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猛烈な熱風で変色してしまったコンクリート、捻じ曲がった窓枠・・・・
小学校のこのような姿を見るのはなんとも言えない気持ちになります。
校舎の背後に聳える山は、雲仙普賢岳の平成新山です。
1989年(平成元年)11月に火山活動が始まり、一旦は小康状態になったものの、翌1991年(平成3年)2月12日に再噴火、噴火の勢いは増して行き、5月15日からは土石流が発生し始めました。
さらに火口周辺に溶岩ドームが形成され始め、それが自重で崩壊。ついに斜面に崩落する形で、その破片が高熱の火山ガスとともに時速100km以上のスピードで火砕流となって斜面を駆け下り、大きな被害がもたらされました。
島原から熊本に渡るフェリーから見る雲仙普賢岳の平成新山。
20年経った今でも山頂から港にかけて茶色い火砕流と土石流が通った跡が明確に残されています。
まだ記憶に新しい20年前の雲仙普賢岳の噴火は、火砕流と、その後の豪雨による土石流により、西側の水無川および島原市の千本木地区に大きな被害をもたらしました。
火砕流により報道関係者16名、火山学者ら4名、消防団員12名、タクシー運転手4名、警察官2名、役所の職員2名、住民4名、死者行方不明者43名と9名の負傷者という大惨事となってしまいました。
避難勧告区域における報道のあり方にも一石を投じた災害でありました。
冒頭の写真は、かつての大野木場小学校です。
校舎は、火砕流の直撃は免れましたが、高温の熱風と高温ガスが校舎背後から襲いかかり、一瞬のうちにこのような姿になってしまいました。
ガラスが溶けてしまっていますので、800度以上の高温ガスであったことが推測されます。
校舎は20年経った今でも、そのままの姿で保存されています。
そして、敷地内には砂防みらい館が建てられ、災害の記録が展示されています。
長崎県の島原半島中央部にある雲仙岳は、普賢岳・国見岳・妙見岳三峰・野岳・九千部岳・矢岳・高岩山・絹笠山などから構成されていますが、これまでも度重なる災害が繰り返されてきました。
特に、「島原大変肥後迷惑」の語源となった1792年5月21日(寛政4年旧暦4月1日)の大爆発に伴う津波災害(津波の高さは実に10m以上!と云われる)は、肥前・肥後で死者、行方不明者1万5000人という甚大な被害となっています。
「何度災厄に見舞われても、その度に島原半島は立ち上がり、復興してきました。蓄積したものを生かし、糧にすることで私たちは前よりも強くなるんです」
地元の方の前向きな力強いことばが印象的でした。
20年前の雲仙普賢岳の噴火にでは、警戒区域が設定され、11,000人もの方々が避難生活を強いられました。
現在でも山体崩壊の恐れがあるため、警戒区域に指定された区域が継続して残されています。