行われています。
宗教の自由が保障されたことにより無宗教層や他の宗教も増えているようですが、やはり主力はチベット仏教のようです。
先日、貞昌院にモンゴル人の馬頭琴奏者一家がいらっしゃった際にも、本堂で丁寧な五体投地の礼拝を繰り返しされておりました。
現在、ガンダン寺には宗教大学のほか、小学校も併設されています。
モンゴルでは、中世には仏教寺院に子どもを預けチベット語を習得させることが行われていましたが、その姿が徐々に戻っているのです。
現在では僧侶を目指す多くの若者が僧院に住み込みながら学問研究する姿が見受けられました。
訪問した午前中の時間に寺院で営まれていた法要は、日本で言えば施食法要の、それも名古屋で行われているような一施主一法要(供養内容は御祈祷に近い)のような形を取っているように見えました。
法螺貝のような音に導かれ僧侶たちが集まり(写真左)、堂内に上殿(写真右)し、法要が始まる
唱えられている読経はダライ・ラマがチベットの守り神であることもあり、観音真言「オン・マニ・バドメー・フーン」が繰り返し唱えられ、斎時には施主の前で食事を摂るという摂心供養の施主のような感じでありました。
日本の禅寺と徹底的に違うのは、法式作法がかなり柔軟的であるということ。おおらかな面も多く見られます。
寺院境内のマニ車や柱、街中や道路筋にあるオボー(道祖神のようなもの)では熱心に祈る信者の方々の姿(特に若者が目立ちます)を目の当たりにしました。
オボー(下写真)は集落の境界、峠、寺院の脇、丘の上などでよく見かけました。
巻かれている青い布は一番崇高な神様、「天の神様」を表すそうです。
施主が柳の枝を立て、僧侶が供養の法要を行った後、青い布(ハダク)が巻かれていきます。
脇には石が積まれ、旅人たちはここで旅の安全を祈り、石を積み、馬のたてがみや、供物を置き、右回りに三周して感謝の意をささげます。先日のブログ記事で、石の上にギプスが置かれていたものは、旅程を無事終えることができたことに対する感謝の意であるそうです。
このように、モンゴルではチベット仏教以前に大自然、特に天と地を大切に扱うアミニズム的な信仰も根深いといえます。
酒宴の席では、乾杯の前に指先を杯につけ、天に弾いてから口にしますし、遊牧民たちは乳絞りの際に一番目の乳を天と地に捧げます。
大地や川をを絶対に汚してはいけないという教えも受け継がれているそうです。
さて、中国では、中国政府によりチベット自治区をはじめ、チベット仏教に対する弾圧が強められています。
昨年8月、ダライ・ラマ法王がモンゴルへ訪問された際、何千人もの民衆が法王を歓迎しました。訪問先のウランバートル・ガンデン寺では、観音堂の外で、法王は歓喜溢れる民衆や僧侶たちと対面し、スタジアムでは満員の信者の前で講演を行ったそうです。
それに対し、中国政府はモンゴル政府による法王受入れを非難し、モンゴルへのチャイナエアラインの突然のフライトキャンセルなど空の便を妨害したのです。
モンゴルでは一時期宗教が弾圧されていた時期があったとはいえ、仏教徒の中では徐々にそれが復興されチベット仏教がモンゴル仏教として生活の中で自然に取り入れられている一面を見ることができました。
郊外にある墓地や火葬場の様子も見ることが出来ました。
中国の仏教とはまた別の方向性で進んでいるのですね。
・・・・・・・・これでモンゴル旅行記は一段落とします。
近くて遠い国というタイトルで始まブログ記事でしたが、今日の記事を書き終えて、近くて身近な国となりました。
末筆となりましたが、旅行中においてGNCモンゴルをはじめ、多くの方々にお世話になりましたことに感謝申し上げます。
なお、モンゴルにおける宗教事情についてはtenjin95さんがSZI会報42号(12月発行予定)で執筆予定でありますし、ブログ(つらつら日暮し)でも詳細にまとめられていますので、併せてご参照ください。
■関連ブログ記事
貞昌院の定例坐禅会は、6月の間2回もお休みしてしまいました。
お詫びのしるしといっては何ですが、モンゴルのお土産として岩塩をプレゼントさせていただこうと思います。
モンゴル岩塩(モンゴルがんえん)は、モンゴル国の北西部、ウヴス県(Uvs Aimag)のウヴス・ヌール盆地(Uvs Nuur Basin)に位置する岩塩鉱床より採掘される岩塩である。モンゴルでは、この岩塩鉱床で採掘される岩塩のみを限定して、ジャムツ・ダウス(Jamts Davs)と呼ばれる。
桃白色あるいは白色の岩塩で、その形成期間は約3億5千万年前とされる。
(出典:Wikiペディア)
ウランバートル市内のスーパーで買い物をする機会がありましたので、その際に購入したものです。
旅行先のスーパーやマーケットプレイスをぶらぶらショッピングするのは楽しいですね。
で、岩塩は、このスーパーの調味料売り場にさまざまな種類が売られていました。
その中で、きちんと Uvs Nuur Basin産のJamts Davsと明記してある一番信頼できそうなものを選んで買い込みました。
その量、約5キログラム。
この岩塩の産地では地元の人はこの山を「シュデン・オール=歯の山」と呼んでいるそうで、ここから採掘される岩塩には多くのビタミン類が含まれ、消化システムの循環をよくする働きもあるそうです。
また、料理以外にも歯を磨いたり、うがいをし、喉の炎症や歯槽膿漏から予防して来た伝統があるそうです。
帰国後、開けてみるとピンクやピンク系の灰色、白などさまざまな色をしています。
今朝の坐禅会に参加される方にはもれなくお分けいたします!
お楽しみに
新しい発見との出会いは、街歩きを楽しくさせてくれます。
私たちの常識は必ずしも常識とはいえないということもわかります。
これまで、
中国で見かけたものあれこれ
フランスで見かけたものあれこれ
のように、発見シリーズをまとめてきましたので、今回のモンゴル版も記事として纏めてみましょう。
スフバートル広場(政府宮殿前)にて。
大統領就任式が行われるため散水車による清掃が行われようとしていますが、エンジンがなかなか掛からない。なんと手巻き式です!
モンゴルのこどもたちが寄ってきて隙をみて水を貰っていっています。たくましいものです。
植林地へ向かう道。
一人ではこんなところ不安で運転できないだろうな?
佐川急便モンゴル支店・・・ではなく、中古の車両をそのまま流用しています。
COOPなどのトラックもそのまま。却ってお洒落なのかも。
遊牧民のオートバイはピカピカに磨き上げられ、シートは派手なカバーで覆われていました。
「出入」「平安」・・・・いいですね?
モンゴル式の乾杯は3度繰り返されます。
乾杯に当たっては、みんなの健康と旅の安全、出会えた事の感謝の言葉を唱えて祝杯を上げます。
この日ははじめ日本式で、次にモンゴル式で・・・・という具合に交互に行われました。
「ボルトガイ!」
こういう場が絆を深め、人のつながりを広めます。楽しい食事会でした。
なお、日本人とモンゴルの方は基本的な体のつくりが違います。お酒で勝負するのは無謀なことです。
点灯していない信号を幾つも見ました。
日本ではきっと大騒ぎなのでしょうけれど、町の人達はまったく気にする様子がありません。
トロリーバスは健在です。
(日本では黒部渓谷のトンネル内にしか残されていません)
ザイサントルゴイに建立されている仏像。
仏像前に展開されているミニ遊園地がシュールです。
これを思い浮かべてしまいました。
道端に詰まれた石の山とギプス。
この種明かしは後日いたします。
ウランバートル近郊の山には夏至も近いというのに雪が降りました。
製鉄の街、ダルハンで私たちを出迎えてくれた「アイアン・マン」(正式名称不明)
電柱たちは腐食防止のため地面から浮かせてコンクリートの柱にくくりつけられています。
刈り取った羊の毛に登って遊ぶ山羊
ロシア国境で売られている川魚。
バイカル湖に注ぐ川で釣ったものを燻製にしたものです。
ウオッカと良く合うのですよ、これが。
(上記の「乾杯」の席でこの魚が出されました)
ホテルの窓枠。
せめて傷防止のシールは竣工時に剥がしておいて欲しい・・・まあ、細かいことはいいか。
モンゴルのインターネット環境から自分のブログにアクセスしてみた。
日本語フォントをDLしないとヨメマセン。
・・・これは卑怯だ。
モンゴルを旅行中に幾つかの遊牧民の家・ゲルを訪問する機を得ました。
冷蔵庫が無いために、絞られた乳は火にかけられ、沸騰させます。 このほか、マントウ(蒸しパンのようなもの)などを戴きました。 天窓には干し肉が吊るされていました。 これも冷蔵庫に頼らない自然の智慧ですね。 このようにしてみると、ゲルの生活はかなり地球環境に易しいものであるということがわかります。 ゲルの中から、ドア越しに放牧されている羊やヤギの群れを眺めながらお茶とお菓子を戴いていきます。 旅して情報から隔絶された世界にいて、改めて「幸せ」とは何かということを考えてみました。 幸せを図る指標の一つに
GNH(Gross National Happiness)があります。 この指標はブータンの国王が政治的判断を行う際の指標として考案したものであるといいます。 GNHで定められた国民総幸福度を図る指標は次のとおり。 ・living standard(基本的な生活)
しかし、経済的な発展が経済格差や環境破壊や文化の喪失につながるというのは一理あります。
右にその結果を書いてみました。 日本は残念ながら第90位。 「幸せ」だと感じている人が少ないのですね。 都市難民の増加や経済格差の拡大など深刻な経済問題を抱えるモンゴルのほうが、何故清潔で豊かに見える日本よりも「幸せ」を感じる人の割合が多いのか。 |
Nation SWLS Score |
これは、同じ日に行われる予定の戸塚・善了寺キャンドルナイトと同時刻にモンゴルで行うという約束を実行したものです。
キャンドルナイトの目的の一つが「便利な文明社会にどっぷりつかっている現状をいま一度振り返り、ろうそくの温かくやわらかい明かりに集まった家族、友人、皆と語り合うことによって、日常生活に還元していくこと」であるとするのなら、 SWLS指標の高い国ではあえて必要の無いムーブメントなのかもしれませんね。
SOTO禅インターナショナル(SZI)で進めている「塔婆供養で植林支援」事業は、2年目に入りました。
おかげさまで全国のSZI会員御寺院様をはじめ、多くの方の賛同を戴き、昨年度は2万5千本を越える苗木植林を行うことが出来ました。
その基本理念は、一本の塔婆で一本の苗木がそだちます や 卒塔婆を中心とした循環システム 塔婆供養で植林支援?植林を担う人材育成 などの記事でも書いていますのでご参照ください。
SZIスタッフの役員会で発案された何気ないアイデアを如何に実現させ軌道に乗せるのかということが重要なところです。
さまざまな植林活動を行っているNPO団体などとコンタクトを取りながら、実際にお会いしていく中でであったのが、今回の「塔婆供養で植林支援」のパートナー団体とさせていただいている GNC代表宮木氏でした。
SZI役員会で最初に諮った際は「なぜ塔婆供養での植林を日本では無くモンゴルで行うのか」という反応もあり、なかなかすんなりと進まない時期もありましたが、けれども、一度動き始めると順調に進むようになり、冒頭で述べたように、モンゴル・セレンゲ県スフバートル近郊のトジンナルスに 25,000本(10ha相当)のヨーロッパアカマツ(Pinus sylvestris)苗木の植樹支援を行うことが出来ました。
植林には、セレンゲ県森林動物センター長・ジャムスレン氏をはじめ地域の住民・学生約100名が作業に携わり、セレンゲ県森林動物センターにより定期的に巡回管理されています。
このたび、6月15日?20日の日程で、植林がどのように行われているのか、実際にモンゴル植林地へ赴くツアーを計画し実施いたしました。
その主な目的の一つは、もちろん会員の皆さまから寄せられた植林支援による苗木の生育状況を確認することでありますが、個人的には自分なりに持っていた「なぜ?」という部分に対する回答を明確にすることも重要な一つであります。
今回のツアーには私も含めてSZIスタッフ3名が参加いたしました。
悪天候による出発時間20時間遅れがあったものの、私たちを迎えてくれたのは雄大な光景と、現地の方々のおもてなしの精神。
どのようなツアーだったのか・・・・・参加したスタッフはそれぞれブログを持っておりますので、それぞれの視点での報告がなされることでしょう。
拙ブログでも順次記事として纏めて行きたいきたいと思います。
なお、8月発行予定のSZI会報41号にもツアーの報告記事が掲載されます。
そちらもどうぞお楽しみに
※今回のツアーにはGNCモンゴルの皆さまをはじめ多くの方々に大変御世話になりました。心より感謝申し上げます。
1週間以上の滞在型宿泊施設です。
病院と隣接しており、食事療法、リハビリに快適な環境が整っています。
一般の方の滞在も可能です。
和室もありますが、特に洋室はバリアフリーで電動ベッドを備えた部屋も多く、高齢者やリハビリ中方にも安心です。
食事は1日(3食)1,600キロカロリー・塩分10g以下でメニューが作られています。
調理実習室ではこのように設備が整っており、自由に参加できます。
トレーニングルームやカラオケ(発声・呼吸訓練)設備も整っています。
素晴らしい設備が県内にあるのですね。
http://teishoin.net/blog/001587.html民児協研修会2日目。
施設実地研修は 湯河原厚生年金病院 からのスタートです。
湯河原厚生年金病院当院は厚生年金の福祉施設として昭和21年に設立し、整形外科・形成外科・外科・リハビリテーション科・リウマチ科を中心とし 、近代的な高度医療機器(MRI・RI・CT等)を備えた病院で、循環器・消化器・呼吸器疾患の治療にも重点をおいています。
また、豊富な温泉を利用し社会復帰に向けた理学療法及び作業療法など一貫した医療体制をとっています。
最初に院長さん、事務長さんより施設の概要を説明いただきました。
設立年からわかるとおり、戦後、特に民間の戦争障害者医療のために、整形外科診療を主にした療養所として設立されました。
それ以来、湯河原の核となる病院として整形外科・リウマチ科・リハビリテーション科を中心にした病院へと変遷しています。
ここの地域も例にもれず高齢化が進んでおり、丘陵地帯が多いことも相俟って訪問看護・訪問リハビリテーションなども行われています。
温泉を利用した治療も特徴のひとつです。
なお、新型インフルエンザの流行に備え、全員マスク着用での研修となりました。
程度に応じた設備が整っています。
通所リハビリの入口には、リハビリの一環として作成された看板が掲げられていました。
紙テープを巻いて作られています。
食堂はセルフのシステムとなっています。
(もちろん、食事を食堂でとるれない方は別ですが)
カロリー、塩分の計算もされており、食事制限のある方には個別に対応されています。
写真では御紹介しておりませんが、通常運営されている中での研修ですので実際に患者さんと病院との関り方もよくわかりました。
そして何より清掃の行き届いた廊下とトイレ病室などが印象的でした。
⇒研修旅行@湯河原3 に続く
民生児童委員研修のために湯河原に来ています。
一日目は定例会と意見交換会。
具体的には記載できませんが、お年寄りのかたからこどもたちに関する問題について深夜まで話し合いが持たれました。
皆さんのパワーには圧倒されます。
宿泊地は湯河原の街を一望するこぢんまりした旅館です。
・・・そんな感じで夜は明け
↓
前日の嵐のような天気が嘘のように好転しました。
早朝、朝食まで時間があったため皆で散歩をかねて街を一周。
山を下り千歳川を渡ると、そこはもう熱海市です。
曹洞宗福泉寺様へ参拝。
境内には肩から上だけの陶製のお釈迦さまの像が安置されています。
茅葺の屋根がおちついた良い雰囲気を醸し出しています。
