タポチョ山とアスリート飛行場

サイパン島中央にそびえるタポチョ山に登ってみました。
この山へ続く道はかなり悪路でしかも急坂のため、普通の乗用車では走ることは相当厳しいと感じました。
バギーやレンタルバイクによるツアーと何度かすれ違いましたので、態と未舗装のまま残しているのでしょう。

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戦時中はこのような道路もなく、山頂に到達することはかなり大変だった筈です。
山頂に残されたパネルでは、人力でパネルには重装備の大砲を人力で運ぶ写真が展示されていました。

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日本軍守備隊は西方フィリピンからの第一移動艦隊が援護に到着することを信じ、それまでアメリカ軍を拘束するための大射撃をこの地から指示しました。

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山頂からの眺めをパノラマ写真にしてみました。

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右にアメリカ軍が上陸したレッドビーチ、中央にアスリート飛行場が見えます。
この場所からは360度、サイパン島全域が見渡せます。

レッドビーチから上陸したアメリカ兵は、アスリート飛行場とタポチョ山を目指します。
この2つが陥落となればサイパン全域を掌握したも同然になるからです。
 

6月16日、アメリカ軍第27歩兵師団が上陸後、直ちにアスリート飛行場に向け進撃しました。
アメリカ軍は火炎放射器で一気に畑を焼き払っては進むという作戦によりその日の夜には飛行場に到達します。

飛行場を死守したい日本軍は戦車第9連隊を中心に約8000名が総攻撃を行ないましたがアメリカ軍の圧倒的戦力の前に全滅してしまい、翌18日にはアスリート飛行場がアメリカ軍の手に渡ってしまいます。


6月27日、日本軍第317大隊はアスリート飛行場奪回の為に600人規模の夜襲をかけましたが、アメリカ軍に包囲され、全滅してしまいました。
旧アスリート飛行場(現サイパン国際空港)の敷地にも日本人慰霊碑が建立されています。
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(ここでも慰霊法要を営ませていただきました)

 


日本軍は組織的な反撃が出来ず、ゲリラ的な攻撃を散発的に行なうしかなくなり、斎藤中将は防御に適したタポチョ山に防御線を敷きます。
着々と進行するアメリカ軍の様子を、この山からどのような気持ちで眺めていたのでしょうか。

パノラマ写真の手前側に広がるのは「死の谷」と呼ばれた高原です。
サトウキビ畑や洞窟に潜伏する日本軍の機関銃攻撃は、アメリカ軍の進行を遅らせ、いつのまにかこのような名前が付けられたのです。

アスリート飛行場がアイズリー飛行場としてアメリカ軍により運用開始されるようになると、空からの偵察も可能となり、日本軍は完全に追い詰められることとなります。
6月30日、ついにこのタポチョ山がアメリカ軍によって陥落されました。


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7月7日、斎藤中将は残存部隊約3000名に総攻撃を命じ、陸海軍によるバンザイ突撃が行われました。
この戦闘で米アメリカ軍に死傷者658名の損害を与えたものの、日本軍はほぼ全滅。
パノラマ写真に写る一帯は両軍の死体が累々と積み重なる惨状となりました。
事実上サイパン島の日本軍は全滅し、7月9日にアメリカ軍ターナー中将がサイパン島の占領を宣言するに至りました。

投稿者: kameno 日時: February 28, 2010 3:21 PM

コメント: タポチョ山とアスリート飛行場

亀野さん、お疲れさまでした。
サイパンとは、私達は爆撃を受けたB29の発進拠点としての記憶はありますが、報道では街の様子も知らされておりませんでした。グァム島は観光地として、知られています。天皇陛下も尊い命を捧げた若き兵隊さん達の「慰霊」に訪問を致しました。仏式の立派なお寺もあるのですね。
ハワイで、昔「砂糖黍畑の作業者として渡り、命を落とした人達の墓場」を訪れた時の事を思い出しました。
沖縄でも大勢の尊い命は犠牲となり、私にとっては観光地よりも「琉球国」の歴史を訪ねる旅となった事も改めて思い出しました。平和が続きます事を祈ります。
本当に、ご苦労様でした。

投稿者 ちのしんいち | February 28, 2010 4:28 PM

ちの様
仏教寺院はサイパンの中で何箇所か見ました。
戦争により廃寺になったものもありますし、戦後慰霊のために建立されたものでも、現在管理するものがなく荒廃しているものもありました。
新しく韓国系の禅寺が建立されており、そこも訪問いたしました。
その中で、秋田老師が住持されている南溟堂拝登が今回の旅行の一番の目的でありました。
日本人たちの足跡は語り継ぐものが無ければ風化してしまいます。
平和とは何かを考える上でもこれらを風化させないことが大切であると思います。

投稿者 kameno | March 2, 2010 4:18 AM

マリアナ諸島慰霊の旅ご苦労様でした。

下記は東京に最初のB-29が一機で飛来した時の話です!

「サイパン島が陥落した昭和19年7月から米軍は機動力を発揮し大規模な飛行場を整備、ついに昭和19年11月1日にサイパン島から東京周辺上空に第3写真偵察中隊のF-13(B-29を偵察用に改良した)を初めて飛ばし、1万m上空を14時間に渡って航空写真の撮影をした後、無傷でサイパンに帰投したそうです。

その時の乗員は功労に値する勲章を受け、司令部は待望のネガを手に入れ、中隊は大急ぎで7000枚のプリントを作り、それ以降、戦後伊勢丹に駐留する第64工兵地形大隊(グアム島)が東京周辺の精密地図を作る事になり、それ以降順次日本列島は航空写真と地図によって丸裸状態で空襲を迎える事になります。」

私も米軍地図部隊の変遷から日米の地図に対する認識の相違を通じて戦争記録を伝えられればと取り組んでおります。

また港南区の終戦前後の記録も少しでもまとめた物が出来ると良いですね。今後とも協力して取り組んでいければと願っております。どうぞよろしくお願いいたします。

投稿者 ハマちゃん | March 3, 2010 6:46 PM

ハマちゃん様
絶対国防圏を突破された時点で戦況は大きく転換してしまいましたし、精細な航空写真を撮影された時点でそれは決定的になってしまいました。
アメリカ軍地図部隊から戦争記録を紐解くということは実に興味深いことであります。
地図の重要性を裏付ける研究資料としても貴重なものになると思います。成果を楽しみにしております。

投稿者 kameno | March 4, 2010 8:25 AM

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