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ラオスは14世紀ランサーン朝建国以来上座仏教が信仰されている仏教国です。
(上座部仏教60%、アニミズムやその他の宗教40%・仏教とアニミズムは混用されて信仰されていることもある)
世界遺産の街、ルアンパバーンには多くの仏教寺院が維持されています。
最初に、ラオスで最も美しいとされるワット・シェントーン(Wat Xienthong)に拝登しました。
ワット・シェントーンは1560年に、セータティラート王により建立され、1975年まで王家の寺院として、宮廷行事などでも大きな意味を果たしており、歴代の王の戴冠式が行われました。
メコン川河岸から参道として石段が設けられていて、途中にはこのようなユニークな狛犬が置かれています。
本堂は北ラオスの伝統的な建築様式であり、高い三角屋根が緩やかなカーブを描きながら地面近くまで続いています。
本堂の外壁には大きな樹木が美しいモザイクで描かれています。
本堂内で拝登諷経を営みました。
壁面には地獄を描いた壁画や、大きな銅鑼が常設されています。
境内には黄金の建物が併設されており、シーサワーンウォング王の葬儀の際にご遺体を乗せた御車が保存されています。空を見上げるとワット・シェントーンの屋根装飾の付近に月が輝いていました。
だんだん丸くなってきています。
この月が満月になると、ビエンチャンで開かれているラオス最大のお祭りタートルアン祭りが佳境を迎えます。
次にワット・マイ。
ルアンパバーンの中心部にある寺院です。
正式名はワット・マイ・スワナ・プーン・ラームという長い名前で、18世紀末にアヌルッタ王により50年もの年月をかけて建立されたとされています。
本堂は五重構造です。
本堂を参拝。
正面の釈迦牟尼仏の裏にもう一体の仏像が配置されています。
西側にはエメラルド色の仏像が安置されています。
壁面にも仏さまがびっしり。
正面のレリーフは輪廻転生が表現されています。
ワット・マイの隣には王宮博物館があります。
かつての王宮で、王宮として使用していた当時の調度品、贈答品などが展示されています(建物内部は撮影禁止)。
ラオスのシンボル、「パバーン仏」も展示されています。
ルアン・パバーンの名前は、パバーン仏から来ています。
その由来は、1353年ラーンサーン王国を建国したファーグム王が、1357年にクメール王妃の要請に応えて、クメール王から仏教使節団を迎えたときに上座部仏教が伝わり、その時にパバーン仏が贈られたことによります。
1560年、ビエンチャンに遷都した際にもパバーン仏は残され、街の名称がルアンパバーンと改められました。
1707年、パバーン仏はビエンチャンへ遷仏されましたが、1777年にはタイ(当時はシャム)が進攻し、パバーン仏はシャムに奪われてしまいます。
4年後に一度返還されましたが、1828年に再びシャムへ持ち去られてしまいました。
1866年パバーン仏はルアンパバーンに再び返還され、1887年にワット・マイ寺院に安置されることとなりました。
その後1947年からは王宮へ移されました。
王宮博物館横にはパバーン仏が安置されているホー・パバーンがあります。
毎年新年には、パバーン仏の灌仏式がここで行なわれています。
壁の補修が行なわれていました。
ラオスとタイには、上記のパバーン仏の他にも宗教的な確執が残されています。
ワット・シェントーンには、かつてエメラルド仏が安置されていました。
エメラルド仏は少なくとも3体(ワット・マイ・スアン・ナ・プーム・アハーム、ワット・シェントーン、ワット・ビスン・ナラート)あり、その後、西暦1564-1778年、ランサーン王国の新首都がビエンチャンに遷都とともにビエンチャンのワット・ホー・パゲオに遷仏されることとなりました。
1777年 シャムによるビルマおよびヴィエンチャン王国への攻撃が開始され、1778年 ルアンパバーン王国は1778年にシャムに占領され、属領となってしまいます。
1779年にはラーマ1世がエメラルド仏をヴィエンチャンから略奪してトンブリー(現在のタイ・バンコク)へと持ち去ってしまいました。
現在は、タイのワット・プラケーオに安置され、そのまま今日まで至っています。
このことについて、ラオスでは隣国タイがエメラルド仏を奪い去ったと主張し、ラオス政府はタイ政府に返却を求めています。
タイにあまり良い感情を持たないラオス人が多い理由は、このようなかつての事情があるのです。
宗教的な感情の対立はなかなか容易には解決しません。