この像は300年以上もの前、名古屋藩主徳川光友公の代です。
光友公の父義道公がある日の狩の帰り道、馬上より遥かに見て、一町人の娘が健気にも耳の遠い老母が行列の来るのを知らずに家の前で行水しているのを、タライ共奥へ運び去ったのをご覧になり、孝心とその行為に感激され、後に御殿奉公を命じました。
娘は後、若君を懐妊し「匹夫下郎の卑しい身分で股から御産み申すは万世の恥である、腹から御産み申さん」と云い、ついには断腹して光友公を御産みになられました。
母胎は若君誕生後絶命しました。
光友公は若くして孝順厚く自身誕生を知り母上の菩提を弔う供養としてお釈迦様の像の建立を願いました。
製造にあたり陳ケンビンという人に命じ、尾張瀬戸赤津村大仙山の土をもって謹造したものです。
当寺には頭部のみ安置しました。
時代の変遷により胴部は何処に埋没したとかいわれています。
(由緒書より)
なるほど、そのような伝承があったのですね。
それにしても、凄まじいばかりの眼光です。
その後、川を上流に進みます。
途中に祀られていた道祖神をお参りしつつ、曹洞宗保善院様へ 。
境内には湯河原で晩年を過ごした竹内栖鳳の筆が祀られています。
その隣には三味線塚も。
太平洋を望むことが出来る眺めの良い場所です。
このあたりはみかんの産地。
モノレールがあったり、レモンが鈴なりになっていたり
・・・ リスがエビフライを造る途中のもの も落ちていました。
即心会研修として、東京カテドラル聖マリア大聖堂へ参拝させていただきました。
教会内部を東京大司教区事務局チェレスティーノ・カヴァニャ宣教師にご丁寧なご案内をいただきました。
この教会はカトリック関口教会教会堂で、カトリック東京大司教区のカテドラルでもあります。
カテドラルとはとは「カテドラ」のある教会のことです。
曹洞宗には管区、宗務所、教区という単位がありますが、カトリック教会にも同様に日本全国を16区分した「教区」という教会の行政、地域的区分があります。
教区長は、司教または大司教と呼ばれます。
教区長の着座椅子(司教座)が曲ろくならぬ「カテドラ」でありますので、司教座を持つ教会が「カテドラル」と呼ばれます。
なお、東京教区は東京都と千葉県がその範囲とるそうです。
1899年に建った当時の関口教会教会堂は木造でゴシック様式の建物でしたが東京大空襲により焼失、その後1964年丹下健三氏の設計により現在の大聖堂が建てられました。
上空から見ると、このように見事に十字架の形をしています。
外観は金属の質感、内面はコンクリートの質感を良く生かした形状が印象的です。
⇒大聖堂の写真はこちら(公式サイト)
構造は東京大学坪井研究室により、音響は石井研究室により為されました。
その内部形状から、特に残響時間の計算結果には特に苦労されたようです。
当初設計では残響時間がなんと20秒。
これでは音楽はもとより、司教のことばも参列者に明瞭に伝わりません。
そこで様々な工夫がなされました。
天井に配された吸音材の役割を果たす天窓、さらに壁面には壷がいくつも埋められています。
壁に見える小さな穴は、壷に続く穴だということです。
また、設置されているスピーカーは小さいものをスポット的に配されています。
設置されているパイプオルガンは2004年に新しく設置されたマショーニ・オルガン Op.1165です。
東京カテドラルのオルガン マショーニ・オルガン Op.1165現代建築の記念碑ともいえるこの大聖堂に2004年に新しいオルガンが設置されたことで、聖堂内部は完全なものになったといえるだろう。オルガンは、日本では珍しく信者席の後方のバルコニーに設置されている。ここでは、オルガンはコンサートホールとは異なる空間のもとに本来の宗教的かつ霊的な音楽が奏でられる。音色はクリアで濁りがなく、聖堂の長い残響の中でも美しく響く。歴史的なオルガン建造の伝統を反映しつつ、典礼だけでなく演奏会でも使用されることを考慮に入れた楽器である。
ポジティフ鍵盤にはイタリア独特のストップが備わっており、これはアンテニャーティ(訳註・北イタリアで1500?1650年頃活躍したオルガン製作家一族)の寸法を参考に設計されたもので、整音には特別な注意を払った。大型の楽器であるにもかかわらず、鍵盤のアクションは軽く、オルガニストは完璧にタッチをコントロールすることができる。全体が美しく共鳴しつつ、あらゆる調性でも弾けるよう、ヴァロッティ・モディフィカト調律法(5つの純正5度、5つの1/6コンマ狭い5度、2つの1/12コンマ狭い5度)を用いている。
(公式サイトより引用)
様々な工夫により残響時間は空席時7秒となりました。
それでも音楽ホールに比べて極端に長い残響時間です。また、西欧の大聖堂よりもさらに長いため、一種独特の響きを感じることができます。
丁度、月一度開催されるオルガン瞑想の演奏練習が行われており、私たちもその感覚を味わうことが出来ました。
建物の地下には信者たちの納骨堂や地下小礼拝堂があり、それぞれを案内いただきました。
なお、この度の訪問に際してはご案内いただきましたチェレスティーノ・カヴァニャ宣教師は駒澤大学でも学び道元禅師にも深い造詣があります。
『大法輪』2月号には氏の寄稿がありますので併せてご紹介いたします。
『大法輪』平成21年2月号 特集?これでわかる 〈道元〉道元禅師とキリスト教……………チェレスティーノ・カヴァニャ
タイ人僧侶並びに日本人僧侶によって上座仏教の教義を主体とした法話、瞑想指導を行っています。 終日開院し、常時僧侶が在院しているので、興味のある方はご来院下さい。 (公式サイトより)
タンマガーイ寺院は仏教国タイにおいて急速に勢力を伸ばしている新興系の仏教宗派です。
私たちは上座仏教の国においてどのように新しい宗派が勢力を広げているのかを含めて研修課題とするために、タンマガーイ寺院東京別院を訪問させていただきました。
まずはタイ国パトゥムターニー県にあるタンマガーイ寺院総本山の写真をご紹介いたします。
(タンマガーイ寺院パンフレットより)
1969年には3.1万平米の寺院でしたが、その後急速に成長し、320万平米、数十万人の信者が常に集う大寺院に成長しました。
現在、タイには3万を超える寺院、6300万人の人口のうち30万人が僧侶であるといわれます。
仏教国タイにおいて、タンマガーイ寺院は、上座部仏教の伝統と現代的な新要素である瞑想実践、映像メディアを積極的に取り入れ現代タイで勢いのある寺院です。
タンマガーイ寺院はタイ人たちの心の拠り所としての中心的役割を担うために2000年開設されました。現在までに、東京の他に日本には6箇所の別院が誕生しています。
私たちが訪問した日は新年最初の満月の日、「マーカブーシャー」の行持が行われる日です。
マーカブーシャーは、阿羅漢たちが仏陀の下に集まり重要な説法を受けた日です。
タイではこの日に蝋燭を灯してお釈迦様に捧げます。
このように仏舎利塔が設けられ、その周りを蝋燭を掲げた僧侶、信者たちが右回りに三周します。
別院本堂の壁面には、タイ国本山におけるマーカブーシャーの様子がリアルタイムに衛星中継により流れています。メディアを積極的に取り入れたといわれることが顕著に現れている部分です。
それにしても、物凄い人の数。
本堂ではマーカブーシャーの準備が進められています。
私たちは残念ながら時間の関係で参加できませんでしたが、この2時間後の午後6時より蝋燭が灯され、灯火をお釈迦様に献灯する儀式が行われます。
信仰の中心には「タンマガーイ瞑想」があります。瞑想坐禅の方法を解説いただきました。
これは禅宗の坐禅とはかなり異なる方向性をもつ「坐」の瞑想実践です。
日本にはタイの伝統的なワットパグナム系の寺院が別にあります。
タイ仏教の寺院は総じてあまり目立たないように見えますが、けれども、このタンマガーイ寺院は活動を積極的に広げていること、そして在日タイ人たちのコミュニティーの中心としてこのタンマガーイ寺院の果たす役割は少なからずあることが実感できます。
堂内には常にボランティア信者のグループが関わっており、特に日本への留学生たち、女性や子どもたちの姿が多く見られました。
日本の仏教が海外にどれほどの拠点を持ち、どれほどの活動を行っているかということを考えると、いわゆる「新宗教」の活動の方が目立つという状況があります。
今回の事例はそのことをタイから日本への拠点の広げ方として逆の視点から見ることができました。
曹洞宗海外寺院のこれからのあり方にも示唆を含む訪問となったと思います。
今後は、タイ国内において、上座仏教の伝統的な宗派から、このような新興宗派の活動をどのように捉えているのかということに着目していきたいと思います。
神奈川県東部の僧侶研修組織、即心会恒例の半日移動研修が開催されました。
今年は、日本に根付く様々な宗教施設を拝登させていただきました。
これまでも何度か別件で様々な寺院などを訪問、拝登させていただいておりますが、毎回感じることは、日本で暮らすそれぞれの国の方々の心の拠り所とコミュニティーの中核としての重要な役割を担っているということです。
逆に考えると、世界各地に広がる日本の仏教寺院が果たしてきた役割も同様でなのでしょう。
そこには現代日本の伝統仏教寺院にも学ぶべき事柄がたくさん詰まっています。
移動研修の最初の訪問地は東京佛光山寺です。
佛光山寺とはゆめ観音アジアフェスティバルにおいて交流があります。
「東京佛光山寺」のパンフレットには、「大船観音での世界平和祈安法要に台湾仏教の代表として参加」とご紹介いただいています。
東京佛光山寺(Tokyo Bukkozanji)は、台湾・高雄に本山を置く臨済宗「佛光山寺」(Fo Guang Shan)の日本における別院の第1号です。華僑と日本の皆様の交流の場として、また国際仏教の新拠点としてお役に立てることを願っております。
2007年5月18日に完成した、地上4階、地下2階(敷地460?・建物560?)の本施設には、本堂(如来殿)、法話室、喫茶室、応接室、多目的室(ボーイスカウト板橋第16団活動拠点)、食堂、ロッカー室、身障者用トイレ、駐車場などを備え、また国際佛光会東京協会の事務室も当寺院内にあります。
本寺院内の施設の一部は一般の方々のご利用も可能です。また、東京佛光山寺を1時間で見学体験できるコースも新設致しましたのでお気軽にお問い合わせください。東京佛光山寺の僧侶は、中国語・台湾語はもちろんのこと、日本語や英語でも対応可能です。
日本を除くアジア各国では旧暦でにより寺院行持を行うことが多く、研修旅行の開催日が、旧暦で春節の年が明けて初めての満月の日、「元宵節」となったため、さまざまな特別法要が行われておりました。
そのような法要に参加させていただくことも研修の目的の一つであります。
法要に随喜。
この日は旧暦正月15日ということで、「八十八佛洪名寶懺」経を読経いたしました。
略布薩にあたる法要です。
中国寺院での法要においては両班の東、西が交互にお拝をしていきます。
そういえば、霊隠寺で行われていた法要も同様のお拝をしておりました。
法堂の脇に飾られている牛たち。
これはおみくじとなっていて、中に運勢が書かれています。
(参列者は一つづつ持ち帰ります)
法要後、佛光山寺の概要と活動について説明をいただきました。
それにしても規模が桁違いです。
特に、台湾・高雄に本山では、全国全世界から集まる信者さんが快適にお参りできる宿泊施設群や1000人規模まで対応できるホール、1000人が一度に坐することができる大坐禅堂など・・・・
佛光山は、日本国内においては東京佛光山寺をはじめ、佛光山本栖寺、大阪佛光山寺、名古屋佛光山寺、福岡佛光山寺、群馬佛光山寺(2010年完成予定)、その他関連道場(布教所)など、全国各地に複数の寺院・施設を擁しています。
当寺の本山である台湾の佛光山寺は、約40年前に星雲大師によって開かれました。星雲大師の法脈伝承は中国江蘇省南京の東北にある、南北朝時代より由緒ある古寺の「棲霞山」が源になっています。星雲大師はここで志開上人のもと出家し、臨済宗第四十八代として衣鉢を継ぎました。星雲大師は1949年春、台湾に渡り、宜蘭雷音寺にて念仏会、弘法団等を作り、後の弘法事業の基礎を築きました。1967年に佛光山寺を開山し、仏教の弘法及び教育、文化、慈善等の諸事業に全力を尽くしてきています。創建40余年、今では佛光山寺は台湾総本山のほかに全世界各地に200余りの別院を擁しています。とりわけアメリカの西来寺、オーストラリアの南天寺、南アフリカの南華寺等は、当地最大の中国寺院と称えられています。また、1992年5月、星雲大師がアメリカで設立した「国際佛光会」(信徒団体)は現在、世界各地で620余りの分会を擁するまでに成長しています。
(公式サイトより)
台湾には元来得られた利益は社会に還元しようという精神が根付いているということも大きな原動力となっているようです。資産は内部留保せず、積極的に社会貢献のために「使っていこう」とする基本姿勢があるため、台湾内部に留まらず世界中に下記のような様々な活動を展開しています。
そこには開山・星雲大師が掲げる「人間仏教」の理念を実践し「世間是即ち浄土」の実現に邁進するという理念が生かされています。
それが社会的に認知され、自然に浄財が集まる土壌を生み出すという好循環となっている事例だと感じます。
活動の一部としては
編蔵編纂(大蔵経の編集)
佛光テレビ局
佛光美術館
「人間福報」新聞社
佛光文化出版社
国際学術会議
国際交流会議
仏教音楽の普及促進
教育による人材の育成(叢林学院、西来大学、南華大学など)
慈善による社会への奉仕(雲水病院など)
点心飯台。
心の込められた中華精進料理が並びます。
私たちだけでなく、佛光山寺を訪れる一般信者たちにも平等に振舞われる料理です。
台湾式のお唱えと、日本での食事作法のお唱えを両方行い戴きました。
法師の皆さん、役員の皆さん、信者の皆さんと点心(昼食)飯台を交えながらさまざま話をさせていただきました。
その中で、台湾において尼僧の割合が高い理由、逆に日本において殆ど居ない理由について、以前このブログ記事台湾仏教を担う尼僧たち でもとりあげ考えたことを含めてざっくばらんに意見交換が出来ました。
そもそも台湾と日本の寺院制度が全く異なることが挙げられます。
日本では、一寺の住職が交代することは殆どありませんが、佛光山寺では「別院」という形で寺院を展開しているため、それぞれの寺院住職、職員は本山辞令によりほぼ数年おきに交代するシステムとなっています。(全世界に200を越える公式寺院がある)
現在の東京佛光山寺の住職もアメリカでの赴任を経て東京に来ているとのことです。そのメリットとして、何年も同じ場所に居ると向上心が失われてしまう弊害があり、それを防ぐことができるということでした。
・日本では、住職が結婚することが多く、長男が継承していくケースが多いため女性が尼僧となるとしても、その活躍の場所が限られている
・また、日本では女性の出家=配偶者に先立たれた(未亡人)あるいは悩みを抱えた上での出家というイメージが根強い
・台湾では逆に自分の可能性を発揮する場として、高学歴の女性こそが出家する傾向にある
などなど。
日本のシステムにも良い面悪い面があります。
その中で、良い面は積極的に取り入れていく必要はあるでしょう。いずれにしましても私たちが考えていかなければならない問題はたくさんあるようです。
仏教の持つ潜在的可能性とパワーを見出すことができた寺院でした。
(以下続く)
追記
佛光山寺の会報にこの拝登が紹介されました。
■関連ブログ記事
大船からひろがる平和のリレーメッセージ
台湾仏教を担う尼僧たち
旅程の最後に、九州国立博物館(福岡県太宰府市)に寄りました。
この博物館は2005年に開館。太宰府天満宮のすぐ裏の丘陵地に建てられています。
「国立博物館」を称する博物館としては京都国立博物館以来、108年ぶりに新設されたもので、国立博物館の中では最大の敷地面積を誇ります。
それにしても大きい!
