福岡佐賀研修旅行3

道元禅師の時代の九州北部は、宋の貿易商や禅僧たちが往来し、国際色豊かな地でありました。

中世の港は、現在の港よりもずっと内陸側にあり、那の津・渡唐口には、宋からの船が行き交い賑わいました。
貿易で財を成し得た商人や博多豪商たちが多く、道元禅師の一行も商船に乗って宋へ旅立ったと考えられます。
貿易の玄関として、現在の博多の礎となった場所です。

道元禅師一行を乗せた商船も、博多湾を拠点としたのでしょう。
渡航の手続きを担っていた大宰府政庁は、九州の統括と大陸への玄関口、そして海外からの要人を迎える迎賓館としての役割を担っていました。
那の津は、大宰府の窓口として、入出港の要となる港町であったことでしょう。

この近辺には道元禅師に関連すると思われる場所がいくつかあります。
研修旅行においても、そのうちの幾つかを巡ってきました。

まずは、福岡市西区にある東林寺。

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禅宗の祖師・栄西禅師が二度目の渡宋から帰国後、集落の背後に山があるという条件が宋の東林寺の立地に似ていることから「唐泊山東林寺」として文治3年(1187)建立されたものです。


道元禅師と同行された明全和尚も、東林寺に拝登されたはずです。

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(左)集落の細く急な坂を登ったところに東林寺山門があります。
(右)歴代入定塔。当山開山栄西千光祖師



○東林寺 禅宗済家
唐泊山と号す。唐泊村に在。千光国師帰朝の時此浦に着て宿せしが爰に小寺を建たり。則此寺也と云り。小高き所に立たる寺なれば、遠望朗にして佳景の地也。
『筑前國続風土記』「巻之二十三 志摩郡」(貝原益軒)より

東林寺からの眺望。
唐泊港、博多湾、志賀島・能古島が見渡せます。
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からとまり 能許(のこ)の浦波立たぬ日は あれども家に 恋ひぬ日はなし 『万葉集』「巻15・3670」


境内には、栄西禅師が修行に使用したと云われる「座禅石」や、「栄西禅師像」「万葉歌碑」があります。
また、栄西禅師が持ち帰ったお茶の種から育った大木が現存していました(残念ながら数年前に枯れてしまったそうです)。
ここから見える唐泊の漁港は、古くから港として知られ、奈良時代の遣新羅使はここで風待ちをして出港したと伝えられています。
そのため、ここには渡航者の宿がたくさん置かれ。韓亭(からとまり)と呼ばれました。
唐泊の地名の由来です。

唐泊港は、江戸期には筑前五ヶ浦廻船の港と栄えていましたから、道元禅師の時代にもこの地に立ち寄られた可能性も充分に有るわけです。

それを裏付けるようなものが残されています。
唐泊に程近い地に残されている道元地蔵です。
地元の歴史研究家のTさんにお話をうかがう事が出来、さらに現地まで案内までしていただきました。

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Tさんが地元で集めた伝承に基づくと、1227年、道元禅師帰朝後、海の時化に遭い、熊本(川尻)に上陸、その後、この地に8年間(1227-1235)庵を建てて人々に説法を説き、地元の人々を助けた。地元の人は、お地蔵様をお祀りし、子どもたちの安全成長を願ったということで、現在もこの道元地蔵が篤く信仰され続けているとのことです。
ご案内を戴きながら、道元地蔵様をお参りいたしました。
Tさんも子どものころから、病気平癒にご利益があると教えられ、病気などになるとお参りをされたとのことです。

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先の福岡西方沖地震でかなり被害を受けましたが、地元の方々により、修復がされました。
このように一般の地元の方々により大切に守られているということに大変感銘を受けました。

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ご案内くださいましたT様には心よりお礼申し上げます。


 
道元禅師の名前が残る地としては、この他に福岡市西隣の二丈町、深江の津があります。
今回は時間の関係で訪問できませんでしたが、「道元」という名前の集落、道元道、そして、その先には伝説の怡土七ヶ寺の一つ、夷巍寺の跡とされる一貴山があります。
一貴山には仁王門とともに、仁王像が地元の集落の人びとに、特に久我家の方々により大切に守られてきました。この久我家の家紋も、久我竜胆であり、何らかの関連性を伺わせます。

様々なことに思いを馳せ、ロマンを感じることができる旅となりました。

(つづく)


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投稿者: kameno 日時: 2008年11月27日 20:33

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