2つのグラウンドゼロ公開

広島原爆投下の日から66年目の原爆の日を迎えました。
一瞬のうちに人生を奪われてしまった多くの方々に、そして後遺症により亡くなられた多くの方々に心より哀悼の意を表します。


原子爆弾の脅威を訴える世界遺産、原爆ドームは、フェンスに囲まれていて内部に入ることができません。
その内部の様子が、原爆の日に合せて Googleストリートビューで公開されました。

 

原爆ドームは、もともとは広島県物産陳列館(後に広島県産業奨励館と改称)として建設されました。
設計はチェコの建築家、ヤン・レツル氏で、建物構造は中央部には5階建てドーム屋根の階段棟、その周囲に3階建ての構造となっていました。

66年前、テニアン島を飛び立った エノラ・ゲイ から広島に投下された原子爆弾は、投下目標の相生橋からわずかに外れ、午前8時15分島病院(現在の島外科)上空約600mで炸裂しました。
爆心地の地表温度は4000℃にも達し、熱風・爆風・放射能により何十万人(原爆死没者名簿掲載数は24万人超)もの命が奪われました。

広島県産業奨励館も一瞬のうちに破壊され、全焼してしまいました。
爆心地から僅か150m、ほぼ真上で原子爆弾が炸裂しながら建物の構造が残されているということは、窓が多い構造のために、いち早く破壊されたドームから吹き抜けた爆風の逃げ場が多く、応力が掛からなかったということによるようです。その代わり、建物周辺部の破損が大きいことが分かります。地面にはレンガが散乱しています。 

ストリートビューにより建物の構造と、原子爆弾の威力を実感することが出来ます。

レンガの積み方は「イギリス積み」ですね。構造的に丈夫なレンガの積み方も、破壊から免れた要因かもしれません。
このような強大な威力をもつ爆弾が、大都市の中心部に落とされ、膨大な数の一般市民が犠牲となりました。


原爆ドームの保存については、戦後まもなく「悲惨な記憶を呼び起こす」から撤去したほうが良いという意見もあり、その中で、急性白血病で亡くなった被爆者である高校生の「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろう」という日記の一文により永久保存が決議されました。

原爆の記憶を後世に伝えることは大切なことです。

 


記憶を後世に伝えるための一つのプロジェクトとして「Hiroshima Archive|ヒロシマ・アーカイブ」があります。
hiroshima_archive
Google earth を利用して、証言、写真を1945年当時の地図と合せてマッピングしています。
マルチメディアアーカイブを多面的・総合的・視覚的に概観することができるサイトです。
google_hiroshima
(元安川を挟んで爆心地から原爆ドームを眺める。左写真は原爆投下前、右は投下後の産業奨励館)

 


 

 

広島、長崎に投下された原子爆弾の爆心地、そして原子爆弾の実験場となった「トリニティサイト」の3箇所は、グラウンド・ゼロと呼ばれます。
近年では、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロの目標となった世界貿易センターのあった場所も「グラウンドゼロ」呼ばれるようになりました。

偶然かも知れませんが、Googleストリートビューで原爆ドームの内部が公開された同じ日(2011年8月4日)に、テロで崩壊したニューヨークの世界貿易センタービル跡地の様子が報道陣に公開されました。

wtc
(毎日新聞の写真記事にリンクします)

ワールドトレードセンター跡地には、現在記念広場の建設が進んでいます。

アメリカ同時多発テロ発生から10年、ワールドトレードセンター跡地の再開発関係者の間では、もう グラウンドゼロ という呼び方をやめようという声が上がっているようです
グラウンドゼロという名前が、死や破壊や空虚感を想起させるというのが理由です。

ワールドトレードセンター跡地の記念広場は、テロから10年目の今年9月11日に完成となります。


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投稿者: kameno 日時: 2011年8月 6日 01:40

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