« 製糖の島テニアン | 最新記事 | サクラ・イロイロ »
テニアン島は沖縄や福島、山形などからの移民により開墾され椰子、砂糖、コーヒー、綿花の生産が行なわれました。
特に南洋興発による砂糖生産は昭和初期には台湾に次いで東洋第2位の生産量を誇り、日本からの入植者は約15700名を数えました。
しかし、テニアン北部に南洋諸島最大のハゴイ飛行場(ウシ飛行場)があったこともあり、戦時中は日本軍の最重要基地として陸海軍合わせて約8500人もの軍人が駐屯し、第一航空艦隊に属する七六一空(龍部隊)の九六陸攻と一式陸攻40機が配置されました。
ハゴイ飛行場は1939(昭和14)年に日本人により建設された飛行場で、1450mの滑走路を誇ります。
上写真は海軍司令部の建物です。
二階建てコンクリート造り、アメリカ軍の爆撃の跡が生々しく残されています。
海軍司令部の北部には燃料貯蔵庫がありました。
建物は爆撃を受け大火災を起こし、その規模の大きさは天井から剥がれ落ちている巨大なコンクリート片や、飴のように曲がってしまったクレーンのレールからも想像できます。
燃料ドラムも生々しくそのまま残されています。
1つの建物は完全に爆破されてしまい、鉄筋がむき出しの破片が散らばっています。
これらの建物もジャングルの木々に侵蝕されつつあります。
こちらは発電所跡。
頑丈な造りだったことが判ります。
爆撃の跡が生々しく残っています。
ハゴイ飛行場滑走路脇にあるエプロンにも・・・
戦況が悪化し、アメリカ軍機動部隊により1944(昭和19)年には度々の空襲を受けるようになり、2月23日に飛行場施設は壊滅し日本軍の航空戦力は潰滅的な打撃を受けてしまいます。
日本軍は満州遼陽から陸軍第50連隊を移駐させるも空しく、7月8日にはアメリカ軍によりサイパン島が占領され、8月3日にはテニアン島が占領されます。
アメリカ軍は占領後ハゴイ飛行場を拡充し8590ft(2590m)級の滑走路を4本建設しました。
ハゴイ飛行場にはB-29戦略爆撃機が大量に配備され、サイパン島・アスリート飛行場、グアム島・アンダーセン飛行場と共に日本本土空襲の拠点となってしまいました。
ハゴイ飛行場は、広島、長崎への原爆投下を行なったB-29が発進した飛行場であることも忘れてはなりません。
原子爆弾積荷が行なわれたピットは当時そのままに保存されていました。
積荷当時に撮影された写真を並べてみると、時間の経過が信じられない程そのままの姿であることが判ります。
(左)リトルボーイ (中)ファットマン 積荷場跡
(右)1945年、原子爆弾搭載時にアメリカ軍が撮影したリトルボーイ
亀野さん、こんばんは
今回のサイパン慰霊の旅の紀行報告は私達の知らないサイパン島について、色々の事を知りました。私の持っている世界地図では、サイパン島は出ていますが、テニアン島は出ていません。サイパン島も長さ15km位の淡路島の半分位の島でしょうか?機会がありましたら、サイパン島とその周辺の地図を示して下さい。
ハワイのマウイ島、ハワイ島へ行った時の事を思い出しました。日本の高知や沖縄から砂糖黍畑の労働者として大勢の人達が渡り、働いていた話しを聞き、日本人が祭られている神社・仏閣があり、日本式の墓地があったときの事を・・・。更に、大東亜戦争の痕跡が残されている様子は沖縄以上ですね。これ等の様子は私達には全く知らされていません。せめて、天皇・皇后両陛下が慰霊に訪問した際に同行した報道関係者からのレポ?トが欲しかったです。亀野さんの報告に頭を垂れました。本当に、ご苦労様でした。
投稿者 ちのしんいち | 2010年3月 2日 21:29
ちの様
テニアン島は、グアム・サイパンほど有名ではないようですが、戦前まではその名はかなり知られていたと思います。
寺の過去帳をみても、テニアンで亡くなられた方もかなりいらっしゃいます。
戦跡と共に暮らしがあるといっても良い現在の状況ですが、入植者や戦没者の直接の関係者が居なくなるにつれて急速にその記憶も遠のいていくような気がします。
今がその狭間期でないかと思います。
※ご指摘を受けて地図と目次のページを作りました。
http://teishoin.net/blog/001911.html
投稿者 kameno | 2010年3月 3日 18:02
昨年4月のオバマ大統領のプラハ演説で、原爆投下を謝罪したのは、印象的です。
近・現代史の遺産として、戦跡の保存は、重要です。
投稿者 礒貝 正 | 2010年3月 5日 07:48
礒貝様
オバマ大統領のプラハ演説は歴史の一歩という感がしました。
けれども、アメリカの全体的な論調は原爆投下の正当性を全面的に打出しています。
テニアンのこの原爆ピットに掲げてある看板も「原爆が戦争終結のために・・・」という説明がされています。
原爆被害のことについてはもちろん触れられていません。
何十万もの命を奪った爆弾は意外なほど小さいことが印象的でした。
投稿者 kameno | 2010年3月 5日 17:25
広島型原爆では、16kgのウラン235、長崎型原爆には、プルトニウム239が使われていました。
原子爆弾のサイズが小さいのは、このためです。
余談ですが、東海村のJCOの臨界事故では、16kgのウラン235が核分裂を起こしましたから、規模からいえば、ぼぼ、広島型原爆に、匹敵します。
ただし、プラント内に大量の水があったため、中性子の速度が低下したことにより、核爆発が起こらなかったのが、不幸中の幸いです。
投稿者 礒貝 正 | 2010年3月 5日 23:21
東海村の臨界事故は核分裂エネルギーの膨大さを改めて示しました。核爆発に至らず本当に良かったと思います。
まさに取り返しのない事故になるところでした。
投稿者 kameno | 2010年3月 6日 10:16