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2日目はサイパン島の南隣にあるテニアン島へ渡りました。
現在は人口僅か3000人ほど、日本人は十数人しか住んでいないのんびりした島です。
テニアン島も、サイパン同様スペイン領の時代にはスペイン人からの迫害を受け、一時期無人島となり、その後ドイツ領となる時代には流刑地とされました。
1914年以降、日本が統治することとなり、多くの入植者が渡り始めます。
日本人によるテニアンの開発は南洋興発会社がサイパンからテニアンに進出した1926(大正15)年に本格的に始まりました。
南洋興発の製糖事業はミクロネシア全域に事業を拡大し「南国の楽園」と称される時代を築きます。
テニアン島は正に製糖業の中心地となり、1930(昭和5)年には一日の生産量が1200トンにも達し、さらに1934(昭和9)年にはさらに生産量1200トンの第二工場が完成します。
平地の多く土壌が良いテニアンはサイパンよりもサトウキビ栽培に適しており、1935(昭和10)年までの間に島の3分の1がサトウキビ畑になるほど製糖産業が栄え、島の人口は17,900人に達し、大いに賑わいました。
事業は製糖業から清酒、鉱業、農業へと発展した背景にはミクロネシア全体の人口の6割を占めていた沖縄県出身者の貢献がありました。
往時の面影は島の各所に残されている遺構から偲ぶしかありません。
島の北部中央の茂みの中に埋もれつつある南洋興発会社の建設した神社の鳥居と本殿跡です。
柱には建立年が1941(昭和16)年とありました。
本殿までに二本の鳥居があり、一の鳥居、二の鳥居を抜ける参道の面影だけが残されています。
鳥居の前には当時の線路が一部残されています。
線路が木の成長により幹の中にめり込んで地面から押し上げられています。
時間の経過を如実に示しています。
列車の車輪の一部のような金属片も落ちていました。
一番大きな街は島の南部サンホセであり、当時は1万人以上の日本人がここに暮らしていました。
左写真は1944(昭和19)年、アメリカ軍により撮影された航空写真です。すでに制空権を獲得し侵攻準備が着々と進んでいたのでしょう。往時の整然と整備され賑わっていたたサンホセの街の様子がよくわかります。
右写真は航空写真(1)の南洋興発製糖工場を(2)方面から撮影したと思われる当時の写真です。(工場の煙突と貨物駅の線路からそのことが推測されます)
街に遺されている往時の足跡を訪ねてみました。
上の写真の製糖工場があったと思われる場所には、南洋興発の社屋建物の骨格だけが残されていました。
社屋跡の前には次のような看板が掲げられていました。
南洋興発の主産業の中心は「砂糖の島」と呼ばれたテニアン島であった。テニアン島に進出した南洋興発は昭和3年に開墾をはじめ、昭和5年に1日原料生産量1200トンの最初の工場を完成し、昭和9年には生産量1200トンの第2工場を完成し、南洋屈指の工場となった。
製糖業の最盛期を迎え、人口も増え、学校や街ができ「南国の楽園」が創立された。
しかし、その夢も戦争により全て失われた。
失意に帰郷した沖縄出身者が再びテニアンを訪れ南洋興発の跡地に立った際、旧き良き時代への思いを新たにした。日本全国からこの地に移住してきた人々の功績を称え、この跡地を後世に残して頂きたい。
そのほか、航空写真(2)の場所には現在の街並みの中に混在して、戦前の警防団跡、消防団跡、刑務所跡など、当時の建物の一部が残されています。
戦争により、これら全てが失われてしまうのです。
セスナから眺めたテニアン島中央?北部。
海の向こうにサイパン島が見えます。
整然と広がっていたであろう日本人の開墾したサトウキビ畑も街も、今はもうありません。
冒頭の写真の南興神社の遺構もこの茂みの中に埋もれていきつつあります。