西日本鉄道創立100周年記念・九州国立博物館開館3周年記念
『 国宝 天神さま 』 - 菅原道真の時代と天満宮の至宝 -
平成20年9月23日(火)?11月30日(日)
特別展示室
盛りだくさんの展示物が一堂に集められていますが、特に目を引いたのが 国宝 十一面観音菩薩立像 (平安時代・9世紀大阪・道明寺・伝菅公御自作の観音像)です。
国宝 十一面観音菩薩立像(じゅういちめんかんのんぼさつりゅうぞう)
木造 平安時代・9世紀 大阪・道明寺所蔵大阪府藤井寺市に所在する道明寺の本尊で菅原道真公自作の観音像との伝承を有する。道明寺は、菅原氏の祖先である土師氏(はじし)の氏寺として飛鳥時代に創建された寺である。同寺の縁起には、道真が三尺の観音像を制作し、その叔母である覚寿尼(かくじゅに)に与えたとする説話を伝える。道真は幼い時、母の願かけで命を救われたことから観音様を深く信仰しており、天神さまの本地仏(ほんじぶつ)が十一面観音とされたのはそのことに由来するともいわれる。本像は、当時の中国彫刻の強い影響を受けた9世紀木彫像の優作である。
(九州国立博物館のサイトより、下線部はkameno付記)
現在は、寺院と神社は全く別物という概念が植えつけられてしまっていますが、江戸時代までは神社の境内の中に仏堂があったり、社殿内に仏像が祀られることは普通に見られました。
貞昌院も永谷天満宮の別当でありましたし、そのような寺社は現在でも多く見られます。
日本古来の神道と、外来宗教である仏教が融合し「神仏習合」を形成されたのですが、平安時代には仏教の側面が強くなり、神の本体は仏であるという「本地垂迹説」のような考えも盛んになりました。
天神様の場合は十一面観音と大いに関わりがあります。
「大宰府安楽寺者、贈大相国菅原道真公喪葬之地、十一面観世音大菩薩霊応之処也」 『菅家御伝記』「北野文叢 巻十二」所収
との記載もありますし、『天満宮安楽寺草創日記』には延喜5年(905)道真公四十九日法要の際に観音堂を建立したと記されています。
菅原道真公は幼少の頃病弱であり、大病で重篤に陥った際にお母さんが病平癒を観音様に祈ったところ、一命をとりとめたそうです。母は貞観14年(872)に亡くなりますが、道真公は母の遺言により観音像を建立し、篤く信仰しました。
道明寺の十一面観音菩薩立像は、その際造られたものと伝えられています。
この観音様に対面することが出来ました。
それが今回の博物館を行程に組込んだ一番の理由でもあります。
なお、永谷天満宮には、菅原道真公が、自分の姿を鏡に映して自分で刻んだ、日本に三つしかない木像のうちの一体をもつ神社として知られています。
他の二体の道真像は、福岡県・安楽寺と、大阪府・道明寺に祀られています。
『 国宝 天神さま 』は開催期間が今月一杯でしたので、終了間際ということもあり、かなり大勢の人が訪れておりました。
■補記
企画展示・天神様研究所として「みなさまから頂いた天神さま」情報が展示スペースの一角にパネル展示されていました。
永谷天満宮と、なんと貞昌院の情報まで寄せられています。
投稿くださった かざみどり さん、ありがとうございました。
「みなさまから頂いた天神さま」情報は、インターネットでも閲覧できます。
■慧日山高伝寺(佐賀県佐賀市)
「葉隠の華里」と称され、天文21年(1552)、鍋島駿河守清房公により創建された曹洞宗の古刹です。
開山は玲巌玄玻大和尚。
肥前佐賀の歴史を刻んだ龍造寺・鍋島両家の祖霊を祀る寺院としても知られています。
位牌堂(佐賀県重要文化財)の白壁。鍋島家11代直大公により建立されました。
毎年4月19・20日には「釈迦堂御開帳」が行われます。
本堂中央には誕生仏、右大間には涅槃図が掲げられます。
※写真の涅槃図は実物ではなくレプリカです。
仏殿裏にある約1800坪もの墓所、御霊屋に並ぶ墓石、石灯籠群には圧倒されます。
諸寺院に散在していたものを、明治4年、鍋島直大公により集められたものです。
梅の華の時節にはさぞかし見事な光景が見られることでしょう。
旅行中に拝登させていただいた臨済宗の禅道場を2つご紹介します。
禅宗の祖師栄西禅師が帰朝後、建久6年(1195)に頼朝を開基として創建。
後鳥羽上皇より「扶桑最初禅窟」の勅額が下賜されました。
塀の5本の線が、その崇高さを物語っています。
九州臨済宗第一として発展し、境内4町四方、子院38に及ぶ大伽藍を誇っていましたが、兵火により大多数が失われ、現在は往時の4分の1の広さとなっています。
栄西禅師が宋から持ち帰った茶は、肥前背振山・聖福寺にその種を蒔き、日本各地に広まっていきました。
歴代の高僧のうち、特に仙涯和尚は書画で世に知られ、聖福寺にも多くの墨蹟や遺品が蔵されています。
梅林寺は元和七年(一六二一)に有馬豊氏が久留米藩主として丹波福知山(京都府)から九州に移封の際、同地の瑞巌寺が移され、湘山玄澄禅師によって開かれた。後に豊氏の父、有馬則頼の法名「梅林寺殿」にちなんで寺号を梅林寺とし、久留米藩主有馬家の菩提所とされた。湘山玄澄禅師は梅林寺の開創にあたり、瑞巌寺を開いた師匠、禹門玄級禅師(慧性霊通禅師)を開山に勧請。禹門玄級禅師は慶長十一年(一六〇六)九月二十七日に遷化。
臨済宗妙心寺派に属し、元和7年(1621)に有馬豊氏公が丹波福知山より藩主としてこの地に移封の際に菩提寺として建立されました。豊氏公の父である有馬則頼公の戒名「梅林寺殿」にちなみ梅林寺と称されました。
開山は禹門玄級禅師。先月四百年遠諱が厳修されたばかりです。
梅林寺外苑には、梅樹500本余、つつじ3,000本が植えられています。
開創以来350年間は閉ざされていましたが、隣接するブリジストン工場の社長、石橋正二氏により苑内が整備され、昭和33年より市民に開放されるようになりました。
紅葉がちょうど見ごろを迎えていました。
見事な大木です。
一般的な拝観では見られない場所まで詳細かつ丁寧なご案内をいただきました。
細部に至るまで意匠の素晴らしさに見入ってしまい、時間が経つのを忘れてしまいそうです。
しかも、伽藍がきちんと「使われている」ということを実感し感銘しました。
竈の火も入っておりますし、浴室の五右衛門風呂も毎日使われているものです。
すがすがしい気持ちにさせてくれる禅道場でした。
道元禅師の時代の九州北部は、宋の貿易商や禅僧たちが往来し、国際色豊かな地でありました。
中世の港は、現在の港よりもずっと内陸側にあり、那の津・渡唐口には、宋からの船が行き交い賑わいました。
貿易で財を成し得た商人や博多豪商たちが多く、道元禅師の一行も商船に乗って宋へ旅立ったと考えられます。
貿易の玄関として、現在の博多の礎となった場所です。
道元禅師一行を乗せた商船も、博多湾を拠点としたのでしょう。
渡航の手続きを担っていた大宰府政庁は、九州の統括と大陸への玄関口、そして海外からの要人を迎える迎賓館としての役割を担っていました。
那の津は、大宰府の窓口として、入出港の要となる港町であったことでしょう。
この近辺には道元禅師に関連すると思われる場所がいくつかあります。
研修旅行においても、そのうちの幾つかを巡ってきました。
まずは、福岡市西区にある東林寺。
禅宗の祖師・栄西禅師が二度目の渡宋から帰国後、集落の背後に山があるという条件が宋の東林寺の立地に似ていることから「唐泊山東林寺」として文治3年(1187)建立されたものです。
道元禅師と同行された明全和尚も、東林寺に拝登されたはずです。
(左)集落の細く急な坂を登ったところに東林寺山門があります。
(右)歴代入定塔。当山開山栄西千光祖師
○東林寺 禅宗済家
唐泊山と号す。唐泊村に在。千光国師帰朝の時此浦に着て宿せしが爰に小寺を建たり。則此寺也と云り。小高き所に立たる寺なれば、遠望朗にして佳景の地也。
『筑前國続風土記』「巻之二十三 志摩郡」(貝原益軒)より
東林寺からの眺望。
唐泊港、博多湾、志賀島・能古島が見渡せます。
からとまり 能許(のこ)の浦波立たぬ日は あれども家に 恋ひぬ日はなし 『万葉集』「巻15・3670」
境内には、栄西禅師が修行に使用したと云われる「座禅石」や、「栄西禅師像」「万葉歌碑」があります。
また、栄西禅師が持ち帰ったお茶の種から育った大木が現存していました(残念ながら数年前に枯れてしまったそうです)。
ここから見える唐泊の漁港は、古くから港として知られ、奈良時代の遣新羅使はここで風待ちをして出港したと伝えられています。
そのため、ここには渡航者の宿がたくさん置かれ。韓亭(からとまり)と呼ばれました。
唐泊の地名の由来です。
唐泊港は、江戸期には筑前五ヶ浦廻船の港と栄えていましたから、道元禅師の時代にもこの地に立ち寄られた可能性も充分に有るわけです。
それを裏付けるようなものが残されています。
唐泊に程近い地に残されている道元地蔵です。
地元の歴史研究家のTさんにお話をうかがう事が出来、さらに現地まで案内までしていただきました。
Tさんが地元で集めた伝承に基づくと、1227年、道元禅師帰朝後、海の時化に遭い、熊本(川尻)に上陸、その後、この地に8年間(1227-1235)庵を建てて人々に説法を説き、地元の人々を助けた。地元の人は、お地蔵様をお祀りし、子どもたちの安全成長を願ったということで、現在もこの道元地蔵が篤く信仰され続けているとのことです。
ご案内を戴きながら、道元地蔵様をお参りいたしました。
Tさんも子どものころから、病気平癒にご利益があると教えられ、病気などになるとお参りをされたとのことです。
先の福岡西方沖地震でかなり被害を受けましたが、地元の方々により、修復がされました。
このように一般の地元の方々により大切に守られているということに大変感銘を受けました。
ご案内くださいましたT様には心よりお礼申し上げます。
道元禅師の名前が残る地としては、この他に福岡市西隣の二丈町、深江の津があります。
今回は時間の関係で訪問できませんでしたが、「道元」という名前の集落、道元道、そして、その先には伝説の怡土七ヶ寺の一つ、夷巍寺の跡とされる一貴山があります。
一貴山には仁王門とともに、仁王像が地元の集落の人びとに、特に久我家の方々により大切に守られてきました。この久我家の家紋も、久我竜胆であり、何らかの関連性を伺わせます。
様々なことに思いを馳せ、ロマンを感じることができる旅となりました。
(つづく)
今回の旅行は、羽田発北九州空港行きの飛行機から始まりました。
到着の地、北九州空港は、平成18年に開港したばかりの新しい空港です。
空港は苅田(かんだ)市の沖合いにあります。
現在はこのようにトヨタや日産などの大工場が並びますが、道元禅師は、明全和尚、建仁寺の僧侶と伏見から淀川をくだり、堺から瀬戸内海を進み九州北部に辿りついたのではないかと考えられています。
ただし、冬の下関海峡や玄界灘は、当時の小型舟ではかなり航行が困難であったと推測されますので、この苅田の港から上陸された可能性は大きいでしょう。
苅田港に道元禅師一行が到着されたとすると、旧街道である味見峠を越えるルートを通ったはずです。
今回の旅行でも、敢えて旧街道を通行するルートを選びました。
途中、このように平尾台のカルスト台地を眺めることができます。
この付近は石灰を多く産出し、セメント工場があちこちに見られます。
味見トンネルを抜けると、香春町へ。
この地は大陸や朝鮮半島と深い関りをもっており、地名にもその名残を見ることが出来ます。
味見峠の近くにある香春神社(かはらじんじゃ)は渡航神として篤く信仰されており、例えば平安期に最澄(伝教大師)や空海(弘法大師)も、参拝されています。
遣唐使たちも、この香春神社に必ず詣でて願を掛けました。
とすれば、道元禅師一行も・・・・・
香春町から田川市に掛けて、ルート上から見える香春岳は、石灰岩により形成された三つの山です。
「一の岳」「二の岳」「三の岳」・・・・これは炭坑節の「一山、二山、三山越え、ヨイヨイ・・・・・」の山ですね。
このあたりは、明治維新後の九州地域において、近代工業化の重要な地点でもあり、その過程を示す産業遺産がたくさんあります。
九州から山口県にわたる22の資産が残されています。
三井田川鉱業所伊田竪抗櫓、同第一第二煙突などが世界遺産暫定一覧表に掲載されました。
今回の旅行の行程を作るにあたり、たくさんのアドバイスをいただきました。
そればかりでなく、諸堂のご案内や道元禅師の行跡、近辺の歴史に関する詳細なお話を賜りました。
ちょうど紅葉の美しい時期でありました。
美しい!
