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静かに寄せる波、白い砂浜。
砂浜には椰子のみが波に洗われています。
そして、その砂を手に掬うと・・・・・
このように星の砂がたくさん見つかります。
星の砂は、海中に棲息する有孔虫の殻のうち、骨格部分のみが残されてこのように星の形になります。
砂浜が白いのは、砂がサンゴや有孔虫の殻で出来ているからです。
太陽の角度によって海の色はエメラルドグリーンから濃紺までバラエティーに富んだ様々な表情をみせてくれます。
海水の透明度も世界有数だそうです。
このビーチはテニアン島の北西のチュルビーチです。
しかし、一見平和に見える砂浜も、第二次世界大戦では悲劇の舞台となりました。
砂浜には、傷跡生々しいトーチカが残されています。
トーチカ上部の鉄骨には鉄筋のほかに線路が使われています。
昭和初期、日本統治時代にはテニアン島には沖縄や福島、山形などからの移民により開墾され椰子、砂糖、コーヒー、綿花の生産が行なわれました。
これまであまり産業の無かった島が近代化され、特に砂糖王と呼ばれる松江春次の興した南洋興発による砂糖生産は昭和初期には台湾に次いで東洋第2位の生産量を誇り、日本からの入植者は約15700名を数えました。
また、テニアン北部に南洋諸島最大のハゴイ飛行場(ウシ飛行場)があったこともあり、戦時中は日本軍の最重要基地として陸海軍合わせて約8500人もの軍人が駐屯し、第一航空艦隊に属する七六一空(龍部隊)の九六陸攻と一式陸攻40機が配置されました。
ハゴイ飛行場は1939(昭和14)年に日本人により建設された飛行場で、1450mの滑走路を誇っていました。
しかし、戦況が悪化し、アメリカ軍機動部隊により1944(昭和19)年には度々の空襲を受けるようになり、2月23日に飛行場施設は壊滅し日本軍の航空戦力は潰滅的な打撃を受けてしまいます。
日本軍は満州遼陽から陸軍第50連隊を移駐させるも空しく、7月8日にはアメリカ軍によりサイパン島が占領され、8月3日にはテニアン島が占領されてしまいました。
テニアン島へのアメリカ軍機動部隊の上陸ポイントは、日本軍のテニアン港付近に上陸するという想定に反し、テニアン島北部の通称ホワイトビーチからのものでした。
日本軍にとっては裏をかかれた格好となり、そのために上陸作戦はあっという間に終了してしまいます。
そのホワイトビーチというのが、冒頭で紹介したチュル・ビーチです。
現在は平和な海岸ではありますが、ここがテニアン島への上陸拠点となった場所なのでした。
アメリカ軍は占領後ハゴイ飛行場を拡充し8590ft(2590m)級の滑走路を4本建設しました。
ハゴイ飛行場にはB-29戦略爆撃機が大量に配備され、サイパン島・アスリート飛行場、グアム島・アンダーセン飛行場と共に日本本土空襲の拠点となったのです。