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カテゴリー:雑学
10月も半ばを迎えました。
この時期になると、境内の池のほとりで、カマキリが観察できます。
はじめは、池の周りをただうろうろしているだけかと思いきや、池の水に吸い寄せられるように水際に進んでいきます。
↓
↓
ついには飛び込んでしまいます。
通常であれば、カマキリは水に近づくことはありません。
水に浮かんだカマキリは泳ぐこともままならず、ただ足をバタバタさせています。
やがて、カマキリは鯉に食べられてしまいました。
なぜカマキリは水に飛び込んだのか。
その理由は、体内に寄生しているハリガネムシに行動を操られ、水に飛び込むように操作されているからだといわれています。
→ハリガネムシについては、以前ブログで書きましたので、興味ある方はこちらをご覧ください。
→ ハリガネムシの奇妙な一生
自然界では、さまざまなつながりをもって生物たちが生活しています。
川や池の魚は、水に落ちた昆虫などを餌として捕食して生きていますが、実は、その中のかなりの割合でハリガネムシに寄生された昆虫が餌として寄与しているという研究があります。
上図は「寄生者(ハリガネムシ類)が駆動する渓畔生態系のエネルギー流の解明」SatoT, Watanabe K, Kanaiwa M, Niizuma Y, Harada Y. and Lafferty K. D. 2011 Nematomorph parasites drive energy flow through a riparian ecosystem.Ecology 92: 201-207 から引用したものですが、この研究によると、観察した渓流の魚が捕食する餌のうち、エネルギー量に換算して95%がカマドウマなどの昆虫であり、そのうち、ハリガネムシ類が寄生した宿主は60%程度になるというものです。
このように、自然界においてハリガネムシが果たす役割は、きわめて大きいと考えられます。
カマキリやカマドウマにとっては災難なのでしょうけれども、これも自然界全体のバランスを保つうえでの不可欠な関係性なのです。
実に不思議なものですね。
まもなく夏至を迎えます。
ちょうど、この日に日本各地で部分日食が観測されます。
国立天文台のサイトで計算してみました。
日時 | 方向角[°] | 太陽[°] | 視半径[″] | かける割合 | その他 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年月日 | 時刻 | 北極 | 極頂 | 天頂 | 高度 | 方位 | 太陽 | 月 | 角距離 | 食分 | 面積比 | 備考 |
2020/06/21 | 16:11:10 | 242 | 62 | 181 | 31.6 | 277.8 | 944 | 932 | 1876 | 0.000 | 0.000 | 食の始め |
2020/06/21 | 16:20:00 | 238 | 61 | 177 | 29.8 | 278.9 | 944 | 932 | 1686 | 0.101 | 0.038 | |
2020/06/21 | 16:40:00 | 225 | 60 | 164 | 25.8 | 281.5 | 944 | 931 | 1290 | 0.310 | 0.197 | |
2020/06/21 | 17:00:00 | 201 | 59 | 141 | 21.8 | 284.0 | 944 | 930 | 1018 | 0.454 | 0.339 | |
2020/06/21 | 17:10:26 | 184 | 59 | 125 | 19.8 | 285.3 | 944 | 930 | 974 | 0.477 | 0.364 | 食の最大 |
2020/06/21 | 17:20:00 | 168 | 58 | 110 | 17.9 | 286.5 | 944 | 929 | 1011 | 0.457 | 0.342 | |
2020/06/21 | 17:40:00 | 142 | 57 | 85 | 14.0 | 289.0 | 944 | 929 | 1300 | 0.303 | 0.190 | |
2020/06/21 | 18:00:00 | 127 | 56 | 72 | 10.2 | 291.6 | 944 | 928 | 1763 | 0.058 | 0.017 | |
2020/06/21 | 18:04:11 | 125 | 55 | 70 | 9.5 | 292.2 | 944 | 928 | 1872 | 0.000 | 0.000 | 食の終り |
今回の部分日食は、台湾では金環日食となります。
日本では南ほど食分が大きく、横浜では36%ほどの部分日食です。
カシミール3Dで貞昌院からみえるであろう様子をシミュレーションしてみました。
半年前にも部分日食を観測できる機会がありましたが、この時は残念ながら曇りで見ることができませんでした。
→ 日本で部分日食、グアムなどで金環日食
今度の日食は観測できることを期待します。
Google Mapsで貞昌院付近をのぞいてみます。
Goole Mapsの地図は2019年秋以降から仕様が変更になりました。
Zenrinとの地図に関する契約が変更になったともされ、地図情報全体が劣化されたともいわれています。
例えば、道路の描き方が実際と合致していなかったり、使いづらい部分が発生しているようです。
冒頭で紹介した貞昌院付近の道路の描き方を見ると、車道(その中でも公道の車道)の基準があいまいで、貞昌院駐車場の中に車道が通っていることになっています。
そのためか、Googleのストリートビュー撮影車が貞昌院駐車場を通って墓地の通路奥まで入ってきていました。
(もちろん無断の立ち入りです)
墓地・境内地は公道ではないけれども、公益法人の土地だから勝手に入ってよいという解釈なのでしょうか。
全国の寺社のストリートビューを見ると、境内駐車場まで入って撮影している事例は多いようですね。
これが貞昌院駐車場の入口です。
寺院檀信徒専用駐車場と明記していいるのですが、かまわず入ってきています。
さらに、墓地に向かう墓参道を登っていきます。
撮影車がミラー写っていますね。
墓地参拝者駐車場の終点です。
ここまで撮影してくれていました。
とはいえ、貞昌院については、境内地に侵入して撮影したことについては、特に消去を求めたりすることはありません。
(撮影前にひとこと言ってくれるとよかったですが)
私も、個人的にストリートビュー撮影のライセンスを持っているので、上記の撮影車が来る前に、すでに境内地の各ポイントで撮影して公開しています。
Googleからストリートビュー機材が届いた
Googleストリートビュー1000万閲覧達成
下記図の〇ポイントが、私が撮影して公開しているポイントです。
新年から、床の間にこのような供物をお供えしていました。
これは、仏手柑(ブッシュカン)といって、カボスやゆずと同じ種類の柑橘類です。
高知県や鹿児島県で生産されていて、実が合掌する両手の形に似ていることから仏手柑と名付けられています。
実が少ないので、皮を砂糖漬けにしたり、漢方薬に利用されたりしますが、観賞用や供物などに用いられることもあります。
仏さまに関する名前のある果物をもう一つ。
こちらは、まるで、お釈迦様の頭の形のような、釈迦頭(バンレイシ)という果物です。
以前のブログ記事で、台湾の佛光山で新春行事でお供えされていたものです。
こちらは、果肉が大きく、白く粒粒を含んだクリーム状です。
ほんのり酸っぱい独特の触感を持ち、台湾ではポピュラーな果物です。
仏手柑も、釈迦頭も、仏前にお供えされる果物であり、それぞれの地域で親しまれているものなのです。
明朋高校の協力を得て、馬場先生、港南歴史協議会有志による松ヶ崎横穴古墳群の追跡調査が行われました。
松ヶ崎横穴古墳群は港南区(港南台9丁目)に唯一残っている横穴墓群であり、2015年には横浜市の地域文化財に指定されています。
この古墳については『港南の歴史』の中に松ヶ崎古墳5穴として記載されている他、地元の歴史研究家には別の場所の横穴墓の存在が知られ、呼称が統一されていない問題がありました。また、有効な保存対策を行ってこられなかったことから、土砂の侵入による古墳群の劣化が懸念されます。
当ブログにおいては、これまで何回か松ヶ崎横穴古墳群に、亀野私見をまとめて記事を書いています。
まずは、これまでの記事をお読み下さい。
松ケ崎横穴古墳群の現状 (September 22, 2010)
松ヶ崎古墳現地調査 (January 25, 2011)
松ケ崎横穴古墳群への私見 (January 27, 2011)
2010年9月の調査から8年半が経過し、どの程度変化が見られたかを確認します。
まずは、松ヶ崎横穴古墳群の概略について。
これまで、私の目で確認できた古墳を①~⑦の番号でプロットしています。
うち、①~⑤は『港南の歴史』に記載のある5穴、⑥⑦は2010年9月に新規発見した2穴です。
開口部の周囲に葛などの根が張っており、劣化が心配されます。
また、土砂の流入も見られます。
横穴墓④は確認できませんでした。
こちらは内部に入ることも可能な開口の大きさが確保されています。
中から穴の外を見るとこのような感じです。
今回の調査により、松ヶ崎横穴古墳群の保存対策が早急に行われなければならない現状も見えてきました。
今後の具体的な保存対策を期待します。
※松ヶ崎古墳に限らず許可無く敷地内に入ったり、専門家の立会い無しで穴に入ることは絶対にお止めください。
なぜカルピス? 語源と歴史 ことしで誕生100周年
子どものころから多くの人が慣れ親しんだ「カルピス」。それもそのはず、2019年、カルピスは誕生から100周年を迎える。
21日、俳優の竹野内豊さん(48)、女優の長澤まさみさん(31)、永野芽郁さん(19)が記念イベントに花を添えた。
長澤まさみさん「カルピスウォーターは青春というのがテーマだと思うので、青春の味という感じ」
永野芽郁さん「皆さんの青春の中にカルピスを広めていけるよう、わたしも頑張りたい」
イベントでは、カルピスが出てくる“蛇口”が登場。
1番テンションが上がったのは...
竹野内豊さん「こんな蛇口あったら最高ですよね。学生の時は、水は蛇口から飲むのが当たり前だったけど、カルピスが出てくる蛇口があったら最高」
竹野内さんも青春時代を思い出したようだった。
ところで、当たり前のように口にしている「カルピス」という名前。100年前から変わっていないのだが、その由来は?
もしかして、「カルシウム」と「ピース」から?
アサヒ飲料株式会社 マーケティング本部・佐々木健さん「カルシウムの『カル』と、サンスクリット語の『サルピス(仏教の五味の熟酥)』を組み合わせて、『カルピス』という名前になっています」
なぜ仏教の言葉から名前がとられたのか。
それは、カルピスの生みの親・三島海雲さんが元々、僧侶だったことにある。
その三島さんが、モンゴルを旅行中に出会った乳酸食品にヒントを得て、1919年7月7日に生まれたのが、日本初の乳酸菌飲料「カルピス」だった。
発売当時のビンは、底の方が膨れた形状で、箱のデザインも当時としては斬新なものだった。そして、その3年後、1922年には、おなじみの水玉模様の包装紙に包まれた細めのビンになった。
甘酸っぱいカルピス独特の味わいを“初恋の味”と表現したキャッチフレーズも、このころから使われていた。誕生から1世紀、氷を入れたグラスにカルピスの原液を入れて水をそそぐその情景は、日本の夏の風物詩として定着している。
(yahoo!ニュース 2019/2/21配信)
今年はカルピスの誕生から100年の節目の年ということで、さまざまな記念イベントが行われているようです。
それだけ永く愛されてきた飲料ですが、その名前の語源は仏教に深く関連があるものでした。
記事にあるように、「カルピス」は、カルピスの生みの親、三島海雲師がモンゴルの遊牧民が作る乳酸食品と出会い、その乳酸食品をもとに新しい乳飲料を開発する課程で大正8年に誕生しました。
ここで、三島海雲師が出会ったモンゴルの遊牧民の作る乳酸食品はどういうものかというと、恐らく「ウルム」のようなものではないかと思います。
以前、私もモンゴルを訪問した際に(詳細はブログ記事 幸せって何だろう 参照)、ゲルに住む遊牧民の方からいただいたことがあります。
ゲルの中の台所には冷蔵庫が無いために、ヤギから絞られた乳は直ぐに火にかけられ、煮沸させます。
それをかき混ぜながら作る乳製品が「ウルム」のもとになります。いわゆる乳製品でつくるクリーム状のバターのようなものです。
沸騰する直前に小麦粉などを加え、柄杓でかき混ぜたり鍋の上から注いだりを繰り返し、泡が立ち始めるころに火を弱め、表面に出来た黄色い脂を集めてお皿に乗せます。
このウルムは、時間が経つにつれて次第に発酵していきます。
このように、生乳が精製される段階は「5段階」に区分され、それぞれ
1.乳(にゅう)
2.酪(らく)
3.生酥(せいそ)
4.熟酥(じゅくそ) सर्पिस (sarpis)
5.醍醐(だいご) सर्पिस मण्ड (sarpis maṇḍa)
と呼ばれ、これらを仏経用語で「五味」とされています。
この五味は、お釈迦様の成道の際に、ネランジャラー河の岸辺で村娘が作ってくれた「乳粥」と深いかかわりがあります。
約2500年前、19歳で出家修行されたお釈迦様は、インド各地を巡り様々な思想を学びましたが、どの教えも彼を満足させることはありませんでした。
その後、修行仲間とともに体を痛めつけたり断食をする苦行を行じますが、それでも悟りに至ることは無く、苦行の無意味さに気づき苦行を中断します。
ネランジャラー河の岸辺で村娘が作ってくれた「乳粥」を施され、そのままガヤの菩提樹の下で坐禅を組み禅定に入ったお釈迦様は、禅定を妨害する魔物たちをことごとく調伏し、12月8日未明ついに悟りを開かれます。
下写真は、私が1991年にインドを旅行したときに撮影した「ネランジャラー河から見たブッダガヤのマハーボーディ寺院大塔」です。
中央に見える大塔は、高さが52mもあります。
大塔の近くに、お釈迦さまが悟りを開かれた菩提樹と金剛座がありました。
お釈迦様の成道になぞらえた臘八攝心坐禅の最後の早朝、五味粥をいただくのですが、この五味粥をいただくたびに、モンゴルでいただいた栄養たっぷりの「ウルム」を思い出します。
そして、その「ウルム」が「カルピス」の由来になっていることも感慨深いものです。
カルピス生誕100年おめでとうございます。
『サザエさんよもやま話』の一コマ。
これは、サザエさんの原作者、長谷川町子さんが西日本新聞の社員として仕事で博多湾をスケッチをしていた時、憲兵に見つかりスパイ容疑をかけられたエピソードを描いたものです。
このエピソードは博多の話ですが、戦争直前、戦時中は日本各地の軍施設の周辺では、測量、撮影、模写、録取などが厳しく制限されていました。
横浜以南から三浦半島にかけて、同様の制限が掛けられていたことが同じ時期に発行された『京濱・湘南電鐡沿線案内』に見ることができます。
『京濱・湘南電鐡沿線案内』
昭和16年3月21日 東京湾要塞司令部許可済
昭和16年3月17日 横須賀鎮護府許可済
被許可者 鉄道省
この絵図には、右上に次のような注意書きがあります。
注意
要塞地帯内に於いて許可なく水陸の形状を測量・撮影・模写・録取することは禁じられております。犯したる者は法律によりて処罰せられます。
『護れ要塞 防げよスパイ』
この図では、おおむね横浜駅より南側の一帯、三浦半島全域が要塞地帯となっています。昭和16年といえば、太平洋戦争開戦の直前の時期です。
昭和12年7月7日日中戦争(支那事変)がにより、英米仏と日本の関係は急速に悪化、米が燃料や鉄鋼資源の対日輸出を制限するなどの日本への対策が行われました。
日本は、独・伊と日独伊三国軍事同盟を締結し、対して米国は石油輸出全面禁止等の経済封鎖を強化、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃により 日本は英米に宣戦布告、太平洋戦争へと突入していった時期ですから、特にこのような制限が広くかけられたのでした。
それでも、地図をみると、仰々しい内容ばかりではなく、観光絵地図として楽しめる内容もふんだんに盛り込まれています。
京浜電鉄の主な観光スポットであった總持寺や花月園、川崎大師なども大きく描かれています。
油壷の海岸では海女さんが魚介を採る様子なども描かれていたり。
花見で宴会している様子が描かれていたり。
要塞地帯の中でも、決して日本全体が戦争に突入していくような緊張感を感じさせないような楽しい絵柄になっています。
眺めているだけでも楽しい絵図ですね。
七月盆と八月盆の間には、旧鎌倉郡に位置する21か寺の組寺がそれぞれ大施食会(大施餓鬼:おせがき)法要の日程を組んでおり、それぞれのお寺に随喜しています。
以前書いたブログ記事を併せてご参照いただけるとわかりやすいと思います→ 鎌倉郡から横浜市へ
今日は戸塚区東俣野の龍長院様での大施食会が行われました。
(なお、貞昌院は7月26日。今年は水曜日です)
龍長院様の本堂には、天井から吊るされた殿鐘があり、その傍に由来書が掲示してあります。
殿鐘之由来
此の殿鐘は宝暦8年5月(1758)江戸四谷坂町の市川泰立親行が先祖並びに諸精霊(戒名を併記)の菩提を弔う為に寄進、相模国鎌倉郡東俣野村天王山龍長禅院八世宗峯代と銘が有る
處が横浜市港南区上野庭町内会館に保管されて有り、郷土の歴史に造詣深い斉藤庄八 同町内会長の斡旋により返還が決まり、昭和55年9月15日 當山住職世話人6名が上野庭町内会館での返還式に臨み、無事元の古巣に帰還、現に龍長院護持の殿鐘たり
昭和55年9月15日 當山29世光匡書
由来書に書かれている上野庭は、貞昌院からほど近い場所です。
永野は永谷と野庭が合併してできた地名であり、野庭のうち鎌倉に近い「上」の地区が上野庭ということになります。
それにしても、戦中戦後を乗り越えて、良く上野庭町内会館に保存されていたものです。
さらに、元々あった龍長院に変換されるためには多くの方のご尽力があったからこそでしょう。
近年、例えば路傍の石仏など地域に遺されている文化的価値のある様々なものが散逸したり失われたりということが多いようです。
地域の歴史を知る上でも、それを後世に残す意味でも、この殿鐘のようにきちんと元の場所に変換され、その経緯を記録として残すことはとても重要なことであると感じます。
大本山永平寺や總持寺などで精進料理の御膳をいただいたことのある方は、昆布を飾り切りにして揚げた吉祥昆布(蛇腹昆布ともいう)を目にしたことがあるのではないでしょうか。
このような↓ものです。
吉祥昆布には幾つか種類があって、このように蛇の腹のような形のものや菊花を模ったものなどがあります。
そこで、ちょっと頭の体操です。
上のような吉祥昆布(蛇腹昆布)を作るには、昆布をどのように切って組み合わせればよいでしょう。
ヒントとして元の形を。
縦に切れ目を入れた同じ形の昆布2枚を組み合わせます。
完成形(形を整える直前)のものがこちら。
実際にやってみると、ちょっと難しいかも。
頭の体操に是非やってみてください。
貞昌院・永谷天満宮、日限地蔵尊は「神奈川県名勝・史蹟投票」で神奈川県で27位、44位で選ばれるほど有名な場所であり、近郊からの参拝客が永野小学校付近から永谷天満宮の脇を通り、上永谷5丁目を抜けて日限山に続く参道を埋め尽くしていたそうです。
特にお地蔵さんの縁日(4の付く日)には沿道には茶店も並び、賑わっていました。
そのあたりは、これまでブログで何回か触れておりますのでこちらをごらんください。
日限地蔵尊参詣の諸賢へ吉岡山日限地蔵尊命日の多数参詣人を目当に不徳漢詐欺賭博団なるもの密に来りて真実らしく各種参詣人に紛争し四方八方を能く見定めた上主役の一人が姦策甘言を以て諸賢を欺瞞せんと射倖心を誘発に取かかる
其所へ一味の配役(俗に言うさくら)が通りかかりの風来で手を出し衆の面前で僥倖を獲得した様に見せかけ益々射倖心の挑発に務め猫が鼠を捕う気構えをして居る
是等の点を何の理解なく我も僥倖を得んと手を出し財布をないふにし泣きの涙で帰らるる事の無い様特御注意を致します
申す迄もなく神仏を礼拝信仰するに邪気が有っては何の効果が有りません
御参りをする事は大に良い事ですが国法を犯し一儲けせんと賭博などに手を出しては折角の御参りも無駄事に存じます
鹿を逐う者は山を見ずとかや御参りの皆様は一所懸命日限地蔵尊を御信仰あらん事を切にお勧めいたします
戸塚警察署
(注釈)
射倖心=まぐれ当たりによる利益を願う気持ち。
僥倖=思いがけない幸い。偶然に得る幸運。
鹿を逐う者は山を見ず=利益を得ることに熱中している者は、他の事は顧みなくなるというたとえ。
この高札が書かれた時期は
1893年(明治26年):鎌倉郡警察署が戸塚警察署と改称
1936年(昭和11年):永野村が鎌倉郡から横浜市に編入
の間だと推測されます。
今も昔も、混雑に紛れて不届きな行いをするものが居たのですね。
それにしても、「財布をナイフに・・・」など、ユーモアにあふれた表現も見られますね。
蓮の花は日の出とともにみるみる開花していきます。
また、散る時にはこれも短時間の間に花弁を散らします。
散った蓮の花を「散蓮華」といい、日本では古くから美術の意匠として使ってきました。
中国から伝わったスープやチャーハンを食べるときに用いる「湯匙」も、日本では「散蓮華」「レンゲ」と呼んでいます。
ただ、修行道場でお粥をいただくときに使う応量器の匙は「匙」と呼びます。
お釈迦さまの頭鉢で頂くいのちのお粥ですから、これこそ「散蓮華」と呼んでも良いと思うのですが・・・・
蓮は仏教の象徴ですから、お寺の中にも蓮華のデザインがたくさんあります。
お寺にお詣りする機には、是非いろいろな蓮華を探してみてください。
仏像で、仏さまがが鎮座している台座も「蓮華座」といって、蓮の花のデザインです。
センター試験も終わり、これから本格的な入試の時期に入ります。
受験生の皆さんは、インフルエンザに注意して、実力を出し切ってください。
今日のブログはちょっとコーヒーブレイク的な内容です。
問題:下図のような道路(黒い線)がある。A地点からB地点まで行く経路は何通りあるか。
ただし、同じ道を2回通らないこと。
一見、簡単そうな問題ですね。
上図は10×10の区画に区切られた道路ですが、1×1、2×2...の場合で考えてみて一般化していけば解けるかな?
そうなると順列組合わせで、答えは 20C10 = (20×19×18×17×16×15×14×13×12×11)/(10×9×8×7×6×5×4×3×2✕1) = 184,756 通りかな?
・・・・・
しかし、そう簡単ではありません。
最短経路だけとは限らないですから。
日本科学未来館の作製した動画が面白いので、こちらをごらんください。
この動画に、上の問題の答えが掲載されています。親切ですね~
『フカシギの数え方』 おねえさんといっしょ! みんなで数えてみよう! (日本科学未来館公式)
このように、何通りあるかを逐一辿って検証してみると、一見簡単に解答が得られそうに見えて、とんでもないことになるのです。
そこで必要なことが「アルゴリズム」の最適化です。
アルゴリズムとは、解答に至るための具体的な手順のことをいいます。
動画にあるように、シラミつぶし的に全ての経路を検証する方法は方法論としては単純ですが、効率の面では非効率きわまりありません。
そして、コンピューターはいくら性能が良くても、今のコンピューターは残念ながら「考える力」を持ち合わせていません。
人間の命令に従った計算を行ない、その結果を出しているだけです。
したがって、解答に至るまでの最適化した手順を併せてコンピューターに教えてあげないと、計算にとても時間がかかってしまうのです。
いかに正しく効率的なアルゴリズムを提示できるか、これが重要なのです。
→関連ブログ記事 一番じゃなくても一番になれる エレガントに解くということ
ということで、上の問題を適切なアルゴリズムで計算すると、スーパーコンピューターで何万年もかかるものが、パソコンでも数秒で解答が得られる、という事例が下記の動画です。
これもアルゴリズムの一例であり、もちろん、さらに正しく効率的なアルゴリズムも存在することでしょう。
身近なところではカーナビの経路とか、乗換案内のルート検索とか、様々な場面で応用されています。
数学は奥が深いですね。
それにしても組合せ爆発・・・・オソロシス・・・・・
そういえば、ザ・ぼんち(おさむ、まさと)のギャグで「A地点から B地点まで 行くあいだに既に恋をしてたんです」ってのがありました。
つい思い出してしまいました。古い!
一番じゃなくても一番になれる
エレガントに解くということ
友達の友達は皆友達だ か?
お寺の屋根が曲線である理由・別の視点から
お寺の屋根が美しいのには理由があります
一義的に求められない数値もある
IPアドレス枯渇解消へ
経典に次のような一節があります。
汝等比丘、昼は則ち勤心に善法を修習して時を失せしむること勿れ、初夜にも後夜にも亦 廃すること有ること勿れ、中夜に誦経して以て自ら消息せよ
(『仏遺教経』)
ここに出てくる「初夜」「中夜」「後夜」は一昼夜を6つに分けた「六時」の名称です。
仏教では1日(一昼夜)のうち、昼を「晨朝」「日中」「黃昏(こうこん)」、夜を「初夜」「中夜」「後夜(ごや)」というようにそれぞれ3等分しました。
そして、それぞれに行なう修行の内容が定められていました。
(「晨朝」は「初日」、「日中」を「中日」、「黃昏」を「後日」や「日没(にちもつ)」ということもあります。)
また、これらは「日の出」と「日の入」を基準として、昼と夜をそれぞれ3等分して定められましたので、季節によってその長さは違ってきます。
修行道場だけでなく、明治以前の日本では「不定時法」が用いられていました。
日の出薄明を「明け六つ」、日の入薄明を「暮れ六つ」として、やはり日の出、日の入を基準に時刻を定めました。
そして昼を6等分、夜を6等分し「○の刻」と定めましたので、それぞれの「刻」の長さは2時間ちょうどにはならず、季節によって違ってきます。
春分と秋分の日近辺は昼と夜がだいたい同じ長さとなりますから、「○の刻」もほぼ等分されるのですが、夏至では昼間の「○の刻」は2時間よりもかなり長くなり、夜の「○の刻」は逆に2時間よりも短くなります。
「不定時法」では、このように昼と夜で時間の進み方が異なりますので、明け六つと暮れ六つで時計の針の進み方が切り替わる「和時計」が開発されました。
では、大本山永平寺を基準として、六時を計算してみましょう。
日の出・日の入マップ では、任意の地点の日の出、日の入の方向と時刻を求めることが出来ます。
夏至と冬至ではこんなにも昼夜の長さは異なりますし、太陽の方向も異なります。
日の出、日の入の時刻をもとに、「六時」それぞれの時刻を計算しエクセルでドーナツグラフを作成してみました。
表:永平寺(福井県吉田郡)を基準とした六時の時刻
春分 | 夏至 | 秋分 | 冬至 | |
晨朝の始まる時刻 | 5:58 | 4:38 | 5:43 | 7:02 |
日中の始まる時刻 | 10:01 | 9:30 | 9:46 | 10:16 |
黃昏の始まる時刻 | 14:04 | 14:23 | 13:49 | 13:30 |
初夜の始まる時刻 | 18:08 | 19:16 | 17:52 | 16:45 |
中夜の始まる時刻 | 22:05 | 22:26 | 22:49 | 21:30 |
後夜の始まる時刻 | 2:01 | 1:21 | 1:46 | 2:15 |
<昼の長さ> | 12:10 | 14:38 | 12:09 | 9:43 |
<夜の長さ> | 11:50 | 9:22 | 11:51 | 14:17 |
※注)日の出日の入を基準に計算しています。薄明を昼に加える場合は昼の長さがその分長くなります。
このようにそれぞれの時刻は夏至と冬至ではかなりずれ込むことが分かりました。
その場所の太陽の位置を基準にしていますので、場所によって時刻は変わりますが、全国が同時刻である必要がない時代ですからまったく問題はありません。
また、時計がなくても太陽の動き、高度を見るだけで「○の刻」を定めることができますので、不定時法が必ずしも不便であるとは言えないのです。
その場所の日の出、日の入を基準とした生活というのは、体内時計にも近いような感じがします。
自然に逆らわないとても豊かな生活だったのかもしれないですね。
東京に副都心線が開業したのは昨年のこと。
東京13号線として都市計画された副都心線が完成したことにより、東京の地下鉄計画は一段落したことになります。
(羽田~成田を結ぶ大深度地下鉄計画なども今後ありそうですが)
これだけ地下鉄が複雑に整備されている都市は、東京以外にはそうはありません。
(東京都交通局の地下鉄路線図を引用)
ちなみに、東京12号線は都営大江戸線。
東京の地下には、既に多くの地下鉄、道路、電気、水道、下水道、地下河川などが複雑に埋設されているために、新しく建設される路線は、それらを縫うように計画しなければなりません。
そのため、縦方向のアップダウンも当然に多くなります。
東京都交通局の資料を元に、大江戸線の縦断図を作成してみました。
(クリックすると大きくなります)
左側が都庁前で、そこを基点に右回りにぐるりと東京を廻り、再び都庁前を通り、光が丘までの縦断図です。
他の地下鉄路線、道路、電気、水道、下水道、地下河川に加えて、東京という都市はアップダウンも多く、また東部のゼロメートル地帯もあるために、縦断図はちょっとしたジェットコースターのように上下を繰り返しています。
水平方向の複雑さも相当なものですが、縦方向(上下方向)の複雑さこそが東京の東京たる由縁ともいえます。
ですから、冒頭の地下鉄路線図のように上から見下ろす形で地図を概観しているだけでは、東京の都市構造を把握することはできないのです。
ということで、東京の地下鉄がどれほど複雑な構造となっているかを示してみたいと思います。
東京の地下鉄路線のGPSデータと上下方向のデータとしてKazu.さんが公開されているKMZデータを使わせていただき、それを Google earth で表示してみます。
まずは真上から。
これは、普段目にする地下鉄路線図に近い形ですね。
(クリックすると拡大します)
では、南方向から斜めに俯瞰してみましょう。
地下鉄路線各路線の上下方向の変化が分りますね。
もう少し中心部を、今度は西方向から東京都庁舎屋上目線で俯瞰してみましょう。
25年前ほど前、大深度地下の協議会で東京12号線の路線計画を話し合っていたころ見た図面がこのように具現化されるということは、本当に感慨深いものです。
いろいろな方向から眺めてみると、本当に飽きないです。
東京の地下鉄を利用される際には、是非上下左右方向の変化を感じ取ってみてください。
日本の技術の結晶がそこに凝縮されています。
地下鉄の路線図のごと枯れ枝の絡まり合って十二月の空
(朝日歌壇 2013年12月22日)
港南区には、かつて炭鉱がありました。
炭鉱といっても良質の石炭が生産されたわけではなく、亜炭(あたん)と呼ばれる木質系の燃料です。
そのあたりの詳細は、下記のブログ記事をご参照ください。
港南区の炭鉱と戦争の影
亜炭を運ぶトロッコ
亜炭について、フリー百科事典『ウィキペディア』には次のように解説されています。
亜炭(あたん、英: lignite)とは石炭の中でも、最も石炭化度が低いものをいう。地質学上の用語としては褐炭が正しいが、日本においては行政上の必要からこの語が用いられる。
品質に関しては褐炭同様、石炭化が十分に進んでいないために不純物や水分を多く含み、得られる熱量が小さいことから、製鉄などの工業用途には向かない。日本では明治年間から1950年代まで全国各地で採掘され、主に家庭用燃料として重宝された。特に、第二次世界大戦中および直後においては、燃料の輸送事情が極端に悪化したため、仙台市・名古屋市、または長野市など大規模?中規模の都市の市街地などでも盛んに採掘が行われて利用された。亜炭は着火性が悪く、燃焼時にも独特の臭気や大量の煤煙を出すため、燃料事情が好転すると早々に都市ガスや石油などへの転換が進められた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
事実、現在の港南区エリアで産出された亜炭も、燃料事情が悪かった時代には特に家庭用燃料として利用されていました。
亜炭は、実際にはどのようなものだったのでしょうか。
いろいろと調べてみると、現在でも燃料としてではなく、肥料や熱帯魚水槽の浄化のために販売されています。
さっそく試しに入手してみました。
これが届いた亜炭です。
石炭と木炭の中間という表現がぴったりですね。
最戸産の亜炭を使ったことがある方のインタビュー「低温で石炭のように炎が出ない。燃えかすが多くて、臭かったな」(神奈川新聞平成8年6月4日)が印象的でしたので、さっそく実験開始です。
火を起してお湯を沸かしてみましょう。
こんなときは、茶道具の火熾が便利です。
・・・・さすがに着火性は悪いですね。
10分ほどかかりました。
しかも、臭気の強い白煙が濛々と立ち昇ります。
窓を開けて換気扇フルパワーで凌ぎます。
煙の匂いは、中国産の花火で遊んだ後、バケツの水に浸したときの匂いです。
おそらく硫化水素をたくさん含んでいるのでしょう。
まともに吸い込んだら健康に支障をきたすかもしれません。
ようやく着火しました。
炎が継続的に出ています。
また、燃え進むにつれて層の部分から亜炭が分解していきます。
着火した後は外に持って行きました。
(家の中ではとても作業が継続できません)
やかんに水を1リットルほど入れて、亜炭にかけます。
ウチワで扇ぎながら待つこと10分。
80℃ほどのお湯になりました。
では、さっそくお茶を淹れてみましょう。
丁度淹れ頃の温度なので、おいしそうなお茶が出来ました。
!・・・・美味い!!!!
【実験結果】
100グラムほどの亜炭でも、お茶は充分に淹れることができる。
ただし、換気には充分な注意が必要。
根気も必要です。
現在の港南区エリアで産出された亜炭は、常磐炭の四級品程度、1キロあたり平均3700キロカロリーの熱量だったそうです。
とすると、100グラムの亜炭の持つ熱量は370キロカロリー。
熱効率を20%と仮定すると、74キロカロリーですので、1リットルの水を約70℃上昇させるポテンシャルがあるということですね。
まあ、計算どおりでしょう。
燃焼時にも独特の臭気や大量の煤煙を出すため、燃料事情が好転すると早々に都市ガスや石油などへの転換が進められたということが充分納得できる実験となりました。
世界遺産登録を目指している鎌倉。
古都だけあって、歴史ある寺院が幾つもあります。
それでは、鎌倉市の寺院に祀られている仏像のうち、一番古い仏像は何処の寺院の仏像かご存知ですか?
鎌倉最古の寺、杉本寺の仏像でしょうか?
それとも鎌倉五山の仏像でしょうか?
・・・・・・
正解はこの仏像です。
鎌倉市にある寺院の仏像の中で、ダントツに古い仏像です。
鎌倉市指定文化財 観音菩薩立像
実に平安時代後期の藤原様式のものです。
どこの寺院に祀られているかというと、曹洞宗の大船観音寺です。
意外ではないですか?
このことを知っている方は、相当の鎌倉ツウです。
大船観音の白衣観音像も穏やかな表情ですが、こちらの観音様の慈悲の表情も印象的ですね。
眺めているだけで幸せになります。
法事に関する質問で、意外に多いのが「1周忌は1年目なのに、なぜその翌年の2年目に3回忌となるのか?」という質問です。
今日のブログ記事では、そのことを考えてみましょう。
1周忌と3回忌、「周」と「回」というように字が異なっていますね。
それが疑問を解決するポイントとなります。
命日から、季節が(例えば冬にお亡くなりになった方は)春→夏→秋→冬と一年をかけて一巡します。
一巡したところが1周です。
よって、命日から季節が一巡したところで1周忌となります。
これは判りやすいですね。
次に、回忌ですが、これは「回」を数えますから、葬儀の法要を1回目、そこから「1周」ごとに「回」を重ね、1周忌が2回忌、2周忌が3回忌となります。
実に簡単な話で、このように回忌は 「数え」 で数えるから、2年目が3回忌となるのです。
では、なぜ1周忌、3回忌の後は7回忌、13回忌・・・と、3と7の付く年だけ年忌が定められているのかという疑問が沸きますが、その理由は、まずはこちらをご覧ください。
日本には、亡き方を弔い、そしてご祖先様を大切にするという良い習慣が受継がれています。
法要をなぜ営むのかというと、法要における読経の功徳を亡き方に向け、それを回(めぐ)らすということです。
そして亡き方を偲び、その遺徳に感謝し報恩の意を表することを意味します。
この年回法要という節目節目の法要のみにかかわらず、毎年、あるいは毎月の忌日、もっといえば毎日のように、各家庭で普段から親しくご供養されることも大切です。
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ちょうど1か月後に東日本大震災発生から2周年となります。
尊い命を亡くされた多くの方がたの3回忌を迎えようとしております。
曹洞宗では、3月11日に全国寺院に次の呼びかけをしています。
・被災者の追悼並びに被災各地の早期復興を祈願するため、地震発生時刻の午後2時46分に洪鐘を撞く
・三回忌追悼慰霊法要の修行
皆さまとともに、この震災で犠牲になられた方がたの慰霊と一日も早い復興を願い、ご遺族をはじめ、深い悲しみの中にある全ての方の心に寄り添い、追悼を捧げる一日となりますよう願います。
2012年は金環食、金星太陽面通過、金星食など「金」にまつわる天文現象が多い年でした。
今年の漢字も「金」。
来年は、もっと劇的な天文現象がありそうです。
それは2つの大彗星です。
■パンスターズ彗星(C/2011L4)
NASAのサイトによると、軌道要素は次の通り。
C/2011 L4 (PANSTARRS)
Element Value
e 1.000094546
a -3190.159489 AU
q 0.301617079 AU
i 84.19838817 deg
node 65.6654204 deg
peri 333.6412209 deg
M 359.9980191 deg
tp 2456361.647 JED (2013-Mar-10.14683852)
period n/a n/a
n 5.47E-06 deg/d
Q n/a
軌道要素を元に、軌道を描いてみます。
3月初旬から下旬に掛けて最大光度-1等星~-7等星になる可能性があります。
↑は、2013年3月11日の彗星の位置です。
日没後、西の空に明るい彗星が輝いて見えることでしょう。
実際、どれほどの明るさで、尾がどのくらい長くなるかはその時になってみないと判りませんが、東日本大震災2年目を迎え各地で3周忌法要が厳修される時期です。
目にした方々の心に刻まれる彗星になるのではないかと思います。
-------------------------
■アイソン彗星(C/2012S1)
NASAのサイトによると、軌道要素は次の通り。
C/2012 S1 (ISON)
Element Value
e 1.000002093
a -5982.696561 AU
q 0.012519456 AU
i 61.76100547 deg
node 295.7552562 deg
peri 345.4982949 deg
M 359.9991484 deg
tp 2456625.333 JED (2013-Nov-28.83277726)
period n/a n/a
n 2.13E-06 deg/d
Q n/a
軌道要素を元に、軌道を描いてみます。
もしかすると-12等程度のとてつもなく明るい彗星になるかもしれません。
↑これは12月8日、釈尊成道の日の彗星の位置です。
アイソン彗星は、2013年11月28日に、太陽から0.0125 天文単位という、かなり太陽に近い位置を通過していきます。
このときに、彗星を構成する氷が相当溶け出して放出されるのではないでしょうか。
成道会の朝、東の空を見ると、彗星がまるで月のように明るく輝いている・・・・はずです。
※繰り返しますが、彗星が実際、どれほどの明るさで、尾がどのくらい長くなるかはその時になってみないと判りません。
なお、どちらの彗星も離心率eが1を超えているため、太陽に近づくのは一度きり。
その後は放物線軌道を描きながらどんどん太陽から離れていって、再び帰ってくることはありません。
まさに一期一会の大彗星なのです。
今年も残すところ10日となりました。
いよいよ年の瀬も大詰めを迎えています。
今日、2012年12月20-21日でマヤ暦が終わりとなるので、お隣の国から伝わってくるニュースのように「世界が終わる」と考えている方々も多いようですね。
その根拠となっているのが、メキシコ・タバスコ州のトルトゥゲーロ(Tortuguero)遺跡で見つかった石板(Monument 6)だそうです。
しかし、その石板には世界の終わりとはかかれておらず、とある支配者の戦いの生涯が記されているだけ、という見方が有力です。
ノストラダムスの予言にしろ、某宗教のハルマゲドンにしろ、終末論はいつも私たちの周りを騒がしていますね。
折角なので、マヤ暦がどういうものなのかを調べてみましょう。
マヤ文明は、天文学に優れた知見をもっており、精巧な暦を作成して使用していたとされます。
まずは短期カレンダーです
(1)260日で1周するカレンダー「ツォルキン」…宗教的・儀礼的な役割をもつ
(2)365日で1周するカレンダー「ハアブ」…太陽暦に近いカレンダー
この2つのカレンダーの組み合わせで「カレンダー・ラウンド」を作りました。
260と365の最小公倍数の18,980日が「カレンダー・ラウンド」とされ、約52年の長さとなります。
だいたい人の一生分の長さくらいですね。
このほか、マヤ文明では長期暦(ロング・カウント)が用いられており、起算日は紀元前3114年とされています。
長期暦の単位は
となります。
すなわち、1バクトゥンは 20×18×20×20=144,000 キン =144,000日(おおむね394年)です。
バクトゥンは宗教的な意味を持つ13周で終了するということなので
144,000×13 = 1,872,000 日(約5,125年)で終了となります。
マヤ暦は紀元前3114年8月11日が起算日(0バクトゥン.0カトゥン.0ウィナル.0キン)とされていますので、それによると、昨日
2012年12月20日が 12バクトゥン.
今日はマヤ長期暦には無い新しい第一歩の日ということになります。
新しいマヤ長期暦おめでとう!!!!
今日はゆず湯にゆっくり浸かってお祝いしたいと思います。
追記 いろいろな資料を調べてみると、バクトゥンよりさらに長い単位
1 Pictun = Bak'tun
1Kalabtun = 20 Pictun
1 K'inchiltun=20 Kalabtun
1Alautun=20 K'inchiltun
などというものがあり、それによると、1Alautunは63,123,288年という途方も無い長時間になります。
それでもまだまだ大宇宙、大自然の尺度からするとほんの刹那の概念でしかありません。
結局私たち人類の歴史なんていうのは、大宇宙、大自然の尺度からするとほんの一瞬、そんな中で終末だ何だと騒いでいるだけのちっぽけな存在なのですね。
大学キャンパスの門は、東大=赤門、中央大学=白門のように、有名なものがたくさんあります。
早稲田大学の門は「無門の門」と呼ばれます。
この写真は大隈講堂の時計台から眺めたキャンパスです。
大隈講堂前広場に大きな入り口(正門)があり、この門は幅18mメートルの門柱・塀・扉もない開放的な門です。
「早稲田に来る者を拒まない」ことを意味し、誰でも自由に出入りできるようになっています。
貞昌院の三門は、このような感じです。
門構えはありますが、常に開いています。
こちらも誰でも、いつでも境内に入ることができます。
(けれども最近はセキュリティーの関係で、夜間はガッチリ閉められてしまっているお寺も多いですね。残念です)
これは一切衆生が仏門に入る事を拒まない仏の大慈悲心を表しています。
ただし、禅寺の山門は、境内に至る第一の関門(結界)であり、横木が渡っています。
これは、門を越えて中に入る際には、「聖」の世界に入るという覚悟を持って、身も心も浄くして通過するという重みがあります。
誰でも入るものを拒まないとともに、入るものはそれなりの覚悟が必要であるということです。
様々な建物、施設には「門」があります。
それぞれがどのような意味合いを持ち、どのような構造になっているのかを知ることは大切なことでしょう。
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蛇足ですが、禅の祖録に『無門関(むもんかん、無門關)』というものがあります。
これが英訳された際に、当初は『Gateless Gate』となっていたそうです。
何だか、「無門の門」のような感じで、哲学的な深淵な意味を持っていそうな感じですが、これは大いなる誤訳でした。
『無門関』は、中国宋代の禅僧「無門慧開」によって編集された公案で、「無門による公安集」です。
『無門関』には「趙州狗子」など、有名かつ難問が収録されていますので、禅に興味のある方には一読をお勧めします。
なぜ牛乳はビンで飲むとおいしいのか - 金沢工大と明治が科学的に解明
金沢工業大学(金沢工大)と明治は11月11日、ビンで飲む牛乳のおいしさを客観的な数値に基づき科学的に解明したと発表した。
同成果は同大 感動デザイン工学研究所と明治の食品開発研究所らによるもので、日本官能評価学会の2011年度優秀研究発表賞に選出され、2012年11月10日に東京農業大学で開催された同学会にて表彰された。
客観的な数値の算出に向け研究グループは「牛乳を飲む時に感じる香り」ならびに「牛乳ビンから感じる触感」に着目、ニオイセンサとサーモグラフィによる計測を行いった。
この結果、ニオイセンサによる計測において、ビン牛乳の容器形状によりミルクの香りが強くなることが数値的に実証され、これが濃厚なあじわいにつながることが科学的に示された。
またサーモグラフィを使いた顔面温度の解析では、牛乳ビンの素材や飲み口により、牛乳飲用時の唇表面の温度が変化し、このことが心地よいひんやり感につながることが客観的な数値として裏付けられたという。
なお、研究グループでは今後、今回の結果が、消費者がよりおいしいと感じる牛乳の開発に生かされるものと期待しているとコメントしている。
(Yahoo!ニュース 2012年11月13日)
風呂上りにビンの牛乳を一気に飲むと特に美味しく感じるんですよね。
しかし、残念ながら、最近はビン入りの牛乳はほとんど見かけなくなりました。
牛乳屋さんの牛乳配達もめっきり少なくなりましたし、学校給食の牛乳も紙パックが増えています。
けれども、紙パック牛乳をストローで飲む(吸う)のでは、牛乳の香りや飲み口のひんやり感は損なわれてしまいます。
味わうということは、単に味だけでなく、五感を働かせることが重要であります。
その、ごく当たり前のことが、手軽で経費が削減できるという理由によって損なわれてしまうのは残念なことです。
それに、ビンのようなリターナブルな容器は、環境にも負担をかけることが少ないという利点もあります。
様々なことにつながる研究成果であると感じます。
現在、魚屋やスーパーなどで売られている「子持ちししゃも」のほとんどは、カラフトシシャモ(カペリン:Capelin)という輸入代用品です。
「子持ち」という名の通り、輸入代用ししゃもは主にメスを食します。
けれども、本来のししゃもは、輸入代用品のカラフトシシャモとは似ているようでまったく違うものです。
本来のししゃもは、サケ目キュウリウオ科シシャモ属であり、サケ目というだけあって、秋に海から川を遡上して産卵する性質があります。
(カラフトシシャモは川を遡上しません)
ししゃもは、漢字では「柳葉魚」と表記します。
そこにはアイヌと切っても切れない関係が見られます。
神様の贈り物(柳の葉に命を与えたのは神様)
天の上に住むカンナカムイ(雷神)の妹は、ひまをもてあまし、沙流川と鵡川の水源地、シシリムカ カムイヌプリにおりたちました。
ところが、川下のどのコタン(集落)の家々からも、煙が立ちのぼる様子はありません。
不思議に思ったカンナカムイの妹は、人々の話に耳をかたむけました。
「飢饉で食べるものがない。どうしよう。」途方に暮れている人々を救おうと、雷神の妹は、天に向かって大声で助けを求めました。
天上のススランペッの畔にある、神の集落ではおおいに驚き、フクロウの女神が柳の枝を杖にして、魂を背負い地上に舞い降りました。
柳の枝を、どの川に流そうかと、フクロウの女神は神々と話し合い、「沙流川の水はきれいだが、男川で気が荒いから、女川の鵡川に下ろした方がよいだろう」ということになったのです。
魂を入れた柳の葉を、鵡川に流したところ、みるみるススハム(柳の葉の魚)になりました。
(むかわ町商工会のサイトより)
上の物語にある「ススハム」が、ししゃもの語源となり、ししゃもを柳葉魚と表記する由縁もみることができます。
鵡川(むかわ)と沙流川(さるがわ)の位置関係はこのような感じです。
かつては、秋になると川の底が真っ黒の魚たちによって見えなくなるほど、たくさんのししゃもが遡上した鵡川も、近年の乱獲と護岸工事、河川改修による産卵場所の減少によって遡上するししゃもはめっきり少なくなってしまいました。
ししゃもは、むかわ町の特産として、かつての漁獲高ではありませんが、決められた漁獲量の範囲で収獲され、販売されています。
上写真は生干しししゃも。
右側のオスのほうが美味しいそうです。
また、この時期のみ、生ししゃもをネタにした寿司を味わうことができます。
淡白な味わいでありますが、口の中に甘みとコクが広がります。
ししゃもに限らず、普段口にする魚介類が、実は本来のものと全く異なる種類であった、ということが当たり前の時代になってしまいました。
残念なことです。
先日、永野小学校 新旧校歌 の記事を書いていて気づいたことがあります。
それは、永野小学校校歌の作曲者の名前の間違いについてです。
横浜市のホームページには、永野小学校校歌として、下記のように紹介されています。
「永野小学校校歌」
しかし、正しくは 松井健「祐」 のはずです。
過去に遡って、卒業アルバム等を点検してみましたが、校歌が制定された昭和40年代のものにいたるまで、作曲者の名前は「松井健裕」となっています。
校歌制定の時から、この間違いが続いていると考えられます。
(誤)松井健裕
(正)松井健祐
大事なお名前を間違えているまま何十年も見過ごされてきたことが驚きです。
まもなく地元の小学校、横浜市立「永野小学校」は創立120周年を迎えます。
これまでの 歴史年表についてはこちらをご参照ください。
現在、永野小学校で歌われている「おおぞらーは・・・」の歌詞で始まる校歌は、実は昭和45(1970)年に制定された二代目の校歌です。
では、それまでの校歌は、というと、次のようなものでした。
横浜市立永野小学校校歌
作詞:斎藤止女男 校閲:吉原敏雄 作曲:土屋八郎
1
港都の南 春されば (こうとのみなみ はるされば)
梅いちはやく 香にたちて (うめいちはやく かにたちて)
古賢の教 あたらしく (こけんのおしえ あたらしく)
今日の心を 照らすべし (きょうのこころを てらすべし)
誠ぞ神の 道ならん (まことぞかみの みちならん)2
丘は太古の 丘にして (おかはたいこの おかにして)
川は昔の 馬洗 (かわはむかしの うまあらい)
ああ悠久の 天地に (ああゆうきゅうの あめつちに)
みのりし父祖の 伝統は (みのりしふその でんとうは)
広野の土に 継がんかな (こうやのつちに つがんかな)3
弥生の空に 咲きにおう (やよいのそらに さきにおう)
桜は明日を 彩どらん (さくらはあすを いろどらん)
文化日本の 象徴にて (ぶんかにほんの しるしにて)
わが学び舎に 光あれ (わがまなびやに ひかりあれ)
現在の校歌はこちら。
「永野小学校校歌」
作詞:蕪木直行 作曲:松井健祐
1
大空は 光豊かに (おおぞらは ひかりゆたかに)
目にしみる 木々のみどり葉 (めにしみる きぎのみどりば)
学舎に かたく受け継ぐ (まなびやに かたくうけつぐ)
遠き世の 永野の誇り (とおきよの ながののほこり)
心あらたに 今日も学ぼう (こころあらたに きょうもまなぼう)
力尽くして 力尽くして (ちからつくして ちからつくして)2
花々は 校庭に溢れて (はなばなは にわにあふれて)
風吹けば 明るく匂う (かぜふけば あかるくにおう)
友情は 絶えるときなく (ゆうじょうは たえるときなく)
睦みあう 永野の誇り (むつみあう ながののほこり)
ともに手を取り 今日も進もう (ともにてをとり きょうもすすもう)
力合わせて 力合わせて (ちからあわせて ちからあわせて)
3
飛ぶ鳥の 羽のたしかさ (とぶとりの はねのたしかさ)
さわやかに 空行く姿 (さわやかに そらゆくすがた)
たくましく からた鍛えて (たくましく からだきたえて)
明日を呼ぶ 永野の誇り (あすをよぶ ながののほこり)
声高らかに 今日も歌おう (こえたからかに きょうもうたおう)
望み果てなく 望み果てなく (のぞみはてなく のぞみはてなく)
この新しい歌は、当初は「永野小学校こどもの歌」として作られたものでした。
作曲された松井先生直筆の楽譜を御紹介いたします。
それまでの主旨を汲みつつ、現代的な明るい曲調であるために、昭和45(1970)年、「永野小学校こどもの歌」が正式に「永野小学校校歌」として制定されたのでした。
追記
旧校歌の2番目の歌詞、「広野」を「こうや」として記載しましたが、「こうや」なのか「ひろの」なのか記憶が曖昧です。
ご存知のかたがいらっしゃったら、読みについてお知らせくださいますようお願いします。
大本山總持寺での行持、御征忌会で5日間ほど世間喧騒を離れた生活をしていた間に、以前、朝日新聞から取材を受けていた記事が掲載されていました。
短い文章にコンパクトに纏められているので、補足を加えながらご紹介させていただきます。
【発見!かながわ ヒストリート】上大岡駅周辺京急、横浜市営地下鉄の上大岡駅(横浜市港南区)は、1日10万人が乗降する横浜南部の拠点駅だ。そこから10分ほど歩いた住宅地に、鎌倉時代に尼将軍と呼ばれた北条政子が通った古い街道がある。
駅前のささやかな商店街を抜けて大岡川を渡ると、目の前に小高い丘の連なりが見えてくる。この丘の尾根筋には、徒歩なら細道や階段で上がれるが、車で行くには山裾を迂回(う・かい)して「餅井坂」を上るしかない。急坂を上りきると、みなとみらいのビル群が見晴らせる眺望が待っている。
この餅井坂から続く尾根道は、関東各地から鎌倉に至る鎌倉古道「下ノ道」の一部。道の両側にマンションが立ち並ぶ今の様子からは想像しにくいが、1800年代初頭に編まれた「新編武蔵風土記稿」にも載っており、往時には「下ノ道」と「金沢道」の分岐点だった。坂の上り口にある石の道標が、交通の要所だったことを示している。それにしても、なぜこんな山道なのか。貞昌院(横浜市港南区)の副住職で地元の歴史に詳しい亀野哲也さん(47)によると、源頼朝が整備した鎌倉街道は「いざ鎌倉」の早駆け用。雨が降ればぬかるむ低地を避け、見晴らしの良い尾根伝いを最短距離で結んでいた。
「下ノ道は、武蔵と相模の国境になった分水嶺(ぶん・すい・れい)をたどる。貞昌院がある上永谷周辺は相模側で、“山向こう”の上大岡とは近年まで文化圏が違い、行き来も少なかった」(亀野さん)。古い街道は、自然地形の中で人々が暮らした時代の記憶をとどめる貴重な歴史遺産だ。
貞昌院近くの下ノ道沿いには、北条政子が愛馬を休ませたことに由来する「馬洗橋」が残る。数ある鎌倉古道の中でも、鎌倉から弘明寺に至り、保土ケ谷へと続く下ノ道は政子との関わりが深い。鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に、源家累代の祈願所と定めるとあり、弘明寺は頼朝や政子の信仰対象だった。郷土史家がつくる港南歴史協議会の茅野眞一さんは、下ノ道を「政子の涙道」と呼ぶ。「弘明寺に実朝を暗殺した公暁を祭った、という言い伝えがある。反逆者となり死んだ孫を政子は悼んだはず」。実朝は政子の次男、公暁は政子の長男頼家の子ども、つまり政子の孫だった。
明治期の廃仏毀釈(はい・ぶつ・き・しゃく)で多くの古文書が失われ、弘明寺は「確認できない」。それでも、気丈な女性の涙を思って歩くのは、悪くない。
(朝日新聞神奈川版 2012年10月12日朝刊)
「餅井坂」は、港南区最戸2丁目と南区別所3丁目の境を基点とする坂ですが、バス通りから裏路地に入った所となるため、現在では知る日とぞ知る場所となっています。
しかし、かつては主要街道の要所ともいえる重要な場所でした。
餅井坂の登り口に、「ミナミかまくら道最戸村」「とつかミちくミようし道」と標された百万遍念仏塔が設置されていて、鎌倉古道下之道(弘明寺道)は、ここから下之道(餅井坂を登り鎌倉方面へ向かう戸塚道)と金沢道(笹下釜利谷道路方面より鎌倉に向かうかねさわみち)に分岐することを示しています。
餅井坂の由来はよく分からないそうですが、川崎の王禅寺近辺にも餅坂(餅井坂)という地名があり、祭りや縁日に餅をついて露天で売っていた「餅屋」という屋号の家があったことに由来する(『川崎の地名』より)ということですので、同様の理由でしょう。
実際に、餅井坂を登り切った場所には甘酒台という地名が残されています。
餅井坂にまつわる中世の逸話として、文明18(1486)年に京都からこの地に巡行して来た道興准后師が『廻国雑記』に次のような句を残しています。
坂の上からの眺望
行きつきて
見れどもみえず
もちひ坂
ただわらぐつに
あしを喰はせて
餅井坂という名前から、餅屋があることを期待したけれども、尾根筋の坂道を登っても餅屋は見つからずがっかりした様子が描かれています。
この句にあるように、現在の鎌倉街道は大岡川沿いの谷戸を通るルートを辿りますが、鎌倉時代の鎌倉古道下之道は、主に尾根筋を通るルートとなっています。
車両の通行を目途とする現在の道とは異なり、人が足で通行する道は、見通しがよく乾いて歩きやすい道の方が好ましいということが、その理由です。
山の上の道を通ると見通しが良いので敵や獣に対して有利である。乾いていて歩きやすい。一方川沿いの道は湿地が多いので歩きにくい。どうしても大小の川を渡る必要があり、渡る橋がもしあっても木橋の寿命は7年ほどである。しかも度々壊れる。履物が「わらじ」や藁でできた靴では始末が悪い。熊・猪・オオカミ・まむし・ヒル・蜂・毒虫などと出会いやすい
『忘れられた街道』(中根洋治・風媒社)
「古道」と呼ばれる道は、現在では、何故こんな場所を辿るのか、と一見疑問を持つようなルートでありますが、そこには必然的な理由があるのです。
新聞記事の中にある「武相国境」と「鎌倉古道 下之道」の位置関係は下図のようになります。
赤い線が「武相国境」、青い線が「鎌倉古道 下之道」です。
より大きな地図で 鎌倉古道 を表示
この近辺の武相国境は、大岡川水系(武蔵国)と柏尾川水系(相模国)を分ける分水嶺の尾根筋の線となります。
それを斜めに超えていくのが鎌倉古道下之道です。
餅井坂から永作にかけては、「武相国境」と「鎌倉古道 下之道」が交錯する地点ですので、さまざまな物語がここから生まれました。
それらについては、これまでもブログで記載して参りましたし、今後も期を見て書いていきたいと思います。
先人たちが往来していた街道をかつての情景に思いをはせながら散歩すると、新しい発見があるかもしれません。
今年6月22日に開業した東京スカイツリ―。
完成直前には東日本大震災の大きな揺れが工事中の東京スカイツリーを襲いましたが、大きな被害は無く予定通り完成しました。
地震の揺れを抑えることに大きな役割を果たしたのが、五重塔に用いられている「心柱」です。
五重塔は縦に長いため、一見地震には弱いように見えますが、心柱の免震構造によって日本各地の五重塔は地震を乗り越えてきました。
日光東照宮では、東京スカイツリー開業にあわせて、重要文化財・五重塔の「五重塔初重内部心柱特別公開」を行なっています。
東照宮の五重塔は、慶安3(1650)年に初代若狭小浜藩主酒井忠勝公により寄進された初代の塔が文化12年に焼失したため、文政元(1818)年十代藩主酒井忠進公によりに再建されたものです。
高さ約36メートル。
漆塗り、極彩色が映える色彩豊かな塔です。
塔の中心を貫く心柱は、金箔が貼られ、上から鎖でつり下げられています。
床下の心柱最下部がライトアップされていて、構造が見えるようになっていました。
最下部では心柱が数センチ浮いています。
東京スカイツリーのデザイン監修を行った東京藝術大学学長・澄川喜一氏らがこの構造を現代の塔に取り入れ、心柱免震制御システムとして大きな役割を果たしているのです。
東照宮は標高がちょうど634mというのも何かの縁なのかも知れませんね。
日光からの帰りも東武特急を利用しました。
終点に近づくに連れて車窓には東京スカイツリーが大きく見えてきます。
日本の伝統技術が現代に生かされているということは素晴らしいことです。
※このブログ記事の写真はXperia mini proで撮影しました。
今から100年前の1912年3月27日、日本とアメリカの友好親善の証として、日本から約3,000本の桜がアメリカに送られ、ワシントンDCのポトマック河畔に植えられました。
今年は、植樹から100周年、丁度今日がその記念すべき日となっています。
以来、毎年ポトマック河畔の桜は見事な花を咲かせるようになり、日本と同様に桜を愛でる「桜祭り」も開催されています。
今年の桜祭りは100周年記念として3月20日から4月27日まで開催されており、3月25日の開会式には福島県川俣町山木屋地区太鼓クラブや、MISIA、東儀秀樹さんなどが公演を行っています。
また、丁度100年目の日となる3月27日には、AKB48のメンバー(倉持明日香、高城亜樹、高橋みなみ、梅田彩佳、藤江れいな、松井咲子、峯岸みなみ、宮澤佐江、鈴木紫帆里、阿部マリア、市川美織、入山杏奈、川栄李奈、小嶋菜月、高橋朱里、平田梨奈)たちがコンサートを行うことでも話題になっていますね。
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100年前に、アメリカに桜を贈る事業が行われた背景には、アメリカ人紀行作家のエリザ・シドモア女史、アメリカ合衆国農務省のチャールス・L・マーラット博士、農務省植物探検家ディビット・フェアチャイルド博士らの「桜に対する思い」と、それに応えた尾崎行雄東京市長、化学者高峰譲吉氏をはじめとする日本人たちの多大なる貢献がありました。
エリザ・シドモア女史は、1856年生まれ。記者としてアラスカや、中国、ヨーロッパを旅する中で、28歳の時に来日。その中で特に日本の東京・向島で観た桜に心を惹かれ、祖国アメリカにも桜を植樹したいという思いを強く持たれました。
1891年に『日本・人力車旅情(Jinrikisha days in Japan) 』を出版し、「武士道」や「日本の風習」、「桜の名所」などの紹介を欧米に発信しました。
世界共通の言葉となっている「TSUNAMI」という言葉をアメリカに伝え広めたのもエリザ・シドモア女史だそうです。
さらにアメリカ政府にポトマック川河畔への桜植樹を提案する活動を継続していきました。
そのあたりの経緯を詳細に知るには次の本がお薦めです。
『シドモア日本紀行 ー明治の人力車ツアー』(講談社学術文庫) エリザ・R・シドモア (著) 外崎 克久 (翻訳)
『ポトマックの桜 ー津軽の外交官珍田夫妻物語』(サイマル出版会)外崎克久 (著)
実は、これらの著作(あるいは翻訳)をされている外崎克久氏は、私が東京都に入庁2年間、設計課に所属していた時の直属の上司(当時設計係長)でありました。
氏からは、様々なことを学ばせていただきました。
改めて謝意を表したいと思います。
さて、アメリカに初めて日本の桜が試験的に持ち込まれ、植えられたのは1906年のことでした。
フェアチャイルド博士がメリーランド州の自宅庭に植樹を試行、アメリカの気候・土でも根付き、花を咲かせることが分りました。
1909年、桜が花開いたフェアチャイルド博士の庭にシドモア女史、マーラット博士、高峰博士、水野総領事らが集まり、アメリカへの桜植樹の具体的な構想が動き出し、当時都市計画案が完成したばかりのワシントンDCの中の、まだ埋立地で殺風景だったポトマック河畔に大公園を作り、そこに「ニューヨークに桜の並木をつくる」という計画が具体化したのです。
日露戦争終結直後の1909年、東京市の市長であった尾崎行雄氏が日米親善の象徴として、そしてポーツマス条約の仲介をしてくれたアメリカへの感謝の心をして、桜の寄贈を決定します。
ここまでは順調に事が運んだように見えましたが、様々な困難も付きまといました。
1909年秋に横浜港を出港した桜の苗木約2000本は、ワシントンに到着後、カイガラムシやネマトーダなどの病虫害が発生していることがわかり、全ての苗が焼却処分されることとなってしまいました。
(焼却される桜の木 Wikipedia National Cherry Blossom Festival 項より)
これを知った尾崎東京市長は、この失敗を踏まえて、静岡県興津の農商務省農事試験場園芸部において害虫の駆除や苗木づくりの方法について当時の農業技術の粋をあつめ徹底的な調査研究を行いました。
興津の苗木畑では兵庫県産のヤマザクラを台木苗として接木で苗木を増やし、さらに徹底的な管理の下育てられた苗木を青酸ガス燻蒸し、仮植えを繰り返しました。
シドモア女史もこの苗木畑を訪問して成長を見守る中、1912年には病虫害の無い健全な苗木が見事に生長し、東京市の検疫も無事通過しました。
1912年(この年は明治45年・大正元年)2月、約6,000本の桜の苗木が再び横浜港からシアトルに向けて出港しました。
シアトルから貨車でワシントンに到着。アメリカ農務省による検査でも病害虫は全く検出されませんでした。タフト大統領夫人と米国駐在珍田大使夫人によりタイダル・ベイスンの北岸に最初の2本の桜が植樹されたのが3月27日、100年前の今日なのです。
こうして、届けられた苗木のうち半数はワシントンのポトマック河畔に、残りの 半数は「ハドソン・フルトン祭」で樹えられていきました。
ポトマックの桜は、アメリカ人にもこよなく愛され、桜祭りは1935年から開催されています。
途中、日米開戦により、「敵国の桜」として伐採される危機もありましたが、それよりも桜の美しさが勝っていたのでしょう。
伐採しないという判断を下された関係の皆様に感謝いたします。
100年前に植樹された原木は、現在でもまだ200本ほど残っており、桜の子孫たちを含め3,750本の桜が毎年美しい花を咲かせています。
(A grove of cherry trees on the national mall taken during the National Cherry Blossom Festival :Wikipedia National Cherry Blossom Festival 項より)
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昨年は、桜祭り 行事の直前に東日本大震災が発生し、 桜祭り の中で日本支援の行事が行われ、多くの義援金が寄せられました。
日米友好の架け橋となった桜が紡ぐ深い深い縁を感じます。
100年前の丁度この日、ポトマック河畔に植えられた桜は、まもなく満開となります。
今年も美しく花開くことでしょう。
1991年に日本に里帰りしたポトマックのシドモア桜。
横浜外人墓地に眠るシドモアの墓地周辺と、元町交番の前に植えられています。
ポトマックの桜とDNAは同じなので、気候が同じであれば同時期に咲くはずです。
蕾はパンパンに膨れていて、今にも咲き出しそうです。
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桜吹雪と友好の桜
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桜祭り公式サイト
昨年3月以前は、日本の日常生活において放射線の影響を真剣に考えるということは為されてきませんでした。
シーベルトやグレイ、ベクレルなどという単位についても気にすることも、耳にすることすら無かった方も多いはずです。
東京電力福島第一原発の事故によって、今まで日常生活で聞きなれないような単位や言葉が日常当たり前のように出てきました。
しかし、これまでは気にすることが無かっただけで、我々は、元々宇宙空間や地中の鉱物、CTスキャンやレントゲン、放射線治療、飛行機の利用などによって様々な放射線を浴びています。
浴びる放射線量をゼロにすることは不可能なことなのです。
例えば、東京とニューヨークを直行便で往復したとすると、0.20mSV ほど被曝する(このブログの最下部の図を参照)とされています。
そこで、実際にどの程度なのかを、ハワイへの往復の際に、手元にある線量計(エアーカウンターS)を持参し、計測してみました。
成田空港を離陸し、シートベルト着用サインが消える頃には0.40μSV/hにまで上昇していました。
以降、ぐんぐん上昇し続け、安定飛行中はずっとこのような感じで・・・・・
大体0.90~1.20μSV/h程度の範囲を行ったり来たりしておりました。
だいたい安定飛行中は平均1.1μSV/h程度でした。
ハワイ諸島に近づき、高度を下げるにつれて線量は下がり(離陸時と着陸時は電子機器での計測は出来ませんので計測値はありません)、
ホノルル国際空港での地上の線量は 0.05μSV/h 程度でした。
つまり、地上に比べて20倍以上の線量であることが分ります。
ハワイへは往路7時間、帰路9時間ほどかかりましたから、往復16時間。
安定飛行の時間の部分のみを考え、15時間とすると、
1.1μSV/h × 15h = 16.5μSV =0.0165 mSVとなります。
対し、冒頭の事例、東京とニューヨークで 0.20mSV というのは、往復25時間と考えても 8μSV/h ほどの線量です。かなり高線量ですね。
いずれにしても、航空機の操縦士や機関士、キャビンアテンダントなどは、年間かなりの時間を飛行中の機内で過ごす訳ですから、相当量の積算線を被曝されているのではないかと考えます。
ただし、100mSV 以下の低線量な放射線による人体への影響は、よくわかっていないということが実際のところです。
放射線は目に見えないし、その影響もよく分からないことが多いということが、余計不安をあおり、風評被害をもたらす源になるのかもしれません。
逆に言えば、日常生活において、どこにどれほどの放射線が存在しているかをきちんと理解することが大切であるといえましょう。
さて、日本人の平均被爆量はJAEのデータによると、年間1mSV ほどです。
冒頭に述べたように、宇宙線、地面や地中の鉱物などからの放射線の他にも食物からの放射線も含まれます。
岐阜や山口県には花崗岩が多い影響で、自然放射線量が高くなっています。
下の地図(東京電力福島第一原発の事故以前のデータ)で赤い箇所は、年間1mSV を超える場所です。
図:計算で求めた自然放射線量(地上1m, 今井ほか(2004)の元素分布データ、計算式はBeck et al.(1972)による)(海と陸の地球化学図より)
ベータ線とガンマ線の場合には、全身に均等に吸収されたとき 1グレイ(Gy)=1シーベルト(Sv)と換算できる。出典元:日本地質学会
また、東京電力福島第一原発の事故以降、定点計測され公表されている地球環境スキャニングプロジェクトとSAFECASTによる全国の放射線量情報によると、最新(3月19日午前8時)の空間線量は右のとおりです。
棒グラフにして北から並べてみました。
これを見ると、日本全国どこでも0.1μSV/h前後の値は当たり前に出ていることが分かります。
世界的に見ると、インドやブラジルのように年間10mSV 程度の地域も数多くあります。
また、公表されておりませんが、中国内陸部では核実験の影響で信じられないほどの線量が計測されているようです。
(例:中国のラサ市 での2012年3月18日の計測地では 0.18μSV/hと今公表されています)
話を日本国内に戻します。
福島県の一部については、未だ東京電力福島第一原発の影響により高い線量が出ておりますが、この地域については、国や東京電力主導による除染作業を集中的に進めていただきたいものです。
しかし、同じ福島県内でも、現状においては会津地方やいわき市、白川、須賀川の近辺などは、全国の他の都市とそれほど線量が変わらないという現状も、見落としてはなりません。
大切なことは、放射線がゼロであるということはありえないこと。そして、これまでも私たちはある程度の自然放射線に囲まれて生活していた(いる)という事実です。
さて、100mSV 以下の低線量な放射線の影響が人体にどれほど有害なのか(あるいは影響はないのか)は、議論の分かれるところです。
(1)人体への影響は、100mSV 以上の高線量があたえる影響を直線的に延長したリニアな影響が考えられ、少ないほうが影響は少なく、浴びる量が多くなるほど比例してリスクが高くなる。
(2)(3)人体への影響は、ほぼない。
(4)人体への影響は、ラドン温泉などごく微量な放射線の場合、むしろ効能がある。
という、主に3種類の説に分かれるのではないでしょうか。
図示すると次のようなものです。
私たちの体は、冒頭に述べたように、日常から少なからず放射線に曝されていることは事実です。
低線量な放射線の影響への研究が進み、無用な不安が払拭されていくことを望みます。
結論として、放射線の健康へのリスクは100mSV 以下では、学者の意見が割れるくらい僅かな影響しかないと考えられえます。
したがって、空間線量がどのような値なのかを正確に把握し、特に乳幼児や小中学生には食品や飲料に含まれる放射性物質がどの程度なのかに注意すれば、日常生活において過剰に反応する必要は無いと思います。
むしろ、放射線にばかり気を向けるのではなく、農薬や食品添加物、タバコなど、他の有害な要素にもバランスよく注意していくことが必要でしょう。
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境内の放射線量測定結果
放射線量分布等マップ
私たちの世界は、放ったらかしにしておくと、整然とした状態から乱雑の状態へと進んでいきます。
例えば、水に青インクを一滴垂らすと、青い色が全体に拡散して広がります。
いくら待っていても、一箇所に青いインクが集まる状態には戻りません。
部屋もそうですね。
初めはきちんと整理されている状態でも、だんだんと散らかっていきます。
時々掃除をしたり整理整頓をしないかぎりは勝手に部屋が整理されていくということは絶対にありません。
そのような現象を表す法則に、「エントロピー増大の法則」というものがあります。
この法則は物理学の基本法則である「熱力学第2法則」の別名であり、本来は熱力学の法則です。
エントロピー (英: entropy) は、熱力学および統計力学において定義される示量性状態量である。当初は熱力学において、断熱変化の不可逆性を表す指標として導入され、後に統計力学により、系の微視的な「乱雑さ」を表す物理量という意味付けがなされた。 更に、系から得られる情報に関係があることが指摘され、情報理論にも応用されるようになった。 物理学者の E.T. Jaynesのようにむしろ物理学におけるエントロピーを情報理論の一応用とみなすべきだと主張する者もいる。
(ウィキペディア「エントロピー」項)
元々は熱力学の用語でしたが、「乱雑さ」という意味づけがなされて用いられることも多くあります。
整然とした状態を「エントロピーが小さい」
乱雑になった状態を「エントロピーが大きい」
というように表現されます。
整然とした状態は、自然のままでは乱雑になっていきますので、それを整然とした状態に戻すためには外部からのエネルギーが必要になります。
エントロピー増大の法則に逆らうのは大変なことなのです。
ここからが本題です。
お寺の本堂は、法事を行う場所となり、結婚式場となり、落語の寄席になり、演奏会会場になり、坐禅堂になり、演劇の舞台になります。
それぞれの準備のために、必要な資材を運び込んで組立て、場を作り、終わったらそれらをバラシて撤収する。
そこには「エントロピー増大の法則」に立ち向かうドラマチックな光景が繰り広げられます。
先日の本堂での演劇終了(午後7時半)から撤収の目処がつくまで(午後9時半)まで2時間の様子を早送りで記録しました。
舞台監督を陣頭指揮に、整然かつ丁寧に手際よく行われた見事な撤収作業をご覧ください。
※2時間を1分に縮めています
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昨年6月のドイツ声明公演で、ケルン独日協会(Deutsch-Japanische Gesellschaft e.V. Köln)から龍吟会のメンバー全員に配られた「本当のトモダチ」Tシャツ。
そこには
Echte Fründe ston zesamme! と書かれています。
その言葉の元となっているのが、ケルンで有名な歌です。
Echte Fründe ston zesamme!