本当にありがとうございました。
田川の近代産業の歴史に関するteraさんのブログ・北九州紀行(2)?筑豊?を併せてご参照ください。
記事中の地名は下記をご参照ください。
地元の研修組織・即心会(私が幹事長を勤めさせていただいております)の移動研修旅行のため再び九州に来ております。
今回のテーマは道元禅師入宋の足跡を尋ねる旅。
先月、事前学習としてtenjin95さんに講義をいただいておりました。
(※その節はお世話になりました)
また、tera様、成道寺様には行程を組むに当たっての資料やアドバイスを多分に頂戴いたしました。
(この場をお借りして心より感謝申し上げます)
行程は
北九州空港?苅田?味見峠?日田?田川市?福岡市(泊)?久留米?佐賀?大宰府?福岡空港
としています。
追って報告記事をUPしていきます。
知覧には、「薩摩の小京都」と称えられる武家屋敷群があります。
国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、7つの庭園は国の「名勝」に指定されています。
7庭園のうち、森重堅氏邸庭園は築山泉水式庭園で、他の6庭園は枯山水式庭園です。
まずは綺麗に切石され積まれた石垣と、槙などの見事な生垣の見事さに圧倒されます。
この武家屋敷群は、16代島津久達から18代島津久峰の時代に造られたものです。
知覧城を中心に形成された石垣には、沖縄に見られる石敢當や屏風岩など琉球文化の影響も見ることができます。
なんと、樋に竹が使われています。
とても珍しいものです。
殿様専用の玄関に続く飛び石。
薩摩では、さらに玄関が「男玄関」「女玄関」と厳密に分けられておりました。
男尊女卑が強いと言われる薩摩の一端を垣間見ることが出来ます。
庭土が白いのは、シラスを使っているからです。
南国ならではの植木。
(左)でぃご (右)バナナ
それにしても、不届き者は何処にでもいるものです。
きっと今頃は「ゴッツイ処罰」が下っていることでしょう。
町並みを見守るお地蔵さん。
表情がいいですね。
心を和ませてくれます。
慟哭、誓いの碑
この鎮魂慰霊、慟哭の中に、われら国を超え、
民族を超え、世界人類永遠の平和をここに誓うLAMENTATION, MONUMENT OF PLEDGE
NO MORE TRAGEDY. WE HEREBY VOW ETERNAL PEACE
FOR ALL MANKIND THROUGHOUT THE WORLD,
IRRESPECTIVE OF NATIONS AND RACES
昭和20年3月1日、硫黄島を占領した連合軍は、同月25日、沖縄慶良間列島に上陸しました。
軍部は、この劣勢を一気に挽回する作戦として、特別攻撃隊(特攻隊)を強化します。
知覧に集められた特攻隊は17歳から22歳くらいの若者が殆どでした。
特攻隊の戦闘機は機体に数百?の爆弾を付けて連合軍艦隊に突撃しましたが、多くは敵艦近くで対空砲火のために海中に散っていきました。
(特攻作戦に飛び立った飛行機3,461機のうち、1,915機が体当たり、そのうち132機が敵艦に命中、122機が至近弾となったとされています。また、特攻作戦により、海軍は2,535人、陸軍は1,844人の戦死者を出し、失われた飛行機の数は海軍2,367機、陸軍1,094機に上りました)
戦後まもなく米軍が撮影した航空写真が「国土変遷アーカイブ」としてインターネットにて公開されていますが、その中で知覧を撮影した写真を見ると・・・・
写真名 USA-M489-2-106 コース番号 M489-2 写真番号 106 撮影年月日 1947/09/18 市区町村名 川辺郡知覧町 撮影実施機関 米軍 撮影高度 4724m 撮影縮尺 1: 30858
飛行場と思われる場所から痕跡のようなものが南西方向へ幾筋も伸びているのを発見しました。おそらく離陸の跡でしょう。
飛び立った飛行機は開聞岳(薩摩富士)を目標に、一路沖縄へ約二時間の片道の航路を進みます。
彼らはどのような思いで操縦桿を握っていったのでしょうか。
全国から集められた特攻隊員は、僅かな滞在の間、基地近くの富屋食堂を訪れました。
食堂のおかみさん、鳥濱トメさんは、隊員たちの心を癒す母親として、隊員たちに接します。
「私の残りの人生を、おかあさんに差し上げますから長生きしてください」
ある隊員はこのように別れの言葉を残したそうです。
鳥濱トメさんは平成4年に他界されてしまいますが、現在富屋食堂は富屋旅館として残されています。
最近、富屋食堂は旅館の隣に復元されました。
知覧の町に往時のまま残されているものは、給水塔、弾薬庫跡など、僅かしかありません。
知覧町は、この特攻隊基地のあった地であることから、昭和50年に特攻遺品館、昭和62年に知覧特攻平和会館が建設され、1036名の特攻隊員たちの記録が保存されています。
鳥濱トメさんの永年の願いにより旧陸軍知覧飛行場跡地に特攻平和観音堂が建てられました。
トメさんは、日々の観音参りを欠かすことはなかったそうです。
その特攻平和観音堂において慰霊法要を営ませていただきました。
知覧特攻平和会館には多くの来館者で溢れていました。
小学生の姿も多く見られました。
館内の方の説明を食い入るように聞いている姿が印象的でした。
遺品の数々、特に隊員たちの残していった手紙を見るにつけ、涙無くしては回れないのです。
「お母さん 大元気で でっかい奴を沈めます」
「お母さん 不孝者でした お許しください 元気で逝きます」
「今こそ大声で呼ばせて頂きます お母さん お母さん お母さんと」
天皇陛下、お父さんよりも「おかあさん」の言葉が目立ちます。
それが素直な気持ちなのでしょう。
隊員の人達の多くは、戦争をしてはならない、平和な日本であるように、ということを言っていました。そして、そのことをできるだけ多くの人々に伝えて欲しいとも言っていたのです。みんないい人達でしたから、とてもやさしいんです。全部わたしの子供にしたい思いでした。自分の母の代わりになってくれとほとんどの隊員の人達が言いました。
(鳥濱トメさんの手記より)
■関連リンク
知覧特別攻撃隊『ウィキペディア(Wikipedia)』
財団法人 特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会
富屋食堂
指宿の海岸では、このように砂浜から煙が立ち上がる光景が見られます。
このように、80度を超える温泉が湧き出ているため、湯煙となっているのです。
波打ち際、海水に手を漬けると、熱い!
とても不思議な光景です。
この砂浜で、砂むし風呂に入ることが出来ます。
天然砂むし温泉の成分と効能1. 源 泉 名 /
2. 泉 質 /ナトリウム塩化物泉
3. 泉 温 /泉源 摂氏84.7度
4. 試験成績
■ 性 状 /湧出地 無色透明、強食塩味、無臭
試験室 無職透明、強食塩味、無臭
■ 水素イオン濃度 /(pH)湧出地 6.80
試験室 7.45
■ ラドン含有量 /0.29×10-10 ci/kg(1.07Bq/kg)
■ 比 重 /1.010(20℃)
■ 蒸発残留物 /14.19g/kg(110℃)1. 一般適応症
神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・関節のこわばり・うちみ・くじき・
慢性消化器病・痔症・冷え性・病気回復期・疲労回復・健康増進
2. 泉質別適応症
きりきず・やけど・慢性皮膚病・虚弱児童・慢性婦人病
温泉成分は殆ど海水と変わりませんが、硫酸イオンが海水より数倍高く、地下深いところに溜められた古い時代の海水が湧き出ている説もあるようです。
今月初旬には宇都宮で「砂風呂遊び」をしていた中学生が砂場に掘った深さ約70センチの穴に埋められ意識不明の重体になるという報道がありました。生徒の一日も早い回復を祈念いたします。
水を含んだ砂の圧力は馬鹿になりません。
砂むし風呂では、横たわって砂を軽くかけてもらうだけですが、それでも体を動かすことが出来ないほどの圧迫感を感じます。
(起き上がるときには、まず自由の利く手を伸ばしてから立ち上がります)
背中から伝わる暖かさと、適度な圧迫感が血行に良い影響をもたらすのでしょう。
波打ち際ですから、海の音も心地よく響きます。
貴重な体験でした。
白波の 下に熱砂の隠さるる 不思議に逢えり 指宿に来て (与謝野晶子)
鹿児島湾越しに大隅半島より昇る日の出の一齣です。
パノラマでも撮影してみました。
仙巌園鹿児島市吉野町9700-1
仙巌園は、薩摩藩主島津氏の別邸跡であり、磯庭園とも呼ばれています。
第19代島津光久により作られ、代々守られてきました。
ここから見る桜島の借景は素晴らしいの一言に尽きます。
幕末には、第28代当主島津斉彬がこの敷地の一部を使ってヨーロッパ式製鉄所やガラス工場などが置かれ、日本最初にガス灯が灯った場所でも知られています。
中でも目を引くのは150ポンド砲(復元)と、それを製造した反射炉の遺構です。
この大砲は、70?の弾丸を発射できる性能があり、口径28cm、砲身長4.56m、射程は実に3?で、薩英戦争の際に英国艦隊に対して大きな威力を発揮しました。
この反射炉はオランダの鋳造法の書物を参考に作られましたが、なかなか成功せず、苦労のあとが見られます。
ちょうど園内では、県菊花連盟の皆さんによる菊花展示が行われており、三色千輪咲き・大懸崖などの見事な菊が園内にあふれておりました。
ここにも廃仏毀釈の一端を見ることが出来ます。
明治2年、島津忠義の正室の葬儀を神式で行ったことがきっかけで薩摩藩内の寺院が一気に破壊されていきました。
島津家の菩提寺も例にもれず廃絶され、その代わりに鶴嶺神社が建立されました。
鶴嶺神社は仙巌園のすぐ横にあります。
■吉祥山紹隆寺(大本山永平寺鹿児島出張所)
曹洞宗大本山永平寺では、昭和63年に不老閣建替えが行われました。
その際に旧不老閣が鹿児島に移設され、紹隆寺の客殿となりました。
その後、本堂、山門、鐘楼堂等が建設され、堂々たる大伽藍となっています。
永平寺より修行僧が夏の期間は十数名、冬の期間は5名ほどが派遣され、修行を行っています。
拝登諷経の後、参拝者焼香。
ご丁重なる案内と展待をいただきましたことを改めて感謝申し上げます。
紹隆寺は、越前島津家を再興した16代忠紀以下、重富島津家の菩提寺として建立されました。
重富家 (16代)島津忠紀?(17代)島津忠救?(18代)島津忠貫?(19代)島津忠公?(20代)島津忠教
薩摩では、元文2年(1737年)、22代薩摩藩主島津継豊が、弟忠紀に越前家の名跡を継がせて復興させた(越前島津氏播磨家22代の権兵衛忠義の時である)。復興翌年・元文3年(1738年)、薩摩藩による龍野藩上村の越前島津氏の末裔・氏神・住居等の調査が行われた。調査を命じたのは前藩主吉貴、調査担当は家老島津權左衛門であった。その結果、権兵衛忠義は越前島津家一族と認められるも正嫡か否かについては断定されず、薩摩藩の調査は終了した(国宝『島津家文書』越前島津家由緒承合候日記全)。 復興に際して大隅国姶良郡帖佐郷の脇元村・平松村・船津村・春花村と、薩摩国鹿児島郡吉田郷の東佐田浦村の一部を割いて触田村とし、その5ケ村を以って越前の旧領名に因んだ重富郷と命名したことから、重富家とも称した。石高は1万4000石。重富家は島津御一門家の筆頭格として位置づけられ、後に「国父」の尊称を得て薩摩藩主島津忠義を後見した島津久光(忠教)も、同家の養子となっていた時期がある。久光の子・珍彦の時に男爵となった。 (『ウィキペディアWikipedia』より一部引用)
しかし、明治維新後に成立した新政府により発せられた太政官布告「神仏分離令」(慶応4年)及び詔書「大教宣布」(明治3年)などの「廃仏毀釈」の動きに巻き込まれ、紹隆寺は焼かれてしまいます。
廃仏毀釈は特に薩摩藩において徹底的に為され、藩内にあったとされる1616か寺が廃寺に追い込まれ、還俗させられた僧侶は2966人にのぼったとされています。
つまり、殆どの寺院が破壊されてしまった訳です。
現在は、紹隆寺を偲ぶ史跡は、墓所と、山門手前にある紹隆寺橋くらいでしょうか。
橋梁名 紹隆寺橋
所在地 姶良町平松原 道路種別 その他の町道
路線名 紹隆寺線 河川名 狩川 架設年代 明治初期
文化財 石工名 不詳 管理者 姶良町
【石橋諸元】
形式 拱橋 橋長 8.65 幅員 3.25
壁石積み方 不詳 支間数 1連
(鹿児島県立石橋記念館のサイトより引用)
11月19日、20日の日程で鹿児島へ貞昌院檀信徒の皆様と研修旅行に出かけした。
主な内容は
・大本山永平寺出張所参拝
・知覧平和観音慰霊法要
となっていますが、それに付随していくつかの箇所を廻ってきましたので、順次ご紹介させていただきます。
(2) 吉祥山紹隆寺(大本山永平寺鹿児島出張所)
(3) 仙巌園(磯庭園)
(4) 指宿温泉・砂むし風呂
(5) 知覧特攻平和会館
(6) 武家屋敷群
出発直前、羽田空港にて。
冬晴れの天候に恵まれ、富士山までとてもよく見渡せました。
手前は川崎縦貫道工事現場。突貫工事が進んでいます。
航路の途中、相模湾?駿河湾沖からの富士山です。
雪もかなり積もっていますね。
2日目の行程には太平洋戦争末期、陸軍特攻基地が置かれた知覧の町を訪問します。
特攻隊員として出撃した1000名を超える若者たちは、薩摩富士を目標として沖縄を目指しました。
平和な世の中に生きている私たちは、このように富士山をゆったりとくつろぎながら眺めることができるのですが、特攻隊員たちはどのような思いで薩摩富士を眺めていたのでしょうか。
■臨済宗南禅寺派 兜卒山伝法院 広園寺
創建は康応元年(1389)と伝えられています。
かつては十数万坪の寺域と十の塔頭がありました。
天正年間の豊臣秀吉による小田原攻めにより八王子城と共に焼失しました。
(翌年、徳川家康から15石の朱印状を得て再興)
元禄年間には、火災により山門以外の伽藍を消失してしまいます。
従って江戸初期の山門を除きそれ以外の建物は18世紀以降に再建されたものです。
それでも、八王子の市街地にあって広大な寺域を有する堂々たる雰囲気を現代に伝えています。
総門?山門?仏殿?法堂が一直線に並ぶ伽藍配置です。
雪が残る境内は趣があって良いですね。
特に質素簡潔な禅寺の雰囲気にはよく合います。
本堂の前には見性桜と呼ばれる枝垂桜があります。
桜の季節はさぞかし見事でしょうね。
夕暮れ間際の時間帯の訪問にも関わらず、ゆっくりと拝観させていただきました。
心遣いに感謝申しあげます。
これで一日研修の全行程が終了となりました。
余談ですが、昼食は拝島の石川酒造株式会社にて蕎麦をいただきました。
とても趣のある素敵な酒蔵です。
■臨済宗建長寺派 広徳寺
まずは、本堂の写真を。
・・・・・・実に美しい!
