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横浜市仏教連合会主催の檀信徒研修旅行が行われました。
市内各宗派の檀信徒の皆さんのバス3台になる多くのご参加をいただき、この上ない秋晴れのもと各所を巡ってまいりました。
日程 平成28年10月24日(月)
行程 横浜ー増上寺ー昼食(品川プリンスホテル・ハプナ)-築地市場ー寛永寺ー東京都庁展望台
まずは、浄土宗大本山増上寺へ。
本尊 阿弥陀如来
三縁山広度院増上寺と称し、明徳4(1393)年 酉誉聖聰上人により、現在の紀尾井町に創建されました。
その後、慶長3(1598)年に現在の港区芝公園に移転し、江戸期には徳川将軍家の菩提寺として、また、浄土宗の大本山として120以上の堂宇、100軒を超える学寮、3000名を超える僧侶が所属していました。
しかし、明治維新、戦災などにより多くの伽藍が消失、戦後の再開発などを経て大殿の再建など諸堂の整備が進められ現在に至っています。
到着後、記念撮影の後、大殿にて拝登法要。
全員で般若心経を読経しました。
かつては徳川将軍家の霊廟が大殿の南北に並んでおりましたが空襲で大部分が消失。大殿の奥に改装されました。
徳川15代将軍のうち、6人の将軍と将軍正室として2代秀忠夫人崇源院、6代家宣夫人天英院、11代家斉夫人広大院、13代家定夫人天親院、14代家茂夫人静寛院の5人、将軍の側室としては3代家光の桂昌院、6代家宣の月光院など5人、その他、将軍の子女を含む計38人が埋葬されております。
墓所の入口、鋳抜門(かつての6代将軍徳川家宣霊廟の中門)
増上寺に埋葬されているのは
徳川秀忠(1579年 - 1632年、家康の三男)
徳川家宣(1662年 - 1712年、家光の三男甲府城主綱重の長男)
徳川家継(1709年 - 1716年、家宣の四男)
徳川家重(1711年 - 1761年、吉宗の長男)
徳川家慶(1793年 - 1853年、家斉の二男)
徳川家茂(1846年 - 1866年、家斉の七男で紀州家十一代斉順の長男)
です。
それにしても、素晴らしい霊廟が空襲により焼失してしまったのはとても残念なことです。
参拝の後、大殿手前左の経蔵で経典を回しました。
午後の行程は築地市場(次頁で記載)、寛永寺へ。
本尊 薬師如来
東叡山寛永寺
元和8(1622)年、天海大僧正が徳川2代将軍秀忠公と相談し、徳川家の安泰と江戸庶民の平安を祈る道場として建設が始まり、寛永2(1625)年に発足しました。
山号は東の比叡山という意味で、比叡山が延暦という年号を勅許を得て寺号としたのと同様に寛永の年号が寺号となっています。
延暦寺を見立てたため、琵琶湖に相当する不忍池、竹生島の宝厳寺を見立てた弁天堂、清水寺を模した清水観音堂などが整備されました。
江戸期は寺領2100石、寺域17万坪を有しており、特に根本中堂は間口45.5m、高さ32mの大伽藍でありましたが、慶応年間に消失、寺域のほとんどが国に没収されてしまいました。
明治期以降、川越喜多院から移築した根本中堂など再整備が進み、現在に至っています。
徳川慶喜公近親の部屋、葵の間。
江戸から明治にかけての徳川家、慶喜公はとても難しい時代を過ごすことになります。また、将軍家も13代家定、14代家茂公が短い期間で交代する時期でもありました。
日本国内は佐幕派と公武合体派、尊王攘夷派など様々な派閥が衝突を起こし、倒幕の流れが優勢になる中、議会の開設を考えた慶喜公は慶応3(1867)年に大政奉還を決定します。
薩摩・長州連合は王政復古の大号令を発し、徳川家の領地の返還を要求、これに徳川家が反発して鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争が起こります。
この戦いでは当初優勢と言われていた旧幕府軍が敗戦を重ね、わずか数日で終結。
慶喜公は江戸に戻り、寛永寺の葵の間で謹慎生活を過ごすことになります。
勝海舟が尽力した無血開城により、慶喜公は厳罰を免れ、寛永寺から水戸へ退去しました。
これらの措置を不服として彰義隊による徹底抗戦、上野戦争がが起こり、その際に寛永寺は根本中道などの伽藍を消失します。
寛永寺・葵の間
その後、徳川家霊廟を参拝しました。
寛永寺に埋葬されているのは
徳川家綱(1641年 - 1680年、家光の長男)
徳川綱吉(1646年 - 1709年、家光の四男)
徳川吉宗(1684年 - 1751年、御三家で、紀州家二代光貞の四男、家康の曾孫)
徳川家治(1737年 - 1786年、家重の長男)
徳川家斉(1773年 - 1841年、御三卿で、一橋家二代治済の長男、吉宗の曾孫)
徳川家定(1824年 - 1858年、家慶の四男)
です。
将軍家霊廟の内部は撮影禁止のため撮影しませんでしたが、霊廟の様式は時代により異なっています。
霊廟は、正式には御本尊、位牌、霊殿、二天門、勅額門、鐘楼、水盤舎、井戸屋形、中門、廻廊、拝殿、相之間、本殿、透塀、仕切問、装束所、そして唐問、拝殿、中門、宝塔という構造をとります。
8代綱吉公の墓所からは、質素倹約を旨とし、既設の霊廟の一部を拡張することにより霊殿関係の一切の建物を略した構造となっています。
鋳抜門の内部は極楽浄土の世界が具現化されており、将軍は宝塔の内部に御本尊の足元で安らぎの眠りにつくという精神で宝塔が造られています。
この日、増上寺、寛永寺にある2つの徳川家の霊廟を参拝しましたが、増上寺、寛永寺それぞれに徳川家6代づつ同じ数の宝塔があります。
その他の徳川将軍を含めて、霊廟の場所をまとめると下記のようになります。
徳川家康 日光東照宮
徳川秀忠 増上寺
徳川家光 日光東照宮(輪王寺)
徳川家綱 寛永寺
徳川綱吉 寛永寺
徳川家宣 増上寺
徳川家継 増上寺
徳川吉宗 寛永寺
徳川家重 増上寺
徳川家治 寛永寺
徳川家斉 寛永寺
徳川家慶 増上寺
徳川家定 寛永寺
徳川家茂 増上寺
徳川慶喜 谷中霊園
なぜ、このように夫々が埋葬されているのか、敢えてここではその詳細は記しませんが、是非その理由を調べてみてください。
きっと新しい発見があると思います。
面白い記事でした。
列挙してみると、先天性障害者説や暗殺説が伝わる将軍ばかり増上寺に御廟所が有りますね。
投稿者 久良岐のよし | 2016年10月25日 14:38
久良岐のよし様
コメントありがとうございます。
今回の旅行では、増上寺・寛永寺両方からの視点で参拝できたことが大きな収穫でした。
歴史上の出来事や人物像については発信元によって異なることが多いですね。多元的な視点から物事を見る姿勢も大切なことだと思います。
投稿者 kameno | 2016年10月26日 09:28