« 夏越しの大祓2010 | 最新記事 | 戦争遺跡写真とトーク »
今日の記事は 横浜刑務所とテニアン北飛行場 の続報記事です。
港南区役所に隣接する横浜刑務所敷地に「赤誠隊及図南報国隊殉職者碑銘」が祀られています。
これは、太平洋戦争直前、日本統治下のテニアン島などに飛行場建設を行なった所謂「囚人部隊」の慰霊碑です。 しかし、石碑の裏側には看守・職員11人の名が刻まれているものの、受刑者については全く触れられていませんでした。
それでは受刑者たちは何処に祀られているのか。
その場所を港南歴史協議会の皆様と訪ねてみました。
場所は日野公園墓地(横浜市港南区日野中央)に隣接した横浜刑務所受刑者合葬墓地区画です。
横浜刑務所受刑者合葬墓地区画へは、日野公園墓地の区画から斜面を下った先にあります。
鬱蒼とした杉木立の合間に墓石が並んでいます。
表面「(獄?)中死者之墓」
裏面「大正11年10月 神奈川縣監獄吏建立」
この翌年に関東大震災が発生します。
全体的に大きなひび割れを補修した形跡がありますので、大震災で壊れてしまったのでしょうか。
区画前の灯篭(灯篭は戦後建立)には
「世話人 大本山総持寺副監院 教誨師 海津良彦」 とあります。
新潟県楞厳寺の住職様でもあります。当時の横浜刑務所担当教誨師でいらしたのでしょう。
区画内にある「南方殉難者之碑」
表面「南方殉難者之霊」
太平洋戦争中重要ナ国策ヲ遂行スルタメ図南報告隊トシテ トラック諸島モエン島(舊名 春島)ニ於ケル構外作業ニ従事シ 絶大ナ功績ヲ残シツツ不幸中道ニシテ空襲ノ弾火ニ倒レ或ハ疫病ニ冒サレ異郷ニ散華セルモ南漠ノ地ニ假葬ノママ故国ニ葬ムルノ術ナカリシガ昭和四十七年十月漸ク遺骨収集団ノ派遣ヲ得テ遺骨ヲ千鳥ケ淵戦没者墓苑ニオサメ ソノ分骨ヲ此ノ地ニ埋ム 祖国ノ繁栄ヲ祈願シツツ孤島ニ殉ゼシ諸霊ノ苦難ヲ偲ビ其ノ冥福ヲ祈念ス
昭和四十八年十月六日 横浜刑務所長 倉見慶記
裏面
昭和十七年7月ヨリ昭和二十年十月マデノ現地死亡者四百四十二名ヲ合葬ス
横浜において南方で殉職、殉死した受刑者の合同慰霊祭を、教誨師会にやっていただきました。このとき私は涙が出ました。というのは、神仏各宗派の教誨師さんが、全員慰霊祭のときに般若心経を合唱してくれたわけでございます。これは宗派の違いを超えてやっていただきました。そして収容者の分骨された遺骨を改造された教誨室に数ヶ月間安置いたしまして、その墓地を教誨師会に作っていただきました。本来は国が作るべき墓地を大部分の施設では教誨師会の力で作っていただいたわけでございます。(『第30回近畿教誨師研修会記録』昭和57年11月より)
港南歴史協議会の皆様と、建立当時と同じ般若心経を読経し慰霊法要を営ませていただきました。
横浜刑務所受刑者合葬墓地区画の場所を1947年と2007年の航空写真で見てみます。
○の位置が浜刑務所受刑者合葬墓地区画です。
当時から森の中にひっそりと建てられていたことが伺えます。受刑者の墓地であるからなのでしょうか。
隣接する日野公園墓地側の墓苑区画は昭和40年前後に開かれました。
横浜刑務所受刑者合葬墓地区画が日野公園墓地の区域外であることと、道路の状況から、おそらく当時は鎌倉街道方面から参拝されたと考えて良さそうです。