このような素晴らしい伽藍が東京都内にあるということに感動です。
広徳寺の開基は正応長者の妻(法名龍智智雲尼)で、明徳年間(1390-1394)に建長寺前住心源希徹和尚を請して開山としたと伝えられています。
江戸時代には境内12000坪を有し40石の朱印地が与えられていました。
これは、高尾山薬王寺に次ぐ規模であります。
伽藍配置は東向きに総門、山門(仁王門)、本堂が一直線に並びます。
山門(仁王門)は茅葺、寄棟造であり、階上には回廊が巡らされています。
扁額は「正眼閣」。
簡素で調和のとれた、典型的な禅宗様式の山門です。
総門は檜皮の葺替えが行われていました。
本堂は寄棟造であり、その右側に入母屋造の庫裏が配されます。
本堂と庫裏の間には唐破風の入口が設けられています。
堂々たる建物です。
北側斜面にあるため、境内にはまだたくさんの雪が残っていました。
広徳寺は紅葉も美しいことで有名です。
秋には改修なった総門、鐘楼堂を見ることが出来るでしょう。
■真言宗醍醐派別格本山 大悲山 塩船観音寺
天寧寺とは山を挟んだ東側に位置します。
関東八十八ヶ所霊場の1つ。
由緒縁起:大化年間、若狭の八百比丘尼が柴金の千手観音像を安置したことに始まります。
「塩船」の名は、天平年間に行基がこの地を訪れた際、周囲の丘が舟の形に似ているところから、仏が衆生を救う誓願の舟「弘誓の舟」になぞらえて、名付けられたものと伝えられています。貞観年間には、安然大和尚が十二の坊舎を建てるなど、興隆を極めました。
伽藍には室町時代の建物が並びます。
本堂・厨子、阿弥陀堂、山門(仁王門)は、国の重要文化財に指定されています。
本尊は十一面千手千眼観自在菩薩。
これは東京都の重宝でもあります。
茅葺の屋根に雪が積もって、さらに厳粛な雰囲気を醸し出しています。
5月には境内がつつじの花に包まれます。
けれども、ふんわり雪を被ったつつじの木々も美しいですね。
地元研修会にて、多摩の名刹を訪ねる一日旅行へと出かけてきました。
この地域には七堂伽藍が整った見事な寺院も多いのですが、近い割にはなかなか参拝する機会がありませんでした。
前日の降雪から一夜開け、路面凍結が心配でしたが、無事全行程を終えました。
その報告をさせていただきます。
■曹洞宗 高峯山 天寧寺
青梅市の北に位置する名刹です。
その荘厳な佇まいと、禅宗様式の伽藍配置は堂々たるものです。
回廊がきちんと巡らされている伽藍というのも貴重です。
その歴史は平安時代・天慶年間(938-946)までに遡り、「高峯山」の名で平将門により創建されます。
一時は廃寺になりましたが、室町・文亀年間(1501-1503)に青梅の領主であった三田弾正忠政定公により再興され、世の平安を願い天寧寺と名づけられました。
開山は山梨の広厳院二世一華文英大和尚。
なお、一華文英大和尚は武田信昌の従兄弟です。
武田家
信満―信重―信守―信昌―信縄―信虎―晴信(信玄)?勝頼
総門。
私たちを門の脇の六地蔵が迎えてくれます。
扁額の文字は「梅華林」
ちょうど梅の花も咲き始めました。
参道を進み、冒頭一枚目でご紹介した山門をくぐると、左に僧堂、正面に法堂、右に庫裏が配置され、回廊にて結ばれています。
天寧寺では七堂伽藍のうち、山門、法堂、僧堂、庫裏、東司が揃っている仏殿省略形永平寺式の伽藍配置です。
振り返ると中雀門の向うに雪に映える山門を望めます。
山門は宝暦10年(1760)に建立されており、多門天と増長天が左右に配されています。
楼上には木造十六羅漢坐像と釈迦如来像(室町時代・永正年間に下野弘円師作)が安置されています。
午後からの葬儀にも関わらず、御拝登の後ご丁寧な案内のもと諸堂拝観させていただきました。
接客の間からの裏庭・霞が池は見事です。
どこまでも続くような奥行きが感じられます。
雪の時期に参拝することができたことはとても幸運でした。
東香山大乗寺は石川県で最も古い曹洞宗寺院です。
山号は別称・椙樹林。
開山は、永平寺第三世・徹通義介禅師(1219?1309)です。
再来年(平成20年)、徹通義介禅師七百回御遠忌を迎えます。
公式サイトには漫画で禅師のご生涯が掲載されています。
このような親しみやすい形での紹介も一案だと思います。
漫画で読める徹通義介禅師の生涯
ヨーロッパの禅の布教に大きな役割を果たした弟子丸泰仙師(1914-1982)がパリで活動を始めてから3年後の1973年に、当時の一番弟子であったAlain Cassan 仙龍氏から土地建物の寄進を受け、フランス・アバロンの地に大乗禅寺を開設します。
その名前のもととなったのがこの大乗寺でした。
⇒関連記事
蛇足ですが、周防監督の映画 『ファンシイダンス』は、大乗寺にて撮影されたものです。
参道の石仏には一つ一つ数珠が掛けられていました。
洞谷山永光寺は、約700年前の正和元(1312)年、太祖常済大師瑩山紹瑾大和尚が45歳の時、能登国中川(現在の石川県羽咋市)の地頭、 酒匂頼親の娘(祖忍尼)の勧請により創建された開山禅師示寂の道場です。
創建当時は、本寺を中心に五院、二十数坊を擁して繁栄し、特に後醍醐天皇をはじめ、 南朝、北朝の帰依により勅願寺となり、光厳上皇の勅願による三重の利生塔の建立、 宗門唯一の霊場として曹洞宗五祖の遺物を安置した五老峯など、世の崇敬を集めました。
その後、二度(応仁2年、天正7年)の大乱に遭いましたが、天正10 (1582)年、前田利家により再興された後は、總持寺の末寺とされました。永光寺様式として曹洞宗伽藍構成の一典型を保っています。
永光寺様式とは、山門と正面の法堂を結ぶ軸線の右手に庫裡、書院、方丈、浴室、左手に僧堂、東司、鐘楼などがそれぞれ配置され、回廊で結ばれる配置が特長です。
現在の伽藍は寛永以後の再興で 往時を偲ぶべくもありませんが、平成の十年計画大修理を経て、諸堂宇の改修、整備がなされました。
法堂の奥に伝燈院があり、更に、その奥の石段の上には、高さ5mの墳丘、五老峰があります。
『洞谷記』によれば、五老峰には、高祖天童如浄禅師、二祖永平道元禅師、三祖孤雲懐奘禅師、四祖徹通義介禅師、五祖瑩山紹瑾禅師の祖師それぞれの遺品(如浄禅師の語録、道元禅師の霊骨、懐奘禅師の血経、義介禅師と瑩山紹瑾禅師の嗣書)が安置されているとされています。
この五老峰の裏から門前町の總持寺祖院に至る13里の山道が峨山道です。
總持寺二祖峨山禅師が永光寺を兼務していたころ、毎朝未明に永光寺の朝課を勤めてから、この道を辿り走り抜け、總持寺の朝課に駆けつけたといいます(峨山往来)。
そのため、總持寺で朝課において大悲呪を非常にゆっくりと眞読し、峨山禅師を待ち受けました。これが現在の大本山總持寺でも受け継がれています。
(実際に私達が峨山道を駆け抜けるには丸一日かかります)
もう一つ。
五老峰、伝燈院を参拝する際には、回廊に吊るしてある鐘を一打してから入堂するという作法があります。この鐘の音を聴いて、禅師さまが馳せ参じてくださるのです。
伝燈院の正面、一段高い壇正面には高祖天童如浄禅師から開山瑩山紹瑾禅師の尊像と位牌が祀られています。
さらに右左壇には明峰素哲大和尚からの尊像と位牌が配されています。
伝燈院は、時を超えて瑩山紹瑾禅師の法燈を立体的に感得し、礼拝することができる空間であるといえます。
今回の参拝において、普段は閉じられているこの伝燈院上壇への拝登をさせていただきました。
気持ちの引き締まる思いです。
写真はありませんが、尊像と位牌の配置図のみご紹介させていただきます。
| 開 山 勅 特 謚 佛 慈 禅 師 瑩 山 紹 瑾 大 和 尚 | 當 山 五 老 峰 孤 雲 奘 大 和 尚 禅 師 | 當 山 五 老 峰 天 童 浄 大 和 尚 禅 師 | 當 山 五 老 峰 永 平 元 大 和 尚 禅 師 | 當 山 五 老 峰 徹 通 价 大 和 尚 禅 師 | |
當山第三祖 | 祀 堂 | 當山第二祖 紹燈開基・光禅開山 明峰祖哲大和尚禅師 | ||||
當山第五祖 宝鏡開基・光孝二代 壷庵簡大和尚禅師 | 當山第四祖 大雄開基・總持二代 峩山硯大和尚禅師 |
地元の僧侶研修組織の仲間で石川県方面へ参拝旅行に来ております。
今年3月25日9時42分ごろ発生した能登半島地震は石川県輪島市を中心に大きな被害をもたらしました。
被害が集中した石川県輪島市門前町付近には曹洞宗大本山總持寺能登祖院をはじめ、芳春院、興禅寺など名刹も多いところです。
地震発生から半年余りが経過し、着実に復興への道を力強く歩んでいる姿を実感してきました。
地震発生の際に書いたブログ 能登地方で震度6強の地震が発生 の記事中にあった、倒壊した「總持寺祖院参道入口の手水舎」もこのような形で私たちを迎えてくれました。
しかしながら、境内随所にはまだ生々しい震災の爪あとが残されていることも事実です。
9月に開催された ゆめ観音アジアフェスティバル にて行われた托鉢の浄財をお届けさせていただきました。
山門には多数の瓦寄進が寄せられています。
伽藍の修復には十数年の歳月を要するとのことですが、街全体を含めた一日も早い復興を祈念いたします。
■曹洞宗 仏徳山 興聖寺
所在地 京都府宇治市宇治山田27
本尊 釈迦三尊像
安貞2年(1227) 道元禅師が天童山景徳寺如浄禅師に就いて釈尊より五十一代目の法を嗣ぎ帰国
? 深草(現在の京都市伏見区深草)の安養院(現在の墨染欣浄寺)に閑居
天福元年(1233年) 深草の極楽寺子院である観音導利院に滞在
嘉禎2年(1236年) 伽藍を整備し、観音導利興聖宝林禅寺に改名
寛元元年(1243年) 道元禅師越前に下向
? 以後応仁の乱(1467)などの兵火に遭うなどにより荒廃する
寛永10年(1633年)永井信濃守尚政公、山城国淀城主として入国
慶安元年(1648年)永井尚政公により伏見城の遺構を用いて諸道を建立整備
慶安2年(1649年) 万安英種禅師を招聘して現在地に復興
⇒詳細データはつらつら日暮らしWikiをご参照下さい。
研修旅行の最後は、宇治の興聖寺参拝をさせていただきました。
日本曹洞宗の宗祖である道元禅師開創になる初開道場であります。
平等院の駐車場より、鵜飼舟や宇治川の清流を眺めながら川に架かる橋を3つ渡り、琴坂を200メートル登り、興聖寺の山門に辿りつきました。
山門は天童山の山門と造りが似ており、「曹洞宗初開道場」と掲げられています。
法堂(本堂)は慶安元年(1648年)建立。伏見桃山城の遺構を用いて建てられました。
本尊は道元禅師自作と伝承される釈迦牟尼佛像です。
法堂にて拝登の法要を行い焼香をさせていただいた後、諸堂拝観。
老梅庵(開山堂)には、永興詮慧和尚代になる道元禅師尊像が安置されています。
ここでも法要を営ませていただきました。
僧堂。
慶安元年(1648年)に建立され、元禄15年(1702年)改修された建物です。
ご丁寧な諸堂拝観をいただき、興聖寺を後にしました。
私たちが琴坂を下りきるまで、ずっと合掌で見送っていただきました。
本当にありがとうございました。
ここより京都駅へ向かい、横浜への帰路につきました。
琴坂は、宇治十二景にも選定されており、秋の紅葉シーズンには見事な光景を見せてくれます。
檀信徒旅行(京都)報告(8)
檀信徒旅行(奈良)報告(7)
檀信徒旅行(奈良)報告(6)
檀信徒旅行(奈良)報告(5)
檀信徒旅行(奈良)報告(4)
檀信徒旅行(奈良)報告(3)
檀信徒旅行(奈良)報告(2)
檀信徒旅行(奈良)報告(1)
今回の旅行の第二のテーマは、夜間の伽藍を散策すること。
旅館で食事を戴いて、懇親会を行った後に皆で奈良公園周辺に繰り出しました。
昼間の猛暑とはうって変わって心地よい風が吹き渡ります。
人出もまばら(後述しますが二月堂の盆踊り会場に人が集まっていたこともあり)でゆったりと贅沢な時間を過ごすことができました。
夜間の拝観をお薦めする一番の理由は、建築の構造や彫像の凹凸が浮き彫りになって、昼間とまったく違った表情を見ることができるからです。
南大門の金剛力士像(阿吽)も、このような迫力で私たちを迎えてくれます。
どうですか、この筋肉美!ダビデの像より300年前に作成されたものなのです。
鏡池の周りを散策すると、刻々と変化する中門と大仏殿の様子が楽しめます。
池に写りこむ伽藍も美しいですね。
昼にも同じアングルで撮影していますので、対比してみました。
8月前半には人々の祈りをろうそくの灯りで照らす なら燈花会 が開催されています。
時期的に行くことはかなり困難ですけれど、一度は見てみたいなぁ。
二月堂へ続く石段。
月遅れの盆踊り大会が開催されていました。
静かに暮れ行く奈良の街並み・・・・
写真左端が東大寺です。
檀信徒旅行(京都)報告(8)
檀信徒旅行(奈良)報告(7)
檀信徒旅行(奈良)報告(6)
檀信徒旅行(奈良)報告(5)
檀信徒旅行(奈良)報告(4)
檀信徒旅行(奈良)報告(3)
檀信徒旅行(奈良)報告(2)
檀信徒旅行(奈良)報告(1)
■華厳宗・東大寺
所在地 奈良県奈良市雑司町406-1
宗派 華厳宗大本山
本尊 盧舎那仏(国宝)
創建年 8世紀前半
開基 聖武天皇
別称 金光明四天王護国之寺
文化財 金堂(大仏殿・国宝)、南大門(国宝)、盧舎那仏(大仏・国宝)ほか
中門(重要文化財) 、石造獅子(重要文化財) ほか
由緒・基礎データはWikiペディアをご参照下さい。
まずは南大門(国宝)。
南大門は、昨年から黄色いアクセントが加わりました。
かつて南大門には「大華厳寺」という額が掲げられていたとの記録があり、それに基づき、昨年、往年の姿に復元されたのです。
この揮毫は、聖武天皇によるもの(集字)です。
遠くからですと小さく見えますが、高さ1.6m、横4.5mもあります。
南大門には種子島から伝わった鉄砲などによる穴がたくさん空いています。
この門の前でも戦が繰返されてきたことを物語っています。
ちょっとしたトリビアですが、その穴の一つに、今でも当時の鉄砲の玉が埋まっています。
皆さん、是非探してみてください。
南大門から大仏殿に向かうと中門に突き当たります。
中門越しに大仏殿を眺めることができます。
中門の左右には持国天と多聞天(兜跋毘沙門天)が睨みをきかせていますのですが、特に、兜跋毘沙門天に注目してみましょう。
このような兜跋を着けた格好をしています。中国唐代のキジル地方に伝わる毘沙門天がシルクロードを経て日本に伝来しているのです。
さらに注目すべきは、毘沙門天が地天女の両手の上に乗っていることなのです。
何と力強い女性なのでしょうか!
