戦争遺跡写真とトーク

あーすプラザホールで開催された「戦争遺跡写真とトーク」に参加してきました。
内容は2部に分かれており、前半を写真家・安島太佳由氏のスライドを元にした戦争遺跡写真トーク、後半はテニアン島で少年時代を過ごした佐藤孝則氏のテニアンの戦い1944年7月トークという構成でした。

まずは用語の定義ですが、「戦争遺跡」とは、明治期以降から太平洋戦争終結までの間に造られた軍事施設や軍需工場、戦災建造物などの跡のことです。
世界遺産に登録されている原爆ドームも代表的な世界遺産の一つです。
原爆ドームは広島の復興と共に再開発で取り壊される危機にあったのですが、それが保存されることとなり戦争遺産の重要さが広く認識されるようになりました。

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戦争遺跡は「物言わぬ証言者」ともいわれ、戦争の記憶を語り継ぐ呼び起こす貴重なものなのです。

 

後半の佐藤さんの話は貴重なものでした。

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■佐藤孝則
昭和5年(1930年)生まれ
1933年(昭和8年)一家でテニアン島に移住
1944(昭和19)年6月空襲、艦砲射撃が始まり洞窟に隠れる。
7月24日米軍上陸、島内を逃げ惑う。
南端の岬で自決する家族が相次ぐが佐藤家は父親が「最後まで生き延びよう」と決断し、これ以後も島内を逃げ回る。
左足に破片を受けて負傷、食料を探して家族とはぐれる。
米軍塹壕の食糧を求め米兵に左足に銃弾を受ける。
その後父親と再会、ともに降伏をする。


■kamenoメモより

昭和2年、昭和金融恐慌が起こり、一家共々福島から借金を返済するために南洋興発の募集に応じた。
3歳の時にテニアン島に渡り、住吉神社の近くに住んでいた。
昭和16年から太平洋戦争勃発し、17年から18年にかけて戦況が悪化。
借金も返済できる目処が立ったので日本に引き上げようかと考えていたが、陸地に留まったほうが安全だという父親の判断で引き上げはとりやめた。
結果的にこの判断で今の自分がある。
本土からの物資の輸送が滞っていたため、主食は決まっていないが、パンの実、パパイヤなどを取って、コンクリート製の臼で潰して食べたり、陸稲などを栽培し暮らしていた。

そのうちに飛行場建設に借り出されるようになった。
テニアンには4つの飛行場があり、街の近くには第四飛行場があり、トロッコ、モッコなどを使って自分たち小中学生も絶対国防圏を守るために労働の場に借り出された。
昭和19年2月頃から艦載機が空襲に来るようになった。
それがだんだん激しくなったため、街からカルロナス台地へ非難。
台地の東海岸は断崖絶壁で無数の洞窟があるために、穴の奥にいればとりあえず安全だったため、洞窟暮らしが始まった。
6月頃までは10機くらいの戦闘機が台地を掠めて飛んでいたりしたが、6月11日に海兵隊がサイパン・テニアンに上陸した日には、海見渡す限り艦隊が埋め尽くし、グラマンが絶え間ない攻撃を仕掛けてきた。
日本軍の応戦も最初の1、2だけで、3日目には応戦がほとんど無くなってしまった。
テニアンとサイパンの間は5キロしかないが、その海峡も船が埋め尽くした。
艦砲射撃が43日間続いた。
7月7日にはサイパンの日本軍が玉砕。
サイパンはテニアンからもよく見え、特に夜は照明弾によってガラパンからタポチェ山に向けて砲撃している様子がよく見えた。
テニアンではハゴイ(北端西海岸)付近からアメリカ軍が上陸。
アメリカ軍が来たらもうこの洞窟では駄目だということで、カツオを鈍り節にして10本ほど保存食として第二洞窟へ移動した。

サイパンが陥落したことにより、艦砲射撃ではなくサイパン南端部から155ミリ砲でテニアンに向けて射撃するようになった。
まずはセスナ機のような偵察機がやってきて、そこに半径300メートルの範囲に着弾する。
これが一番恐怖だった。
カルロナス台地南端が最後の追い詰められた場所であった。
兵隊さんが突撃直前に自分の持ち物を「預かって欲しい」ということで、自分たち家族に預たいと願い出があったが、自分たちも自決するのだからと、断らざるを得なかった。
いよいよ最後、自分たち家族もいざ自決する・・・その直前になって、父親がもう少し頑張ってみよう、死ぬのは止め。という判断をした。
夜になり、断崖絶壁を下ることにした。
その場所に向かってアメリカ兵が軍人民間人分け隔てなく一斉射撃をしてきた。
自分はたまたま端にいたため、左大腿に砲弾の破片を受けただけで助かったが、家族と逸れてしまった。
アメリカ軍は洞窟という洞窟に手榴弾を投げ込んでくる。
洞窟の中で手榴弾が爆発すれば、中に居るものは助からない。
精神的におかしくなっていくものを何人も見かけた。
家族と逸れて彷徨っている中で敗残兵に出会って食料を分けて貰って一口食べようとしたらアメリカ軍が手榴弾を投げつけてきて、必死に逃げた。
ようやく洞窟を見つけ入っていたら、穴が塞がってしまった。
そのお陰でようやく助かった。

その後、米軍の捕虜となり、サイパンの病院に収容され、家族と再会した。
サイパンの飛行場からB29が本土爆撃のために数知れず発進していったが、それらは悠々と帰ってきたと思われているが、実は穴だらけでようやく帰ってきたり、着陸でオーバーランしてひっくり返った飛行機を何機も見た。

戦場は早いものがちで先に殺さなければならない。常識の通じない場所である。

<質疑応答>

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佐藤氏の話を見る上で参考になる資料を列記します。

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最盛期のテニアン市街地。上に見えるテニアン神社が住吉神社。佐藤氏はこの住吉神社付近に住んでいてテニアン小学校に通っていました。
『沖縄県史 資料編15 2分冊の1、旧南洋群島関係写真資料(上)近代4』(沖縄県教育委員会、2002年3月)より

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テニアン島全体とアメリカ軍進攻図。

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今年2月にテニアン島南端のスーサイドクリフを訪れた時に撮影した写真。
カルロナス台地とその南端の崖、その崖に無数の穴が見えました。

 

■追記
平和祈念展示資料館の所蔵資料の中に軍人として同時期テニアン島で過ごされた渡辺達雄さんの手記があります。併せて読むと、いっそうよく判ると思います。
玉砕の島テニアン戦記(PDF)」



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投稿者: kameno 日時: July 3, 2010 9:30 PM

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