三代目の飛行場

前のエントリー記事の写真は、サイパン国際空港です。
この空港は、歴史上三代目の飛行場でもあります。

1933(昭和8)年、日本統治時代のサイパンのサトウキビ畑の中に開かれたのが初代の飛行場「アスリート飛行場」でした。
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(往時のアスリート飛行場)


二代目の飛行場は「アイズリー飛行場」
アメリカ軍がサイパンを占領すると同時に、アスリート飛行場を拡張して日本本土への空襲を行なうためのB29基地として第73爆弾飛行隊が駐留しました。

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(B29が並ぶアイズリー飛行場・CC:Wikiペディア)

 
そして三代目が現在の「サイパン国際空港」です。
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サイパンのあるマリアナ諸島は16世紀にマゼラにより発見されてから3世紀に亘りスペイン統治下にありました。
しかし、島民に対するのキリスト教化に次第に島民は反感を抱くようになり、スペイン・チャモロ戦争が起こります。スペインは軍隊を派遣し、島民が大量虐殺や移住させられたことにより、一時的に無人島となります。
その後、ドイツ統治時代にはサイパン島は流刑地とされてしまいます。

第一次世界大戦により南洋諸島全域は日本が委任統治することとなり、砂糖の生産などによりサイパンが南洋の玄関口となり栄えます。

横浜にあった飛行場の記事で書いたとおり、1939(昭和14)年には大日本航空海洋部が発足し、横浜?サイパン方面の定期便が運行を開始しています。
横浜の水上飛行場から毎週飛んでいたという記録があります。

 横浜 5:30発 ⇒サイパン 15:30着 翌7:00発⇒パラオ14:00 (この他ヤルート、ポナペなど)

現在は成田からジェット機で3時間あれば到着するサイパンは、当時は水上飛行機によって10時間もかけて運行していたのです。


一番有名な日本人は砂糖王と呼ばれた松江春次でしょう。
松江氏はサドウキビの栽培をサイパンに伝え、精糖事業での成功を収めました。

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ガラパン地区の砂糖王公園には、松江氏の銅像が戦禍を免れ残されています。

砂糖王公園にはシュガートレインのSLも保存されていました。

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当時の地図を見ると島内にはシュガートレインの線路がぐるりと敷設されています。
このようなSLが島内を忙しく走り回っていたのでしょう。
日本人入植者を中心に島の人口は約3万人にも膨れ上がりました。


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(サイパン国際空港に掲示してあった地図より・赤丸がアスリート飛行場)


 
しかし、戦争の影はだんだんと濃厚となり、1941(昭和16)年には大日本航空海洋部は海軍に徴用され横須賀鎮守府第七輸送機隊となり、アスリート飛行場も軍用の意味合いが強くなっていきます。


第二次世界大戦はサイパンに再び悲劇をもたらします。
島に日本軍の司令部があったこともあり、また、日本本土への攻撃の拠点としてのサイパンの重要性は日米双方共通の認識があった(つまりこの地の攻防が戦局を決する)ため、1944年6月アメリカ軍上陸作戦の際には住民を巻き込んでの激しい戦闘が繰り広げられました。

Wikiペディア「サイパンの戦い」項参照


サイパン各地には、今も生々しい戦跡が残されています。

今回の旅行は、それらの足跡を眼で確かめる旅でもあります。
何回かに分けて報告を兼ねて記事としてまとめて行きたいと思います。

投稿者: kameno 日時: 2010年2月27日 18:40

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