なお、地天女の両側は尼藍婆・毘藍婆です。
大仏殿へ向かう敷石は、真ん中の黒い部分が印度の石、その両側の薄赤の石が中国の石、その外側の白い石は韓国の石、さらに両側が日本の石です。
仏教伝来の歴史を敷石で表現しています。
途中にある金銅八角燈籠(国宝)もお見逃しなく。
往年の伽藍は、南北に南大門-中門-金堂(大仏殿)-講堂 と並び、その北側に僧坊・食堂が配されていました。
中門手前の東西には七重塔が聳え、回廊に囲まれて建っていたのです。
大仏殿の大きさも現在よりもずっと間口が広い堂々とした建築物でした。
日本の建築技術の高さが伺えます。
七重塔の相輪。これだけでも巨大ですね。
<この記事は書きかけです>
■法相宗・興福寺
所在地 奈良県奈良市登大路町48番地
宗派 法相宗大本山
本尊 釈迦如来
創建年 天智天皇8年(669年)
開基 藤原不比等
文化財 五重塔(国宝)・木造弥勒仏坐像(国宝)・乾漆八部衆像(国宝)ほか
南円堂(重要文化財)・木造薬王菩薩(重要文化財)・薬上菩薩立像(重要文化財)ほか
世界遺産
由緒・基礎データはWikiペディアをご参照下さい。
往年の興福寺には三つの金堂(中金堂・東金堂・西金堂)があり、南北に南大門-中門-中金堂-講堂、東には五重塔・東金堂・食堂、西には南円堂-西金堂-北円堂が配置されていました。
しかしながら平重衡の兵火による焼失などの度重なる火災や、廃仏毀釈による破壊を受け、かつての伽藍配置を偲ぶことが難しくなっています。
そのため、現在、興福寺伽藍再建計画が進められています。
薬師寺と同じように、数年後に訪れるとしたら、壮大なかつての興福寺により近い形で蘇っていることでしょう。
どのような姿を見せてくれるのか、とても楽しみです。
写真左 中門付近より東金堂、五重塔を望む
写真右 中金堂再建予定地と回廊基壇
それにしても、奈良公園に隣接しているために東大寺も興福寺も鹿が多いですね?
滞在時間を余裕をもって取りましたので、国宝館仏像や美術工芸品、資料の数々を堪能することができました。
慶派仏師による力強い金剛力士像、天燈鬼、龍燈鬼・・・どれもルネサンス美術品にも引けをとらない迫力があります。
有名な阿修羅像の表情も近くから拝観することができます。
興福寺へお越しの際は是非国宝館をご訪問されることをおすすめします。
↓写真は 木へんに秋と書く植物、きささげです。背景は五重塔。
豆知識:この木は、高木となり、また水分を多く含むため、避雷針代わり(雷除け)として寺社境内によく植えられていたりします。
檀信徒旅行(京都)報告(8)
檀信徒旅行(奈良)報告(7)
檀信徒旅行(奈良)報告(6)
檀信徒旅行(奈良)報告(5)
檀信徒旅行(奈良)報告(4)
檀信徒旅行(奈良)報告(3)
檀信徒旅行(奈良)報告(2)
檀信徒旅行(奈良)報告(1)
■真言律宗・西大寺
所在地 奈良県奈良市西大寺芝町1-1-5
山号 勝宝山
宗派 真言律宗総本山
本尊 釈迦如来(重要文化財)
創建年 天平神護元年(765年)
開基 常騰、称徳天皇(勅願)
正式名 勝宝山 四王院 西大寺
文化財 絹本著色十二天像12幅(国宝)、金銅宝塔(国宝)及び納置品(国宝)ほか
本堂(重要文化財)、絹本著色釈迦三尊像(重要文化財)、木造釈迦如来立像(重要文化財)ほか
由緒・基礎データはWikiペディアをご覧ください。
西大寺は、創建当時は薬師金堂、弥勒金堂、四王堂、十一面堂、東西の五重塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍を持つ大寺院でしたが、平安以降に多くの堂塔が失われてしまいました。
鎌倉時代に、叡尊上人(1201?1290)により復興されました。
西大寺といえば、「大茶盛」で有名です。
この研修旅行では外部からの拝観のみだけではなく、行事を体験することを一つのテーマとしました。
叡尊上人が始めた「大茶盛」の行事は、延応元年(1239)、修正会翌日の1月16日に鎮守である八幡宮に献茶をして、そのお茶を参詣人にも振る舞ったことが由来とされています。
当時のお茶は、高価な薬でしたので、参詣人で回し飲んで一年の無病息災を祈りましたが、大人数に対応するために次第に巨大な茶碗を用いるようになりました。
床の間には雪の八幡宮の様子が再現されています。
巨大なお茶碗に抹茶が点てられます。
1人で持ち上げられない場合は隣の人が手伝ってあげるのが作法です。
抹茶はたくさん入っていますし、次々に回ってくるのでたっぷり戴けます。
最後にお茶碗を拝見。
蛇足ですが、ちょうどJR東海の撮影クルーの方々が十数人、境内でコマーシャル撮影をしておりました。
大茶盛は、撮影クルーの皆様とご一緒にいただきました。
もうしばらくすると、西大寺をテーマにしたコマーシャルが流れるのかも知れないですね。
檀信徒旅行(京都)報告(8)
檀信徒旅行(奈良)報告(7)
檀信徒旅行(奈良)報告(6)
檀信徒旅行(奈良)報告(5)
檀信徒旅行(奈良)報告(4)
檀信徒旅行(奈良)報告(3)
檀信徒旅行(奈良)報告(2)
檀信徒旅行(奈良)報告(1)
■法相宗・薬師寺
所在地 奈良県奈良市西ノ京町457
宗派 法相宗大本山
本尊 薬師三尊(国宝)
創建年 天武天皇9年(680年)
開基 天武天皇(勅願)
別称 瑠璃宮
札所等 西国薬師霊場1番、南都七大寺6番
文化財 東塔(国宝)、薬師三尊像(国宝)ほか
南門(重要文化財)、伝大津皇子坐像(重要文化財)ほか
世界遺産
由緒・基礎データはWikiペディアをご覧下さい。
薬師寺の金堂は、享禄元年(1528)に戦火で焼け落ちてから400年以上も仮本堂の状態となっていましたが、昭和42年に晋山された薬師寺管主・高田好胤師により発願された「復興発願」により、老朽化の著しい薬師寺は、往時の姿に蘇りました。
図面の残っていない中での復興作業は困難を極めましたが、最後の宮大工・西岡常一氏の熱意によりこの金堂復興作業は、5年の歳月を経て、昭和51年に完成します。
金堂から見る大講堂。
逆に、大講堂から見た金堂と東西の五重塔。
左側が東塔、真ん中が金堂、右側が西塔です。
金堂完成に次いで昭和56年には、三重裳階付の西塔が450年ぶりに再建されます。
そして、大講堂も竣工。
私が小学校の修学旅行で薬師寺を参拝したのは昭和52年でしたから、当時は金堂は再建直後、この西塔と大講堂は無かったのです。
写真を見ると分かりますが、東塔と西塔とでは基礎の高さが異なっていることが分かります。
全体で西塔は東塔よりも1.7m高く造られています。
その理由は、数百年の歳月を重ねて、西塔が低くなっていき、やがて同じ高さに揃うことを計算しているからなのです。
その内訳は、
・元来、東塔の地盤標高が西塔より35センチ低い
・1300年間で東塔の基壇が重みで80センチ沈下
・1300年間で東塔全体が30センチ圧縮
・修復のため東塔一層目20センチ切断
------------------------
計約165センチ程の高低差
ということになります。
悠久の時間の経過を眼に見ることができるというのは凄いことです。
なお、薬師寺再建に携わった山口さんのホームページに薬師寺西塔建築の珍しい写真が掲載されておりますのでご紹介いたします。
薬師寺北側の玄奘三蔵院伽藍では、ちょうど玄奘三蔵院伽藍と平山郁夫画伯筆による大唐西域壁画殿の公開が行われていました。
大唐西域壁画殿には、平成12年に平山郁夫画伯が入魂された、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」が「本尊(須弥山)」および「脇侍(日光菩薩・月光菩薩)」として配置されており、また、天井にはラピスラズリをふんだんに使用し、満点の星空・星座を正確に再現した天井画が描かれています。
⇒平山郁夫「生かされて生きていること」の自覚を忘れまい (プレジデント)
写真は大唐西域壁画殿脇に咲く萩の花
ボロディン作曲の歌劇を原曲とし、オリジナルのアレンジと歌詞にてJR東海の「うまし うるわし 奈良」キャンペーンのTVCMの音楽用に制作された「Again」。
素晴らしい映像とともに心に染みいる音楽をこちらから楽しむことができます。
原曲:BORODIN ALEKSANDRE PORFIREVICH(歌劇「イーゴリ公」よりダッタン人の踊り)
作詞:草間和夫 英訳詞:MISUMI 編曲:加藤みちあき 唄:Nello Angelucci Donna Burke
補足
平山郁夫画伯は、ゆめ観音アジアフェスティバルで後援をいただいている(財)かながわ国際交流財団の会長もつとめられています。
檀信徒旅行(京都)報告(8)
檀信徒旅行(奈良)報告(7)
檀信徒旅行(奈良)報告(6)
檀信徒旅行(奈良)報告(5)
檀信徒旅行(奈良)報告(4)
檀信徒旅行(奈良)報告(3)
檀信徒旅行(奈良)報告(2)
檀信徒旅行(奈良)報告(1)
■聖徳宗・法隆寺
由緒・基礎データについてはWikiペディアを併せてご参照下さい。
また、tabian.comさんのサイトがとても参考になり、楽しめます。オススメ。
所在地 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1
宗派 聖徳宗総本山
本尊 釈迦如来
創建年 (伝)推古天皇15年(607年)
開基 推古天皇・聖徳太子
別称 斑鳩寺
文化財 金堂(国宝)、五重塔(国宝)、夢殿(国宝)他 (多すぎてとても書ききれません)
中門金剛力士像(重要文化財)他 (これも多すぎて・・・・)
世界遺産
日本最古の木造建築群だけあって、見所はたくさんあります。
時間をたっぷり取ってゆっくりと拝観いたしました。
全ての建物を紹介することは不可能ですし、いろいろなサイトにも紹介されています。
何よりも自分の眼で見ることが一番ですから、ここでは幾つかをご紹介するに留めます。
境内の樹木は、このように上部が痛々しく剪定されてしまっています。
これは、平成10年、台風により倒れた巨木により室生寺五重塔が倒れてしまったことにより、重要な建築物に被害が及ばないようにという措置だそうです。
仕方が無いといえば仕方が無いですが、少し寂しいですね。
法隆寺で有名なエンタシスの柱ですが、ギリシャ様式のエンタシスとは多少異なり、柱の下が膨らみが大きく、上のほうが膨らみが少ないことがわかります。
目の錯覚を利用して、柱が真っ直ぐに見えるようにという意図が指摘されています。
しかしながら、エンタシスよりも注目すべきは、例えばこの柱↓です。
上下で部材が異なっていますね。
裏から見ると右写真のように、複雑についでいることが分かります。
このように、金具を使わずに、木材の接合部をノミや鋸でほぞや仕口を作り、その噛み合わせによって強固に接合する技術を用いています。
東院・西院の伽藍をゆっくり見て廻ることができるというのはなんという贅沢な時間なのでしょうか。
また、各伽藍の中に安置されている仏像・美術工芸品の数々、そして大宝蔵院の展示を見ると、パリの美術館にも負けない濃い内容であると感じます。
なお、ちょうど大宝蔵殿にて平成19年度秋季法隆寺秘宝展が開催されておりましたので、見学して参りました。
西院伽藍に関する、「いつ」「誰によって」建立されたのか?という疑問に対する学術的なアプローチがなされています。
また、平安の極彩仏像よみがえる/法隆寺の毘沙門天・吉祥天などで報じられた、当時の極彩色が復元された毘沙門天立像と吉祥天立像(いずれも国宝)レプリカも展示されておりました。
東院伽藍へ続く道。夢殿の屋根が見えますね。
それにしても暑い!!