この歌詞が、ケルンの方言で書かれているために意味の詳細が分りづらく、ドイツ人の知人も良く理解できないということでした。
そこで、ケルン独日協会のMさんに対訳をお願いしました。
Echte Fründe ston zesamme Refrain Du hast Glück, Erfolg und kommst zu Geld. Refrain: Echte Freunde....... Du hast Pech, es geht dir Berg ab. Refrain: Echte Freunde....... | 本当の友達はいつも一緒 (くりかえし) 運に恵まれて成功し、金持ちになると 本当の友達はいつも一緒(くりかえし) 運が傾いて、下り坂になり、 本当の友達はいつも一緒(くりかえし) |
本当に素晴らしい歌詞だと改めて感じます。
喜びをともに分かち合い、そして悲しみをともに分かち合えるのが本当の友達ですね。
ケルン独日協会のMさん、有難うございました。
今年の干支は辰。
十二支の中で唯一想像上の動物です。
実は、龍はお寺、特に禅宗の寺院には切っても切れない関係にあります。
お寺をお参りされたときに、本堂に入って、天井を見上げると見事な龍の絵が描かれていたり、境内のあちこちに龍を見ることが多いはずです。
貞昌院でも龍が祀られています。
左は本堂正面に掲げられている欄間の龍。
右は本堂向拝の龍です。
明治時代の火災の際に、近隣の檀家さんに運び出していただき火難を免れました。
このようにお寺に龍が祀られているのは、龍が仏法を守る「神将」として位置づけられ重んじられているからです。
例えば法華経の一節に(1)天(2)龍(3)夜叉(やしゃ)(4)乾闥婆(げんだつば)(5)阿修羅(あしゅら)(6)迦楼羅(かるら)(7)緊那羅(きんなら)(8)摩睺羅伽(まごらが)・・・・という八部衆が出てきます。
特に、本堂(法堂)は仏教の教えを説く場として重要な建物ですから、龍は伽藍を守る大切な役割を果たしています。
上写真欄間の龍を見ると、波のように水を操りその上から龍が睨みつけています。
龍は水を操り、雲を呼び、雨を降らせる力を持ちます。
本堂に法雨(教えの雨)を降らせ、また木造建築を火災から守るという役割も果たしています。
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これまで、このブログで紹介して来たいくつかの寺院の「龍」を並べてみました。
曹洞宗大梁山大慈寺(熊本県)佛殿の天井絵
大梁山 大慈寺
臨済宗円覚寺 白雲庵本堂天井画 雲龍 (画:入江正巳画伯)
道元禅師降誕の日と鎌倉歴史散歩
臨済宗聖福寺(福岡県)仏殿 天井画
福岡沖玄界地震に思う
浅草寺 大提灯
訪日外国人数、回復基調に
臨済宗泊船軒(荒川区)法堂天井画
仏教ホスピスの会いのちの集い
藤沢市に伝わる野辺送りの龍頭
野辺送り
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ここにご紹介しきれなかったものも沢山あります。
是非見ておくべき龍の天井絵もたくさんあります。
以下に、龍の天井画が有名な寺院を列記いたします。
円覚寺(仏殿)守屋多々志筆 鎌倉市
建長寺(法堂)小泉淳作筆 鎌倉市
向嶽寺(法堂) 山梨県
永源寺(開山堂) 滋賀県
国泰寺(本堂) 富山県
妙心寺(法堂)狩野探幽筆 京都府
南禅寺(法堂)今尾景年筆 京都府
東福寺(本堂)堂本印象筆 京都府
天龍寺(法堂)加山又造筆 京都府
相国寺(法堂)狩野光信筆 京都府
大徳寺(法堂)狩野探幽筆 京都府
建仁寺(方丈襖絵)小泉淳作筆 京都府
佛通寺(法堂)管南山筆 広島県
辰年の一年、さまざまな龍をお参りしてみては如何でしょうか。
末筆となりますが、建長寺や建仁寺の龍を描かれた小泉淳作氏が今年1月9日にお亡くなりになりました。
心より弔意を表します。
京急の線路、落札しました!!! ということで、折角落札したレールですからそれに関連して、京急の歴史を辿ってみました。
落札したレールは、大師線に設置されていたレールです。
現在の京浜急行電鉄は、川崎大師への参拝路線としての旧大師電気鉄道(日本で3番目、関東では最初の電気鉄道会社)がその嚆矢でありました。
つまり、京急で一番古い路線が大師線。
大師線は京浜急行電鉄のルーツである。当初は川崎大師への参詣路線として建設され(1) 、1899年に開業した。
営業運転を行う鉄道としては日本で初めて標準軌を採用し、また電車による運行は関東で初めてのものである。
人力車組合の反対で遅れていた現在の京急川崎駅への乗り入れは、開業から3年後の1902年に果たした。
なお、大師駅から先、総持寺駅(京急本線の京急鶴見駅 - 花月園前駅間にあった駅)まで当初京浜電気鉄道(当時)自ら建設する予定であったが、別会社で建設されることになり、子会社の海岸電気軌道の手で1925年10月16日に大師 - 総持寺間が全通した。(2)
海岸電気軌道は鶴見臨港鉄道(現・JR鶴見線)に買収された上に1937年12月1日に廃止となった。海岸電気軌道線の大師 - 大師河原間は現在の川崎大師駅 - 産業道路駅間とほぼ一致しているが、産業道路駅からは産業道路に並行して総持寺へ向かっていた。同駅の手前から産業道路横浜方面へ伸びる細い道が海岸電気軌道線の跡である。
同線の開通以降川崎大師へは毎年各地からの参詣客で大いに賑わうこととなり、それまで初詣といえば地元の神社仏閣へ参拝するのが習慣であったものを、各地の有名社寺まで電車に乗って初詣をするという習慣に変えた歴史的にも意義のある路線である。(3)
開業後、会社の予想を大幅に超える収益を上げたことから京浜間に路線網を拡大する基礎を築くとともに、各地の電気軌道計画に影響を与えることとなった。
(ウィキペディア「京急大師線」項より一部引用)
海岸電気軌道(かいがんでんききどう)は、神奈川県横浜市の総持寺駅(京急本線の京急鶴見駅 - 花月園前駅間にあった駅)から川崎市の大師駅までを結んでいた軌道線(路面電車)(4) 、およびそれを運営していた京浜電気鉄道(現、京浜急行電鉄)の子会社の名称である。
臨海地区の工業地帯の通勤輸送を目的に1925年に開業。しかし世界恐慌の影響で利用客数が伸び悩み、1930年にJR鶴見線の前身にあたる鶴見臨港鉄道に譲渡されたが、鶴見臨港鉄道が本線で旅客営業を始めた影響を受け、産業道路建設を機に1937年に全線が廃止された。
その後、戦時下の1944年に大師 - 出来野付近(現在の産業道路)間の線路跡を利用して、現在の京急大師線(当時は東急大師線)が延長された。(5)
(ウィキペディア「海岸電気軌道」項より引用)
このことから分るように
(1)京浜急行の嚆矢は、川崎大師への参拝のための鉄道であった。
(2)(4)京浜地区の大寺院、「川崎大師」と曹洞宗の大本山「總持寺」が、京急の子会社、海岸電気軌道によって結ばれた。
(3)京急、および海岸電気軌道は、地元の寺社だけでなく、少し足を伸ばして大きな仏閣に初詣をするという習慣を作り上げた路線である。
(5)現在の大師線は、大師電気鉄道の路線(川崎ー大師)と、海岸電気軌道の路線(大師ー小島新田間)の部分から成っている。
ということになります。
京急(特に大師線)とお寺とは想像以上に密接な関係があったのでした。
左は、京急レッドトレインガーデンに展示されていた路線図。
右は、總持寺にあった2つの駅でご紹介した路線図。
どちらも昭和10年代のものと思われますが、沿線に「川崎大師」も「總持寺」も大きく描かれています。
寺社への参拝、初詣などが鉄道の輸送の中で大きな役割を果たしていたことが、この路線図からも伺えます。
さて、大正14(1925)年~昭和12(1937)年の間に営業され、「川崎大師」と「總持寺」を結んでいた海岸電気軌道(昭和5年より鶴見臨港鉄道)は
設置駅: 総持寺 - 鶴見川 - 下野谷 - 潮田 - 入船 - 寛政 - 下新田 - 富士電機前 - 田辺新田 - 田島 - 浅野セメント前 - 池上新田 - 塩浜 - (仮)競馬場前 - 出来野 - 大師河原 - 大師
運行本数: 川崎大師方面:総持寺発5時13分 - 22時30分まで10-20分間隔、総持寺方面:川崎大師発5時37分 - 22時56分まで10-20分間隔
所要時間:総持寺 - 川崎大師間24分
ということで、電車の速度はかなり遅いながらも、相当の本数が運行されていたようです。
↑昭和7年の地形図から、鉄道路線をトレースしてみました。
大正14(1925)年に開業した海岸電気軌道は、昭和5年にJR鶴見線の前身にあたる鶴見臨港鉄道に譲渡され、昭和12(1937)年には廃線となってしまいます。
戦後にあった川崎市電との環状線構想も夢のまま終わりました。
なお、蛇足ですが、東日本で初めて土地造成分譲事業を行った鉄道会社も京急電鉄(当時は京浜電気鉄道)でした。
その土地分譲により掘削されたのが、上図の黄色で示した部分にあった「川崎運河」です。現在の横浜市と川崎市の境界にあたる場所です。
大正7(1918)年に土地買収が完了、京浜電気鉄道が川崎運河を掘削し、大正11(1922)年には運河の工事と工業用地の造成が完了、土地の分譲がはじまります。
当初は、川崎運河に沿って鉄道を敷設する計画もあったようですが、関東大震災などの影響もあり結局実現しませんでした。
その後川崎運河は1950年代から80年代にかけて徐々に埋戻され、現在の京町小学校、住宅地、緑道などになっています。
話を戻します。
昭和初期の「總持寺」駅を撮影した貴重な写真はこちらです。
(『京急の駅 今昔・昭和の面影』(JTBキャンブックス)より引用)
ということで、京急の歴史とともに歩み、日本の近代産業を支え、仏閣参拝に大きな役割を果たしてきた大師線のレールや枕木が貞昌院にやってくることになったのことも、何かのご縁なのかもしれません。
※なお、落札したレールは1989年製、枕木は1987年製で、昨年まで使用されていたものだそうです。
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總持寺にあった2つの駅
でいだらぼっち 野庭(のば)
現在は、団地や家が建ちならび、昔のおもかげはありませんが、天谷大橋のふきんは、四、五十年前までは、田んぼや畑でした。
ふつう田んぼは、川を中心にして、一面に続くのですが、野庭の田んぼは、ところどころに、ポツンポツンとあったので、めずらしい「飛び田」と呼ばれていました。どうして、こんな飛び田ができたのかというと。むかし、むかし、まだ、でいだらぼっちという人のいたころのこと。
ある時、このでいだらぼっちが野庭へ遊びに来たんだと。
でいだらぼっちは、力持ちの大きな男なんだが、とても気持ちのやさしい男でのー。村の家々をふまないようにと、つま先で立って歩いていたんだと。
馬洗川の近くまで来た時のことだ。川で水を飲んでいた馬が、でいだらぼっちに驚いてとつぜんあばれだしたものだから、静かに静かに歩いていたでいだらぼっちも驚いた。
思わずつま先立ちの指に力がはいって、土の中に指がめり込んだんだと。そのくぼんだ所に、水がたまつてできたのが「飛び田」なんだと。
まだまだ話のつづきがあるんだ。でいだらぼっちに驚いた馬というのは、北条政子という信心深い人が、鎌倉から、弘明寺観音へ、馬に乗っておまいりに通われたそうだが、その時の馬でのー。ちょうど天谷あたりの川原で馬に水を飲ませるために、一休みなさっていたんだと。
この人はエライ人でのー、「尼将軍」と呼ばれた人だけれどね。でいだらぼっちは驚いて飛び田を作ってしまったけど、たまげた馬は、かわいそうに、川におっこって、ついでに顔を洗ったのでこの川は、「馬洗川」と呼ばれるようになってね、「馬洗橋」の前の山を"糞山"というんだ。
それで、後の人たちが、いつとはなく、田んぼに出て仕事をしながら、こんな唄をうたうようになったんだと。
馬洗川と天谷大橋(てんやおおはし)
野庭はよいとこ 雨あがり
美人はいないか
ぬき足 さし足
尼さんの馬に追われて
でいだらぼっちが
"ふん"をした
メールで問合せいただいた内容を元に、今日のブログを記載しています。
冒頭のお話は、永谷に伝わる民話です。
この中のいくつかを航空写真から検証してみましょう。
写真は 1949/02/28 に米軍により撮影された空中写真です。
国土変遷アーカイブより引用しました。
このうち、永谷川上流部の田んぼと思われる部分(畑と思われる部分を除く)をざっと赤く着色しています。
(もう少し丁寧に塗れば良いと思うのですが、雰囲気だけでも)
川沿いに広がる田んぼ、そのうち民話にあるようにぽつぽつと飛んでいるように見える田んぼもあります。これが飛び田なのでしょう。
昔の人は、この飛び田を、つまさき立ちで歩いた でいだらぼっちの足跡と考え、馬洗橋の右下にある(もしくは左下にあった丸山のことか?)こんもりした山を、でいだらぼっちの「糞」と考えました。
なお、天谷大橋は写真中段やや左よりの位置にある谷に掛かる橋です。
面白い発想ですね。
この巨人伝説は、ほかにも関東近郊に広く見られるようです。
でいだらぼっちとは、神奈川県を中心に、関東近郊の富士山を望む地域に広く伝えられている巨人伝説で、イメージ的にはこのようなものなのでしょう。
Wikiペディア ダイダラボッチ 項には、でいだらぼっち(だいだらぼっち)の残した「跡」についての様々な事例が纏めらられています。
■山を作る・運ぶ
・富士山を作るため、甲州の土をとって土盛りした。そのため甲州は盆地になった。
・上州の榛名富士を土盛りして作った。掘った後は榛名湖となった。榛名富士が富士山より低いのは、もう少し土を運ぼうとしたが夜が明け、途中でやめたためである。
・浅間山が、自分より背の高い妹の富士山に嫉妬し、土を自分にわけろといった。富士山は了解し、だいだらぼっちが自分の前掛けで土を運んだ。しかし浅間山は土の量が足りないと怒り、彼を叩いた。その際にこぼれた土が前掛山となった。怒りだした浅間山はついに噴火してしまった。
・ 西の富士、東の筑波と呼ばれる関東の名山の重さを量ろうとし天秤棒に2つの山を結わえつけ持ち上げると、筑波山のほうは持ち上がったが富士山は持ち上がらない。そのうちに結わえていたつるが切れ、筑波山が地上に落ちてしまった。その衝撃でもともと1つの峰だった筑波山は、2峰になってしまったという。
■足あと・手のあとを残す
・上州の赤城山に腰掛けて踏ん張ったときに窪んで出来た足跡が水たまりになった。木部の赤沼がそれである。
・長野県大町市北部の青木湖、中綱湖、木崎湖の仁科三湖はダイダラボッチの足あとである。
・茨城県水戸市中央部の千波湖は、かなり大きいがダイダラボッチ(この地方ではダイダラボウ)の足跡である。
・遠州の山奥に住んでいた巨人ダイダラボッチが、子供たちを手にのせて歩いている時に、腰くらいの高さの山をまたいだ拍子に子供たちを手から投げ出してしまった。びっくりした子供たちとダイダラボッチは泣き出してしまい、手をついてできた窪みに涙が流れ込んで浜名湖となった。
・現在、東京都世田谷区にある地名「代田」(だいた)やさいたま市の「太田窪」(だいたくぼ)はダイタラボッチの足跡である。
・静岡市のだいらぼう山頂には全長150mほどの窪みがあるが、ダイダラボッチが左足を置いた跡と伝えられている。琵琶湖から富士山へ土を運ぶ途中に遺したものであるという。
・相模原市の伝説ではデイラボッチと呼ばれ、富士山を持ち上げ違う場所に運ぶ途中、疲れたので、富士山に乗っかり休んだところそこにまた根が生えてしまいもちあげようとするが、持ち上がらずそのときふんばった所が今の鹿沼公園であるという。
・小便をしようと飯野山(香川県中部)に足をかけた際に山頂付近に足跡が付いた(現在もその跡であるという伝説の足跡が残っているが非常に小さい)。なお、その小便の際に出来たのが大束川といわれる。
・愛知県東海市の南側に加木屋町陀々法師(だだほうし)という地名があり、ダイダラボッチが歩いて移動する際に出来た足跡が池になったとして伝説が残っている。名古屋鉄道八幡新田駅西側にあったが2000年(平成12年)頃に埋め立てられて現在はその形跡はない。
■休む・洗う・食べる
・榛名山に腰掛けて、利根川で脛を洗った(ふんどしを洗ったという説もある)。
・羽黒山 (栃木県)には人間がまだ誕生しない大昔、でいだらぼっちが羽黒山に腰掛けて鬼怒川で足を洗ったという言い伝えがある。
・長野県塩尻市の高ボッチ高原はダイダラボッチが腰を下ろして一休みした場所であるという。
・「常陸国風土記」によると、茨城県水戸市東部にある大串貝塚は、ダイダラボッチが貝を食べて、その貝殻を捨てた場所だと言われている。その言い伝えから、近くにダイダラボッチの巨大な石造が創られている。
■人間を助ける
・ 秋田県の横手盆地が湖であったので干拓事業を行った際、だいだらぼっちが現れて水をかき、泥を掬ったため工事がはかどった。このだいだらぼっちは秋田市の太平山三吉神社の化身と考えられる。
日本のいたるところで親しまれている巨人なのですね。
カタストロフィー(或いはカタストロフ)とは、1972年にフランスの数学者ルネ・トムが独創的に展開した数学の分野です。
この理論は、社会的事象や環境の変化などに応用することが出来るために一般的に知られる用語となりました。
ごく大雑把に簡単に図に描くと
(この図はポテンシャル関数の局所的最大化という極めて単純な図式です)
この図を元に、仮に社会や環境の「構造」を図の青い線で表現してみます。
世の中のさまざまな事象は、
明中に当って暗あり、暗相をもって遇うことなかれ、
暗中に当って明あり、明相をもって覩ることなかれ、
明暗おのおの相対して、比するに前後の歩みのごとし
『参同契(さんどうかい)』
にあるように、「明」と「暗」が一歩一歩の歩みの如く次々とやってきます。
明をプラスの方向、暗をマイナスの方向と考えると、その動きに従って、赤い玉が前後に揺さぶられます。
大抵の場合は、前後に揺さぶられても、あたかもお椀の中でビー玉を転がすがごとく、直ぐに底に戻ってきます。
安定領域の範囲であれば、そのようになります。
例えば、猛暑であったり、冷夏であったりしても、ある程度の範囲であれば何事も無いように直ぐに平時の状態に戻ります。
しかし、そのプラス・マイナスの触れ幅がある程度大きくなった場合はどうでしょうか。
つまり、安定領域から、回復可能領域の部分に逸脱した場合です。
この場合、安定領域に戻るためには若干のエネルギーが必要です。
さらに振れ幅が大きくなると、回復可能領域を超えて、淵から落ちてしまいます。
こうなると、もはや元の安定領域に戻すことは不可能です。
これが不可逆領域の部分です。
例えば明治維新、東京大空襲、横浜大空襲、原爆投下、終戦、バブル崩壊、大規模住宅開発、大震災、大津波・・・・大きな社会的事象が起きると、局所的あるいはある程度広範囲に歴史的な不連続面が生じてしまいます。
横浜大空襲では、空襲を受けた範囲では街の殆どが焼き尽くされ、建物も資料も失われてしまいました。
この事例では、大空襲を受けた範囲を局所的に見るに、不可逆領域に達してしまったのかも知れません。
しかし、日本全体的に見ると、終戦に至っても回復可能領域の範囲内に留まったていたと考えて良いのではないでしょうか。
このあたりが日本の「懐の深さ(=図の青い線の谷の深さ)」を表しています。
世界的に見ても、一つの国がこれほど長く継続的に続いている例は稀といえます。
現在、日本は東日本大震災、そして世界的な経済危機、円高の波に曝されています。
きっと回復可能領域を行ったりきたりしている状態なのでしょう。
けれども、世界の人々も、日本の人々も、戦後見事に復活した日本の底力を信じています。
補足ですが、局所的に不連続となった地域の「不連続面を繋ぎとめる役割」を寺院が大いに担うものと考えています。
なぜならば、その地域に「ずっとそこにあり」、「資料が代々きちんと受継がれ管理されている」という機能を寺院が有しているからです。
言い換えれば、不連続となった街の記憶を呼び戻す機能を、寺院が持っているということです。
その意味で、歴史的不連続の局面で寺院の存在意義、役割が問われることとなります。
<このあたりは追記していきます>
■関連ブログ記事
毫釐も差あれば天地懸に隔たり
実態からかけ離れてしまった経済
教区の施食会(おせがき)も終盤を迎えました。
各寺院を回るなかで、S寺様の控室に次のような色紙が置かれていました。
その中で出た話題です。
何気なく見過ごしてしまいがちですが、左側の字に注目してみましょう。
瑩山と書かれている「瑩」の字がちょっと違いますね。
なお、瑩山は「けいざん」と読みます。
曹洞宗の大本山は永平寺と總持寺が両大本山であり、道元禅師(どうげんぜんじ)と瑩山禅師(けいざんぜんじ)が両祖様であります。
さて、漢和辞典に記載されている「瑩」の字は次のようなものです。
(玉の部10 15画)
たいていの仏教書、曹洞宗で出版されているものも含めて、瑩山禅師はほぼ例外なく上記の字で記述されています。
ところが、色紙では次のようになっています。
では、瑩山禅師ご自身ではどのように書かれたかを見てみると、私のホームページの中にに丁度資料がありました。
⇒總持寺の国重要文化財・市指定文化財
大本山總持寺に保存されている『観音堂縁起』です。
この『観音堂縁起』は、『諸岳観音堂之記』『瑞夢記』とも称され、瑩山禅師が瑞夢により寺領などを譲り受けて寺院を創設することになった経緯をご自身で書かれたものです。
数少ない瑩山禅師自筆文書です。
文末の部分を拡大してみましょう。
やはり下の部分は「宝」となっていますね。
私が總持寺に安居していた時代には学科講義の中でこの話題に触れられたこともあり、また冒頭の色紙のように字を忠実に再現している事例もありますので、知っている方にとっては自明の知識でしょう。
しかし、反面、意外に知られていないトリビアでもあります。
宗門人としては知っておくべき知識でありましょう。
この 「瑩」の字について、N先生により学術的考察と提起がなされ発表される予定のようです。
ご成果を楽しみにしております。
■関連ブログ記事
夜空に奔(わし)る道元禅師・瑩山禅師
洞谷山永光寺
教区(近隣の曹洞宗グループ寺院21か寺)で順番に厳修している大施食会(おせがき)も折り返し。
後半の日程に入っています。
大施食会では、本堂正面、本尊様に相対して棚を設けます。
これを施食棚(せじきだな)、あるいは施餓鬼棚(せがきだな)と呼びます。
檀信徒各家のご先祖様、初盆の諸精霊、有無三界の萬霊をお迎えして食事を施すために山海の美味しいものが並べられます。
餓鬼のために生米と刻んだ茄子、胡瓜を混ぜた「水のこ」をお供えしたりもします。
あまねく「み魂」に施しをする日本の良き習慣です。
また、お盆の時期には各家庭で仏壇の前に棚を設けます。
この棚を盆棚といい、意味合いは施食棚と同じであります。
施食棚や盆棚には「精霊棚」という共通の別名があります。
この「精霊棚」は、「しょうりょうだな」と呼ぶのが普通です。
しょう‐りょう【精霊/聖霊】 1 死者の霊魂。みたま。 2 「精霊祭り」の略。《季 秋》「―に戻り合せつ十年ぶり/丈草」
『大辞泉』(小学館)
けれども、意外に「しょうろうだな」と呼ぶ方も多いことに気がつきました。
霊は、呉音で「りょう」とは読みますが、「ろう」とは読みません。
、
れい【霊〔靈〕】 [常用漢字] [音]レイ(漢) リョウ(リャウ)(呉) [訓]たま たましい
1 不思議な力や働きをもつ存在。万物に宿る精気。「山霊・神霊・精霊(せいれい)」
2 肉体に宿ってその活動をつかさどる精神的実体。たましい。「霊肉・霊魂不滅/心霊・全身全霊」
3 死者のたましい。「霊園・霊前・霊安室/慰霊・英霊・祖霊・亡霊・幽霊」
4 不思議な力をもつ。人知で測り知れない。「霊感・霊気・霊験(れいげん)・霊獣・霊峰・霊妙・霊薬・霊長類」
〈リョウ〉たましい。死者のたましい。「悪霊・生霊(いきりょう)・怨霊(おんりょう)・死霊・精霊(しょうりょう)」
〈たま(だま)〉「霊屋(たまや)/言霊(ことだま)」
それにも関らず「しょうろうたな」という呼び方が増えた理由は、恐らく グレープのヒット曲『精霊流し』の影響ではないかと推測します。
長崎の精霊流しは「しょうろうながし」です。
その語源の由来を見ると、「ろう」と読むことの理由が見えてきます。
精霊船の由来
寛政時代の記録に、「昔は聖霊を流すに船をつくるということもなく」とあります。「精霊」は「聖霊」とも書いていたらしく、読み方も「しょうろう」ではなく昔風には「しょうりょう」だそうです。享保(1716-1735)のころ、盧草拙(ろそうせつ)をいう儒者が市民が精霊物を菰包みで流しているのを、これではあまりにも霊に対し失礼だということで藁で小船を作ってこれに乗せて流した、という記録があります。精霊船の由来は、様々な説があり、今日まだ定説はないようですが、長崎の場合は、港という地理的条件と国際貿易都市としての独自の環境性が影響して、今日の精霊船の原型が生み出されたと考えられます。
『長崎事典(風俗文化編)』(長崎文献社)
しょうろうの「ろう」は、盧草拙の「ろう」という説です。
「しょうろう」でも「しょうりょう」でも、供養のこころは同じ。
頭の片隅においておいても良い豆知識です。
先日の 親子で学ぼう地域の歴史 の最後質疑応答の中で、横浜駅西口の砂利置場に関する話題が出ました。
丁度よい機会ですので、各資料を元に時系列に整理してみましょう。
相鉄のホームページ「相鉄瓦版」に次にような記述があります。
横浜駅前が砂利置場だったのを知ってる?
相鉄ジョイナスに高島屋、横浜ベイシェラトン ホテル&タワーズやザ・ダイヤモンドなど、多くのショッピングセンターなどが並び、毎日たくさんの買い物客でにぎわう横浜駅西口。全国有数の繁華街である横浜駅西口ですが、かつては砂利や材木が置いてあるだけのがらんとした広場でした。
もともと石油会社の所有地だった西口は大正12年の関東大震災で焼け野原となり、その後は資材置き場として放置されていました。太平洋戦争中は海軍の、戦後は米軍の資材置き場として使われましたが、一般市民の使える商店などはほとんどなかったのです。
その横浜駅西口に槌(つち)音が響いたのは昭和30年。相模鉄道が土地を買収し、開発に着手しました。ただの原っぱにすぎない当時の西口駅前を見て、大手百貨店や東京の有名商店が出店を断ってきたことさえありましたが、今から約50年前の昭和31年4月、アーケード街「横浜駅名品街」、現在の横浜高島屋の前身である「高島屋ストア」、「相鉄映画劇場」などが華々しく開業しました。オープン日には入場制限をするほど多数のお客様が詰め掛けたそうです。
その後、高島屋やダイヤモンド地下街(現ザ・ダイヤモンド)などが開業、現在の横浜駅西口の姿が整っていきます。昭和48年開業の相鉄ジョイナスの建設は、当時相模鉄道社内で相鉄いずみ野線(昭和51年開業)建設と並ぶ「二大事業」と呼ばれました。横浜駅西口は、まさに相鉄の歴史とともに発展してきた街なのです。
(相鉄瓦版より引用)
横浜駅周辺は、明治維新以降大きな変化を遂げました。
地図でその推移を見ると・・・
(迅速測図 1880-85年)
明治維新直後の横浜駅周辺は、神奈川宿から関内方面に湾をまたぐ街道がみえます。
日本最初の鉄道は、ここに敷設されます。
地図からもわかるように、現在の横浜駅の辺りは、東口は海、西口側は沼(平沼)でした。
旧街道(東海道)の様子もよく分かりますね。
明治時代後半までは、初代横浜駅は現在の桜木町にあり、東海道本線はスイッチバックで運行していました。
スイッチバックをしないですむバイパス線が引かれた頃の地図です。
ただし、スイッチバックしないということは、横浜駅を通らないということを意味します。
これでは困りますね。
そこで、1915年(大正4) 東海道線バイパス線による横浜「スルー」を避けるため、現在の高島町のあたりに二代目の横浜駅が開業しました。
明治後半から行われていた平沼(現在の横浜駅西口)の埋立ては、大正12年に完了します。平沼にはスタンダード・バキューム・オイル・カンパニーの貯油タンクがありました。
1917年(大正6)に、神中鉄道が創立。神中鉄道は、相模鉄道の前身です。
鉄道輸送の主要な目的は砂利採取・販売のための砂利輸送でした。
1923年(大正12)関東大震災で二代目の横浜駅(上記地図の横浜駅)は倒壊してしまいます。さらに、平沼の貯油タンク爆発炎上。被害甚大となります。
⇒このあたり、貞昌院先代住職が記録に残しています。
大正12年9月1日 正午を過ぎて間もなく、横浜市街地上空は黒煙濠々渦巻いて空高く立ち込め、物凄い光景が当地区から見られる。時折大爆音を耳にす。横浜港沖合に富士火山系に亀裂を生じ大噴火を成しつつありと流言が飛ぶ。後に、石油、ガスタンクの爆破と分る。(先人の教えに学ぶ地震の教訓)
大正末期から昭和初期にかけて、関東大震災の復旧復興や横浜市浄水場の建設など、砂利の需要、輸送量はかなり多かったようです。
上の地図を見ると、現在の横浜駅の位置に三代目の横浜駅が出来ています。
このあたりから戦争の色が濃くなり、1943年(昭和18)、神中鉄道は相模鉄道に吸収合併。
1945年(昭和20年)5月29日横浜大空襲、8月15日終戦を迎えます。
11月には横浜駅に進駐軍輸送指揮所が開設され、横浜駅前にテント村が並ぶようになります。
そして、横浜駅西口広場が進駐軍の資材置場(砂利など)となりました。
戦後焼け野原であった街が、少しづつ復興していく様子がわかります。
横浜駅西口は、終戦直後は「裏口」と呼ばれ、ただの資材置場でした。
商業ビルが並ぶようになった契機は、1952年(昭和27)に相模鉄道が横浜駅西口24,688㎡ををスタンダード・バキューム・オイル・カンパニーから買収したことによります。
さらに、1955年(昭和30)国民体育大会を機に西口周辺道路が整備され、翌年には横浜駅名店街、映画館、高島屋ストア営業開始・・・・
以降高度経済成長期の波に乗り、横浜駅西口は大きく発展していきます。
■関連ブログ記事
東日本大震災では、地震の揺れによって発生する「液状化現象」のために、地中から土砂が噴き出し、地盤の沈降により建物が傾いてしまったり、道路に亀裂が走り段差が生じるなど、過去最大規模の甚大な被害となりました。
地盤工学会の第一次調査速報では、液状化の被害が東京都湾岸部(お台場付近から千葉市)、埼玉県久喜市、千葉県我孫子市、印西市、茨城県潮来市、鹿島市などに及んでいることが判ります。
特に埋立地や川や湖沼沿いの地域に被害の分布が見られることが特徴です。
また、ガス、水道、下水道などのライフラインは地下に埋設されておりますので、液状化現象が発生した地域では断水やガス、下水道の不通が続き、長期に亘り生活支障が生じました。
液状化現象は、埋立地や川や湖沼沿いの地域に被害の分布が見られます。
ということは、その場所の過去の歴史を知ることによって、液状化現象の危険度をある程度予め知ることができるということです。
いくつか、自衛策を纏めてみました。
■自分の住んでいる場所の危険度を知る
国や地方自治体では、ハザードマップを作成しています。
例えば、横浜市消防局のサイトでは、様々な想定地震による液状化の危険度を予測して公表しています。
(左図)関東大震災の再来型である「南関東地震」
(中図)地震発生の切迫性が高い「東海地震」
(右図)市域直下を震源とする「横浜市直下の地震」
危険度マップを参考に、自分の住んでいる地域がどれだけの危険度があるかを把握しておくことは大切でしょう。
■自分の住んでいる場所が、過去どのような場所であったかを知る
地図で過去に遡って調べていくと、どのような場所であったかがわかります。
特に、過去に川であったり、水田、池、沼、海岸などであった場所を埋立てたり、谷を埋めて盛土をして造成をした場所は危険性が高いといえます。
また、地盤が砂のように透水性が高かったり、地下水位が高い場所も危険性が高くなります。
例えば、歴史に学ぶ港南台の会勉強会では、昭和30年代後半に大規模に開発された港南台の開発について、過去の地図や写真を元に学びました。
なだらかで一様な平面となっている住宅地も、50年ほど前は山や谷戸、川のある場所でした。それを切土したり盛土したりして平らにしているのです。
自分の住んでいる場所が、谷戸を埋立てて出来た土地であることを初めて知った方もいらっしゃいました。
自分の場所がどのような場所であったのかを知ることは、防災の意味でも大切なことです。
■危険度の高い場所では、地盤を強くし、発生を抑える対策を取る
危険度の高い場所でも、適切な対策を取ることによって、危険度を下げることができます。
最も有効な方法は、地盤改良です。
東京ディズニーランドでは、テーマパーク内では液状化現象が発生せず、建物に被害はありませんでした。
この理由として、「サンドコンパクション・パイル工法」や「ドレーンパイプ工法」などの地盤改良が行われていて、液状化現象の発生を防いだことが功を奏したと考えられています。
以前、ブログ記事で紹介した、羽田空港拡張工事における地盤改良工法も、ドレーンパイプ工法の一種です。
とはいっても、一般住宅で取ることのできる対策は、経済的な側面から言って限定的ですから、安く、効率的な方法を選択する必要があります。
危険度の高そうな場所にこれから建物を建てる場合には、地面から2m程度の深さまで地盤を締固めたり、液状化しにくい土に置き換えることが有効です。
また、家の形を地震に対して強い形(矩形など)にすることも重要です。
既に家が建ってしまった場合には、水抜き管(多数の小さい穴があいているパイプ)などを等間隔で地盤中に埋め込む「ドレーンパイプ工法」が被害軽減策の一つとして有効と考えられます。
地震の揺れによって行き場を失った土中の水分を素早く地表に排出させることが、被害軽減のためのポイントとなります。
■最後に
今日のブログ記事では、液状化現象とその対策について考えてみました。
液状化現象は、発生する危険が高い場所と、ほとんど発生の恐れが無い場所というようにはっきり分かれます。
また、液状化対策に限らず、どのような災害対策も、絶対確実、万能ということはありえません。
費用対効果を充分に検討した上で、どの程度費用をかけて、どの程度リスクを軽減するのかをよくよく考えていくことが必要でしょう。
いずれにしても、災害を軽減するための予備知識を持っておくことは大切です。
東日本大震災以降、電波時計の時刻が狂う現象がおこっています。
この原因は、福島第一原子力発電所の事故以降出された20km圏内避難指示を受けたことに伴い、東日本の電波時計に日本標準時を送っている「おおたかどや山標準電波送信所」からも職員が退避せざるを得ず、送信が出来なくなっているからです。
地図で確認すると、福島第一原子力発電所からの直線距離は僅か17km程しかありません。
より大きな地図で おおたかどや を表示
避難勧告は当分解除されそうにありませんから、この問題は長引きそうですね。
日本標準時電波が受信できない状態では、水晶=クォーツ時計と同等の精度になりますから、月差数十秒の誤差が生じます。
したがって、時々は手動で時刻を合せていかなければなりません。
電波時計を使っている場合は、その示している時刻が必ずしも正しくないということを意識しておく必要があります。
さて、ここで改めて時間・時刻について考えてみましょう。
そもそも一秒ってどのように定義されているのでしょうか。
地球が1回転する時間を1日として、それを24等分して1時間、さらに60等分して1分、さらに60等分して1秒なのかというと、それは違います。
なぜなら、地球の回転は微妙に速くなったり遅くなったり一定ではないからです。 地震でも地球の回転速度は変化します。
いつでもどこでも同じ時間を定義する必要から、現在は「セシウム133の原子の基底状態の2つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の9,192,631,770倍に等しい時間」と定められています。
(※セシウム133は自然界に存在する安定的な物質です。原子力発電所の事故で放出されるセシウム137とは異なります)
そして、日本標準時は、「明石」ではなく、「東京都小金井市」で作られ決められています。
意外に知られていないことだと思います。
小金井市NICTの新世代ネットワーク研究センターにあるセシウム原子時計18台と、水素メーザ4台を組み合わせ、その誤差の平均を取り(原子時計により若干の誤差が生じるのでそれを埋めます)、「協定世界標準時」(UTC)が作られます。
さらに、世界各国にある「協定世界標準時」の時刻をそれぞれ比較調整し、「世界時(UT)」が決められています。
では、なぜ、こんなに厳密に時間を決めないといけないのかというと、「時間」が基本的な単位系の元となっているからです。
例えば、長さの標準「1m」は「真空中で1秒の299 792 458分の1の時間に光が進む行程の長さ」と定められています。
時間がアバウトでは長さもアバウトになってしまうのです。
その意味で、おおたかどや山標準電波送信所の存在は重要です。
単に電波時計を正確に動作させるためだけに標準電波送信所があるわけではなく、様々な企業、研究機関に影響が生じます。
蛇足ですが、時間を正確に定義できると、物理量(光速、プランク定数、素電荷、万有引力定数、微細構造定数・・・・)の測定も正確にでき、ミクロ・マクロの領域における物理学の研究がより進むことが期待できます。
実用化の一歩手前にある「ストロンチウム光格子時計」は、セシウム原子時計の1000倍、実に「300億年に1秒」という驚異的な精度です。
これにより物理量を16桁以上の精度で測定することが可能になります。
たかが時間、されど時間。
知れば知るほど奥が深い世界です。
しかし、原子力発電所の事故により、原子時計による標準電波の送信が止まってしまっているというのは、なんとも皮肉なことですね。
一刻も早い標準電波送信所の復旧を願います。
独立行政法人の情報通信研究機構の発表によると、4月21日午後に職員10人が防護服を着て送信所に入り、機械のスイッチを入れ稼働を再開したそうです。
その後、職員は直ちに避難し、しばらくは無人のまま運転を続けるようです。
取りあえず一安心ですが、翌22日からは「警戒区域」に指定されてしまいましたので、今後のメンテナンスができるか心配です。
化学を少しでも齧った人には、化学実験の中に少なからず面白さや冒険心、化学の真実の美を見出したこともあるはずです。
そのワクワク感を再度愉しむことが出来るサイトをご紹介します。
いきなり紹介されている実験が「Making Salt the Hard Way(危険すぎる製塩法)」。
実験の目的はポップコーンに塩味を付けるという至って平和的なものですが、その方法は・・・網で吊る下げたポップコーンの下でナトリウムと塩素を反応させるというものです。
元素周期表では、左端の第一族、右にある第17族元素は不安定なものが多いという傾向があります。
最も不安定な金属の一つであるナトリウム、そして毒ガス兵器としても使用される塩素を反応させるとどうなるのでしょう。
ナトリウムが何故不安定なのかというと、電子配列で電子が満杯の状態から一つ余った電子を手放しやすい元素であるから。
逆に塩素は満杯の電子配列にあと一つ電子が足りない元素です。
その2つが出会うと、もう大変。
ナトリウムの余剰電子が塩素の電子殻に移動し、猛烈なエネルギーを放出しながら反応します。
ナトリウムは、電子を1個手放すことでプラスイオンに、塩素は電子1個受取る事でマイナスイオンとなります。
プラスイオンとマイナスイオンがイオン結合により結びつき、塩化ナトリウムという安定した化合物が出来上がるのです。
実験は、というと猛烈な反応によって火花が飛び散り、その数秒後には、ポップコーンを吊るした網が解けて反応の起こっているボウルに落下、液体ナトリウムの火の玉が実験室中に拡散してしまいました。
結局目的は達せられなかったようですけど・・・・危険な実験ほど美しい煌きを放つのでしょう。
そのほか、恐怖の太陽を作る方法、グラスの中の量子力学、水銀モーター、自家製チタン、肉眼で素粒子を見る、小さな町全体を賄うほどの電力設備を使ってコインを半分に圧縮するなど。
物質の性質への理解を深めたり、未来の化学者を育てるためには化学式を暗記するだけではなく、このような実践事例に触れることも大切でしょう。
危険とも思える実験も、きちんとした知識と準備の上では(安全に)行うことが出来ます。
決行するには躊躇するような実験を代行してくれて、その美しい瞬間を紹介してくれています。
もう一つ、この中から実験を紹介します。
「石炭と水と空気から作られ、鋼鉄よりも強く、クモの糸より細い」というナイロン繊維の合成です。
Stir Up Some Nylon
1935年、デュポン社のウォーレス・カロザースが合成に成功したナイロンは繊維化学史上最も重要な発明の一つとされています。
一から作り上げた最初の材料であって、当時欧米の女性に欠かすことの出来なかった絹のストッキングの「高価」であり、「伝染しやすい」という欠点を克服した夢の素材でした。
発売当時のアメリカではナイロン製のストッキングを求める群衆で店先が埋め尽くされたほどであり、さらに日本の重要な輸出産業の一つであった絹が大幅に落ち込んだのもナイロンのせいであるといっても過言ではないでしょう。
ナイロンは、ジアミンとカルボン酸の「縮合」結合により合成されます。
しかし、それでは製造に時間がかかるため、工業的には別の方法が取られます。
カルボン酸の代わりに、酸クロリドを用いるのです。
そうすると、ジアミンと酸クロリドが触れた瞬間にナイロンが合成されるので、それを上に引き上げることで次々と繊維状のナイロンが出来上がっていきます。
ウォーレス・カロザースが合成に成功したナイロンは6,6ナイロンで、「ヘキサメチレンジアミン」と「アジピン酸ジクロリド」を使いました。
『Mad Science』では「アジピン酸ジクロリド」ではなく「セバシン酸ジクロリド」を使っていますから、合成されるナイロンは6,10ナイロンですね。
『Mad Science』のこだわりは、化学実験をエレガントに、そして「例え危険な実験でも美しく安全に」というところにあります。
ですから、ビーカーではなくワイングラスを用います。
ワイングラスの中に「ヘキサメチレンジアミン」をまず注ぎ、そこに「セバシン酸ジクロリド」を静かに注ぎます。
両薬品は比重の関係で層を成すはずですが、うまく層状にならない場合には、バーテンダーに手伝ってもらうよう(笑)アドバイスされています。
そして、ピンセットで二液の層を掴んで引き上げる!
その美しい光景を是非ご覧ください。
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先日出かけた資料館で資料を複写する機会がありました。
そのコピー機を利用する手続きが煩雑。
住所氏名を帳面に記載しなければ複写できませんでした。
何故住所氏名が必要かというと、どうやら領収書発行のためのようです。
個人的なものなので領収書は要らないとお伝えしたのですが、決まりなのでの一点張りで、5分ほど待たされていただいたのがこの領収書でした。
たかが10円、されど10円。
律儀なものです。
人件費が無駄・・・などという野暮なことはここでは言いません。
私も幾つかの団体に属しており、領収書を発行する機会も多いので、折角の機会ですから改めて領収書の意味と必要な記載要件について考えてみたいと思います。
そもそも領収書は「税法上経費であることの証明資料」としても使われます。
証明資料としての証拠能力を持たせるためには「お金を受領した側」により作成され、年月日・相手・内容・対価を明記することが最低条件となりましょう。
それが記載されているがゆえに客観性と証拠能力を見い出すことができます。
しかし、実際には「所得税法」や「法人税法」などには、領収書の書式に関する規定は存在しません。
あえて法律上で関連する規定があるとすると、
■民法第486条(受取証書の交付請求権)
弁済者ハ弁済受領者ニ対シテ受取証書ノ交付ヲ請求スルコトヲ得■消費税法第30条 第9項
第7項に規定する請求書等とは、次に掲げる書類をいう。
1.事業者に対し課税資産の譲渡等(第7条第1項、第8条第1項その他の法律又は条約の規定により消費税が免除されるものを除く。以下この号において同じ。)を行う他の事業者(当該課税資産の譲渡等が卸売市場においてせり売又は入札の方法により行われるものその他の媒介又は取次ぎに係る業務を行う者を介して行われるものである場合には、当該媒介又は取次ぎに係る業務を行う者)が、当該課税資産の譲渡等につき当該事業者に交付する請求書、納品書その他これらに類する書類で次に掲げる事項(当該課税資産の譲渡等が小売業その他の政令で定める事業に係るものである場合には、イからニまでに掲げる事項)が記載されているもの
イ 書類の作成者の氏名又は名称
ロ 課税資産の譲渡等を行つた年月日(課税期間の範囲内で一定の期間内に行つた課税資産の譲渡等につきまとめて当該書類を作成する場合には、当該一定の期間)
ハ 課税資産の譲渡等に係る資産又は役務の内容
ニ 課税資産の譲渡等の対価の額(当該課税資産の譲渡等に係る消費税額及び地方消費税額に相当する額がある場合には、当該相当する額を含む。)
ホ 書類の交付を受ける当該事業者の氏名又は名称
<以下略>
といったところでしょうか。
よく、領収書には受取者の住所や電話番号、印鑑が無いといけないと仰る方が居ますが、法律上は住所、電話番号、印鑑は必須ではなく、「誰が領収書を作成したのか」が特定できさえすればOKなのです。
極端な話、受取者のサインで良いでしょう。
領収書には最低限記載すべき事項をまとめると
(1)この書類が「領収書」であるということを明記
(2)受領金額
(3)誰から受領したか
(4)受領日
(5)受取者の名称(誰が領収書を作成したか特定できる手法で記載)
(6)但し書き(必須では無いがあれば尚可)
これだけの記載があれば良いでしょう。
このことから分かるとおり、印刷して団体のゴム印が押されている領収書は「一見」立派ですが、むしろこの場合、誰にでも領収書を「作成」することができますので、有効性が損なわれるといってよいでしょう。
印刷の領収書の場合には、証拠能力が足りないので、それを補うために団体の(印刷やゴム印ではない)正式な印章を併用することが求められます。(「商法中署名すべき場合に関する法律」)
正式な印章を併用することにより、はじめて署名と同等の能力が発効します。
つまり、見かけは悪いですが、印刷した領収書よりは、一片の紙に全て手書きで書かれた領収書の方が、実は法的証拠能力はずっと高いのです。
営利を目的とした会社の場合のほかに、特に僧侶が関る団体は「営利を目的としない団体」が多いわけで、営業に関しない受取書に基づく領収書が発行されることになります。
関連法令である印法別表一の十七、印基通別表第一第17文書の21~26、32を見てみます。
No.7125 営業に関しない受取書
[平成22年4月1日現在法令等]第17号文書の金銭又は有価証券の受取書であっても、受け取った金銭などがその受取人にとって営業に関しないものである場合には、非課税となります。
営業というのは、一般に、営利を目的として同種の行為を反復継続して行うこととされており、おおむね次のように取り扱っています。(1) 株式会社などの営利法人の行為は、その営利法人が直接作成する株式払込金領収書などを除いて営業になります。
(2) 財団法人などの公益法人の行為は、すべて営業になりません。
(3) 協同組合など会社以外の法人の行為は、次のようになっています。
法令の規定などにより利益金又は剰余金の分配などをすることができることになっている法人の場合に、出資者以外の者との行為は営業になり、出資者との行為は営業になりません。
(4) 人格のない社団の行為は、次のようになっています。
公益及び会員相互間の親睦等の非営利事業を目的として設立されている場合には、営業になりません。
その他の人格のない社団が作成する受取書で、収益事業に関して作成するものは、営業になります。
(5) 個人の場合、「商人」としての行為は営業になり、事業を離れた私的日常生活に関するものは営業になりません。
なお、店舗などの設備がない農業、林業又は漁業を行っている者が自分の生産物を販売する行為や医師、歯科医師、弁護士、公認会計士などのいわゆる自由職業者の行為は、一般に営業に当たらないとされていますので、これらの行為に関して作成される受取書は営業に関しない受取書として取り扱われます。(印法別表一の十七、印基通別表第一第17文書の21~26、32)
ということで、冒頭の財団法人や、宗教法人(非営利の部分)、SOTO禅インターナショナルや神奈川県第二宗務所のような「人格なき非営利団体」の発行する領収書については上記の内容を加味しておけばよいでしょう。
さて、以上を踏まえて、改めて冒頭の領収書を検証してみましょう。
・・・・あれ?いつ支払ったんだっけ???
娑羅双樹について考えてみます。
お釈迦様の入滅の様子は涅槃経で記述されていますが、例えば曹洞宗でよく読まれる『仏垂般涅槃略説教誡教』(遺教経)では次のようになっています。
応に度すべき所の者は、皆已に度し訖って、沙羅双樹の間に於いて、将に涅槃に入りたまわんとす。
『仏垂般涅槃略説教誡教』
この表現から受けるイメージはどういう感じでしょうか。
「双樹の間」という表現から、頭と足先に一本づつ、2本の木の間でお釈迦様は横になられたと感じるかもしれませんね。
実際に曹洞宗の公式サイトでは、曹洞宗の年中行事>涅槃会 の項目に
お釈迦さまは2本のサーラ樹の間に用意された床で、頭を北に、顔を西に向け、右手を枕にされて寝ておられます。
(曹洞宗公式サイトより一部引用)
と説明されています。
しかし、同じページにある涅槃図には8本の娑羅双樹が描かれています。
なぜこのようなことが起きるのかを考えてみましょう。
娑羅双樹は、仏教の三大聖樹
(1)無憂樹 (マメ科):釈尊降誕の場所にあった木
(2)印度菩提樹 (クワ科):釈尊成道の場所にあった木
(3)娑羅双樹 (フタバガキ科):釈尊入滅の所にあった木
のうちの一です。
サラノキは釈尊入滅の場所の東西南北に各々2株のこの木があったので沙羅双樹といわれる。
『標準原色図鑑全集・樹木』(保育社・昭和41年)
などをみると「東西南北に各々2株」の様子から漢字の双樹をあてたと説明されています。
したがって、涅槃図の娑羅双樹は2対4組の8本であるし、一本の娑羅双樹の木でも娑羅「双樹」ということになります。
日本最古とされる平安時代の涅槃図でも8本の娑羅双樹が描かれています。
先の、曹洞宗公式サイトでの説明は、
お釈迦さまは2組8本の娑羅双樹の間に用意された床で、頭を北に、顔を西に向け、右手を枕にされて寝ておられます。
としたほうが判りやすいように感じます。
補足
※日本ではナツツバキ(夏椿、学名:Stewartia pseudocamellia)が娑羅双樹の代わりにされていますがフタバガキ科のサラソウジュ(沙羅双樹、娑羅双樹、さらそうじゅ、しゃらそうじゅ、学名:Shorea robusta)とは全く別の木です。
※今日の記事タイトルの「デシマル」は40数年前にヨーロッパに禅を伝えた弟子丸老師のことではありません。
ここのところドイツの方とメールでやり取りする中で
Flugkosten 50.000EUR
などという表記があったりします。
これは航空券代金が50ユーロということではなく、5万ユーロということを表しています。
このように、ドイツ、フランスなど、英語圏以外のヨーロッパでは3桁ごとの位取りに"."ドットを使うことが普通に行われています。
また、小数点には","(カンマ)が使われることが普通で、日本の表記方法とは逆となります。
12.345 という数字は日本では じゅうにてんさんよんご。ドイツでは「いちまんにせんさんびゃくよんじゅうご」と捉えてしまいます。
わかっていても、馴れないと数字の大小についてピンとこないですね。
ただ、日本でも小数点をカンマで表記する事例があります。
例えば、これは 横濱市復興局 昭和22年6月製版仮製三千分一 地形図「上永谷」の一部です。
標高表記で 73,0 というように小数点が","(カンマ)になっていますね。
恐らく地図の技術をフランスやドイツから導入した名残りではないでしょうか。
そういえば、0.1のことを「ぜろ”こんま”いち」と言ったりしますね。
これも何かの名残りでしょう。
小数点をどう表すかは
百二十三万四千五百六十七点八九の各国における表記は、次の通りである。
日本では 1,234,567.89 または 1234567.89 縦書きは 百二十三万四千五百六十七・八九
イギリス、アメリカでは 1,234,567.89 または 1,234,567·89
フランス、南アフリカでは 1 234 567,89
ドイツでは 1.234.567,89
インドでは 12,34,567.89
アラビアでは ١٬٢٣٤٬٥٦٧٫٨٩
■小数点にドットを使う国=日本、オーストラリア、ボツワナ、カナダ(英語話者)、中国、コスタリカ、ドミニカ共和国、エルサルバドル、グアテマラ、ホンジュラス、香港、インド、アイルランド、イスラエル、韓国、北朝鮮、マレーシア、マカオ(中国語を使う場合)、メキシコ、ニカラグア、パナマ、フィリピン、プエルトリコ、サウジアラビア、シンガポール、タイ、台湾、英国、米国
■小数点にカンマを使う国= アンドラ、アルゼンチン、オーストリア、ベルギー、ボリビア、ブラジル、カナダ(フランス語話者)、クロアチア、キューバ、チリ、コロンビア、チェコ、デンマーク、エクアドル、エストニア、フェロー諸島、フィンランド、フランス、ドイツ、ギリシア、グリーンランド、ハンガリー、インドネシア、アイスランド、イタリア、ラトビア、リトアニア、ルクセンブルク、マカオ(ポルトガル語を使う場合)、マケドニア共和国、オランダ、ノルウェー、パラグアイ、ペルー、ポルトガル、ポーランド、ルーマニア、スロヴァキア、セルビア、スロベニア、スペイン、南アフリカ、スウェーデン、スイス、ウクライナ、ウルグアイ、ベネズエラ、ジンバブエ、モンゴル
■小数点がMomayyezとなる国= バーレーン、イラン、イラク、クウェート、オマーン、カタール、サウジアラビア、シリア、UAE
(ウィキペディア「小数点」項より引用)
きれいに分かれてしまっています。
これでは問題があるとして、第22回国際度量衡会議において次のように議論され、国際単位系(SI)の結論が出されました。
Symbol for the decimal marker
The 22nd General Conference, considering thata principal purpose of the International System of Units (SI) is to enable values of quantities to be expressed in a manner that can be readily understood throughout the world,
the value of a quantity is normally expressed as a number times a unit,
often the number in the expression of the value of a quantity contains multiple digits with an integral part and a decimal part,
in Resolution 7 of the 9th General Conference, 1948, it is stated that "In numbers, the comma (French practice) or the dot (British practice) is used only to separate the integral part of numbers from the decimal part",
following a decision of the International Committee made at its 86th meeting (1997), the International Bureau of Weights and Measures now uses the dot (point on the line) as the decimal marker in all the English language versions of its publications, including the English text of the SI Brochure (the definitive international reference on the SI), with the comma (on the line) remaining the decimal marker in all of its French language publications,
however, some international bodies use the comma on the line as the decimal marker in their English language documents,
furthermore, some international bodies, including some international standards organizations, specify the decimal marker to be the comma on the line in all languages,
the prescription of the comma on the line as the decimal marker is in many languages in conflict with the customary usage of the point on the line as the decimal marker in those languages,
in some languages that are native to more than one country, either the point on the line or the comma on the line is used as the decimal marker depending on the country, while in some countries with more than one native language, either the point on the line or comma on the line is used depending on the language,
declares that the symbol for the decimal marker shall be either the point on the line or the comma on the line,reaffirms that "Numbers may be divided in groups of three in order to facilitate reading; neither dots nor commas are ever inserted in the spaces between groups", as stated in Resolution 7 of the 9th CGPM, 1948.
結論は、
小数点は"."ドット、","(カンマ)どちらを使っても構わない。
位取りには3桁ごとにスペースを空けても良いが"."ドットや","(カンマ)は用いないこと。
でした。
国際単位系(SI)スタイルでは 1 234 567.89 または 1 234 567,89 ということですね。
ですから、冒頭の表記は Flugkosten 50 000EUR としたほうが良いし、12,500円は 12 500円と書いた方が好ましいということになります。
蛇足ですが、小数に関して興味深い文化の分類方法があります。
それは「分数文化圏」「小数文化圏」という区分です。
分数文化圏はヨーロッパ、アメリカ合衆国、エジプトなど
小数文化圏は日本、中国、インド、アラビアなど
そういえば、欧米圏はやたらと分数を使いますね。
貨幣では1/4ドル(クォーター)、紙幣で20ドル札が良く使われるというのは分数文化圏であるからでしょう。
逆に日本では四分の百円玉や2千円札は使われない(使わない)ですね。
文化の違いが顕著に現れている例といえます。
お釈迦様成道の日を迎え、貞昌院定例坐禅会では坐禅終了後に五味粥をいただきました。
■五味粥(貞昌院2010年版)のレシピ
・昆布で取っただし
・サツマイモ(貞昌院産)
・栗(貞昌院産)
・はちみつ
・刻み柚子(貞昌院産)
・胡麻
五味粥は普段のプレーン粥に比べて滋養のあるお粥です。
お釈迦様がブッダガヤの地に至ってスジャータ村の娘から乳粥の施しを受けた後、菩提樹の下に坐し臘月(12月)八日の朝に悟りを開かれた故事になぞらえたものです。
酒粕や味噌を加えたり、大豆や小豆、胡桃を加えたり寺院によって差異があります。
中国では、日常から「朝食にお粥」という習慣があり、体調によりお粥のレシピを変えて体調を整えています。
特に、この時期、臘月八日の臘八粥の時期になると、スーパーの店先には臘八粥の材料が山のように並ぶそうです。
材料は胡桃、落花生、栗、小豆、松の実、棗、蓮の実などなど。
臘八粥は薬膳として体力をつけ、風邪を予防する源とも成りうるものです。
禅寺では、夕食のことを薬石と言いますが、まさに食事は薬を服するが如く身を支える源となる大切なものです。
薬膳に基づいた臘八粥の作り方が『きれいになれるお粥レシピ』(成美堂出版編集部)に掲載されていました。
一部引用させていただきます。
■体を養う様々な食材
(1)「腎」を補う
老化による様々な体の衰えを緩やかにし、生命力を高める
くるみ・ぎんなん・栗・ごま・くこの実(2)「血」を補う
美肌・脳の働きを良くする・精神安定
レーズン・小豆・黒豆・落花生・松の実・なつめ(3)「気」を補う
疲労回復・胃腸機能改善
もち米・うるち米・きび・山芋・さつまいも・かぼちゃ・蜂蜜・蓮の実
これを参考に、自らの体調に鑑み、五味粥を作ってみては如何でしょうか。
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五味粥
今年は 元日の月食⇒パール富士 からスタートしました。
それはそれは見事な光景でしたが、今年を締めくくるにふさわしい光景が(晴れれば)年末に見ることができます。
12月21日夕方に見られる皆既月食です。
今回の月食は、月が登る前からスタートしており、日本では半影食が始まってから月が昇ってきます。
2010年12月21日
14時27.7分 半影食はじまる。日本全域で月の出以前
15時32.3分 月食はじまる。 ※北海道東部の一部を除く日本の大部分の地域で月の出以前
16時40.4分 皆既月食はじまる。 ※近畿地方以西では月の出以前
17時17.0分 食の最大
17時53.6分 皆既月食がおわる
19時01.7分 月食がおわる
20時06.1分 半影食がおわる
月が低い高度の時に皆既月食となるということは、ある意味チャンスです。
なぜなら、景色と併せて観察しやすいからです。
どうせなら、ということで富士山頂から登る皆既月食が観察できるポイントを探してみました。
比較的良さそうなポイントは静岡県富士宮市の国道139号線、横手沢の近辺です。
カシミール3Dでシミュレートしてみると、丁度富士山の山頂から皆既月食が終わる直前の月が昇ります。
実際にどんな風に見えるだろうかということをカシミール画像と皆既月食の写真で作成してみました。
皆既月食の終わりの時刻には月の左下部分から明るくなってくるはずですので、こんな感じでしょう。
なんと幻想的な光景でしょう。
見ようによっては鏡餅の上のダイダイにも見えますね。めでたい。
このまま年賀状素材として使いたい気分です。
私はこの冬から新たに始まった仕事の関係で見ることは難しいかもしれませんが・・・なんとか見てみたいなぁ~と心の隅で思っています。
いずれにせよ、月食自体は日本全国で見ることが出来るので晴れることを願いたいものです。
今日は成道会。
お釈迦様はブッダガヤの菩提樹の下で明けの明星を眺めながら悟りを開かれたとされています。
金星探査機「あかつき」は周回軌道に乗ることが叶わなかったという発表が、成道会の朝に行われました。
こちらは残念なニュースでした。
しかしながら7年後の2016年再び地球が金星に接近する機に再挑戦できる可能性もあります。
失敗を生かして次なるステップを期待します。
ここのところ雨天が続いておりましたが、久し振りに星空を望むことができました。
今、丁度約6.5年周期の楕円軌道をもつハートレー彗星(103P/Hartley)が見ごろを迎えています。
夜半から明け方にかけて南天の見やすい位置にありますので、少し大きめの双眼鏡があれば、ぼんやりと緑色に光る彗星を比較的簡単に見つけることができるでしょう。
今日(11月2日)の午前4時には、ふたご座といっかくじゅう座の間にあって、ちょうどクリスマスツリー星団(NGC2264:写真の15MONの直ぐ傍)との競演が楽しめました。
(2010 11 02 4:25a.m. CanonEOSkissX3+Tamron90mm f3.5 6sec ISO400 貞昌院にて)
カメラを固定してテキトーに撮影た写真ですので少し判りづらいかもしれませんが、ぼんやりと滲んでいるのが彗星です。
だんだん地球から遠ざかりつつあり、見ごろはあと一週間くらいでしょうか。
彗星の見つけ方はアストロアーツのサイトをご参照ください。
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羽田空港(東京国際空港)で、いよいよ国際定期便の本格運行が再開されました。
1978年の成田空港(新東京国際空港)開港以来、実に32年ぶりとなります。
24時間対応のハブ空港として稼動していますので、空の便は格段に便利になることでしょう。
地図を元に羽田空港の歴史を振り返ってみます。
(地形図 明治39年測図)
大正6(1917)年、日本飛行大学校「羽田飛行場」飛行訓練施設設置。
付近に羽田運動場、羽田海水浴場、沖には羽田競馬場がありました。
大正11年の地形図に羽田運動場、羽田競馬場が記載されています。
(地形図 大正11年修正)
東京飛行場(羽田飛行場)が日本初の国営民間航空専用空港として開港したのは昭和6(1931)年です。
面積53ha、全長300m 幅15mの滑走路が1本での運用でした。
大阪・福岡・台北・京城などへの国内線のみならず、満州国や中華民国、タイ、フランス領インドシナへの国際線ハブ空港としての運航も活発化しています。
(地形図 昭和7年要修)
第二次世界大戦開戦により羽田空港は軍用飛行場に転換されます。
国内線や同盟国の満州国やタイ王国の他に、香港やジャカルタ、マニラやシンガポールなどイギリスやアメリカ、オランダの植民地を日本軍が占領した東南アジア各都市へ向けて、陸軍による定期便が運行していました。
(地形図 昭和20年部修)
第二次世界大戦終戦後、日本を占領したアメリカ軍は、ハネダ・アーミー・エアベースとして沖合に拡張工事を計画。
このため、昭和20(1945)年9月21日に、羽田町鈴木新田周辺住人に対し48時間以内に強制退去の命令が出されます。
羽田地区は昭和20年に激変しました。現在の羽田空港の礎は、アメリカ軍によって築かれたのです。
(地形図 昭和41年改測)
1964年の海外旅行自由化以降、航空機の利用客・便数が急増したため、1984年から羽田沖の海面を埋立て、空港施設を移設・拡張するという沖合展開事業が始まりました。
(地形図 昭和51年ニ改)
1993年には、新国内線ターミナルビル(ビッグバード 第1ターミナルビル)が完成、2004年12月には、第2旅客ターミナルビルが供用開始となりました。
(地形図 平成13年修正)
多摩川河口付近海上に世界初の人工島+桟橋構造のハイブリッド滑走路として、D滑走路が完成。
国内線・国際線ターミナル、整備センターがあった区域に新国際線旅客ターミナルビルが完成。
そして、本日国際定期便の本格運行が再開されました。
こういう夢のある話題はいいですね。
ニューヨークに住む小学生マックス君が、父親と一緒に作成したヘリウム風船につけた自作観測機器にビデオカメラとiPhoneを装着し、放出から上空10万ft(=約30km:成層圏の世界)に達し、再び地上に落下するまでの様子の撮影に成功しました。
観測機器を断熱材で保護したり、ホッカイロを入れたり、厳しい環境下でも耐えられるような工夫が随所になされています。
まずは、その映像を。
Homemade Spacecraft from Luke Geissbuhler on Vimeo.
