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阿育(アショカ)王山広利寺。
道元禅師が明州慶元府(現在の寧波市)に到着されたとき、日本から運ばれてきた食材を求めにやってきた阿育王山広利寺の老典座和尚と出遭います。
道元禅師は、老いた典座和尚がはるばる歩いてきたのを見て、なぜ、あなたほどの高僧が自ら買出しにやってくるのかを訊ねます。
老典座は、「あなたは修行の意味や文字の意味をご存じではないようだ」と答え、その場を去っていきました。
数ヵ月後、天童山に籍を置いた道元禅師に、老典座が逢いに来ます。
阿育王山での任期を終えて故郷へ帰る途中、どうしても道元禅師に面会したかったのです。
道元禅師に再会した典座和尚は、文字とは「一二三四五」であり、修行とは「偏界曾て蔵さず」ということを教示します。
つまり、目に映り耳に聴こえる全てが生きた文字であって、全てのものが隠すところ無く仏道の真理であるということでしょう。
道元禅師が典座教訓を著すきっかけとなった出会いは、ここ阿育王山広利寺と深いかかわりがあります。
山門?天王殿?大雄宝殿?舎利殿 という直線の配置となっています。
舎利殿は清代康煕18年(1679年)に創建、1916年再建されました。
金色の瑠璃瓦が特徴。とても煌びやかで眼を引きます。
大雄宝殿にも舎利殿にも、屋根の中央には鏡が設置されています。
初めは神道の御神体のようなものかと思ったりしましたが、そうではなく、鏡に自分の姿を映すことができれば願意が叶うということです。
柱と梁は珍しく木材が使われています。
材料は日本から運ばれて来たとのこと。
どうりで、懐かしい感じがするわけです。
おかえりなさい!中国の研修はさぞ学びの多いものだったのでしょう・・
それにしてもやはり中国は国土も大きいが宗教に対する信仰の厚さもすごいものがあるのですね。
日本は中国から仏教を教えてもらったことでしっかりと信仰や仏教文化が花開きましたが・・
文化革命の弾圧によって宗教が表向きは壊滅状態にまで追い込まれたにもかかわらず復活していく様子はある種「希望」でもあり人々がより向上していきたい、という良きエネルギーになっていくのでしょうね。・・けして霊感商法にしてほしくはないですが。
私の読んでいるお経でお守りみたいになっているのが、「白衣観音経」があります。
このお経、マイナーで今では日本の僧侶はお唱えしている人はいないんだそうで・・
私も自分の読んでいるお経の意味とかが知りたいと思い、色々調べました。しかし解説書はほぼみな廃盤になったそうです。
古本屋をまわるしかなくなってしまいました。
そんな中、少しだけ分かったのは、あのお経は宋の時代に民間で広く唱えられるように作られた偽経で、そのころの庶民の仏教に対する不信感に答えをだすためのものだったとか。
先祖をまつり、当時流行っていた?悪霊退散、福寿無量のお呪い・・ていうんですかねー。そんな道教や密教的要素をもちあわせていたようです。
だから、高野山の見習いのお坊さんのたまごのような人が、「こりゃあ、拝み屋さんのお経やろ」てゆってたのが印象にのこっています。
お金のない苦しい生活のなかで仏教を深く信心したくてもできないで心細い気持ちをひたすら祈る事でいつかはいいことがあるような気がして・・
わらをもつかむ気持ちがこのマイナーな短いお経を生みだしたのかしら。
読じゅ1千遍1万遍・・とも言われています。
そうしたら願いが叶うと言われています。
そもそも仏様に願をかける、というかなんらかの利益を期待して、という姿勢は動機が不純なのだろうとは思いますが、やはりあの時代の衆生の祈りはもう直接的に魂の救済であったのかもしれない。せっぱつまったものがあったのかなと想像すると
なんだか身につまされるような、気持ちになります。
お経の中に色々な仏様がフルネームで登場し、曼荼羅のような感じですが、この「阿育(大天)王」さんも登場します。
古い古いお経で道教みたいな感じで違和感はあるのですが、今ではすっかりなじんでいます。遠い昔の中国という国と日本の縁をかろうじて感じる・・そんなお経です。
投稿者 ゆが | 2007年3月10日 22:50
白衣観音経(白衣神咒)は、確かに、日本ではあまり読まれないお経ですね。
中国や台湾では良く読まれている経典のようです。
短いので、唱えやすいのでしょうね。
境内で、節をつけながらお経を繰り返し唱えている方々の姿をよく見かけました。
観音様には願いを掛けても宜しいと思いますよ。
このようなCDもあるんですね。
http://shopping.jchere.com/detail-id-14319.htm
投稿者 kameno | 2007年3月10日 23:36
おはようございます。ご紹介していただいたCD、さっそく注文してみました。
これも何かのご縁かもしれないですね。
白衣・・ははじめ、自分の為にお唱えしていました。しかしいつの頃からか、お経は自分のためだけじゃない、先祖を供養する為だけでもない、回りの人たちの幸福を祈り自分をもっと磨くために読むし、思いを込めて祈るものなんだ・・に、変わっていきました。自分の事ばかり考えていた私が・・不思議なことです。
では私の願い事は、というとあるけれど、とりあえず今家族親戚縁者、お世話になってる人々が幸せなら、それが一番です。
そして愛すべき伴侶が健康でいつも笑っていられたら・・
最後になりましたが、うちの義父が腰椎を圧迫骨折し、歩けず、下の感覚もわからず・・で認知も進み、オムツ状態だったのが、この観音行の最中にーー知らない間でしたーー歩けるようになり、排泄も自立したという奇跡が起きました。
こう書くとなんか超常現象みたいでいやだな・・
観音様のご利益にあずかれた嬉しい出来事でした。
みんなに仏様のご加護がありますように・・・
投稿者 ゆが | 2007年3月11日 10:43
ゆがさん
>しかしいつの頃からか、お経は自分のためだけじゃない、先祖を供養する為だけでもない、回りの人たちの幸福を祈り自分をもっと磨くために読むし、思いを込めて祈るものなんだ・・に、変わっていきました。自分の事ばかり考えていた私が・・不思議なことです。
この心構え、とても素晴らしいと思います。
お唱えも是非毎日続けてみてください。
お義父さんが回復されたとのこと、良かったですね。
ゆがさんにも、周りの方々にも観音様のご加護がありますように・・・・
投稿者 kameno | 2007年3月11日 14:14