国宝指定の建造物・美術工芸品は下記のとおりです。
【建造物】 ⇒位置については公式サイトが参考になります。
・西院伽藍
金堂<飛鳥時代>
五重塔<飛鳥時代>
大講堂<平安時代>
経蔵<奈良時代>
鐘楼<平安時代>
中門<飛鳥時代>
聖霊院<鎌倉時代>
網封蔵<奈良時代>
食堂<奈良時代>
東室・西室<奈良時代>
三経院<鎌倉時代>
西円堂<鎌倉時代>
南大門<室町時代>
東大門<奈良時代>
・東院伽藍
夢殿<奈良時代>
伝法堂<奈良時代>
東院鐘楼<鎌倉時代>
【美術工芸品】
銅造釈迦如来及両脇侍像 止利作(金堂安置)
銅造薬師如来坐像(金堂安置)
木造四天王立像(金堂安置)
木造毘沙門天・吉祥天立像(金堂安置)
塑造塔本四面具 78躯・2基(五重塔安置)
木造薬師如来及両脇侍坐像(大講堂安置)
乾漆薬師如来坐像(西円堂安置)
木造釈迦如来及両脇侍坐像(上御堂安置)
銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏)・木造厨子(所在大宝蔵院)
銅造観音菩薩立像(夢違観音)(所在大宝蔵院)
木造観音菩薩立像(九面観音)(所在大宝蔵院)
木造観音菩薩立像(百済観音)(所在大宝蔵院)
木造地蔵菩薩立像(所在大宝蔵院)
木造聖徳太子・山背王・殖栗王・卒末呂王・恵慈法師坐像(聖霊院安置)
木造観音菩薩立像(救世観音)(夢殿安置)
乾漆行信僧都坐像(所在夢殿)
塑造道詮律師坐像(所在夢殿)
玉虫厨子
黒漆螺鈿卓
四騎獅子狩文錦
■聖徳宗・中宮寺
所在地 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1-1-2
山号 法興山
宗派 聖徳宗
本尊 (伝)如意輪観音
創建年 (伝) 推古天皇29年(621年)
開基 (伝)聖徳太子
文化財 木造菩薩半跏像(国宝)・天寿国繍帳残闕(国宝)
紙製文殊菩薩立像(重要文化財) ・紙本墨書瑜伽師地論(重要文化財)
境内は夢殿のすぐ東に接する子院地にあるため、そのまま徒歩で拝観できます。
木造菩薩半跏像は微笑みが美しい漆黒の木造です。
しかし、かつては彩色がされていたということで、法隆寺の毘沙門天立像・吉祥天立像同様に、どのような色使いだったのかを想像しながら拝んでまいりました。
また、天寿国繍帳残闕は、その中に描かれる月の兎が特に印象的でした。
檀信徒旅行(京都)報告(8)
檀信徒旅行(奈良)報告(7)
檀信徒旅行(奈良)報告(6)
檀信徒旅行(奈良)報告(5)
檀信徒旅行(奈良)報告(4)
檀信徒旅行(奈良)報告(3)
檀信徒旅行(奈良)報告(2)
檀信徒旅行(奈良)報告(1)
貞昌院檀信徒研修旅行が9月17日(祭・月)?18日(火)の日程で開催されました。
本年は、希望調査の結果から、奈良方面への一泊二日の旅行ということに決定されましたので、それを基に行程を計画しました。
今回のコンセプトは「大人の修学旅行」。
修学旅行で大抵は訪れたことのある奈良ではありますが、大人になってからはなかなかゆっくり参拝することのできない寺社群を、ゆっくりと廻って行きます。
範囲も欲張らず、奈良近辺に絞り、一か寺あたりの滞在時間をたっぷりと取りました。
また、行程の一日目を祭日にすることにより、参加者の負担を少なくしておりますが、結果的に奈良への交通量(修学旅行生・トラックなどの物流)が少ないというメリットもあり、予定時刻よりもさらに余裕のある旅行となりました。
その他、普段見ることのできない寺社の風情を楽しむ企画も設けました。
その報告も順次させていただく予定です。お楽しみに!
出発地・新横浜駅での結団式。
偶然にも、今回参加者のうち7名もの方の苗字に「奈良」が付いています!
行程は下記のとおりです。
1日目(17日・祭日)
新横浜?(新幹線)?京都?奈良(昼食)?元興寺?法隆寺?中宮寺?薬師寺?奈良市内(泊)
2日目(18日・火)
?西大寺?興福寺?東大寺?(昼食)?(宇治へ移動)?興聖寺?京都?(新幹線)?新横浜
となっております。
従って、参拝した寺院は
真言律宗・元興寺
聖徳宗・法隆寺
聖徳宗・中宮寺
法相宗・薬師寺
真言律宗・西大寺
法相宗・興福寺
華厳宗・東大寺
曹洞宗・興聖寺
です。
由緒・基礎データについてはWikiペディアを併せてご参照下さい。
所在地 奈良県奈良市中院町11
宗派 真言律宗
本尊 智光曼荼羅(重要文化財)
創建年 推古天皇元年(593年)
開基 蘇我馬子
文化財 本堂(国宝)、禅室(国宝)、五重小塔(国宝)
東門(重要文化財)、着色智光曼荼羅図(重要文化財)ほか
世界遺産
元興寺の本堂は極楽坊とも呼ばれます。
正面から見ると、このように屋根の形が三角形に見えます。寄棟造の妻側が正面に来る屋根構造となっています。中央に柱があるのも珍しいですね。
↓写真は北側から眺めた本堂。
正面(東側)から見ると何故屋根が三角形に見えるかという理由が分かると思います。
行基葺きの瓦模様が美しいですね。
建築様式をじっくりと眺めるのも寺社参拝の醍醐味の一つです。
この本堂の正面には東門があります。阿弥陀堂建築は、東門から本堂正面を眺める造りになっているのが特徴です。
往時(奈良時代)の伽藍配置は、南大門-中門-金堂-講堂-鐘堂-食堂が南北に一直線に並び、金堂周囲には回廊が巡らされ、東に東塔院(五重塔)、西に小塔院という堂々たる伽藍でした。
奈良にあるほとんどの寺社は、その歴史の中で規模が縮小してしまっています。
この本堂と、その西側にある禅室は、かつての僧坊の一部分を鎌倉時代に改築したものです。
往時の伽藍がいかに規模が大きかったのかがよく分かりますね。
なお、元興寺は、この中院町の元興寺の他に、中世以降に分かれた新屋町所在の元興寺(華厳宗)があります。
昼食もこの近辺でいただきました。
檀信徒旅行(京都)報告(8)
檀信徒旅行(奈良)報告(7)
檀信徒旅行(奈良)報告(6)
檀信徒旅行(奈良)報告(5)
檀信徒旅行(奈良)報告(4)
檀信徒旅行(奈良)報告(3)
檀信徒旅行(奈良)報告(2)
檀信徒旅行(奈良)報告(1)
貞昌院檀信徒研修旅行で奈良に来ています。
悠久の歴史を堪能中。
報告は後程・・・・・
檀信徒旅行(京都)報告(8)
檀信徒旅行(奈良)報告(7)
檀信徒旅行(奈良)報告(6)
檀信徒旅行(奈良)報告(5)
檀信徒旅行(奈良)報告(4)
檀信徒旅行(奈良)報告(3)
檀信徒旅行(奈良)報告(2)
檀信徒旅行(奈良)報告(1)
春の中国旅行の報告では、中国で見かけたものあれこれ という記事で締めくくりました。
ということで、今日の記事は、フランス旅行でのスナップ写真でお送りする「フランスで見かけたものあれこれ」です。
(1)エッフェル塔南側の Parc du Champs de Mars を行く警察騎馬隊。優雅ですね?
(5)セーヌ川沿いの屋台。一軒一軒がコンテナのようになっており、昼間はいっせいに本屋や絵葉書屋、CD屋が立ち並ぶ光景が見られます。
(6)街角では家族でブランチを取る光景があちこちで見られます。
絵になりますね
(11)街には画家が溢れます。右の女性が描いたフラミンゴの絵。
ちなみに、売っていただけるとしたらいくらかを訊ねたら、2000ユーロとのこと。
ごめんなさい、手が出ません。
(12)下から見上げるエッフェル塔。
こうしてみると大きいですね。繊細な骨組みが目を引きます。
(13)深夜の凱旋門。青い夜空オレンジ色に映し出される姿が美しいです。
こんな夜でもやっぱり凱旋門の周りをぐるぐる車が廻っています。
凱旋門の屋上までは、歩いて上る事が出来ます。人もひたすら螺旋階段をぐるぐる廻りながら登ります。
階段は下まで吹き抜けになっていて、見下ろすとみごとな幾何学模様が見られます。
杭州・西湖の畔にある浄慈寺。
如浄禅師ゆかりの寺院であり、墓所もここにあります。
大雄宝殿には、盧遮那大仏が安置され、裏側には済公和尚が祀られています。
妙法蓮華経が刻まれた「南屏晩鐘」は1986年に曹洞宗から寄贈されました。
その元の鐘は、残念ながら残されていませんが、明代に鋳造されたものです。
霊隠寺は、杭州でもっとも参拝者の多い寺院です。
そのあたりは、中国で広がる宗教心 ‐追記をご参照下さい。
その歴史は1600年を数えますが、唐代にはすでに大伽藍を初め、様々な伽藍が建立されました。
最盛期の五代呉越国時代には数千人の僧侶が修行していたとのこと。
太平天国のおりには、天王殿と羅漢堂を除いて壊され、大雄宝殿も近年建替えられるなど、伽藍堂宇の多くは、清代?現代に再建されています。
しかし、飛来峰の磨崖仏のように、南宋から残される貴重なものも多数遺されています。
飛来峰の名前の由来は、咸和元年(326年)慧理和尚が、杭州の美しい景色を見て驚き、インドの霊鷲山がここに飛来したようだと表現したことによります。
慧理和尚が建立した草庵が、現在の霊穏寺の元となっています。
霊隠寺は、雲林寺としても親しまれています。
大雄宝殿には、24本のクスノキで造られ金メッキが施された釈迦坐像(高さ24.8m)が安置されています。
ちょうど、法要が営まれておりました。
参拝者も一緒に読経をしていきます。
羅漢堂は最近の建物ですが、高さ12.6mの銅の御殿と、そこを中心にとりまく五百体の銅の羅漢像は圧巻です。
阿育(アショカ)王山広利寺。
道元禅師が明州慶元府(現在の寧波市)に到着されたとき、日本から運ばれてきた食材を求めにやってきた阿育王山広利寺の老典座和尚と出遭います。
道元禅師は、老いた典座和尚がはるばる歩いてきたのを見て、なぜ、あなたほどの高僧が自ら買出しにやってくるのかを訊ねます。
老典座は、「あなたは修行の意味や文字の意味をご存じではないようだ」と答え、その場を去っていきました。
数ヵ月後、天童山に籍を置いた道元禅師に、老典座が逢いに来ます。
阿育王山での任期を終えて故郷へ帰る途中、どうしても道元禅師に面会したかったのです。
道元禅師に再会した典座和尚は、文字とは「一二三四五」であり、修行とは「偏界曾て蔵さず」ということを教示します。
つまり、目に映り耳に聴こえる全てが生きた文字であって、全てのものが隠すところ無く仏道の真理であるということでしょう。
道元禅師が典座教訓を著すきっかけとなった出会いは、ここ阿育王山広利寺と深いかかわりがあります。
山門?天王殿?大雄宝殿?舎利殿 という直線の配置となっています。
舎利殿は清代康煕18年(1679年)に創建、1916年再建されました。
金色の瑠璃瓦が特徴。とても煌びやかで眼を引きます。
大雄宝殿にも舎利殿にも、屋根の中央には鏡が設置されています。
初めは神道の御神体のようなものかと思ったりしましたが、そうではなく、鏡に自分の姿を映すことができれば願意が叶うということです。
柱と梁は珍しく木材が使われています。
材料は日本から運ばれて来たとのこと。
どうりで、懐かしい感じがするわけです。
道元禅師入宋の地・寧波?天童山 の続きです
天童寺山から山道を20分ほど歩いた場所に、古天童があります。
古天童は、西晋永康元年(304年)、太白山麓に、義興老和尚により建立され、唐代に太白精舎として営まれましたが、山崩れに合い、至徳2年(757)に伽藍は現在の場所に移築されました。
元あった場所は古天童とよばれて、東谷塔林として、歴代の住職が祀られています。
[左]重興密雲円悟禅師
[中]開山義興始祖老和尚
[右]中興宏智正覚禅師
古天童へ続く道の光景。
おそらく道元禅師もこのような光景を眺めながら毎日を過ごしておられたのでしょう。
日本曹洞宗の開祖、道元禅師は、24歳の春(1223年)、明全和尚と共に宋へ渡航します。
もちろん、当時は飛行機などあるわけもなく、小船で一ヶ月以上かけてそれこそ命がけで海を渡ったのでしょう。
宋代には、明州は広州・泉州とで三大貿易港の一つであり、道元禅師はこの明州慶元府(現在の寧波市)に到着されるのですが、上陸の許可があるまでの間、しばらく船中に留まることとなります。
この期間は、道元禅師・明全和尚共に中国の言葉を学ぶ良い期間であったのかもしれません。
そして、日本からの輸入品を仕入れに来た阿育王山広利寺の老典座との出会いもこの港でありました。
当時の入国管理事務所のあった場所は、現在、「寧波世界貿易中心(寧波ワールドトレードセンター)ビル」が建っています。写真の左端の黄色いビルです。
道元禅師はここから上陸されたのでしょう。
道元禅師が上陸された付近(上の写真の右端・橋の付近)に、1998年、大本山永平寺宮崎奕保禅師発起人として、記念碑が立てられています。
碑には次のように記載されています。
南宋嘉定16年(1223年)4月、日本僧道元禅師、海を渡りこの明州慶元府(寧波市)に着き、商船内で阿育王寺の老典座と相見された。 宝慶元年(1225年)道元禅師は太白山の景徳禅寺(太白山天童寺)にて住持如浄禅師に相見し、その膝下で一生参学の大事を成就された。 日本に帰国された道元禅師は、永平寺を創建し、日本曹洞宗の開祖と仰がれている。 謹んでここに記念碑を建て、日中両国の文化交流と人民の伝統友誼の証とする。
記念碑の脇は、交通量の多い幹線道路(山東路)となっています。
宋代の様子とはずいぶん変わっていることでしょう。
道元禅師は宋の地を踏んでから、禅宗五山を初めさまざまな地を巡り、やがて、天童山景徳寺に籍を置き、無際了派禅師の元で修行をされます。