回収のためにiPhoneのGPS機能をフル活用し、木に引っかかっていた観測機器を無事回収。
実に生々しい映像ですね。
このヘリウム風船は、世界中で、日本でも気象庁により毎日数回全国16か所の気象台から打上げられている気象観測用ゾンデ(ラジオゾンデ)と同じものです。
ラジオゾンデで用いられる600gのゴムを使用したヘリウム風船の場合、約90分で上空30kmくらいに達し、風船は膨張が限界に達して破裂し、ラジオゾンデの観測は終了します。
マックス君の風船も、ほぼ同じ飛行高度まで飛んだ訳ですね。
ゴム風船が上空でどのように破裂するかという状況も良くわかる動画です。
[豆知識]
これより上が外気圏
熱圏(Thermosphere) 高度80-800km
中間圏(Mesosphere) 高度50-80km
成層圏(Stratosphere) 高度11-50km
対流圏(Troposphere) 高度0-11km
ちなみに、スペースシャトルの飛行軌道高度はだいたい200~500kmです。
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飛んでいった風船はどうなるの
■関連リンク
Brooklyn Space Program
ドリームビジョン(日本テレビ番組の同様な企画)
踊念仏で知られる時宗の開祖一遍上人は、法然の弟子西山義の証空の弟子、聖達を師とし、法然上人からは法系上曾孫にあたります。
まずは『一遍聖繪』より第五の部分を引用いたします。弘安5(1282)年春に一遍上人の一行が奥州江刺の祖父河野通信の墓に参った後、松島小泉、常陸より武蔵国石濱を経て鎌倉向かう部分です。
武蔵国石濱にて。時衆四五人病ふしたりけるを見給いて。
のこりゐて むかしを今と かたるへき こころのはてを しるひとそなき
弘安五年の春。鎌倉にいりたまふとて。ながさごという所に三日とどまり給う。
聖の給はく。鎌倉入の作法にて。仮益の有無を定べし。利益たゆべきならば。是を最後とおもふべき由。
時衆に示して。三月一日小袋坂よりいりたまふに。今日は大守山内へ出給ふ事あり。此の道よりはあしかるべき由人申しければ。聖思ふやうありとてなを入りたまふ。
武士むかひて制止をくはふといへども。しひて通りたまふに。
小舍人をもて時宗を打擲して。聖はいづくにあるぞと尋ねければ。聖爰にありとて出むかひ給ふに。武士いはく。御前にてかくのごときの狼藉をいたすべきやうやある。なんぢ徒衆を引具する事。偏に名聞の為なり。制止にかかへられず。乱入すること心得がたし云々。
『時宗聖典』巻下2(時宗宗学林編)「一遍聖繪」第五 より一部引用
引用文中、下線を引いた「ながさご」について、長後(ちょうご・古くは長郷)と推定するものが多く(例:えのしま・ふじさわポータルサイト:藤沢市運営) 、「長後説」が有力となっています。
ところが、様々な資料を付き合わせると、長後ではなく、永谷の永作(ながさく)と考えるほうが自然であるという見方もできそうです。
文中の武蔵国石濱は、現在の石濱浜神社(上地図の右上端)です。
鎌倉時代には、現在より約2メートルほど海水面が高く、海岸線や川幅がだいぶ違いました。
(上図参照)
参考までに、時宗の元本山「当麻無量光寺」は 嘉元元(1303)年、二代他阿真教により念仏道場として開山。現本山の 「清浄光寺(遊行寺)」は 正中2(1325)年、四代呑海上人による開山ですので、弘安5(1282)年にはまだ両堂宇はありません。
一遍上人一行の石濱から鎌倉までのルートは、海岸沿いに南下し、多摩川を渡ったあと、
(1)三ツ沢~和田~岩間宿~石名坂~弘明寺~餅井坂~永谷~舞岡~小袋坂~鎌倉
(2)三ツ沢~和田~保土ヶ谷宿~境木~柏尾~舞岡~小袋坂~鎌倉
のどちらかのルートを通って鎌倉入りを試みたと考えられます。
⇒大畠洋一著作集さんのサイト 保土ヶ谷宿の成立と交通路の変遷 がとても参考になります。
なお、(2)よりも(1)の方が古くから成立していた道(鎌倉古道下之道:鎌倉初期)であると推定されます。
そうであれば武蔵国石濱から鎌倉への当時の街道を考慮すると、『一遍聖繪』に記載される「ながさご」は餅井坂と舞岡の間にある「永作(ながさく)」と考えるほうが自然です。
さらに言えば、一遍上人が3日間留まったのが永作であったのならば、当時永作にあった貞昌院の前身の天性寺上之坊であった可能性もあります。
天神社別当貞昌院、天神山と号す、曹洞宗(後山田村徳翁寺未)。旧は上之坊下之坊と号せし台家の供僧二宇在りし が共に廃亡せしを天正十年に至り、其廃跡を開き、当院を起立す、開祖は文龍(天正十九年四月十六日寂す)と云ふ、本尊は十一面観音(長八寸行基作)。神明宮二、羽黒社、浅間社、以上貞昌院持
「注」上の坊は上永谷町5358番地附近(永作公園)一帯、現、田辺氏宅東方地域、下之坊は上永谷町3400番地附近一帯、現、鈴木氏宅西方の山腹、故に鈴木家を寺下と呼称す、両坊共に七堂伽藍を具備せしと。
『新編相模風土記』永野項より引用、下線と「注」はkamenoが付記
永谷郷の永作に逗留した一遍上人一行は、3月1日、鎌倉での踊り念仏の布教が成功するかしないかに自分の教えの当否を掛け、鎌倉に向かいます。
しかし、鎌倉に入ろうとした際に、丁度落慶に向けて工事の進む円覚寺に居た北条時宗により警固の武士に行く手を遮られてしまいます。
(北条時宗は念仏を鎌倉から追放する政策をとっていました)
鎌倉入りを拒まれた一遍上人の一行は、小袋坂から鎌倉に入ることを止め、片瀬の浜に回り、そこで舞踊台を作り踊り念仏を行いました。
周囲に多くの人びとが集まっていますね。
自らの教えの当否を掛けた舞台の答えが、明確に現れています。
今日の記事は檀家さんとの雑談の中で出た話を元に検証を加えて作成してみました。
「ながさご」は果たして長後なのか、永作なのか。
検証が進みましたら、また追記します。
松ヶ崎古墳群の現状については港南歴史協議会でも度々話題になっており、一度詳しく見てみたいと思っていましたが、なかなか 現地に赴くことが出来ず、昨日になってようやく叶いました。
まずは、松ヶ崎古墳に関する2つの調査報告をまとめてみます。
両者の記述に差異がみられます。
その原因は周辺の土地開発や道路拡張、自然環境の変化による古墳の崩落のほか、かなり草木が生い茂っている場所であるために見つけることができなかったということがあるのではないでしょうか。
下の写真は、昨日撮影した前述の報告書と同じ場所(松ヶ崎古墳全景)です。
高圧電線の鉄塔の形の変化や周辺の住宅の様子に約40年もの時代の変遷を感じます。
それでも、古墳群は県立港南台高校(現在は県立立野高校が管理)敷地にあるために開発から逃れることができました。舌状地形の輪郭もかつての形を残しています。
GoogleMapの航空写真で『港南の歴史』に記載されている1~5の横穴をプロットしてみました。
【下の航空写真参照】
右下の矢印は、松ヶ崎横穴古墳群全景を撮影した場所です。
なお、①②③④⑤がそれぞれ『港南の歴史』に記載されている1号~5号の横穴です。
『港南の歴史』によれば、①②が単式、③④⑤が複式とのことですが、③④⑤は草に覆われていたためか、既に失われてしまっているか、発見できませんでした。
しかし、⑤は本文にあるように相当大きな複式横穴墓とのことですから、草が無くなる冬の時期に丹念に調べればきっと見つかるでしょう。
直ぐに見つけることができたのは↑こちら。
航空写真でいう②の位置です。位置口が狭く半ば埋まっていたので良くわかりませんが、単式羽子板状のように見えます。
2番目に見つけた横穴は、①の横穴墓の直ぐ右横にある横穴墓です。航空写真でいう②の位置です。
位置関係と状況から判断して『神奈川県埋蔵文化財調査報告』にある「下段に横列する5穴のうち、その中央部にある1穴 」は、この横穴墓と見て良さそうです。
『神奈川県埋蔵文化財調査報告』『港南の歴史』によると、これよりさらに右側に3つの横穴墓がありそうですが、びっしりとヤブカラシなどの草に覆われていて、とても入ることはできません。
草の無くなる時期に、立野高校の許可を取った上で丹念に調べてみたいものです。
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以下は『港南の歴史』では記載の無い横穴墓です。
下写真の横穴墓は①の横穴墓の直ぐ西側にあり、航空写真では⑥と記載しました。この⑥が昨日見た中で一番大きなものでした。
なぜ、港南の歴史編集委員と笹下中学校社会研究部員による調査でこれだけ大きな横穴墓が見逃されていたのか不思議です。
前室の奥壁中央にはアーチ型の入口があり、遺骸を納めたと思われる奥室もきちんと残されています。
保存状態も良く、前室天井の鑿岩模様も、奥室入口の淵取模様もはっきりしています。
⑥の直ぐ西には、↓崩壊し埋没している横穴=航空写真の⑦=がありました。
ということで、この日見つけることが出来たのは4穴=航空写真でいうところの①②⑥⑦でした。
松ヶ崎横穴古墳群は、運良く開発から逃れて現状保存されてかつての姿を残していますが、今後適切な保存が為されないと失われてしまうでしょう。
今日から彼岸です。
お墓参りをされるかたも多いと存じますので、今日はお墓に関する記事を書いてみます。
港南区には幾つかの古墳が確認されています。
その多くは開発などにより失われてしまいましたが、唯一残されている古墳が(旧)港南台高校敷地内の舌状台地南斜面に位置する松ヶ崎横穴古墳群です。
(図は『港南の歴史』昭和54年 港南の歴史発行実行委員会編 P53より引用)
古墳時代(畿内では3世紀後半から7世紀)にかけては、弥生時代から発生した稲作などの農耕生活により生じた貧富の差や階層分化が生まれはじまりました。
また、鉄器の普及により耕地は拡張され、経済力の上昇により国家としての統治形態が整い始め、発生した支配階級がより明確になりました。
地域共同体の司祭的な首長がその地位を確固たるものとするために、土を盛り上げて作る前方後円墳や前方後方墳などの古墳が多く作られたため古墳時代と名づけられています。
首長よりも地位が低位の人びとや一般庶民は山の斜面に横穴を設けて埋葬していたようです。
その一つである松ヶ崎横穴古墳群の付近は武相国境の分水嶺に位置し、北東へ流れる川は日野川・大岡川を経て東京湾に注ぎ、南西に流れる川は稲荷川・鼬川・柏尾川となり相模湾に注ぎます。
この分水嶺の西側、現在の鍛冶ヶ谷付近には「たたら場」の遺構が数多く点在し、また現在の港南環境センター付近の一帯には港南台遺跡として縄文時代中期以降の住居跡が発掘調査されています。
(なお、港南台遺跡住居群は港南台開発のために既に失われてしまっています)
集落があるということは埋葬する場所があるということで、先に述べたように港南台周辺には松ヶ崎古墳群(横穴式古墳群)が形成されていったのです。
この松ヶ崎横穴古墳群は、武相国境分水嶺の舌状台地南斜面につくられていますので、見晴らしがとてもよく、真西には富士山を望むことができます。
秋彼岸入りの頃には、夕日は富士山の山頂に沈みます。ダイヤモンド富士です。
今年の彼岸入りの日(9月20日)にこの松ヶ崎古墳群近辺から見られるであろうダイヤモンド富士をシミュレーションしてみました。
なお、昨年はこのように美しいダイヤモンド富士を望むことができました。
松ヶ崎古墳群がこの位置に作られたということは、彼岸の入りにこのような光景を望むことができる場所であるということと少なからず関係があるように思えます。
港南区で一番と言っても過言ではないほど見事な光景が見られるのです。
お墓参りの後、もしも天気が良さそうでしたら、是非足を運び古来の方々に手を合わせていただくことをおすすめします。振り返ると見事なダイヤモンド富士が見られるかもしれません。
(ただし古墳群の中に無断で立ち入ったり付近の住民に迷惑となる行為は慎みたいものです)
追記
港南区で唯一残されている松ヶ崎古墳群も、残念なことに徐々に崩れはじめてしまっています。
このままでは遠くない将来に完全に消滅してしまうことでしょう。
その価値を認め、適切な保存管理がなされることを望みます。
古来より朝露は儚いもののたとえとされてきました。
この朝露は、空気中に含まれている水蒸気が放射冷却などの影響で植物の葉や建物の外壁などで水滴となったものです。
ここのところ一ヶ月ほど雨らしい雨は降っていませんが、それでも早朝の本堂の銅瓦もこのように朝露でびっしりと覆われています。
境内を散歩すると、足元が濡れてしまうほど水に満ち溢れています。
なぜ葉の表面に朝露がつきやすいのかはブログ記事 ロータス効果 でも書いたとおり、葉の表面が撥水効果をもつ性質があるからです。
この朝露、特に今年の夏から秋にかけてのように降雨が無い時には生物たちにとっては貴重な水資源となります。
自然の朝露を利用した栽培方法を「露地栽培」と呼びますね。
蛇足ですが、寺院境内建物でも露地と呼ばれる部分があります。
茶室にも露地があります。
原典は『妙法蓮華経 譬喩品』のようです。
爭出火宅 是時長者見諸子等安隱得出 皆於四衢道中 露地而坐 無復障碍 其心泰然 歓喜踊躍・・・・・
雨が無く暑い毎日が続いているなかでも虫たちが元気に生き続けているのは、朝に一日分のエネルギーを蓄え、暑い日中は草の陰でひっそりと過ごすという自然の智慧を実践しているからでしょう。
水滴を纏った虫たちの煌きを下記のサイトで見ることが出来ます。(虫嫌いな人は注意)
The stunning pictures of sleeping insects covered in water droplets
陽が昇っていくにしたがって朝露はたちまち消えてしまいます。
このように儚い朝露ですが、重要な役割を果たしているのです。
コンピューターの性能を誇示するために円周率を何桁まで計算できたかで表すことがあります。
従ってコンピューターの進歩とともに記録は更新されていくものであり、現在世界最高桁数計算の記録を持つコンピューターはさぞかし高性能のスーパーコンピューターなのかと思いきや、ごく一般のパソコンでも「時間さえかければ」世界中のスーパーコンピューター以上の結果を出すことが可能であるというニュースです。
円周率計算2兆5769億8037万桁! 筑波大が世界記録樹立、ギネス申請
(産経新聞 2009/08/17)
という一年前の報道がまだ記憶に新しい中での大幅記録更新です。
円周率5兆けた、PCで計算 長野の会社員、3カ月かけ
(朝日新聞 2010/08/05)
記録は長野県飯田市の会社員近藤茂さんと米国のアレクサンダー・J・イーさんによる小数点以下5兆桁!です。
計算に90日間、検証に64時間を要し、2010年8月2日に記録が達成されました。
その時に使用されたコンピューターは
CPU 2 x Intel Xeon X5680 @ 3.33 GHz
メモリ 96 GB DDR3 @ 1066 MHz
HDD 16 x 2 TB
さすがに計算結果を保存するために膨大な記憶容量が必要となりますが、百万円程度あれば組み立てられるレベルのパソコンです。
ソースサイトに記録を達成した円周率計算ソフトも公開されています。
⇒こちら
折角計算ソフトが公開されているのでさっそく私のパソコンで計算してみました。
決して高性能とはいえないパソコン
Processor(s): Intel(R) Core(TM)2 Duo CPU E8400 @ 3.00GHz
Logical Cores: 2
Physical Memory: 2,145,705,984 bytes ( 2.00 GB )
CPU Frequency: 2,999,674,784 Hz
に、このブログ記事を書きながらというマルチタスクを強いる過酷な条件のもとで・・・・・
2千5百万桁までは1分もかからずに計算されました。
円周率 5千万桁目は「2」のようです。
もう少し時間をかけて・・・・・
ちょうどブログ記事が書き終わる頃、278秒ほどかかって1億桁(100,000,000桁)まで計算できました。
9948682556 3967530560 3352869667 7734610718 4471868529 : ~ 99,999,950桁目
7572203175 2074898161 1683139375 1497058112 0187751592 : ~100,000,000桁目
どうやら、円周率 1億桁目も「2」みたいですよ。
■補足
円周率の計算といえば、ドイツの数学者ルドルフ・ファン・コイレン(1596-1610)年が一生涯をかけて、正32212254720 (=60×229) 角形の辺の長さを元に手計算により円周率を35桁目まで計算した逸話を思い出します。彼はこの結果を大変誇りとし、自身の墓石に計算結果を刻みました。数学者の熱意ですね。
暑い日が続きます。
貞昌院駐車場のノウゼンカズラは太陽の光をいっぱいに浴びて元気に育っています。
もう花のピークは終わりましたが、残りの花が鮮やかに輝いています。
空も抜けるような青さですね。
(なぜ空が青く見えるのか、その理由も今日の記事と関連性があります)
太陽光のエネルギーはとても大きく、地表に降り注ぐ光エネルギーを電気に換算すると1m2当たり約1kwになります。 実に大きなエネルギーですね。
掲示板に張っておいた印刷物も1か月でご覧のとおり。駐車場に設置している屋外トイレの表示板もすっかり赤の部分が退色してしまっています。
ここで、改めて「赤色」は退色しやすいということを実感します。
黒や青は残っていても、赤は消えやすい傾向にあります。
それには理由があります。
太陽が放出しているエネルギーは、波長と粒子両方の性質で構成される電磁波です。
その波長は下図のような連続スペクトルの構成となっていてこのうち、人間の目に見える領域(波長380nm~780nm)が可視光線領域と呼ばれる部分です。
可視光線領域は波長の長い順(下図の右から左方向)に赤・橙・黄・緑・青・藍・青紫となり、青紫よりも波長が短い領域が紫外線(UV)、波長が長い領域が赤外線となります。
私たちが物を視覚的に認知するということは、(それ自身が光っているものを除いて)物体に光が当たって、その反射される光を認知するということになります。
物の性質によって反射される光の周波数が異なりますから様々な色調に見える訳です。
「赤く」見えるということは、その物体が赤い色を反射し、それ以外の波長、例えば紫や青の光を吸収する傾向にあるということです。
また、光は波長が短いほどエネルギーが大きくなります。
紫外線が強いエネルギーを持つというのはそのような理由です。逆に赤い光は波長が長くエネルギーが低い電磁波(光)です。
赤い物体は、エネルギーの低い電磁波を反射し、エネルギーの高い紫や青の電磁波を吸収する性質にあるために、その強いエネルギーのために分子構造が壊されてしまい、色が抜けてしまうというわけです。
赤が退色しやすいというのはそのような理由です。
オランダの国旗は、元来オランダのユニオンカラーである「オレンジ色」が使われていましたが、退色しやすく、日光に弱いためにより濃い赤に変更されました。
それだけシビアな問題なのです。
■蛇足ですが日本の国旗の「赤い丸」は過酷な環境でも比較的退色しにくいアゾ色素が利用されています。
CD-RやDVD-Rにもアゾ色素が使われていますね。
赤い色を使う際には、退色の影響を受けやすいということを考慮して用いることが必要となります。
■さらに蛇足
長く保存したい赤(朱色)といえば、印鑑の印影がありますね。
最近は染料インキをスポンジに染込ませたもので印鑑を押すことが多くなっていますが、今日の記事のとおり日光に曝すと印影が消えてしまうことがあります。
重要な書類などの場合は大問題です。
従って重要な書類や落款などには「朱肉」を用いるべきです。
朱肉の原料、辰砂は硫化水銀(HgS)からなる鉱物で、丹砂、朱砂、水銀朱などがあります。「丹(に)」とも呼ばれます。
古来は天然の辰砂を使っていましたが、現在では水銀と硫黄から合成した硫化水銀に松脂、櫨蠟、 ひまし油などを混合して朱肉が作られます。
朱肉の印影は重厚な味わいがあり、何万年もの経年変化も殆ど無い安定した性質があり、偽造される危険性も少なくなります。
■関連ブログ記事
大船駅西口にほど近い丘の上から街を見まもる大船観音は、大船の街の至るところから拝むことが出来ます。
街の至るところ・・・
では具体的にどの範囲から大船観音を望むことができるのでしょうか。
逆に考えると、これは 大船の街をみまもる観音様 の記事で作成した 大船観音・白衣観音様頭上からの360度パノラマ でどこまで展望できるかということでもあります。
フリーソフト、カシミール3Dには「可視マップ」機能がありますので実際に計算してみました。
大船観音の場所は日本高密メッシュ標高データによると標高43m。
これに観音像の高さ25mをプラスして、68mのポイントがどの範囲から見えるかを計算します。
つまり、大船観音の頭の一部でも見える範囲です。
赤い部分が大船観音が見える範囲として計算できました。
大船駅の周辺は柏尾川に刻まれた起伏に富んだ地形ではありますが、かなり広い範囲で見えていることが判ります。
計算範囲をさらに広げていくと、富士山の山頂や東斜面はもとより、
何と何と中禅寺湖の北側や、南アルプスからからも理論上大船観音の頭を望めることがわかりました。
北側の可視限界は、高薙山山頂(標高2180m):大船観音より北に165km
西側の可視限界は、東岳(悪沢岳・標高3141m):大船観音より西北西に123km
であります。
■見通し判定
尤も、観音様は多くの人々の救済を求める「声を観て」救済に赴く訳でありますから、人間の目線での「可視」「不可視」などは意味のないものかも知れませんね。
「認知症の理解と援助」という内容の研修会に参加してきました。
【用語の定義】
認知症とは
「一度獲得した知的機能(記憶・認識・判断・学習など)の低下により、自己や周囲の状況把握、判断が不正確になり、自立した生活が困難になっている人の状態」
■認知症をよく理解するための9大法則・1原則
(1)記憶生涯
記銘力低下=話したことも見たことも直後に忘れるほどの物忘れ。同じことを繰り返す
全体記憶の障害=経験したこと全体を忘れる
記憶の逆行性喪失=現在から過去に遡り忘れていく
(2)症状の出現強度
身近な人に対して認知の症状が出る
(3)自己有利
自分に不利なことは認めない
(4)まだら症状
正常な部分と認知症の部分が混在する
(5)感情残像
理性の世界から感情の世界へ
(6)こだわり
説得や否定はこだわりを強めるのみ
(7)作用・反作用
強く反応すると強く反ってくる
(8)認知症症状の了解可能性
老年期の知的機能低下の特性から全ての認知症の症状が理解、説明できる
(9)衰弱の進行
認知症の人の廊下速度は非常に速い
以上の法則を踏まえ、認知症の人の形成している世界を理解し、大切にする。その世界とのギャップを感じさせないようにするという原則を実践することが大切。
例えば(5)の法則を踏まえて、相手を褒める、感謝する、話の中で相槌をうつ、共感「よかったね」を付け加える、謝る、事実でなくても認める
(2)(6)の法則を踏まえて、こだわりの原因をみつけて対応する、そのまま放っておく、第三者に登場してもらう、 場面転換をする、地域の協力理解を得る、一手だけ先手を打つ、本人の過去を知る、長期間は続かないと割り切る・・・・
などなど、具体的な事例を元に研修は進んでいきました。
認知症の問題は、高齢者だけではなく、若年記に発症する事例も少なくありません。援助する側からいつ援助される側になるかも判りません。
認知症への正しい理解と対処、そして早期診断が大切であるということでした。
近年、平均寿命の急速な伸びによりライフサイクルの変化が顕著になっています。
例えば子育て後の期間(末子独立後、親は何年生きるか) をみると
■大正 男性 6.4年 女性10.6年
■現在 男性 24.3年 女性32.4年
ひとり世帯、夫婦ふたり世帯の増加、精神や身体に特に障害をもたず、元気で活動できる高齢者が増加しています。
また、要介護認定者の2人に1人、居宅にいる要介護認定者の3人に1人、施設に入る要介護認定者の8割は認知症が見られるということです。
「何らかの介護、支援を必要とする認知症がある高齢者(認知症自立度II以上)」は
2005年 169万人
2015年 250万人
2025年 323万人
となるという報告(『高齢者介護研究会報告』2003.6.26)もあります。
高齢化社会が幸福な社会をもたらす源になりますよう、心から願います。
今日の記事は 横浜刑務所とテニアン北飛行場 の続報記事です。
港南区役所に隣接する横浜刑務所敷地に「赤誠隊及図南報国隊殉職者碑銘」が祀られています。
これは、太平洋戦争直前、日本統治下のテニアン島などに飛行場建設を行なった所謂「囚人部隊」の慰霊碑です。 しかし、石碑の裏側には看守・職員11人の名が刻まれているものの、受刑者については全く触れられていませんでした。
それでは受刑者たちは何処に祀られているのか。
その場所を港南歴史協議会の皆様と訪ねてみました。
場所は日野公園墓地(横浜市港南区日野中央)に隣接した横浜刑務所受刑者合葬墓地区画です。
横浜刑務所受刑者合葬墓地区画へは、日野公園墓地の区画から斜面を下った先にあります。
鬱蒼とした杉木立の合間に墓石が並んでいます。
表面「(獄?)中死者之墓」
裏面「大正11年10月 神奈川縣監獄吏建立」
この翌年に関東大震災が発生します。
全体的に大きなひび割れを補修した形跡がありますので、大震災で壊れてしまったのでしょうか。
区画前の灯篭(灯篭は戦後建立)には
「世話人 大本山総持寺副監院 教誨師 海津良彦」 とあります。
新潟県楞厳寺の住職様でもあります。当時の横浜刑務所担当教誨師でいらしたのでしょう。
区画内にある「南方殉難者之碑」
表面「南方殉難者之霊」
太平洋戦争中重要ナ国策ヲ遂行スルタメ図南報告隊トシテ トラック諸島モエン島(舊名 春島)ニ於ケル構外作業ニ従事シ 絶大ナ功績ヲ残シツツ不幸中道ニシテ空襲ノ弾火ニ倒レ或ハ疫病ニ冒サレ異郷ニ散華セルモ南漠ノ地ニ假葬ノママ故国ニ葬ムルノ術ナカリシガ昭和四十七年十月漸ク遺骨収集団ノ派遣ヲ得テ遺骨ヲ千鳥ケ淵戦没者墓苑ニオサメ ソノ分骨ヲ此ノ地ニ埋ム 祖国ノ繁栄ヲ祈願シツツ孤島ニ殉ゼシ諸霊ノ苦難ヲ偲ビ其ノ冥福ヲ祈念ス
昭和四十八年十月六日 横浜刑務所長 倉見慶記
裏面
昭和十七年7月ヨリ昭和二十年十月マデノ現地死亡者四百四十二名ヲ合葬ス
横浜において南方で殉職、殉死した受刑者の合同慰霊祭を、教誨師会にやっていただきました。このとき私は涙が出ました。というのは、神仏各宗派の教誨師さんが、全員慰霊祭のときに般若心経を合唱してくれたわけでございます。これは宗派の違いを超えてやっていただきました。そして収容者の分骨された遺骨を改造された教誨室に数ヶ月間安置いたしまして、その墓地を教誨師会に作っていただきました。本来は国が作るべき墓地を大部分の施設では教誨師会の力で作っていただいたわけでございます。(『第30回近畿教誨師研修会記録』昭和57年11月より)
港南歴史協議会の皆様と、建立当時と同じ般若心経を読経し慰霊法要を営ませていただきました。
横浜刑務所受刑者合葬墓地区画の場所を1947年と2007年の航空写真で見てみます。
○の位置が浜刑務所受刑者合葬墓地区画です。
当時から森の中にひっそりと建てられていたことが伺えます。受刑者の墓地であるからなのでしょうか。
隣接する日野公園墓地側の墓苑区画は昭和40年前後に開かれました。
横浜刑務所受刑者合葬墓地区画が日野公園墓地の区域外であることと、道路の状況から、おそらく当時は鎌倉街道方面から参拝されたと考えて良さそうです。
港南区役所に隣接する横浜刑務所敷地に「赤誠隊及図南報国隊殉職者碑銘」が祀られています。
太平洋戦争直前、日本統治下のテニアン島などに飛行場建設を行なった所謂「囚人部隊」の慰霊碑です。
しかし、石碑の裏側には看守・職員11人の名が刻まれているものの、受刑者については全く触れられていません。
ここに、横浜刑務所とテニアン北飛行場、横浜大空襲、広島長崎原爆の一連の流れをまとめてみました。
横浜刑務所は、根岸にあった刑務所が関東大震災で被害を受け、また周囲の都市化が進んだため、現在の上大岡周辺地元の誘致を受けて現在の地(港南区役所の隣)に昭和11年5月竣工した刑務所です。
竣工してまもなく、日本が戦争へと突入する情勢の中で、南方へ受刑者たちを派遣することが決定されます。
国のため…信じた囚人 北マリアナ・テニアン島広島、長崎に原爆を投下した米軍B29爆撃機の発進基地テニアン。太平洋戦争直前、その飛行場建設に網走や札幌、函館各刑務所はじめ全国から約千人の「囚人部隊」が動員された。日本の南洋進出を担った北マリアナの小島は米軍占領後、本土空襲の拠点に転じる皮肉な運命をたどった。
1939年(昭和14年)、対米開戦をにらみ飛行場建設を急ぐ海軍の要請で、司法省は前例のない受刑者二千人の南洋派遣を決めた。テニアン島と、マーシャル諸島ウオジェ島の二島に各1000人。
戦時中の刑事行政をまとめた「戦時行刑実録」(矯正協会編)によると、道内の刑務所は網走の136人を筆頭に札幌30人、函館22人、旭川(支所)19人の計207人を選抜。刑期の残りが1年半以上ある約300人の希望者の中から、50歳以下で猛暑の重労働に耐えられる頑健な者に絞り込んだ。
予想外に南洋希望者は多かった。「罪人でなく、一兵卒として国のために働くことに誇りを感じたと思う。任務を果たして仮釈放の期待もあっただろう」。元札幌刑務所看守長で、著書「北海道行刑史」にテニアン派遣を記述した重松一義さん(77)=東京都府中市、元中央学院大教授=は言う。
厳寒の北海道を出発、横浜港発の輸送船で40年2月、上陸した。炎熱下の密林で巨木を倒し、砕いたサンゴなどを敷いて舗装した。
網走勢は人数も多く、美幌飛行場建設の経験から手際の良さは群を抜いていたという。当時小学生の宜野座朝憲(ぎのざちょうけん)さん(77)=那覇市、沖縄テニアン会会長=は、遠くから受刑者を見た。「粗末な小屋が並び、網走の重罪人がいると父から聞いて子供心にどきどきした」
集団赤痢や腸チフスで24人の死者を出しながら、飛行場は真珠湾攻撃直前の41年10月、完成した。
(北海道新聞より)
昭和6年9月18日満州事変が勃発、上海事変、日華事変へと日本を取り巻く状況は戦時体制一色に染められてていきました。
横浜刑務所においても、他の刑務所と同様に軍服の肩章、暴雨外套、敷布、軍用石鹸等の軍需製品を主に海軍から受注して大量に生産していました。
また、構外作業として飛行場建設といった大規模なものが、全国から受刑者を集めて行なわれました。
横浜刑務所では、昭和13年7月から4ヶ月間北海道網走郡の飛行場建設作業に30人を派遣しています。
しかし、横浜刑務所の特筆すべきところは国内のみならず、南方の島に職員・受刑者を派遣しているということです。横須賀海軍鎮守府に近いということが理由です。
昭和14年10月、司法省は横浜刑務所を拠点として、全国から受刑者を集め、受刑者2000人の南方諸島・テニアン、ウオジェ両島飛行場等の建設作業への派遣出役を決定します。
派遣部隊は「南方赤誠隊」と命名されました。
全国からの受刑者の結集後、
昭和14年12月18日ウオジェ島へ先遣隊(職員9名・受刑者20名)
昭和14年12月22日テニアン島へ赤誠隊(職員56名・受刑者300名)
昭和14年12月22日ウオジェ島へ赤誠隊(職員43名・受刑者300名)
以降、両島にはそれぞれ約1000名が派遣されています。
両島における作業は南方の灼熱、繁茂する密林、高低差の激しい地形、数々の風土病といった悪条件下のものであり、その中で職員・受刑者を問わず赤誠隊一丸となっての突貫工事でした。
ウオジェ島は昭和16年1月16日に就業延人員284,180名をもって、テニアン島は昭和16年10月23日に就業延人員387,807名を持って全工事が竣工。両島の工事期間中に病気・事故等で職員10名、受刑者50名が犠牲となりました。
この犠牲者を弔うため昭和17年11月21日、横浜刑務所において赤誠隊及び図南報国隊の殉職者11名の合同慰霊碑が旧庁舎正門前に建立され、岩村司法大臣、中尾刑務所長の参列により序幕慰霊法要が営まれました。
それが冒頭の石碑です。
(左)炎天下、広大な飛行場用地を手作業で整地する「囚人部隊」=『日本行刑史散策』から
(中)テニアン北飛行場の現在。ジャングルの中に東西に貫く4本の滑走路が見えます。kameno撮影
(右)砂を敷詰めた2500m級の滑走路。エノラゲイはここから飛立ちました。kameno撮影
サイパン・ウオジェでの工事竣工後、トラック島への派遣要請により、トラック島春島図南報国隊と名を変えましたが、昭和16年に勃発した太平洋戦争の局面悪化で本国から次第に孤立し、凄惨な状況に追い込まれます。
昭和19年にはトラック島からの帰還船が米国の魚雷攻撃を受け撃沈、トラック島への大空襲により作り上げた滑走路、宿舎等は損壊、焼失。赤誠隊、図南報国隊員として南方に派遣され、その地に倒れた刑務官は40名、受刑者は442名にのぼり、その大半の遺骨はトラック島に仮埋葬されました。
日本の大きな誤算は、太平洋上での主力艦隊同士の一大決戦によって勝敗が決すると信じていたことであると思います。
従って、南洋の小島の防備が後手に回されてしまいました。
一方、連合軍は先ずは海兵隊を駆使して南洋の小島を制圧し、その飛行場拠点として日本本土に攻撃を行なう作戦を重点的に行ないます。
これにより、南洋群島では太平洋戦争後半において連合軍の上陸を許す結果となり、サイパン・テニアンの飛行場から日本各地への空襲の拠点となってしまいました。
B29が並ぶサイパン・アイズリー飛行場・CC:Wikiペディア
折りしも、あと数日で横浜大空襲の日、5月29日を迎えます。
横浜は日本各地に比べてかなり遅い時期に空襲が始まっています。
しかし、それは歓迎すべきことではなく、横浜が原子爆弾投下の候補地となっていたために空襲が行なわれなかったという、ただそれだけの理由に過ぎません。
1945(昭和20)年5月10日に行なわれた第2回目標選定委員会での原子爆弾の投下目標は下記の通りでした。
1.京都市:AA級目標
2.広島市:AA級目標
3.横浜市:A級目標
4.小倉市:A級目標
横浜大空襲は1945(昭和20)年5月29日に始まります。
理由はその前日に行なわれた第3回原爆投下目標標選定委員会で横浜が目標から外されたことによるものでした。
横浜大空襲も、1945(昭和20)年8月6日広島へ、8月9日長崎へ落とされた原子爆弾も横浜刑務所からの「赤誠隊」により建設された飛行場を拠点として行なわれました。
生き残った「赤誠隊」の方たちはどのような気持ちでこの報道に向かい合ったのでしょうか。
原子爆弾はテニアン島でB-29に搭載され、広島と長崎に投下されました。
・・・横浜刑務所の「赤誠隊及図南報国隊殉職者碑銘」は、敗戦後「戦争協力の責任を問われる可能性のある文書、証拠の物品」の一として連合軍の進駐を配慮し、砕かれ地中深く埋められてしまいました。
約20年の時を経て、昭和39年6月石碑は再び掘起こされ補修復元の上、再慰霊祭が行なわれました。
冒頭の石碑の写真随所に見られる大規模な補修跡、上部左が欠けた姿・・・・・砕かれ地中に埋められていたことを生々しく物語っています。
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神聖なる平和の灯火
広島原爆の日に
原爆投下の日に
蓮は仏教を象徴する植物として珍重されます。
蓮は泥より出でて泥に染まらず
植物は自分では自ら動いて汚れを拭い去ることが出来ないため、清浄を保つ様々な工夫をしています。
その工夫の一つが葉や花の表面に施されている微細構造です。
さらに表面の化学的な特性とが相俟って、降った雨は真ん丸な水滴となります。
水滴が花や葉の上で汚れを絡め取りながら転がっていくことにより表面を綺麗に掃除していくのです。
雨模様の境内を巡って、この大自然の智慧を写真に撮ってみました。
雨の日の植物たちは美しく映えます。
単に水の反射だけで光っているのではなく、汚れが流され本当に綺麗になっているのです。
綺麗になった表面に表面張力で真ん丸になった水玉が飾られキラキラと輝きます。
これをロータス効果といい、建物の屋根や車、衣料品などの撥水加工として応用されています。
太陽光発電パネルの表面を特に掃除しなくても、雨により汚れが流され発電効率が保たれるのも、このロータス効果の一つです。
(CG by William Thielicke・Wiki pediaより)
大自然の智慧に学ぶことは際限なくあります。
国が変れば仏教のスタイルも変ります。
例えばお釈迦様の誕生を祝う「釈尊降誕会(花まつり)」一つをとっても、行なわれる日付や法要の形態は同じ仏教とは思えないほどです。
北伝仏教の伝来した地方では、一般に釈迦の誕生日は中国暦4月8日とされているが、その典拠は必ずしも明らかではない。
インドと基本的に同系統の暦を用いる南伝仏教圏では、釈迦の誕生日はインド系太陽太陰暦第2月15日(ウェーサーカ祭)であるとされている。
インド暦の2月は中国暦の4月から5月に相当するため、中国暦4月に翻訳されたと考えられている。また、法顕の仏国記には「建卯」月の8日または1日から15日にかけて、グプタ朝治下のインド各地で祝祭が行われていたとある。
中国語で「卯の月」とは春分を含む月であり、インド暦の正月祭(例えばタイにおけるソンクラーン)が起源である可能性もある。
現在においては、正月などの他の伝統行事と同じように、日本と日本以外の全ての東アジア圏や世界各地の華人社会とで日付の慣行が全く異なる。
日本では、グレゴリオ暦4月8日、または寺院によっては同5月8日(月遅れ)を灌仏会とするのが一般である。他方、日本以外の東アジア圏や華人社会ではこのようなグレゴリオ暦への読み替えという考え方は存在せず、従来通り中国暦4月8日をもって灌仏会とする
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
台湾での国定佛誕灌仏会は、「千僧万衆祝仏誕、一心十願報母恩」(千僧万衆が仏陀の生誕を祝い、10の心願にて母に報恩する)ということで、母の日と融合して行なわれています。
したがって、ウェーサーカとも建卯8日とも関係無く、5月第2日曜日開催となっているのです。
それにしても、凱達格蘭大道(全長400m両側10車線)を埋め尽くす僧侶と参列者・・・圧倒的な迫力ですね。
(国定佛誕灌仏会・浴佛節)での般若心経
世界各地での般若心経読経法は先日ブログ記事にしたとおりですが、この台湾での般若心経は、原文が日本と同じですから耳に馴染みます。
台湾の人口は約2300万、そのうち約1000万人が仏教信者と言われています。
仏教信者の数は、20年で倍増しました。
その要因としては
「中国の台頭などで先行き不安感も出ており、心の安寧を仏教に求めている」
「社会構造の変化や高齢化」
などがあるといいます。
法要の行い方、信徒がどのように参列されているのか、情報発信の仕方・・・・大いに学ぶところがありますね。
即心会研修-佛光山寺
台湾仏教を担う尼僧たち
世界を巡る般若心経
第11回ゆめ観音アジアフェスティバル報告(2)
ゆめ観音2007報告(2)
ブッダもキリストも誕生日は分からない
梅に疲労軽減効果 県が共同研究で実証和歌山県は26日、産学官の共同研究で、梅果実成分の肉体疲労軽減効果を実証したと発表した。梅由来のクエン酸と梅酢ポリフェノールの併用摂取で効果が高まることも分かった。県は「梅の効能を裏付けることで、売り上げ増につなげたい」と話している。
共同研究は文部科学省の補助事業。県工業技術センター(和歌山市)とサッポロ飲料(本社・東京)、近畿大学生物理工学部(紀の川市)で行っている。
実験は梅干し製造時に生成する梅酢から取り出したポリフェノール、クエン酸、その両方を含む飼料の3種を3週連続でマウスに与え、それぞれ遊泳時間の変化を調べた。
どの飼料でも1、2、3週すべての時点で、遊泳時間が通常のマウスを上回った。中でもポリフェノールとクエン酸併用摂取の効果が最も大きく、2週目で通常の1・2倍を超えた。
梅は古くから健康食品とされており、サッポロ飲料が2007年に行ったイメージ調査でも7割が「梅は健康に良い」と回答した。しかし、効能を数値化した例は少なく、今回の実証は意義が大きいという。
中でもこれまで廃棄対象だった梅酢は、安全性の高い新素材として活用が広がる可能性が高まった。県産業技術政策課は「新しい加工品への活用はもちろん、既存の梅干しや梅酒にも健康情報を付与することで、梅産業全体の活性化になる」と期待している。
サッポロ飲料は「30年以上、和歌山産梅果汁の飲料を販売している。直ちに新商品を投入できるわけではないが、共同研究を継続し、梅成分と疲労軽減のメカニズムを解明したい」と話している。
(紀伊民報 4月27日)
寺院の境内には梅がよく植えられています。
単に花を愛でるというだけではなく、その実が実用的であるという理由もあるでしょう。
遠くからお越しいただいたお客様をおもてなしするために「梅湯」をお出しします。
梅湯とは、蜜湯に、割り箸に挟んだ梅干を添えたものです。
単に飲み心地が良いというだけではなく、疲労を癒す効果があるということが実証されたようです。
永年培われた智慧でもありますね。
昨日GlyphWikiについてブログ記事を書きましたので、漢字の元素周期表を作成してみました。
マウスを文字に合わせると元素記号と名前が表示される仕組みにしています。
1A | 2A | 3A | 4A | 5A | 6A | 7A | 8 | 1B | 2B | 3B | 4B | 5B | 6B | 7B | 0 | |||
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | |
1 | ||||||||||||||||||
2 | ||||||||||||||||||
3 | ||||||||||||||||||
4 | ||||||||||||||||||
5 | ||||||||||||||||||
6 | L |
|||||||||||||||||
7 | A |
Uut |
Uuq |
Uup |
Uuh |
Uus |
Uuo |
|||||||||||
L | ||||||||||||||||||
A |
金属には「金偏」、非金属には「石偏」
常温で気体の元素には「气」、
常温で液体となる元素には「水偏(さんずい)」や「水」がついています。
周期表を漢字で眺めてみると新たな発見もあります。
漢字は素晴らしいとつくづく感じます。
※原子番号 105番 ? 108番 は、昨日のブログ記事で紹介した拡張文字コードを使用しないと表示されません。
※漢字の画像元はGlyphWik より引用しています。
※個人的感想ですが、原子番号 112番 は、漢字の要素に「水」を入れておくべきだったんじゃないかなぁ・・・
この春、『リコールを起こさないソフトウェアのつくり方』が技術評論社より出版されました。
出版元の技術評論者様より献本いただきました。
リコールを起こさないソフトウェアのつくり方
(組込みプレスSelection) (単行本(ソフトカバー))出版社: 技術評論社 (2010/3/19)
ISBN-13: 978-4774142166
内容紹介
さまざまな電子機器がソフトウェアで制御されるようになった昨今、トヨタのハイブリッド車プリウスのブレーキ問題をはじめソフトウェアが絡んだリコールが年々増加しています。ソフトウェアは見えないだけに、何がどのようにして問題を起こしているのか簡単には解明できません。
本書では大規模、複雑化したソフトウェアにどのようにして問題が入り込むのかを実例をもとに解き明かし、日本のソフトウェアプロジェクトにフィットしたマネージメント技術および、ソフトウェアの品質と開発効率向上の両立を実現するためのソフトウェアの資産化の技術を解説します。また、付録で「MISRA SA;MISRAソフトウェア安全解析ガイドライン」の概要を紹介しています。
『リコールを起こさないソフトウェアのつくり方』目次
Part1 ソフトウェアの危うさの本質を体感してみよう
Chapter 1 ソフトウェアの危うさを知ろう
Chapter 2 危ないソフトウェアのプログラム例とケーススタディ
Chapter 3 ソフトウェアはなぜ危ないのか
Chapter 4 ソフトウェアの品質を高く保持するために
coffee break アメリカ人と日本人
Part2 日本的ソフトウェアプロジェクトの管理はここから
Chapter 5 ソフトウェア開発の理想と現実
Chapter 6 日本のソフトウェアプロジェクトに求められる取り組み
Chapter 7 ソフトウェア構成管理
Chapter 8 ソフトウェア変更管理
Chapter 9 レビュー
coffee break 問題解決能力:自ら考え行動する力
Part3 ソフトウェア資産化の技術がリコール防止につながる
Chapter 10 ソフトウェア開発のプラットフォーム
Chapter 11 ソフトウェアシステムとソフトウェア搭載機器の価値
coffee break 3 ものづくり戦略とソフトウェア品質:品質=Qualityの話
Chapter 12 再利用資産を抽出するためのアプローチ
Chapter 13 再利用資産を抽出する手順
coffee break 4 UML導入のススメ
Chapter 14 再利用資産の抽出のケーススタディ
Chapter 15 再利用資産の抽出後のアプローチ
coffee break 5 テストカバレッジ
Chapter 16 安全性が求められるシステムに対するアプローチ
Chapter 17 安全アーキテクチャの検討
Chapter 18 ソフトウェアを資産化して品質と開発効率を高める
この本の中のChapter 17 「安全アーキテクチャの検討」で、当ブログの一部が引用されています。
どこで繋がりがあるかわかりませんね。
ところで、この本はトヨタ・プリウスのリコール問題をはじめ、最近話題となっているテーマについて技術的に掘り下げ纏め上げられている本です。
ソフトウエア開発にかかわる技術者のみならず、さまざまな分野で応用できる本だと感じます。
本屋さんにも並んでおりますので、是非お手にとって読んでみてください。
コーヒーブレイクとして「アメリカ人と日本人」
・・・日本の製品が欧米の製品より高品質なワケ・・・・・・
このような本の合間合間にあるコラムもとても面白いですよ。
貞昌院のライブカメラに使用しているMaxellのWS30が時々きまぐれな作風の画像を作り出しています。
しばらく調子が良かったのですが、ここ数日、また「きまぐれ」を起こすようになりました。
色数を大胆に落とし、色が変わる部分に墨線が入る技法を用いた画法をリーニュ・クレール様式という。 現代的な浮世絵とも解釈され、日本ではEIJIN、わたせせいぞうが有名である。
点の集合や非常に短いタッチで表現する画法を点描法という。 印象派による鮮やかな色の配列の視覚混合をフランスの画家、ジュルジュ・スーラがさらに追求し、点描主義(新印象派)を確立、ポール・シニャックやカミーユ・ピサロらを生み出した。 水墨画では、米芾や米友仁による、水墨の点を集合させて表現する米法山水が有名である。
緑と黄色から成る方形の「コンポジション」といえる。 この画風は抽象表現の実験が続く中でモンドリアンによって生み出された。水平と垂直の直線のみによって分割された青・赤・黄の原色を用いたモンドリアンの作品群が知られる。
■関連ブログ記事
今月10日に発売された『トイレの神様』がちょっとした反響を呼んでいます。
植村花菜さんの、小学生の頃おばあちゃんと暮らしていた実体験を元に実体験を元に書き下ろられた曲です。
おばあちゃんからプレゼントされた
トイレには それはそれはキレイな 女神様がいるんやで
という言葉が印象的です。
きっと、2010年を代表する曲の1つになるのではないでしょうか。
余談
お寺にも烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)という『トイレの神様』がいらっしゃいます。
インドの火の神アグニが元であるとされ、大威力烏枢瑟摩明王経などにも説かれています。
禅寺では、トイレのことを東司(とうす)といいます。
その東司を守護しているのが烏枢沙摩明王なのです。
曹洞宗の開祖、道元禅師の著された『正法眼蔵』にも東司で用を足す際の心得、作法が詳細に記されています。
両辺を汚すことなかれ 前後にそましむることなかれ 『正法眼蔵』「洗浄」
東司も修行道場・七堂伽藍の1つであり、ここを大切に使用し、清浄に保つことも修行であるのです。
次のような川柳を掲げているお寺様もありました。
急ぐとも 外にこぼすな 玉の露 吉野の花も散れば見苦し急ぐとも、心静かに手を添えて、外に漏らすな松茸の露 (詠み人知らず)
修行道場を訪ねた際には、是非『トイレの神様』を探してみてください。
昨年、山手線にチョコレート色の電車が走っていました。
これは品川駅でその電車に出会った際にケイタイで撮影したもの。
明治製菓と山手線100周年のコラボレーションだったようです。
山手線は「まあるい緑の山手線♪」というように、緑色というイメージが強いのですが、1909年から始まる歴史を Wikipedia などで調べてみると緑色の時代というのは意外と短いことがわかります。
山手線の色の変遷を右の図にまとめてみました。
歴史の半分以上がチョコレート色(正確には葡萄色)ですね。
このように昭和30年代まではチョコレート色が残っていたようです。
恐らくは東京オリンピック開催も決定し準次新型の電車に置き換えられていったのでしょう。
流石に昭和30年代のチョコレート色の山手線は見たことがありませんでしたが、私が小学生の頃は横浜線や南武線、鶴見線などにもまだまだ残されおりました。
冷房など無く、天井の扇風機が車内の空気をかき回していたり、走っているときのモーターの音が「ガガガガガッガガ?」と五月蝿いうなり声を上げたりして、その人間くささが好きで、電車待ちをしていてチョコレート色の電車が来ると内心とても嬉しかった記憶があります。
ということで、久し振りにチョコレート色の電車に出会って昔の思い出が蘇りました。
今の電車は性能はよいのでしょうけれど、乗ってワクワクするようなものってあまり無いような気がします。
涅槃会では、お釈迦様の入滅の様子を描いた「涅槃図」を掲げたりします。
このように、宗教的な物語のある絵画を「説話画」といい、その「説話的絵画」に描かれている内容を解き語ることを「絵解き」といいます。
2月15日の涅槃会に向けて、涅槃図を眼にする機会があると思います。
涅槃図は基本的な決まりごとがあり、その基本から派生した様々なバリエーションがあります。
いくつかの基本を押さえた上でご覧いただくとさまざまなことが見えてくると思います。
涅槃図は、お釈迦様が誕生されてから入滅されるまでの、いわゆる「八相」のうちの涅槃(入滅)を主題としています。
ブッダガヤの菩提樹の下、悟りを開かれ(成道)後45年間に亘る各地での説法を終え、いよいよ死期を迎えたお釈迦が沙羅双樹の下に牀座を設け、静かに臨終の時を迎る情景です。
■入滅されたのは旧暦2月15日とされますから、上空には満月が描かれます。
■空には忉利天から降下した釈尊の生母、摩耶夫人がお釈迦様をお迎えに表れます。
■牀座の周囲には八本の沙羅の木。これは八正道を表すとされています。
■沙羅の木は時期はずれの花を咲かせ入滅を悲しみます。項垂れている花が鶴ににていることから鶴林という語が生まれました。
■沙羅の木には釈尊の使用した鉢とも、水を入れた革袋とも言われる袋が掛けられています。
■沙羅双樹の向こう側にはクシナガラの熙連河が描かれます。
■釈尊の入滅を悲しむ弟子、菩薩、羅漢たち。釈迦の足に須跋陀羅(註)尊者が手を掛けます。気絶して倒れているのは阿難尊者。一比丘が水を注ぎます。
■動物たちや虫たちも集まり悲しみに暮れます。描かれる動物たちは時代により変化していきますが52種類(五十二衆)というのが基本となります。
描かれている動物たちの中で「猫」が描かれていないということがよく話題に上ります。
大抵の涅槃図には猫が居ません。
理由は諸説ありますが、室町時代以前は猫は魔物扱いされ、涅槃図に描かれる五十二衆の中に含まれることがありませんでした。
ただ、こういうものには必ず例外があるもので、室町時代初期の禅僧・吉山明兆の描く涅槃図には大抵猫が描かれています。涅槃図を仕上げている時に一匹の猫が近寄ってきて、涅槃図に猫が描かれないことを哀れんで、自らの筆による涅槃図には猫を描いたということです。
また、昨年の市仏連涅槃会の会場となった戸塚区R寺様の涅槃図にも猫が描かれています。
こちらは菱川師宣によるものだそうです。
⇒戸塚区R寺様のブログ「さんぜ通信」にリンク
涅槃図を見るにつけ、謎解ときを交えながら、その描かれた背景に思いを馳せることにより仏教への親しみも深まっていくのではないでしょうか。
いくつか謎を箇条書きにしてみます。
是非調べてみてください。
★お釈迦様は北枕であったのか。そうであれば何故か。
★沙羅双樹の沙羅の花ってどんな花か
★十大弟子(舎利弗、摩訶目犍連、摩訶迦葉、須菩提、富楼那弥多羅尼子、摩訶迦旃延、阿那律、優波離、羅睺羅、阿難 諸尊者)は何処にいらっしゃるか
★涅槃図には阿那律尊者が二重に描かれている。何故か。
★お釈迦様が入滅される原因となった、純陀がお釈迦様に供養した食べ物は何か。
★牀座に泣き伏しているのは誰か。
★気絶した阿難尊者を介抱しようとしているのは誰か。
★お釈迦様の足が汚れている理由は何か。
★老女と須跋陀羅尊者が似ているのは何故か(上記註)。
★菩薩、羅漢たちの種類は?
★動物たちがお釈迦様の元に到着した順番は?
★動物・虫の種類は時代により経典によりどのような違いがあるか。
などなど。
一つの絵から派生する興味は尽きないですね。
お釈迦様が入滅されて2500年。
肉体は滅びても、その教えは世界各地で受継がれて生かされています。
今日の定例坐禅会にも多くの参加をいただきました。
この時間、大分明るくなってきました。
日の出の時刻が段々早まっていることが実感できます。
■関連ブログリンク
みんな読んでるか?い? (つらつら日暮らし)
涅槃図 (tera日記) ※こちらにも涅槃図に猫が描かれています
今月末より貞昌院本堂室中に江戸時代この永谷の地に立てられた高札を展示しています。
この高札は、元々は下野庭にある旧家の物置にあったものですが、維持していくことが難しくなったため、貞昌院で保管展示を引き受けることになったものです。
古いものであるため、虫食いの穴が随所に見られます。
このような貴重な文化財は、家主が代替わりする度に散逸の危機にさらされます。
地域が一体となって文化財を保存を行なう取組みをしていかないと後で取り返しがつかないことになってしまうでしょう。
地域に伝わる文化財の大切さを啓発し次世代へ受継ぐために多くの方にご覧頂きたいと思います。
高札に書いてある内容は以下のとおりです。
大津御預役所高札近頃浪人ども水戸殿浪人 或は、新徴組などと唱え ところどころ身元よろしきものども 攘夷の儀を口実に無心もうしかけ、その余り公事出入り等に携わり かれこれ申しおどし、金子、差し出させ候たぐい これあり候ところ、おいおい増長におよびみだりに勅命などと申し触れ、在々農民を覚類に引入れ候たぐいもこれあるやにあい聞え 今般御上洛、仰せいださる折がら捨ておきがたくこれにより以来、御料、私領、村々申し合せおき、帯刀致しおり候とも浪人体にて怪しく見受け侯分は容赦無く召し捕りて、手向いいたし侯わば切り殺し 候とも打ち殺し候ともいたすべく旨 仰せいだされ候あいだ、悪事に携わざる者どもはそうそう旧主へ帰参の儀、あい願い神妙に奉行いたすべし、もし悪事に携わり或は子細これあり旧主へたち戻り難き分は、ありていに、訴いいずべく候とも始末に応じ罪を免し又は難儀相成らざる様、取りはからいつかわすべく候
万石以上、以下ども用向きこれある家来、旅行至させ候らわばその度々きっと道中奉行へあい達し先ぶれ差し出すべく、領分知行よりまかり出で候もの共も先ぶれ差し出しいずれもこの程、相触れ候とおり調印の書付をもって関所にて、相通すべく、万一先ぶれ差し出されず、旅行いたし或は旧主へ帰参もいたさず召し捕らわれ候せつに至り手向いいたし、切り殺され侯らわば、其の身の不念に候あいだ、其の旨存ずべく候右の通り
公儀より仰せいだされ侯あいだ村々取締らず、これ無き様堅くあい守るべく者也亥 大津
十二月 御預役所
この高札は、江戸時代独特の文体で書かれています。
内容は十四代将軍徳川家茂が将軍として229年振りに行った御上洛のため、街道筋の治安を強化するために出されたものと考えられます。
人々は旅行することを控え、村から勝手に移動してはいけない。
浪人の取締りを厳しくすること、もしも悪事などを行なって村に戻れない場合には役所に届ければ便宜を図る、などが書かれています。
三代将軍徳川家光以来十三代までの長い間、将軍が京都へ行くことはありませんでした。
当時の上洛とは将軍とともに重要書類全てを運び込み、幕府そのものが移動する程大変なことだったようです。
高札が建てられたのは1863(文久3・癸亥)年、御上洛が行なわれたのは1864(文久4)年ですから、御上洛の一年前から鎌倉の片田舎、現在の上永谷周辺にまで高札が立っていたということは、いかに御上洛の警戒が厳しかったかが良くわかります。
(参考文献『お母さんが伝えるふるさと下野庭』 昭和63年発行・しものば郷土史編集委員会編)
昨晩何気なくテレビを見ていたら、NHKの番組『爆笑問題のニッポンの教養』で三浦公亮先生が出演されていました。
三浦先生の考案したミウラ折りはさまざまな分野で応用されています。
例えば大きな紙に印刷されている地図は、どのように折りたたむかによって使い勝手が大きく変わってきます。
これを一瞬のうちにたたみ、使うときに開くことができる便利な折り方、それがミウラ折りです。
一瞬で開くことができ、畳むときも一瞬。そして、折り目を南北に合わせることもできますし、折り目が破れにくく構造上も安定しているので開いたときに読みやすい。
お守りの中に納められた経典のようなものにも応用できます。
チューハイの缶にもこの折り方が見られます。
この缶は単に持ちやすさのために折り目がつけられているのではなく、アルミ缶のもつ「ふにゃふにゃ感」を、構造的に補うという役目も果たしています。
缶を開ける前には炭酸の圧力で折り目が出ていませんが、缶を開けると圧力が抜けてミウラ折りの形に変化します。
地図の折り方や、チューハイの缶のほかに太陽系探査衛星「はるか」のアンテナ、スペースシャトルのソーラパネル、宇宙船の構造物(PCCPシェル)としても応用されています。
宇宙に運ぶロケットの中では小さく折りたたまれていて、宇宙空間でそれを広げるというわけです。
具体的な折り方は、太陽系探査衛星「はるか」のVSOP計画に携わっていた私の弟(亀野誠二)のサイトに詳しく紹介されています。
⇒地図をミウラ折りにしてみよう
是非紙を広げて試してみてください。
ミウラ折りに表れるパターンは、基本的に4つの平行四辺形が繰り返される「二重波形可展面」となります。
三浦先生は、円筒形の紙の筒の端を机にぐしゃりと押しつぶしたときに表れるパターンから研究を深め、ミウラ折りの原理に辿りつきました。
(c)NHK
潰れて、一見ぐしゃぐしゃになった状態から、構造的に安定するパターンを導きだしているところが素晴らしいですね。
誰でも日常的に見る何気ない現象の中から着想しそれを発展させるという発想力の賜物といえます。
しかし、当初はその有意性について気づくものはほとんどいなかったそうです。
20年以上の時を経て缶のデザインに応用され世に出されるきっかけとなったのも、開発していた東洋製罐の技術者が研究室に置かれていたミウラ折りの紙の筒をみたことによるものです。
試行錯誤を経て「ダイヤカット缶」として製品として世に出されることとなりました。
それにしても、日本の技術力は凄いものです。
一度作った折り目を再び折り返す伝統的な「折り紙」の手法を円筒形の缶に応用し、量産化することを実現したのですから。
チューハイの缶には、隠されたいくつかの数学的なトリビアもあります。
・缶につけられた菱形のパターンは一周いくつになっているか。それは何故か。
・缶を開けたときに折り目に沿って折りたたまれるが、印刷された模様が歪まないようになっている。どのような工夫がなされているか。
・缶を開けたときに折りたたまれるので、容積が小さくなるはずであるが、どの程度小さくなるか。
考えながらチューハイを飲むと、良い酒のつまみになるかもしれません。
それにしても、大自然の中では既に何億年も前からミウラ折りの原理が使われています。
木々の新芽の中に折りたたまれた若葉、昆虫の羽根・・・・・
このような智慧の一部に、私たちがようやく気づきはじめたというところでなのしょう。
(左)セミの羽化。貞昌院境内で撮影。羽がだいぶ伸びてきました
(右)太陽系探査衛星「はるか」。宇宙空間でアンテナを伸ばします
今月(2010年1月)は様々な天体現象が目白押しです。
主なものは
1月1日 部分月食
1月15日 金環日食(西日本では日没帯食)
1月25日 プレヤデス星団(すばる)食
1月30日 今月2度目の満月(大きな満月)
月は地球の周りを、地球は太陽の周りを回っています。
太陽?月?地球 となるときに新月
太陽?地球?月 となるときに満月
となるということを単純に考えると、新月のたびに日食、満月のたびに月食となりそうなものですが、実際にはそうなりません。
折角ですから、なぜそうならないかということの説明をワードで図として作ってみました。
月が地球の周りを回る軌道は、地球が太陽を回る軌道よりも約5度傾いています。
また、地球からの太陽・月の見かけの大きさは、約0.5度(10円玉を腕いっぱいに伸ばして眺めた程度)です。
日食、月食はそれぞれ3つの天体がほぼ一直線(例えば日食は見かけ上約0.5度の範囲内)に並ばないと起きませんから、新月ごとに日食にならず、満月ごとに月食にならないということになります。
地球から見た見かけの太陽の軌道を「黄道」
地球から見た見かけの月の軌道を「白道」
といい、これも当然約5度の軌道面の傾きがあり、それが交わる点を「昇交点」といいます。
日食、月食は「昇交点」付近で起こることになります。
上図でいえば「昇交点」は地球が公転軌道上「A」の位置関係に来たときですね。
このときに月が満月であれば月食が起こりますし、新月であれば日食が起こります。
すなわち、地球の公転と月の公転に関する数字の最小公倍数が、日食、月食周期に関係してきそうだということがわかります。
地球から見た太陽が昇交点から昇交点にもどる周期は 346.6201日 (これを1食年といいます)
新月から新月(あるいは満月から満月)までの周期は 29.530589日 (これを1朔望月といいます)
ですから、この2つの最小公倍数は、ほぼ食年の19倍、朔望月の223倍となります。
19 食年 = 6585.782日
223 朔望月 = 6585.3212日
6585.3212日 = 6585日+0.3212日 = 18年11日7時間42分32秒 (うるう年の関係で18年10日7時間?の場合あり)
この周期で日食、月食が起こることになります。
これをサロス周期といい、アッシリア時代には既に知られていた周期であります。
ここでポイントはサロス周期の約8時間(1/3日)のずれです。
地球上のある地点で日食(月食)が見られたとして、その18年11日後には約+8時間のずれのため地球の経度で約120度ずれたポイントに日食(月食)帯があらわれます。
3サロス周期経つと、同じ地点にもどってきますので、昨年の南西諸島一帯で見られた日食は1サロス周期後には経度120度ほど離れた場所で同様の日食が見られますし、3サロス周期後には2009年と同じ地点で同様の日食が起こることになります。
実際にはサロス周期は1つだけでなく、地球全体で日食・月食ともにおよそ40もの系が同時進行しています。
逆に考えれば、 1サロス周期の間に地球上のどこかで日食・月食が概ね40回程度起こるということです。
その確率として、1サロス周期あたり
日食:皆既日食は11?14回、金環日食11?15回、金環皆既食0?3回、部分日食11?17回
月食:皆既月食が13?17回、部分月食が9?15回、半影月食が13?17回
となります。
さて、今月のこれからの天文現象に話を戻します。
まずは1月25日の すばる(プレヤデス星団)食。
「風の中のす?ばる?」
冬の夜空でひときわ目立つおうし座の散開星団、すばる(プレアデス星団=M45)を月が隠します。
このように月が背後の星を隠す現象を恒星食といいますが、すばる食に関しては、数年前から度々起こっていました。
サロス周期の関係で、18?19年程の周期で起こりやすい時期が巡ってきます。
1月25日はその周期の最後のすばる食です。
今回を最後に、2024年まですばる食は見られません。
双眼鏡程度で充分楽しめますので晴れていれば冬の夜空を見上げてみることをお勧めします。
Stella teaterですばる食を観測地点横浜としてシミュレーションしてみました。
もう一つ、1月30日 今月2度目の満月です。
月は楕円軌道で回っていますので見かけ上の月の大きさは変わります。
1月30日は一年の中で再も地球に接近します。
また、地軸が傾いていることにより、冬の太陽は低く、その反対側にある満月は高い位置に来ます。
さらに冬晴れの天気となれば、夜空にひときわ大きく、明るく、高く輝く満月が望めること間違いありません。
特別な満月となります。
蛇足
逆に、低い満月(正確には満月ではない)を愛でるのが中秋の名月です。
■おすすめの本
『天体観測の教科書 星食・月食・日食観測編』―天文アマチュアのための (単行本)
広瀬 敏夫 (編集), 相馬 充
価格: ¥ 2,310
『Total Solar Eclipses and How to Observe Them』 (Astronomers' Observing Guides)
Martin Mobberley (著)
価格: ¥ 2,882
今年は元日早々から月食を見ることができました。
その次の新月の日、1月15日には今度は日食を見ることができます。
しかも、この日食は今世紀最大の継続時間をもつ金環食となります。
金環食を見ることができる範囲は中央アフリカからモルジブ、ミャンマー、中国の青島を通る地帯です。
日食の継続時間は実に最長11分8秒となります。
(インド洋におけるシミュレーション:Stella teaterにより作成)
日食帯の西端である青島では、金環日食が終了した状態で日が沈んでいきます。
残念ながら日本では西日本で部分日食をみることができるだけとなりますが、それでも一ヶ月の間に月食と日食が見られることになります。
さて、ここで次なる興味は、日本で何処までの範囲で部分日食を眺めることができるかということです。
日本付近の日食図をもう少し詳細に計算してみると・・・・・
(上図はパソコン上で行なった計算ですので多少の誤差はご了承ください)
関東地方西部が限界のようですね。
条件がそろえば、もしかしたら見ることができるかもしれません。
神奈川県での日食欠けはじめの時刻は16時48分ですから、この時刻に太陽を見ることができれば、部分日食を見ることができるということになります。
とりあえず、見ることができた場合の状況をシミュレーションにて
追記
昨年も東南アジア地域で1月に金環日食がありました。
しかも、旧暦の元日に日食となる特別な日食でした。
(今年の日食は旧暦では12月1日です)
追記2
再来年(2012年)には関東地方でも金環日食が見られます。
その時を楽しみにしていましょう。
『市史通信』第6号(2009/11/30 横浜市史資料室発行)に興味深い記事が出ていました。
「1935年神奈川県名勝・史蹟投票」です。
全文はこちらで見ることが出来ますので併せてご覧ください。
名勝史蹟四十五佳選 (1935年選出) | |||
位 | 名勝・史跡 | 場所 | 票数 |
1 | 石小屋 | 愛甲郡半原 | 284,726 |
2 | 妙香寺 | 横浜市北方町 | 275,770 |
3 | 峰の灸 | 横浜市峰町円海山 | 239,345 |
4 | 玉泉寺 | 横浜市中村町 | 218,220 |
5 | 八菅神社 | 愛甲郡中津町 | 168,880 |
6 | 早川城趾 | 高座郡綾瀬村 | 166,204 |
7 | 石老山 | 津久井郡内郷村 | 163,165 |
8 | 浅間神社 | 横浜市浅間町 | 146,967 |
9 | 八景ノ棚 | 高座郡麻溝村 | 146,393 |
10 | 宮ヶ瀬渓谷 | 愛甲郡宮ヶ瀬 | 131,222 |
11 | 道了尊御本地 | 中郡成瀬村 | 123,417 |
12 | ペルリ上陸記念碑 | 三浦郡久里浜 | 121,684 |
13 | 丹沢の大滝 | 津久井郡鳥屋村 | 116,718 |
14 | 金砂山子育観音 | 藤沢町 | 111,775 |
15 | 北向庚申神社 | 高座郡座間村 | 109,722 |
16 | 鬼子母神常照寺 | 横浜市南太田町 | 105,437 |
17 | 重国城趾天満宮 | 高座郡渋谷村 | 95,169 |
18 | 城山城趾 | 津久井郡内郷村 | 92,829 |
19 | 鮎の水郷田名 | 高座郡田名村 | 83,413 |
20 | 花水河口 | 平塚市 | 80,350 |
21 | 志田山朝日寺 | 津久井郡串川村 | 71,895 |
22 | 青柳寺 | 高座郡大野村 | 69,718 |
23 | 称名寺百観音 | 久良岐郡金沢町 | 64,114 |
24 | 三眼六足稲荷 | 高座郡東厚木 | 62,145 |
25 | 与瀬神社 | 津久井郡与瀬町 | 60,616 |
26 | 綱島温泉桃雲台 | 横浜市綱島町 | 59,374 |
27 | 永谷天満宮 | 鎌倉郡永野村 | 50,729 |
28 | 大ダルミ | 津久井郡千木良村 | 50,311 |
29 | 若雷神社 | 都筑郡新田村 | 46,799 |
30 | 三浦畠山地蔵尊 | 三浦郡葉山町 | 46,593 |
31 | 畠山重忠霊堂 | 都筑郡都岡村 | 44,142 |
32 | 波切不動の滝 | 都筑郡新治村 | 42,373 |
33 | 吾妻神社 | 中郡二宮町 | 41,461 |
34 | 宝泉寺 | 高座郡小出村 | 39,646 |
35 | 柏山稲荷 | 藤沢町大庭 | 39,607 |
36 | 金蔵院安産子育観音 | 横浜市磯子 | 39,270 |
37 | 広沢寺温泉 | 愛甲郡玉川村 | 38,481 |
38 | 金目観音 | 中郡金目村 | 38,196 |
39 | 円満寺白衣観音 | 横浜市久保町 | 38,100 |
40 | 座間神社 | 高座郡座間村 | 37,816 |
41 | 白滝不動尊 | 横浜市中区根岸町 | 37,666 |
42 | 龍源院弁財天 | 高座郡座間村 | 36,578 |
43 | 旧城寺 | 都筑郡新治村 | 36,252 |
44 | 日限地蔵尊 | 鎌倉郡永野村 | 35,638 |
45 | 滝出現見合不動尊 | 高座郡御所見村 | 34,837 |
1935(昭和10)年に横浜貿易新報社(現在の神奈川新聞社の前身)創立45周年記念事業として行なわれた、神奈川県内の45か所の「名勝・史蹟」を読者投票で選定する『名勝史蹟四十五佳選』のいきさつが詳細に書かれています。
選定のコンセプトは「新しくして古き歴史とともに拓かれて来た近代県神奈川」は「『武相の天地』が描く『風光の神奈川』」であるが、その存在は「宝の持ち腐れ」であり、名勝史蹟による土地の発展は著しいものがあるのに、「有名地も声なくしては忘れられてゆく」のであり、そこで「欲求するものは『世に出す機会』である」というものです。
地元では有名だけれども、外部にはあまり知られていない名勝・史跡を新しく発掘し、選定しようという意気込みが感じられます。
この投票は、選定された45か所の名勝・史跡に記念標の建立、10位までに扁額の進呈、紙面上での紹介や絵葉書・写真帳を作製して紹介宣伝することが謳われており、新聞紙上でも報道が繰り返されたこともあって相当盛り上がったようです。
総投票数は実に450?500万票にもなったそうです。凄まじい数ですね。
結果は左表の通り。
当時の「隠れた」人気スポットが良くわかります。
なお、「新しく発掘」という観点から、既に有名な場所の得票が少ないという点も特徴です。
確かに金沢八景・城ヶ島・江ノ島・杉田・箱根・鎌倉宮・鶴岡八幡宮・寒川神社・建長寺・円覚寺・平間寺・總持寺などは入っていないですね。
ちなみに見事1位となった石小屋とは、中津川渓谷のことです。
着目すべきは現在の港南区エリアから3箇所が選定されているということ。
3位 峰の灸(横浜市峰町円海山・239,345票)
27位 永谷天満宮(鎌倉郡永野村・50,729票)
44位 日限地蔵尊(鎌倉郡永野村・35,638票)
凄いですね?
3位の峰の灸っていうのは、円海山にある護念寺です。
古典落語『強情灸』にも登場するほど、江戸時代から「お灸」が有名で、字名を取って「峰の灸」と呼ばれていました。
当時の地図を見ると、かねさわ道(現在の笹下釜利谷道路)田中付近から峰の灸へ尾根道を辿る参道が見られます。
現在は洋光台、港南台の大規模開発、横浜横須賀道路の工事などによって、この参道はほとんど原形をとどめておりません。
※参道を赤で着色しました。赤丸で囲った卍が護念寺です。
(1/20000地形図「戸塚」・大正10年測図)
27位 永谷天満宮は、まさに貞昌院が別当として護っていた貞昌院に隣接する神社で、当時から地元に限らず各方面からの参拝者を集めていたことを伺わせます。
往時の天神山は桜山で、伊勢佐木町あたりの芸者たちがこぞって花見に訪れたそうです。
44位 日限地蔵尊も相当有名だったようで、永野小学校付近から永谷天満宮の脇を通り、上永谷5丁目を抜けて日限山に続く参道は、4の付く縁日の日には参道を人が埋め尽くしていたそうです。沿道には茶店も並び、賑わっていました。
現在は車がやっとすれ違えることができる程の細い道です。
※参道を赤で着色してみました
(1/20000地形図「戸塚」・明治36年測図)
これらの場所が神奈川の『名勝史蹟四十五佳選』に選ばれたという歴史的経緯は誇るべきことでありましょう。
追記
歴史を紐解いていくことは面白いですね。
今日のNHK『ブラタモリ』は横浜をブラタモリ。象の鼻や中華街からのスタートでした!
