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慟哭、誓いの碑
この鎮魂慰霊、慟哭の中に、われら国を超え、
民族を超え、世界人類永遠の平和をここに誓うLAMENTATION, MONUMENT OF PLEDGE
NO MORE TRAGEDY. WE HEREBY VOW ETERNAL PEACE
FOR ALL MANKIND THROUGHOUT THE WORLD,
IRRESPECTIVE OF NATIONS AND RACES
昭和20年3月1日、硫黄島を占領した連合軍は、同月25日、沖縄慶良間列島に上陸しました。
軍部は、この劣勢を一気に挽回する作戦として、特別攻撃隊(特攻隊)を強化します。
知覧に集められた特攻隊は17歳から22歳くらいの若者が殆どでした。
特攻隊の戦闘機は機体に数百?の爆弾を付けて連合軍艦隊に突撃しましたが、多くは敵艦近くで対空砲火のために海中に散っていきました。
(特攻作戦に飛び立った飛行機3,461機のうち、1,915機が体当たり、そのうち132機が敵艦に命中、122機が至近弾となったとされています。また、特攻作戦により、海軍は2,535人、陸軍は1,844人の戦死者を出し、失われた飛行機の数は海軍2,367機、陸軍1,094機に上りました)
戦後まもなく米軍が撮影した航空写真が「国土変遷アーカイブ」としてインターネットにて公開されていますが、その中で知覧を撮影した写真を見ると・・・・
写真名 USA-M489-2-106 コース番号 M489-2 写真番号 106 撮影年月日 1947/09/18 市区町村名 川辺郡知覧町 撮影実施機関 米軍 撮影高度 4724m 撮影縮尺 1: 30858
飛行場と思われる場所から痕跡のようなものが南西方向へ幾筋も伸びているのを発見しました。おそらく離陸の跡でしょう。
飛び立った飛行機は開聞岳(薩摩富士)を目標に、一路沖縄へ約二時間の片道の航路を進みます。
彼らはどのような思いで操縦桿を握っていったのでしょうか。
全国から集められた特攻隊員は、僅かな滞在の間、基地近くの富屋食堂を訪れました。
食堂のおかみさん、鳥濱トメさんは、隊員たちの心を癒す母親として、隊員たちに接します。
「私の残りの人生を、おかあさんに差し上げますから長生きしてください」
ある隊員はこのように別れの言葉を残したそうです。
鳥濱トメさんは平成4年に他界されてしまいますが、現在富屋食堂は富屋旅館として残されています。
最近、富屋食堂は旅館の隣に復元されました。
知覧の町に往時のまま残されているものは、給水塔、弾薬庫跡など、僅かしかありません。
知覧町は、この特攻隊基地のあった地であることから、昭和50年に特攻遺品館、昭和62年に知覧特攻平和会館が建設され、1036名の特攻隊員たちの記録が保存されています。
鳥濱トメさんの永年の願いにより旧陸軍知覧飛行場跡地に特攻平和観音堂が建てられました。
トメさんは、日々の観音参りを欠かすことはなかったそうです。
その特攻平和観音堂において慰霊法要を営ませていただきました。
知覧特攻平和会館には多くの来館者で溢れていました。
小学生の姿も多く見られました。
館内の方の説明を食い入るように聞いている姿が印象的でした。
遺品の数々、特に隊員たちの残していった手紙を見るにつけ、涙無くしては回れないのです。
「お母さん 大元気で でっかい奴を沈めます」
「お母さん 不孝者でした お許しください 元気で逝きます」
「今こそ大声で呼ばせて頂きます お母さん お母さん お母さんと」
天皇陛下、お父さんよりも「おかあさん」の言葉が目立ちます。
それが素直な気持ちなのでしょう。
隊員の人達の多くは、戦争をしてはならない、平和な日本であるように、ということを言っていました。そして、そのことをできるだけ多くの人々に伝えて欲しいとも言っていたのです。みんないい人達でしたから、とてもやさしいんです。全部わたしの子供にしたい思いでした。自分の母の代わりになってくれとほとんどの隊員の人達が言いました。
(鳥濱トメさんの手記より)
■関連リンク
知覧特別攻撃隊『ウィキペディア(Wikipedia)』
財団法人 特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会
富屋食堂
戦死を指す散華
戦争にて日本軍の兵士が戦死することを美化して散華という。特に、他を守るためや救うために犠牲となるような形(結果はともあれ形式上)で戦死することを指す。玉砕と共に、戦死を美化する表現である。時に玉砕とほぼ同義に使われるが、特攻による戦死においてはこの表現が用いられることが多い。ただし、将官級の軍人が死亡した場合はどのような形で死亡してもこう呼ぶことがある。
なお、日本兵でも殉職や事故・病死、空襲等による戦災死、他国兵士が戦死した時は散華とは通常言わない。『ウィキペディア(Wikipedia)』
拝読した後、しばらく考え込んでしまいました。
これらの体験談は永遠に語り継がれていって欲しいものです。
若者たち自身のの自己教育に必ず役立つと信じます。
子供にとって母親の力は何よりも強力であると思います。
そのことが正しく子供たちには解っているのです。
母親の愛は子供が自分で感じるものであり、母親たちが子供に言って聞かせるものでは絶対にあってはならないと思います。
いまの社会情勢を観ますと、特にそのことを考えさせられます。世の中に、一時期からなじんでしまった教育ママたちの弊害を感じさせられるのです。
投稿者 Anonymous | 2008年11月24日 04:52
コメントありがとうございます。
母親は偉大なり。
沖縄の海に散っていった若者たちの声は、永遠に語り継いでいくべきですし、多くの方に届いて欲しいと思います。
実際に目にするのが一番です。一人でも多くの方々に訪問していただきたい場所でもあります。
知覧特攻平和会館で『知覧特別攻撃隊』(村永薫編・ジャブラン)を購入しましたが、お薦めの一冊だと思います。
投稿者 kameno | 2008年11月24日 09:26