鹿児島檀信徒研修旅行(2)

■吉祥山紹隆寺(大本山永平寺鹿児島出張所)

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曹洞宗大本山永平寺では、昭和63年に不老閣建替えが行われました。
その際に旧不老閣が鹿児島に移設され、紹隆寺の客殿となりました。

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その後、本堂、山門、鐘楼堂等が建設され、堂々たる大伽藍となっています。
永平寺より修行僧が夏の期間は十数名、冬の期間は5名ほどが派遣され、修行を行っています。


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拝登諷経の後、参拝者焼香。

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ご丁重なる案内と展待をいただきましたことを改めて感謝申し上げます。

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紹隆寺は、越前島津家を再興した16代忠紀以下、重富島津家の菩提寺として建立されました。

重富家 (16代)島津忠紀?(17代)島津忠救?(18代)島津忠貫?(19代)島津忠公?(20代)島津忠教


薩摩では、元文2年(1737年)、22代薩摩藩主島津継豊が、弟忠紀に越前家の名跡を継がせて復興させた(越前島津氏播磨家22代の権兵衛忠義の時である)。復興翌年・元文3年(1738年)、薩摩藩による龍野藩上村の越前島津氏の末裔・氏神・住居等の調査が行われた。調査を命じたのは前藩主吉貴、調査担当は家老島津權左衛門であった。その結果、権兵衛忠義は越前島津家一族と認められるも正嫡か否かについては断定されず、薩摩藩の調査は終了した(国宝『島津家文書』越前島津家由緒承合候日記全)。 復興に際して大隅国姶良郡帖佐郷の脇元村・平松村・船津村・春花村と、薩摩国鹿児島郡吉田郷の東佐田浦村の一部を割いて触田村とし、その5ケ村を以って越前の旧領名に因んだ重富郷と命名したことから、重富家とも称した。石高は1万4000石。重富家は島津御一門家の筆頭格として位置づけられ、後に「国父」の尊称を得て薩摩藩主島津忠義を後見した島津久光(忠教)も、同家の養子となっていた時期がある。久光の子・珍彦の時に男爵となった。 (『ウィキペディアWikipedia』より一部引用)

しかし、明治維新後に成立した新政府により発せられた太政官布告「神仏分離令」(慶応4年)及び詔書「大教宣布」(明治3年)などの「廃仏毀釈」の動きに巻き込まれ、紹隆寺は焼かれてしまいます。
廃仏毀釈は特に薩摩藩において徹底的に為され、藩内にあったとされる1616か寺が廃寺に追い込まれ、還俗させられた僧侶は2966人にのぼったとされています。
つまり、殆どの寺院が破壊されてしまった訳です。

現在は、紹隆寺を偲ぶ史跡は、墓所と、山門手前にある紹隆寺橋くらいでしょうか。

橋梁名 紹隆寺橋
所在地 姶良町平松原 道路種別 その他の町道
路線名 紹隆寺線 河川名 狩川 架設年代 明治初期
文化財 石工名 不詳 管理者 姶良町

【石橋諸元】
形式 拱橋 橋長 8.65 幅員 3.25
壁石積み方 不詳 支間数 1連

(鹿児島県立石橋記念館のサイトより引用)




最後まで見送ってくれたマスコット犬・チャコちゃん(2才)

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投稿者: kameno 日時: 2008年11月20日 09:20

コメント: 鹿児島檀信徒研修旅行(2)

> kameno先生

檀信徒研修会、お疲れ様でした。
それにしても、紹隆寺、意外に、と言ったら失礼ですけど、立派な伽藍ですね。驚きました。さらに、山号も初めて知りました。

投稿者 tenjin95 | 2008年11月24日 13:24

tenjin95さん
コメントありがとうございます。
私も初めて拝登させていただきましたが、堂々たる伽藍に正直驚きました。
本当は元あった場所に建立したかったそうですが、事業計画の中でこのような大きさになってしまったそうです。維持管理が大変だという本音も漏らされていました。

投稿者 kameno | 2008年11月24日 23:56

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