■関連ブログ記事
高浜虚子一行の永谷村探勝
日限地蔵尊
民企画運営講座 第6回 こうなんの歴史が貞昌院で開催されます。
日時:2009年12月19日(土) 10時00分 ? 12時00分
会場:貞昌院 客殿
○ テ?マ: 港南区・明治創立の学舎のあゆみ
○ ナビゲータ : ワタクシが勤めさせていただきます。
(亀野哲也・ 貞昌院副住職)
○内容
?.港南区・明治創立の学舎のあゆみ
港南区には、明治時代に日野、永野、日下、桜岡 の 4小学校が開校しました。
その後、5番目の小学校開校は、実に昭和36年の南台小学校であります。
その時期から急速な人口増加と共に増え続け、平成20年には21校を数えました。
(現在は逆に1校減少し、21校となっています)また、日野、永野、日下、桜岡 の 4小学校開校以前には、地域の学舎の歴史もあります。
地域における学校の歴史を明治創立の4小学校の歩みから辿っていきます。貞昌院から見た永野村立尋常高等小学校(現在の永野小学校/大正12年)
田んぼがずっと広がっているあたりも、今は環状2号線が通り、すっかり様子が変わってしまっています。
※特別ゲストとして、地域を古くから知る平井さんにお越しいただく予定です。
これは、現在編集作業が進められている 『こうなんの写真アルバム』(仮題) ?明治創立の学舎に残された写真物語? のための基礎資料となります。
それぞれの時代ごとに近隣の寺院と大いに関係が有ったことがわかりますし、宅地開発、人口増加と共に校舎・分校が枝分かれしていく様子もよくわかります。港南区・明治創立の学舎のあゆみ (参考:横浜市港南区役所ふるさとこうなん、『港南の歴史』、各小学校のあゆみ)
<港南区の歴史> |
永野小学校 |
日野小学校 |
日下小学校 |
桜岡小学校 |
|
江戸時代 |
現在の港南区の地域は、武蔵国久良岐郡に属する上大岡・雑色・関・松本・最戸・久保・宮ヶ谷・宮下・金井・吉原の各村と、相模国鎌倉郡に属する永谷上・永谷中・上野庭・下野庭の各村からなる。 |
寺子屋 (天神社=貞昌院ほか) |
寺子屋 (洞雲閣ほか) |
寺子屋 (下大岡寺子屋ほか) |
|
明治初期 |
永谷上村と永谷中村が合併して永谷村に。 |
||||
1872年 |
雑色・関・松本の3か村が合併して笹下村に、宮ヶ谷・宮下・金井・吉原の4か村が合併して日野村に。 |
棲心庵学舎設置 (永谷村字八木2648番地) |
|||
1873年 |
第一大学第七中学区第五五番小学日野学舎 (字宮前2047) |
笹下東樹学舎設置 (関村の東樹院) |
|||
1874年 明治 7年 |
野庭学校設置 (正応寺を仮校舎とする) 棲心庵学舎は永谷学校と改称 |
最岡学舎設置 (来迎寺=現在の千手院) |
|||
1875年 |
日野学校と改称 |
最戸学校と改称 | |||
1877年 |
野庭学校新築 (永谷村字山田町1698番地) |
笹下学校と改称 |
|||
1878年 |
笹下の東樹院隣接地に久良岐郡役所を開設。 |
||||
1879年 |
水田の権田ケ谷戸に永谷学校新築。(永谷村字八木2690番地
勝海舟より「永谷学校」の書が贈られる。 |
||||
1880年 |
公立日野学校となる |
||||
1884年 |
関村の大火によって笹下小学校が焼失。 笹下学校、上笹下学校に分離 |
||||
1885年 |
村立日野学校となる |
||||
1887年 明治20年 |
最戸学校は最戸尋常小学校と改称 (大岡学校に尋常高等併置) |
||||
1889年 |
町村制が執行される。 笹下村と日野村が合併して日下村に、上大岡村・最戸村・久保村の3村が合併して大岡川村に、鎌倉郡の永谷、上野庭、下野庭の3村が合併して永野村に。 |
永谷学校と野庭学校が併合し、永野学校(本校)、野庭学校(分校)となる。 |
|||
1890年 明治23年 |
(大岡・井川・最戸学校が合併し大岡川学校と改称) ※現在の南区エリアのため( ) |
||||
1891年 |
小学校設備準則により永谷学校が現在の永野小学校の位置に移転。 |
||||
1892年 |
野庭学校が永谷学校の隣に村役場出張所の建物として移転。永野学校創立。 |
村立尋常日野小学校と改称 |
村立笹下尋常小学校 村立上笹下尋常小学校に改称 |
||
1893年 |
鎌倉郡永野村立尋常小学校と改称 |
||||
1901年 |
久良岐郡日下村立日野尋常高等小学校と改称。 |
||||
1903年 |
笹下・上笹下の2校を合併して久良岐郡日下村笹下に校舎を新築し、尋常日下小学校の開校式をあげる |
||||
1911年 |
大岡川村の一部が横浜市に編入(現在の南区エリア) | 校歌・記念式歌の使用を許可される |
(横浜市に編入され市立最戸尋常小学校となる) | ||
1912年 |
(久良岐郡大岡川村に旧名を引継ぎ村立尋常高等大岡川小学校として、久良岐郡大岡川村中里向田68番地に分離創立) | ||||
1913年 |
町に電灯がつき始める。 |
||||
1914年 |
記章(校章)制定 |
||||
1915年 |
鎌倉郡永野村立尋常高等小学校と改称、高等科併設 |
||||
1920年 |
上大岡駅前の鎌倉街道沿いに水道が敷かれる。 |
(久良岐郡村立大岡川尋常小学校と校名変更) |
|||
1921年 |
久良岐郡村立日下尋常小学校と改称 |
||||
1923年 |
関東大震災で大きな被害を受ける。 |
久良岐郡村立日野尋常高等小学校と改称 |
(2階建て校舎を除き全壊)
休校中は近隣3寺院にて分散授業 |
||
1926年 |
(新校舎落成。10教室) | ||||
1927年 |
第3次市域拡張で、久良岐郡日下村・大岡川村が横浜市に編入。区制施行に伴い、日下村・大岡川村は中区に編入。中区上大岡町・笹下町・日野町・最戸町・大久保町と改称。 | 横浜市立日野尋常高等小学校、現在地に移転 |
横浜市立日下尋常高等小学校と改称 |
(横浜市立桜岡尋常高等小学校と改称) |
|
1929年 |
弘明寺?日野町間に市営バスが運転開始。 |
||||
1930年 |
湘南電気自動車(現:京浜急行電鉄)が黄金町?浦賀間に開通。上大岡駅開設。 |
||||
1933年 |
日野共葬墓地(現:日野公園墓地)開設 |
||||
1936年 |
横浜刑務所が根岸から現在地(港南四丁目)に移転 。市域拡張で、鎌倉郡永野村は中区に編入。中区上永谷町・下永谷町・野庭町と改称。 |
横浜に合併のため,横浜市立永野尋常高等小学校と改称 横浜市立永野青年学校併設 |
|||
1940年 |
校旗制定 |
||||
1941年 |
法令改正により、横浜市立永野国民学校と改称 |
横浜市立日野国民学校と改称 |
横浜市立日下国民小学校と改称 |
新校地を中区大久保町13番地に得る。新校舎起工式を行う。 |
|
1942年 |
横浜市立桜岡国民学校と改称。 |
||||
1943年 |
中区の一部56か町の区域をもって南区を新設。南区となる。 |
青年学校を桜岡青年学校に統合 |
木造2階建て22教室が完成し、新校地に移る |
||
1944年 |
疎開児童を受け入れる | 疎開児童を受け入れる | 分区により、南区大久保町13番地となる。木造平屋建て4教室(後に講堂として改築)が完成。 | ||
1945年 |
横浜大空襲(港南区のエリアは空襲を免れる) |
東福寺や東樹院で分散授業 |
戦争が激しくなり、児童56名が箱根宮城野村への集団疎開が始まる。 |
||
1947年 |
六三制実施 |
横浜市立永野小学校と改称 |
横浜市立日野小学校と改称 |
横浜市立日下小学校と改称 |
横浜市立桜岡小学校となる。 戦争が終わり、全児童疎開先から引き上げる。 |
1948年 |
給食開始 |
||||
1950年 |
南区役所港南出張所開設(管轄内の世帯数3,990戸、人口19,748人) |
学校給食が始まる。 |
|||
1951年 |
学区変更(日野・笹下) |
||||
1953年 |
神奈川県戦没者慰霊堂、講和条約締結記念事業として建立。 |
創立80周年記念式典 |
創立50周年記念式開催 |
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1955年 |
野草園が全市に紹介される |
||||
1957年 |
市営バスが野庭口?横浜間を運行。 |
プール竣工 |
|||
1961年 |
創立50周年。 南台分校が開設、8教室305名(笹下町2213) |
||||
1962年 |
校庭中央の桜の木を切る |
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1963年 |
校歌制定(創立60周年) |
南台小学校、分離開校 |
|||
1965年 |
体育館落成 |
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1966年 |
芹が谷分校開校 |
吉原分校開校 |
|||
1967年 |
芹が谷分校独立 |
吉原小学校開校 |
プールが完成 鉄筋3階建て8教室完成(現在のA棟の一部) |
||
1968年 |
下永谷分校開設(18教室874名) 鉄筋3階建て10教室完成(現在のA棟の一部)、給食室完成 下永谷小学校、分離独立 |
||||
1969年 |
南区の一部8か町の区域により港南区を新設。(管轄内の世帯数25,928戸、人口95,545人)。 |
藤の木分校開設、8教室275名(大岡町池の谷戸1722-1) 藤の木小学校分離開校(南区) |
|||
1970年 |
人口10万人突破 |
体育館完成・校歌制定,開校記念日とする |
校旗新調 |
|
|
1971年 |
港南区総合庁舎落成港南保健所・港南消防署・港南公会堂開設 |
洋光台第一・第二小学校独立開校(磯子区) |
講堂兼体育館落成記念式典 |
||
1972年 |
横浜市高速鉄道1号線(市営地下鉄)が上大岡?伊勢佐木長者町に開通。 |
校舎鉄筋化完了 |
創立100周年記念式典 特殊学級設置 |
上大岡小開校に伴い、学区の一部変更。 |
|
1973年 |
国鉄(現:JR)根岸線全線開通、港南台駅開設。 |
野庭小学校分離開校 |
訪問指導学級併設 |
第1期東側鉄筋4階建て校舎完成。第2期北側鉄筋3階建て校舎・屋上プール完成。 日下のあゆみ70年史発行 |
|
1974年 |
環境事業局港南工場と余熱利用施設(港南プール・蓬莱荘)完成。 日本住宅公団港南台団地入居開始。 |
日限山小学校開校分離 |
港南台第一小学校開校 |
創立70周年 新校舎落成記念式典 |
|
1975年 |
人口15万人突破 |
日野南小学校開校 |
緑化植樹完了 |
||
1976年 |
市営地下鉄(上大岡?上永谷)が延伸、港南中央駅・上永谷駅開設。 |
永谷小学校分離開校 |
港南台第二小学校開校 | ||
1978年 |
特殊学級開設 |
||||
1979年 |
区制10周年。区の花に「ひまわり・ききょう・あじさい」を制定。 横浜横須賀道路の一部開通 |
港南台第三小学校開校 | |||
1980年 |
上大岡駅前にバスターミナルが完成。 |
最後の木造校舎解体 |
第2運動場新設落成 |
||
1980年 |
丸山台小学校分離開校 |
||||
1981年 昭和56年 |
野庭東小学校が野庭小学校より分離開校。 | ||||
1982年 |
創立90周年記念式典 |
創立110周年記念式典 |
鉄筋2階建て校舎新築(図書室・研修室) |
||
1983年 |
横浜市南部病院の開院 |
小坪小学校開校 |
住所変更により、港南区大久保1-6-43となる。 |
||
1984年 |
人口20万人突破 |
給食室、体育倉庫その他の改修工事完成 プール改築・竣工式 |
|||
1985年 |
市営地下鉄上永谷駅-舞岡駅間開業 | 新設プール完成。 住所表示変更(日野7-11-1) 校庭整備 学習園 植樹完成 |
学習園・学習池・花壇が完成、植樹完了 | ||
1986年 |
郷土資料館、A棟3階に開設 多目的教室(学習センター)開設 |
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1987年 |
学校前に歩道橋ができる |
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1992年 |
創立100周年記念式典 |
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1993年 |
住所変更日野町→日野中央二丁目 |
90周年記念式開催 |
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1994年 |
区制25周年。区のシンボルマーク・鳥(シジュウカラ)・木(クロガネモチ)を制定。 |
特殊学級再開設 |
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1996年 |
はまっ子ふれあいスクール開設 |
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1998年 |
環状2号線暫定開通 |
防災備蓄庫完成 |
防災備蓄庫設置工事 |
校庭整備・飼育小屋移築工事 |
プレハブ建て郷土資料館開設 |
2000年 |
はまっ子ふれあいスクール開設 |
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2002年 |
創立130周年記念式典 |
創立100周年記念式典開催 郷土資料館完成 |
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2005年 |
プレハブ棟:図工室、はまっ子ふれあいスクール完成 |
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2006年 平成18年 |
野庭小学校、野庭東小学校廃校。両校合併、野庭すずかけ小学校となる。 | ||||
2009年 |
区制40周年 |
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<港南区の歴史> |
永野小学校 |
日野小学校 |
日下小学校 |
桜岡小学校 |
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昨日、日本テレビ『所さんの目がテン!』で、紅葉の特集がありました。
その中の一齣。
「紅葉が一番美しく見えるのは、一日のうちで何時か」
ほとんどの人は昼前後が一番という認識ですが、答えは朝。
紅葉は陽があたると徐々に葉が萎んでしまい、昼過ぎにはくちゃくちゃになってしまいます。
日が沈んで夜露に当り、葉に水分が吸収されると葉は「シャキーン」と元の形に戻る。
したがって、朝が一番の見頃だという内容でした。
そうそう。
朝の紅葉は格別です。
今朝の境内で何枚か撮影してみました。
右写真は裏庭のイロハモミジです。昨夜は雨が降っていましたので更にキラキラ輝いています。
葉に朝露の水滴が残っているうちに朝日が差し込む紅葉は本当に美しいですね。
■関連ブログ記事
紅葉チャート2009
昨日のブログ記事で、根岸線の路線構想図の中で、新大船(現在の本郷台)から大船に直線で結ばれる構想があったことがわかります。
この路線は具体的にどのような路線を想定していたのでしょうか。
航空写真と地図から検証してみましょう。
まず、現在の状況から。
環状4号線(県道23号線)「笠間十字路」に立つと、東北東方向に斜めに伸びる直線道路が眼に入ります。
この道路は、戦後まもなくに撮影された航空写真にもはっきりと写っています。
太平洋戦争中、現在の本郷台駅周辺は、旧大日本帝国海軍の第一海軍燃料廠がありました。
したがって、戦時中はこの道路はとても重要な役割を果たしていたことがわかります。
栄区役所のホームページには次のような記述があります。
1938年(昭和13年)から、現在の本郷台を中心とする、小菅ケ谷、公田、桂地区の大水田地帯をつぶして、海軍の燃料廠が建設されました。この地域は本郷村の穀倉地帯で、春はレンゲ草が咲き乱れ、夏は一面の青田が広がり、秋ほ稲穂の黄金の波が美しい豊かな田園地帯でした。
今の城山橋の手前が正門。柏陽高校の運動場の東づめが東門。警察学校横のT字路が西門で、現在柏陽高校、消防学校、警察学校、栄区役所、野村コーポ、本郷台駅及び駅前高層住宅群、栄土木事務所、下水処理場、信光社等のところがその本部。栄警察署、南農協本郷支所、公会堂・栄スポーツセンター、消防署、保健所、地区センター、本郷中学校は工員宿舎・養成工寮・購買部等の付帯施設でした。共済病院は付属病院で、このほか鎌倉女子大は分室、笠間の公務員宿舎は将校クラブ、小菅ケ谷住宅や岩井口付近のほとんどが職員宿舎でした。
大船から笠間十字路を経て警察学校への道路もこの時に造られ、それによって水道が初めて本郷に引き込まれました。この道路は水道みちと呼ばれました。また、この道路に沿って、大船駅から鉄道の引込線が敷かれ小型のSLが貨車をひいて走り、電気も高圧線が引き込まれ、周辺の住宅にも昼間の通電がされました。原宿六浦線もこれと関連して、追浜の海軍航空隊と燃料廠と厚木の航空隊を連結する道路として建設されましたが、笠間大橋は完成しないうちに終戦となりました。これら燃料廠関係の施設の建設は本郷村の開発についての方向付けをしたことになり、今日の本郷の基本図となっています。便利になった事や所がたくさんありますが豊かで美しい本郷村は歴史の彼方へ消え去ってしまったのです。
第一海軍燃料廠と横浜市との合併(栄区役所)より引用 下線はkameno付記
つまり、海軍の戦艦、航空機、ロケット戦闘機「秋水」などに使用する燃料、潤滑油を研究、製造していた施設が現在の本郷台にあり、そこに結ばれる貨物船が引かれていたのです。
第一海軍燃料廠が建設されたのは1938年(昭和13年)。
航空写真を判読すると、現在の大船駅北口出口あたりにプラットホームが見え、ここから笠間十字路~第一海軍燃料廠まで線路が延びています。
笠間大橋はまだ出来ていませんね。
(1946/03/05米軍により撮影 国土変遷アーカイブより)
※鉄道の線路を赤線でなぞってみました。なお、南側に見える工場は、三菱の工場と思われます。
第一海軍燃料廠内部には
第一~第六研究室、第一~第九実験室、特殊潤滑油製造所、ヘックマン式真空蒸留室、グリース製造所、耐爆熱実験室、第一過酸化水素連接濃縮工場、第二過酸化水素連接濃縮工場、過酸化水素フラスコ濃縮工場、第一航空発動機実験場・実用機械、第二航空発動機実験場・ロケット燃料テスト、特殊燃料実験場、高圧燃料実験、潤滑油試験機関室 ディーゼルエンジン実験場・31型単箱ディーゼル及61型高速試験機関、ボイラー燃焼実験場、石炭液化実験場、低温低圧実験場、揮発油重合実験場、原油蒸留実験場、化学工業研究室や、それに付随する宿舎、病院などの施設があったようです。
ここからトラックにより追浜の海軍工場とを結ぶ軍用道路(現在の環状4号線)を通り、貨物列車により工場引込線から大船を通って物資が追浜や横須賀方面へ物資が運ばれました。
第一海軍燃料廠は、1952年(昭和27年)に駐留軍により接収され「米軍大船PX」となります。
根岸線建設計画において、新大船(本郷台)駅の設置場所については、この米軍大船PXが最適であると検討されます。
PXの全敷地面積は35万平米あり、米軍から払い下げされる目処がついたこと、周辺地区と併せて新しい街の形成が見込まれることにより、PX敷地北側を駅用地として確保できるように交渉が開始されました。
また、大船ー本郷台間は飯島を回り込み半円状に結ばれる路線が選定されました。
根岸線建設の時期と同時期には、東海道線の増線工事も同時進行で行なわれており、そのために根岸線の本郷台?大船間を先に行い、大船で一部根岸線を東海道線増線工事の切替に使用するということがなされたようです。
そのために、根岸線は横浜?港南台、本郷台~大船の部分が先に出来、港南台土地区画整理事業との兼ね合いがあった港南台~本郷台の部分が最後に竣工することとなりました。(昨日のブログ参照)
同一範囲の地図を並べてみました。
(左)地形図「戸塚」昭和20年部改・昭和22年発行 (右)地形図「戸塚」平成13年改測・平成14年発行
※なお、左側地図には史料をもとに第一海軍燃料廠の施設名称をkamenoが付記しています。
戦時中
昭和40年代前半
昭和50年代
参考文献
栄区の歴史「38 昭和のころ」 - 横浜市栄区役所
いたちかわらばん(通算30号)- 横浜市栄区役所
『根岸線工事記録』(昭和49年3月 日本鉄道建設公団東京支社)
港南区を通る唯一のJR路線、根岸線(年配の方には桜大線といったほうが馴染みがあるかもしれません)。その歴史的経緯をまとめてみました。
今日の記事は、以前のブログ記事 歴史に学ぶ港南台の会勉強会 の補足記事となります。
■根岸線計画の主な経緯
大正11年4月11日 鉄道敷設法別表(昭和12年4月1日一部改正)「神奈川県桜木町より北鎌倉に至る鉄道」
昭和31年2月24日 鉄道建設審議会「昭和31年度から調査を開始すべき新線」として調査線に編入「この線は桜木町から大船附近に至る線で、重要な都市の旅客交通を担当するとともに、横浜港湾臨海工業開発計画上まことに効果大なる線である。本線は複線電化すべき線として着工すべきである。」
昭和32年7月5日桜木町一大船問の運輸大臣の建設認可
昭和32年 調査測量
昭和33年 桜木町一磯子間の路線決定
昭和34年 建設工事に着手
昭和39年3月23日 日本鉄道建設公団発足
昭和39年5月19日 横浜一磯子間営業開始
横浜?磯子間は比較的すんなりと営業開始となりました。問題はここから先の区間です。
根岸線磯子-大船間の路線選定にあたっては
(1)日野廻り
(2)田中廻り
(3)杉田廻り
の3ルートが検討されています(下の地図参照)。
図:根岸線計画の変遷 (kameno作成、青が現在のルート)
もしも日野廻りのルートが採択されていれば、現在の港南中央から鎌倉街道沿いに国鉄が通り、七曲から大船に抜けるというルートとなっていますから、港南中央、吉原、清水橋あたりに駅が出来たかもしれないですね。港南区の歴史も大きく変わったわったことでしょう。
しかし、結果的に杉田廻りの路線が採択されます。
図:第一次工事計画変更線路縦断面図(杉田・新大船=本郷台間)『根岸線工事記録』より
(港南台地区に駅は計画されていなかった)
当初設置予定の駅は、新杉田、矢部野(現在の洋光台)、新大船(現在の本郷台)、そして大船に結ばれます。
この時点では港南台の駅計画は無く、しかも現在よりも南に500メートルほどずれた路線計画(地図の湘南日野を通る赤い線)でした。
後に地元の要望により湘南日野駅の設置が検討されます。
この湘南日野は、現在の港南台よりも南に500メートルの位置です。
このように鉄道公団は、当初、根岸線計画の中で港南台駅設置を想定していなかったのですが、結果的に港南台駅が設置されるに至るには、昭和41年3月に出された「根岸線延伸路線の駅設置について」の要望書が契機となっています。
以降の経緯をまとめてみます。
表:矢部野~大船間ルート変更、港南台駅設置に関する協議経過鉄道建設公団内部 | 地元関係 | 住宅公団関係 | 国鉄関係 |
41/3/25 根岸線延伸路線の駅設置について。 |
41/3/4 港南台土地区画整理事業区域決定及び事業決定 41/10/11 都計街路1.3.5号1.3.28号1.3.30号の告示 41/11/25 洋光台、港南台駅の設置について 住宅総裁→鉄道公団総裁(要望) 41/12/17 港南台駅の予定なし 鉄道公団総裁→住宅総裁 |
41/6/27 工事実施計画その1回答(大船連絡設備を除く) 41/8/9 大臣認可(その1) |
|
42/3/30 線路中心軌道測量完了(旧ルート) 42/8/24 工事実施計画その1変更上申保留となる) 42/10/14 湘南日野駅の設置を含め矢部野-新大船間のルート変更の検討 |
42/7/13 港南台駅設置(要望)住宅総裁→鉄道公団総裁 42/10/16 港南台駅設置の要望と費用一部負担の申入れ 住宅総裁→鉄道公団総裁 |
42/710 工事実施計画その1変更下協議東京支社長→関東支社長 42/8/19 関東支社長了承の回答 42/8/8 大船駅連絡設備について計画、着手の依頼(44/10)国鉄総裁→公団総栽 42/11/27 矢部野-大船間開業調査依頼 東京支社長→関東支社長 |
|
43/3/14ルート変更につき1住宅公団と協議6/7 | 43/11/2 横浜市戸塚区、飯島町、小菅ヶ谷町、鍛冶ケ谷町、南区日野町関係地主に中心改測および巾杭建植の立入説明 43/ 11/12 駅名変東陳情(洋光台、港南台)横浜市長→東京支社長 |
43/8/1 費用負由は1/2とする覚書 |
43/2/17 新大船-大船使用開始を45/10に要望 国鉄総裁→公団総裁(照会回答) |
44/3/30 線路中心、巾杭建植完了(新ルート) 44/7/30 用地測量完了予定 |
44/6/12 用地測量の立入説明 | 44/1/27 県回答 44/1/30 市回答 44/2/6 事業計画、施行規程大臣申請 44/9/8 同認可 |
44/6/6 矢部野-大船間その1変更下協議 東京支社長→関東支社長 |
根岸線のうち、港南区を通る部分の大半は、日本住宅公団が施工する港南台土地区画整理事業の区域内を通ります。
昭和40年当時公団が根岸線の磯子?大船間のルート決定の時点では港南台地区は大まかな構想しかなく、根岸線のルートは宅地造成の構想に近い線で現地形を勘案して鉄道公団としてのルートを杉田廻りルートに決定しています。
しかし、この当初計画は港南台地区の第百土地株式会社、並びに周辺の民間団地の中央を横断する計画となるため、造成開発や販売に重大な支障を与えるとして測量中止の申し入れがありました。
また、この時点で住宅公団は既に港南台地区の土地区画整理事業に一部着手ししていたこともあり、鉄道公団は住宅公団に対して第百土地および周辺団地を避け500メートル北側にずらしたルート変更の内容を説明し、協力方を要請したところ、この案の受諾とともに港南台駅新設の要望の申し入れが行なわれました。
新駅設置に要する工事費の折半負担と、根岸線のルート変更案に住宅公団が応じるという条件で設計協議が合意に達し、昭和44年6月6日国鉄関東支社長に「矢部野(洋光台)-大船間工事実施計画その1の変更」申請書が提出されます。
「矢部野(洋光台)-大船間工事実施計画その1の変更」について
変更理由書 |
これにより、路線のルート変更と、駅構造を切り土ではなくトンネル構造への変更が行なわれることとなりました。
港南台駅は住宅公団が新駅設置に係る相当の部分を負担することにより「新たに」現在の場所に設置されることとなりました。
実に港南区(当時は南区)唯一の国鉄駅であります。
港南台-本郷台間の工事が一番最後となり、 昭和48年4月9日に根岸線は全線開通となりました。
参考文献
『港南台の歴史(港南台駅開業まで)』(港南台バーズ)
『根岸線工事記録』(日本鉄道建設公団東京支社・昭和49年3月)
大船の街を見守る大船観音。
その白衣観音像がどこを向いて鎮座しているのでしょうか。
今日はそれを検証してみましょう。
以前、大船観音の頭上に登らせていただいたことがあります。
その時に目線の先にを辿ると、大船から鎌倉方面に延びる横須賀線の曲線、その向こうに見える山々。
概ね大体鎌倉市街地中心部のほうを向いているということはなんとなく判っていました。
Google earthでどこに向いているかを詳細に検証してみます。
図の赤い線が目線です。
大船観音の目線の先には鎌倉大仏(もしくは長谷観音)があるという噂がありましたが、実際はそれよりもやや東。
鎌倉駅と鎌倉大仏の間を通って由比ガ浜に抜けています。
もしかすると、昭和4年の初期の大船観音建造時には鎌倉大仏に向けて観音像を設計していたのかもしれません。
そうだとしたら概ね鎌倉大仏に向けようと建造したものの、若干の誤差が生じてしまったのでしょう。
では、鎌倉大仏はどこを向いているのでしょうか。
こちらもGoogle earthで調べて見ます。
真南よりやや西側を向いていますね。
だいたい伊豆大島の方向を向いていているようです。
ただし、鎌倉大仏に関しては、室町時代の津波で移動しているようですので、大仏殿に収まっていた当初は真南を向いていたのかも知れません。
ついでといっては何ですが、自由の女神像がどちらを向いているかも調べてみると・・・・・
湾を越えて・・・・・・
南アメリカ大陸の東側を向いていることがわかります。
フランスは自由の女神から見て左の方向ですね。
自由の女神像は、送り主のフランスの方向を向いていると思われがちですが、決してそうではありません。
建造物がどの方向を向いているかということは、非常に重要な意味をもちます。
前に港南図書館で開催された「横浜港の七不思議講演会」で、田中先生は横浜港開港当初の主要な建物は開港したての「横浜港」の方向に向けられていたということを検証されていました。
それぞれに隠された意味を探るということも面白いことですね。
境内のシンボルともいえる2本のイチョウの葉がだんだんと黄色く染まってまいりました。
まもなく見事な黄金色となります。
イチョウの黄葉は、見頃を迎えたかと思ったら一気に散ってしまいます。
タウンニュースでは昨年、記事として取り上げていただき、港南区役所発行の「まち自慢ガイドブック」では表紙を飾りました。
各方面より、今年の見頃の時期の問合せがありますので、過去の記録からイチョウの見頃を予想してみました。
(※1998年はきちんとした記録をとっていません)
上記図中、[50%]は散り始めて全体の半分程度が散った日付、[100%]は殆ど散った日付を示しています。
また、色は大体こんな感じで黄葉が進行したという目安です。
このように、毎年かなりばらつきがあることがわかります。
10月から11月にかけての気温の変化によって色づきの進み方が違いますし、散り始めの時期に風の強い日が有るか無いかによっても異なります。
予想は難しいものです。
それでも敢えて予想するとすれば、今年は比較的気温の低い日が多いので、昨年(20087年)よりやや早い進行ではないでしょうか。
12月1日前後が見頃であると思います。
本日(2009年11月20日)撮影したイチョウはこのような感じです。
■関連ブログ記事
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境内パノラマ--銀杏、少しづつ黄金色へ
港南の絵本をつくろう会による、「昔の豊かな遊びを子どもたちに伝えるプロジェクト」が進行中です。
かつての豊かな遊びを、一緒に未来に引き継いでいきませんか!
「遊び」は子どもの育ちに欠かせないもの。
港南区では、子ども達はどんなところでどんな遊びをしていたのでしょう。
『港南の絵本をつくろう会』は、昔のさまざまな遊びをヒアリング集にまとめ、将来的には絵本にすることを
目指しています。
まずは、各年代ごとに地域にお住まいの方から遊びの想い出を中心にヒヤリングを行なっているところです。
どの方も、子どものころの思い出を語るときの表情は生きいきとしています。
まるでその時の様子を目の当たりにしているようです。
ヒヤリングの内容は、順次、纏められていきます。
形になった時点でまたお知らせいたします。
たくさんの発見もあったのですが、その中の一つをご紹介します。
それは、戦時中に生産していた「松根油」にまつわる話です。
永谷地区は幸いなことに、大規模な空襲を受けることは無かったのですが、東京、川崎方面より多くの疎開を受け入れていました。
貞昌院にも境内に十数人の家族と、やはり十人前後の兵隊さんが生活をしておりました。
兵隊さんたちは主に何をしていたかというと、山から松の木と根を堀り出してきて、それを下野庭に作られた釜で乾溜し、飛行機の燃料を作っていたということなのです。
これは松根油と呼ばれるもので、村人たちはその松の根の掘り出しと製造の手伝いをしていたそうです。
(松根油と戦時中の永谷)
今日のヒヤリングでも、松根油の話題となり、その中で「松根油を煮出すのに使っていた釜は、貞昌院の天水桶となっていた」ということが新たに判りました。
簡単に纏めると次の通りです。
「戦時中は鉄の供出のため戦前まであった天水桶は撤去されていた」
「戦中、松根油を煮出した釜が戦後不要になったため、貞昌院の本堂に持ってこられ、天水桶として設置した」
「しかし、鉄の質が悪いため、何十年か経つうちに腐食し穴が開いてしまった」
「そこで、新しい天水桶(現在あるブロンズ製のもの)を寄進することにした」
この2行目のことは初めて聞きました。
驚きです。
古いアルバムを取り出して、以前の天水桶が写っている写真を探してみました。
このころは本堂の正面に棕櫚の木があったのですね。
屋根はまだトタン葺きでした。
背景に見える黒いものが天水桶です。
穴が開き始めて水が漏れ出した頃の大きな真っ黒いドラム缶のような天水桶は、子どもの頃の記憶としてしっかり刻み込まれています。
その天水桶が、松根油を煮出した釜だったとは・・・・・
大本山總持寺では、毎月25日に常照殿において無際大師月忌(がっき)法要が営まれます。
無際大師とは、中国禅宗第8祖・石頭希遷禅師のことです。
『参同契』の経典を撰せられたといえば禅宗の系譜の上で重要な禅師であったかが判ると思います。
こちらも併せてご参照くださればと存じます。
大本山總持寺に祀られるミイラ仏
無際大師月忌は冒頭に述べたように毎月25日(12月が御正当)となります。
その差定(式次第)は次の通りです。
【常照殿に於いて無際大師月忌 差定】
・前後三拝
・参同契
・回向(上慈恩)
(正当十二月は九拝差定・逮夜有)
總持寺御征忌会第3日
第3日(10月14日)
朝課罷
石頭希遷禅師月忌(於・放光堂)差定
・置茶湯
・前後三拝
・参同契
・回向
・法要罷 石頭希遷禅師真前にて焼香
ここで、何故14日に石頭希遷禅師月忌が営まれているかを考察するために差定の変遷を辿っていくと、どうやら總持寺に石頭希遷禅師のミイラ仏が安置されるようになってから、御両尊御征忌会随喜衆により「御真前」への拝登を、という要望もしくは法要都管寮の配慮があって差定として定着することとなったようです。
当時は、石頭希遷禅師が總持寺に安置されるということは大ニュースとなったのでしょう。
きっと御征忌中の石頭希遷禅師月忌は多くの随喜衆で放光堂(当時の法堂)が溢れかえっていたのではないかと思います。
現在では大祖堂での課罷法要と同時進行で内勤として営まれておりますので、法要には都管寮、両班寮、堂行寮の随喜のみとなっています。
なお、石頭希遷禅師のミイラ仏が日本に来た経緯については、複雑な経緯があり、中国版ウィキペディア(维基百科)には次のように記載されています。
石头希迁 (重定向自石頭希遷)
跳转到: 导航, 搜索
石头希迁(700年-790年),禅宗大师。先於曹溪六祖門下出家為沙彌,惠能去世時,年僅十四歲,後依於六祖門下青原行思而開悟。曾在南岳一块巨石上结庐而居,称"石头和尚",他這一系禪法,也因此被稱為石頭宗。提出"触目是道"的禅宗修行方法,有「石頭路滑」之稱。希迁的再传弟子创禅宗曹洞宗、法眼宗、云门宗。
石头希迁在南嶽衡山南寺坐化。太平洋戰爭期間,日本人把石頭和尚真身搬到日本,至今仍供奉在日本總持寺。初期總持寺把石头希迁的真身開放給遊人參觀,後來已經收藏起來,謝絕參觀。
石头希迁著有《參同契》、《草庵歌》。来自 维基百科,自由的百科全书
下線はkamenoが付記しました。
当該下線部の記述は「在2008年11月27日 (四) 12:31所做的修订版本」とありますから最近書き加えられた記述ですね。
中国としては本音として返して欲しいのでしょう。
しかし、この記述は正しくなく、
「辛亥革命(1911)の時にミイラ仏を祀った寺が革命軍により焼かれたが、石頭希遷大和尚の研究家・山崎彪氏が火の中からミイラ仏を救い出し、三井物産の船で日本に運んだ。」
ということが史実です。
日本人山崎彪氏がいなければ、ミイラ仏は灰燼に帰していたことでしょう。
【追記】
维基百科 石头希迁 項下線部を修正してみました。
石头希迁在南嶽衡山南寺坐化。辛亥革命期間,革命军放火寺院烧了。日本人在火灾中搭救石頭和尚真身,搬到日本,至今仍供奉在日本總持寺。
■関連ブログ記事
大本山總持寺に祀られるミイラ仏
まずは、次の写真をご覧ください。
昭和6(1930)年当時の上大岡、和田山から弘明寺・最戸耕地方面を望む
(CC by 港南歴史協議会)
戦前の、炭鉱から亜炭を運び出すトロッコとその線路が写っている貴重な写真です。
付近には広大な水田が広がっていました。
稲藁が干されていますから丁度秋の収穫シーズンですね。
影の状況から察するに午後2時くらいに撮影されたものでしょう。
以前の記事 港南区の炭鉱と戦争の影でご紹介した炭鉱坑口の写真から延びる線路が見えます。
赤い線でトロッコの線路をなぞってみました。
線路脇には、トロッコが幾つか見られます。トロッコは青丸で囲いました。
茶色の線は道路です。
写真の右上(緑丸)には湘南電気鉄道(現・京浜急行電鉄)の車両が見えます。一両編成ののんびりした電車ですね。
黄金町 - 浦賀間に湘南電気鉄道として鉄道が開通したのは昭和5(1930)年ですから開通したてですね。
この写真の撮影時期から数ヵ月後、横浜から野毛山のトンネルで敷設された京浜電鉄延長線と日の出町で接続、横浜・浦賀間の相互運転となります。
写真ではよくわかりませんが、このような車両だったのでしょう。
和田山(慰霊堂近辺)からの眺望をカシミールで再現したものを並列配置していました(上段右側)。
赤線で囲った四角の範囲が写真の範囲と一致します。
丘の稜線、道路の形など現在の地形から偲ぶことが出来ますね。
写真が撮影された場所「和田山」は、最戸2丁目、現在の戦没者慰霊堂の丘です。
なお、「和田山」の地名の由来は、近辺の急な坂道を利用して鎌倉幕府の要職にあった和田義盛が関所を設けたことによります。
このことからわかるように、鎌倉古道下之道が通っておりますので、古来から交通の要所でありました。
大正時代から戦中にかけて貴重な燃料資源としての亜炭が採掘されていたという事実を物語る貴重な資料です。
冒頭の写真には右部分をパノラマで写した続きの写真があります。
右側の写真は上大岡駅方向を映しています。
こちらの写真にも左から5番目の架線柱の付近に湘南電気鉄道の車両が見えますね。
一枚の写真から得られることが沢山あることを実感できる写真です。
■関連ブログ記事
港南区には次のような昔話があります。
丘の上の黒船見物(上大岡)むかし、江戸時代の終りのころのお話です。
ある日、突然、浦賀沖に、アメリカの軍艦がやってきました。
日本人が、よその国へ行ったり、外国人が来たりしてはいけなかった時代でした。
港から離れていた村人たちは、のんびりと畑仕事をしていました。
子どもたちも、よく親の手伝いをしていましたが、暇をみつけては、野山をかけまわりうさぎを追いかけたり、木の上に登ったり、次から次へと遊びを考えだしては、仕事の合間に遊んでいました。
きょうも、小高い山の木のてっぺんに登って、はるか遠くをながめていた子どもたちが、竹づつをのぞくと、真黒い、みたこともない船が、丸い輪の中に現れたのでした。
びっくりした子どもたちは、それぞれ、すっとんで家に帰りましたが、家には誰もいません。じいちゃん、ばあちゃん、親たちまでが、庄屋の家の庭先に集まつて、ワイワイガヤガヤさわいでいたのです。
浦賀では、一日中半鐘が鳴っているとか、真黒い大きな船が煙りをはいては、ボー、ボーと大きな音をだしているというのです。
目をつりあげ、口をぎゅつと結んだ武士が、馬にむちをあてては、西へ東へ、血そうを変えながら走らせているとか、街道沿いの人たちは、家の中にかくれて、息をつめてなりゆきを見守っているとか、杉田村へ野菜を売りにいってきたじいさんが、まるで見てきたかのように、まくしたてていました。
金沢の小柴沖まで、黒船が入ってきていると聞くと、戦になるかも知れないと、おびえながらも、黒船を一目見ようと村人たちは、すっかり、お祭り気分になってしまいました。
「さあさあ、仕事さ、かたづけて、見にいくぞ!お前たちも、早よう、手伝えよー」
上大岡の真光寺の高台が、見晴らしも良く絶好の見物場所になったのでした。
一人、二人、また一人と、うわさをききつけた近隣の村人たちで、あれよ、あれよという間に、人だかりができました。
そのうち、おだんごや、お茶を売る者までが現れて、いっそうにぎやかになりました。黒船がいた八日間、この高台は、黒船見物の人々でにぎわったそうです。
(港南歴史協議会のサイトより)
このように、江戸時代末期・嘉永6(1853)年に初めて浦賀に来航し、翌年の嘉永7(1854)年に再度来航した黒船艦隊を、物珍しさからたくさんの人々が黒船見物に押しかけ、茶店まで出ていたようです。
冒頭の物語は、ここ港南区(当時は武蔵国久良岐郡)でも黒船見物で賑わった様子が描かれています。
・・・・しかし、本当に上大岡真光寺の丘から東京湾を眺めることが出来たのでしょうか。
昨日開催された港南歴史協議会定例会の場でその話題となり、現在はマンションや立ち木などで検証しづらいということがありました。
そこで、障害となるマンションがない状態だとどのように見えるのかをシミュレーションしてみます。
明治初期に作成された迅速測図(上の地図)で見ると、汐見台(磯子区)の丘さえクリアーできれば、真光寺の丘からも根岸?小柴?浦賀沖を見渡すことができそうです。
大岡あたりからスタートし真光寺の丘を越え久良岐公園方面へ抜けるルート(下図の赤い線)を辿るとどのように東京湾が見えるのかをカシミールを使って検証してみます。
上記ルートの中でベストポイントは、ムービー開始30秒の場所、地図上の「A」の場所です(後述)。
目線の高さに合わせ、対地高度2メートルでムービーを作成しました。
※注:判りやすくするために高さ方向の倍率を3倍にしています
やはり真光寺の丘からは東京湾がよく見えたはずだということが判ります。
浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピー」(USS Mississippi 同)、「サラトガ」(USS Saratoga 帆船)、「プリマス」(USS Plymouth 同)の巡洋艦四隻からなっていた。大砲は計100門あり、臨戦態勢をとりながら、勝手に江戸湾の測量などを行い始めた。さらに、アメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射した。無論、日本を脅す為に意図的に行ったものであり、最初の砲撃によって江戸は大混乱となったが、やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んでいたようだ。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 黒船来航項 (下線はkameno付記)
とありますから、東京湾をやりたい放題勝手に航行していたことも伺えます。
対し、村人たちも花火感覚で楽しんでいたというのも大したものです。
冒頭の物語の様子が目に浮かびます。
黒船来航当時、真光寺の丘からは、このように見えたことでしょう。
つい先ほど、このポイントで実際にパノラマ写真を撮ってみました。
残念ながら台風前の雨でしたので、海は見えませんでしたので後日晴天の日に再度撮影してみようと思います。
昨日の記事の続きです。
一劫が何年かを計算してみましょう。
【計算上の定義】
芥子劫を1辺1由旬の城に芥子粒を満たし、100年ごとにそれを1粒づつ取り出して、芥子粒が空になるまでの時間とします。
【計算上の仮定】
1由旬の城を一辺が7km=7,000,000mmの立方体とします
また、芥子粒を直径0.5mmの球とします
(芥子の実。Wikipedia「ケシ」項より引用)
さて、一番単純な計算方法は、一つ一つの芥子粒がそれぞれ0.5mmの立方格子に入った状態で、この格子を角砂糖をジャングルジムのように積んでいくことを考えます。
すると、一辺には 14,000,000 個の芥子粒が並びますので、これを3乗して
2,744,000,000,000,000,000,000 個の芥子の実が詰ります。
読み方は 27垓(がい)4400京(けい)個。
100年に1つづつこれを取り去るわけですから、全部取り去るまでには
274,400,000,000,000,000,000,000 年の歳月を要します。
読み方は 2,744垓(がい)年。
ここまで計算したうえで、実際には芥子の実はさらに「きっちりと」詰まっていることが予測されます。
イメージとしては、八百屋の店先に積まれている蜜柑のような積み方です。
このことを考えたのがヨハネス・ケプラーです。
ケプラーは1611年、「物質を構成する粒子は体積を最小とするように自己を組織化するだろう」という構成原理に基づき、「六方最密充填」と「面心立方格子」が最高密度の配置であると予想しました。
これが面心立方格子。こんな具合に詰まれている場合に最も充填率が高くなると予想しました。
このケプラーの予想は、実に約400年後の1998年、トマス・ヘールズによりコンピュータを使って虱潰しに精査するという手法により、ほぼ証明に至りました。
ということで、冒頭の単純に立体格子状に縦横に積んでい方法ですと、その充填率は球の体積の公式より π/6 (= 52.3598・・・%)
六方最密充填、面心立方格子による充填率は、√2π/6 (= 74.08・・・%)
となりますので、芥子粒の数は √2π/6 ÷ π/6 = √2 倍増えます。
つまり、時間もそれに比例して増えますので、
一劫は274,400,000,000,000,000,000,000 × √2 = 388,000,000,000,000,000,000,000 年くらいだろうという計算結果となりました。
※ここまで適当に計算していますので、間違いあればご指摘ください
それにしても、このケプラー予想問題は、問題自体は単純でありますが、球を積むときにはどのように積むことが一番充填率が高いのか、未だ完全に証明されていないということが面白いですね。
もしかすると、面心立方格子よりももっと充填率の高いつめ方があるかもしれないのです。
これは人類の永遠の課題なのかも知れません。
駐車場の一角にちょっとした土の山ができています。
山というと大げさでしょうか。高さ数センチ、幅1メートルくらいのものです。
この下はアスファルトなのですが、すっかり埋まってしまっています。
暫く観察していると、次々とアリたちが土の粒を運んでいます。
このようなことを何十日も繰り返し続けて山を築きあげたのでしょう。
彼等には、「おっくう」という概念は無いのでしょうね。
ただ、只管に土粒を運んでいます。
先月は、夏休み土曜塾で、地獄の一番深いところにある「阿鼻地獄」での刑期が「1中劫」であるとされていることを学びました。
この「劫」という時間の単位は、仏教的数学観におけるきわめて長い時間の単位です。
具体的には1辺1由旬(だいたい7km程度だと考えられる)の大岩があり、そこに100年に一度、天女が降りてきて衣の袖でその表面をなでる。そんなことを繰り返してついにその岩がすりきれ無くなるまでの時間を一劫といいます。
これは、『雑阿含経』に記述される「磐石劫」の概念とされています。
劫には、もう一つの概念があります。
「芥子劫」と呼ばれるものです。
それは・・・1辺1由旬の城に芥子粒を満たし、100年ごとにそれを1粒づつ取り出して、芥子粒が空になるまでの時間・・・・・とされています。
ちょうどアリたちが運んでいる土粒が、芥子粒くらいの大きさですので、そんなことが頭に浮んできました。
アリが一回に運ぶ量はごく僅かです。
しかし、それを只管繰り返すことにより、眼に見える成果となり、時には 蟻の巣は雨の日どうなるの? の記事でご紹介したオーストラリアのアリたちのように巨大な建造物を造りあげることもあります。
「おっくう」という言葉は、漢字で書くと「億劫」となりますね。
1辺1由旬の城に芥子粒を満たし、100年ごとにそれを1粒づつ取り出して、芥子粒が空になるまでの時間のさらに一億倍という、とてつもない時間の概念です。
もしも、最終目的の巨大構造物と、一回の土粒の運搬量を比較して考えてしまうと、それこそ「おっくう」になってしまい、はじめの一歩を歩みだすことすらできなくなるかも知れません。
けれども、アリたちはそんなことは全く考えず、ただただ土粒を運びます。
そして気がつくと、大きな蟻塚が出来上がっている。
ただそれだけのことなのですね。
何事も「おっくう」がらずに、まずは一歩足を進めてみなさい、そんなことを教えてくれているようです。
そこから何かがきっと生まれてきます。
地図を過去に遡っていくと、街がどのように形成されていったかが明確に判ります。
例えば横浜中華街がなぜ周囲の街区と異なった方向を向いているのかということも見えてきます。
よく言われることは、中華街は当時の中国人が風水思想に基づいて、わざわざ東西南北の街区として区画を整備したというものですが、街の形成を時系列に辿ると、これが間違いだということが判ります。
その謎解きをされたのが横浜開港資料館・伊藤泉美さんです。
伊藤さんは、中華街が他と違った街区を形成している理由として次の3つをを提示しました。
■理由1:土地の高低差
現在の中華街エリアは「横浜新田」と呼ばれた一帯でした。
横浜新田とその周囲の土地との高低差が一つ目の理由。
■理由2:立ち退きを迫られた村民の思い
横浜新田が「外国人居留地」に指定されたため、この地区に住んでいた村人たちは土地を幕府から立退きを余儀なくされました。立退一時金給付査定のために従来の田畑の区画形状が残された。
■理由3:偶然東西南北に区画割された土地を華人が好んだ
関内地区は海岸線にあわせた街路のため、東西南北に沿っていない。
しかし、現在の中華街エリアだけは上記理由で東西南北の街区ができている。
風水を重んじる中国人は、あえてこの場所を居留地として選んだことが考えられる。
横浜開港150年企画(横浜中華街公式サイトへ)
横浜開港資料館
横浜中華街 おいしさネットワーク
これを踏まえてさらに、様々な古地図を検証していくと、横浜新田が川と堀に囲まれていた地形であり、堀と川と新田の田んぼ道がそのまま、現在の中華街の街区となっていることがより明確に判ります。
横濱村外六ケ村之図 安政6(1859)
図中の赤字はkameno記載
この横濱村外六ケ村之図と、1/20,000地形図 横浜(明治39年測図41年製版)を重ねて作成してみました。
(こちらの図は上が北となります)
中華街のみならず、江戸時代の地形が、現在の街区に大きな影響を残していることがわかります。
開港以前にあった「象ケ鼻」は、その場所が埋立てられ第一代横浜駅(現在の桜木町駅周辺)となりました。
港南図書館を会場とした歴史講座が開催されました。
(前回は私が勤めさせていただきました)
今回第2回目開催も横浜開港150周年記念として「横浜港の七不思議」をテーマに、田中祥夫さんによる講演が行なわれました。
主催は港南歴史協議会です。
今回も応募に対して抽選となるほどの反響があり、会場は満員となりました。
講演内容は、自身の著書『横浜港の七不思議』をもとに横浜港にまつわる謎解きをしていく講演でした。
その謎とは・・・・・
(1)「象の鼻」の不思議
大桟橋の根元にある「象の鼻」。
この波除堤は、安政6(1859)年に造られた2つの突堤(東波止場・西波止場)を、慶応の大火災後に延長し、従来まっすぐだった突堤を、象の鼻のような形に変えたものです。
しかし、何故そのような形で曲げられたのでしょうか。
(2)横浜築港の不思議
横浜港は日本の重要な貿易港でありながら、開港から約35年間も外国船が横付けできず、沖合いに停泊し艀から荷物や人を積み下ろす状態が続いた。
なぜ築港がこれほどまでに遅れたのでしょうか。
(3)大桟穂の不思議
開港から25年経過し、ようやく明治27年に鉄桟橋(現在の大桟橋の前身)が出来上がる。
この工事費がどこから来たかというと、長州藩か攘夷に走った下関事件で日本が列強国に払わされた賠償金を、アメリカ政府が返還したものが大桟橋建設の原資となったのです。
一度支払われた国家賠償金が、なぜ何年も後に、しかも賠償額そのままきっちり返還されたのか。
(4)「メノリケン波止場」の不思議
「象の鼻」は、かつてイギリス波止場の通称があった。
その先端に築造された鉄桟橋(大桟橋の前身)が、なぜメリケン波止場と呼ばれるに至ったのか。
(5)石造ドックの不思議
旧横浜船渠会社(通称横浜ドック)のドック築造には、外国人技師ではなく、佐世保軍港の日本人技師・恒川氏がその設計に携わった。
なぜ、日本人を、そして恒川氏が選ばれたのか。
(6)新港埠頭の不思議
大正3年に出来た新港埠頭により、横浜港の機能は格段に向上した。
この築造工事は大蔵省により行なわれた。
通常、港の土木事業は内務省土木局が行なっていたが、なぜ内務省でなく大蔵省で行なわれたのか。
(7)「横浜市歌」の不思議
横浜市民に親しまれている「横浜市歌」は、開港50周年の年に森鴎外により作詞された。
森鴎外は、市歌としては浜松市と横浜市のみ作詞している。
なぜ、森鴎外が横浜市歌を作詞することになったのか。
横浜港にはたくさんの謎が隠されています。
田中氏は、 梅原猛氏の『隠された十字架―法隆寺論』 (新潮文庫)にある「法隆寺の七不思議」になぞらえて、「横浜港の七不思議」として、謎をとりあげ、その謎解きを展開していきました。
謎解きの種明かしはここでは行ないません。
興味ある方は是非氏の著書をご購読ください。
また、今回の講演の内容は、神奈川県内全域のケーブルテレビで放送されます。
9月1日(火)夕方6時からの「「デイリーニュース」にて1分ほどの紹介、さらに、10月26日?11月1日までの「TVフォーラム」(ケーブル局により放送時間は異なります)にて、講演内容を1時間に編集して放映される予定です。
『横浜港の七不思議』
田中祥夫:著
新書判/248頁
1,050円(税込)
ISBN:9784896602005
◆著者略歴◆
田中祥夫 (たなか よしお)
1931年東京生まれ。早稲田大学第一理工学部建築学科卒。 横浜市役所に勤務し、街づくりや住宅計画に携わる。 1991年「明治前期における建築法制に関する研究」で日本都市計画学会賞(論文)受賞。
東海大学大学院、関東学院大学で非常勤講師をつとめ、 現在、国土交通省中央建設工事紛争審査会委員。 工学博士。 著書に、『ヨコハマ公園物語』(中公新書)、『神奈川県建築史図説』(共著/神奈川県建築士会)など。
皆さまは、四十九日の法事・法要に参列するときには「御仏前」、「御霊前」どちらの熨斗袋をお持ちしますか?
ここで、興味深いことが判りました。
市販されている「冠婚葬祭マナー集」や、ネットで公開されている「マナー集」では、「御仏前」、「御霊前」 両説入り混じっています。
■「御仏前」説の例
通夜から三十五日の法要までなら、不祝儀袋に「御霊前」と表書きするか、そう書かれた不祝儀袋を使います。
(冠婚葬祭ホットライン より引用)
■「御霊前」説の例
49日の忌明け後の法要までは「御霊前」、それ以後は「御仏前」もしくは「御佛前」を用いる。
(生活知恵袋 より引用)
四十九日法要での熨斗袋の表書きは「御霊前」「御仏前」両説入り乱れていますね。
どの冠婚葬祭マナー集を見ても、大抵はこのような2通りの回答のどちらかが書かれています。
だいたい割合としては、やや「御仏前」優勢といった感じでしょうか。
それでも「御霊前」とするマナー集もかなりの割合を占めています。
ここで、死を迎えてから行われる法要について整理して考えてみます。
世間一般常識とされているものは、七七日(四十九日)に御霊前と御仏前の境界線が引かれています。
四十九日法要での熨斗袋の表書きが「御霊前」「御仏前」なのかは、どの時点で「仏」になるかということの考え方によるものです。
■死を迎える
■枕経
■通夜
■葬儀
・引導■初七日
■ニ七日
■三七日
■四七日
■五七日
■六七日
■七七日(四十九日)
・位牌開眼
■納骨(納骨時期は施主により異なる)
■初盆
■百か日
■一周忌
以前のブログ記事 年回法要にまつわるお話 も併せてご参照ください。
宗派による違いも見られます。
例えば、浄土真宗などでは、死を迎えると直ちに成仏するという考えですから、■死を迎える の時点から「御仏前」がマナーですね。
では、曹洞宗はというとどのように考えたらよいでしょうか。
私見を書かせていただくと、
(1)葬儀の「引導」により成仏がなされ
(2)四十九日法要で、(既に仏となっていることを前提として)正式な位牌開眼を行う
ということですから、引導を渡した瞬間、あるいはその後直ぐに仏となり、四十九日には既に仏となっていると考えてよいのではないでしょうか。
世間一般常識よりは前の時点ということになります。
すると考えると、枕経、通夜、葬儀開式前にお持ちするのなら「御霊前」、引導が渡された瞬間からは「御仏前」でも良いということになるでしょう。
実際には、初七日から参列される方は殆ど居ないと思われますし、次に参列される機会といえば、四十九日法要であるでしょうから、「御仏前」として良いという考えです。
なお、この「御霊前」「御仏前」という考えは、宗派のみならず、地方により大分考えが異なることもわかりました。
時間があれば、その差異について纏めてみたいと思います。
「御霊前」「御仏前」の違いは、場合によっては失礼にあたる可能性がありますから、
もし、「御霊前」「御仏前」どちらをお持ちするのが不明である場合は、「御香典」としてお持ちするという方法もあります。
これなら、どちらとしても通用します。
港南区には、かつて炭鉱がありました。
まずは現在の上大岡周辺を当時の地図で確認してみましょう。
明治時代の地図には炭鉱標記が見られませんので、明治末期から大正期に出来た炭鉱であることがわかります。
(上大岡駅周辺はまだまだ田んぼと畑が広がっていたのです)
また、米軍の地図にも記載されていることから戦後暫く採掘されていたようです。
(地形図・戸塚・大正10(1921)年測量,大正14年発行)
(米軍Army Map Service: Japan City Plans TypeF 1946 / Lignite mineの標記があります)
炭鉱といっても良質の石炭が生産されたわけではなく、亜炭と呼ばれる木質系の燃料です。
亜炭(あたん、英: lignite)とは石炭の中でも、最も石炭化度が低いものをいう。地質学上の用語としては褐炭が正しいが、日本においては行政上の必要からこの語が用いられる。
品質に関しては褐炭同様、石炭化が十分に進んでいないために不純物や水分を多く含み、得られる熱量が小さいことから、製鉄などの工業用途には向かない。日本では明治年間から1950年代まで全国各地で採掘され、主に家庭用燃料として重宝された。特に、第二次世界大戦中および直後においては、燃料の輸送事情が極端に悪化したため、仙台市・名古屋市、または長野市など大規模?中規模の都市の市街地などでも盛んに採掘が行われて利用された。亜炭は着火性が悪く、燃焼時にも独特の臭気や大量の煤煙を出すため、燃料事情が好転すると早々に都市ガスや石油などへの転換が進められた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
港南区内には最戸、日野、野庭町など炭鉱がありました。
神奈川新聞(平成8年6月4日版)にはそれぞれの炭鉱について次のような体験談が掲載されています。
最戸の炭鉱⇒「千手院のがけで大正のころ掘っていた。炭鉱員が仕事を終え帰った後、ひそかに坑内のトロッコで遊んだ」「戦中もよそから来た親子二人が別のがけ(県戦没者慰霊堂前)で数年間掘った」「低温で石炭のように炎が出ない。燃えかすが多くて、臭かったな」
野庭の炭鉱⇒「明治のころ、上野庭(現野庭町の南側)で掘った。日野の吉原(現日野二丁目)でも大正期のころ掘った。知る人は地元でももうわずかだ」「祖父から、穴は奥で2つか3つに分かれていると聞いた。コウモリがいた。私は怖くて奥まで入れなかった」
港南区の亜炭炭鉱についての特徴をまとめると次のとおりです。
(1)港南区最戸、日野、野庭町、戸塚区下倉田町に広がっている
(2)亜炭の採掘は大正7、8年ごろ及び戦時中が最盛期
(3)つるはしを使っての手掘り。
(4)亜炭層は30-35センチの厚さ。空気穴(立て坑)を二本掘り、横穴を約1000メートル掘った。
(5)亜炭層は緩傾斜にあり坑道は横穴だった
(6)亜炭を運び出すため農道拡張、トンネル掘りも行われた
(7)明治末から大正期に採掘されたが、一部は戦時中に燃料不足のため再び掘られた。
このうち、戦時中の横浜鉱山(最戸町)についてさらに詳細を紐解いてみます。
大正期にも採掘が行われていたが、さらに拡大生産するため昭和15年試掘開始、昭和17年より操業
鉱山主は東燃料工業株式会社
神奈川県では最初の大規模な亜炭鉱山
坑道の入口は大久保新地。
左坑道100間、右坑道 30間の2つの水平坑道があった
鉱夫10名が日産10トンの亜炭を産出
当時使われていたトロッコは木枠の箱で車輪は鉄だったようです。
写真は昭和17年に撮影された横浜鉱山坑道の入口(最戸町大久保新地)です。
昭和17年当時の新聞には「横濱の眞中に鉱山?亜炭が続々・注文殺到」との見出しが付けられています。
(昭和17年に東燃料工業が)掘出すと同時に石炭の殆ど手に入らぬ現在、各方面から注文が殺到する。
県では亜炭が産出するといふのは初めてのため、マル公(注1)はもとより9・18停止価格令(注2)にも載っていないため、亜炭の二大産地に問合わせ慌てていまマル公算出中だといふ。
ここから産出する亜炭は木質で4200カロリー、平均で3700カロリーで、石炭の6000カロリー以上と比べて遥かに及ばぬが、常磐炭の四級品程度、普通工場のボイラー程度なら十分使用できるし、山形、岐阜等から高い輸送費をかけて移入するのと違ってリヤカーで20分もすれば市の中心地に運べるのだから採算は十分とれるとあり、鉱夫10名とは一寸飯事のような鉱山ながらなかなか活気づいているのは正に燃料国策時代、現場監督談。(注1 マル公:日中戦争下の価格等統制令および第二次大戦後の物価統制令による公定価格)
(注2 価格等統制令=昭和14年勅令第703号)
(昭和17年6月の新聞記事より引用、脚注kameno付記)
日本には資源はまだまだ豊富にあるのだという大本営発表的な意図も含まれている可能性はありますが、資源入手が困難な時期にあっての亜炭産出はよほど貴重なことであったことがうかがい知れます。
亜炭の生産を見ていくと、その背景には戦争の影、戦局が常につきまといます。
これだけ亜炭が産出された背景には、工業化の進展による燃料の確保、そして戦中に有っては燃料の輸送事情が悪化したことによるものです。
日本が大東亜戦争に突入せざるをえなくなった主因は、米軍などにより石油など工業生産に不可欠な石油輸送を封鎖されてしまったことにあると言えましょう。
例えば、1920年代から1930年代において立案された米国海軍による オレンジ計画(War Plan Orange) では、米国が制海権を握り、日本の海路を抑える作戦が取られています。
大東亜戦争開戦に至るまでににおいては、日本の石油供給を止めるために米国は
1939(昭和14)年 米国航空用ガソリン製造設備、製造権の対日輸出禁止など徹底的な資源封鎖を講じました。
1940(昭和15)年 航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸
1941(昭和16)年 日本の対米資産を凍結、石油が禁輸となる
さて、もう1つの石油に代わる資源の入手手段として有力視されたのが人造石油です。
昭和12年「人造石油製造事業法」「帝国燃料興業法公布」が制定され、石炭から人造石油を製造する方法が研究され、一部実用化されました。
しかし、その生産量は僅か70万キロリットル程度に留まり、充分な燃料を供給するには程遠い状況でした。
大戦における戦術として、連合軍は徹底的に南方から輸送される日本軍のタンカーを攻撃していきましたので、この石油資源の枯渇が戦争の敗因の大きな要因となったといっても過言ではないでしょう。
戦時中は稀少な石炭石油資源は主に戦争のために使われることとなったため、資源が不足し、工業生産の補助資源として、家庭用として亜炭が着目されたのです。
戦局がさらに悪化すると、亜炭のみならず松根油の生産まで行うようになりました。
港南区にあった亜炭炭鉱という局所的な史実から、大東亜戦争・太平洋戦争のマクロ的局面の一端も伺い知ることができました。
すなわち、エネルギー供給の動向が戦争を行う主要な契機となりうり、また戦局を決定付ける大きな要因となったということは、現代社会においても、いや現代社会だからこそ深刻に受け止めなければならない教訓であるといえます。
現状、日本はどれほどのエネルギーを自給しているのでしょうか。
日本の経済を支えているエネルギーは、どのように賄われているのでしょうか。
他の国々、特に隣接国は?
エネルギー政策は一国の運命、ひいては地球全体の運命も左右するということを心しておく必要がありそうです。
平和な世の中を支えている土台は意外に脆いものなのかも知れません。
先の記事の続きです。
施食会(施餓鬼会)における餓鬼について考えて見ます。
曹洞宗で施餓鬼会が施食会と改められた理由には様々あろうかと思いますが、例えば
・亡くなったおじいちゃん、おばあちゃんは餓鬼と成ってしまっているの?などという檀家さんからの疑問
・私たちも死後に餓鬼になるかもしれない?
・餓鬼に施すという「上から目線」は如何なものか
・そもそも餓鬼道とか畜生道とか地獄とかいう六道輪廻思想なんてナンセンス
・餓鬼という発想自体が人権問題にかかわるのでは?