明州の港から天童山への道は、その途中に800年前と変わらない黒瓦屋根の集落が見られます。
道元禅師が辿った道を、私たち一行のバスも進んでいきました。
天童山に続く参道。
背後の山々は、道元禅師の頃とあまり変化がないのではないでしょうか。
その後、禅宗五山を初め、各地に遍参し、同行していた明全和尚が亡くなった直後に再び天童山に戻り、新しい住持(三十一世)・如浄禅師に師事することになります。
した。
道元禅師は、如浄禅師との出会いの印象を 「我 人に逢うなり」(『正法眼蔵』「有事」)と残しています。
五カ月後に如浄禅師から仏祖正伝菩薩戒脈を授けられます。
法堂にて拝登諷経
昼は点心の精進中華料理をいただきました。
印象的な料理をいくつか。
[左]白い砂肝のようなものは蒟蒻。歯ごたえが心地よいです。
[右]魚の形をした擬似豆腐。
山門?天王殿?仏殿?法堂 と直線状に配置し、、そして東西に禅堂を周囲を回廊で結ぶという様式となっています。
(宋代の伽藍配置とは多少異なります)
法堂の上は蔵経楼。
大般若経他たくさんの経典が収蔵されています。
法堂付近より、仏殿・天王殿方向の天童山全景。
境内の井戸、大楠や竹林などを除いては、道元禅師の修行されていた頃の伽藍は、残念ながら現在は残されていません。
そして、最盛期には、千人を超える修行僧たちも、文化大革命にり、全て還俗させられてしまいました。
その後、少しづつ復興され、1979年、日本曹洞宗の援助により伽藍の修復がなされました。
修行僧たちも徐々に増え、現在は100余人もの修行僧たちが在籍しています。
3月6日?9日までの日程で中国・浙江省へ教区寺院三か寺合同で檀参旅行に出かけました。
禅の源流を訪ね、道元禅師の足跡を辿る旅です。
その報告を下記にまとめました。
順次追加していく予定です
【2日目行程】
湯田中温泉・よろづや?小布施・岩松院、北斎館、市内散策?中野(昼食)・さくらんぼ狩り?善光寺?(関越道・首都高)?貞昌院
よろづやの”売り”はなんといっても温泉です。
源泉かけ流し、文化遺産の桃山風呂、広大な露天風呂・・・・今回の旅行は、この宿を指名で計画させていただいたほどです。
小布施・岩松院
曹洞宗の寺院で、葛飾北斎の天井画・八方睨みの鳳凰図が有名ですが、小林一茶の「痩せ蛙・・・」の俳句で知られる蛙合戦の池もある、文化的にも見所満載の名刹です。
小布施は栗の産地としても有名です。
街並みは黒壁デのザインで統一されています。
昼食後にさくらんぼ狩りを楽しみました。
丁度さくらんぼの最盛期となっていて、枝にはたわわに様々な種類のさくらんぼが実っています。
行程の最後に善光寺詣でをして、旅のしめくくりとなりました。
GWの合間に休みをいただき、小淵沢・八ヶ岳方面へ小旅行してきました。
都心からそれほど距離の離れていない場所なので手軽にいけるということが最大の利点です。
懸念された渋滞も、それほど激しくなく、御殿場?河口湖?御坂のルートもスムーズに進むことができました。
途中、河口湖からの富士は本当に見事でした。
連休中はあちこちでイベントが開催されています。
これは北杜市・長沢花の森公園でおこなわれている長沢鯉のぼりまつり。
清里・清泉寮にて
好天に恵まれ、南アルプスの山々が手に取るように見えます。
旅行の拠点として宿泊したリゾナーレ小淵沢。
http://www.risonare.com/
特に家族での旅行には最適なホテルだと思います。
■インターから近いこと
■家族向けの部屋など、様々なタイプの部屋が用意されていること
■大きなクア施設つき温水プールがあること
■イベントが季節ごとに用意されていること
■サービスに工夫がされていること
■観光地が近くにたくさんあること
などなど。
十数年前に出来たホテルですが、施設も綺麗に維持されていて好感が持てます。
プールサイドにはジャグジーや打たせ湯もあり、また、プールの水温が高めなのでとてもくつろげます。
一時間おきに巨大波が押し寄せたりします。
夕食をレストランで堪能した後は、プールサイドでの演奏会を聞いたり、森を散策したり、贅沢な一日を過ごすことが出来ます。
部屋に戻って、清泉寮パン工場で買ってきた五穀パンやホテル内のコンビニエンスストアで購入できるワインやチーズなどでゆったりと晩酌を楽しんだり・・・
なお、このホテルで開催されているインフォラータについては昨日のエントリーをご参照ください。
http://teishoin.net/blog/000430.html
「インフィオラータ」とは、イタリア語で「花を敷きつめる」という意味です。
道路・広場などに花びらなどにより絵模様を描き、鑑賞に供するというイベントですが、その元となる祭典は、ローマ南部のジェンツァーノ市で毎年6月に2日間(準備をいれると3日間)行われている伝統的な「宗教的儀式」です。
最近は、日本の各地でも実施されるようになりました。
チューリップの花びらを敷き詰めるため、時期的にちょうどゴールデンウイークのイベントとして最適ですから、急速に広まったのでしょう。
チューリップの花びらを、このように敷き詰めていきます。
生ものですから、時間によってその表情は変化していきます。
※写真は、リゾナーレ小淵沢のインフィオラータです。連休中に開催されています。
http://www.risonare.com/event/information/news.html
平成八年に大本山總持寺独住第二十二世 大環正應禅師(成田芳髓禅師)の晋山式礼が執り行われましたが、その晋山式礼の準備運営に係わった事務局の仲間が、当時事務局次長の地元、山口に集いました。
おりしも、事務局長であったH師の七回忌とも重なり、是非という皆の思いが一つになり、実現に至ったものです。
開催場所は、山口県・長門湯本温泉。
歴史と文化と食と温泉、いろいろな意味で贅沢な二日間となりました。
写真はO事務局次長の本寺である大寧寺の山号額。
鮮やかな青が目を引きます。
大寧寺は、応永17年(1410)大内家の支族、鷲頭弘忠公が、石屋真梁禅師を開山として迎え、開創となっています。
【開山堂である智日堂】
石屋禅師は、18歳で中国に渡り、20年間の修行の後、南北朝に分かれていた皇室を、後小松天皇の勅命による合一の働きとして成し遂げ、皇室からの信頼を得ました。
その学徳兼備の名声を礎として、かつては全国に600余の末寺を持つ僧録寺として称えられ、その壮大なる伽藍は、全景古図に見ることができます。
また、戦国時代最大の悲劇のヒーロー、大内義隆公が自刃された地としても有名です。
「討つ人も討たるる人も諸共に 如露亦如電 応作如是観」
山門の礎石。
全景古図と併せて見ると、感慨深いです。
山門へ通じる参道の清流にかかる磐石橋です。
大小の石を組み合わせて橋梁、橋脚が形成されています。
現在渡ることは出来ませんが、とても文化的価値の高い橋です。
本堂の魚鼓。
深い歴史を感じさせますね。
境内には、長門豊川稲荷が祭祀されています。
明治維新の神仏分離・廃仏毀釈により妙厳寺と豊川稲荷を分離する権力に直面した際に、大寧寺四十五世簣運和尚により、三条実美卿を説得し、守った因縁により、豊川稲荷が設置されているのです。
当日、大寧寺では精進料理教室が行われていました。
また、授戒会も定期的に行われており、このような生きた活動を積極的に行っている現住職の姿勢は見習わうべき面がたくさんあります。
大寧寺の目の前に長門湯本温泉がありますが、元来、長門湯本温泉の一帯は大寧寺の寺領であり、現在でも湯本の泉源は大寧寺の所有となっています。
長門湯本温泉で一番有名な大谷山荘は大寧寺の元宿坊として、とても関係が深く、名物のふく料理を堪能させていただきました。
もちろん、湯量豊富な温泉もとても素晴らしいの一言です。
新居浜の佛国山・瑞応寺専門僧堂です。
由緒縁起 文安5年(1448)生子山城主松木景村公により創建。
天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征により、寺も戦火に遭う。
万治3年(1660)分外和尚により再興、広島県徳雲寺の九世白翁禅師を迎える。
文政11年(1828)に焼失。
天保元年(1830)本堂と僧堂、安政3年(1856)山門と中門、回廊が完成。
更に明治30年(1897)に専門僧堂を開設。
山門を入り、本堂を正面に見て左側に僧堂、右側に庫院という伽藍配置。
僧堂には月舟禅師書による額が掲げられています。
聖僧さまの台に「ゲタ」が履かせられて、高さを調整している事がわかりますね。
その理由は、境内向い側にある韋駄天さまの目線と聖僧さまの目線を合わせるためです。
↓僧堂から庫院方面を望む
僧堂の魚鼓(ほう)。
永年に亘って、食事の時間を堂内に知らせてきた証が刻まれています。
僧堂と反対側にある韋駄天さま。
二つ上の写真で見える建物に安置されています。
併設されている光幼稚園の園児が、毎朝韋駄天さまにお参りし、本堂前でお勤めをします。
教育と宗教が切り離されがちな現代にあって、このような生きた教育をおこなってくれる幼稚園はとても貴重です。
一日の行持を記した黒板。
地方僧堂の特色がよく表れています。
本山修行も大事ですが、その後、このような地方僧堂でゆったりと先哲の教えに触れる生活も貴重だと感じます。修行僧が羨ましいです。
瑞応寺のシンボル、大銀杏。
金毘羅大権現を祀りるご神木でありますが、県の天然記念物に指定された際に樹齢八百年と推定されました。この八百年は、花尾山金毘羅大権現の創建された年代とも一致します。
ただし、内ノ宮社記には、「ある夜、銀杏樹の上に天の羽衣を着る神人あり。月庭和尚すなわち、斎戒、沐浴、焼香、礼拝、誦経すれば空中より金弊下る。一心祈願すれば紫雲たなびき、天華乱墜して神霊形を現す。よってこれを勧請し奉る。時に霊異あり云々・・・・」という元禄十年の記述があり、樹齢三百年は少なくとも経っていることは間違いありません。
瑞応寺の歴史を見守ってきた歴史ある大銀杏です。
寺院の伽藍は、歴史と地域性により、その配置が異なっています。
基本的な禅様式の伽藍配置を基本としているわけですが、その伽藍をきちんと使いこなしている寺院というのは意外と少ないことに気づきます。
折角、七堂伽藍があるのに、その建物を使っていなかったり、維持できずに荒廃してしまったり。
曹洞宗門として、このような寺院に何らかの維持に向けての施策をとっていかないといけないでしょう。
瑞応寺は、その意味で、とてもよく運営されている専門道場だと感じます。
隅々まできちんと清掃の行き届いた伽藍がそれを物語っています。
一、火もと 忘るるなかれ
一、戸じまり ゆるむなかれ
一、朝おき いとうなかれ
一、食べもの 好き嫌いするなかれ
一、節約 かわることなかれ
一、掃除 おこたることなかれ
追記:
瑞応寺は、法堂が真北を向いて配置されています。
つまり、法堂の北側に山門があります。
http://local.google.co.jp/maps?ll=33.919619,133.300434&spn=0.006749,0.009479&hl=ja
寺院の法堂(本堂)は、なるべく南向きに作られるのが通常なのですが、○○に向かって本堂がつくられたり、地形的な理由により向きが変えられたりするわけです。
瑞応寺の場合は後者ですね。
デイタイムに行っている仕事(書類精査・取りまとめ作業)をお休みして、四国に来ています。
一泊二日という、束の間のゆったりした時間です。
空路、世界遺産に登録された熊野古道の山並みがとてもよく見えました。
第一日目の旅先から一箇所だけ簡単にご紹介します。
阿波・曹洞宗丈六寺です。
丈六寺の伽藍配置は、いわゆる三門ー仏殿ー本堂ー方丈が一直線に並ぶ禅宗様式とは異なることが特徴です。
特に、三門は本堂に対して斜めになっており、仏殿にあたる観音堂は本堂の左奥の離れたところに配置されています。
三門から回廊右側に徳習院と庫裏、回廊右側に禅堂・経堂が配置され、両側から本堂に回廊で結ばれています。
本堂の奥が書院となっています。
三門の手前に中門、総門(一の門)があり、この総門が第一の入り口にあたります。
総門りは、県道から数段見下ろす形で造られています。
普通、寺院は総門から坂を上がっていくように伽藍を造っていくのですが、この丈六寺は逆に、だんだん下っていく形で三門に進んでいきます。
三門は、室町末期の建立。
禅様式(唐様)を基調として、二階には和様が取り入れられています。重要文化財指定。
県文化財指定の書院の庭です。
配置された飛び石が特徴的です。のんびりと庭を眺めながら抹茶をいただきたい場所です。
経蔵(元坐禅堂)。
通常は回廊で結ばれている配置を取るのですが、前述したように、離れた位置に配置されています。
内部も珍しい造りになっていますね。ここの床(タタキ)は素晴らしいです。
さらに離れた所に配置されている観音堂(佛殿)。
明治時代に国宝指定(現在は重文指定)された聖観世音菩薩が安置されています。
高さ3.6mの堂々たる、国内最大級の仏像の一つです。
(撮影許可済)
観音堂裏の墓所。
細川成之をはじめ、寺院興隆につとめた多くの方の五輪塔が並んでいます。
その巨大さに圧倒されます。
以上、速報的に公開しました。
(四国・琴平にて記す)