このような感じでしょうか。
その根底には「餓鬼」ということばを避けて通りましょうという考えが見受けられる気がします。
そもそも、餓鬼って何でしょうか。
餓鬼[preta]
サンスクリット原語は元来(死せる者)(逝きし者)を意味し、ヒンドゥー教では死後一年経って祖霊の仲間入りする儀礼が行われるまでの死者霊をさす。その間、毎月供物を捧げて儀礼が行われるが、もしこうした儀礼が為されない場合は、pretaは祖霊になれず、一種の亡霊となる。
仏教でも死者霊としての用法はあって、閻魔の住所たる地獄へ行ったり人に憑いたり、生者からの供養をうけて望ましい世界に生まれ変わることを願ったりする。
また中国から日本では、新仏の供養と同時に有縁無縁の三界万霊への供養が合して、施餓鬼会の伝統が発展し、今日に至っている。<後略>
岩波『仏教辞典』中村元他編、岩波書店より引用
現在の施餓鬼法要は、様々な経典、思想が混在して形成されています。
・中国南北朝時代に行われていた水陸会
・仏説盂蘭盆経
・仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経
・地水火風空の五輪思想
・御霊信仰
↓
・日本古来の魂祭り(たままつり)
などなど。
民間祖霊信仰に仏教的思想が有機的に交錯し、施餓鬼会の要素を形成している訳でありますので、そのどれか1つが欠けたとしても施餓鬼とはなりえないといえます。
例えば施食会(施餓鬼会)法要の差定から大悲・甘露門を省略してしまったら、只の先祖供養、新亡供養となってしまいます。
さて、ここで前回のブログ記事より、施食会(施餓鬼会)法要の後半の部分を改めて見てみます。
餓鬼 に向けられた法要 (甘露門) |
↓ [普回向) 願以此功徳 普及於一切 (願わくは この功徳をもって あまねく一切に及ぼし) |
↓ 我等與衆生 皆共成仏道 (我らと衆生と みな共に仏道を成ぜんことを) |
↓ |
当山亡僧法界亡僧伽等 |
さて、この[普回向]の中の
「この功徳をもって」というのは、餓鬼供養も含めた施しのこころによる功徳を以って
「我らと衆生と みな共に」というのは、生きている私たちも、亡くなられたご先祖さんも含めて、みな遍く平等に
ということになるでしょう。
だからこそ、甘露門と修証義の間に普回向が読まれ、餓鬼供養から付施食への流れとなるのだといえます。
「我らと衆生と みな共に」は、さらに言えば
ということでもあります。存者福楽寿無窮(存者は福楽にして寿きわまりなく)
亡者離苦生安養(亡者は苦を離れて安養に生ず)
餓鬼というとなにか差別的な思想が含有されているように思えますが、決してそうではなく
・死せるもの全般をさす
・供養を受けていない御霊
・飢饉、戦乱、災害、大火などにより亡くなられた多くの方々
・私たちの中に貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろか)から生じる煩悩の心
といった複合的な概念のものなのですから、餓鬼への回向は、むしろ私たち自身にも向けられているものであるということを認識することも大切でしょう。
単なる施しを行う法要ではなく、自らを省みる機会としたいものです。
餓鬼というと「餓鬼草子」に描かれた餓鬼がイメージとして定着しています。
東京国立博物館蔵 餓鬼草紙(平安時代・12世紀)より部分
この姿はあくまでも象徴的なものであって、物質的に豊かになったように見える現代社会においても、内面を映し出す鏡を通して私たちを見るとこのように見えるのかもしれませんね。
施食会(施餓鬼会)法要で最後に読まれる修証義第2章は次のように完結します。
我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡 従身口意之所生 一切我今皆懺悔 是の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり 心念身儀発露白仏すべし 発露の力罪根をして 銷殞せしむるなり
(我れ昔より造れるところのもろもろの悪業は、皆いつとも知れず我が身にまつわりついている貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚(おろか)さの妄想が原因である。他から来たのではなく、すべて我が身、我が口、我が意(こころ)から生じた罪過である。わたくしは今、仏の前に一切を懺悔する。このように懺悔すると、必ず仏祖は目にみえぬお力をかしてくださるのである。だから、仏祖の慈悲を心に念じ、端坐合掌、懺悔の文を口に唱えて、一切を告白するがよい。自分をさらけ出し、投げ出すまごころの力は、必ずや罪過をつくり出す根ともいうべき貪瞋癡の妄想を消滅せしめ、清浄なる心境に至らしめてくれるのである。懺悔こそ新生の第一歩である)
このように見ていくと、施食会(施餓鬼会)法要で、いかに餓鬼供養の部分が重要な役割を担っているかが良くわかると思います。
時期を問わず行われる施食会(施餓鬼会)はもとより、盂蘭盆施会食会(施餓鬼会)については (随時行われる)施餓鬼+(お盆の時期に行われる)付施食 のどちらが欠けても施食会(施餓鬼会)法要とはなりえないのです。
餓鬼とは何かを考えてみると、施餓鬼会を容易に施食会に改めてしまったこと、餓鬼の説明を避けてしまっていることについて問題点が見えてくるかもしれません。
煩悩の心に毒された私たちを省み、生きているものも、どんなに苦しい状況にある御霊(みたま)も、全てに広く平等に苦を離れて安楽を得る事ができますよう願う・・・・これほど平らかで思いやりの志を持った法要が他にあるでしょうか。
施食会(餓鬼会)法要の持つ意味を改めてかみしめてみたいものです。
教区寺院の施食会行事も半数の寺院が終わり、今日あたりが丁度折り返し点となります。
丁度良い機会ですので、施食会について振り返ってみましょう。
施食会(せじきえ)は、従来は施餓鬼会(せがきえ)と称されておりましたが、曹洞宗では行持軌範の改定により施食会と称するようになりました。
ただし、従来とおり「施餓鬼会(せがきえ)」あるいは「お施餓鬼(おせがき)」と称している寺院も多くあります。
貞昌院においても施餓鬼会法要としています。
ここで、各宗派の公式ホームページより、行持の呼称と説明を見てみましょう。
宗派 | 呼称 | 説明 (公式Webサイトより引用) |
曹洞宗 | 施食会(せじきえ) | お盆の施食会の法要は、曹洞宗にとって大切なもので、祖先、父母、親類、縁者の精霊、または無縁の精霊に供養するために、各お寺で勤められるのです。 |
天台宗 | 施餓鬼会(せがきえ) | 施餓鬼、お釈迦さまの弟子の阿難尊者が、餓鬼に「おまえの命はあと3日である。死んだ後は餓鬼の世界に生まれ変わる」と告げられたことをお釈迦さまに相談し、「餓鬼に飲食を施しなさい。そうすれば汝も延命がかない、餓鬼も苦しみをまぬがれて天上に生まれることができる」と教えを受けたのに始まります。 法要は施餓鬼壇を設け、五如来の幡をかけて、三界万霊、すべての精霊をまつって修されます。餓鬼に食べ物などの施しをして、先祖供養をするとともに、自らも餓鬼の心を起こさないように自戒する機会です |
真言宗(智山派) |
施餓鬼会(せがきえ) | お施餓鬼の由来は、『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経(ぶっせつぐばつえんくがきだらにきょう)』に説かれる物語です。この物語の主人公は、お釈迦さまの身の回りの世話をし、お釈迦さまのそばで一番多くの教えを聞いたので「多聞(たもん)第一」といわれる、「十大弟子」の一人、阿難(あなん)尊者です。 ある日、阿難尊者が一人修行していると焔口(えんく)という餓鬼が現れ、「阿難よ、お前の寿命はあと三日で尽きる。死んだ後は餓鬼道に堕ち、私と同じような醜く恐ろしい姿の餓鬼になるだろう」と告げました。びっくりした阿難は餓鬼に、「どうしたらその苦をのがれることができますか」と尋ねます。すると餓鬼は答えました。「明日の朝、無数の餓鬼とバラモン(司祭者)に、多くの飯食(おんじき)を布施しろ。そうすれば、その功徳によってお前の寿命は延び、私も餓鬼の苦を離れ、天上に生まれることができるだろう」。しかし、そんなに多くの飯食を一晩で用意することはできません。困った阿難はお釈迦さまに助けを求めました。するとお釈迦さまは、施餓鬼の陀羅尼(だらに)を示し、「心配しなくてよい。この陀羅尼を唱えながら食物を布施すれば、無数の餓鬼、そしてバラモンに心のこもった施しをすることになるだろう」と教えました。そして阿難は、この教えのとおり餓鬼に布施をして、無事に死をのがれ、餓鬼は苦しみから救われたのでした。 ここに出てくる餓鬼とは、地獄・餓鬼・畜生という「三悪趣(さんあくしゅ)」の一つで、飢えと渇きに苦しむものをいいます。 餓鬼は、水を飲もうとしても水が血の膿となって飲むことができず、喉が針のように細いので食べ物を飲み込めない、そして口から火を吐いているので食べ物が燃えて口に入れることすらできないのです。 限りない物欲(ぶつよく)を象徴しているのが餓鬼です。そして阿難尊者が見たものは、自分の心の中にある物欲にほかなりません。物欲に支配されていると、自分本位に走り、人を差別したり、傷つけたりします。そこでお釈迦さまは、物欲に支配された醜い心を洗い、清らかにしていく手だてとして、布施の修行を示したのです。 このように、私たちが生きていく上で避けて通れない「食欲」をたとえにして、「もの惜しみをせず」人間らしく生きていく道を教えてくれるのが、お施餓鬼の法要なのです。 |
臨済宗・黄檗宗(臨黄ネット) | 山門施餓鬼会(さんもんせがきえ) | 盂蘭盆会(うらぼんえ)の当日に行なわれる施餓鬼をいうため、盂蘭盆会、大施餓鬼会ともいいますが、ここで、盂蘭盆会と施餓鬼会は本来、別法要であることを知っておかねばなりません。 |
日蓮宗(本門寺) | 盂蘭盆施餓鬼会(うらぼんせがきえ) | 参列する檀信徒と共に読誦唱題をささげて、各家先祖代々の霊、新盆の霊、戦争災害、交通事故等殉難の霊、法界万霊に供養の心を捧げます。 お盆はお釈迦様の十大弟子の一人、目連尊者が餓鬼界で苦しむ亡き母親をお釈迦様の教えに従って雨安居(雨季の間、一定の場所に留まって僧侶が修行すること)が終わる7月15日に大勢の僧侶に施しをして、亡き母を供養してもらい、餓鬼界から救われたことに由来しています。 花や線香を手にした参詣者は、墓前において手を合わせ、感謝の誠を捧げます。 |
浄土宗 | 施餓鬼会(せがきえ) | 「おせがき」は、「施餓鬼会(せがきえ)」「施食会(せじきえ)」などといわれ、各宗派を通じて行われる仏教行事の一つです。 その由来は、『救抜焔口餓鬼陀羅尼経(くばつえんくがきだらにきょう)』というお経によるといわれています。 それによると、釈尊の十大弟子の一人である、阿難尊者(あなんそんじゃ)が、ひとりで瞑想している時、口から火を吐く一人の恐ろしい餓鬼があらわれ、「お前は3日後に死んで、我々と同じ恐ろしい餓鬼道に落ちる。」と言いました。恐れおののいた阿難尊者が、どうしたらそれを免れることができるかを尋ねたところ、その餓鬼は、「その苦から免れたければ、三宝(仏・法・僧)に供養しなさい。また無数の餓鬼たちに食物を(ほど)こして供養した功徳(くどく)により、餓鬼も救われ、その功徳によってお前も救われるだろう。」と答え、姿を消しました。 阿難尊者は、釈尊に教えを請い、寿命を延ばすことのできた阿難(あなん)の説話にもとづく行事である。 その求めに応じて釈尊が示された修法が施餓鬼会のはじまりとされています。そして餓鬼だけでなく、先祖代々や広く無縁の諸精霊(しょしょうれい)を供養し、また同時にみなさん自身の福徳延寿(ふくとくえんじゅ)を願うわけです。 ぜひこの施餓鬼会の機会に、心からお念仏を称(とな)え、自他ともに救われる功徳(くどく)を積んでいただきたいものです。 本来、施餓鬼会の期日は定められていませんが、お寺の年中行事のひとつとして、お盆の頃におこなわれることが多く、施餓鬼棚に「三界万霊牌」や初盆の戒名を記した位牌を置き、浄水や食物を供え、五如来の「施餓鬼幡」を立てて法要を営むのが習わしです。 施餓鬼会は、新亡の霊や先祖代々の諸霊を供養するとともに、無縁仏や餓鬼に施しをする法要でありますが、さらに日頃の自分自身に巣くう「餓鬼」の心を反省し、自他ともに生かされている身をしっかり受け止め、救われる功徳をお互いに積んでいくことが大切なことであります。 今日ではお盆の前後に行われることが多く、先祖追福のために、また一切の生物の霊を慰め、あわせて自分自身の福徳延寿(ふくとくえんじゅ)を願う法要である。 |
浄土真宗 | --- |
施食会としているのは曹洞宗だけですね。
(それはそれで良いのですが、それならば少し説明が簡素すぎる感がありますし、「餓鬼」についても触れたほうがいいとも思います)
施餓鬼会(施食会)法要の差定(式次第)は、各宗派、地域により大きく異なります。
曹洞宗神奈川県第五教区でのスタンダードな差定を改めて検証してみましょう。
※差定は行持軌範「盂蘭盆大施食会」項、一般の恒規大施食会・・・の差定に則ります。
殿鐘三会・七下鐘導師上殿 | 回向の対象 |
上香普同三拝(置茶湯) 読経(般若心経) 本尊上供回向 普同三拝 |
part1 釈迦牟尼仏 現座道場本尊 高祖承陽大師(道元禅師) 太祖常済大師(瑩山禅師) |
転班・南面 | |
鼓ハツ三通 読経(大悲心陀羅尼) 普回向 |
part2 餓鬼 |
読経(修証義) <参列者焼香> 施食会回向 鼓ハツ三通 |
part3 当山亡僧法界亡僧伽等 当寺開基 万国殉難者諸精霊 ・・・・・ 檀信徒各家先亡諸精霊 ・・・六親眷属七世の父母 有縁無縁法界の含識等・ |
導師退堂・散堂 |
このように、法要は大きく前半・後半の2つに、さらに後半が2つに分かれており、前半は北面法要(前後三拝)、後半は南面法要(前後鼓ハツ三通)となっています。
さらに後半の部分が2つのパーツから構成されておりますので、全体として3つのパーツにわかれているといえます。
それぞれの回向の対象は、
part 1 (本尊上供)
大恩教主本師釈迦牟尼仏、現座道場本尊、高祖承陽大師(道元禅師)、太祖常済大師(瑩山禅師)
part 2 (施餓鬼)
餓鬼
part 3 (付施食)
当山亡僧法界亡僧伽等、当寺開基・・・万国殉難者諸精霊・・・・天災地変横死者諸精霊・・・・檀信徒各家先亡諸精霊・・・六親眷属七世の父母、有縁無縁法界の含識等・・・・
となっています。
さて、よく言われるのが、施餓鬼(施食)会法要は、『仏説盂蘭盆経』と『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経との混用(盂蘭盆会と施餓鬼会を混同)ということです。
しかしながら、整理してみると、本尊上供 + (随時行われる)施餓鬼 + (お盆の時期に行われる)付施食 となっているのですから、混用というよりは併修という言い方のほうが適切でしょう。
曹洞宗では公式には「施食会」という呼称としていますが、押し並べて「施食会」という言葉だけを強調すると、檀家さんからは「この法要に参加すると、何か食事でも戴けるのでしょうか?」などという誤解も生じるかもしれません。
単に名称を変えることだけではなく、きちんとその理由を説明していく必要がありますね。
蛇足ですが、教区寺院の中には、part3 の 当山亡僧法界亡僧伽等を精霊棚ではなく、須弥壇にお迎えし、開山歴住とともに北面の本尊上供中で回向する寺院もあります。
その場合は、後半、南面の拈香法語や施食回向においては、当山亡僧法界亡僧伽等が省略されています。本来はそのようにするべきでしょう。
実際に施餓鬼(施食会)法要において、亡僧牌は須弥壇、精霊棚どちらにお迎えすることが多いのか、法語の中でどちらで読み込むことが多いのか気になるところです。
ということなどを考えながら、今日もこれから法要随喜に出かけます。
気象庁は、今年2009年関東甲信地方の梅雨が 7月14日に明けたとみられる と発表しました。
これは平年より6日早く、昨年と比べて5日早いとのことです。
しかし、梅雨明け発表から今日まで雨の日が多かったように感じます。
そもそも、梅雨はその前後の時期と比べて雨が多くなるために日照が少なくなる季節現象です。
したがって、日照時間を毎日記録して精査すれば梅雨明けの時期が概ね判ります。
貞昌院の太陽光発電設備の生み出す電力量は、日照時間と相関関係にありますから、発電量の累計をグラフ化すると一目となります。
さっそくグラフで見てみましょう。
グラフの中の★印が、気象庁発表の梅雨明けの日です。
(2009年は速報)
このグラフから見ると、やはり7月14日が梅雨明けというのは、横浜について言えば早すぎるということが言えそうです。
おそらく、8月後半から9月前半あたりに梅雨明け日の訂正が発表されると思いますので、その発表を待って比較してみましょう。
太陽光発電量のグラフから判断するに、7月25日前後を境にグラフの傾きが大きくなっていますので、このあたりが梅雨明けと判断してよいのではないかと思います。
今年は国際天文年ですので、星の話題を書いてみます。
太陽系には数限りない星があるわけですが、その中で断トツに数が多いのは小惑星です。
現在までに小惑星番号が与えられ、軌道が計算できる小惑星だけでも20万個を超えています。未知の小惑星も多いわけですから、毎年多くの小惑星が発見されています。
発見者に与えられた特典は、命名権です。
新しい小惑星であると正式に認められ、軌道要素が確定することにより小惑星センターで登録され、小惑星番号と共に命名が為されます。
小惑星名には発見者のような人名も多く、また発見者とは別の名前を付けることも出来るため著名人の名前も多くつけられています。
宗教者についても例にもれず
宗教者に因む小惑星名一覧
(89) ジュリア(コルシカのジューリア、5世紀の殉教者)
(1840) フス(ヤン・フス)
(5275) ズディスラワ(ズディスラワ・ベルカ (en)、13世紀チェコの聖人)
(6031) 良寛(良寛)
(6866) 空海(空海)
(7100) マルティン・ルター(マルティン・ルター)
(7256) ボンヘッファー(ディートリッヒ・ボンヘッファー、反ナチス活動を行った牧師)
(7674) 春日(春日了、僧侶、声学家、天文家、奇術師)
(8661) ラッツィンガー(ベネディクト16世の俗名)
(11064) 道元(道元)
(11254) 金光碧水(金光鑑太郎の雅号)
(15672) 佐藤範雄(佐藤範雄、金光教徒、教育者)
出典: ウィキペディア(Wikipedia) 人名に因む名を持つ小惑星の一覧 項
というように多くの名前が見られます。
東京のお寺でプラネタリウムを運営している住職さんの名前もありますね。
小惑星「道元」もあります。
そして、このウィキペディアのリストにはありませんが、小惑星「瑩山」もありました。
つまり、曹洞宗の両祖さまの小惑星が存在するのです。
11064 Dogen??????????Discovered 1991 Nov. 30 by M. Mukai and M. Takeishi at the JCPM Kagoshima Station. |
The Japanese priest Dogen Zenji (1200-1253) built Eiheiji Temple in Fukui prefecture in 1243 in order to preach Zen Buddhism, and he fostered many disciples there. In Eiheiji Temple, over 200 monks still practise asceticism. |
15790 Keizan??????????Discovered 1993 Oct. 8 by M. Mukai and M. Takeishi at the JCPM Kagoshima Station. |
The Japanese priest Keizan Zenji (1268-1325) practised asceticism at the Eiheiji Temple in Fukui prefecture and built Sojiji Temple in 1321. Afterwards he built temples in various parts of Japan to spread Zen Buddhism. |
この小惑星「道元」は1991年11月30日に、「瑩山」は1993年10月8日に、どちらも鹿児島市のアマチュア天文家である向井優さん、武石正憲さん両名の共同観測により発見されました。
まさに両祖さまが宇宙空間を旅されているわけです。
軌道要素はNASAのサイトによると下記のとおりです。
Element | 11064 Dogen (1991 WB) |
15790 Keizan (1993 TC) |
e 軌道離心率 | 0.3274343 |
0.3168055 |
a 軌道長半径 AU | 2.7503045 |
2.3606208 |
q 近日点距離 AU | 1.8497605 |
1.612763 |
i 軌道傾斜角 deg | 35.95032 |
22.86893 |
node 昇交点黄経 deg | 79.13933 |
23.61418 |
peri 近日点引数 deg | 314.75934 |
293.58811 |
M 平均近点角 deg | 330.93593 |
152.63364 |
tp JED | 2455135.0003858 (2009-Oct-30.50038580) |
2454438.8244296 (2007-Dec-04.32442961) |
period 周期 year | 4.56 |
3.63 |
n 平均日々運動 deg/d | 0.21608912 |
0.27174698 |
Q 遠日点距離 AU | 3.6508485 |
3.1084785 |
軌道を計算により追尾してみると、小惑星「道元」は今年の9月?年末にかけて地球に接近することがわかりました。
道元禅師・瑩山禅師ご両尊の忌日である両祖忌は、9月29日ですので、その時の軌道計算もしてみました。
今年最接近するのは2009年11月15日前後で、その距離は 1.008AU(天文単位)となります。
太陽と逆方向に見えますので、観測するには都合が良いでしょう。
なお、小惑星 「瑩山」は太陽の向こう側にあるため、しばらくの間は観測が困難となっています。
では、この日小惑星 「道元」がどれくらいの明るさで見えるのかというと・・・絶対等級から勘案して概ね13等級となるでしょう。
(天文シミュレータソフト Stella Theaterにて作成:AM3:00ごろ南西の地平線近辺に見えるはず)
肉眼では観測不可能ですけれど、天体望遠鏡であれば見ることが出来そうです。
このように今年の両祖忌の前後にかろうじて見ることが出来ることになりそうですが、夜空にはまだまだ私たちの気づいていない未発見の数限りない天体があるかと思うとワクワクしますね。
貞昌院客間に掲げられている勝海舟による「眠雲」の扁額について、よくその意味を尋ねられます。
折角の機会ですので、出典を辿りながら考えてみましょう。
扁額を書かれた勝海舟は、幕末から明治時代にかけて活躍した幕臣の三舟(勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟)の一人です。
幕末、徳川慶喜から戦後処理を一任された勝は、官軍の西郷隆盛との交渉役に高橋を推薦するが、高橋は遊撃隊(慶喜の身辺警護にあたる)の隊長を務めており、江戸を離れることができなかった。代わりに推薦されたのが、高橋の義弟にあたる山岡であった。
慶応4年(1868年)3月9日、山岡は西郷との会談で、江戸城開城の基本条件について合意を取り付けることに成功した。その後、勝が単身で西郷と交渉、同年4月11日、江戸城は無血開城されることとなる。
江戸を戦火から救った勝、山岡、高橋の名前にいずれも「舟」がつくことから、この3人を「幕末の三舟」と称するのである。
(出典:Wikiペディア)
江戸城無血開城の年、徳川慶喜の家臣、陸軍総裁であった勝海舟の手下であった平野玉城が朝廷方官軍に追われ、この永谷の地に逃れる時点から歴史年表としてまとめてみました。
■永谷学校と勝海舟の書の年表
慶応 4(1868)年(明治元) 徳川慶喜の家臣、陸軍総裁勝安房(海舟)の手下、平野玉城が朝廷方官軍に追われたところを、現在の横浜市港南区下永谷で醤油醸造を行っていた福本宅にて助けられる。
明治 9(1876)年、一命を助けられた平野玉城は、命の恩人福本輿四郎宅を再び訪れた。その際村人よりに当地に滞在するよう懇願された。
明治10(1877)年 村民に推されて棲心庵学舎に第三級訓導として教職に就く。平野玉城が就任するや入学者が殺到し、庵が手狭になった。
明治12(1879)年 水田の権田ケ谷戸に永谷学校が新築された。平野玉城はその落成記念にかつての師、勝海舟に「永谷学校」の書をお願いし快諾の上贈与された。現在は永野小に保存。
明治22(1889)年 町村制が執行され、永谷、上野庭、下野庭の3村が合併して永野村となる。
明治22(1889)年 永谷学校と野庭学校が併合、永野学校(本校)、野庭学校(分校)。
明治24(1891)年 小学校設備準則により永谷学校が現在の永野小学校の位置に移転。
明治24(1891)年 平野玉城、鎌倉の長谷にて死去。
明治25(1892)年 野庭学校が村役場として永谷学校の隣に役所として移転。
明治30(1897)年 平野玉城7回忌の時、子息平野直吉(第一代永野小学校長)より玉城の分骨を得、貞昌院墓地に埋葬。
明治36(1903)年 平野玉城の徳を慕う人々により、13回忌が盛大に行わた。列席した直吉は感激し、貞昌院28世住職・亀野源量和尚(第四代永野小学校校長)に勝海舟の書「眠雲」を記念として贈呈。
現在その書は貞昌院の寺宝となっている。
永野小学校、貞昌院と平野玉城の密接な関係がわかると思います。
この関連として、以前書いたブログ記事や、貞昌院のホームページ、勝海舟の書―永谷学校―(港南歴史協議会)でも勝海舟の書に関する記録を掲載していますので、是非あわせてご覧ください。
貞昌院に掲げられている勝海舟の書は「眠雲」と書かれています。
眠雲・・・山中に住むこと、雲の中や上で眠ること 『新大字典』(講談社)
眠雲とは、雲の中に眠ることということで、自然に囲まれた山深い地で、雲の中に眠り、大自然の懐に抱かれて俗世間の喧騒から離れた生活を送るという意味であります。
その出典の1つに「臥月眠雲」が挙げられます。
師紹定二年五月一日。在靈隱。受請入寺陞堂祝聖畢。就座。
僧問。呼猿洞口。無心臥月眠雲。長水江頭正好。?綸擲釣。只如靈山密付。還許學人咨參也無。
師云。崑崙嚼生鐵。・・・<以下略>
『虚堂録』巻1「興聖寺語録」
虚堂智愚禅師(1185?1269)は南宋時代、臨済宗松源派の禅僧です。
運菴普巌の法を嗣ぎ229年に霊隠寺より興聖寺(浙江省嘉興府)に晋住。その際の最初の上堂における問答の部分が上記の句です。
霊隠寺の呼猿洞で無心に「臥月眠雲」の修行を続けてこられた禅師の教えを受けることが出来る興聖寺の僧侶たちの様子がよく表れています。
虚堂智愚禅師はその後、報恩寺、顕孝寺、瑞巌寺、延福寺、宝林寺、阿育王寺、浄慈寺などに歴住されました。
日本臨済宗各派の法系につながる南浦紹明禅師(1235-1309)の師匠でもあることから、特に茶道界ではこの虚堂智愚禅師がとても重んじられております。
例えば、江戸・大崎(現在の御殿山)に在った大崎茶苑(大崎苑)の邸内には11の茶室があり、その1つに「眠雲庵」がありました。
この大崎苑は、松江藩七代藩主・松平治郷公(号は「不昧」)の所有していた1万8千坪の大茶苑です。
「眠雲庵」の扁額は、現在東京国立博物館(東京都台東区)に所蔵されています。
(『臥月眠雲』額・写真は">山陰中央新報の記事より)
また、伊豆半島の湯ヶ島には、国指定有形文化財に登録されている「眠雲樓」 (後に「落合樓」と改名)があります。
こちらには、幕臣の三舟、山岡鉄舟、高橋泥舟らが集い、高橋泥舟による「眠雲」の書が残されているそうです。
(いつか実際に見てみたいものです)
このように、「眠雲」を辿ると、さまざまな繋がりが見えてきました。
最後に「眠雲」について、もう1つ出典をご紹介いたします。
蘆花被下 臥雪眠雲 保全得一窩夜気
竹葉杯中 吟風弄月 躱離了萬丈紅塵
『菜根譚』後集38
『虚堂録』は「臥月」でしたが、こちらは「臥雪」です。
躱離了萬丈紅塵・・・萬丈の紅塵を躱離たりし了わる
雪が吹き込む質素な庵で、蘆の入った布団に横になり、雲の中で眠れば、気が満ちてきて元気が漲ってくる。
竹の葉の杯を飲みながら 風に詩を吟じ、名月を愛でれば 俗世間の塵芥は落ち清浄となる
そのような意の扁額を寺宝として大切に守っていきたいと思います。
鯉のぼりの泳ぐ空 |
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15世紀のカリブ海 |
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ポセイドンの深海 |
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早春の忘れな草 |
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雨上がりのあじさい |
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琉球の瑠璃柳 |
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大正ロマンの紅藤 |
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3月3日ひなまつり |
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母の日のカーネーション |
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インドのマンゴー |
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晩秋の柿の実 |
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初夏の枇杷 |
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夏祭りのほおずき |
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浜辺で拾った桜貝 |
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夕暮れの彼岸花 |
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八百屋さんの完熟トマト |
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ニッポニア・ニッポン |
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秋風に揺れるコスモス |
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安曇野のわさび |
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睡蓮の浮かぶ古池 |
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おばあちゃんの草餅 |
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シュッツトガルトの森 |
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春霞の香具山 |
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新月の松林 |
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陽炎にゆれるモスク |
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5月の富士山 |
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夏休みの朝顔 |
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故宮の夜 |
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紺碧の宇宙 |
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子供の頃の茜雲 |
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インカの太陽 |
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シュリンプカクテル |
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八重咲きの鳳仙花 |
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お姫様と毒リンゴ |
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白いテラスのレモネード |
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八十八夜の茶摘み |
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スコットランドの蔦の洋館 |
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苔むす石畳 |
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朝焼けのアルプス |
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ノルマンディの海に沈む夕日 |
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紅葉の交響曲 |
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暖炉の残り火 |
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煉瓦通り |
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小春日和の冬木立 |
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天津の甘い栗 |
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クラリネットの音色 |
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ブルージュのチョコレート |
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楊貴妃の梨の花 |
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ギリシャの大理石 |
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オーストラリアのアカシア |
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南半球のクリスマススカイ |
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地中海の妖精 |
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長谷寺の牡丹 |
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萩の夏蜜柑 |
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ほろ酔いのピーチフィズ |
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鮮やかなサボテンの花 |
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れんげ草のじゅうたん |
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あぜ道のたんぽぽ |
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孔雀の羽根 |
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午後のアップルティー |
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ポケット一杯のキャラメル |
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野を駆けるサラブレッド |
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小鹿の散歩 |
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中秋の名月 |
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萌黄おどし |
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下校途中の猫じゃらし |
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新緑の風 |
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森林浴 |
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五月雨 |
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クリスマスの樅の木 |
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グラスホッパー |
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静かな湖畔 |
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お正月の門松 |
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珊瑚礁の海中散歩 |
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瀬戸内に浮かぶ小さな島 |
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ヒマラヤの青いケシ |
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月夜の杜若 |
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ヒースの丘 |
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珊瑚の首飾り |
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梅雨の晴れ間の青梅 |
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柊のクリスマスリース |
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シベリアの針葉樹林 |
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ナイチンゲールの歌声 |
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アンデスの空ゆくコンドル |
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白百合のつぼみ |
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ペパーミントの葉 |
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春の七草粥 |
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月の女神・ダイアナ |
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キンセンカの咲く頃 |
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雪降る夜のペチカ |
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10月のパンプキンパイ |
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にんじんのグラッセ |
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ミックスジュース |
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聖夜のキャンドルライト |
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山里のグミの実 |
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カナダのスモークサーモン |
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アルプス乙女 |
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スウィトピーの花束 |
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女王カトレア |
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カシスソーダの誘惑 |
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星影の桔梗 |
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ため息のベール |
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闇夜のカーテン |
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博多の辛子明太子 |
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キャベンディッシュの三日月 |
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草千里 |
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ゆでたてのさやえんどう |
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午前7時30分の露草 |
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プリンスメロンのデザート |
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幸せを運ぶカナリヤ |
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雨に香る銀木犀 |
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青磁の香炉 |
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ビスクドールの頬 |
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デリーのピンクローズ |
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ラスコーの壁画 |
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雪ん子のほっぺ |
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フロリダのオレンジ |
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南アフリカのフラミンゴ |
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マロニエの並木道 |
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日溜まりのマリーゴールド |
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出窓を彩るセントポーリア |
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盛夏の鬼百合 |
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潮風にそよぐハマナス |
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夏咲きの東洋蘭 |
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風にふくらむ合歓の花 |
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アステカ王国のダリア |
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7月のグレープフルーツ |
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パルテノン神殿の夜更け |
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夕暮れのグランドキャニオン |
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カルガモの親子 |
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5月の青麦畑 |
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南極のオーロラ |
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ラムネのあぶく |
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バルセロナの聖火 |
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サファイアの祈り |
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雪解け水と桜草 |
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紅殻格子 |
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山道のからすうり |
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巫女の紅袴 |
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紫禁城の沈黙 |
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プラムのタルト |
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夜明けのサフラン |
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子兎の小さなお耳 |
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嵐のドーバー海峡 |
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若返りの泉 |
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朝日を浴びるなすび |
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南仏のラベンダー |
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聖母マリアのすみれの花輪 |
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ミッドナイト |
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満開のアザレアガーデン |
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摘みたてのブルーベリー |
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プランター栽培のパセリ |
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輪切りのレモン |
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朝露に濡れる牧場 |
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西部のテキーラサンライズ |
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クランベリージャム |
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大和撫子 |
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新鮮なラディッシュ |
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薩摩ガラスのぬくもり |
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谷川のサワガニ |
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清少納言のあこがれ |
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雷小僧 |
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コンロン山脈の闇のとばり |
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古代エジプトのリンドウ |
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新大陸に実る巨峰 |
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ペルシャのざくろ |
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カルメンのバラ |
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ミモザサラダ |
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カスタードプティング |
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収穫まぎわの麦畑 |
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ライオンのたてがみ |
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河川敷きの枯れススキ |
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落ち葉焚き |
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カフェロワイヤルの炎 |
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神秘なる縄文杉 |
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朝市のパンジー |
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水車と黒いチューリップ |
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温室育ちのブーゲンビリア |
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京菓子と抹茶 |
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ファラオの時代のナイル河 |
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青竹の一輪差し |
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木陰のコノハチョウ |
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小川の藻 |
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台風一過の夕焼け空 |
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静寂のアマリリス |
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エリカ街道 |
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春の宵の矢車草 |
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晴天のアドリア海 |
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夕立の雨宿り |
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ジェラシー |
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朝食のスクランブルエッグ |
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ひまわり娘 |
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檜の湯桶 |
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ジンジャークッキー |
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春を待つ猫柳 |
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満月に照らされたススキ |
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ハイドパークの芝生 |
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尾瀬の水芭蕉 |
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暗闇のキャッツアイ |
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金沢の友禅流し |
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英国のサクランボ |
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神に捧げた青銅器 |
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火の鳥の舞 |
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丹頂鶴のベレー帽 |
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乙女座宮 |
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石舞台古墳の深い眠り |
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土手に咲くキンポウゲ |
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古都の屋根瓦 |
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くるみ割り |
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ネパールのベンガル虎 |
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謎めく無人島 |
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朝もやに霞むしだれ柳 |
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広口瓶のピクルス |
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宇治の茶団子 |
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水が薫る葉月 |
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ヴァニラアイスクリーム |
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海で生まれた天使の翼貝 |
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雪国の低い空 |
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ティモール海の青海亀 |
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レイシの果実 |
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ローズマリーオイル |
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懐かしい金平糖 |
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パリのカフェオレ |
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コンソメボラーユ |
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寿のいくら |
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夜明けを待つロンドン塔 |
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飾り窓のヒヤシンス |
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額田王の茜 |
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浅草の手焼きせんべい |
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入江のさざなみ |
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クレオパトラの真珠 |
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キリギリスの演奏会 |
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週末のレマン湖 |
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日本海の漁火 |
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輝く樹氷 |
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シャンピニオンのかさ |
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お母さんのおしるこ |
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茶の湯の釜 |
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霜の降りたキャベツ畑 |
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白菜の浅漬 |
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アポロンの月桂樹 |
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軒先の干し柿 |
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雨にむせぶ赤土 |
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ペルーの更紗 |
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涼しげな水羊羹 |
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わらぶき屋根 |
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ジュラ紀のアンモナイト |
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カッコウワルツ |
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旬の秋刀魚 |
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冬のオホーツク海 |
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湿原のツルコケモモ |
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バッカスの髪を飾る葡萄 |
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お昼寝するチャウチャウ犬 |
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たちこめる雨雲 |
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ノースランドの羊の群れ |
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初めての口紅 |
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山菜摘み |
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メキシコの百日草 |
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蝉時雨の深山 |
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夕日に染まる白壁 |
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こおろぎの輪唱 |
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夏の日よけの簾 |
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おとぎ話のかぼちゃの馬車 |
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古久谷の角皿 |
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夏の終わりの20世紀ナシ |
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囲炉裏でつくる茶粥 |
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木漏れ日のプロムナード |
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ブロッコリーサラダ |
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端午の節句の菖蒲湯 |
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木の芽料理 |
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アマゾンのジャングル |
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紅茶染めのテーブルクロス |
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竹の子掘り |
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シルクロード |
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木の幹のカブトムシ |
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甘ずっぱい青りんご |
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田植えの季節 |
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ベゴニアの花時計 |
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丘の上のポピー |
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弾ける野木瓜 |
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アラビアンナイト |
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シオンの咲く庭 |
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色づくいちょう並木 |
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大輪の菊祭 |
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ピーナッツバター |
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緑の黒髪 |
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幸運の茶柱 |
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ガイフォークスの花火 |
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秋のおみなえし |
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アランバーンズの白馬 |
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瞑想の孔雀石 |
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タツノオトシゴ |
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やまびこ |
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校庭のテニスコート |
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キッシンググラミー |
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温泉の湯けむり |
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ほかほかの石焼き芋 |
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ムール貝のワイン蒸し |
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金閣寺 |
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秋の夜長のホットココア |
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津和野の花菖蒲 |
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琥珀のブローチ |
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インド洋のアオヒトデ |
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山ほととぎす |
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雑木林のヤブレガサ |
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霧けむる山麓 |
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初雪の空 |
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ブラックチェリーパイ |
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アフロディーテの微笑 |
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野辺に咲く黒百合 |
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卵料理とパプリカ |
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春を告げるうぐいす |
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オランダの木靴 |
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メープルシロップ |
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リスのドングリ集め |
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ランプの灯火 |
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アルパカのセーター |
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天女の羽衣 |
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高野山の肝だめし |
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竜宮の宴 |
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雨を喜ぶあまがえる |
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北海道のじゃがいも畑 |
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七夕の笹の葉 |
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オレンジピール |
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桃源郷 |
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屋久島のおさるさん |
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スペインのオリーブ畑 |
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レディーマクベスの夜 |
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すなけむり |
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黄昏のスフィンクス |
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鎮守の森 |
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ライムのソルベ |
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コマドリの巣づくり |
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山東省の田舎道 |
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藍の絞り染め |
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鹿鳴館の舞踏会 |
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ベートーヴェン「田園」 |
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栗毛の少女 |
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春一番のふきのとう |
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かぼちゃのランタン |
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馬車のわだち |
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ヘリオトロープの香り |
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紫の炎 |
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清らかなかすみ草 |
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赤ちゃんの手 |
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焼きたてのマドレーヌ |
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絹の光沢 |
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スウェーデンのリンネソウ |
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残暑の頃のくず餅 |
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星のきらめく夜空 |
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四つ葉のクロバー |
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トワイライトゾーンの雪 |
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宵の明星 |
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夜露のマチュピチュ遺跡 |
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お父さんがつくった笹舟 |
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冬将軍の到来 |
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湯上がりの梅酒 |
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山際に沈む夕日 |
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ラフレシアの謎 |
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ピエロの涙 |
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洋梨のコンポート |
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阿寒湖のマリモ |
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モニュメントバレーの残丘 |
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野生のルピナス |
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若草の息吹 |
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谷間に響くこだま |
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二月のアメシスト |
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天馬の駆ける空 |
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咲き乱れる山吹 |
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デンマークの菜の花畑 |
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なみなみ注ぐティーオーレ |
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かごいっぱいのネーブル |
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木苺のゼリー |
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雨上がりのクモの巣 |
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バイカル湖のラピスラズリ |
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雛壇の金屏風 |
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水面に映える岸辺の葦 |
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香ばしいフランスパン |
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1月の葉牡丹 |
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街角のプラタナス |
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ファイヤーストーム |
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真夜中のミステリー |
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洗いざらしのダンガリー |
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寒空の三日月 |
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リネンのテーブルクロス |
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初恋のミルクチョコレート |
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勝利に酔う土佐犬 |
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花壇を縁取る芝桜 |
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エトルタの海岸線 |
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たらの新芽 |
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コアラの好きなユーカリ |
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野山のピクニック |
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カヌー小僧とヤシの実 |
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たぬきの鼓笛隊 |
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氷柱のしずく |
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渓谷の深淵 |
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銀の燭台 |
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和敬静寂 |
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夕暮れの雪景色 |
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女学生の矢がすり |
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ニュージーランドのキウイ |
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おだやかな昼下がり |
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目覚めのブラックコーヒー |
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サハラ砂漠の風紋 |
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羊飼いの角笛 |
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マスカットキャンディー |
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メキシコの柱サボテン |
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魔法使いのマント |
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スズメノテッポウの草笛 |
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高原のニッコウキスゲ |
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ネス湖のネッシー |
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たわわに実る黒すぐり |
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帆船の渡る海 |
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粋に着こなす黄八丈 |
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桐の箪笥 |
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手づくりのリンゴジャム |
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傷心のティラミス |
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鉢植えのゼラニウム |
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椿の花咲く小径 |
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長崎のビードロ |
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金沢の土塀 |
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松ぼっくりのドアリース |
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せせらぎのカワセミ |
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森の茂みのオオルリアゲハ |
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華麗なジプシーダンス |
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アーサー王の剣の湖 |
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切り株のテーブル |
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ひきたてのきなこ |
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温かいオートミール |
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ピースメモリーパークの鳩 |
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大文字の送り火 |
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初詣の焼きぎんなん |
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太陽のプロミネンス |
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モロッコのターバン |
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マホガニーの揺りかご |
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空を映す湖 |
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咲きけぶる三椏の花 |
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古本の皮表紙 |
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国道沿いのカンナの花 |
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セント・バレンタイン |
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セーブルの陶器 |
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ベランダのセキセイインコ |
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モンゴルの大草原 |
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イカすみのスパゲティー |
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薄氷の張る水たまり |
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ルナパークの噴水 |
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ハレー彗星の伝説 |
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カンパニュラの夢 |
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風にのる萩の花びら |
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スターチスのドライフラワー |
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クリームソーダのはじける泡 |
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原初の春 |
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夢見る五月 |
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休日の草野球 |
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南国の楽園 |
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潮騒 |
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エメラルドの都 |
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避暑地の軽井沢 |
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プリンスエドワード島の夏 |
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恐竜のいた原生林 |
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古代の翡翠の曲玉 |
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アラスカのブリザード |
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翠の風鎮 |
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熱帯夜 |
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ふるさとの海 |
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愛のキューピッド |
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ためらい |
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サンタフェのテラコッタ |
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秋のウラシマツツジ |
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栗まんじゅう |
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祝言の朝の桜湯 |
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杏の里の花便り |
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マドリッドのサングリア |
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ビーツの酢漬け |
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神話の中の悲哀 |
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コロボックルの衣装 |
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深山おろし |
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浅もやの中の山荘 |
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優雅なネーレイド |
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シャム猫の澄んだ瞳 |
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ポンパドゥール夫人の笑顔 |
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岩陰のユキワリソウ |
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山桜のぼかし |
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ウェディングパーティー |
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ライラックのティアラ |
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いぐさの花むしろ |
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新緑の中の山ツツジ |
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オレンジシャーベット |
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トルコ石のプロミスリング |
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人魚のまとうローブ |
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夕張メロン |
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甲子園の砂 |
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ぬかるみのムツゴロウ |
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霧雨の午後 |
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平安京の藤棚 |
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初秋の残霧 |
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硝子窓をうつ北風 |
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レッドテールナイト |
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夜明けの一瞬 |
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ラムレーズン |
モンゴルの草原色
この色を好む人は温厚な人柄で、
物事に対する姿勢や意見は率直で
包み隠しすることなく、
誠意ある行動をとります。
(c)Jun-ichi Nomura
フェリシモが先月から販売を始めた「500色の色えんぴつ」が大人気だそうです。
この色鉛筆セットは、平成4年に限定販売した500色セットの復刻版ということで、多くの再販希望の声に応える形での発売となりました。
(復刻されるのは良いのですが、以前は三菱鉛筆製、今回は中国製というのが少し残念です)
さて、この500色の色鉛筆、眺めるだけでも様々な想像力が喚起されますけれど、一本一本(一色一色)に名前が付けられているのがもう一つの特徴です。
命名は色彩学者・野村順一氏によりなされ、その色の持つ特徴や、その色を好きな人についての物語が提案されています。
冒頭の緑色はモンゴルの草原色だそうです。
このような色たちが紹介されている500色の色鉛筆特設サイトがとても美しいです。
この記事の右側⇒に、500色の色鉛筆の色を再現して並べてみました。
(パソコンのディスプレィですから、実際の色鉛筆の色と若干異なることをご了承ください)
「色」の右側を「マウスを左クリックしたままなぞる」と、野村順一氏による色名が表示されるようになっています。
それぞれの色に、皆さんはどのような名前を付けますか?
逆に、
「ポンパドゥール夫人の笑顔」
「ナイチンゲールの歌声」
「カッコウワルツ」
「謎めく無人島」
「シルクロード」
「霧雨の午後」
「ベートーヴェン 田園」
「高野山の肝だめし」
「ためらい」
「熱帯夜」
「やまびこ」
「こおろぎの輪唱」
「谷間に響くこだま」 ・・・・
などなど、色の名前からどのような色をイメージするかを楽しむこともできますね。
年代によって、性別によって、国によって、傾向もことなるはずです。そういう学術的な調査も面白いですね。
モンゴルの草原の色も場所によって、時間によって、天気によって全く違う景色に見えました。何時間もの移動も全く退屈することはありませんでした。
色とそれから生み出されるイメージが固定化されてしまうことはつまらないことです。
しかし、それらを前提として自分のイメージと他人のイメージを比較してその差異を楽しむことや、先入観と実際の色との違いを実感することも面白そうです。
■蛇足
最近の絵の具や色鉛筆からは、かつてあった「肌色」という色名が消え、「ペールオレンジ」などの言い換えがされています。
人種には多様性があり、肌色も多種多様であるために特定の色を決めるのはおかしいという人権的な配慮からと言われています。
人種差別に対する問題意識から、人種・個人差・日焼けの度合いによって肌の色は異なるのに特定の色を肌色(フレッシュ)と規定する事はおかしい、としてこの名称を避ける動きがあり、クレヨン・クーピーペンシル・絵具等で従来の肌色を薄橙(うすだいだい)・ペールオレンジ(pale orange)等と言い換える場合がある(アメリカでは、たとえば1962年にCrayola社は肌色に相当するfleshの呼称をpeach「ピーチ」と呼び変えている)。
(出典: ウィキペディアWikipedia「肌色」項)
まあ、これも固定概念を植えつける上での弊害の一つですね。
となれば、500色の色名の中で気になるものが一つあります。
それは「赤ちゃんの手」という色名。
(右の色の中の何処にあるかを探してみてください)
これも少し配慮が必要だったかもしれません。
以前のブログ記事 永野村、鎌倉郡から横浜市へ において、港南区を南北に走っている武相国境の稜線が如何に地域を分断してきたかについて書きました。
当時、武蔵側と相模側を結ぶ道路は、いわゆる尾根道の古道だけでありました。
自動車が永野村に初めて入ることができたのは、実に昭和4年に平戸と吉原を結ぶ道路の完成を待つこととなります。
それまでは、横浜の隣りでありながら道路整備が不完全で、いわゆる陸の孤島のような状態であったわけです。
横浜市への出入が遠い町村にすら及ばず、自ら別天地のごとき生活状態でありました。
生活習慣も総てが鎖国的であったという中、国境の丘陵を越えるということの障害が、横浜市への編入の遅れの主因となったようです。
昭和4年、平戸と吉原を結ぶ道路が開通することにより、永野村はようやく「開国」の日の目をみることになりました。
今回は、その状況を地図の変遷で検証してみます。
鎖線にて武相国境が標記されています。
明治時代の武相国境を越える道らしい道は、現在の環状2号線(県道平戸吉原線)のルートではなく、現在の港南図書館前の道?港南台ゴルフセンター?日野病院へ抜ける山道だったことがわかります。
吉原?永作?馬洗橋に抜ける道が出来ました。
永作にトンネルがあることが目に付きます。
分水嶺はそれだけ険しく、人道トンネルがあったのでしょう。
車の通行は出来なかったと思われます。
『港南の歴史』によると、平戸?永作?馬洗橋の武相国境を車で越えることが出来るようになったのは昭和4年以降です。
上の地図は、車の通行が出来るようになってまもなくのものです。
人道トンネルが切通しとなり、ようやく車の通行が可能となったものと推測されます。
この切通しにより、ようやく永野村は「開国」の日の目をみるようになったのです。
戦時中は軍需物資を運ぶ道路が整備され、県道平戸吉原線の原型が出来たことがわかります。
宅地化が進み、大規模な開発が行われた時期です。
県道平戸吉原線には造成地の土砂を積んだトラックが往来しました。
市営地下鉄上永谷駅の開業は昭和51年です。
丸山台の造成がほぼ終わり、横浜横須賀道路の工事が進行しています。
住宅地が面状に広がったため、かつての武相国境線が明確に分からなくなってしまいました。
このようにしてみると、武蔵と相模の国を分断していた稜線を結ぶ道路(県道平戸吉原線)により港南区として両国が一体となっていく様子が良く分かります。
地図はその変遷を雄弁に物語ってくれるのです。
※今回の地図資料は『今昔マップ』首都圏版を使用して作成しました。
7月22日の皆既日食まで一か月を切りました。
皆既日食自体は、地球上のどこかで1年に1回程度見ることができる現象ですが、同じ場所で見ることができることは数十年?100年程度に一度しかありません。
日本の陸地での皆既日食は、1963年7月21日(北海道東部)以来実に46年ぶり。
今年の次は、26年後の2035年9月2日(北陸?関東北部)となります。
日本で見ることができる久し振りの日食ですので、ニュースでも盛んに取り上げられていますね。
ところで、今年の日食が観測できる場所を詳細に見ると、とても興味深い偶然が重なっていることがわかります。
まず、NASAの画像を。
薄いグレーの大きな円が部分日食の観測できる範囲、そして濃いグレーのほんの小さな円が皆既日食の観測できる地点です。
(c)NASA
皆既日食が観測できるエリア(皆既日食帯)を さらに詳細にGoogleMapに落としたものがこちら です。
※青い線の間が皆既日食帯。ここで皆既日食を見ることができます。
もし私が何処で皆既日食を見たいかと問われたら、迷わずブッダガヤと答えるでしょう。
ブログ記事のタイトルのとおり、今回の日食のルートは仏教の伝来ルートにかなり一致しているということがわかります。
それが興味深い偶然ということです。
日食はお釈迦様が悟りを開かれたブッダガヤ付近では、日の出とともに日食が始まります。
段々と欠けていってやがてダイヤモンドリング⇒皆既日食となるはずです。
ブッダガヤ【皆既日食】
北緯 24.6951° 東経 84.9908°
日食継続時間 2分55.5秒
2009/07/21 23:59:32.4 日食の始まり
2009/07/22 00:54:33.6 皆既の始まり
2009/07/22 00:57:29.2 皆既の終わり
2009/07/22 01:58:56.9 日食の終わり
(Indian Standard Time=UTC+5:30)
どのようなイメージになるのか、20年前にインドを旅した時に撮った写真と、Stella Theater のシミュレーション画像を合成し、作成してみました。
天気が良ければ東の空にこのように見えるはずです。
お釈迦様は2500年前に明けの明星を見上げて悟りを開かれたといわれます。
ブッダガヤで暁天坐禅をして、明け方に東側を流れる尼蓮禅川からスジャータ村の上方に見える皆既日食現象を眺める・・・
いいですね?
霊鷲山【皆既日食】
北緯 25.0246° 東経 85.4256°
日食継続時間 3分24.5秒
2009/07/21 23:59:39.6 日食の始まり
2009/07/22 00:54:38.0 皆既の始まり
2009/07/22 00:58:02.6 皆既の終わり
2009/07/22 01:59:29.5 日食の終わり
(Indian Standard Time=UTC+5:30)
さて、皆既日食の見える場所は、ここから東へ漸み、数時間後には菩提達磨大和尚が渡った少林寺の直ぐ南を通ります。
残念ながら少林寺では皆既日食とはなりませんが、きっと達磨大師が通ったルートと皆既日食帯はかなり重なっている筈です。
少林寺【部分日食 90.9%】
北緯 34.5131°東経 112.9631°
2009/07/22 00:16:17.4 日食の始まり
2009/07/22 01:25:44.0 最大食分
2009/07/22 02:42:08.6 日食の終わり
(Chinese Standard Time=UTC+8:00)
そして、日食帯は禅の流れと同様にさらに東に漸み、道元禅師が修行された天童寺へ到達します。
天童寺でも皆既日食を見ることが出来ます。
阿育王寺【皆既日食】
北緯 29.853°東経 121.7447°
日食継続時間 4分23.2秒
2009/07/22 00:23:23.9 日食の始まり
2009/07/22 01:37:47.7 皆既の始まり
2009/07/22 01:42:10.9 皆既の終わり
2009/07/22 03:03:13.0 日食の終わり
天童寺【皆既日食】
北緯 29.8063°東経 121.7907°
日食継続時間 4分10.2秒
2009/07/22 00:23:27.0 日食の始まり
2009/07/22 01:38:00.0 皆既の始まり
2009/07/22 01:42:10.2 皆既の終わり
2009/07/22 03:03:21.3 日食の終わり
(Chinese Standard Time=UTC+8:00)
日食帯は道元禅師の渡られた海路を通り、奄美列島へ。
禅宗の教えが伝わった2500年の歴史を僅か数時間で東漸する日食となるわけです。
今回の日食は、禅の源流に思いを馳せながら横浜において部分日食を観測してみようと思います。
貞昌院(横浜市港南区上永谷)では次のとおりです
貞昌院【部分日食 75.8% 】
北緯 35.4028° 東経 139.5704°
2009/07/22 00:55:07.4 食の始まり
2009/07/22 02:12:51.9 最大食分
2009/07/22 03:30:36.0 食の終わり
(Japan Standard Time=UTC+9:00)
2時間余りの天文ショーとなります。
天気が良くなりますように。
下の写真は国道16号線、八幡橋交差点付近から見た光景です。
パノラマで撮影してみました。
流れる川は掘割川、中央に根岸プールセンターが見えます。
その左側の高架は首都高湾岸線とJR根岸線です。
このあたりに、戦前から戦後にかけて根岸飛行場がありました。
プールセンター入口交差点には次のような看板が設置されています。
根岸飛行場跡昭和15年(1940)この埋立地に大日本航空株式会社により日本発の飛行艇専用民間飛行場がつくられました。南洋諸島パラオ島への定期航空路が開設されたのです。川西航空機製の97式という大型飛行艇が15年3月6日に根岸湾からサイパン経由パラオに向け飛び立ちました。
発動機4基、翼長40メートル、「綾波」「磯波」「黒潮」「白雲」など海や空にちなんだ愛称の優美な巨人機で、サイパンまで10時間、パラオまではさらに7時間かかりました。客席は18あり運賃はサイパンまで235円で東京・大阪間の7倍でした。戦時中は人員と機材すべてが海軍に徴用され南方の島々との連絡や人員・物資の輸送の任務にあたりました。
昭和17年には世界最優秀機の名も高い2式大艇が登場しましたが、全備重量24.5トンの日本最大の新鋭機で乗員以外に26?64人も収容でき、離着水時には家々の屋根をかすめて轟音を響かせました。
2式大艇の最終飛行は同じ年11月にアメリカへ試験機として引き渡すため香川県の詫間基地からここに飛来したのが最後です。
根岸には飛行艇の乗員や空港関係者が大勢下宿し子供たちに南方の珍しい果物の味を運んでくれました。鳳町の名は巨大な翼にちなみ未来に羽ばたくようにという意味でつけられたそうです。
(看板に記載されている説明)
根岸飛行場を発着していた飛行艇(看板より)
(左)97式大艇 (右)2式大艇「晴空」
これだけの巨体が轟音を響かせて水上を離着陸する光景はさぞかしダイナミックだったことでしょう。
(左)看板に記載されている地図
(右)米軍により撮影された昭和22年の航空写真=接収後の根岸飛行場
根岸飛行場が運用されていたときの貴重な写真(戦後・接収後)
アプローチから海に出る飛行艇が写っています
第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)で敗北するまで、日本は世界的な航空技術先進国であった。これは民間航空も同様であり、1929年(昭和4年)に設立された日本航空輸送株式会社(現在の日本航空とは直接のつながりはない)が、日本本土と大陸を結ぶ航空路を運航しており、中心的存在であった、
しかし日本政府は中華民国との間の日中戦争の勃発により中国大陸と日本本土との航空路による連絡が戦略的に重要になったため、1938年に日本航空輸送は国策会社へと改組され、満州航空傘下の国際航空を合併させて新たに発足したのが「大日本航空株式会社」であった。
航空路線としては、海軍の九七式飛行艇を民間輸送機型によってサイパンやパラオといった南洋群島への長距離路線が運航されたほか、後世日本の傀儡国とされた満州国の首都新京(現在の長春)を結ぶ航空路も開設されていた。またタイのバンコク線によって欧州系航空会社の極東線との連絡が可能となり、日本と欧州を結ぶ航空路が連結されていた。
だが、太平洋戦争の開戦とともに、大日本航空が運航する路線は軍の管理下に置かれ、さらに新たに占領した東南アジアにおけるネットワークを拡大し、戦争中は軍事的に重要な輸送手段となっていた。大日本航空の機材や乗員の多くは開戦直前に陸軍が編成した「特設第十三輸送飛行隊」に編入され南方地域をへの運航を担い、さらには「南方航空輸送部」に組織改変された。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) 大日本航空 項)
根岸飛行場をはじめ、横浜にはいくつかの飛行場がありました。
・富岡飛行場(飛行艇・日本が運用)
・根岸飛行場(飛行艇/終戦までは日本が運用、戦後接収され米軍が運用)
・伊勢佐木町飛行場(戦後/米軍/セスナ機用)
・間門飛行場(戦後/米軍/低翼単発軽連絡機・セスナ機用)
まずは、時系列に整理してみます。
(間違いがあれば指摘ください)
1929(昭和4) 日本航空輸送株式会社発足
1929(昭和4) 日本航空輸送による運行開始
1930(昭和5) タコマ号が根岸・市電埋立地より太平洋横断に挑戦
1935(昭和10) 根岸飛行場完成
1936(昭和11) 金沢区富岡に横浜海軍航空隊の富岡飛行場が開港 飛行艇の運行
1938(昭和13) 大日本航空海洋部発足 (日本航空輸送株式会社消滅)
1939(昭和14) 横浜?サイパン方面の定期便が運行開始 月2便ほど
横浜 5:30発 ⇒サイパン 15:30着 翌7:00発⇒パラオ14:00 (この他ヤルート、ポナペなど)
1940(昭和15) 根岸飛行場拡張、サイパン航路の発地が富岡から陸根岸飛行場へ移転、週1便に増発
1941(昭和16) 映画『南海の花束』公開、97式大艇運行開始
1941(昭和16) 航路がチモールまで延びる
1941(昭和16) 大日本航空海洋部は海軍に徴用され横須賀鎮守府第七輸送機隊となる
-----------開戦-----------------------
1941(昭和16) 日本軍真珠湾を空襲、マレー半島上陸、米英宣戦布告
根岸飛行場の人員・機材は南方との連絡や人員・物資の輸送を担う
-----------終戦-----------------------
1945(昭和20) 米軍に接収され、大日本航空は解散
1946(昭和21) 伊勢佐木町に飛行場が出来る
1948(昭和23) BOAC(イギリス海外航空)ロンドン横浜(根岸飛行場)
ロンドン⇒アウガスタ(泊)⇒アレクサンドリア(泊)⇒バーレーン⇒カラチ(泊)⇒カルカッタ(泊)⇒ラングーン⇒バンコク(泊)⇒ホンコン(泊)⇒上海(泊)⇒横浜
1952(昭和27) 間門飛行場が完成、伊勢佐木町の飛行場が間門に移転
1958(昭和33) 根岸飛行場が役割を終える
タコマ号が市電埋立地より太平洋横断に挑戦
『横浜の100年(上巻)』(郷土出版社・P146・1930年)
『Yokohama City Map』(米第8軍作成・1949年・赤色はkamenoが着色)
-----------------
戦後の横浜の飛行場の姿
■伊勢佐木町飛行場
(左)米軍により撮影された1947年の航空写真
(右)伊勢佐木町飛行場 『敗戦の哀歌』(写真:奥村泰宏・1949)より
■間門飛行場
(左)米軍により撮影された1956年の航空写真
※冒頭にある米軍により撮影された昭和22年の航空写真(1947年)には、間門飛行場の滑走路が写っていないことがわかります。
(右)間門飛行場 『敗戦の哀歌』(写真:奥村泰宏・1950)より
日本が1945年(昭和20年)8月14日にポツダム宣言受諾を決定したため、軍隊は即日武装解除されることになった。民間航空についても飛行機の所有・運用も一切禁止され、飛行活動に従事する組織も廃止・解散させられることになった。そのため大日本航空も解散させられることになり、戦後処理のために日本国内で運航されていた緑十字飛行も10月7日に終了し、11月18日にGHQが布告した 「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」(SCAPIN-301)によって日本人による航空活動は一切禁止され、1952年に再開が認められ日本航空の初号機が飛行するまで日の丸を付けた航空機が日本の空に飛ぶことは無かった。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) 大日本航空 項)
なんとも残念なことです。
今日のブログ記事は 横浜に水上飛行場があった!?(ハマちゃんのひとり言)を併せてお読みください。
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わたしたち にんげんの げんごのりうょくは とても じゅなうん で かつ あいまい に できいてる こと が よくわりかますね。
こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。 この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか にんんげは たんご を にしんき する ときに その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。 どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?
■関連リンク
mirakui::tumblr
貞昌院・永谷天満宮とも縁の深い永野小学校。
明治25年11月3日に永野学校として創立して以来まもなく120周年を迎えようとしています。
小学校には貴重な資料が保管されております。
現在、永野小学校土曜塾を中心に、港南歴史協議会などでデジタルアーカイブ化を行っています。
併せて、特に写真資料について、縁のある方々で回覧し、情報を付加していく作業が進められています。
撮影された場所、年代、写されている人物、建物など一つひとつを検証しながら行っています。
だいぶ特定されてきました。
写っている方や、その写真の場面を共有している方がいらっしゃると作業は飛躍的に早まります。
(もちろんなかなか検証が進まない写真も多いですが地道に進めています)
さて、永野小学校の現在の校歌は、おおぞらーは・・・の歌詞で始まります。
「永野小学校校歌」
作詞:蕪木直行 作曲:松井健祐
http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/es/nagano/kouka%20kateiban.html
作曲された松井先生直筆の楽譜を御紹介いたします。
松井先生のお人柄を表すような楽譜ですね。
このように、元来別の校歌があったため、最初は「永野小学校こどもの歌」として作られたものでした。
松井健祐先生は菩薩である。
先生を知る人ならこの言葉に誰もが共感をおぼえるだろう。
メガネの奥からいつもにこにこと私たちを甘守り、優しく穏やかな口調で話されていた先生。
いつ、どこで会おうともその笑顔、その温かい声は変わらない。
そして先生に接していると心があかるくなるのである。
作曲家としての業績もさることながら、先生はまた音楽教育においてすばらしい足跡を残された。教育者になるべくして生まれてきたような方である。先生の教えは、はめることに始まりはめることで終わる。
人の才能を見つけだし、引き伸ばしていくのにも一種の才能がいるとすれば、先生はそのことにかけ天賦の才をおもちだったようだ。
そしてその人柄故、多くの人が先生を慕って集まり、先生の薫陶を受けて社会に旅立っていった。
しかし先生の人生においては音楽だけがすべてだったというわけではない。学生時代はサッカーの名フォワードとして活躍、その腕前は日本代表にまで選ばれたほどである。他にスキー、水泳などスポーツマンとしても知られていた。そして忘れてはならないのが奥様の存在であろう。先生は奥様の事を「チューリップ」と称されていらした。英国紳士然とした先生に優しい笑顔で寄り添う奥様...。あらためて今、先生の写真を拝見していると、奥様の笑顔で先生はとても幸せな人生を過ごされたのではと思う。
(松井先生を語る「松井先生を偲んで」より)
昭和45年5月25日、このこどもの歌が正式な「永野小学校校歌」として制定されました。
昨日、地域の中で「寺院」が取り組むデジタルアーカイブについてのお話を2時間ほどさせていただく機会がありました。
(そのことについてはいつか追記するかもしれません)
先月開催されたBankartでのデジタルアーカイブに関するシンポジウムに出席させていただいた機縁で来訪された3人の方との楽しい時間でした。
雑談の中で、貞昌院のホームページを開設してしばらくした時に取材を受けた「横浜18区の本」の話題が出ました。
本棚を探してみると・・・・ありました。
書名:横浜的電脳「横浜でパソデジ」よこはま18区のほんシリーズ5弾
発行 横浜ブックレット刊行委員会
出版社:有隣堂
協力:横浜市
発行年月日:1998.01.06
なつかしいですね。
何故ホームページを開設したのか、そのきっかけなどについて今から10年以上前に取材を受けたものです。
巻頭のことばを引用してみます。
横浜は,開港以来様々な文化や,情報の交差点として多くの人々を受け入れてきました。横浜には,もののはじめ物語がたくさんあります。
例えば食べ物から理髪業,テニス,野球といったスポーツに至るまで。
新しいものに取組む姿勢は,今でも横浜の元気の源となっています。
21世紀は,本格的な高度情報化社会が到来します。インターネットだけではなく,病院と患者さんをデジタル通信網で結ぶ在宅看護への応用,教育ツールとしての活用,防災ネットワークの構築といった多岐にわたる応用が期待されています。
パソコンも随分手ごろな価格まで安くなってきました。
これをキッカケに,地域情報を発信したり,入手したりしながら,世界とインターネットで交流を深めて,新しい元気な横浜を一緒につくっていきましょう。
(横浜ブックレット刊行委員会委員長・高秀秀信)
それから11年、横浜は開港150周年を迎え、さまざまな記念行事が行われ取り組まれています。
インターネットなど情報網の進展も、当時は考えられない速度で進んでいます。
この本に紹介されている方々を追跡取材して、同じように纏めてみると面白いかもしれませんね。
「よこはま18区のほん」第5巻「横浜でパソデジ(横浜的電脳)」は,横浜でデジタルメディアを使って情報発信したい方々のために,ショップ,スクール,プロバイダー情報を集めました。
パソコン上達の早道は,自分にあったパソコン活用法を早く見つけることです。
最近爆発的に普及しているインターネットは,自分で手軽に情報発信・収集に便利な道具です。
まずは18区から発信される情報を眺めながら,パソコンと親しくなってはいかがでしょう。
(横浜ブックレット刊行委員会)
情報発信=メディア=布教 という構図は、その媒体こそ異なれ、伝えたいという思いはなんら変わるものではないのです。
それにしても、当時はダイヤルアップ環境でインターネット会議を行っていたのです、良い思い出です。
・・・なつかしい。
会議録を読み返してみてもちゃんと会議になっていたところが凄い!
今日4月8日はお釈迦さまの誕生日。釈尊降誕会(しゃくそんごうたんえ)です。
お釈迦さま(ゴータマ・シッダッタ)がこの日に生まれたという伝承に基づきます。
⇒なぜ今日がお釈迦様の誕生日なのかは こちらをご参照ください。
釈尊降誕会には、この他に佛生会(ぶっしょうえ)、浴佛会(よくぶつえ)、龍華会(りゅうげえ)、花会式(はなえしき)、花祭り(はなまつり)など、様々な呼び名があります。
お釈迦さまが誕生された時、大自然が祝福し、天から龍が飛来して甘露の香湯を潅いだという故事に基づき、様々な草花で飾った花御堂(はなみどう)を作って、その中に灌仏桶を置き、甘茶を満たします。
今日の記事は、この甘茶にテーマを絞って書いてみます。
甘茶とは、本州?九州にかけての山地に自生するユキノシタ科の落葉低木「アマチャ」から作られたお茶です。
初秋に枝葉を刈り取り、数日間天日にて乾かします。
さらに水を噴霧し発酵させた後、揉みながら乾燥するとこのようになります。
貞昌院でも先日の花まつり法要の際に甘茶を皆さんにお飲みいただきました。
実に素朴な甘みがいたします。その奥にお茶らしい微かな苦味もあります。
砂糖などは一切使用していないのに何故こんなに甘いのか不思議ですね。
その秘密は甘茶に含まれる甘味成分の d-フィロズルチン です。
ちなみに微かな苦味成分は、発酵過程で d-フィロズルチン として加水分解しきれなかったフィロズルチン 8-グルコシドが少し残っていることとタンニンによるものです。
この d-フィロズルチン は、実に砂糖の数百倍?千倍もの甘さがあると言われていますが、消化吸収されることが殆どないため、カロリーオフの健康食品なのです。
「フィロズルチン」という名前の中に「ズルチン」という言葉が含まれています。
少し年配の方は人工甘味料のズルチンを想起するのではないでしょうか。
ズルチン は、戦後になってサッカリン同様、大量に使用された人工甘味料です。中毒事故や肝臓機能障害、発癌性が認められたために使用禁止となりました。
しかし、甘茶の d-フィロズルチン は天然の甘味成分であり、人工的に合成される ズルチン とは全く異なるものです。
化学式を比較してみましょう。
d-フィロズルチン (d-phyllodulcin)
ズルチン (dulcin)
今日一日、本堂の前にお釈迦様の誕生を祝う花御堂をお飾りしています。
境内は数日前から散り始めたソメイヨシノの花吹雪につつまれ、まさに誕生の日を大自然全体で祝福しているようであります。
この写真はなんだか分かりますか?
これは以前西伊豆の海で採取してきた海水をトレーの上で少しづつ垂らしながら結晶化させたものです。
きらきら輝いて美しいですね。
ピラミッド形のものや四角い灰皿のような形もあります。
海水の 3.4% は塩分。
塩分の内訳は、
塩化ナトリウム 77.9%
塩化マグネシウム 9.6%
硫酸マグネシウム 6.1%
硫酸カルシウム 4%
塩化カリウム 2.1%
ということで、様々な塩が様々な条件によりこのような模様を造りだしているのでしょう。
写真に見える主な結晶は塩化ナトリウムの結晶であり、立方晶と呼ばれる結晶の中では対称性が最も高いものです。これを塩化ナトリウム型構造(NaCl-type structure)といいます。
単位結晶は立方晶ですが、必ずしもそのまま相似の形で成長するわけではなく、条件により様々な形を取ります。
まるでどこかの都市のようですね。
きちんと立方体に成長した結晶も美しいですけれど、このように混沌としている結晶状態も美しいものがあります。
立方体の細かい結晶が連なった様子は、まるで密集住居群のようにも見えます。
例えば香港にあった九龍城砦。
そういえば九龍城砦は付近で算出された塩を守るために宋代に建造された砦だそうです。
塩という不思議な共通点がありますね。
蛇足ですが、当時の九龍城砦には約3haの中に5万人の人口があったそうです。
畳1枚分の面積に5人が暮らしていた計算です。
凄いですね。
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霜と霜柱
教科書の記述を変えさせた高校生
『英語で知る日本のマナー』
Learning About Japanese Etiquette in English が発行されました。
著者/訳者名 岩下宣子 監修 / ディビッド・A・セイン 英文
出版社名 主婦の友社 (ISBN:978-4-07-266229-8)
サイズ B5 判 132 ページ
発行年月 2009年3月26日
価格 1,200円(税込)
経緯はこちら ⇒ 寺院参拝のマナー
日本の文化をネイティブに紹介しましょう四季のハッキリした 日本ならではの風土から生まれた 年中行事。
日々の四季感を大事にした しきたりを 外国の方々に伝えたいものです。また 日本には お互いを思いやる気持ちから生まれた いろいろなマナーがあります。
マナーといっても 決して堅苦しいものではありません。
相手のことを常に気にかける 日本の習慣を 英語で紹介してみませんか。
これ1冊で日本人も外国人もハッピーになれます!
Contents
Part1 日本のお付き合いのマナー 帯祝い/お宮参り/お食い初め/初節句と節句の祝い方/七五三/長寿の祝い/厄年と厄落とし など
Part2 食事のマナー箸づかい/会席料理の食べ方/そば/すし/天ぷら/うなぎ/和食のタブー など
Part3 年中行事 歳時記
Part4 結婚式・お葬式のマナー
という構成となっています。
写真をふんだんに使用した美しい本です。
このうち、寺院の参拝のマナー、歳時記の除夜の鐘などで協力をさせていただきました。
寺院の参拝のマナー項のサブタイトルは
「仏様にごあいさつの気持ちで、寺院に向かいましょう / Visit the temple out of a desire to greet Buddha」
どうぞ、お寺を参拝するときには、単なる観光として建物や庭を眺めるだけではなく、そこにいらっしゃる本尊様にごあいさつをする気持ちを持ってくださいますようお願いいたします。
お墓参りの際も、お墓に直行するのではなく、お墓を守ってくださる本尊様にごあいさつをしてからお参りされることをおすすめいたします。
そんな気持ちを込めてみました。
編集担当のK沢様、本当にお疲れ様でした。
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結婚のしきたりと常識辞典
パソコンでファイルを開こうとしたら
「○ドライブはフォーマットされていません。今すぐフォーマットしますか?」
とか「巡回冗長性(CRC)エラー」が出て読めなかった経験をお持ちの方は多いと思います。
データを記憶(記録)する装置にはハードディスク、CD-R、DVD?R、RAM、RW、ブルーレイ、フラッシュメモリなど様々なものがありますが、大体どれも消耗品と考えたほうがよさそうです。
現代はコンピュータ社会ですから、システムが一瞬でも停止すると重大な影響を及ぼします。
金融機関、交通機関などなど、コンピュータの障害によるニュースは後をたちません。
そこで、その対策として、冗長性を持たせるということを行っています。
冗長性(じょうちょうせい:redundancy)冗長性の定義は, 日本工業規格 JIS Z 8115 信頼性用語で「規定の機能を遂行するための要素または手段を余分に付加し, その一部が故障しても全体としては故障とならない性質」と与えられている. 代表的な冗長性としては, 複数のアイテムによってバックアップを実行する待機冗長や, アイテムを多重化してシステム機能を段階的に低下させる優美縮退冗長, 複数の同一アイテムから得られる結果を比較評価する多数決冗長などがある.
(日本オペレーションズ・リサーチ学会)
例えば全く同じシステム(バックアップ)を複数稼動させておき、障害が生じた場合に切り替えられるようにしたり、システムを分散したりするわけですね。
先日のブログ記事で書いたRAIDによるミラーリングもその一つです。
さて、本題に入ります。
数日前CD-Rにデータを焼いたところ書き込みは完了したものの、その読み出しにおいて冒頭の巡回冗長性エラーが出てしまいました。
何度読み出しをやってみても読めず、無理にファイルを開こうとするとフリーズします。
ディスクを取り出して表面を良くみると・・・・・
キレイだな?・・・・・いやいや、ひどい不良品ですね?
このような部分が何箇所もあります。
色素の液漏れのようなものも起こしています。
せっかく不良品ディスクを手にしたので、どれだけデータが復元できるかを試してみました。
通常の方法だと読み出しが出来ないので、neroを使って無事なデータと、読み出しできないデータも冗長性を利用して復元できるだけ復元してみました。
所要時間8時間ほど。
このディスクに焼きこんでいたデータは
9フォルダ 185ファイル 合計306MB
でした。
結果、どうしても読み出せなかったデータは
3フォルダ 42ファイル。
損傷率はファイル数ベースで23%
それ以外の他のデータは何の問題も無く読めています。
23%の損傷したデータ(写真)も、このような感じですので、別の方法で復元が出来るかもしれません。
土居まさる司会の『象印クイズ ヒントでピント』を思いだしました。
CD-Rの冗長性は素晴らしいですね。あれだけ損傷のあるディスクからでも思った以上に復元できました。感心します。
・・・と言っている場合ではないですね。
最近はメディアの単価も下がっています。
大事なデータをバックアップする際にはそのメディアの信頼性をよく吟味し、目で確かめられるものはきちんと確かめる必要がありますね。
それと、何年も前に記録したデータも読めるかどうか時々チェックする必要もありそうです。
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知的文化遺産を後世に引き継ぐために
若田光一さんら7人の宇宙飛行士を乗せたスペースシャトル「ディスカバリー」の打上げが無事成功し、順調に飛行を続けています。
まずはおめでとうございます。
さて、スペースシャトル打上げの際には、宇宙飛行士に最大3G?4Gの加速度がかかると言われています。
この加速度に打ち勝つ為に長期間にわたる訓練が為される訳ですね。
スペースシャトルに匹敵するほどの加速度を体験できる場所といえば、ジェットコースターが思い浮かびます。
日本で一番の加速度を誇るジェットコースターはどこかを調べてみました。
⇒参考サイト:ジェットコースター徹底比較
それによると、実に5Gを超えるものが2つもありました。
ヴィーナス(スペースワールド)が 5.26G、新滑空水上コースター・カワセミ(東武動物公園)が 5Gとなっています。
スペースシャトルよりも加速度が厳しいにも関らず、訓練もしていない普通の人が乗っても安全であるのは何故でしょうか。
そのポイントは
(1)加速度が掛かっている時間が一瞬である
(2)軌道が「人に優しい」曲線となっている
の二点だと思います。
このうち、後者の「人に優しい」曲線について考えてみます。
身近な例として道路の曲線をとりあげます。
車に乗っている人が如何に快適に、安全に走行できるかということは、道路設計の一番の命題になるのですが、具体的な条件を列記すると
(1)速度が速くなったり遅くなったりせず一定の速度を保つ
(2)カーブを曲がるときには急なハンドル操作を避ける
(3)人体に作用する加速度の変化をなるべく少なくする
といったところでしょうか。
車が一定のスピードで走っている時に、ハンドルを一定の角速度で切ることにより描かれる曲線が上記条件に合致しそうだ、ということが体感的に分かります。
そのような曲線だと、ハンドル操作が自然に行われ、加速度の変化が緩やかであり、人体に作用する加速度Gの変化も少なくなります。
この条件により描かれる曲線をクロソイド曲線といいます。
x座標値 x(l) = a∫cos(θ2/2)dθ
y座標値 y(l) = a∫sin(θ2/2)dθ
積分区間[0:l]
l:曲線上の距離
基本的に、道路を設計する際にはクロソイド曲線が用いられています。
なお、クロソイド曲線が日本で最初に道路設計に導入された場所は国道17号線三国峠であり、峠には「クロソイド曲線記念碑」も建立されています。
日本初のクロソイド曲線を利用した道路線形の導入(一般国道17号・三国峠)危険な山道であった三国峠。道が細く急なこの峠では、かつて多くの人々が命を落とす悲劇が絶えませんでした。
昭和27年、この山岳道路が一般国道に指定された後、改良工事が行われ、この時日本で初めてクロソイド曲線が導入されました。
これは道路の直線と力ーブの間に緩和曲線を挟み込む線形で、直線からカーブに入った場合に車に加わる加速度を押さえ、 道路から車が飛び出すのを防ぐ効果があります。 三国峠から導入されたクロソイド曲線は、その後の道路整備でも積極的に取り入れられ、各地で人々の安全を守り続けています。
自動車が走行しながらハンドルを回したときの軌跡がクロソイド曲線になることから、安全で走りやすい道路に非常に適しています。その他では道路だけでなくジェットコースターなどにも適用されています。
(出典:高崎河川国道事務所)
道路設計において、曲線を描く場合には、このようにクロソイド曲線を用いるわけですが、基本的に下図のように設計します。
こうすることにより、カーブに差し掛かってハンドルを徐々に一定の速さで回し始め、カーブのピークではハンドルを固定、そしてハンドルを徐々に戻し、最後は真っ直ぐに・・・という操作でスムーズにカーブを曲がることができます。
一昔前は、この曲線を描くために特殊な定規を使っていました。
これがベラボウに高価なのです。⇒クロソイド定規
今では電子計算機の発達により比較的手軽に計算できるようになりました。
便利になったものです。
彼岸明けには高速道路料金が値下げになり、ドライブを楽しむ方も多いと思います。
道路には、直線で設置できるような箇所でも、敢えて適度に曲線を加えることによりドライバーの眠気を防いだり心地よいリズム感を与えたり設計者の工夫を感じられる箇所もあります。
カーブを運転する際には設計者がどのような思いを込めて線を引いているのかを楽んでみては如何でしょうか。
以上は道路設計における曲線を考えましたが、これに限らず様々なことに応用できるのがクロソイド曲線です。
私たちを取り巻く「環境」はさまざまな場面で変化します。
AとBの2つの状態間を緩衝的に結ぶか結ばないかは、冒頭のスペースシャトル打上げとジェットコースターとの差にも如実に表れています。
寒い室外から暖かい部屋の中に入った時(温度の変化)、部屋の照明を点けるとき(照度の変化)などなど、このように2点間の状態を急激に遷移させるのではなく、始めは緩やかに、徐々に変化の度合いを高めていくというように工夫することが私たちにとって「優しい」ということになるでしょう。
■補記
クロソイド曲線は、「一定の速度」で走行、「一定の角速度でハンドルを回す」という条件でしたが、路面のバンク角を立体的に考慮し安定的に走行できるように設計したした曲線があります。
それはマッコーネル曲線と言われるものですが、競輪とかレースをやられている方は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
■補記2
前に、お寺の屋根の勾配がカテナリーであることを検証しましたが、もし「雨粒たち」に優しい曲線を設計するのであれば、クロソイド曲線やマッコーネル曲線でお寺の屋根を設計してみるのもアリかもしれません。
大学の講義で、ある教授が「水路を設計するときには水の気持ちになって設計しろ」とさかんに言われていたことが強く印象に残っています。
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最近便利に利用させていただいているEXPACK500(エクスパック)。
テレビCMなどで、様々なものを詰め放題で送ることができるということをアピールされています。
では、実際にどれくらいのものを送ることが出来るのでしょうか。
エクスパック利用約款を見てみると、次のような記載があります。
EXPACK500ご利用の条件
EXPACK500としてのご利用に限ります。
次のものを入れて送付することはできません。
現金・貴金属等の貴重品
信書(無封の添え状や送り状は同封することができます)
爆発物・毒劇物などの危険物
信書を送付することができないサービス
速達、書留、代金引換、保冷等のオプションサービスの付加はできません。
配達証がはがれているものはお引き受け、交換できません。
袋が著しく破れているもの、切削加工したものはお引き受けできません。
封を補強するための粘着テープ等は、表面の印字部分にかからないようご注意ください。
次のようなものの送付はご遠慮ください。
ガラスや瀬戸物などのわれもの
精密機械などのこわれもの
なまもの・いきもの
芸術作品などの代替品の入手が困難なもの
郵便物の損害賠償制度
万一、配送途中に事故があった場合、運賃相当額を超える損害賠償を行うことはできませんのでご注意ください。
EXPACK500の重量制限は30kgまでです。(封筒に30kg入れられるということではありません。)
一部のポストには入りません。
品名の記載の無い場合及び次のようなものを内容とするものは、航空以外の輸送手段によって送達しますので、エクスパック約款に規定する引渡予定日によらず送達します。
航空法その他の法令又は官公署の命令、規則若しくは要求によって輸送を禁止若しくは制限されたもの。
航空会社において引受けを制限しているもの。
このうちの、「袋が著しく破れているもの、切削加工したものはお引き受けできません」「 EXPACK500の重量制限は30kgまでです」あたりがポイントとなりそうです。
実際に内形寸法を測ってみると、24.8cm×34.0cm。
これを、袋を著しく破らずに、かつ切削加工せずに、どれだけの容量を詰めることができるのでしょうか。
さっそく計算してみましょう。
厳密に言うと、球面に近い曲面となる形状が最大容量となることが予測できますが、計算を簡単にするために
エクスパックを立体成形する方法 さんのサイトのような直方体という条件にしてみます。
厚みを x cm とすると、内形寸法の条件から、幅は 24.8-x cm 奥行きは 34-x cm となります。
したがって、容積を y とすると
y = x (24.8-x)(34-x)
= x3 - 58.8 x2 + 843.2x
極値を求めるため微分
y'= 3x2-117.6x+843.2
この二次方程式の解は
x =(117.6±SQR(117.62-4・3・843.2))/6
= 9.45 or 29.75
エクスパック内寸の条件から 厚み x=9.45 cm のとき、 容積 y は 約 3,561cm2 となり、最大容量となることが分かりました。
理科年表によると物質の比重は
鉄………… 7.874
銅………… 8.96
銀…………10.50
鉛…………11.35
パラジウム12.02
水銀………13.546
金…………19.32
白金………21.45
イリジウム22.42
オスミウム22.57
鉄………… 28.0kg
銅………… 31.9kg
銀…………37.4kg
鉛…………40.4kg
パラジウム42.8kg
水銀………48.2kg
金…………68.8kg
白金………76.4kg
イリジウム79.8kg
オスミウム80.4kg!
・・・なんと、オスミウムをエクスパックに詰めた場合、80kgを超えてしまうことが分かりました。
恐るべし、オスミウム。
エクスパックの中に、約款で謳われている重量制限30kgを超えるものを詰めることができることが分かりました。
(だからわざわざ約款に「実際に30k封筒に30kg入れられるということではありません」なんて書かなくても大丈夫ですよ、郵便局さん!)
実際に30kgのものを送ってみたらどうなるかを試してみたいものです。
きっと郵便配達の方の腰が抜けることでしょう。
港南区は、そのほとんどが住宅地で埋め尽くされてしまっています。
地形からこのエリアを概観すると、大岡川水系・柏尾川水系と、それを分ける分水嶺が特徴です。
この分水嶺が前日の記事で詳述した武相国境です。
江戸時代の村落について判りやすいように『新編武蔵風土記稿』(文政2年・1828年成立)、『新編相模国風土記稿』(天保12年・1842年成立)を元に、地形図に落として作図してみました。
それによると、現在の港南区エリアには、武蔵国側(国境東側大岡川水系)に宮ヶ谷村・金井村・宮下村・吉原村・上大岡村・雑色村・松本村・関村・最戸村・久保村があり、相模国側(国境西側・柏尾川水系)に上野庭村・下野庭村・永谷上村・永谷中村がありました。
(後に宮ヶ谷村・金井村・宮下村・吉原村は日野村に、雑色村・松本村・関村は笹下村に、永谷上村、永谷中村、永谷下村は永谷村として合併)
(さらに「明治の大合併」で、久良岐郡大岡川村と日下村、鎌倉郡永野村が成立)
地形図をみてのとおり、耕作や居住に適した低地は川沿いの一部地域であり、いわゆる谷戸と呼ばれる地域でした。
丘陵は、標高こそあまり高くないですが、傾斜が比較的急峻であり、山あり谷ありの複雑で不便な場所であったといえます。
そのため、各村の人口は少なく最大でも60戸ほどの戸数でで三村を形成していたようです。
それゆえ、世間の喧騒からは離れ経済的には豊かではなけれども平穏な毎日を送っていたと考えられます。
武蔵側、相模側の交通が不便であったがゆえに、同じ港南区であっても異なった文化が育まれています。
武相国境の国境線がもたらした影響は、例えば各村の横浜市への編入の時期を見ると、その一部を垣間見ることが出来ます。
鎌倉郡永野村の昭和に入って間もなくの時期の課題として、「学校の改築」「伝染病舎の結末」「県道の改修」がありました。
このうち、「伝染病舎」については、関東大震災前までは(現在の戸塚区)川上村と共同で隔離病舎を造っていましたが、大正12年の関東大震災で倒壊してしまったため大岡川村の村医朝倉氏と共同で行うこととなり、豊田・川上・永野三ケ村の組合解散の決議をし、大正14年に永野村は武蔵国側の久良岐郡大岡川村、日下村と組合となります。
【豆知識】 永野村の領域は、普通に考えると豊田・川上村とともに後に戸塚区に編入されたはずでしたが、わざわざ分水嶺・武相国境を越えた村とともに港南区となっている理由はここに発端があったのです。 |
ところが、昭和2年に横浜市の市域拡充に伴い隣接町村を合併する際に、永野村を除いた大岡川村、日下村が横浜市になり、武相国境西側の永野村だけが鎌倉郡のまま取り残されてしまいました。
なぜ十年近くも遅れをとったのでしょうか。
当時、武蔵側と相模側を結ぶ道路は、いわゆる尾根道の古道だけでありました。
自動車が永野村に初めて入ることができたのは、実に昭和4年に平戸と吉原を結ぶ道路の完成を待つこととなります。
それまでは、横浜の隣りでありながら道路整備が不完全で、いわゆる陸の孤島のような状態であったわけです。
横浜市への出入が遠い町村にすら及ばず、自ら別天地のごとき生活状態でありました。
生活習慣も総てが鎖国的であったという中、国境の丘陵を越えるということの障害が、横浜市への編入の遅れの主因となったようです。
昭和4年、平戸と吉原を結ぶ道路が開通することにより、永野村はようやく「開国」の日の目をみることになりました。
(この道路は後に現在の環状2号線となります。片側3車線の道路が整備されるとは当時の人々には思いもつかなかったことでしょう)
この時期の村長さんの言葉をご紹介いたします。
都市に都市にと先を争って走るときに、工業の行詰りは、農業立国に逆転せぬとも限らぬ。土地の開発と言えば曰く住宅地、曰くゴルフ場、曰く遊園地、曰く何々工場、甚だしくは花柳界等の招致がそれである様に思ふものがある。 自分はそんな不健全な発展は望まない方がよいと思う。望まなくても、自然に殖えて寧ろ取捨選択に困るであろうと思ふ。区画整理もせねばならぬ時も来よう。村道として開いた道が自動車道と変る時代も来るであろう。要するに之等は自然の所謂他動的の勢に任せて、今は只農業的に所謂自動的充実に全力を尽す時代であると自分は信ずる。 永野村は他の多くの農村とは趣を異にしている。今は戸数二百の小村であるが、土地が広くて、大都市に隣接して居るから、年々歳々移住者が多くなり、遂には移住勢力に圧倒される時が来る。之れも免れ難い運命であるが、自分で分家を奨励する意味が茲にも着眼しているのである。 永野村の前途には光明が輝いて居るのであるが、之れは過渡期の時代に於ける私達の舵の取り方が甚だ六づかしい。只自分達は何処迄も、永野村を美しい気持ちの良い住み良い働き良い所として行きたいものだ。偏見かも知れぬが、自分は之れを望むのだ。 『村政七年を顧みて』(昭和6年・永野村村長 西木泰一著) |
今から80年も前の言葉です。
今の世の中でも、充分に通用する内容ではありませんか。
その見識の高さには心底驚かされます。
現在これだけの見識をもった政治家がどれだけ存在するのでしょうか。
■関連ブログ記事
鎌倉古道下之道-2と同様の手法で、武蔵国と相模国との国境、武相国境を検証してみます。
武相国境は、追浜?瀬谷までの間は分水嶺(=山稜線)を通っています。
武相国境のうち港南区の部分は「七里堀」とも称されており、この国境によって港南区のエリアは分断され東半分=武蔵国、西半分は相模国に属しておりました。
『新編武蔵風土記稿』には「水流れる境」として七里掘(武相国境沿の道)について次のような記述があります。
山堺に七里堀と云あり 爰より吉原、松本、久保、最戸、別所、中里の六ケ村を経て引越村(六ッ川)に通じる里程七里許を以って七里堀と唱ふ。この古道は鎌倉海道なりしか東海道開けてよりこの道は廃し、今は小径残れり、...... 『新編武蔵風土記稿』 |
国境線が分水嶺でありますので、東側(武蔵国側)に降った雨は大岡川を通って東京湾へ、西側(相模側)に降った雨は永谷川、柏尾川を通って相模湾へ注ぎます。
横断断面図を作成してみると分水嶺であることが一目瞭然です。
3か所について断面図を作成し付記しました。
なお、武相国境は瀬谷以北は分水嶺ではなく境川が国境線となっています。
武相国境には製鉄の拠点という重要な役割もありました。
すなわち、大和朝廷の勢力が鉄器文明を広めながら通過した動脈路であったわけです。
港南区から栄区に入った鼬川流域には「金」のつく地名が多いのです。
鍛冶ヶ谷はその代表的な製鉄の地であり、たたら場でもありました。
製鉄関連の炉が18か所、鉄精錬の炉が14か所、製銅の炉が1か所、砂鉄を出した竪穴遺構、鍛冶ヶ谷式の横穴古墳などさまざまな製鉄関連の遺跡が点在しており、7世紀?9世紀前半にかけてこの丘陵地域一体を掘削して平地をつくり、大規模な製鉄操業を行っていたと考えられます。
踏鞴製鉄(「鑪(たたら)」 せいてつ、英:tatara iron making method)とは、世界各地でみられた初期の製鉄法で、製鉄反応に必要な空気をおくりこむ送風装置の鞴(ふいご)がたたら(踏鞴)と呼ばれていたためつけられた名称。 日本列島においては、この方法で砂鉄・岩鉄・餅鉄を原料に和鉄や和銑が製造された。こうして製造された鉄や銑は大鍛冶と呼ばれる鍛錬によって脱炭された。この方法で和鋼が製造されたこともあったが現在では行われていない。他には和銑を再度溶融し、鉄瓶などの鋳鉄製品を製造する原料ともした。 (出典: ウィキペディア) |
金井村、カナクソ(鉱滓)、金沢、金谷(横須賀)、金谷(房州)・・・・これらの地点を結ぶと、日本武尊東征路、武器の輸送、製造、修理の足跡を辿ることができます。
また、港南区から栄区、たたら場のあった周辺には白山神社が多くあります。
白山神社は鉱滓と関係が深い神社です。
粉金(こがね)七里に、炭三里 |
たたらの立地条件は大量の炭を確保するために広大な面積の山林を必要としました。
「粉金七里」は、原料の砂鉄を仕入れるのは七里先までという言葉です。
七里堀の七里は、ここから来ているのかもしれません。
武相国境についてもムービーとして作成してみました。
(ネット上ですので画質を落としています)
高低差を5倍強調していますので分水嶺であることを体感できると思います。
クリックしてご確認ください。
以前、ブログ記事において 鎌倉古道下之道をGoogleMapで表示いたしました。
今回は、別の角度からの視点で古道のルートを検証してみます。
現在の鎌倉街道は大岡川沿いの谷戸を通るルートですが、鎌倉時代の鎌倉古道下之道は、主に尾根筋を通るルートとなっています。
その理由は
下野庭の天谷橋または天谷大橋の命名の由来は、昔(年代不明)、武蔵国と相模国の争いがあった。互いに対峙したのが、ここ天谷大橋付近だった。その時、馬洗川の渓谷は霧が立ちこみ底なしの千尋の谷と化していた。両国は攻め倦んで和睦を申し入れ、争いは終わった
『港南の歴史と文化』(伊藤武著・港南歴史協議会)
にあるように、度々起こっていた武相国境付近の争いに備え、見通しがよく敵を見つけやすい場所であることのほかに
山の上の道を通ると見通しが良いので敵や獣に対して有利である。乾いていて歩きやすい。一方川沿いの道は湿地が多いので歩きにくい。どうしても大小の川を渡る必要があり、渡る橋がもしあっても木橋の寿命は7年ほどである。しかも度々壊れる。履物が「わらじ」や藁でできた靴では始末が悪い。熊・猪・オオカミ・まむし・ヒル・蜂・毒虫などと出会いやすい
『忘れられた街道』(中根洋治・風媒社)
など、様々な理由が挙げられます。
車両の通行にとっては尾根筋のルートは不利ですが、徒歩ルートでは、逆に尾根筋の方が有利であるのです。
「カシミール3D」で港南区内の「鎌倉古道下之道」のルートを作成してみました。
縦断断面図はこのようになります。
やはり結構勾配のきつい場所はありますね。
最後に、別所餅井坂から舞岡公園までのルートをムービーとして作成してみました。
(ネット上ですので画質を落としています)
高低差を5倍強調していますので尾根筋を通るルートを体感できると思います。
クリックしてご確認ください。
雪が積もると街のあちこちに雪だるまが出現します。
この雪だるま、「だるま」ということから、震旦初祖(中国へ禅を伝えた禅宗の初祖)菩提達磨大和尚に由来するという説が有力のようです。
雪だるま(ゆきだるま、雪達磨)とは、雪でだるまのような形にかたどったものである。雪の降る地方でよく作られ冬の風物詩となっている。典型的なものとしては、目として炭団を入れ、腕として小枝を挿し、帽子としてバケツをかぶせる。小枝に手袋を填めることもある
英語ではsnowmanが雪だるまに相当する。 欧米の雪だるまと日本の雪だるまの違いは、形にある。その呼び名の文字通り、日本のそれは「達磨(だるま)」に似せたものであるが、欧米のそれは人に似せたものである。
日本のものは上部の球は頭、下部の球は肩から下の上半身と座法の胡坐(あぐら)の下半身を表す。このように、日本では雪の球二つを頭部と胴体に見立てて作るのが普通であるが、欧米ではさまざまな形があり、三つの球を使い、炭団でアゴヒゲを表現する例などがある。
欧米では人を模すものであるが、日本の雪だるまは禅宗の開祖とされる達磨を模すことから言って、作り上げる遊びとしてだけでなく、暗に宗教的にも形を成すものとして作り上げるものとして抽象性が高いともいえる。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(下線はkameno付記)
日本の雪だるまは二段のものがスタンダードですが、欧米の雪だるま(Snowman)は三段のものが多い・・・
In Europe and North America, most snowmen are usually built with 3 spheres which contain the head,torso, and lower body.
(Wikipedia_English)
⇒アメリカと日本の雪だるまの違いとは(exite Bit)
これは、Googleのイメージ検索を行っても良く分かります。
私は単純に「雪だるま」を作る動機は西欧も日本も変わらないと思います。
現在、雪だるまを作る時に「達磨大師」を意識して作る人はいないはずです。
「達磨」であれば、祈願をしたり拝んだりしますから宗教的な意味合いは無きにしもあらずですが、雪だるまを拝んだりはしませんね。
雪像を人の形に作るという行為は、人類普遍のものだと思います。だから欧米も日本も雪だるまは「人に似せたものである」でいいんじゃないかな?と思います。
ところが、いろいろと調べてみると、江戸時代にはこのように達磨大師を模して作っていたこともあるようです。
当時はこのような雪だるまが多かったのでしょうか。
なかなか味わいのある絵ですね。
さらに
現在のような玉を二つの雪だるまは江戸時代にはなかった。
当時の雪だるまはだるま大使の石像でかなりリアルなものであり、大人が作る物であった。
(形は座禅を組むような形だったそうです。)
雪玉を丸めて遊ぶ「雪まろげ」という遊びはあったそうです。
「雪まろげ」・・・雪を転がし丸い大きなかたまりにすること
(お江戸でござる おもしろ講座)
なるほど、やはりそうなんですね。
大師と大使との誤植はここではおいといて(マグマ大使ではあるまいし)・・・
ということは、
・江戸時代には雪球を2段に重ねる雪だるまではなく、「達磨」を模した雪だるまであった
・時代が下り、二つの雪球を2段に重ねるような現在の雪だるまが一般的となった
起源は達磨大師であっても、現在は「人に似せたものである」ということでよさそうです。
今度雪が積もったら江戸時代の「リアル雪だるま」を再現してみたいものです。
世界で遊ばれているゲーム「どうぶつの森」では2段となっていますね。
3段には積めませんでした。
(c)Nintendo 街へいこうよ どうぶつの森
スイスでは中に藁がつまっている雪だるま“ベーグ”を燃やし、冬と別れて春の到来を祝う
最多最大雪だるま…青森・黒石市 (読売新聞)
ルーリン彗星 接近中 鳥取の天文家が撮影成功
二月二十四日に地球に最接近する「ルーリン彗星(すいせい)」の写真撮影に二十九日、鳥取市内のアマチュア天文家が成功した。最接近時には肉眼で観測できる二等級まで明るくなる期待もあり、今年前半の最大の天体ショーとなりそうだ。
撮影したのは鳥取市富安の多賀利寛さん(57)。自宅天文台で二十九日の明け方、南東のてんびん座を移動する彗星を口径二〇センチの反射望遠鏡で撮影した。
多賀さんによると、最接近時はしし座にあり、一晩中観測が可能。すぐ近くに土星が輝き、見事な天体ショーが期待できるという。現在は彗星の尾が右上に見えるが、最接近を境に尾の向きが反転する珍しい現象も見られる、という。
多賀さんは「最接近時は新月で、夜空の環境が良ければ、双眼鏡はもちろん肉眼でも観測できるのでは。土星とともに撮影のチャンス」と話している。
昨日の記事に引続き「世界天文年」にふさわしい話題です。
冒頭の記事にあるルーリン彗星は、2007年7月に台湾の鹿林(ルーリン)天文で発見された彗星です。
その軌道周期は数万年以上!
数万年の旅を経て今年2月に地球に最接近するルーリン彗星を、さっそくStella Theater でシミュレートしてみました。
【軌道要素】
彗星名=ルーリン彗星 (C/2007 N3)
近日点通過時刻=2009 01 10.66551
離心率=0.9999948
近日点距離=1.2125523
近日点引数=136.85390
昇交点黄経=338.53392
軌道傾斜角=178.37278
ルーリン彗星は、このように2月半ばには乙女座→獅子座へと移動します。
ほぼ一晩中見え真夜中には南南東の高い位置に見えます。
観測の好機は2月16日夜と2月23日夜。
2月16日夜には、乙女座のスピカ、2月23日夜は土星のすぐ南を通過します。
このころ彗星は2等星まで明るくなると予想され、しかも24日ごろ地球に最接近しますので肉眼や双眼鏡でも見ることが出来るはずです。
このころの彗星の見かけの移動速度はかなり速く、みるみる移動していくことが分かりますし、尾の変化にも注目です。
最接近の後は次第に暗くなり、地球からどんどん離れていきます。
ルーリン彗星が再び地球に近づくのは数万年も先の話ですから、まさに一期一会と言えましょう。
インドネシアで金環食を観測 「指輪みたい」
「指輪みたい」?。
インドネシアのジャワ島西部などで26日午後(日本時間同)、太陽の中心部分が月で隠されてリング状になる「金環食」が観測された。この日、同国は旧正月の祝日で、多くの人が天文ショーに見入った。「とてもきれい。神様の祝福だわ」。薄曇りの西ジャワ州の海岸で、特製のサングラスを使って日食を見た会社員ウランさん(32)は興奮気味。
主婦ユニさん(29)も「夕方の祈りのときのように周りが暗くなり、金環食が見えた。日食を見るのは初めて。見ることができたのは神様のおかげ」と話した。
(全国新聞ネット)
1月26日、東南アジア地方を中心に金環食が見られました。
旧暦で新年を祝う国や地方も多く、旧暦では新月が1日となりますので、当然に日食が起きる日は1日となります。
特に一年の始まりである元日にこの現象が見られたということになりますので、特別な新年の幕開けとなりました。
天体シミュレーションソフト Stella Theater でその様子を再現してみました。
見たかった・・・・・
横浜では残念ながら1月26日の日食を観測することは出来ませんでしたが、今年7月22日に部分日食、3年後の2012年5月21日に金環食を見ることができます。
2009年7月22日には日食が起こります。日本では、全国で部分日食を観察することができます。また奄美大島北部、トカラ列島(注1)、屋久島、種子島南部など、皆既日食帯と呼ばれる細長くのびた地域・海域内では、皆既日食を観察することができます。 皆既日食になると、太陽のまわりにはコロナが広がって見られます。また太陽表面から吹き出ている赤いプロミネンスなども観察することができます。空は、程度は日食ごとに違いますが、夕方・明け方の薄明中のように暗くなり、明るい星ならば見ることができます。地平線近くは、夕焼け(朝焼け)のように空が赤く染まって見られます。 日本の陸地に限ると、皆既日食が観察できるのは1963年7月21日の北海道東部で見られた皆既日食以来、実に46年ぶりです。次回も2035年9月2日の北陸・北関東などで見られる皆既日食まで26年間起こりません。非常に珍しい現象と言えるでしょう。 (国立天文台)
7月22日、横浜では、日食の始まりは9時56分。食が最大になるのは11時13分。このとき食分は76%となります。そして食の終わりは12時30分。
Stella Theater でシミュレートするとこんな感じです。
なお、部分日食を観測する場合は、直接太陽を見るのではなく、ピンホールや木漏れ日を通して観測する方法がオススメです。
木漏れ日をきれいに作り出してくれる樹木はカエデ、モミジバフウなど葉の形が複雑なもの。
このように観測できるはずです。
皆既日食が観察できるのは奄美大島の北部?トカラ列島?屋久島、種子島南部など。
(図は国立天文台サイトより引用)
日本の陸地で観測できるチャンスは46年ぶり、今回を逃すと次は2035年です。
うーん、7月22日・・・・・・
気持ちだけは南西諸島に向いているのですが。
とにかく今年はガリレオ・ガリレイが初めて望遠鏡での天体観測を行った年から400年という「世界天文年」。
さまざまな天体ショーも目白押しです。
BGM:「地上の星」(中島みゆき)
これは、大学時代にしていたアルバイト(様々なアルバイトを経験しましたが、そのうちの一つです)の時に撮った写真です。
写真を見ると、地面から何かがたくさん出ていますね。
これは何かというと、ドレーン材と呼ばれる、地中の水分を排出するために埋められているものです。
(ドレーン=排水)
背景に飛行機が写っていることから分かると思いますが、場所は羽田空港。
第一期計画で供用される新A滑走路のあたり(下図参照)です。
現在の羽田空港の主要滑走路及び、旅客ターミナルは羽田空港沖合展開事業により拡張されたものです。
国土交通省関東地方整備局のサイトから、羽田空港・戦後以降の羽田空港の変遷を引用してみます。
羽田空港(東京国際空港)は世界屈指の巨大空港として日本経済を支えてきましたが、空港需要の増大に対処するために滑走路の増設が緊急の課題となっていました。
計画された羽田空港沖合は、計画当時はへドロが堆積していたドロドロの底なし沼で、その様子をマヨネーズに喩えて「羽田マヨネーズ層」などと表現されていたのです。
この表現は決して大げさではなく、本当にマヨネーズと同程度の粘度でした。
ヘドロの上に土が被せられたものの、表面の土からヘドロが地表へ吹出し歩くことすら困難な沼地でした。
土の表面が乾いて見えるようなところも薄皮一枚。そこに落ちると底無し沼にズブズブと沈んでしまいます。
そのような場所に空港を建設することは並大抵のことではありません。
だからこそ、そこには最新の土木技術が投入されることとなり、その現場に立ち会うことが出来ました。
その一つが、冒頭の写真です。
ペーパードレーン工法は、地盤改良工法としてのバーチカルドレーン工法の一種です。
簡単に言うと、水分を多く含む軟弱な地盤に、透水性のあるドレーン材を垂直に打設し、土中の水分を効率良く排水する工法です。
土中の水分が排水されることによって軟弱地盤が強固な地盤に変化していきます。
バーチカルドレーンの効果が進むと、ようやく上を車両が通行できるようになります。
ただし、空港に耐えうる地盤には程遠いので、地盤改良工事が引続き行われました。
この写真はJSG工法を施しているところです。
JSG工法とは、地中に打ち込んだ二重管(ロッド)の先端から超高圧でセメント系硬化材を圧縮空気と同時に噴射し、回転しながらロッドを引上げることにより、直径1?2mのパイル状固結体を造成する工法です。
設計図どおりに間隔をきちんと取り一列に施工するために、H鋼で作られたレールの上に機械が設置され、順番に地盤改良を行っていきます。
このほか、沈下する地盤をジャッキの油圧で持ち上げ空洞を特殊なコンクリートで固める工法などを駆使し、計画から完成まで約20年の歳月を経てようやく羽田空港新滑走路の供用に至ったのです。
滑走路は平常どおり供用されていますので、飛行機が次々と離着陸するすぐ脇の現場でした。
当然に安全管理体制や通行規制など厳格に定められたルールに従い工事が進捗されていくわけです。
最先端の工法を体験できたこと、現場の運営、進捗管理に触れることができたことは、後の仕事で大いに役に立ちました。
何より楽しかった!
多くの方が力を合せて一つの事業に立ち向かっている当時の様子が羽田空港を利用するたびに思い出されます。
BGM:「ヘッドライト・テールライト」(中島みゆき)
プロジェクトX 挑戦者たち
新羽田空港 底なし沼に建設せよ
日本の空の要「羽田空港」。かつて、その場所は「底なし沼」と呼ばれた魔のヘドロの海だった。
足を踏み入れると抜け出せない超軟弱地盤。悪臭もひどかった。
「羽田地獄だ」現場の作業員たちは、口々に言った。
その難局に立ち上がったのは、日本の空港建設一筋に生きてきた技術者たち。
あのスエズ運河の現場で腕を鳴らした男もいた。
「絶対に日本の空を築いてみせる」。
前代未聞、ヘドロとの格闘に挑んだ人々の壮絶な物語。
金沢文庫企画展 描かれた寺社展に展示されている「明治の社寺明細帳図」を眺めていると興味深いことが分かります。
それは、「社寺明細帳図」の書式として定められた
1.境内の地形を測り、その方位を定め、地種の等級を図中に明示すること
の、地種の等級についてです。
まずは、展示されている神社、寺院について、それぞれ地種がどのような等級に分類されているかを絵図から抜き出して一覧にしてみました。
※下記リストは金沢文庫での展示順です。地種の抜き出し、分類はkamenoが行っていますので間違いがあればご指摘ください。
■神社
相模国鎌倉郡金井村 | 誉田別神社 | 官有地第一種 |
相模国鎌倉郡岡津村 | 三嶋神社 | 官有地第一種 |
相模国鎌倉郡飯島村 | 三嶋神社 | 官有地第一種 |
相模国鎌倉郡下野庭村 | 白幡社 | 官有地第一種 |
相模国鎌倉郡二つ橋村 | 神明社 | 官有地第一種 |
武蔵国久良岐郡田中村 | 伊勢大神社 | 官有地第一種 |
相模園鎌倉郡城廻村 | 諏訪神社 | 官有地第一種 |
相模国鎌倉郡扇ケ谷村 | 八坂大神社 | 官有地第一種 |
相模国鎌倉郡二階堂村 | 荏柄天神社 | 官有地第一種 |
相模国鎌倉郡二階堂村 | 住吉神社 | 官有地第一種 |
相模国鎌倉郡二階堂村 | 熊野神社 | 官有地第一種 |
相模国高座郡四ッ谷村字宮ノ下 | 日枝神社 | 官有地第一種 |
武蔵国久良岐郡富岡村字宮田 | 八幡大神社 | 官有地第一種 |
武蔵国久良岐郡釜利谷村字小泉下 | 手子神社 | 官有地第一種 |
同上 | 同上(山林部分) | 官有地第三種 |
武蔵国久良岐郡寺前村 | 王子社 | 官有地第一種 |
相模国大住郡西田原村村社 | 八幡神社 | 官有地第一種 |
武蔵国北多摩郡烏山村字千駄山 | 稲荷神社 | 記載なし? |
武蔵圃北多摩郡上川原村 | 日枝神社 | 記載なし? |
■寺院
武蔵国北多摩郡大町村 | 清教寺 | 民有地第一種 |
同上 | 同上(墓地部分) | 民有地第三種 |
武蔵国久良岐郡北方村 | 善行寺 | 官有地第四種 |
相模国大住郡西田原村 | 香徳寺 | 官有地第四種 |
相模国鎌倉郡永谷村 | 貞昌院 | 民有地第一種 |
相模国鎌倉郡笠間村 | 笠間山法安寺 | 官有地第四種 |
相模図鎌倉郡小雀村 | 燈明寺 | 官有地第四種 |
相模国鎌倉郡下倉田村 | 龍臥山瑞祥院永勝寺 | 官有地第四種 |
相模国鎌倉郡秋葉村 | 長蔵寺 | 民有地第一種 |
相模国鎌倉郡品濃村 | 北天庵 | 官有地第四種 |
相模国鎌倉郡飯島村 | 光長寺 | 官有地第一種 |
相模国鎌倉郡下倉田村 | 南江山万松寺 | 官有地第四種 |
相模国鎌倉郡上倉田村 | 林宗寺 | 官有地第四種 |
相模国鎌倉郡平戸村 | 永谷山東福寺 | 官有地第四種 |
相模国鎌倉郡鍛冶ヶ谷村 | 本郷山正翁寺 | 官有地第四種 |
相模国鎌倉郡大町村 | 延命寺 | 官有地第四種 |
相模国鎌倉郡大町村 | 別願寺 | 官有地第四種 |
相模国鎌倉郡小袋谷村 | 亀甲山法得院成福寺 | 官有地第一種 |
相模国鎌倉郡常盤村 | 園久寺 | 官有地第四種 |
相模国三浦郡久木村字堀内 | 妙光寺 | 官有地第四種 |
相模国鎌倉郡岩瀬村 | 亀鏡山護国院大長寺 | 官有地第四種 |
相模国鎌倉郡大町村 | 教恩寺 | 官有地第四種 |
相模国鎌倉郡梶原村 | 休場山等覚寺 | 官有地第四種 |
相模国鎌倉郡岩瀬村 | 岩瀬山正定院西念寺 | 官有地第四種 |
相模国鎌倉郡岡本村 | 聖天山智積院玉泉寺 | 官有地第四種 |
相模国鎌倉郡山之内村 | 光照寺 | 官有地第四種 |
相模国鎌倉郡大町 | 妙法寺 | 官有地第四種 |
ここで、地種の分類とは、具体的にどのようなものかを法律の規定から確認してみます。
根拠となる法律は「改定 地所名称区別」(
明治7年11月7日太政官布告第120号)です。
改定 地所名称区別」( 明治7年11月7日太政官布告第120号)
明治6年3月第114号布告 地所名称区別左ノ通改定候条此旨布告候事
官有地
第1種 地券ヲ発セス地租ヲ課セス区入費ヲ賦セサルヲ法トス
1 皇宮地 皇居離宮等ヲ云
1 神地 伊勢神宮山陵官国弊社府県社及ヒ民有ニアラサル社地ヲ云
第2種 地券ヲ発シ地租ヲ課セス区入費ヲ賦スルヲ法トス 但府県所用ノ地ハ地券ヲ発セス唯帳簿ニ記入ス
1 皇族賜邸
1 官 用 地 官院省使寮司府藩県本支庁裁判所警視庁陸海軍本分営其他政府ノ許可ヲ得タル所用ノ地ヲ云
第3種 地券ヲ発セス地租ヲ課セス区入費ヲ賦セサルヲ法トス
唯人民ノ願ニヨリ右地所ヲ貸渡ス時ハ其間借地料及ヒ区入費ヲ賦スヘシ
1 山岳丘陵林藪原野河海湖沼池沢溝渠堤塘道路田畑屋敷等其他民有地ニアラサルモノ
1 鉄道線路敷地
1 電信架線柱敷地
1 燈明台敷地
1 各所ノ旧跡名区及ヒ公園等民有地ニアラサルモノ
1 人民所有ノ権理ヲ失セシ土地
1 民有地ニアラサル堂宇敷地及ヒ墳墓地
1 行刑場
第4種 地券ヲ発セス地租ヲ課セス区入費ヲ賦スルヲ法トス
1 寺院大中小学校説教場病院貧院等民有地ニアラサルモノ
民有地
第1種 地券ヲ発シ地租ヲ課シ区入費ヲ賦スルヲ法トス
1 人民各自所有ノ確証アル耕地宅地山林等ヲ云 但此地売買ハ人民各自ノ自由ニ任スト雖モ潰シ地開墾等ノ如キ大ニ地形ヲ変換スルハ官ノ許可ヲ乞フヲ法トス
第2種
1 人民数人或ハ1村或ハ数村所有ノ確証アル学校病院郷倉牧場秣場社寺等官有地ニアラサル土地ヲ云 但此地売買ハ其所有者一般ノ自由ニ任スト雖モ潰地或ハ開墾等ノ如キ大ニ地形ヲ変換スルハ官ノ許可ヲ乞フヲ法トス
第3種 地券ヲ発シテ地租区入費ヲ賦セサルヲ法トス
1 官有ニアラサル墳墓地等ヲ云
少し分かりづらいので、整理して表に纏めてみました。
地所名称区別改定による分類
分類 | 種別 | 内容 | 地券 | 地租 | 区入費 |
官 有 地 | 第一種 | 皇宮地、神地 | ×
|
×
|
×
|
第二種 | 皇族賜邸、官用地 | ○
|
×
|
○
|
|
第三種 | 山岳 丘陵 林藪 原野 河 海 湖沼 地 澤 溝渠 堤塘 道路 田畑 屋敷等 其他民有地ニ有ラザルモノ此ノ他 鉄道路線敷等 |
× |
× |
× |
|
第四種 | 寺院、大中小学校、説教場、病院等 | ×
|
×
|
○
|
|
民 有 地 | 第一種 | 所有ノ確証アル耕地、宅地、山林、原野等 | ○
|
○
|
○
|
第二種 | 所有ノ確証アル学校、病院、郷倉、牧場、秣場、社寺等 | ○
|
×
|
×
|
|
第三種 | 官有ニアラサル墳墓地等 | ○
|
×
|
×
|
つまり、神社は官有地第一種であることが規定され、「社寺明細帳図」でも押し並べてその分類に従い全ての神社が官有地第一種(ただし、手子神社の山林部分は官有地第三種)となっています。
注目すべきは、寺院です。
ほとんどの寺院が官有地第四種となります。また、光長寺、成福寺のように神社と同様に官有地第一種に分類されている寺院もあります。これら寺院の土地も国に召し上げられています。
そもそも、 江戸時代に認められていた寺社領は、明治維新後、明治4年と明治8年の上知令により段階的に国に没収され領域を狭められていきます。
「総テ民有地ノ証ナキモノ及民有地ヲ政府ヘ買上ケシ神社敷地ハ官有地第一種、寺院敷地は同四種ヘ編入スヘシ」
ついに、原則、神社は官有地第一種、寺院は官有地第四種と分類されてしまいます。
「社寺明細帳図」でも原則そのように分類されていることが見て取れます。
けれども、清教寺、貞昌院、長蔵寺のように民有地第一種(清教寺墓地部分は第三種)となり、民有地のままとなっている寺院もあります。
何故民有地となっている寺院があるのでしょうか。逆に言えば、正当な理由や確実な証拠を提示することにより、当該寺院の申請により国から還付、下げ戻すことが出来たと考えられ、それを行ったのでしょう。
(ただし、神社については国家神道に組みこむため、いかなる理由、証拠を提示しても還付されることはなかったはずです)
貞昌院は民有地第一種ですから、地券が発行され寺院の土地として証明された代わりに、地租も掛かっていたと推測されます。
(なぜ民有地第二種でなく第一種なのかは不明)
明治初期、全国の寺社は神仏分離・廃仏毀釈・地租改正・上知令などにより大きな変革を余儀なくされます。ただ変革させられたばかりでなく、強制的に統合させられたり、破壊された寺社も数知れません。
廃仏毀釈と国家神道について述べることは今日の記事の内容に関連するとはいえスペースが足りませんので機会を改めるとして、土地制度から見た寺社の歴史的経緯を辿ることにより多くの事実が見えてくることが分かりました。
官有地として上知された土地が寺社に戻ってくるのは、寺院については昭和に入り宗教団体法に伴う第一次境内地処分法により、 神社については終戦後「官国幣社経費ニ関する法律」等の廃止と「第二次境内地処分法」神社の(官有地第一種)が寺院と同様の雑種財産として改められ国からの譲与対象になり、さらに宗教法人法の成立まで待たされることになります。
ちょっと夢のある話題です。
永谷地区に伝わる口伝・伝承です。
■梵鐘埋没
永谷上部落上之坊廃跡に古池の痕跡があり、此池中に梵鐘埋めたと、又永谷中下村部落有花寺の井戸にも梵鐘埋めたと伝えられている。 |
■宝物埋没
永谷部落上之坊の境内に宝物埋めたと次の如く言い伝えられている。
黄金千杯 漆千杯 朱千杯 朝日さし 夕日輝く 勝の木の下 |
出典 『永野郷土誌』(永野郷土誌編纂委員会編・昭和47年発行)
もし埋蔵物が見つかった場合、以下のような手続きが為されると予想される。
- 発見者は文化財保護法第57条の2の規定により、直ちに文化庁長官宛に遺構が発見されたことを書面で報告しなければならない。また、発見後は災害等の緊急避難的措置を除き、現状維持をしなくてはならない。
- 文化庁長官はその歴史的価値を考慮した上で発掘調査を行なうかどうかの判断を行なうとされている。その場合、文化庁の機関または管轄する地方公共団体の教育委員会により発掘調査が施行されることになる。 以降、発見者は独自の判断で発掘を行なうことは勿論、許可が無ければ埋蔵物に触ることもできなくなる。
- 文化財保護法第59条の規定により、遺失物として所管の警察署長より公告が為される。
- 所有者が明確に分かる場合、遺失物法の規定により埋蔵金の5?20%に当たる報労金が支払われる。尚、この報労金の代わりに埋蔵金現物を引き渡すことも法律上可能だが、その判断は所有者に委ねられる。
- 国の所有と判断された場合、埋蔵金は国庫に帰属し、文化財保護法の規定に従い管理される。
- 所有者の申し出が無い場合、文化庁の機関が発掘した場合は文化財保護法第63条の規定により埋蔵物の価額の2分の1に相当する額の報償金が支給され、埋蔵物は国庫に帰属する。教育委員会が発掘した場合は同法63条の2及びその自治体の条例等に従い埋蔵物の価額に相当する額の報償金が支給され、管轄する都道府県に帰属する。
- 報償金を算定する基準となる「埋蔵物の価額」は文化庁または教育委員会が決定する為、市場価格とは異なる可能性がある。
- 発見場所の地権者と発見者が異なる場合、報償金は両者の間で折半することとなる。
参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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神奈川県立金沢文庫 企画展 描かれた寺社 ?中世の指図と明治の社寺明細帳図?開催:平成20年12月11日(木)?平成21年2月15日(日)
時間:午前9時?午後4時30分 (入館は午後4時まで)
観覧:一般個人 250円、20歳未満・学生 150円
休館:毎週月曜日(ただし1/12は開館)、12/24、12/29-1/3、1/13、2/12
において、会期中の後期(1月17日から2月15日まで)に貞昌院の絵図が展示されていますので早速行ってきました。
テーマにもありますとおり、展示内容は「中世の指図と明治の社寺明細帳図」です。
貞昌院の絵図は、日本が国策として全国一斉調査を行った際に作成された社寺明細図なのですが、一堂に並べられ展示されているものを見ると圧巻です。
社寺明細帳図とは、明治21(1879)年、内務省社寺局により各府県に通達された「神社寺院及境内遙拝所等明細帳書式」(後述)に基づき作成された、神社明細帳・寺院明細帳の付録図です。
天災地災など、不測の事態に対応できるように配置図を保存するために4部を作成し、1部は内務省、残り3部は社寺、郡区役所、戸長役場で保存されました。
現在は、宗教法人は文化庁(もしくは都道府県庁)に毎年届けを出すことになっていますが、時代を遡っても様々な様式により実態調査が行われていました。
社寺明細帳図は、所轄庁である内務省社寺局により統一したフォーマットにより精密な実態、実数把握を全国的に行ったということで画期的な調査でありました。
その調査内容は
寺院=所在地・総本山・宗派・寺院名・本尊・由緒・堂宇間数・境内坪数及び地種・境内堂字数・境内庵室数・境外所有地・檀徒人数・管轄庁迄の距離里数など。
神社=所在地・社格・神社名・祭神・由緒・社殿間数・境内坪数及び地種・境内神社数・境内遙拝所・境内招魂社・境内祖霊社・境外所有地・氏子戸数・管轄庁迄の距離里数など。
まるで宗門より調査が行われる級階査定の提出書類のごとく細かいですね。
境内の詳細を画いた「付録図」は、横浜市金沢区内で名主・戸長を勤めた松本家に残っていた資料「社寺製図凡例」を見ると描き方について細かく決められていたことわかります。
「神社寺院及境内遙拝所等明細帳」の「書式」として次のようなものが残されています。
■社寺製図凡例
1.社寺境内の建物などの配置を細密に模写する目的は、後日天災地異または不測の事態にあった場合でも、かつての配置を捜索考証するのに役立つからである。よって、その図面を保存することは重要であるから、4部を作成し、本庁(内務省社寺局)へ提出すること。そのうち3部は調査の上、それぞれ社寺、郡区役所、戸長役場にてこれを保存すること。その図面を作成するに当たっては次の項目に従うこと。
1.境内の地形を測り、その方位を定め、地種の等級を図中に明示すること。
1.祠堂、その地建物を画く場合、その位置と築造の2点に注意すること。
1.社寺殿堂ほか、装設してある灯籠、手洗鉢、唐獅子、石仏、瑞籬(玉垣)、板牆(みずがき)、土塀等については、境内外を問わず配置のままを記載すること。境内地形線をその境界に挿引して、区分を明示すること。
1.社寺の規模、境内の面積を客観的に観るために、すべて1/100の縮尺とする。製図者を見つけられないなど製作が困難な場合は、現状を細写するだけでもよい。
1.境内、池沼もしくは巨木、仮山など、一般の地形と異なるものがある場合は、これを詳記すること。その大小や形状を記することも前項に準ずること。
1.境界の周囲、町村にかかるものは、その町村名を記すこと。
1.社寺所在の地に接続する周辺道、および名所、旧跡、山河、瀑布(滝)などは、その名称と距離とをその方位に当て、記入すること。
1.これまでの項によるもののほか、すべて境内風致にかかわり、または将来の備考となるべきものは出来る限り掲載し、滞りなくこれを行うこと。原文:『松本ナミ家文書』「役場執務・寺社一二の二の(六)」(横浜開港資料館蔵) kameno意訳
同じ書式に基づいて作成されたとはいえ、社寺によって画き方は様々であるということが興味深いところです。
本来は無機質に項目のみ線画で画けば良いのでしょうが、貞昌院の社寺明細帳図は際立って絵画的です。
これを機に貞昌院で保存されている方の絵図を詳細に見てみました。
本堂は茅葺の寄棟屋根となっています。
屋根の下部に行くに従って勾配が緩やかになっていますので、隅木の加工には相当高度な技術を要したのではないかと推測されます。
正面の向拝(正面に突き出た屋根)は杮葺。
梁に彫られた彫刻の様子も良く分かります。右に現在の写真を並べてみました。
また、絵図と現在の様子を比較すると分かることも多くあります。
現在、六地蔵は山門の左側に祀られていますが、当時は山門の右側だったようです。
山門を瓦葺に直した際(関東大震災の後?)に境内整備と併せて移設したのでしょう。
参道入口正面には左側に庚申塔(青面金剛象)、右側に堅牢地神塔(凸型角塔)が配置されていたことが分かります。
現在は貞昌院駐車場角地に移設されて並べられて祀られています。
「かつての配置を捜索考証するのに役立つ」という本来の目的を十分に果たしてくれています。
学芸員の方のお話によると、火災や震災で寺社に残されているはずの1部が失われてしまうことも多く、寺社に保存されているということは貴重なことだそうです。
実は、金沢文庫に貞昌院の絵図が保存されているということはこれまで知りませんでした。
しかし、金沢文庫より企画展展示のご案内をいただき説明を伺うことで、何故現在貞昌院本堂に掲示している絵図が金沢文庫にもあるのか、その理由が分かりました。
おそらく郡区役所、戸長役場で保存されていたもののどちらかが戦後に売りに出されたのでしょう。
金沢文庫も昭和20年台に多くの絵図を購入しているようです。
また、金沢文庫では、社寺明細帳図を展示するのは今回の企画展が初めてのことになるとのこと。
実に参考になる展示会ですので、この機会にお出かけいただくことをお勧めします。
【補足】
絵図の果たす役割の大きさについては『五山十刹図』の事例にも見ることができます。
永平寺三世徹通義介禅師は、永平寺の伽藍整備のための基礎資料とするために宋に渡り寺院の詳細を記録した『五山十刹図』をまとめました。
その貴重な資料は、その後、中国において一度破壊された寺院を再建する際にも大いに役立ちました。
伽藍配置を含め、その時の姿を記録し残しておくことはとても大事なことなのです。
■関連ブログ記事
ハマちゃんのがらくた箱というサイトに興味深い記述がありました。
【上大岡資料集】川を挟んで港南中学校!?
実は昭和24年に学校が出来た時は校地の真中を幅5m・長さ300m・深さ10mに亘って日野川が流れ、教室移動の度に生徒達は校庭内に架かっていた橋を渡っていたのだそうでした。
あまりにも不便・危険であった為昭和26年に河川改修して現在の形状になったそうです。
(ハマちゃんのがらくた箱より一部引用)
さっそく、地図と航空写真で検証してみましょう。
迅速測図 昭和初期
昭和22年6月製版 横浜市復興局 (当時)作成 (横浜開港資料館所蔵)
終戦後まもなく作られた横浜市復興局による地図では、川の形状がだいぶ省略されて描かれています。
ほぼ同時期に撮影された↓航空写真では、川は明治初期とほぼ変わらず蛇行していますから、そこまで詳細に描く余裕が無かったのでしょうか。
昭和22年11月5日撮影 米軍
昭和23年1月18日撮影 米軍
↑↓この2枚の写真を比べると、この間に港南中学校の校舎ができたことがわかります。
(校舎完成は昭和24年6月20日)
昭和24年2月28日撮影 米軍
校庭の真ん中を川が横切るというよりは、端をかすめる形になっていますね。
ハマちゃんのがらくた箱に記載されている「教室移動の度に生徒達は校庭内に架かっていた橋を渡っていたのだそうでした」という状況は、この写真からは読み取れないようです。
↓の地図を見ると、川の向こう(西側)に校舎ができています。
この西側校舎が建てられた時期が川が改修されたとされる昭和26年以前であったとするのなら、その時期が「教室移動の度に橋を渡って・・・」ということになると考えられます。
昭和31年3月10日撮影 (国土地理院)
昭和38年6月26日 (国土地理院)
昭和43年6月6日
まさにハマちゃんのがらくた箱に書かれているように、地図はタイムカプセルです。
時系列で同一場所を追っていくと様々な発見があります。
ちなみに、港南区は1969 (昭和44 )年に南区より分区いたしましたので、ここで紹介した地図や航空写真には当然港南区役所は写っていません。
(現在の港南区役所の位置は、鎌倉街道を挟んで港南中学校の向かい側です)
蛇足ですが、学校の校庭を川が横切っている例は幾つか他にもあるのです。
下の航空写真は東京の井荻小学校の例です。
現在でも教室移動の度に川に架けられた橋を渡るという光景が見られます。
川には安全のために網が被せられています。
■おしらせ
「映像(写真)で見る「港南区の歴史」講座」
港南歴史協議会では、港南図書館と共催で歴史講座を開催いたします。
地図や航空写真を用いて地域の歴史の変遷をたどっていきます。
皆さまのご参加をお待ちいたしております。
日時 :2月28日(土)午後2時から4時
会場 :港南図書館 会議室
講師 :亀野哲也 (私が担当します)
参加費:無料
定員 :先着40名 (2月12日(木)午前9時30分から港南図書館カウンタ?、または電話(045-841-5577)、FAX(841-5725)にて受付)
(同時に、貞昌院で撮影した航空写真の時系列展示も行います)
今年も残り一日余りとなりました。
昨日夕方は月齢1.8の月が見られましたので、今日は+1となり、2.8の三日月です。
2つ前の記事で地球照がほんのりと写っている写真をご紹介いたしましたので、今日は地球照にターゲットを絞って月を撮影してみました。
2008/12/30 17:30 CanonEOS 10D ISO400 f8 4sec Tamron200-400zoom
地球照のことを英語では Old Moon in the New Moon's Arms と表現しています。
直訳すると「新しい月に抱かれた古い月」ですね。
Old Moon in the New Moon's Arms
The Moon in its waxing gibbous Moon phase where the gibbous part is illuminated slightly by Earthshine (reflected sunlit from the Earth). Thus, the bright crescent ("new moon") wraps around and "holds in its arms" the dim gibbous part ("old moon").
(scienceworld.wolfram.com)
写真をよーく見ると、餅をついたうさぎが逆さまに薄っすらと見えます。
ということで、今日の記事のタイトルを「新しい月に抱かれた古い月のうさぎ」としてみました。
「新しい月」の部分は、クレーターの影響でギザギザに見えます。
よく、三日月に横顔の輪郭が描かれますが、まさに顔にも見えますね。
(左)(c)花王 (右)(c)パラマウント映画
「古い月」の部分は、一旦地球に届いた太陽の光が反射し、その反射光により照らし出されたものです。
仄かにやわらかく光るのは、この微かな光によるものだからなのですね。
月から満月状態?の地球を見ると、月の約70?80倍もの明るさで輝いて見えます。
その時の月面では、地球における満月の夜の明かりよりもさらに明るい夜となっているわけです。
それを地球から見たのが地球照です。
西洋では、この「古い月」の部分は、月でも地球でもない「別世界」であるとも考えられていたそうです。
幻想的な夕暮れの三日月は、まるで現実離れしたもののように見えたのかもしれませんね。
月のときはかならず夜にあらず、夜かならずしも暗にあらず。ひとへに人間の小量にかかはることなかれ。日月なきところにも昼夜あるべし、日月は昼夜のためにあらず。日月ともに如如なるがゆえに、一月両月にあらず、千月萬月にあらず。月の自己、たとひ一月両月の見解を保任すといふとも、これは月の見解なり、かならずしも佛道の道取にあらず、佛道の知見にあらず。しかあれば、昨夜たとひ月ありといふとも、今夜の月は昨月にあらず、今夜の月は初中後ともに今夜の月なりと参究すべし。月は月に相嗣するがゆえに、月ありといへども新旧にあらず。
『正法眼蔵』「都機」
今年の夜はあと2回。
大晦日には、夜10時半より除夜の鐘を撞きはじめ、最後の夜を締めくくります。
今日のブログ記事は高所恐怖症の方は読み飛ばしていただいたほうがいいと思います。
あなたは大丈夫ですか?
本当に大丈夫ですか?
いいですね?
そういえば、今年9月にテレビ東京系番組『出没アドマチック天国』で「大船」が放送されました。
一位は大船観音でした。おめでとうございます!
世界平和を祈る観音様として鎮座する大船のシンボル。
東急の創始者・五島慶太氏の指導により、昭和35年に完成しました。一般開放されている胎内へと進むと、そこに御本尊があります。特に観音信仰の強い東南アジア諸国の信者が多く巡礼に訪れるそうです。
(出没アドマチック天国のサイトより)
大船観音は胸から上、高さは25メートルを超えますが、
山の上に鎮座されているので、街のレベルから見ると相当な高さになります。
観音様の胎内は、参拝者の皆さまに開放されています。
5月、6月にはキャンドルナイト、演奏会も開催されました。
さて、ここからがこの記事の核心部分です。
繰り返しますが、高所恐怖症の方は読み飛ばしていただいたほうがいいと思います。
胎内の天井には、メンテナンス用の梯子があります。
もちろん、一般の方は 「絶対に」 登ることは出来ません。
そこを登ると
床面の隙間から、胎内観音像の礼拝マットが見えますね。
上を見上げます。
まだまだ上の段があります。
登ってみます。
・・・・全体の2/3位の高さに到達しました。
恐る恐る下を見下ろしてみます。
!
気を取り直し、さらに上に進むとハッチがあります。
そこから観音様の頭上に出ることができます。
光が眩しい。
大船の街が一望できます。
観音様はこのような視点から街を見守ってくださっているのです。
ありがたいことです。
カラスが集まってきました。
昨日(12月13日)の成果をこちら↓にアップロードいたしました。
⇒ 大船観音・白衣観音様頭上からの360度パノラマ
(撮影日2008年12月13日)
大船観音寺のホームページでは、様々な視点のパノラマを見ることが出来ます。
そのうちに、ホームページに頭上パノラマも加わる予定です。
最後に・・・これまで、公務員をしていた時には地下40メートルを超える立孔、レインボーブリッジ橋脚の頂上など、さまざまな工事現場に行きました。しかし、今回の現場はそれらに勝るとも劣らない緊張感がありました。
例えるならば、どんなジェットコースターよりも浅草のローラーコースターのほうが恐ろしいという感じでしょうか。
もちろん、安全面には最大限の配慮をいたしましたが、
念彼観音力... 観音様のご守護に感謝いたします。
協働・yusさん special thanks
なお、一般の方が登ることは絶対に出来ませんので、くれぐれも大船観音への問い合わせはしないようお願いいたします。
鎌倉・鶴岡八幡宮に隣接する場所に、高祖道元禅師鎌倉御行化顕彰碑があります。
道元禅師鎌倉御行化顕彰碑(災害たすけあい托鉢・鎌倉編の際に撮影)
建長寺を通り鎌倉中心地へと結ぶ県道21号線沿いにありますので、前を通過された方は多いと思いますが、その場所に立ち寄られた方は少ないのではないでしょうか。
曹洞宗の高祖・道元禅師は、宝治元年(1247)に越前より鎌倉の地に下向されます。
そして、鎌倉・白衣舎において宝治2年(1248)3月までの半年間を過ごされます。
宝治二年〈戊申〉三月十四日の上堂に、云く。山僧、昨年八月初三日、山を出て相州の鎌倉郡に赴き、檀那俗弟子の為に説法す。 今年今月昨日、帰寺、今朝陞座す。『永平広録』巻3?251上堂つらつら日暮らしWikiより一部引用
白衣舎がどこにあったのか、今でも不明です。
その場所を明らかにするべく神奈川県において研究が行われてきました。
経緯
昭和27年、高祖道元禅師七百回大遠忌を機に大本山永平寺七十三世熊澤泰禅禅師により発願。
その意思を受け継ぎ、地元鎌倉市龍宝寺住職団野老師を中心に道元禅師鎌倉下向の研究が進みました。
その後、高祖道元禅師七百五十回大遠忌局会議にて道元禅師鎌倉御行化の顕彰を行うことが決まり、数回の研究シンポジウムが開催されました。
数回の研究会、シンポジウムを経て、白衣舎の所在地を特定するためではなく、道元禅師が鎌倉御行化の事蹟を顕彰するために、鎌倉の適地を選定し、顕彰碑を建立することとなり、鶴岡八幡宮に隣接する現地が選ばれました。
平成13年11月に地鎮式が行われ、平成14年3月にはついに高祖道元禅師鎌倉御行化顕彰碑落慶除幕式および記念講演会が厳修行されました。
碑文には、顕彰碑建立への趣意が刻まれています。
曹洞宗高祖 永平道元禅師七百五十回大遠忌に値り、我等遠孫今茲に心を一にして、禅師鎌倉行化の事蹟を些か詳らかにし、その恩澤に報いんとする。
高祖越前入山後五年目の宝治元年(一二四七)八月三日、時に禅師四十八歳、永平寺開基大檀那波多野義重公(越前志比庄の地頭、京都六波羅探題評定衆)より鎌倉下向の懇請黙し難く、公の先君鎌倉幕府三代将軍源実朝公供養の為同年十一月十五日奉修せる鶴岡八幡宮放生会の彿縁を期してか、永平寺叢林を初めて離れ、漸くのこととして鎌倉行化の途に着く。
禅師がその師天童如浄禅師の遺誡を固く守り、権門に近づくことを極力厭い能くよく留意し、「只管打坐」の法燈を行持されたことを拝するとき、この行化は必ずしも心に添うものではなかったと推察される。然し、翌宝治二年三月十三日、永平寺帰山までの凡そ半年余、その波多野公の邸を始め名越白衣舎等鎌倉近在の諸処に在って、執権北条時頼公並びに妻室など、道俗諸緑の求めに応じ、説法授戒等の化導を為し正伝の彿法を弘められたと伝えられる。
以後一生不離叢林の志を益々強め、世寿五十四歳を以て遷化されるまで、永平寺に在って門弟等を教化示誨された行實等に触れるとき、感慨深いものを覚えるのは、我等法孫のみであろうか。
尚、時下って室町時代五山僧の記したものの中に、執政に日々懊悩する時頼公に対して、禅師が大政奉還出家入道を淡々と提言されたと見い出されることは、禅師の彿法中心第一の立場を物語って余りあろう。
終りに、禅師鎌倉滞在中に詠じられたと伝わる和歌を刻し、報恩の丹心を表す。
大本山永平寺監院 南澤道人 撰
維時 平成十四壬午平年三月吉辰謹拝建之
"About Dogen And His Mission To Kamakura"The Great Abbot, Zen Master Dogen was born in 1200. Long before his teens he was, initially due to his mother's death, awakened to uncertain and transitory nature of life in mortality and consequently entered the monkhood at the age of 13. Gradually he came to have a firm aim of more guesting for not only his own self-being but also all the self-beings themselves in the mutable cosmos. At the age of 24 he managed to go to China, which was in those days a centre of formal Zen training, and devoted himself entirely to true Zen practice luckily under strict yet courteous guidance of The Righteous Abbot, Zen Master Nyojo at Mt. Tendo's Zen monastery.
No sooner had he experienced "dropping off both body and mind (SHINJIN-DATZURAKU)" one night during the sitting session at the meditation hall than he was thrown into the spheres of enlightenment, grasping the true way of the Buddha's teachings.
Back home to Japan in 1228, he first stayed at Ken-ninji temple for some three years and then founded his first independent Zen temple, Kosho-horinji, in Uji, close to Kyoto and formed a small pursuing group of followers for the first time.
In 1243 Dogen was driven, for some reason or other, to moved to Shii-no-sho in Echizen Province (now Fukui Pref.), followed by a somewhat bigger group of his deciples and followers for the purpose of establishing some mountain retreat monasteries. Kindheartedly offered land and lots of helps for this mission by Yoshishige-Hatano, a samurai who was one of his most devoted lay followers, Dogen thus founded Eiheiji, which later became one of the two head monasteries of Soto Zen School in Japan, where he devoted himself thoroughly to training his deciples in the perfection of Zen practice in every action of daily life.
That is; he was to transmit the true Buddhist Dharma teachings to Japan and he himself, therefore, is regarded as the very first forerunner of Soto Zen School in Japan.
He died on Sep. 29. 1253, leaving behind a number of noted volumes on Buddhist teachings including SHOBOGENZO "The Treasury of the Eyes to see truly the Cosmic Laws", FUKANZAZENGI "The General Promotion of the Principles of Zazen", EIHEIKOROKU "The General Observations upon the True Laws by Zen Master Dogen".
The Zen Master Dogen's authentic Zen has been scrupulously observed by his successors. Even today, all pursuers, from priests and monks down to lay followers, devote themselves to his practice of "SHIKANTAZA 只管打坐 (just sitting only in its profound sense)",Which was advocated by him not as a means for enlightenment but as enlightenment itself.
This is a short sketch of his lifetime deeds. During his serene yet zealous monastic life at Eiheiji, only once and away, Dogen was interrupted by a visit to Kamakura. The reasons and purposes of that journey are not clear and untraceable by now, and seem to have vanished far into the mist of the history, becoming almost enigma to us,- he himself was necessitated to visit, together with a few deciples and other followers, to Kamakura, centre of secular authority then.
And there he seems, by our limited inference, to have spent most of his time, a little more than half a year (1247-1248), in Kamakura and its vicinities, in making a fervent and earnest attempt to transmit the Buddha Shakyamuni's true teachings to those who asked for them.
He conducted this mission; in fact, he did it simply in a sincere and serene state of mind, probably strange to those who hear this, though.
Because it seems that it was not an utterly willing thing to do for him to go down to Kamakura, only not to nestle up to secular authorities even though for the name of his Eiheiji monastery's benefits.
Finally we would be so honoured and privileged to present you this rather well-known waka, Japanese traditional 31-syllable poem, one of those which were supposedly composed by Dogen while here in Kamakura and handed down to us, in our hands such as a precious parting gift, which reads as follows;In conclusion;
In spring - the blossoms,
in summer - the cuckoo,
in autumn - the moon,
in winter - the snow;All is in the pure and clear,
that'sit!
鎌倉にお越しの際は、是非この顕彰碑をお参りください。
中央の「只管打坐」の文字は、百八歳の禅師様として知られる大本山永平寺七十八世宮崎奕保禅師による揮毫です。
また、顕彰碑の周囲には道元禅師の詠歌十二首が刻まれています。
今年は、12月22日に歳末たすけあい托鉢で鎌倉市を中心に廻る予定です。
そして、その日の夕方より、この高祖道元禅師鎌倉御行化顕彰碑においてキャンドルナイトが行われます。
以下、次の記事に続く
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道元禅師降誕の日と鎌倉歴史散歩
災害たすけあい托鉢・鎌倉編
昨日の記事に関連して、ダイヤモンド富士、パール富士が貞昌院近辺でいつ見ることができるのかを計算してみました。
まずはパール富士。
本来はパール富士とは満月が富士山頂にかかる現象をいいますが、今回は満月に拘らず計算結果をリストアップしています。
すべて観測基点は横浜市港南区上永谷です。
次にダイヤモンド富士。
ダイヤモンド富士は太陽が富士山頂にかかる現象です。
貞昌院から見て、富士山はほぼ真西(正確には真西より若干南側)に位置しますので、春分よりも数日早い日にダイヤモンド富士が観測されます。
来年は3月17日の夕刻です。
ダイヤモンド富士もパール富士も、雲によりさえぎられると見ることが出来ません。
それよりも、その時刻に観測時間が取れるかどうかが一番の問題です。
どれか一つは見てみたいものです。
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大自然の作り出す宝石=ダイヤモンド富士
ダイヤモンド富士はお預け
■関連リンク
ダイアモンド富士 目安カレンダー
市営地下鉄下永谷駅に程近い山中に、日限地蔵(ひぎりじぞう)があります。
正式には高野山真言宗 八木山福徳院ですが、先日、港南歴史協議会の会合でなぜ「日限」なのかということが話題になりました。
港南歴史協議会のホームページには港南の民話が収録されていますので、その中の「日限地蔵(下永谷)」を一部引用してみます。
日限地蔵 (下永谷)むかしむかし、永谷村に飯島勘次郎という、お百姓さんがいました。
いつも、いつも、持病の「癪」という病気に苦しんでいました。癪は、いまの胃けいれんのことで、胃が何かでねじ込まれるような痛みを起こすものなのです。
ある日、いつものような激痛に、ころげ回っている時に、たまたま、通りかかった一人の旅の僧から「伊豆国の三島にある、蓮馨寺という寺にある日限地蔵を信仰すれば、癪の痛みは、たちまち治る」と教えられました。
この昔ばなしに出てくる蓮馨寺は伊豆八十八ヶ所の十九番札所です。
三島市 蓮馨寺
本尊 阿弥陀如来
境内の日限地蔵尊は、日を限ってお願いするとかなえられるという言い伝えがある。
さて、「日限地蔵(下永谷)」は次のように続きます。
一生懸命、祈願していると、いつの間にか癪の痛みがなくなっていました。そこで勘次郎は蓮馨寺にお願いして、分身を頂き、大事に永谷村に持ち帰りました。 慶応二年(1866)七月、現在の港南区の西の境、戸塚区の舞岡町と接する所に、お堂を建てました。 そこは武相国境の山波が連なり、人里はなれた、霊地としてのおもむきがありました。 昭和三年(1928)に、勘次郎の子孫がお堂を修理増築をして、高野山真言宗、八木山、福徳院としました。 この地蔵尊は、長野と山梨にまつられている分身と共に「日本三体地蔵」の一つといわれ、高さ約八十センチメートルの石仏です。 毎月「四」のつく日が縁日で、この日に願いごとをすると、必ずかなうといわれています。 「四」の付く日には、交通の便もわるかったこの山奥へ、伊勢佐木町かいわいのはなやかな街の人たちや、遠くは横須賀方面からも、「願かけ」に大ぜい訪れ、市もたち、とてもにぎわいました。 この人たちの、あでやかな姿を、一日見ようと、村の人たちは木の間や、やぶのかげから見るのを、楽しみにしていました。
このように、日を限ってお願いするということが、その名前の由来になっているということで間違いないようです。
さて、先日このブログでご紹介した『武蔵野探勝』を見ると、港南区の日限地蔵にも高浜虚子一行が参拝されています。
その様子が記載されていますので、部分を引用します。
昭和初期の日限地蔵の様子が生きいきと描かれています。
日限地蔵尊は(貞昌院の)南の方五六丁谷合ひを上った山の上の林中にあった。私は白山さん凡秋さん夢香さんと連れ立ってそこにお詣した。
この地蔵尊は大層霊験の著るしきお仏との事で遠地からの参詣者も中々多いといふ。
先づ驚いたのは、堂の周囲の林の木々に、まるで素麺を干したやうに掛け渡された数限りもない紅白の古幡であった。
それは竿に立て切れず古いものから斯く吊り下げてある由である。
今日は特に詣者が多いとも見えなかったが堂前に香煙が濠々と立ち上ってゐた。
私達も各お燈明と線香を買ひ受けて之を奉り合掌礼持した。
さて何を祈ったか。堂守のお婆さん???目のくるくるした、そして口中にどっさり金歯の見えた??の話によれば、日限といふ謂れは、日数を限って願をかける事であって、例へば、この一週間内に病が軽くなるようにとお願ひし、若しそれで験がなければ又日を限って継続祈願するのださうである。
婆さんは 「一寸した事なら」日とか半日とかに限つてもよいんですよ」などといふ。
「それでは後三時間ばかりとしてお願ひをかけようかなアゝ選句が済むまでね、その後は如何でもよいから……」と興じたは誰方であったかしら。
「その御利益が無かつても継続したところで、事が済んで駄目だね。その時は地蔵さんを大に恨むんだね」などと云つたのは又他の誰方であったかしら。
かゝる冗談を叩いては見たが、然し周囲の空気には、里人の神仏に対する純な素朴な信仰といつたやうなものが漂ってゐて心惹かるゝところが多かった。
一見病後らしい顔の蒼ざめた十五六歳の眉目の整った一人の娘と、その母人であらうと思はれる女が相並んで何時までも香煙の中に合掌黙祷してゐる姿なども心に止めざるを得なかった。
後でその親子に 「あなた方はどちらですか」と問ふと、「横浜から参りました」としとやかに答へた。
堂の側にある掛茶屋のおかみさんが「おこわを召し上っていらっしゃい」と蒸し立ての湯気の立つ赤飯を皿に盛って呉れた。
それは摂待のためのもので、聞けば今日程ケ谷の新天地から大提灯の献納があるので、そのお祝ひに参詣者に皆振舞ってゐるとの事であった。
私達は暫くそこらを徘徊してやがて元の道を引き返したが、堂後の林中の坂道にかゝつた時果して坂下から、差渡し一皿もあらうところの美しい大提灯を担ぎ来る一団の男女に逢うたのも興であった。
私は興に惹かれて、その提灯の後について又堂まで歩を返した。見ると白草居、雨意、拓水、末曾二の諸君も提灯見物に来てゐる。さうさう越央子さんの顔も見えたよ。
大提灯は堂中にかつぎ込まれる。献納の祈祷が始まる。
吾等は皆物珍しくその光景をうち眺めた。
今一団の男女と云つたが、その中には一人は銀杏返しの、一人は束髪の二人の芸者らしい若い女も交って居たし、又彼女等に手を引かれてゐたセーラー服の小娘なども居て、彼等は仏前の祈祷会の中にうち並んで静かに掌を合せ頭を垂れてゐた。程ケ谷の新天地とは恐らく狭斜の巷であるのであらう。私達は、それから茶屋に這入って摂待のおこわを食べ且つ一杯のビールを傾けた。手打蕎麦を食うた者もある。
少し微酔を獲た拓水老などは「よい物を見た。大提灯は面白かった。然し句にまとめるのは六ケ敷いなア」と云ひながらも頻りに句集に耽る様子、白草居さんはいくつもいくつも句帳に認めたと見たは僻目か、果して次のやうに皆よい句を出来してゐる。
これもこれ皆地蔵尊の御利益と思ふべし。
それに引きかへ私一人は・・・お地蔵さんよ、うらめしい。
<後略>
『武蔵野探勝』(昭和44年,高浜虚子,有峰書店)
下線はkameno付記
日限地蔵は全国にたくさんあります。
その由緒、ご利益をいくつかピックアップしてみました。
お地蔵さんの縁日は必ずしも4のつく日だけではないようです。
■日限地蔵尊(島田市)
日切地蔵尊は、1881年(明治14年)に旧・金谷町大代地区、童子沢(わっぱざわ)の自然石をここに運び、開山の日正上人(にっせいしょうにん)がこれに日限地蔵尊菩薩を刻み、入魂開張し、本尊として現在地より西方200メートルの場所に祀ったことに始まるとされる。 その後1888年(明治21年)、遠江国島村の庄屋を勤める山田家9代目当主の山田義一が現在地に地蔵堂を建立したとされる。
日を限って願掛け参りをすれば願いが必ず叶うと評判が高く、静岡県内屈指の霊場として、県内のみならず県外各地から多数の参詣者がある。毎月26日が縁日で8月26日に大祭が行われ周辺は大変賑わう。祈願日は毎月1日、26日、第1・2・3日曜日、9時から16時まで行われる。
■法沢山大雲寺(岡山県)
日限(ひぎり)とは、日数を切り願い事をすれば適えられるということから名付けられた。
様々な願い事を適えてくれるお地蔵さんとして広く知られ、毎月23日の縁日には植木や衣料、菓子などの店が並び、多数の参拝者が訪れる。
ことに、夏の縁日には夕涼みをかねた人たちで混雑する。
■日限地蔵(桐生市)
昔大きな機屋があり、毎晩大入道が出るため家中の騒ぎとなった。ある晩鉄砲で撃ち行ってみると影も形もなかった。明け方に調べてみると点々と血の跡があり、観音院の庭で消えていた。ある夜この家の主人の夢枕にお地蔵様が現れ「わたしが毎夜そなたの家の外に立っているのは、そなたの家を守護するため。野天に立っているので衆人の信仰もない。大勢の人々を守護するためお堂を建ててほしい。その時は何日なりと日を限って願掛けをすれば必ず願望をかなえよう。」とお告げがあった。さっそく、大勢の人の浄財でお堂が建てられ盛んな法要と祈願をした、という。
このような、言い伝えのある日限地蔵尊縁日は、毎月24日に行われる。
■日限地蔵(広沢)
いつのころからか、お地蔵さまは人々に「日限地蔵」の愛称で呼ばれるようになりました。日を限って病気平癒や子育てなどの祈願をしますと、一層霊験があらたかだったからでした。そのため、年を経るに従って、お地蔵さまは、ますます里人たちの信仰心を一身に集められるようになりました。
■日限地蔵(豊岡市但東町太田)
鎌倉時代但馬の中心地であった太田。但馬国守護職に任じられた太田昌明は亀ケ城を築いたと伝わる。また、以前、日限地蔵さんがあった場所には日限地蔵屋敷として平地があり、屋敷の守り地蔵が杉木立の中に鎮座されている。現在の日限地蔵堂は、間口3間、奥行5間で、石灯籠に参道がある。
■日限地蔵院 (大阪府)
「日限地蔵堂」は『大阪府全志』によると「古くから京都知恩院の出張所内にあり、霊験あらたなりと参拝者が少なくなかったが、明治四年(1971)八月同出張所が本院に引き上げられたとき、共に京都に移った。しかし、地元の願いにより長光寺に再び安置したが、同寺境内が狭いため同十二年(1879)十月二十九日、現在地にお堂を建て町内で祭るようになった」とあり、地蔵堂は現在、高野山金剛峰寺末になっています。
「日限」は日限をきって願いごとをすると叶えてくれるところから来たもののようです。
私もお世話になっている港南歴史協議会では、さまざまな歴史資料を活用する方策を考えています。
まずは、デジタルアーカイブ化を行い、それを蓄積する作業を分担して行うことになりました。
貞昌院客殿において、研修会を開催。
事務局のCさんを中心に、コンテンツの内容を固めていきます。
さまざまな問題点も出てきましたが、今後一つづつ解決しながら進んで行きたいと思います。
■港南歴史協議会とは・・・・・
港南区を中心とする周辺を含む地域の歴史・文化を調べ、 互いの情報を交換し、地域の人達へ広く伝え、これら歴史・文化財の記録・保存活動を推進し、地域文化の発展に協力することを目的とする団体です。
地域歴史・文化財に関心を持つ地域の有志ボランティア、及び 地域歴史愛好団体の代表等により構成されます。
主な活動は下記の通りです。
1 地域の歴史・文化に関する「情報交換の場」を設定する。
2 地域の歴史・文化を伝える(伝承)ことを支援する活動。
3 地域の歴史・文化を記録し、保存する活動の推進。
4 地域の歴史・文化を理解するための体験指導を支援する活動。
5 地域に埋蔵されている歴史・文化を見つけ出す(発掘)活動。
デジタルアーカイブがある程度まとまりましたらご紹介する予定です。
ご期待ください。
俳人、高浜虚子先生が、昭和11年11月1日、句会の仲間と一緒に貞昌院を訪問された記録があります。
虚子先生が自ら手配され、国鉄戸塚駅に集合。2台の貸切バスにて永谷村に至り、天神山貞昌院、天満宮、日限地蔵尊を歩かれました。
以下、その様子を『武蔵野探勝』より引用してご紹介します。
永谷の秋(第75回) (佐藤漾人)今度の武蔵野探勝会は全く虚子先生御自身が一切斡旋せられたのであった。といふのは常任幹事のわが蚊杖君が、安田邸とかで催すべく、ちゃんと段取が決ってあったのに間際になって遽な同家の不幸のために駄目となり、勿論蚊杖さんも係って居られない事となったので先生も尠からず面食ったが、急に今度の場所に決められたのである。
それは、元先生のお宅に勤めてゐた女中さんの周旋で其女中さんの近所のお寺とせられたのである。
高浜虚子が貞昌院に来訪されたということは、以前に先代住職から様々なエピソードを聞いたことがありましたが、きちんと文献として残されていました。
それにしてもひょんな経緯で上永谷へと来ることになったのですね。
記事の順序が前後するが、実は私は・・・・恐らく私ばかりでなく多くの諸君もさうであらうと思ふが・・・その事情を、先生や水竹居翁とたまたま一緒となった帰路の、、ハスの車で翁から聞かされたのである。
成程云はれて見れば一々思ひ当る。先生は只例の如く黙々としてゐられたが、戸塚の駅に既に己に早く来られてゐて、東京からの吾等一行を駅頭に迎へて居られたりバスの世話を一々なされたり、又お寺でも皆の中食の指示などをされてもゐられた。
それにその寺の書院の坐にご馳走を運び茶を汲んだりしてまめやかにたち働いて呉れる二十歳ばかりの眉目のさつぱりした娘さんがゐたが・・・・私などはお寺のものかなァとばかり思ってゐた・・・今聞けばそれはその先生のお宅の元女中さんであったのである。
ハスの中で、先生が水竹居さんに 「あの灯のともってゐる家ですよ」と窓外を指す彼方の丘の麓の森の中に、夕闇をこめてぽかりと灯ってゐるその女中さんの家が見えた。車中の私達は皆首を伸べてその灯影を懐しく顧みるのであった。さて、その日は薄曇った時雨でも来さうな小寒い天気であった。一行の分乗した二台の貸切のバスが坦々たる横浜街道を東に、左右に豊の秋を展じた中を二十分程走って上永谷村に到った。
天神山貞昌寺は丘がかりの小高みにあった。本堂は大震災に倒壊したさうで、近年漸く新築が成ったばかりのやうであったが、庫裡は元のままに藁葺き屋根もいと古りてゐた。
門前に小川がせせらいでをり、そこらには穂芒が群がり萩が枯れそめ菊畑を持った小屋などがあった。
お寺の住職さんは大層篤志の方で又此村の小学校の校長さんである由、先の先生の女中さんも其教へ子であるとの事。
永谷村は、かの菅相丞の旧跡であって、菅公筑紫への遠流の時その子秀才も東なるこの地に遠ざけられ、後菅公の罪あらざる事明らかになるに及んで秀才は京洛に呼び戻されたが、その没するに当っての遺言によりその遺髪をこの里に送り埋祭されたといふ故事がある。
永谷鎮座の天満宮には、寺の裏山になってゐる老杉繁る中にあり、そこには歌碑、菅秀塚などが存する。
貞昌院での一行の光景が目に浮かぶようです。
虚子のところで働いていらした「女中さん」というのがどなたかはよくわかりませんが、永野小学校出身の地元の方のようですので、調べてみたいと思います。
探勝において詠まれた俳句が並べられていますが、そのうち、虚子によって詠まれたものを抜粋してみます。
明治時代の永谷ののどかな光景が描かれています。
季節もちょうど今くらいだったのでしょう。
瘦菊に 立てたる杖や 稲架の下 虚子
いちじくに 屈みて稲を 運びをり 同
鴉二羽 とびもつれをり 稲運ぶ 同
むかご蔓 流るゝ如く かゝりをり 同
稲芒に 川流れをり 稲の中 同
心静かに 桜落葉を 踏みて立つ 同
見るうちに はづし終りぬ 稲架の稲 同
寺の門前の小川に臨んだ一軒の茶屋に婆さんが住んでゐた。
婆さんは小さい髷をちょこなんと結んで著ぶくれた背を丸め喉に何か黒い巾を巻き付けて何処か病身らしく見えた。
水車の爈ほとりに蹲って何か煮え立つ鍋を守っていつまでも動かない。見てゐると一疋の、これも年を食ったらしい虎毛猫が、その婆さんの丸い背中に上ったり小さい膝に這入って見たりする。
が、婆さんは猫のなすがまゝに任せてぢつと動かない。
茶色のズボンを穿き古い毛系のシャツを著た爺さんはでっぷり肥えてゐた。店のそこらの物形づけをしてゐたが、やがて、土間のテーブルの上の、二三輪黄菊を投げ挿した瓶の下に置いてあった帽子をちょっと頭に乗せて、「行って来るよ」と婆さんに一寸言葉をかけて、店の入口のガラス戸をがたがたと開けて何処かに出て行くのであった。
が、爈辺の婆さんは尚いつまでも蹲ってゐた。
茶店の外は直ぐ芋畑で、そこらに菊なども咲いてゐた。
貞昌院から永野小学校方面を写した写真がありますので、併せてご紹介します。
これは大正12年に撮影されたものですので、時代は少し下りますが、大体同じ様な光景を高浜虚子一行は眺めていたのだと思います。
写真では、田んぼがずっと広がっているあたりも、今は環状2号線が通り、すっかり様子が変わってしまっています。
絵地図と写真にみる貞昌院の変遷で見られるような時代のお話でした。
『武蔵野探勝』
(編者・高浜虚子,有峰書店,昭和44年発行限定版)
貞昌院でかつて頒布されていた家伝薬があります。
その名も「繋命蘇生湯(けいめいそせいとう)」
効能と用法を記した版木が残されています。
まずは、数年前に川崎市民ミュージアムで展示されていたときの図録をご紹介いたします。
『まじないと占い』企画展解説図録(川崎市民ミュージアム、2001年)より
誤)撃命
正)繋命
かつては病気や災難は、神仏の祟りや厄神、魔物などによりもたらされたという考えもありました。
寺院と薬の関係は深く、病気や自然災害、家事や盗難などの災難を予防したり祓いのけたりするために用いられたものがたくさん残されています。
僧侶のくすり8世紀にわが国に仏教が伝えられて以来、医療を行う僧侶が多く現れた。これは中国から医学を修めた名僧が日本に渡来して後進に医学を教えたり、仏教の修行に日本の僧侶が中国へ渡った際、同時に医学も伝えられたためである。
奈良時代(754年) に来朝した鑑真は、膨大な数の生薬や「呵梨勒丸(かりろくがん)」等の薬物をわが国にもたらしている。鎌倉時代になると栄西が中国・宋より茶の種をもらい受けて『喫茶養生記』(1221年) を出版しているなど、医療を施した僧の例は数限りない。
仏教では教義を究めるための補助として五つの学術を規定し、「五明」と称していた。そのひとつに「医方明」と呼ばれる医学の研修実践があった。病人を介護すること自体が、仏教における慈悲の行いの具体的修行に含まれていたわけである。当時の僧侶が医薬に詳しかったのはこのことからきている。
だが、修行とは別に、僧侶は仏教を庶民に伝道するためのひとつの手段として、広く人びとに医療を施した。僧侶は当時、一般にはなかなか与えられなかった「通行の自由」をもっており、諸国への通行が許されていた。このことは、仏教の教義を人びとに浸透させると同時に、医療を広め、薬草の知識や薬の製造方法を諸国に伝えることに大いに役立った。
僧侶が諸国にもたらした代表的なくすりとして、高野山の山岳修験僧の中から生まれ、信仰を通じて庶民の常備薬に普及した 「陀羅尼助(だらにすけ)」や、木曽御獄山の 「百草(ひゃくそう)」、越中立山の 「練熊(ねりぐま)」などがある。
これらのくすりは「神授」として信仰の意味も含めて、江戸時代には人びとに広く親しまれていった。薬局の歴史博物館より引用
先日のサイエンスカフェ「天神おみくじ体験会」の際に、この「繋命蘇生湯版木」も摺り出しました。
内容を、当日参加くださっていた 古文書の会 の方々に読んでいただいたものをいただきましたのでご紹介いたします。
繋命蘇生湯(けいめいそせいとう)
1、産前産後血の道一切に用いて妙なり。婦人懐妊のうち、常に用いて母子共に安躰にして平産する事うたがいなし。
1、経水(月経)不順又は経水きたらんとする時腹痛む
1、産後、反り気、震い気或は気を取り失い、目を引付け歯をくいつめなどする症にも、この御薬たてつけ、度々用いて快気する事妙なり。また、あとにていよいよ用ゆる時は、全快する事うたがいなし。
1、産後一切の患い、悪血の滞りにて腹痛むに用いてよし。第一悪血を下し、新血を生じ、のぼせ、みつなり。目まい、立くらみ、気のつきおとろえ、或いは雨風のせつ、心あしくものにたいくつしてあくび出てこころ持あしきに、度々服用すべし。其外、産後、いかようの患いにも用いて其病を治す事奇妙なり。
1、産後、きちがい又は半産血あらし或は子おろしたるあとにて用い、よく血をおさめ、快気する事うたがいなし。
1、産後いずれの患いにも、善悪にかかわらず服用すべし。其やまいを治す事妙なり。惣じて婦人いづれのやまいとも見わけがたきには、二廻りほど用て、しるしあり、又あとにていよいよ用ゆる時は、全快する事奇妙なり。
1、産後、きちがひ、ものぐるいなどする事あり。此御薬二廻りか、または五廻りほど用い、本腹することうたがいなし。
1、男女、大人、小児共に持薬にして、第一よく脾胃をおぎない、気血をととのえ、めぐりをよくし、万病を治し、無病となる事奇妙なり。
1、なか血志らち其外こしけ一切用いてよし。
江戸時代は女性にとって出産は一命にかかわるほど大変なことでありました。
そのような環境の中で、先人たちがどのように病気、出産に立ち向かっていったのか、そこに寺院がどのようにかかわっていたのかが生々しく伝わってきます。
ざっと読んでいただいたものですので、まだ判別不能な箇所もあります。
また、現代では人権上適切でないと思われる表現も含まれておりますが、その点をご留意ください。
いろいろと調べているうちに、とても興味深い記事をみつけました。
おみくじと処方のコラボレーションです。
それが現代でも受け継がれているということに驚きです。
医学の計り知れない領域がまだまだ存在するのですね。
【ほんとかいね そうなんや】 “おみくじ処方” ご利益は?体調不良を訴える市民の求めに応じ、最適な薬をおみくじの結果で紹介してくれる寺院が金沢市内にあるという。実態を確かめるため訪ねた。その寺院は、東山一の観音院。住職によると“おみくじ処方”は代々続く伝統の儀式という。科学的根拠は示されていないが、手続きの流れはこうだ。
<以下、こちらをご覧ください> 中日新聞(2006/9/2)
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天神おみくじ体験会第二弾報告
実りの秋。
今年も栗の実がたくさん収穫できました。
栗ご飯も良いですが、甘く煮込んだ栗の渋皮煮も作りました。
渋皮にはポリフェノールの一種「タンニン」が含まれています。
抗癌効果も高いとされています。
植物繊維もたっぷり。
つくりかた(貞昌院版)
【材料】
栗 800g
砂糖 450g
醤油 小さじ1
(1)栗の鬼皮をむく
(2)鍋に栗を入れ、たっぷりの水を加え、中火で。
煮立ったら弱火で5分。、湯を捨てる
(3)(2)を3回ほど繰り返し
(4)その後1時間くらい茹でる。竹串が通るくらい。
(5)水につけ、指の腹で綿のような筋を取る。
(6)4、5回水を換えながら一晩おく。灰汁を取り、水が澄むまでさらす。
(7)翌日、新しい水を加え、茹でる。
(8)鍋を蛇口の下に置き、水を出しながら冷ます。
(9)水から栗を引き上げる。
(10)鍋に栗をいれ、ひたひたに水を注ぎ、砂糖を加え、紙蓋をして弱火で茹でる。
(11)最後に醤油を加え、火を止める。
どうぞめしあがれ
Kameno's Digital Photo Log みたいな。 このテキストは 第2章 ・・・・みたいな。 第3章 真っ赤に酔う 第4章 ふしぎな竹酒 第5章 永谷天満宮秋まつり 第6章 秋彼岸の中日 第7章 サーバ構築中 第8章 永谷天満宮子供神輿 第9章 共生社会をめざして 第10章 新型インフルエンザへの寺 第11章 ツリフネソウのしっぽ 第12章 天神おみくじ体験会第二弾 第13章 テラへ・・・・ 第14章 雲の合間の中秋の名月 第15章 住宅用火災警報器をつけて |
秋彼岸中日に行われた近隣ご寺院の彼岸法要に随喜した際、後席にて珍しい般若湯(一般的にはお酒ともいう)を目にすることができました。
参列された役員の方がお持ちくださった竹酒です。
『ふしぎな竹酒』という名のとおり、「竹」の節と節の間にお酒が詰まっています。
見たところ、穴を開けて酒を充填した痕跡がありません。
いったいどうやってお酒を詰めたのでしょう。
ラベルの部分に隠し穴が?と、捲ってみますがやはり穴は開いていません。
このお酒、まったく穴らしきものがあいていないので、飲む際には、上の節に2箇所(注ぎ口と空気穴)をキリなどで穴を開ける必要があるのですが、このお酒を前にして、一同「どうやってお酒を詰めたのか?」という話題で持ちきりになりました。
・下の節を空けて、パラフィンなどで埋めたのではないか?
・ラベルの裏に隠し穴が
・細い穴を開けて、後で高圧水蒸気で穴を塞いだのでは?
・元々、酒が空洞部に溜まっていく種類の竹なのでは?
どれも外れのようです。
話題提供にはもってこいの楽しいお酒です。
ふしぎな竹酒を製造しているのは千葉県久留里の吉崎酒造。
かずさの名水「久留里の水」と厳選した酒米で作られた清酒とのことです。
私がゲンジボタルを見に出かけるのも、この「かずさ」の近くなのですが、とても水のきれいなところです。
どうやってお酒を詰めたのか・・・・その答えが見つかりましたが、疑問のままおいておいたほうが楽しいかも知れません。
でも知りたい方はここをクリックしてください。
秋の名月を眺めながら、ホタルの光に思いを馳せいただくのも風情があっていいですね。
R寺さま、ありがとうございました。
■関連リンク
醸造元・吉崎酒造?
有名な経験則に「ムーアの法則」があります。
1965年、Intel社を創設した一人の、Gordon Moore博士によりにより提唱された法則で、半導体の集積密度が18?24か月で倍になるというものです。
HDDの単位面積あたり集積度は、この法則の値をはるかに上回り、1Gバイト当たりの単価も急速に下落しています。
例えば、ASCII.jp アキバのIDE HDD価格グラフを見ると、
1000円割れ 1999年9月
<3年6ヶ月>
100円割れ 2003年3月
<5年5ヶ月>
10円割れ 2008年8月
・
・
・
約9年間で単価は1/100になりました。
1Gバイトあたりの単価は、10円を切っています!
先日、パソコン環境の再構築のため、外付けHDDを購入しましたが、2T(テラ)バイトで、36,000円でした。
1Gバイトあたりの単価は 17.6円です。
今後もこのペースで単価は下がり続けるのでしょう。
それとともに、情報管理の重要性はますます増していくことでしょう。
【お知らせ】
今週中にサーバーの性能UPを行う予定です。
詳細は後日お知らせいたします。
■関連リンク
ムーアの法則(intel)
もうすっかり秋の気配が濃厚となりました。
朝夕には境内は虫の音に包まれます。
夏に各方面からいただいた花火が残っていたので、まとめて花火を楽しみました。
大玉の花火もいいですが、線香花火はさらに風情がありますね。
花火は奥が深いですが、線香花火はきちんとした指導者さえいれば小学生でも簡単に作れます。
美しい火花は、鉄粉などの金属粉末により生み出されると思われがちですが、そうではなく「煤」が燃えてこのような美しい軌跡を作り出しています。
線香花火の原料は
・硝酸カリウム
・硫黄
・松煙
これらを混ぜ、さらに
・塩化カリウム
を混ぜます。
それを薄い和紙に包んで、きつく細く縒って作ります。
原料の調合の方法、包み方によって花火の良し悪しが決まりますので、ちょっとした自由研究のテーマに良いと思います。
(ただ、少量とはいえ、火薬を扱いますので、くれぐれも化学に詳しい大人の人と行ってください)
興味のある方はこちらもご参照ください。
⇒体験活動ナビゲーター(国立青少年教育振興機構)
原料の「松煙」は、松を燃やして作る「煤」を集めたものです。
この「煤」が線香花火の肝であるわけですね。
ただし、最近は花火のほとんどが中国産となってしまいました。
原料も松煙を使わずに代用品で製造されているものがほとんど。
本物の線香花火は貴重なものとなってしまいました。
少し残念です。
■関連リンク
山縣商店 (消えゆく国産の線香花火を守り続ける花火問屋)
⇒国産線香花火に関するコラム
静かなる脳 禅ですぐ回復禅の修行者は、修行経験のない人に比べ、瞑想を乱されてもすぐに元に戻る能力を身につけていることが機能的磁気共鳴断層撮影(fMRI)による脳活動の観察でわかった。
米メモリー大のチームが、オンライン科学詩プロスワンに発表した。
チームのジョセッぺパニョニ助教らは、3年以上の修行経験者と修行経験がない人12人ずつに協力してもらい、「呼吸に集中してください」と指示。
ときどきコンピューターの画面にランダムな文字を出し、その中から意味のある言葉を探し出したあと、再び呼吸に集中するように求め、協力者の脳の働きをfMRIで監視した。
その結果、修行経験者の脳活動は未経験者の脳活動に比べ、「言葉探し」で活性化された状態から静かな状態に戻るのが明らかに早かった。
同助教は「注意欠陥・多動性障害(ADHD)や強迫性障害などの治療に役立つ可能性がある」としている。
(朝日新聞2008/9/7朝刊 社会面)
このような記事を目にしました。原文もご紹介いたします。
“Thinking about Not-Thinking”: Neural Correlates of Conceptual Processing during Zen Meditation
Giuseppe Pagnoni1*, Milos Cekic2, Ying Guo3Abstract
Recent neuroimaging studies have identified a set of brain regions that are metabolically active during wakeful rest and consistently deactivate in a variety the performance of demanding tasks. This “default network” has been functionally linked to the stream of thoughts occurring automatically in the absence of goal-directed activity and which constitutes an aspect of mental behavior specifically addressed by many meditative practices. Zen meditation, in particular, is traditionally associated with a mental state of full awareness but reduced conceptual content, to be attained via a disciplined regulation of attention and bodily posture. Using fMRI and a simplified meditative condition interspersed with a lexical decision task, we investigated the neural correlates of conceptual processing during meditation in regular Zen practitioners and matched control subjects. While behavioral performance did not differ between groups, Zen practitioners displayed a reduced duration of the neural response linked to conceptual processing in regions of the default network, suggesting that meditative training may foster the ability to control the automatic cascade of semantic associations triggered by a stimulus and, by extension, to voluntarily regulate the flow of spontaneous mentation.
曹洞宗宗報最新号(平成20年9月号)には、カリフォルニア人間科学大学院創立者・同大学長・本山博博士が永年に亘って研究されてきたAMI測定器が精神病の測定に転用できないか、報四恩精舎住職 野田大燈師が打診されたとの記事が掲載されております。
AMI測定器開発の出発点は、ヨーガでの「気」の測定が原点だったようですが、ニート・引きこもりの青壮年と向き合ううちからうつや統合失調症の精神化領域における精密な計測機器を探しておられる野田老師に、そのような縁があったという記事です。
結果、野田老師、同伴した精神科医共に実験台となり、躁・うつや、統合失調、社会不安障害に苦しむ一部「若者自立塾」生の治療指針に役立つことが確信できたということです。
今後の展開が楽しみです。
以前、このような講演をご紹介いたしました。
禅が脳に効く坐禅の呼吸と通常の呼吸の違いは、腹筋を使うか否かである。
通常の呼吸は横隔膜を使う。生きているための呼吸であるから、無意識に寝ている時でも呼吸が可能である。
坐禅の呼吸は、意識的に吐く(欠気一息)、これは腹筋を使う意識的な運動である。これによりセロトニン神経は活性化される。脳波の実験により、坐禅の呼吸から4分から10分後にα波の成分が脳全体に広がるが、単純に眼を閉じたときに発生するα波と、異なるα波であると考えている。伝達の経路が異なるのである。
「心の三原色」
・ドーパミン神経 (快の情動回路)
・ノルアドレナリン神経(脳内の危機管理センター)
・セロトニン神経 (舞い上がりもせず、不安にならず、平常心をもたらす)セロトニン神経は、ドーパミン神経、ノルアドレナリン神経を、脳内の指揮者として、抑制させるという役割を担っている。
『禅が脳に効く』
東邦大学医学部生理学教授・有田秀穂先生講演録より
禅に科学的にアプローチする試みは以前からされておりましたが、このところいくつか眼に留まった話題についてまとめてみました。
現代社会は複雑な人間関係に悩み、こころの病に苦しむ方々が多くなっています。
静かに世界に広がっている禅ブームはこのような背景も少なからずあるのでしょう。
天正10年(1582年)、宅間藤原規富が天神社を再建するにあたり、川上(戸塚区川上町)徳翁寺の 四代目住職明堂文龍大和尚を請し、上永谷町字籠森(現在の市営地下鉄上永谷駅付近)に建立されたのが貞昌院の由緒縁起であります。
天正10年といえば、同年6月2日、明智光秀が謀反を起こし、京都・本能寺に宿泊していた主君織田信長を自刃させた本能寺の変の年です。
この本能寺の変に際し、明智光秀が引いたおみくじのエピソードがあります。
そもそも、おみくじは政治の世界でも、鶴岡八幡宮で天皇を決めるのに籤を引き後嵯峨天皇が即位(1242年)や、足利幕府の後継者を決めるため岩清水八幡宮でくじを引き足利義教が即位(1394年)など、度々用いられたようです。
さて、明智光秀が本能寺に出陣する前に、京都府左京区の愛宕権現堂において愛宕百韻を開催、参詣後神前にて熱心に祈願してからおみくじを引いたそうです。
その結果がこちら。
なんと、凶でした。
「愁悩損忠良」 (忠義をつくしても、その功が現れぬがゆえに憂い悩む…)
しかも生死は七、八分まで死すべし。
光秀は、その結果に愕然として、再度おみくじを引きます。
・・・やはり凶でした。
「このおみくじに遭う人は、万事我たのみに思うものに裏切りせらるる形なり、油断すべからず・・・・」
生死は八、九分は死すべし.
光秀は相当がっくりとしたようです。
そこで、三度目のおみくじを。
恐らく、2度目のおみくじを引き終わった段階では、謀反を起こすかどうか相当迷ったのではないでしょうか。
2度の凶を経て、三度目の正直、「大吉」が出たことで信長を撃つことを決心したとしたら・・・運勢項目の「生死は死すべし」 の項目が悲しすぎます。
2度目に出た「このみくじに遭う人は、万事我たのみに思うものに裏切りせらるる形なり油断すべからず・・・」の通り、光秀は本能寺の変の後、盟友であった細川幽斎、高山右近らに裏切られることとなります。
明智光秀は本能寺の変から11日後の6月13日、山崎の戦いにおいて、その生涯を終えました。
参考文献
『かながわおみくじ散歩』 島武史著・かもめ文庫・1999年
【補足】
たとえ、おみくじで大吉が出ても油断は禁物ですし、また、凶が出ても、凶はいずれ吉にかわる可能性もあるので、落込むことはありません。
(なにしろ、貞昌院の天神おみくじは半分以上が凶です。)
もしも凶が出たときには、神仏に守護をお願いし、自らも注意し、努力するという心構えが大事です。
『易経』では、不満足な結果が出たからといって、何度も占い直すことを戒めています。
日頃お世話になっている方からビールをいただきました。
ありがとうございます。
ビールといえば、横浜がビール発祥の地として知られています。
明治2年(1869年)、横浜の外国人居留地(現在の横浜市中区)に「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」という醸造所を作ったのが日本最初のビールということになっています。。
また、その1年後には、アメリカ人ウィリアム・コープランドが、山の手にある天沼(現在のキリン園公園=横浜市中区)でビールに適した湧水を見つけ、「スプリング・バレー・ブルワリー」を設立しました。
ところが、「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」と同じ年の明治2年(1869年)に、品川縣(後述)において、当時の品川県知事・古賀一平氏が、金融恐慌に苦しむ人々に職を与えるため、現在の京急立会川駅にあった土佐藩下屋敷跡にビール工場を設立したとの記録が品川区教育委員会により発見されました。
そこで、立会川商店街を中心に研究会が発足し、茨城県内の業者に醸造を依頼したものが、冒頭の「品川縣ビール」なのです。
⇒品川縣ビール公式サイト
ただし、品川縣ビールは、実際に工場でビールが製造されていたかどうかが今一つはっきりしません。
対し、「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」は、きちんとしたビールのラベルや新聞広告により、販売についての証拠は充分に揃っています。
さて、品川縣という聞きなれない県名がでてきました。
ここで品川縣とは何かを見ていきましょう。
■基礎知識
明治2年(1869年) 版籍奉還
<府藩県三治制>
明治4年(1871年) 廃藩置県
この間、武蔵知県事の管轄区域(旧・武蔵国)にあった諸藩は下記のとおり
岡部藩 安部家 20,000石
久喜藩 米津家 11,000石
忍藩 阿部家 松平(奥平)家 他 100,000石
岩槻藩 阿部家 大岡家
川越藩 松平(越前)家 他
六浦藩(金沢藩) 米倉家 12,000石
これを踏まえて・・・・
武蔵知県事1868年(慶応4年=明治元年)5月3日(旧暦4月11日)の江戸城開城を経て江戸周辺の支配権をほぼ掌握した明治新政府は、同年6月30日(旧暦5月11日)、新政府軍の軍政下に置いていた江戸市中の旧町奉行支配地域を管轄する「江戸府」を設置した(9月3日(旧暦7月17日)に「江戸」が「東京」に改称されるとともに、江戸府も「東京府」に改称された)。
一方、江戸(東京)近傍の農村は旧幕府代官の山田政則、松村長為、桑山效の3人にそれぞれ従来の支配地域を引き続き管轄させ、8月7日(旧暦6月19日)に山田と松村を、さらに8月27日(旧暦7月10日)には桑山をそれぞれ武蔵知県事に任じた。山田は武蔵国内の豊嶋・足立・埼玉3郡で約11.4万石、松村は荏原郡を中心に武蔵国内で約10万石、桑山は葛飾郡を中心に武蔵国および下総国内で約13万石の旧幕府直轄領(天領)等を管轄した。同年10月(旧暦)には、3知県事が管轄する荏原・豊島・葛飾各郡のうち東京市街に近接する町村が東京府に移管された。
これに前後して、同年8月(旧暦)、松村知県事が古賀定雄(一平)と、12月(旧暦)に桑山知県事が河瀬秀治と、翌1869年(明治2年)1月(旧暦)に山田知県事が宮原忠英とそれぞれ交代している。
新政府の支配が安定した1869年(明治2年)、3知県事の管轄区域は正式な「県」となり、大宮県、品川県、小菅県が設置された。
(出典:Wikipedia)
明新政府の支配が安定すると、武蔵知県事の管轄区域の3知県事の管轄区域は、それぞれ正式な「県」となりました。
それが品川縣、小菅縣、大宮縣・浦和縣です。
うち、品川縣は、日本で最初のビールが製造されたとされる明治2年(1869年)3月21日(旧暦2月9日)に設置されました。
なぜ「品川縣」という名称になったかというと、縣庁を立会川近辺(現在の東京都品川区)に置くことが予定されていたことによります。
品川縣庁が正式に設置されるまでの間は、縣庁は、暫定的に東京日本橋浜町・旧旗本小笠邸に置かれました。
その範囲は、当時の東京府や韮山県、川越藩などとの管轄区域の交換を経て、下図のように武蔵国荏原・豊島・多摩・新座・入間・高麗各郡内の旧幕府直轄領および旗本支配地等を管轄しておりました。
明治4年(1871年)の廃藩置県により、同年12月25日(旧暦11月14日)に東京府および小菅県と合併して東京府となり、多摩郡および新座郡、入間郡内部分は神奈川県および入間県に移管されました。
品川縣は僅か2年で姿を消してしまったのです。
立会川に品川縣庁が設置されることもありませんでした。
それにしても、何という広大なエリアだったのでしょう・・・・
品川縣ビールは、赤色の美しいビールです。
心なしか少しほろ苦い味わいでした。
■関連サイト
関東の諸藩 クリッカブル・マップ
近年、診療科における医師の偏在が顕著となり、比較的医療環境の恵まれている都市部においても産婦人科や小児科の医師不足が問題となっています。
出産のために受入れ先の産婦人科をもつ医院を探すも、それをを拒否され、悲しい結果となったという報道も目立つようになりました。
この根本的な原因をもたらす『医師の偏在』には、つぎのような2つがあるとされています。
二つの『医師の偏在』
■地域格差=へき地における医師不足
■産婦人科や小児科の医師不足=都市部においても診療科における医師の偏在が顕著
⇒関連記事:こどもの日に
貞昌院は横浜南部に位置しておりますが、ごく近くに神奈川県立こども医療センターがあります。
このような医療施設が身近にあるとこうことは、とても心強いことです。
必要なときに必要な医療を受けることができることの有難さは常日頃感じているところです。
この病院には、それこそ医療を受けるために県全域から様々なこどもたちが集まりますが、場合によっては、付き添いの方の宿泊も考慮して病院にて診察を受けなければなりません。
救急搬送の場合でも、時間経過とともに救命率は低下してしまいます。
また、産婦人科や小児科の医師の方々の負担の増加も見逃せません。
診療に大人よりもずっと手間がかかるにもかかわらず、小児科の診療報酬が大人とほとんど変わらないということも大きな問題です。
このままでは産婦人科や小児科の医師がますます減っていってしまうという負の循環に陥ってしまいます。
世界に眼を向ければ、医療環境の格差はさらに顕著です。
こどもたちが健やかに育つ社会のために、『医師の偏在』の現状が少しでも改善されますことを願ってやみません。
享年と行年=いのちの長さの数え方 の補足記事です。
■行年・享年 生まれてから経た年数。特に仏教語というわけではない。例えば、『荘子』天運に「孔子、行年五十有一にして道を聞かず」とある。日本ではしばしば<享年>と同一視し、天から享けた寿命の年数、亡くなった時の年齢を指す。(『仏教辞典』岩波書店・中村元 他編より)
■数え年 生れた年を1歳とし、以後、正月元旦毎に1歳ずつ加えて数える。
■満年齢 年齢は出生の日より起算し、出生日の応当日の前日の満了をもって年齢が加算される。(「年齢計算ニ関スル法律」)
現在「年齢計算ニ関スル法律」により運用されている満年齢の考え方は、「西洋的ないのち観の象徴」でもあります。
すなわち、民法 第3条 私権の享有は、出生に始まる。という表現に端的に現れております。
対し、数え年の考え方は「東洋的いのち観の象徴」でもあります。
これはどのような考えにもとづくのでしょうか。
以下、玄侑宗久師の 『「満」と数え年』(「福島民報」 福島民報社3月12日号) を引用しながら段落ごとに考えてみましょう。
最近の新聞の死亡記事は、満年齢で書かれることが多い。うちの寺では死亡年齢を「数え年」で書くため、ちょっとした混乱が起こることもある。まぁ混乱といったって、生き返るほどのことはないが......。 数え年というのは、中国に由来する古典的な東洋の年齢観である。人は生まれたときすでに「一」であり、また歳をとるというのは、年末にやってくる歳徳神のなせるわざ。新しい歳を運んでくるのは、先祖が浄化されて神格化した神さまの仕業だと考えられた。年末の大掃除も門松を飾るのも、すべてこの歳徳神を迎えるためだ。
日本では、古来より年末から新年にかけて、「歳神様」をお迎えする習慣があります。
「歳神様」をお迎えする時に目印になるのが、門松や注連飾りであり、「歳神様」へのお供え物が鏡餅ですね。
現在では、「年齢計算ニ関スル法律」により、生まれた時を0歳とし、 誕生日の前日の満了をもって1つ歳をとることになる「満年齢」の考え方が用いられています。
しかし、昔は生まれた年を1歳として、正月にお迎えした「歳神様」をお迎えすることによってさらに1つ歳が加算されました。
⇒ 幸せをもたらす方角
⇒ どんと焼き・左義長
門松や注連飾り、鏡餅の風習だけが残されておりますが、本来的な意味を知っておくことは大事なことだと思います。
正月で歳はとるものだから、たとえば十二月生まれだったりすると妙なことが起こる。
生まれたら「一」で、正月にまた「一」が加わるから、たとえば生まれてまだ七日しか経っていなくとも、初めての正月でその子は二歳になる。次の正月まえにようやく満で一つになるわけだが、その一週間後には数え年は三つになる。つまり、満年齢と数え年は、この人の場合だいたいいつも二つ違うことになる。
しかし一月生まれなら、ほぼ年中、その差は一つである。
よく、どっちが正しい歳なのかと、訊かれることもある。むろんそれはどちらとも云えないが、少なくとも、両者の違いははっきり心得ておいたほうがいいだろう。ご承知のように、満年齢の考え方は、誕生日が中心にある。これは西欧的な発想である。しかも誕生した時点で、彼らはそれを「ゼロ」と見なすのだ。
これは思えば不思議な感覚である。明らかに、子供は何も知らない無知なる存在で、そのままではヒトでさえないのだろう。
しかし東洋では、老子の柔弱の思想を待つまでもなく、子供は子供で完成体なのだと見なす。だから目の前に完全な形で存在する命を「ゼロ」と見ることはできなかった。どう考えても、それは「一」だろう。
満年齢が「西洋的ないのち観の象徴」、数え年の考え方が「東洋的いのち観の象徴」でありますが、その根底には、「生命」の誕生を何時と捉えるか、何時をもって「人」として捉えることができるかという考えの違いにあるようです。
西洋的には、母体の外に出た時点でも、ヒトとして不完全な存在であると考え、東洋的には完全な存在と見做すということが、「0」「1」という数字となって表れています。
この二つの考え方は、たとえば生物学の世界でも存在した。 当初は、蝶の幼虫やさなぎは、蝶に比べて不完全だから変態すると考えられた。しかしそれでは、あまりに完璧な幼虫やさなぎのシステムを理解できないと知った人々は、やがてこんなふうに考えるようになった。幼虫もさなぎも未完成なのではなくてそれなりに完成しており、その完成した状態が次々に変わっていくのだろう。しかしそれなら、ある意味では常に未完成であると云うこともできる......。 たぶんヒトも、そういうことなのだろう。
さなぎの中身はドロドロの液体です。
これは、幼虫の時にあった器官や、筋肉、脂肪などが無くなってしまい、細胞がアミノ酸のレベルまで分解されてしまっているからです。
幼虫⇒さなぎ⇒成虫への完全変態の過程において、幼虫の期間を、ひたすら養分を摂取して大きく成長する段階とすれば、成虫は、オスとメスが次の世代を残す生殖的な段階であり、まったく次元が異なるため、さなぎの期間で、成虫において不要な器官の細胞が、プログラム細胞死であるアポトーシスを起こし、死んだ細胞は、いったんアミノ酸レベルまで分解されて、成虫で必要な器官(生殖器とか、羽とか、複眼など)に再構築されるわけです。
この意味で、幼虫もさなぎも、それぞれの段階でそれなりに完成しているということについては納得がいきます。そしてそれぞれの段階で未完成ということも。
⇒ 「生きる」ために「自殺」する細胞たち
明らかに、母親の胎内で過ごした「十月十日」まで入れれば数え年のほうが実際的である。しかし十二月生まれだと、ちょっと多すぎるような気もする。おそらく、現代人にも納得のいく合理的な年の数え方というのは、誕生日ごとに年はとるにしても、そこに「十月十日」を足した数字ではないだろうか。つまり満年齢プラス一というのが妥当な感じがする。
しかし正月で年をとるというのは、年は個人がとるのではなく、共同体で一緒にとるものだと考えられたということだ。ここでは、加齢が生物学的なものであるより、むしろ社会的なものと考えられているのだろう。若くても孫ができれば孫と一緒に歳をとる。夫婦は一緒に正月を迎えつつ歳をとる。数え年にはそういう考え方も含まれているのである。
ここでいう「満年齢プラス一」というのが、まさに行年・享年の考え方ですね。
行年・享年の考え方は、生まれてから経た年数であり、「東洋的いのち観」では、「生まれたとき」は「受胎した時」と考えますから、母親の胎内で過ごした「十月十日」までを加算します。
行年・享年の考え方は生物学的にも納得のいくものであります。
数え年は、この行年・享年の考え方を社会的に還元し、制度化したものです。
つまり、
(1)実際に日常社会生活の中で「受胎した時」を特定することはできない(なので胎内で過ごす期間を1年と考えた)
(2)歳は個人がとるのではなく、共同体で一緒にとるものだと考えた(元日に歳徳神により皆に歳が運ばれると考えた)
などの理由により、「生れた年を1歳とし、以後、正月元旦毎に1歳ずつ加えて数える」という制度ができあがってきたわけです。
その根本には行年・享年の考え方が存在します。
現代社会からは、数え年や行年・享年の考え方が失われつつあります。
、「西洋的ないのち観」「、「東洋的ないのち観」に優劣をつけることはできませんが、しかし、いま一度、古来より培われてきた「東洋的いのち観」を振り返り、見直してみることも大切なことではないかと思います。
満年齢と数え年先日、宜野座高校で開催された「カフェテリア方式による性教育」に講師として参加した。保健師、看護師長、大学院生、養護教諭、そして住職と、それぞれの専門家が「性感染症」「妊娠・中絶・避妊」「男女交際」のカフェテリアテーマを担当し、生徒たちは興味を持ったカフェ(教育内容)を自ら選択し、10人前後の小グループに分かれて車座を囲んだ。
私に課せられたテーマは「結婚・いのち」。トートーメーの記載で、亡くなった年齢(行年・享年)を、なぜ数え年とするのか。そこから話を起こし、いのちについて「世間一般の満年齢とは、西洋的ないのち観の象徴でもあり、私たちが母体の外に出た時から人間のいのちの誕生と考えられる。だから君たちにも誕生日があり、高校3年生では17―18歳となる」と講話した。
けれども、東洋的ないのち観とも言える数え年では、母体の中で私たちが芽生えた時から人間のいのちの誕生だと考えられている。満年齢に1年を足したものが数え年とされるのは、この妊娠期間中である10月10日を四捨五入し1カ年とサンミンするからだ。そして沖縄で命の尊さを語る時には、必ずと言って良いほどこの数え年が尊重されるのである。
「ワッター母ちゃんは、トートーメーは満年齢がいいはず。1歳でも若いねえって言われると、夕ご飯は超豪華になるバーヨ」「うちのオバーはオジーを戦争で亡くしているから、グソーではオバーとニセータで、オジーがハジカサーしないかねって言っているよ」「じゃあ母ちゃんもオバーも、仏壇では若いチュラカーギだった時の写真を使えばいいさあ」
宜野座高校の生徒たちは、いつも目をキラキラ輝かせて、私の講話を聞いてくれるから大好きだ。
(帰依龍照、コザ真宗寺住職)
琉球新報 2005年12月6日 より引用
■kameno補注
「享年」と「数え年」は、計算上、概ね近い値になりますが、
●「享年」は元旦に歳を加算するものではなく、「いのちの長さ」ですから、「満年齢+母親の胎内で過ごした期間」となります。概算で「満年齢+1歳」でも良いと考えます。
●「数え年」は元旦に歳を加算しますから、「享年」とは最大約1年分の差異が生じます。
●「数え年」と「満年齢」は、最大約2歳の差異が生じます。
<冒頭の図参照>
7月盆棚経2日目。
今日も暑いですね。
みなさま、体調管理には十分留意下さい。
さて、このブログは PhotoLogというタイトルのとおり、写真日記を中心に記事を書いているのですが、ブログを始める以前(ホームページを主にしていた時期)を含め、たくさんの写真がストックされました。
その一部は Gallery としてまとめていますので併せてご覧下さればと思います。
一覧で並べて見ると、それぞれ撮影した時の情景も思い出され、感慨深いです。
さて、絵画の表現手法に点描というものがあります。
絵画の技法として、点描を確立したのは19世紀フランスの画家、ジョルジュ・スーラ。
筆跡という線ではなく、色鮮やかな点の集合配列のもたらす視覚混合追求し、新印象派と呼ばれました。
現在、私たちが目にする印刷写真、モニターディスプレーなどを、虫眼鏡で拡大すると、三原色の集まりが見えてきます。ある意味、点描の現代版ともいえます。
もう一つの表現手法にモザイク画というものがあります。
これらは、元々は、石や陶磁器、貝殻などの小片を寄せ合わせ、壁などに埋めこむことにより、絵や模様を表現する手法です。
モザイクは古来より世界各地で用いられてきた表現手法です。
カテドラルやモスクなどの宗教建築や宗教画ではさまざまな技法のモザイク画が用いられています。
初めは人間の感覚をたよりに、点描やモザイク画を作り出していったはずですが、数学理論の進展と、コンピュータの計算能力の向上により、より理論的に点描、モザイクの配置が求められるようになりました。
初期のコンピュータは、その能力の制限から、乏しい処理能力、記憶容量、モニターディスプレーの限られた解像度、ドットプリンターの限られたドット数の中で、どれだけ、視認性の良さ、読みやすさ見やすさを達成できるかが重要なポイントでした。
また、ドット画やモザイク画を表現する時に、さまざまな色、形のパーツをどのように並べると一番見た目によく見えるかという問題も、数学論的に重要な分野でした。
この分野で数学論的に貢献した一人が、ロジャー・ペンローズ(1931- )であり、「ペンローズタイル」という平面充填の考えを確立しました。
マウリッツ・エッシャー(1898-1972)もモザイク模様や平面充填の研究をすすめ、数多くの作品を発表しています。
この平面充填理論の恩恵にあずかって、これまで撮影してきた写真を並べ、昨年6月にパリのオルセー美術館で鑑賞してきた絵画を作ってみました。
教会の暗く重々しい色彩と大地の明瞭で鮮やか色彩のコントラストは、ゴッホ特有の長めで直線的な筆使いにより生み出されています。
間近でゆっくりと鑑賞できる機会を得、深い感銘を受けました。
原画: L’Église d’Auvers (1890)
Vincent van Gogh
Musée D'Orsay (Paris)
蜘蛛というとちょっとグロテスクで近寄りがたいですが、緑色が美しい蜘蛛もいます。
それは、サツマノミダマシ。
この蜘蛛は、網をつくる名手でもあり、あっという間に綺麗な巣を作り上げます。
よく見ると前足で全体の間隔を把握し、後ろ足で糸を張る位置を微調整しています。
その芸術性についつい見とれてしまうわけですが、その様子を見ながらある疑問が浮かびました。
それは、右回りに巣を作るのか、左回りに巣を作るのか、その決まりがあるのかということ。
観察し始めた時には、この蜘蛛は(蜘蛛から見て)右回りに巣を作っていました。
螺旋状に円網を作るわけですから、きっと最後まで右回りで作るだろう・・・・・・この蜘蛛は右回りの性質を持っているのだなと思いかけた瞬間・・・・・
この蜘蛛は突然左回りに向きを変え始めました。
(2枚の写真は同じ方向から撮影しています、念のため)
右回り、左回りっていうことは決まりが無く、きっと気まぐれなのでしょうね。
巣を完成させるまでに何度か回り方の向きが変わっておりました。
さて、右脳、左脳という性格判断がありますが、それに関して面白い実験があります。
まずは、下記のサイトにアクセスして、画面の女性がどちら向きに回転しているのかを見てください。
ProcreoFlashDesign
Flash Laboratory ■Silhouette Illusion
右回りに回転しているように見えますか?
それとも左回り?
THE Right Brain vs Left Brain test によると、右回りに感じた人は右脳人間、左回りに感じた人は左脳人間だそうです。
右脳と左脳の機能は、そのサイトによると
だそうです。
LEFT BRAIN FUNCTIONS
uses logic
detail oriented
facts rule
words and language
present and past
math and science
can comprehend
knowing
acknowledges
order/pattern perception
knows object name
reality based
forms strategies
practical
safeRIGHT BRAIN FUNCTIONS
uses feeling
"big picture" oriented
imagination rules
symbols and images
present and future
philosophy & religion
can "get it" (i.e. meaning)
believes
appreciates
spatial perception
knows object function
fantasy based
presents possibilities
impetuous
risk taking
けれども、その右脳だから右回転に見える、左脳だから左回転・・・ということに関しては異論があります。
おそらく、その異論のほうが信頼性がありそうですので、そちらもご紹介いたします。
この映像は 人の中心に視点を置いて作られ これを平面に投影すると、上げた足先の軌道は楕円を描き、楕円運動の下側に足先がきたとき、手前に見える。この状態で右回転。意識の中で、下の方から見上げる視線になると、楕円の下側にきた足先は、向こう側 従って、回転が逆になる。
この視点移動のキッカケが 何に起因するかが問題だが 影だけを見ると 経験的に上から見下ろすという意識により、左回転の方が優位になる。ところが、軸脚の影を見ると右回転にも見え ここだけを見ると、どちらにも見える。なぜ、軸足が逆回転に見えるか・・ 軸脚の楕円運動の径は小さく、平面に投影すると、水平回転つまり楕円運動には見えないからであろう。
左回転と認識すると、全体が左回転になり、ある瞬間、全体像の視線位置が人の中心と意識すると、右回転になる。どちらかが優位になると、片方の情報は排除され だまし絵?の一つで、1915年にルビンによって提唱された、『杯と横顔』の反転図形に似た脳の知覚システムに起因すると思われる。顔と認識すると杯が排除され、杯だと見ると顔が見えなくなるのに似た、脳の知覚システムの一つ。つまり脳は柔軟性ある対応が可能であるが、どちらかしか認識しない事によって 知覚に混乱を招く事態に対処しているようである。
みなさんはどのように感じられましたか?
さて、サツマノミダマシくんのつくりあげた蜘蛛の巣は、それはそれは見事なものでした。
工業製品は一つひとつの部品が厳密な品質管理により作り上げられています。
寸分狂いも無い部品を組み上げることにより、美しい製品が出来上がると、私たちは信じてきました。
工業製品として私たちがこのような巣を作るとしたら、きちんと隣との糸の間隔を測定し、正多角形に限りなく近づけるように努力するでしょう。
右巻きと左巻きの混在など、もってのほかです。不良品としてはじかれてしまいます。
けれども、このサツマノミダマシのように、自然の生き物の作り上げる「作品」は、おそらく、たくさんの「気まぐれ」により作り上げられています。
蜂の巣だってそうですね。厳密な正六角形ではなく、一つひとつの形は個性的です。
しかし、全体的に見ると調和の取れた美しい形となっています。
自然界のもつ「ゆらぎ」のもたらす美しさといってもいいでしょう。
私たちの固定概念は、儚く脆いものなのかもしれません。
いちばん美しいクモの巣 (詩人が贈る絵本 II) (単行本)
アーシュラ・K. ル=グウィン (著), Ursula K. Le Guin (原著), James Brunsman (原著), 長田 弘 (翻訳), ジェイムズ ブランスマン
クモをきらう人はすくなくありません。けれども、きらわれ者のクモは、本当はとても愛すべき生き物。
これは、リーゼ・ウェブスターという名のかわいいクモのお話です。
リーゼの夢は、世界でいちばん美しいクモの巣をつくること。どうやったら、美しいクモの巣を編めるだろうか?
リーゼはいっしょうけんめい、クモの巣を編みつづけます。そうして、ある夏の朝、じぶんの編みあげたクモの巣を見つめて、リーゼはつぶやきます。
「これは、わたしのつくった、いちばん美しいクモの巣だわ」
■関連スレッド
新暦 |
曜 |
旧暦 |
月齢 |
備考 | |
7月1日 |
火 |
5月28日 |
27.3 |
半夏生 | |
7月2日 |
水 |
5月29日 |
28.3 |
水星西方最大離角 | |
7月3日 |
木 |
6月1日 |
0.0 |
●新月 | |
7月4日 |
金 |
6月2日 |
1.0 |
||
7月5日 |
土 |
6月3日 |
2.0 |
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7月6日 |
日 |
6月4日 |
3.0 |
月・土星・火星が並ぶ | |
7月7日 |
月 |
6月5日 |
4.0 |
小暑 七夕 | |
7月8日 |
火 |
6月6日 |
5.0 |
||
7月9日 |
水 |
6月7日 |
6.0 |
||
7月10日 |
木 |
6月8日 |
7.0 |
上弦の月 | |
7月11日 |
金 |
6月9日 |
8.0 |
火星と土星が大接近 | |
7月12日 |
土 |
6月10日 |
9.0 |
||
7月13日 |
日 |
6月11日 |
10.0 |
7月盆 | |
7月14日 |
月 |
6月12日 |
11.0 |
7月盆 | |
7月15日 |
火 |
6月13日 |
12.0 |
7月盆 | |
7月16日 |
水 |
6月14日 |
13.0 |
||
7月17日 |
木 |
6月15日 |
14.0 |
||
7月18日 |
金 |
6月16日 |
15.0 |
○満月 | |
7月19日 |
土 |
6月17日 |
16.0 |
夏の土用 | |
7月20日 |
日 |
6月18日 |
17.0 |
||
7月21日 |
月 |
6月19日 |
18.0 |
||
7月22日 |
火 |
6月20日 |
19.0 |
大暑 | |
7月23日 |
水 |
6月21日 |
20.0 |
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7月24日 |
木 |
6月22日 |
21.0 |
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7月25日 |
金 |
6月23日 |
22.0 |
||
7月26日 |
土 |
6月24日 |
23.0 |
貞昌院大施餓鬼会 下弦の月 | |
7月27日 |
日 |
6月25日 |
24.0 |
プレアデス星団食 | |
7月28日 |
月 |
6月26日 |
25.0 |
||
7月29日 |
火 |
6月27日 |
26.0 |
みずがめ座流星群極大 | |
7月30日 |
水 |
6月28日 |
27.0 |
||
7月31日 |
木 |
6月29日 |
28.0 |
||
8月1日 |
金 |
7月1日 |
29.0 |
●新月 (皆既日食) | |
8月2日 |
土 |
7月2日 |
0.7 |
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8月3日 |
日 |
7月3日 |
1.7 |
||
8月4日 |
月 |
7月4日 |
2.7 |
||
8月5日 |
火 |
7月5日 |
3.7 |
||
8月6日 |
水 |
7月6日 |
4.7 |
みずがめ座流星群極大 | |
8月7日 |
木 |
7月7日 |
5.7 |
立秋 旧七夕? | |
8月8日 |
金 |
7月8日 |
6.7 |
||
8月9日 |
土 |
7月9日 |
7.7 |
上弦の月 | |
8月10日 |
日 |
7月10日 |
8.7 |
||
8月11日 |
月 |
7月11日 |
9.7 |
みずがめ座流星群極大 | |
8月12日 |
火 |
7月12日 |
10.7 |
ペルセウス座流星群極大 | |
8月13日 |
水 |
7月13日 |
11.7 |
8月盆 | |
8月14日 |
木 |
7月14日 |
12.7 |
8月盆 | |
8月15日 |
金 |
7月15日 |
13.7 |
8月盆 水星・金星・土星が接近 | |
8月16日 |
土 |
7月16日 |
14.7 |
||
8月17日 |
日 |
7月17日 |
15.7 |
○満月 (部分月食) | |
8月18日 |
月 |
7月18日 |
16.7 |
||
8月19日 |
火 |
7月19日 |
17.7 |
はくちょう座流星群極大 | |
8月20日 |
水 |
7月20日 |
18.7 |
みずがめ座流星群極大 | |
8月21日 |
木 |
7月21日 |
19.7 |
||
8月22日 |
金 |
7月22日 |
20.7 |
||
8月23日 |
土 |
7月23日 |
21.7 |
処暑 | |
8月24日 |
日 |
7月24日 |
22.7 |
下弦の月 | |
8月25日 |
月 |
7月25日 |
23.7 |
||
8月26日 |
火 |
7月26日 |
24.7 |
||
8月27日 |
水 |
7月27日 |
25.7 |
||
8月28日 |
木 |
7月28日 |
26.7 |
||
8月29日 |
金 |
7月29日 |
27.7 |
||
8月30日 |
土 |
7月30日 |
28.7 |
||
8月31日 |
日 |
8月1日 |
0.3 |
●新月 |
今日の記事は 今日は七月盆・送りの日 を併せてご覧下さい。
今日から7月となりました。
早いもので、一年の半分が経過しています。
また、今日は雑節の半夏生でもあります。
もともとは、夏至から11日目と定められていましたが、今では天文学的に太陽の黄経が 100 度になる日をいいます。
境内の半夏生(植物の名前)の葉の一部がこのように白くなりました。
半夏生の名前は、このように半夏生の花に近い葉が半分白く化粧するからという由来があります。
さて、7月に入るとお盆、大施餓鬼会・・・とお寺は慌しくなります。
檀家のみなさまには各行事と卒塔婆のお申込についてのご案内状が届いていると思います。
お申込はお早めにいただけると助かります。何卒よろしくお願いいたします。
さて、お盆についてですが、貞昌院のある横浜一帯では、新暦の7月13?15日と、8月13日から15日までの間に行う方がほとんどです。
このため、風習上、新盆(7月盆)、旧盆(8月盆)という名称で区分けをしておりましたが、このブログではさらに明確にするために、それぞれ7月盆、8月盆と呼ぶことに統一します。
お盆行事は、地方によって行う日がさまざまです。
また、これほど生活に密着した仏教行事はありません。
仏さまを敬い、ご先祖さまを尊ぶという気持ちや、すべての人やものに感謝するこころは共通しますから、7月盆、8月盆でも、各家庭の状況に合わせて、皆様のお参りしやすい、集まりやすい時期にお盆を行うのが宜しいかと存じます。
これを踏まえて今一度整理してみます。
■新暦7月15日(7月盆) ■旧暦7月15日にあたる日(旧暦の盆) ■月遅れの新暦8月15日(8月盆) |
このほか、7月1日(釜蓋朔日)にお盆を迎える地方、7月7日(七夕)からお盆が始まる地方・・・・・さまざまな風習が残されています。
さて、今年は例年に無く特別な年であります。
それは、旧暦7月15日が新暦8月15日となることです。
従って、今年8月盆にてお盆を迎える方は、自動的に旧暦の盆行事をそのまま行うことが出来るわけです。送り盆の夜は満月の夜!
お盆は「お盆」というように、満月と密接な関係があります。
旧暦は太陰暦ですから、旧暦の15日(+1日前後)が満月です。
※なぜ旧暦15日が満月にならないのか、その理由はこちらをご覧下さい⇒ 中秋の名月の夕べに
さらに、今年の8月1日の新月と8月17日の満月はそれぞれ「完璧な新月」、「完璧な満月」なのです。
なぜならば、それぞれ「日食」「月食」となるからです。
残念ながら関東地方からはその現象は見ることができませんが、このように今年は完璧な新月、完璧な満月を含み、旧暦の日付と新暦の日付が一致する特別な8月なのです。
右のカレンダーに新暦、旧暦と主な天文現象を記載しました。
今年は特別な夏であるということを頭の隅に置いておくと、ちょっぴり特別な夏を過ごすことができるかもしれません。
これは何だと思いますか?
ナチュラルインセンス(樹脂香)の一つ、乳香です。
乳香は、「乳香樹」から分泌される樹脂を乾燥し固めたものです。
知人より、テレビで乳香の特集を行っていたので、是非入手したいとの相談があり、インターネットで注文したものです。
かなり量が多かったので、一部をいただきました。
この乳香は、たとえば香炭の上で大粒の乳香をそのまま焚くと、濛々とした煙ばかりが出てきてしまい、ちっともよい香りを楽しめません。
焚き方にはちょっとした手順が必要となります。
(1)耐熱性容器に薫香砂を入れます。
(2)香炭の端に火をつけ砂の上に置きます。
(3)香炭全体に火が回るまで待ちます。
(4)炭全体に火が回ったら、ほんの一片だけを炭の上に乗せます。
(5)一筋たちのぼる煙の香りを楽しみます。
さらに本格的に楽しむためには銀葉を用います。
詳細はこちら↓
http://asiaroten.com/?mode=f5
(ちょっとアヤシイ薬を焚くようですね、樹脂だから仕方がないですけど)
さて、乳香は東方の三賢人がベツレヘムを訪問し、キリスト誕生の際の三つの贈りもの(金=権力、没薬=薬、乳香=神)の一とされるものです。
旧約聖書や、コーランにも、シバの女王が、ソロモン王に乳香を贈呈する場面が出てきます。
宗教的に多神教の神に捧げる香りとして珍重されてきています。
日本へは、754年、鑑真により伝えられたとされています。
早速焚いてみました・・・・・・やはり一寸煙が多いですね。
坐禅会に使うのはちょっと憚れますが、さりげなく部屋の片隅で焚いて気分転換に用いてみようと思います。
これらは、蟻の巣の入口です。(コメントで蟻ではなくハナバチとの指摘をいただきました。蟻→ハナバチに訂正します)
地下を掘り進んだ際に発生する土を、入口の周囲に置いていくために、このような形状になります。
これはこれで重要な意味があります。
その一つが、降雨の際に水が穴に流入しないということです。
よーく観察すると、穴の一つひとつに番人の蟻が常に外の様子を伺っています。
もちろん外敵の侵入を常に警戒しているということもありますが、この季節で一番重要な役割は天気の見極めではないでしょうか。
降雨があると、それがどの程度のものかを判断し、多少の雨でしたら堰があるために防げますが、万一穴の周囲にある堰を越えてしまうような降雨であれば、直ぐにその土で穴を塞いでしまいます。
梅雨などの雨でしたら、その程度で凌ぐことができるでしょう。
さらに、台風など、極端な降雨があった場合でも、蟻の巣は地中深くまで続いており、さらにその先に部屋がある構造になっているために、空気圧の関係で部屋の内部まで水が浸入することはほとんどありません。
蟻の巣の構造がどのようになっているのか、とても不思議です。
こどもの頃は、学研の「科学」の付録に、蟻の巣観察セットというものがあり、とても興味深い観察ができました。
ああいうセットというのは、最近は売っていないのでしょうか・・・・・
さて、地面の下に巣を作る蟻の巣の驚きの構造を探ったビデオがあります。
2004年にオーストラリアで制作された"Ants - Nature's Secret Power"です。
Youtubeに出ておりましたのでご紹介いたします。
これは、巨大なアリの巣の構造を明らかにする脅威の番組です。
「地下都市」に効率よく空気を送り込む工夫や、まるで近未来都市のような巨大地下構造にはただただ驚かされるばかりです。
この巣でアリが動かした土は実に40トンにも及びます。
ビデオの最後に、この巨大都市と対極的な、一つのどんぐりの実の中で完結する巣も出てきており、その多様性、柔軟性にも驚かされます。
表には見えていない世界がたくさんあるのですね。
■以前書いた関連記事
練習モードのウグイス(2)でご紹介したウグイスくん。
毎日のようにやってきて、間近で練習しています。
※この写真は4月2日に撮影したもの。小さな身体いっぱい使って鳴いているのがわかりますね。
練習の成果あって、とてもよい声でさえずるようになりました。
堂々たるものです。
あまりに頻繁に鳴き続けるので、いったいどれくらいのインターバルでさえずっているのかを調べてみました。
今日(5月27日)、午前8:45から18分間の記録です。
18分間に、実に49回さえずりました。
(注:この前から継続的に鳴いています)
そのうち、オレンジで表示しているものは「谷渡り鳴き」の部分です。
49回目の谷渡り鳴きを終えて、一旦休憩し、山の奥へ飛んでいきました。
グラフを見ると、大体15秒程度の間隔で鳴いています。
そして、そのペースが乱れたり、ヒヨドリやカラスの鳴き声が聞こえたりすると、谷渡り鳴きに移行するようです。
谷渡り鳴きは、警告音の役割や、さえずりのペースを維持調整するための役割をしているのではないかと推測しているところです。
・・・ということを踏まえて、上記グラフで分析対象とした18分間のウグイスくんの美しいさえずりをお聞き下さい。
(もちろん、編集を行っていないそのままの録音データです)
⇒ WindowsMediaAudio(8:45-9:03 18min)
別の時間(昼間)に録音した中から谷渡り鳴きの声を集めてみました。
飛行機の音やカラスの音などに反応して谷渡り鳴きをしていることがよくわかると思います。
Taniwatarinaki 1
Taniwatarinaki 2
Taniwatarinaki 3
Taniwatarinaki 4
Taniwatarinaki 5
先日の歴史の会で話題になった一つに、横浜市の中で一番標高の高い場所は何処だろうかというものがありました。
円海山?・・・・いやいや、大丸山・・・・・
ということで、調べてみました。
※今回の対象からは、「ランドマークタワー(高さ295.8 m)」のような建築物は除外します。
まずは、横浜市 横浜市統計ポータルサイトより
最高地 栄区上郷町 海抜 159.4m 最低地 西区高島二丁目 海抜 -6.6m
---------------------------
市域の地形は、丘陵地、台地・段丘、低地、埋立地に分けられる。
丘陵地は、市域中央部よりやや西よりに分布し、市域を南北に縦断する。この丘陵地は保土ケ谷区・旭区などを流れる帷子川付近を境に、北側と南側で性質を異にする。北側の丘陵地は、多摩丘陵の南端に位置し、標高は60mから100mで北に向かって高くなっている。南側の丘陵地は、三浦半島に続く三浦丘陵の北端部を占め、標高は80mから160mで南に向かって高くなっている。南側の丘陵地の方が起伏も激しく、標高も高い。通称「鎌倉アルプス」に続く市内最高点(栄区上郷町、標高159.4m、鎌倉市に山頂のある大平山の峠部分)や大丸山(金沢区釜利谷町、標高156.8m)、円海山(磯子区峰町、標高153.3m)もこの南側の丘陵地にある。(Wikiペディア)
ありゃりゃ、もう答えが出てしまいましたね。
円海山でも大丸山でもなく、鎌倉市との境にある大平山:標高 159.4mが最高地点のようです。
ただし、大平山の山頂は鎌倉市側にあるので、厳密に言うと、大平山の山頂から少し下った頂上付近という表現になります。
では、早速、国土地理院2万5千分の1地図で確かめてみましょう。
オレンジで着色した部分が、標高150mを超える場所です。
僅かしかないですね。
一番北が円海山。そこから大丸、追越?鎌倉アルプスに続く尾根です。
標高が記載されていますからよく分かりますね。
さらに詳細に見ていきましょう。
国土地理院基準点成果等閲覧サービスにより、三角点のデータを取得してみます。
【三角点測量成果データ】
(1)円海山 北緯35°21'40.0388 東経139°35'38.4113 標高 153.28m
(2)大 丸 北緯35°20'46.3788 東経139°35'21.7191 標高 156.82m
(3)追 越 北緯35°20'17.3172 東経139°35'18.3281 標高 148.10m
(4)19599※ 北緯35°20'08.7452 東経139°34'36.2547 標高 157.70m
※19599は大平山山頂近辺の基準点
最後に、コーヒーブレーク的に・・・・
カシミールで、これらの鳥瞰図を作成してみました。
鎌倉アルプス側から眺めた横浜の丘陵地帯です。
(南から北方向を眺めています)
このあたりは横浜市の緑の七大拠点の一つに数えられ、爽やかな新緑の季節には特にオススメです。
ゴールデンウイークにお出かけしてみては如何でしょうか。
⇒ 円海山周辺散策マップ(PDF)
神社の鳥居は朱に塗られたものが多く、その鮮やかさは目に染みるほどです。
この朱は日本では古来より用いられてきた「丹」と呼ばれた鉱物によるもので、硫化水銀からなる辰砂の別称です。
神社の鳥居は結界の役割を果たしますが、同様に、禅の修行道場でも結界の例をみることができます。 写真は大本山總持寺報恩大授戒会第六日における正授道場準備の様子です。 直僚(じきりょう)は教授道場に張る白幕、正授道場に張る紅幕の間数を調べ、要所要所にすぐ掛けられる準備をする。 竹柱が必要ならばあらかじめ用意しておく・・・・ (『昭和修訂曹洞宗行持規範』授戒会作法第六日の項より) 授戒会正授道場においては、その行持中、紅幕を出たり入ったりすることは許されず、直歳(しっすい)老師が結界真言を唱えながら紅幕の外周を巡回します。 では、なぜ朱が結界に使われるようになったのでしょうか。 朱は生命の源、血の色でもあることから死と対極にあるものと考えられ、そのことにより呪術の際に死霊を封じる意味で用いられていました。 日本の古語においては明(あか)、顕(しろ)、暗(くろ)、漠(あお)という表現がありましたが、明(あか)は、明けを意味する赤と同義で、夜明け=太陽を意味します。
以前、このブログにおいて中国寺院の壁はなぜ黄色?という五行思想に関する記事を書きました。
朱 = 朱雀 = 火 このうち、南の朱雀として用いられる「朱」の色として、天然の辰砂が塗られました。 キトラ古墳などに見られる朱雀の朱も天然の辰砂によるものです。 「神社の朱い鳥居を潜るとそこから先は朱によって浄化された独特の聖なる空間である。鳥居はもともと境界の印として立てられたもので東南アジアのラオスなどでは村落の入り口に鳥居が建てられている。そこでの朱塗りということは非常に意味がある。朱塗りされたものは清浄であり神聖なものとされる。邪悪なものはそこから入れない。これは火を浄火として用い火によって清められるとする考えと共通する。」 (『朱の伝説』邦光史郎著・集英社より) 万灯供養法要の際に、堂内をロウソクの灯火によりぐるッと囲み、結界を組むということも、朱の紅幕を張ることも同様の意味があるものと考えられます。 |
今日の記事を結界で囲ってみました。
邪悪な者には読むことが出来ません
貞昌院に設置した水琴窟には、裏山からの湧水が導かれ、美しい音が響いています。
なぜ、水琴窟によって美しい音が発生するのか。
その原理を解明した論文がありました。
Analytical Study of Acoustic Mechanism of‘Suikinkutsu’
Yoshio WATANABE
その内容をかいつまんでご紹介します。
■水琴窟の基本的原理
水琴窟には、その上部受け皿へと水が少しづつ流されています。
貞昌院に設置した水琴窟の受け皿の構造は、浅い皿の中央に穴が空いていて、その周囲に円状の水止めがあり、内輪孔が三箇所空けられています。
この内輪孔を押して少しづつ流れる水が、受け皿の裏側において大小さまざまな大きさの水滴を形成し、落下していきます。
水滴は水琴窟内を約40センチ落下し、水面に衝突して音を発生させます。
この音が瓶の内部で反響し、残響音を生み出します。
この残響音が水琴窟の音なのです。
(写真:受け皿に導かれた水は、円形の水止めの外側から内輪孔を通って均等な水流となり中央の穴へと流れていきます)
■続けて落する複数の小さな水滴が音を発生させる
受け皿で、成長し落下した水滴は、最初に直径6mm程度の大きな水滴が落下し、それに続いて1mm程度の小さな水滴が数滴続いて落下します。
この、続いて落ちる数滴の小さな水滴がミソのようです。
水面に到達した最初の大きな水滴が、水面に大きな窪みをつくり、窪みが戻る前に、その窪みの中に小さな水滴が次々と落下していきます。
この時に発生する音が、水琴窟で聞こえる音の源です。
その後さらに大きな窪みが反動で戻り、水柱を形成(ミルククラウンの後に見られますね)し、その水柱が落下していきます。
A:最初に落下する6mm程度の水滴
B:水面に到達
C:水面に大きな窪みをつくる。そこへ1mm程度の小さな水滴が数滴続く
D:窪みの中に小さな水滴数滴が到達
E:水面下に水滴と取り込まれた空気による柱状の形ができる <音が発生>
FG:反動で水面上に水柱ができる
H:水柱が落下
(Analytical Study of Acoustic Mechanism of‘Suikinkutsu’より図を引用)
水琴窟の音色は、受け皿で形成された水滴の大きさや、大小水滴の個数、落下距離、壷内部空間の大きさによって変わります。
水滴の大きさや、大小水滴の個数は、受け皿に流す水量や、内輪孔を調節することにより変化させることができます。
また、落下距離、壷内部空間の大きさは、水面の高さを調節することにより変化させることができます。
■水の持つ特異な性質が水琴窟の音をもたらす
そもそも、水は他の物質に比べて特異なほど強い分子間引力をもつという性質があります。
この性質によってもたらされる特長は、以前ブログの記事でご紹介いたしました。
この性質により。水は水滴を生じます。
水琴窟は、水の性質を最大限に利用して生み出された音の発生装置ということができます。
人はなぜ水琴窟の音により癒されるのか。
奥深い謎が秘められているわけですね。
■関連記事
水琴窟設置しました
雨粒はどんな形?氷は水に浮く
雨だれの記憶
発車メロディーの原点は禅寺にあり
生体活動のもつカオス的揺らぎ
電子音が溢れているけれど
水滴は、落下するとどのような形になるのでしょうか。
雨粒はどのような形でしょうか。
こんな形でしょうか。
(c)Daikin
平成4年に行われた埼玉県狭山市の小学生を対象に実施されたアンケート調査結果をみてみましょう。
「雨粒はどんな形?」
・・・・面白い結果でしたのでグラフを作成してみました。
やはり、雨粒のイメージは涙形が多いですね。
高学年になるほど涙形の割合が増えています。
これは目の残像として線に見えること、絵に描く時に線として描くよう指導しているなどの理由が考えられます。
リンク先に、どうしてそのような形だと思うのかという理由が記載されています。一つひとつの理由がとても面白いです。
氷は水に浮く の記事で書きましたとおり、水の水素結合が水の特異性をもたらし、強い表面張力を生み出します。
結果として、雨粒が丸くなるだろうということは、学年が進み、知識が増えてくるとある程度予測できます。
先のアンケート調査でも小学校の高学年になるに従って球や涙形という答えが増えていることにも見られます。
歴史を振り返ると、雨粒がどのような形になっているのかをいかに実証するかということは大きな課題でした。
雨粒の落下する様子を初めて写真撮影したのは北海道大学の孫野長治博士。
1951年のことでした。
これにより、ようやく落下する雨粒は下に潰れたまんじゅう形であることが確認されました。
意外に浅い歴史ですね。
なぜまんじゅうの形なのかを考えてみましょう。
小さい雨粒の状態では表面張力によって、球の形をしているのですが、落下しながら水滴同士がくっつきあい、径が大きくなるにつれて空気の抵抗を余計に受けて下の部分が平らにゆがんでくるからです。
そして水滴があまりに大きくなると割れてしまいます。
この様子が初めて撮影されたのは先にご紹介したとおり1951年ですが、今ではとても簡単にこの様子を観察することが出来ます。
しかも、それほど大掛かりな装置を使う必要もありません。
その実験装置は、その名も有頂天一号(うちょうてんいちごう)と風洞明王(ふうどうみょうおう)!
⇒防災科学技術研究所水・土砂防災研究部のPDF
下から風を送ることにより、空中に浮かぶ水滴の姿をじっくりと眺めることが出来ます。
さて、この水滴たちが水面に落ちるときには音が発生します。
水滴の粒形、速度、テンポによって音は変わります。
貞昌院の蹲に落ちる水滴の奏でる音を録音してみました。自然の湧き水です。
(途中、猫の声が入ります)
なお、この水滴の音を追求したものが水琴窟。
心地よい音は、江戸時代の茶人、小堀遠州が考案した洞水門から改良されてきた日本独自の装置により醸し出されます。
まさに水滴を知りつくしたエキスパートが受け継いできた伝統ですね。
大寒を境に気温がぐっと下がっています。
本堂の屋根からの水を受ける天水桶や、玄関の手水鉢も、夜半過ぎの放射冷却現象により見事に凍っています。
水は0度以下になると氷になりますが、その氷は水に浮き、表面から凍っていきます。
この、当たり前のように見える現象っていうのは、実はとても特異なものであり、この特異な現象によって私たちが生存することができるといっても過言ではありません。
氷が水に浮かぶという性質がどれだけ特異かというと、他の物質で個体が液体よりも比重が軽く、液体に浮くというものがどれくらいあるかを調べてみると分かります。
ほとんどの物質は個体の状態のほうが密度が高くなります。
では、なぜ氷が水に浮くのか。
簡単に言うと、液体の水は、単に水の分子が集まったものではなく、水の分子同士が「水素結合」によって束縛しあう結合状態を形成しています。
この水素結合が水の特異性を生み出す大きな要因でもあるわけです。
水素結合は水と水の分子間の距離と、分子の方向により強さが変化します。
なぜならば、水の分子の形は酸素原子の両側に水素原子が1個ずつ結合しているわけですが、その並び方は直線ではなく酸素原子を頂点に水素が約104度の角度で曲がって結合しているからです。「く」の字型の分子になっています。
この分子中の酸素原子(マイナス)と水素原子(プラス)が引き付け合い、水中の隣の水分子同士でも、酸素と水素が引き付けあいます。
よって、水の中では緩やかな水素…酸素―水素…酸素―水素… という、いわゆる網目状の結合が出来て塊になります。
水が氷になると、完全な水素結合として分子は規則正しい格子状に配列されますが、氷の分子配列は、正四面体型局所配置をとり、それが秩序化するにしたがって隙間が大きくなります。
立体的にみると六角形の網目状構造となります。雪の結晶が六角形を基本としているのもこの構造に影響されます。
とても隙間だらけの構造であるために、水から氷になるときには10%程度体積が増え、密度が減少します。
逆に、氷が融けて水になる時には、完全だった水素結合が部分的に切れて自由になった分子が分子間の隙間を埋めるために体積が減少し、密度が増加します。
液体である水も、水素結合のために他の物質とは大きく異なる性質をもちます。
例えば、液体の状態での密度は、4℃の時に最大となりますが、この性質は生物にとって非常に重要な意味を持ちます。
また、氷⇒水⇒水蒸気という状態の変化点である融点、沸点についても、水は他の物質に比べて際立って高い温度を示します。
氷は水よりも軽いですから池や海の水は表面から凍ります。
水中は表面の氷により層を作られているため、凍りにくくなり、さらに最も密度の高い4℃の水が水底に溜まります。
しかも、水は比熱が大きく、温まりにくく冷えにくいという性質も兼ね備えています。
水底まで凍ってしまうということは、余程のことがない限りありません。
水中の生物たちは、水底にいれば、死滅を免れることができるわけです。
水の特異な性質の主なものをいくつかまとめてみました
■氷が水に浮く(固体状態の方が液体状態よりも密度が低い)
■密度変化が他物質と逆(水は4℃以下では温度の低下により密度が減少する)
■氷は?210℃以下で温度の低下により密度が減少する
■融点が高い
■沸点が高い
■表面張力が大きい
■粘度が大きい
■気化熱が大きい
■比熱が大きい
■水は様々な物質をよく溶かす。
普段当たり前と思って眺めている光景が、実は特殊な現象であるわけで、実に不思議ですね。
水は、地球上の自然の状態において気体・液体・固体の状態をごく当たり前に見ることができます。
地球上の生物は水により、もっと言えば水素結合の存在により生かされてきました。
ごく当たり前に見られる特異な性質に感謝したいものです。
手水鉢のメダカも池の鯉も、今日も元気に泳いでいます。
昨日の記事でご紹介した『新編相模風土記』の中に、貞昌院の前身である「上之坊」「下之坊」について、「両坊共に七堂伽藍を具備せし」という記述がありました。
禅宗様式でいう七堂伽藍は、山門、仏殿、法堂、僧堂、庫院、東司、浴司ですが、当時は天台宗であったはずですので、金堂、塔、講堂、鐘楼、経蔵、僧坊、食堂のことを指すのでしょう。
(参考:『古今目録抄』)
安土桃山以前に、七堂伽藍を具備していたということに驚かされますが、本当にそうだとしたら凄いことです。
「上之坊」「下之坊」は一時廃寺となりましたが、天正10年(1582年)に当時の領主であった宅間伊織綱頼修造および宅間藤原規富により再建されます。
戸塚・後山田村の徳翁寺第四世・明堂文龍大和尚が貞昌院の開山であります。
開創当時は天神社と山を挟んだ位置(昨日の記事参照)でしたが、文化14年(1817年)に、現在の位置である永谷天満宮の隣に移転されました。
移転当時の絵地図がこちらです。
貞昌院に残されている絵地図としては、この江戸時代のものが最も古いものです。
絵地図に見られるように、茅葺屋根の本堂でしたが、明治19年(1886年)の火災(明治34年再建)、関東大震災による倒壊を経て、関東大震災翌年には茅葺から亜鉛葺きの本堂として再建されました。
昭和初期に撮影された貴重な写真をご紹介します。
永谷川のむこう側から貞昌院方面を撮影した写真です。
左に永谷天満宮の鳥居、中央に山門、その奥に鐘楼堂、亜鉛葺本堂、右に庫裏の屋根が見えます。
鳥居の奥に、ひときわ大きな杉の木がありますが、これが永谷天満宮のシンボルであった御神木の大杉です。
落雷や環境の変化により、残念ながら昭和49年に地上2メートルの位置で伐採され、現在は切り株が銅板で覆われています。
伐採の日は、宮司が伐採奉告の祝詞を奉上したとたんに俄に雨が降り出し、伐採が終わると直ちに止みました。不思議なものです。
切株の年輪から、大杉の樹齢は450年ほどと推定されています。
比較のために、だいたい同じアングルから写真を撮影してみました。
比較してみて気がつくことは、境内のシンボルである2本の銀杏の木が昭和初期の写真にはまだ樹高2・3メートルしかないということです。
従って、銀杏の木は樹齢100年程度であるということが分かります。
樹木の成長は早いですね。
境内の様相が一変してしまいます。
ここのところ、地元の方と話す機会が多く、その際に会話の中に良く出てくるのが「屋号」です。
ある方を呼ぶ場合に、古くから姓を用いず、その地域の方だけが分かる符合のようなものを使ってきました。
姓を言われるよりも屋号で呼ばれたほうがピンとくることも多いのです。
日本における屋号日本における屋号は、江戸時代において士農工商の身分制度により武士以外の者が苗字を名乗ることが認められなかったため、商人や大きな農家が、取引をするための必要性から、あるいは日常生活上の必要性から屋号を使うようになった。
家族制度の屋号
屋号は地域によっては家の姓に代わるものとしても用いられたので(特に同姓が多い地域で現在でも必要な場合もある)、一家族、一族の系統を示すものとしても用いられている。この場合の屋号は地方によっては士農工商の身分制度とは関わりなく用いられ、姓を持つ士族の家系にも使われている事も多々ある。これらの制度は商人との取引が多かった地域などに見ることもできる。古くからの地域や特定の集まりに根付いた家は、集落内における家の特徴(本家・分家などの家の成り立ち、家が立地している地理的特徴など)を含んで屋号が名づけられている。また、家長が代々襲名する名乗りを屋号にしていることも多い。この場合、屋号はその地域や特定の集まり以外でほとんど使われることがない。
上永谷地区ではどのような屋号が用いられていたのかを絵地図にまとめたものが文献に残されています。
『天神さまと上永谷』 発行・永谷天満宮氏子会 (平成元年3月17日発行) P62 より、 昭和初期上永谷 の絵地図を引用してみます。
地図の上が南方向、下が北方向です。
当時の上永谷の集落と、その屋号が記されていますが、平成になって20年経過した現在でも、その屋号は脈々と受け継がれています。
今でも屋号を用いたほうが、地の人には分かりやすかったりします。
その他、この地図はとても貴重かつ重要な情報がたくさん含まれています。
まず、赤い色で着色してある「上の坊」「下の坊」は、貞昌院の前身となった庵のあった位置です。
天神社、村の鎮守なり、神体は(長一寸八分)縁起に拠るに延喜二年菅公筑紫に在りて宝鏡に向ひ躬づから模刻して令子敦茂に興へられし真像なりとぞ、後菅原文時藤原道長上杉金吾等相伝せしを明応二年二月当所の領主藤原乗国(当国八郷を領し永谷郷に居城せしと云ふ)霊夢の告により此地に始て宮社を営み安置すと云ふ、其後天文十二年領主宅間伊織綱頼修造を加へ天正十年同氏規富再造せしとなり。末社妙義白山。妙見。稲荷。 別当貞昌院、天神山と号す、曹洞宗(後山田村徳翁寺未)。旧は上之坊下之坊と号せし台家の供僧二宇在りしが共に廃亡せしを天正十年に至り、其廃跡を開き、当院を起立す、開祖は文龍(天正十九年四月十六日寂す)と云ふ、本尊は十一面観音(長八寸行基作)。神明宮二、羽黒社、浅間社、以上貞昌院持
「注」上の坊は上永谷町5358番地附近一帯、現、田辺氏宅東方地域、下之坊は上永谷町3400番地附近一帯、現、鈴木氏宅西方の山腹、故に鈴木家を寺下と呼称す、両坊共に七堂伽藍を具備せしと」
『新編相模風土記』より引用、下線と「注」はkamenoが付記
貞昌院の北側を東西に流れる川は永谷川。
現在は片側3車線の環状二号線の中央に移設されていますが、環状二号線が出来る前は貞昌院の門前を流れていました。
地図左下の「かまくらみち」は、鎌倉道下之道で、相武山小学校から永作を通り、馬洗橋で永谷川を渡り、上ノバ・天谷の道を通って上野庭へと通じます。
詳細はこちらの記事を参照下さい ⇒ 鎌倉古道下之道
上記地図の○数字1?10は、当時の永谷十勝。
(1)社頭の暁雪
(2)菅公筆塚
(3)貞昌院の晩鐘
(4)丸山の鶯
(5)馬洗川の清流
(6)島越の夕照
(7)十国見の眺望
(8)柳橋の秋月
(9)中里の流蛍
(10)水田の落雁
(9)のようにもう見ることのできない光景もありますが、意外と今日にも通じるものがあるということが興味深いです。
いつまでも、地元の風習や情景は大切に受け継いでいきたいものです。
ブール束との整合
元の数が有限なブール代数を有限ブール代数といい、この有限ブール代数は極めて簡単な構造をとります。
もっとも簡単なブール代数は2つの元、すなわち零元と単位元のみからなります。
零元に0、単位元に1を当てはめたものをブール代数B2といいます。
B2および直積B2n に限定した演算をブール演算または論理演算といい、デジタル回路に応用される重要な関数です。
零元、単位元を電圧の高低二値に置き換えて表現したものです。
さて、これまで得られた三値の真理表について、ブール演算と整合させるために、真偽値不明の変数 a、γ にそれぞれ 0 または 1 を代入すると、次の表が得られます。
表1 p∧qの真理表
p?q |
1 |
a |
b |
0 |
1 |
1 |
a |
b |
0 |
a |
a |
a |
0 |
0 |
b |
b |
0 |
b |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
表2 p∨qの真理表
p?q |
1 |
a |
b |
0 |
1 |
1 |
1 |
1 |
1 |
a |
1 |
a |
1 |
a |
b |
1 |
1 |
b |
b |
0 |
1 |
a |
b |
0 |
表3 p⊃qの真理表
p?q |
1 |
a |
b |
0 |
1 |
1 |
a |
b |
0 |
a |
1 |
1 |
b |
b |
b |
1 |
a |
1 |
a |
0 |
1 |
1 |
1 |
1 |
表4 p≡qの真理表
p?q |
1 |
a |
b |
0 |
1 |
1 |
a |
b |
0 |
a |
a |
1 |
0 |
b |
b |
b |
0 |
1 |
a |
0 |
0 |
b |
a |
1 |
これらは これまでに論述した四値の真理表と同値であります。
真理表がブール束構造を持つためには、真偽値が不明であってはなりませんから、前回述べたような将来時点においても真偽値不明な思考については、人間の思考はブール束構造を持たない場合も当然に考えられるでしょう。
近年のスイッチング回路の発達により、0、1の他に2という値を入出力可能な回路が開発されました。この三値の回路によって情報の効率的な処理が可能になるといいます。
しかしながら、上記四値の真理表を以ってしても、人間の、ブール束構造越えた思考領域のほんの僅かな一面を表しているに過ぎないと言えそうです。
(以下つづく)
まずはこの音を聞いてみてください。
⇒ ここをクリック
今日の記事はこれからスタートします。
この情報化が進展する世の中には、「もっともらしい嘘」と「嘘のような本当の話」がごちゃ混ぜに存在しています。
私たちは、情報を得るにあたり、そのことを充分配慮しながら読み取っていく必要があります。
まず、「もっともらしい嘘」の端的な例は、虚構新聞社社主 UKさんが発行している「虚構新聞」です。
実に面白いです。
気まぐれで更新しているものの、社会、スポーツ、政治、経済、国際・・・・・などにジャンルわけされたニュースが並んでいます。
こんな感じです。
「日本列島も岩」 中国機関紙 【これは嘘ニュースです】中国の機関紙「赤旗日報」は、6日付の社説で「現在竹島(韓国名・独島)をめぐって日韓が争っているが、竹島のみならず、そもそも日本列島自体が岩であり何ら排他的経済水域(EEZ)を持ったものではない。」との論説を発表し、日本の主権が無効であると主張した。
この社説では「日本列島自体が、元来島ではなく沖ノ鳥島と同じ『岩』であり、それゆえ日本の主権ならびにEEZは存在しない。はっきり言えば、日本という国家自体、国際法上存在しない虚構の国家である。東アジアの最東端の国は日本ではなく韓国であり、今後政府は全て漁業権の交渉などは韓国と行なうべきで、日本列島は無視して差し支えない。」と、主権国家としての日本の存在を否定し、韓国までを国家として認めるべきだとの見解を示した。
中国外務省はこの社説について今のところコメントを発表していないが、日本の外務省は「到底受け入れられるものではなく、厳重に抗議する」とただちに抗議のコメントを発表した。また今後は「中国・韓国などもユーラシアプレートに乗っかったただの「岩」にすぎない」ことを主張し、中韓のEEZを認めない方針を明らかにした。
麻生外務大臣は午後の定例記者会見で「経済水域とかややこしいよね。あと、ローゼンメイデンおもしろいよね。」と語った。
下手をすれば騙されても不思議ではありません。
さて、では、「嘘のような本当の話」として驚かされたニュースをご紹介します。
米カリフォルニア大学、世界最小「ナノラジオ」開発を発表(このニュースは本当です)
米カリフォルニア大学バークリー校の物理学教授らは10月31日、カーボンナノチューブを用いた世界最小のラジオを開発したと発表した。1本のナノチューブが、アンテナ、チューナー、アンプ、復調装置のすべての役割を果たす。
開発者はアレックス・ゼットル教授らで、ラジオ受信機としてだけではなく、送信機としても使うことに成功した。人毛の1万分の一の直径をもつカーボンナノチューブが、電波にあわせて1秒間に数千から1億回振動し、AM・FMとも好きな周波数に合わせることが出来る。
ゼットル教授はナノラジオの今後の発展について、「ナノラジオは、携帯電話から極小端末まで、どんな用途にも利用できるだろう」と発言した。ナノラジオは、エネルギー効率に優れているため、超小型電子回路との統合も可能だという。また、人の血管内で存在できるような微小な無線端末をもたらすなど、まったく新しい用途に発展する可能性もあるとした。
(IBTimes )
いやあ、全く凄い話です。
ナノチューブのナノメートル(nm)は、長さの単位であり、1ナノメートルは10億分の1メートルです。
比較例として、DNA分子の直径は2ナノメートル。
もう分子とか原子などと同じオーダーでの話です。
冒頭に置いた音源が、このナノラジオから最初に受信された音なのです。
著作権の関係があるので、イントロの一部のみを切り出していますが、どうです?なかなかの音質ではないですか。
昔が安定しないのは、これはラジオが微小な領域で動いているためだそうです。
いわば、装置が繊細すぎて、ナノラジオに出入りする原子の動きが、音の微妙な揺れとして聞こえるとのこと。
凄いな?。
ニュースソースの論文はこちらです。
Nanotube Radio
K. Jensen, J. Weldon, H. Garcia, and A. Zettl*
ナノラジオで最初に受信したのは、エリック・クラプトンの『Layla』。
続いてビーチボーイズの『Good Vibrations』、ヘンデルのオペラ『クセルクス』から録音された『ラルゴ(動画)』が流れたそうです。
1906年12に行なわれた、世界初めてのラジオ放送で流れたのが『ラルゴ』。
歴史的な瞬間でした。
音質は、これからの改良によりかなりの改善が期待できるそうですが、それよりもどのような分野に応用できるのか想像もつかない世界です。
それにしても「もっともらしい嘘」と「嘘のような本当の話」の境界ってホント微妙ですね。
わが街、上永谷で最近このような光景が見られるようになりました。
まさに蒼い街並み。
初めて目にした時は不思議というか不気味というか・・・・
今にも未知の生命体と接近遭遇できそうな感じです。
これだけ大きくイメージが変わるのかと、色彩が与える効果について改めて感じ入りました。
なぜこのような色の街路灯を設置するようになったのか。
その理由が新聞記事に紹介されています。
照らす 犯罪防ぐ“青いトンネル”(2006年07月12日 読売新聞)
元はといえば、2000年頃にイギリス・グラスゴーで景観改善を目的に青い街路灯を設置したところ、設置地区の犯罪件数が減少するという思わぬ効果が得られたことによるものです。
その青い光の防犯効果が注目され、日本においては2005年6月に奈良県奈良市秋篠台地区の住宅街で初めて導入。
導入前は半年間に3件の空き巣と自販機荒らしがありましたが、導入後は1年間被害が皆無になりました。奈良での導入を機に、広島、静岡、群馬、大阪と、少しづつ日本各地に広がりました。
冒頭の写真でご紹介したものは、その流れで横浜市港南区の渡戸自治会で導入された街路灯です。
港南警察署によると刑法犯の発生件数が半年当たり43件から34件に減少したそうです。
色彩が人の感覚に与える影響はかなり大きく、色彩学者であるヨハネス・イッテンは、寒色系に塗装した部屋と暖色系に塗装した部屋では体感温度が3-4度も違うという実験結果を発表しました。
赤・ピンク・オレンジなど暖色系の街路灯は人を集める効果があり、また感情を高めるため、喧嘩や犯罪も増加します。
逆に、青などの寒色系の街路灯は、血圧を下げたり血液の循環を停滞させる働きがあるため、感情を鎮め、犯罪心理を抑制させ、さらに道路全体を明るく照らし、遠くの人影も見え易いという効果もあるようです。
防犯効果に関する実証はこれからですが、そもそも欧米の街路灯はナトリウムランプが多く暖色系の景観です。日本の街路灯は蛍光灯が多いため寒色系の夜景です。それがさらに青い蛍光灯になると余計に寒々しい光景になってしまいます。
やはり個人的には温かみがあるナトリウムランプの方が好きです。
色彩が感覚に与える例として、大船観音のライトアップをご紹介します。
左から 2003年、2005年、2007年です。
かつての緑のライトアップは、不気味だという良くない評判もあり、2005年に白に、そして2006年からオレンジ色のライトアップへと変更されました。
色によって印象がずいぶん違うことがよくわかります。
暗い所で本「目悪くなる」 医学的根拠ない、と米チーム「暗いところで本を読むと目が悪くなる」「毛をかみそりでそると濃くなる」など、米国で一般によく信じられている体に関する言い伝えについて、医学的な裏付けがないばかりか、誤りのものもあるとする研究を米インディアナ大のチームがまとめた。22日発行の英医学誌「ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル」クリスマス特別号に論文が掲載された。
体に関する言い伝えと医学的な妥当性(米インディアナ大チームによる)米国で医療関係者にも信じている人がいるという言い伝えを七つ選び、文献データベースやインターネットの検索で医学的な裏付けを示す研究があるかどうかを調べた。
その結果、七つとも医学的な裏付けは見つからず、80年近く前の研究ですでに否定されているものもあったという。
論文は結びで「このような言い伝えを信じるだけなら実害はないが、根拠のない治療法を勧めることは実害をもたらす可能性がある」と、科学的根拠に基づく医療の重要さを指摘している。
(朝日新聞)
とても興味深いニュースでしたので、ソースとなる論文を調べてみました。
我々は、医療関係者にも信じている人がいるという言い伝えを七つ選び、これらの主張のそれぞれを支持するか、あるいは論破する根拠を捜すために、MedlineとGoogleを使用した。
(上記サイトより)
この、Medlineとは、MEDical Literature Analysis and Retrieval System Online のことで、医学を中心とする生命科学の文献情報を収集したオンラインデータベースです。
Medline と Googleとを駆使し、一般的に信用されている医学的神話 (Medical myths)の検証を行った結果、医学的裏づけがないことや、逆に誤りであるという結論が導き出されています。
医療関係者にも信じている人がいるという医学的神話七つを具体的に見ていきましょう。
■People should drink at least eight glasses of water a day(1日につき少なくとも8杯の水を飲まなければならない)
必要な水の量は、確かにコップ8杯かも知れないが、食べ物に含まれる水分があるから、普通にジュースや牛乳を飲めば充分。
水を飲みすぎると却って有害なことがある。
そういえば、動物は水だけを飲むことはあまりしないですね。
■We use only 10% of our brains(我々は、脳のわずか10%しか使わない)
アインシュタインがそのように言ったという説があるが、最新の脳の画像診断や代謝研究から、私たちは脳のかなりの部分を使っていることがわかる。
これは納得します。
■Hair and fingernails continue to grow after death (髪と指の爪は、死んだ後も伸び続ける)
死後の皮膚が乾燥し張りを失ってそう見えるだけだそうです。本当に伸びるのはホルモンの働きが必要であり、死後に伸びることは無い。
■Shaving hair causes it to grow back faster, darker, or coarser(毛をかみそりで剃ると濃くなる原因になる)
1928年に、既に毛を剃っても毛の成長に影響しないという実証研究があり、最新の研究でもそれが裏付けられている。
ただ、剃った毛の先端が太くなり、黒く見える可能性はあるということです。
ちなみに、修行僧たちは5日おきに剃髪していますから、医学的なサンプルはいくらでも提供できます。
■Reading in dim light ruins your eyesight(薄暗い所で本を読むことは、視力低下の原因になる)
殆んどの眼科医は、暗いところで本を読むことで影響は無いということで意見が一致しており、最近は夜の照明が明るくなったのに近視が増えている事実とも矛盾する・・・・
■Eating turkey makes people especially drowsy(七面鳥を食べると眠くなる)
これは、俗説の方は初めて耳にしました。
含まれるアミノ酸のトリプトファンが睡眠効果を誘うという俗説だそうです。
実は豚肉やチーズのほうが含有量が多いので、七面鳥だけが眠くなるのはおかしい。
ただ、食後脳血流が減って眠くなる事実はあるということです。
(これはどの食べ物にも共通しますね)
■Mobile phones create considerable electromagnetic interference in hospitals(携帯電話は、病院の医療機器に電磁干渉を引き起こす)
英米の研究では、計器異常の報告事例は極めて低く、むしろ医師間の連絡が改善し、医療過誤が減る
という研究もあります。
けれども、やはり航空機の中では携帯電話は使用するべきではないでしょうね。万が一でも計器異常を起こされたら問題です。
以上、七つの中では、やはり「薄暗い所で本を読むことは、視力低下の原因にならない」というのが一番意外でした。
しかし冷静に考えてみると、暗いところで文字を読もうとすると、よく見えないため、目に近づけてみようとしたり姿勢が悪くなったりします。
そういう二次的な要素により目が悪くなることはありえるでしょうね。
また、最近の照明は蛍光灯が多いのですが、蛍光灯は一秒間に5?60回もの点滅を繰返しています。パソコンの液晶照明もそうです。
ブラウン管式のテレビもそうですね。走査線が画面上を上下水平方向に走っているわけですから。
そのようなチラチラした点滅を繰返す照明機器や表示装置は、目に負担が大きいと感じます。
視力低下は、部屋の照明の明るさ・暗さではなく、その質、そして物を見る姿勢、何を見るかということが一番の原因なのでしょう。
蛍の光、窓の雪・・・というのは、姿勢さえ正しければ全く問題ないようです。
この論文のサマリは次のようなものです。
Summary pointsEven physicians sometimes believe medical myths contradicted by scientific evidence.
The prevalence and endorsement of simple medical myths point to the need to continue to question what other falsehoods physicians endorse.
Examining why we believe myths and using evidence to dispel false beliefs can move us closer to evidence based practice.
医者のような専門家でさえ、時には科学的とはいえない医学的な神話を信じてしまいます。
このような単純な医学的神話の流布と信じられてきたことに対し、医者(に限らず、私たちも)常に疑い続ける必要があります。
医学的(それにかぎらず、科学的といわれること)な情報は、この世の中に溢れていますが、その中で、いったいどれが正しくて、どれが間違っているかということは、これまでは専門的な知識がなければなかなか見抜くことができなかったといえます。
そもそも専門的な論文を目にする機会すらあまりなかったのですから。
しかし、インターネットなどの情報を駆使することにより、一般レベルでも簡単に論文を調べることができるようになり、自らが情報の内容を判断できるような時代となりました。
インターネットには正しい情報も、間違った情報も混沌とした状態で存在しています。
正しい情報を得ることもできますし、一見正しそうだが怪しげな情報に振り回されることもあります。
情報の取捨選択、正しい情報判断を身につけるという能力がますます求められる時代になったともいえるでしょう。
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文部科学省より、一家に一枚シリーズとして、宇宙の姿をわかりやすく表現した「宇宙図」が発表されました。
「宇宙図」は、最新の研究にもとづく宇宙の姿を、一人一人の私たち人間を中心として描いたものです。
そもそも「宇宙」という文字自体についてみると「宇」は空間全体を意味し、「宙」は時間全体(過去・現在・未来)を意味します。
往古来今を宙といい、四方上下を宇という。 『淮南子天文訓』第1巻(斉俗訓)ですから「宇宙」は、元々時空(時間と空間)の全体を意味しています。
「宇宙図」には、縦方向には、人間からさかのぼって宇宙の誕生までの「時間の流れ」が、横方向には、宇宙の「空間の広がり」が表現されています。
いわば現在の科学の粋を集めて具現化した「須弥山」といえます。
■ルール1 宇宙を見ることは、昔を見ること
不思議なことに、地球から宇宙をながめると、そこに見えるのは昔の宇宙の姿です。例えば私たちに見える太陽は、8分ほど昔の姿。すばる(散開星団M45)は 400年ほど昔の姿なのです。なぜ、そんなことが起こるのでしょう?私たちにものが見えるのは、そこから発した光が、私たちに届くから。けれど宇宙の星々はとても遠いので、光でさえやってくるのに時間がかかります。そのため、こちらに届くころには、その光が伝える星の姿はもう「昔の姿」になってしまっているのです。■ルール2 見える宇宙と見えない宇宙がある
宇宙図の中心に描かれた私たち人間の前後左右には、「現在の宇宙」が広がっています。しかし私たちに、その宇宙の姿は見えません。ルール1を忘れずに。見えてくるのは、昔の宇宙なのです。私たちが肉眼や望遠鏡で捉えることのできる天体をこの宇宙図に並べていくと、図の中心にあるような、きれいなしずく形の表面になります。宇宙のこの部分だけを、私たちの眼は見ています。またそれぞれの天体は、何千年前、何億年前と、違う時代の姿を私たちに見せているのです。■ルール3 宇宙では、遠くの距離は要注意
天体までの距離を表す時によく使われるのが、「光が旅をしてきた道のり」です。例えば、私たちに見える宇宙の中で一番遠くからきた光は、137億年をかけて「137億光年」の距離を旅してきました。しかしその長い旅の間にも宇宙は広がり続けたため、光が進んでこなければいけない道のりは、スタート時点よりもどんどん伸び、光が放たれた場所自体も、はるかに遠ざかってしまいました。光が届いた現在、その場所は、もう私たちから470億光年のかなたに離れていると推測されています。■ルール4 宇宙は「科学の眼」で見えてくる
私たちに見える宇宙は、広大な宇宙の、ほんのひとしずくです(しずく形の表面)。しかし「科学の眼」は、それを手がかりに、さまざまなことを明らかにしてきました。私たちに見える宇宙が、どうやって誕生したのか(ラッパ形の底の部分)。それがどのように広がってきたか(ラッパ形の表面のかたち)。そしてラッパ形の向こうにも、宇宙は遠く広がっているという可能性。この宇宙図には、そうした科学的発見の成果がたくさんに詰まっています。宇宙は、あなたに読み解かれるのを待っています。「宇宙図」より
「宇宙図」に描かれている世界を簡単に図式化すると、次のようになります。
※宇宙図のポスターの図を元に少し改変してみました。
図の縦軸が時間軸、横軸が空間の広がりを表わしています。
全体はラッパ(或いはどんぶりともいうべきか?)のような形をしています。
これは、宇宙が誕生から常に(もちろん今も)、膨張を続けていることがわかります。
時間軸0から横に広がる面が、現在の空間の広がりです。
このような時空としての宇宙の物語に加え、宇宙の誕生や成長の物語、そして人間の材料となる元素の物語が、この宇宙図には盛り込まれています。
ルール1?4を基本として考えてみると、私たちが直接見ることができる世界は、ほんの僅かであることがわかります。
ルール1、2により、私たちの見える世界をプロットしていくと、図の中の蝋燭の炎の形・・・あるいは雫の形とも表現されますが、そのような形にプロットされていきます。
現在時点での面においては、私たちの見える範囲は点となります。(ルール1)
そして、宇宙の始まりとされる147億年前も、空間的に点となります。(ビッグバンの時点)
私たちが今、直接見ることができるのは、この蝋燭の炎のような形の表面の部分のみです。
つまり、私たちが「今」眼にしているものは、すべてが蝋燭の炎の表面の部分に並んでいます。
また、眼に届くものの姿は、蝋燭の炎の表面を辿って私たちの眼に届けられます。
時間軸は下にいくほど過去に遡るのですから、見えているものは必ず過去の姿であることがわかります。
しかしながら、蝋燭の炎の表面の部分は見える可能性があるとはいえ、全て見ることはできないわけです(ぐるっと360度周囲全体を同時に見ることは不可能ですし、ある物体の裏側を同時に見ることも不可能です)から、私たちが捉えることができるものは、蝋燭の炎の表面の部分の、さらにごく僅かの部分だけなのですね。
この蝋燭の炎の内側の部分は、過去の(歴史の)世界となります。
そして、蝋燭の炎の外側の部分は、私たちにとって、現在は見ることが適わない部分の世界となります。
もちろん、空間上の場所が異なれば時間軸もずれてきますから、場所によって炎の形もその分ずれていきます。
厳密に言えば、一人一人によって時間軸はずれています。
一人一人が固有の、常に膨張を続ける「蝋燭の炎」を持っているという表現もできます。
例えば、15億光年離れた二人がいたとして、その二人の蝋燭の炎を表現すると下の図のようになります。
二人は、お互いに15億年前の姿を見ています(二人の蝋燭の炎の重なり部分)。
同様に、どんなに近くにいる人でも、時間軸は異なっているわけですし、見ることができる世界も厳密には異なっています。
直接見ることができる世界はごく僅かでかもしれませんが、時間軸上、空間軸上異なる位置にいる他の人からの情報伝達により、その世界を共有したり追体験したりということは可能でしょう。
(自分自身のもつ炎の内側の部分に限定されてしまいますが)
炎を私たちの「いのち」になぞらえることは世界共通です。
仏教では、灯明を仏壇に灯したり、灯篭流しをしたりということを行います。
大船観音で行われる ゆめ観音においては、観音様へ通じる参道を「観音様へのほとけの通り道」として照らすことで供養するものであります。
お釈迦さまが入滅される時、周囲に集まった弟子たちに「自分の死後は自分自身を灯とし、法を灯として進みなさい」と仰られました。
蝋燭の炎は無明の闇を照らす尊い明かりとして、生きる道を照らし出してくれるという仏教の教えに譬えられています。
一人一人異なる時間軸をもつ炎の形の世界は、一人一人の世界を照らし生きる道を照らし出していくものなのです。
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それにしても宇宙は謎だらけです。
最新の観測結果によると、宇宙を構成する成分のうち7割以上は謎のエネルギー「ダークエネルギー」、2割以上が正体不明の物質「ダークマター」だといわれています。
化学元素周期表に登場するような普通の「元素」は、その全てを合わせても宇宙全体のたった4%程度でしかないようです。
この続きは国立天文台のサイトにある「宇宙図」にわかりやすくまとめられておりますのでご紹介いたします。
■関連サイト
文部科学省 一家に一枚シリーズ
発車メロディの嚆矢については諸説あるが、1970年代には一部の大手私鉄で使用されていた(1971年8月より京阪電気鉄道で使用開始)。 一方、現在一番多くのメロディを使用する東日本旅客鉄道(JR東日本)では、旧・日本国有鉄道(国鉄)時代の1970年代後半から電子音化したベル(「ピロピロピロ」という音)を使用していたが、多数の駅利用客から耳障りであるなどと不評であった。そのため、1988年の千葉駅での発車ベル廃止を経て、1989年3月に音響機器・楽器メーカーとして知られるヤマハに新しい発車メロディ放送システムを開発させ、新宿駅と渋谷駅に導入した。この際にピアノや鈴、ハープといった音色と、人の心を落ち着かせる雰囲気のメロディを採用した。このメロディは発車メロディの中でも秀逸な物の一つとして未だ鉄道ファンの間で人気がある。 (Wikiペディア)
近年、駅の案内放送が騒音問題のために最低限に制限されたり、発車のベル音が次々と発車メロディーに置き換えられました。
この発車メロディーに隠されている秘密について、数年前に放送された日本テレビ・スーパーテレビ情報最前線という番組で紹介されていましたのでその内容をかいつまんで書いてみます。
多くの発車メロディーを生み出しているのが春名勇さん。
折りしも、その頃の世の中はバブル崩壊後不況に喘ぐ世の中でした。
そのような中に少しでも明るさと癒しをもたらすことが出来るよう、様々な楽器、メロディーを試行錯誤しているうちにたどり着いたのが京都の禅寺(臨済宗相国寺派)、瑞春院にある水琴窟だったのです。
瑞春院の水琴窟は、三百七十年前に小堀遠州の感化で配下の同心が伏見屋敷の庭に造った洞水門(水琴窟)の手法を取り入れて創作したもので、その玄妙なる音色は聴く人の心を幽玄の世界に誘う。(相国寺派公式サイトより)
水琴窟は、日本庭園の装飾の一つで水滴により音を発生する仕掛けです。
土中に逆さまに埋められた甕に滴り落ちる水滴が甕の中で反響し、琴の音のような心地よい響き(水琴音)を生み出します。
水琴窟から想起されるイメージを発車メロディーに応用することにより聞く人に心地よさと癒しを与えることができたそうです。
さらに工夫を加えました。
テンポが105であること、メロディーラインが終止形となるよう構成されていること。
これは、心理的に駆け込み防止をもたらします。
通勤通学客が毎日耳にする発車メロディーですから、なおさら様々な工夫が隠されているのですね。
その原点が禅寺の水琴窟にあったということはあまり知られていない事実のようです。
このことを踏まえて、改めて発車メロディーを耳にすると感慨も新たです。
⇒おすすめ
JR東日本 駅発車メロディメドレー
追記
JR東日本 駅発車メロディメドレー や JR東日本 駅発車メロディーメドレー第2弾 +α で活躍されていた方が、今年の早稲田祭で、早稲田大学ショパンの会の招聘により演奏された模様がビデオで紹介されていました。
演奏のラストの選曲が期待を裏切らずイイ!です。
鳩山法相のアルカイダ発言 野党追及強まる鳩山法相が「私の友人の友人はアルカイダで、02年のインドネシア・バリ島の爆破事件に絡んでいた」などと発言したことに対し、野党側は31日の衆院法務委員会で法相を追及した。法相が情報を得た後で捜査当局などに伝えたかが焦点となり、法相は当時の自らの対応を詳細に調べて委員会に示す考えを示した。
(朝日新聞)
この報道の中で、法相の「アルカイダ」「爆破事件に絡んだ」などという発言の部分は問題ありかもしれませんが、それは置いておいて、「私の友人の友人は・・・・」ということについて興味深い仮設があります。
それは「六次の隔たり理論」です。
簡単にいうと、自分を起点として、友人、友人の友人、友人の友人の友人・・・・というように友人を繫げていくと、6人の知人を介することにより世界中の誰とでも繋がることができるという理論なのです。
この仮設の下地になっているのが1967年にイェール大学の心理学者・スタンレー・ミルグラム教授により行われたスモールワールド実験です。
これはどういうものかというと、
(1)ネブラスカ州オマハの住人160人を無作為に選ぶ。
(2)選んだ人に「同封した写真の名前と住所をご存知でしたらその人(実はボストン在住のある人)の元へこの手紙をお送り下さい。知らない場合はあなたの住所氏名を書き加えた上で、あなたの友人の中で知っていそうな人にこの手紙を送って下さい」という文面の手紙を送る。
(3)最終的にそのボストン在住の人に到達した時に何名のリストが書かれているかを調べる。
というものです。
結果はどうなったかというと、160通中 42通が到達し、そこまでに記載された人数は6人弱であったという結果でした。
数学的に簡単に検証すると、例えば、ある人に10人の友だちがいるとして、その友だちもそれぞれ10人の友だちがいるとすと、単純計算で重複が無いとすると6人目の友だちでは 10,000,000人の間接的な知人がいることになります。
友だちがそれぞれ20人とすると・・・・30人とすると・・・・・それぞれ20の7乗、30の7乗・・・・・と、とてつもない数になります。
まあ、これはあくまでも平均ということ、理論上の話ですので、6人辿れば世界中の誰とでも繋がるということではないわけですが、非常に興味深い理論です。
SNSなどの存在意義というのは、このような理論が下地になっているのです。
蛇足ですが、もし、mixiをやられている方は、自分のマイミク一覧の一番最後に出てくる人をクリック、以下、マイミク一覧の最後の人をクリックしていってみていってください。
(mixiのマイミク一覧はidの逆順に並んでいます)
6人程度でid=1・・・mixiの開発者の方に辿りつくはずです。
私たちは、日常生活の中で様々なグループに属し、また、様々な友人知人家族などと交流しています。
人間関係の距離間の遠近、関係の深い浅いはあるにせよ、何らかの形での情報交換がなされます。
しかし、いくら深い関係であっても相手のすべての交流関係を把握することはできないでしょう(自分ですらも把握しきれていなかったりします)。
SNSは、このような人間同士の関係を可視化したことに大きな特徴があります。
この「六次の隔たり理論」の他に、SNSの基礎理論として興味深いものをあと2つほどご紹介します。
まずは社会学者マーク・グラノベターの「弱い紐帯の力」理論です。
私たちの社会は、強く太い絆(図中の赤い線)で結ばれた「仲間やごく親しい友人」と、その「仲間やごく親しい友人」を結ぶ弱い絆(図中の緑の線)で成り立っています。
弱い連結は、強い紐帯で結ばれた仲間やごく親しい友人よりも、さまざまな社会活動の上で、ある時に、ある人にとって決定的かつ重要な役割を果たします。
逆に言うと、強い紐帯で結ばれた仲間やごく親しい友人は、行動を共にしているがゆえに思考や行動様式が似通ってしまうし、情報も固定的になってしまい、保守的な考えに陥りがちです。もちろん、精神的な安心感にとってはプラスにはなりますが、なにかの節目においてはきっかけを失いマイナスになるかもしれません。
このように、弱い連結は、異なる世界からの情報源であるがゆえに、直接関係のある仲間やごく親しい友人よりも強い影響や成果を生みだしやすいという理論です。
もう一つは「ハブとコネクターの複雑系理論」。
人はそれぞれ、自然にハブとコネクターに相当する人を中心に組織化し、コミュニティを形成するという理論です。
ある組織の中で、友人・知人を作るのに長けている人がいると、その人はコネクターとしての役割を果たしていきます。
このように、コネクターは多くのリンク(繋がり)を張るノード(個人)であります。わかりやすい表現では、アプローチしたい誰かにアクセスしたいとき、その誰かまたはその誰かに近い人を知っていそうな人という表現ができます。
コネクターは、例えば企画を創りあげ、それを実行へ移す牽引的な役割のように、ネットワークの中で非常に重要な存在です。コネクターには多数の情報が集まり、ネットワークの財産は、その特定の人に帰属集中することにより、世界はより小さく繋がっていくのです。
先の「六次の隔たり理論」では遍く友人の数が同一であると仮定した計算を行いましたが、コネクターの存在により繋がりの世界がより小さくなっていくということは想像に難くありません。
これも蛇足ですが、身近な例を用いると、おそらく、曹洞宗僧侶のネットワークの中では、知人を3人ほど辿ればどこにでも行き渡るのではないでしょうか。
驚くほど狭い世界なのですが、それゆえに僧侶というのは、一般社会の中では、人同志を結びつけるハブやコネクターとしての役割を果たしている(果たす可能性を持っている)といえるのかも知れませんね。
参考図:左下と右下の一般の人同士が僧侶を介することにより少ないノードで繋がった。
曹洞宗僧侶集団を例にとりましたが、他宗派でも、異業種(先生、医者など)でもいっこうに構いません。
■関連図書
新ネットワーク思考 世界のしくみを読み解く
著者/訳者名 アルバート=ラズロ・バラバシ/著 青木薫/訳
出版社名 日本放送出版協会 (ISBN:4-14-080743-1)
早わかり 図解&実例 よくわかる!ソーシャル・ネットワーキング (単行本)
山崎 秀夫 (著), 山田 政弘 (著)
CMC(Computer-Mediated Communication)は、コンピュータを利用したコミュニケーションのことをいいます。特にインターネットの急速な普及とともにその機会は急増しています。
CMCには他の手段によるコミュニケーションと比べて多くの違いを有します。
例えば相手に会ったこともない、あるいは数回しか会ってないのに、CMCではまるで相手を親友のように思えたり、運命の恋人のように感じたりしてのめり込んでしまうこともあります。
なぜCMCがそのような結果をもたらすのかを過去の研究を基に考えてみましょう。
■情報の欠落
CMCにおいては、マルチメディアデータが扱えるという特徴がありますが、現状、情報のやり取りはテキストが中心になって行われています。
このような場では、対面コミュニケーションに比べると顔の表情、態度、声の調子、感情など様々な情報が欠落することは避けられません。
例えば、A・マレービアンは、対面コミュニケーションにおける、相手に自分の意志を伝達する手段の重みづけを実験により、言葉による感情表現7%、声による感情表現38%、表情による感情表現55%と導き出しました。
表情・態度・声の調子は無意識に発信され、相手に伝わります。
仏教用語にある「和顔愛語」という語句は、「和やかな顔」と「優しい言葉」が人間関係を良くするという教えでありますが、お礼を言う場合に満面の笑みを浮かべて「ありがとうございました」と言う方が、無表情で同じ言葉を言うよりもはるかに有効に伝わるということは想像に難くありません。
このように重要な役割を果たす情報がCMCでは欠落してしまうのです。
■メディア体験の限界
911、アメリカで発生した同時多発テロの映像は、テレビの視聴者に大きな影響を与えました。貿易センタービルが崩壊する映像をライブ中継で見た多くの人は、あたかもテレビゲームの一場面のように感じたのではないでしょうか。
現実のものを非現実的に捉えてしまうという倒錯した状況は、なぜ生じるのでしょうか。
ボードリヤールは、「発信者と受信者は、画面の両側にいて決して出会うことが無い。ミサイルや爆弾は両側から飛び交うが、人と人との決闘的な関係は完全に欠落している 」と説明しています。
CMCにおいては、その場に居合わせる(双方向に情報交換ができる)ことができないという意味で、対面を前提とする現実空間でのコミュニケーションとは決定的に異なるといえます。
■実時間共有の困難性
コミュニケーションは、非言語的情報を含め、その情報を相互に投げあうだけのものではありません。
バーローは、「メッセージを伝えると言う行為は、それを発する時点で既に受信者からの作用を受けている 」と指摘しました。
対人コミュニケーションは、相手の反応をフィードバックして、それによりメッセージを変更することができます。
このように情報発信者、受信者相互が情報受発信の全てに影響を与えるのが、実時間の共有による対人コミュニケーションの本質ともいえます。同一の時間を共有していなければ、こうした相互作用は成立しないのです。
CMCにおいては、この実時間共有ということが非常に困難であるという問題があります。
■距離感の喪失
現実社会での交流は、日常的に生活する場所という地理的制約要因があります。
CMCによって、物理的な距離の問題は解消されました。
しかし、このことがCMC特有の別の問題を発生させています。
エドワード・ホールは現実空間における親しさによる間合いを密接距離、個体距離、社会距離、公衆距離のように分類しています。
距離は相互の親近感と密接にかかわっているばかりでなく、コミュニケーション行動に影響を与えるのです。
CMCは、この距離感にゆらぎを生じさせています。CMCでは相手の身体を視認できないばかりでなく、映像や音声が欠落した文字中心の情報に頼らざるを得ません。したがって距離感は主観的なものとなり、各人が一方的に想像するしかなく、それが時に摩擦を生むきっかけにさえなりえます。
■フレーミング
CMCの場で、過熱したやり取りが発生し、感情的な誹謗や揚げ足取りという状況に陥ることが往々にしてあります。
このような状況をフレーミングといいます。
フレーミング状態は、いきなり発生するものではありません。
ある論議の中で、メッセージの表現方法や論議の姿勢などを追及する「メタレベル」の論争になると、いわゆる荒れた状況になります。
さらに人格攻撃が始まると、どちらかが沈黙するまで応酬が繰り返されてしまいます。
リーは、多くの実証的データを分析した結果、フレーミングは、一対多または多対多の場面で多く発生することを見出しました 。
(もちろん一対一の場でも発生します)
フレーミングの場では、その場を共有する人にとっては非常な高揚感をもたらしますが、その場を共有していない人にとっては、そのログを後日見たとしても内容が空虚としか感じられないものです。
つまり、CMCの本質を捉えるためには、実時間を共有して感じることが重要であると言えます。
■匿名による交流
私たちは日常生活において様々な組織に所属し、役割を演じています。それが緊張や圧迫を与える要因になるのならば、別の場へはけ口を求めたくなることも有り得ます。
CMCは、対面コミュニケーションに比べると顔の表情、態度、声の調子、感情など様々な情報が欠落することは先に述べました。
これは、日常生活で属している組織から分離した世界に例えることもできます。
CMCの持つ匿名性が非日常性を可能にし、非日常性によって、あるものにとってはこの上ない居心地の良い空間を生み出しているのでしょう。
けれどもCMCの問題で、匿名性が引き起こす事件が数多く発生していることも事実です。
川浦は、CMC上の匿名について、名前の隠蔽、仮装(なりすまし)の2つのタイプがあると説明しました 。
匿名性によって、肯定的に受け入れられる交流形態もあれば、暴力的・犯罪的な行為へつながる側面も持っているのです。
■表現形式の特質
どのようなコミュニケーションでも、独自の用語、隠語があります。
それがCMCにおいては顕著になります。その一例がニュースグループや、巨大匿名掲示板などです。投稿に際して非常に細かいルール付け(ガイドライン)がなされており、それに反するものは直ちに避難されます。
略語や顔文字などのルールや、隠語はCMC上に非常に多く見られる特徴の一つです。
以上、ざっと見てきたようにCMCは、対面による「情報豊か=リッチな」コミュニケーションと比べて多くの特長をもつことが分かりました。
このような手段がもてはやされるということは、人々が直接に親密な関係を作りにくくなったという環境も一因にあるのでしょう。
CMCは、日常社会生活のさまざまな面に多くの影響を及ぼしてきました。
もちろん宗教の布教教化利用においてもその状況は同じであるでしょうし、むしろ宗教とメディアには深いかかわりがあるということに鑑みると、宗教界にどのような問題をもたらし、どのような可能性があるかを考察していくことは重要であると言えましょう。
<以下続く>
参考文献
『非言語コミュニケーション』A・マレービアン(西田司 他訳)聖文社
『湾岸戦争は起こらなかった』ボードリヤール(塚原史訳)紀伊国屋書店
『コミュニケーションプロセス』D.K.バーロー(布留武郎・阿久津喜弘訳)共同出版
『Contexts of Computer Mediated Communication』Lee,Martin Harvest Wheatheaf
『匿名社会と人間関係』川浦康至 「心の科学」58号
今夜の月は中秋の名月です。
中秋の名月は旧暦8月15日の月のことをいいますが、旧暦は朔(新月)を1日としますから、15日はほぼ満月になります。
ほぼ満月という表現にしたのは何故かというと、今年のように中秋の名月が満月ではない年もあるからです。
海上保安庁海洋情報部 月の満欠(朔望)によると、満月は9月27日の午前5時になります。
なぜ中秋の名月が満月でない場合があるのかはこの記事の最後に書きますが、その前に、旧暦はどのように定められているかを見ていきましょう。
日本においては、太陰暦として天保壬寅元暦(天保暦)が明治5年まで使用されていました。
それが、明治5年太政官布告第337号(改暦ノ布告)により、明治5年12月2日の翌日が太陽暦での1873年1月1日とされ、グレゴリオ暦(太陽暦)に移行されました。
しかしながら、その後も中秋の名月など、伝統的に旧暦は使用されています。
ただし、厳密に言えば天保暦と旧暦は若干異なる計算方法が用いられており、天文学に基づいた太陽と月の動きを基礎として朔(新月)の日と二十四節気の日をを決めているため、天保暦とは若干の差があります。
このあたりは お彼岸のトリビア(1) をご参照下さい。
旧暦を定める主な法則は下記のとおりです。
【旧暦の定め方】
1.月・太陽の位置は、現在の天文学に基づき計算する。
2.1日は日本標準時における0時に始まる。
3.朔の瞬間(新月の瞬間)を含む日を、月の始まる日=1日とする。
4.閏月は二十四節気の「中」を含まない暦月に置く。ただし「中」を含まない月が複数該当する場合は次の5.の法則により閏月を定める。
5.冬至は11月、春分は2月、夏至は5月、秋分は8月とする。
※補足
( )内は、天球上における太陽の見かけの通り道(大円)の経度を360度で表わしたもの。春分は0度、秋分は180度となります。
○は二十四節気「節」、●は二十四節気「中」。この「中」が月の名前を決定します。「中」が入らない月に閏月を置きます。
■春
1月○立春(315度)●雨水(330度) 2月○啓蟄(345度)●春分( 0度) 3月○清明( 15度)●穀雨(30度)
■夏
4月○立夏( 45度)●小満( 60度) 5月○芒種( 75度)●夏至( 90度) 6月○小暑(105度)●大暑(120度)
■秋
7月○立秋(135度)●処暑(150度) 8月○白露(165度)●秋分(180度) 9月○寒露(195度)●霜降(210度)
■冬
10月○立冬(225度) ●小雪(240度) 11月○大雪(255度)●冬至(270度) 12月○小寒(285度)●大寒(300度)
この補足のように、二十四節気というのは、旧暦での季節感のずれを修正するための生活の知恵ということがいえます。
つまり、旧暦では平年が約354日、閏年は約385日ですので、最大30日程度ずれが生じてしまいます。
このため、特に農作業に影響が出るため、農作業には○月○日ではなく二十四節気を目安として利用しました。
【参考】
海上保安庁海洋情報部 旧暦のあれこれ
さて、では中秋の名月は旧暦8月15日、つまり朔から14日後であるのに、なぜ満月にならない場合があるのかを考えてみましょう。
新月の定義は、地球から見て太陽と同じ方向を月が通る瞬間、満月は、地球から見て太陽と反対の方向を月が通過する瞬間とします。
(軌道がずれているため、一直線上に並ぶとは限りません。一直線上に並んだ場合はそれぞれ日食、月食となります)
【旧暦の求め方】の3.の法則により、新月の瞬間を含む日が1日ですから、新月の瞬間は午前の場合も午後の場合も当然考えられますね。
さて、新月⇒満月の周期は平均約 14.765 日ですから、もしも仮に新月が午後11時59分だった場合、満月の瞬間は旧暦 16日の午後になります。
(しかも、これは地球と太陽が円軌道と仮定した場合で、実際は楕円軌道ですからさらに複雑になります)
ということで、中秋の名月は必ずしも満月とはなりませんが、それはそれとして、虫の声に囲まれつつ、ほぼ丸いお月様を眺めながらゆったりとした時を過ごすのはオツなものですね。
撮りたてホヤホヤの中秋の名月の写真です。
左 境内のススキ越しに本堂の裏から昇る中秋の名月
右 宵の中秋の名月
【豆知識1】
中秋の名月の日は必ず仏滅になります。⇒理由はこちら
【豆知識2】
中秋の名月は必ず新暦9月になるとは限りません。昨年は【旧暦の求め方】4.の法則により、旧暦7月の次に閏7月が挿入されたため、中秋の名月が新暦10月にずれ込みました。
ゆめ観音アジアフェスティバルの際に軽のワゴン車をレンタルしました。
それはそれは便利に使わせていただいたので、それは良いのですが、返却する時にちょっとした事件はおきました。
レンタカー返却の際にはガソリンを満タンにしなければなりません。
そこで、近くのガソリンスタンドへ。
給油する際には給油口が左右どちらについているのかが大事で、自分の車なら分かっているのですが、レンタカーですと事前確認しておくということを忘れがちですね。
まあ、今回はスピードメーターのところに「給油口は右」というように書いてありましたので、その点は問題無しでした。
せっかくなので、どうして給油口が車によってまちまちなのかを調べてみました。
A. 「ガソリンスタンドの方に給油口の左右を間違える人について聞いてみました。」
「レンタカーや友人の車で来るお客さんは間違える人もいますが、自分の車で来るお客さんもよく間違われますね?。」
○○石油?○○店 営業部長 ○○さん
法律で決められているのかどうか広島陸運支局で聞いてみました。
「そのような法律は特にありません。」中国運輸局 広島陸運支局 先任自動車検査官 ○○さん
車に詳しいディーラーの人に聞いてみました。
「車の給油口は、まず、エンジンの置き方(駆動方式)が関係します。エンジンの置き方が決まるとマフラー(排気管)の位置が決まります。マフラーは、設計・デザイン上右にある車と左にある車とあります。マフラーの位置が決まると、給油口の位置が決まります。給油口は、マフラーと反対の位置にきます。マフラーは、熱を持つため、あやまってガソリンに引火しないよう安全を考慮して給油口を反対側につけます。」外車の広島屋 営業部長 ○○さん
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車の給油口は、どうして車種によって右だったり左だったりまちまちなのでしょうか。(奈良県 ○○さん 52)
「メーカーの方針」「デザイナーの好み」など諸説がありますが、真相は分かりません。個人的には「安全性を考慮して、必ずマフラーと逆の方向にある」という説が最も有力だと思います。それより、意外に知られていないのが、最近の一部のクルマには「右か左かが分かるように燃料メーターにマークがある」ということです。ガソリンマークの近くに給油口が右なら「→」、左なら「←」のように、マークが付いています。知っていましたか?
(ガリバー自動車流通研究所チーフディレクター ○○)
(2006年10月12日 読売新聞)
なるほど・・・・・
きまぐれで左右が決まっているわけではないんですね。
ということで、話の続きを。
車を降りて、いざ給油口を開こうと思っても、それらしいレバーがありません。
よく分からなかったので、ガソリンスタンドの方に給油口を開けるところからをお任せしました。
ところが、店員が数分探しても見つからず・・・・・もう一人の応援を得ても見つかる気配がありません。
グローブボックスから車の使用説明書を取り出してさらに数分。ようやくその方法が分かりました。
給油口がどうして左右まちまちなのかは、マフラーの位置によるということで理解できます。
けれども、せめて給油口のレバーについては、ある程度統一しておくことはできないのでしょうか。
車の専門家であるガソリンスタンドの人が梃子摺るような仕組みというのは如何かと思います。
ちなみに、大抵の外車は、給油口を開けるレバーそのものがありません。
なぜなら、ドアロックをしているときには給油口は開かず、ドアロックを解除した時には自動的に給油口が手で開けられる仕組みになっているからです。
これならば、給油の際に迷う事はありません。
国産自動車は、給油口を開ける際に、何故、給油口レバーをわざわざ用いる仕組みにしているのでしょうか。
不思議。
ハートマークって、どのような由来があるのでしょうか?
起源一般的には心臓を表したものとされているが、これには異論もあり、女性の臀部や胸の輪郭、陰部などを表現したものだとする説もある。
また、古代ギリシャにおいて、ハートマークと非常に良く似た形をしたシルフィウム(既に絶滅して現存していない植物の一種)の種または果実をモチーフとした銀貨が発行されており、起源の一説として取り上げられている。
一方、トランプのスート(絵柄)のひとつでもあり、こちらは僧侶や聖杯を表すといわれている。
トランプのスート(スペード・ハート・クラブ・ダイヤ)はそれぞれ、騎士(剣)、僧職(聖杯)、農民(棍棒)、商人(貨幣)を表すという俗説によるとハートの起源は僧職者の使用する聖杯ということになります。
その聖杯とはどのようなものかというと・・・・
(画像出典Wikiペディア)
取っ手の形は、確かにハートの形になっていますね。
もう一つ挙げられている、セリ科Ferula属のsilphiumという植物の実の形という説については、どのようなものかというと
(画像出典Wikiペディア)
なるほど、その説も有りかと頷けます。
俗説とは関係ないですが、御釈迦様が悟りを開かれた菩提樹の木の葉の形も、ハートの形をしています。
⇒参考画像
ハートの形には、私たちを惹きつける何かがあるのかも知れないですね。
蛇足ですが、ハートの形は数学の関数でも表わすことが出来ます。
いくつか考えられますが、個人的に形としてすっきりしていると思われるのは
y=√|x| ± √(7-x*x) (-√7 ≦ x ≦√7)
です。
(式の中の数字を7に調整してみました)
グラフに描くとこのようになります。
このグラフを描いたエクセルファイルです。
⇒Download file (heart.xls)
ハートの形は意外と簡単な関数で描くことができるのです。
蛇足の蛇足
なぜ、この関数がハート形になるかを考えてみます。
実は、エスプレッソの上にフォームドミルクでつくるハート形とまったく同じ理屈なのです。
つまり、
y=√|x| ± √(7-x*x) のうち
第二項
y=± √(7-x*x) は、円を表わす関数です。(上図の赤い円)
ですから、コーヒーカップに浮かぶ円形のフォームドミルクの状態。
そこに真中(y軸)に沿って縦にすじをす?っと入れると、y軸に近いほど大きく下に下がります。
これが数式の第一項
y=√|x| (上図の青い曲線)
です。
これを合成すると先のハート形の関数となるわけです。
教区寺院の大施食法要も、昨日でいよいよ折り返し。
後半の日程へと入ります。
8月11日まで毎日各寺院を廻り、そのまま8月盆の期間へ突入。 いよいよ佳境ですね。
当教区では、お弟子さんが、まだ小さいうちから法要に参加することが多いのですが、昨日は、御住職の長男である、まだ幼稚園に通うD沙弥が参加。
本堂に上殿するときに、法要解説で紹介されると、檀家さんの間から「かわいぃ?」の声があがります。
行道のときも、檀家さんの目線はD沙弥にくぎづけ。 役得ですね?
昨日はそれほど暑くもなく、時折爽やかな風が堂内を吹き抜けていきますので、実に心地よい法要でした。
私は法要の間、D沙弥の横に沙弥係として、ついていたのですが、途中から眠くなったんでしょうか、コックリコックリ・・・・
最初は肩を叩いたりしていたのですが、どうしても眠気に勝てないようで、法要後半の座誦の間は、後頭部を腕で支えてあげていました。
正座しながら眠るというのも器用ですが、きっと大物になることでしょう。
ところで、こういう法要儀式というのは、なんともいえない心の安心感と、心地よさをもたらします。
それは、堂内に響き渡る僧侶・参列者たちの様々な音域がもたらす読経のゆらぎによるものもありましょうし、木魚のリズムというものも大きな要因であると思われます。
特に、木魚のリズムは、当教区の大施食会法要では、
ゆったりめに読むお経については M.M.=70?90程度(本尊上供の出だしなど)
早めに読むお経については、大体M.M.=90?100程度(大悲呪など)
で読誦していきます。
大本山總持寺の朝課・大悲真読では、M.M.=20?30位になったりします。
(これがまた強烈な眠気との戦いである・・というのは内緒)
さて、この木魚の音って、心臓の鼓動の音にもよく似ています。
特に、胎児が母親の胎内で聞いている音に近いのではないでしょうか。
何となく感じる安心感というのは、そういう所から来るのかもしれません。
大人の心拍数は、M.M.=65?80程度。 幼児の心拍数は、M.M.=100?120程度とされていますから、読経のリズムと心拍数が同程度になった時には、子どもたちが眠くなるのも当然といえます。
<木魚は、人々を怠惰や惰眠から目醒ませるためのもので、そのために常に目醒めている魚の形をしているのですが、逆の効果を周囲にもたらすというのは面白いですね>
さて、木魚の醸し出す音が、なぜ心地よいかを音響学的に評価した論文がありますので、それを見てみましょう。
『木魚に関する物理特性と音質評価』春原・丸山・降旗・柳沢(信州大学工学部電気電子工学科)この研究では、全国各地の大きさ,形状の異なる175 種類にわたる木魚(直径7.5cm ?120cm)について、周波数分析を行っています。 これにより、木魚音は近接した2つの共振周波数成分を持つこと、第1共振周波数F1、第2共振周波数F2から導かれる RBC値
RBC=(F2-F1)/(F2/2+F1/2)について、下図表のような明確な法則があることを見い出しています。
寺院名 |
直径[cm] |
F1[Hz] |
F2[Hz] |
RBC 値 |
K寺 |
90.0 |
61.3 |
70.6 |
0.141 |
C寺 |
44.0 |
131.3 |
151.9 |
0.141 |
Z寺地蔵堂 |
39.0 |
147.5 |
171.9 |
0.153 |
S寺 |
30.0 |
259.4 |
293.8 |
0.124 |
F院 |
16.0 |
478.8 |
565.6 |
0.166 |
つまり、木魚のRBC 値は、ほぼ0.10?0.20 までの範囲内にあり、それは寸法・形状に依存しない共通の物理量であるということが言えそうです。
また、この第1共振周波数F1、第2共振周波数F2については、インテンシティベクトル計測により、木魚全体から発生しているのではなく、内部共鳴音が木魚の口から点音源として発生しているということがわかりました。
さらに、直径の異なる4種類の木魚を用いて心理評価実験を行い、つやのある・響きのある・奥行きのある・ありがたみのある・木魚らしい・好ましい・・・といった項目の評価を行った結果、得点が高い木魚は、その大きさに関わらずRBC 値が0.10 前後であるという結果を得ています。
木魚というものは、叩くポイント、叩き方が決まっています。
一つのお経の中でも、最初はゆっくり、段々早くという原則の中で、臨機応変に強弱やリズムを整え、アゴーギクを与えています。
法要に参列の際は、木魚の音に着目してみると面白い発見があるかも知れません。
心地よい中にも耳を傾けてみる価値は大いにあるでしょう。
叩かれて 昼の蚊を吐く 木魚かな 漱石
17年ごとに大発生する米国の「17年ゼミ」の羽化が、イリノイ州など米中部でピークを迎えている。今年の予想発生数は世界の総人口を上回る70億匹。米国では「うるさい」「庭木が傷む」「掃除が大変」など悪役と見なされがちな17年ゼミ。しかし、その正確な体内時計には「進化の不思議」が詰まっている。
イリノイ州シカゴ郊外へ、静岡大の吉村仁教授(進化理論)とセミ捕りに出かけた。住宅地のわきの森に入ると、赤い目の17年ゼミが、木の幹だけでなく、周囲の草にも鈴なり状態だった。
全長は4センチほど。日本のニイニイゼミ並みだが、細身なのでより小さく見える。そのうえ無防備で簡単に捕れる。
「17年ゼミは長い距離を飛べない。大発生するので、遠くまで結婚相手を探しに行く必要がなかったのでしょう」と吉村さんは説明する。
よく見ると、ひとまわり小さいセミが交じっている。大きい方は腹がオレンジ色なのに、小さい方は黒い。大きい方は「セプテンデシム」、小さい方は「カッシーニ」で種が違うという。ほかにもう1種、小型の17年ゼミがいるそうだ。
シカゴの歴史・自然史博物館「フィールド博物館」のダン・サマーズ昆虫収集部長によると、今年の羽化の第一報は5月19日。「前回の60億匹を超え、70億匹は発生するとみられている」。大発生は1カ月ほど続く。
(記事・17年ゼミの写真はリンク先の朝日新聞記事より)
昨日、セミの羽化をご紹介いたしましたので、それに関連した記事を続けます。
アメリカ中部では、今年が17年に一度の「17年ゼミ」の出現の年にあたっていて、大変なことになっているようです。
70億匹という数は、想像に絶する光景が展開されたに違いありません。
この17年セミは、文字通り、土の中で17年間過ごし、そして短い成虫の時期を過ごし、子孫を残していくセミのことす。
アメリカには、「17年ゼミ」の他に、「13年ゼミ」がおり、地域によって出現年は異なります。
日本のセミはほとんど「7年ゼミ」ですね。
ここで、ピンと来る方もいらっしゃると思いますが、セミの寿命の年数はたいてい「素数」となっています。
素数(そすう)とは、1とその数自身以外に正の約数を持たない(つまり1とその数以外のどんな自然数によっても割り切れない)、1 より大きな自然数をいう。自然数や整数の積を考える上で基本的な構成要素であり、数論、暗号理論等において重要な役割を演ずる。
素数は無限に存在するが、100以下の素数を小さい順に列挙すると次の通り。
2, 3, 5, 7, 11, 13, 17, 19, 23, 29, 31, 37, 41, 43, 47, 53, 59, 61, 67, 71, 73, 79, 83, 89, 97
整数の中で、あるいは実数の中での素数の分布の様子は高度に非自明で、リーマン予想のような現代数学の重要な問題との興味深い結びつきが発見されている。
(Wikiペディア)
では、なぜ、セミの寿命が素数なのか。
実際にそのようになっている訳ですから、何らかの理由が考えられます。
諸説あるうち、最も有力な説は、冒頭の新聞記事にも出てくる静岡大の吉岡仁教授(システム工学科・理論生態学)によるものです。
まずは吉岡教授のサイトをご参照下さい。
『素数周期ゼミの不思議』(1)
『素数周期ゼミの不思議』(2)
実にわかりやすい説明ですね。
かいつまんで纏めると、
(1)北米大陸において、氷河期になった時に、セミの成虫まで要する期間が延びた。
(2)そのために、出来る限り同じ場所において、同時に成虫にならないと、繁殖のための交尾相手が見つけにくくなる。
(3)鳥などの天敵によって自然淘汰される個体数は毎年ほぼ一定。
(4)結果として、成虫になる時期がずれたものは、自然に淘汰されていった。
(5)特に、13年、17年の周期で発生する種だけが、素数のもつ「1とその数以外のどんな自然数によっても割り切れない」という性質により、他のセミとの競合や交雑を免れた。
ということになります。
気象条件や、交雑の具合、個性によって、例えば本来17年土の中で過ごすはずの種が、16年であったり、18年であったりすることもあるはずです。
しかし、毎年の条件の中で、
・鳥などの天敵によって捕獲される数量は、毎年ほぼ一定
・個体数が少ないと、セミたちの交尾相手を見つけにくい
などの要素により、時期がずれると、個体数の維持が困難になっていきます。
しかも、他の周期の種と交雑すると、その子孫の幼虫でいる期間も変わってしまい、やはり個体数維持のためにマイナス要因となります。
従って、なるべく他の周期の種と同時発生は避けたい。なおかつ、一時期に大量発生して個体数を維持したい。
これが、素数周期のセミがだけが生き残ったという説の根拠になっています。
実際に、そのことをシミュレーションとして体験できる仕組みが下記サイトにあります。
本当に13年ゼミと17年ゼミが生き残るのかな?
↑
これが、ライフゲームのようで、とても面白いのですよ。
しかも、人類の出現とか、火山の噴火、隕石の衝突、宇宙人の出現!!といった突発的なオプションつき。
是非、いろいろな条件を入れて結果がどのようになるのかを試してみてください。
なお、日本のセミは、アメリカのセミのように顕著な個体数の増減はありません。
しかしながら、ある程度の増減の周期は見られるようです。
今夏、大阪はセミがうるさい 「去年の2倍」専門家予想
大阪市内でセミの数を調査しているグループが、今夏はセミが去年の2倍以上発生すると予測している。セミの抜け殻調査を14年前から実施しており、そのデータから今年は4年に1回の大発生の年に当たると推測。大音量のクマゼミが集まる大阪市東住吉区の長居公園では8月25日から世界陸上競技選手権大阪大会が開催されるが、専門家は「セミのうるささに選手もびっくりするのでは」と話している。
予測したのは大阪市立大の沼田英治教授と同市立自然史博物館の初宿(しやけ)成彦学芸員のグループ。93年から市民ボランティアとともに、同市西区の靱(うつぼ)公園でクマゼミとアブラゼミの抜け殻を集めて、羽化したセミ数を推測してきた。
その結果、セミの数は毎年、交互に増減しているうえ、4年に1回大発生していることが判明した。また、どの4年間をとっても、合計のセミ抜け殻数が9万7000?10万6000個で、平均は約10万2500個になった。
04?06年の3年間の合計は6万3866個なので、平均から引き算して、今年の発生数を約3万8600匹と推測。前年が約1万6000個だったため、発生数は2倍以上になる可能性があるという。04?06年に長居公園など他の3カ所でも調べた結果、セミの増減傾向は一致していた。
セミの発生数になぜ規則性があるのか。沼田教授は「まだ分からないが、セミの幼虫が木の樹液を吸える根付近の『席』の数が決まっていて、ある年にたくさん占められれば、別の年は数が限られてくるためではないか」と話す。
(朝日新聞)
新暦の盆(7月盆=新盆)も終わり、今日、新暦の盆の送り火をされる方は多いと思います。
お盆の入りに行う迎え火や、お盆が終わっての送り火の習俗は、江戸時代に盛んになったといわれています。
日本各地で行われる灯篭流しや、京都・箱根の大文字焼きも盆の送り火の一つです。
さて、新しい檀家さんなどから、お盆をいつ行ったらよいのかという質問をよく受けます。
まずは、以前の記事
お盆に向けて
をご参照下さい。
もともとは、旧暦(太陰暦)の7月15日に行うというのが大体の統一的な風習であったようです。
ところが、明治6年から採用された新暦(太陽暦)のために、少し話が複雑になりました。
つまり、新暦の上での7月15日にお盆を行うのか、それとも、旧暦を新暦に換算した日に行うのか・・・・・・
さらに、旧暦と新暦では約一ヶ月前後ずれますから、新暦の7月15日では農作業に差支えがあるため、農作業の狭間期にあたる月遅れの新暦8月15日に行う風習も加わり、地方によってさまざまな状況を生み出しています。
整理すると
■新暦7月15日(新盆)
・・・貞昌院の檀家さんでは東京、神奈川の都市部のように、農業と関係のない、新しい檀家さんは、この時期にお盆を迎える方が多いです。
■旧暦7月15日にあたる日(旧暦の盆)
・・・貞昌院の周辺では、この時期に行う方はあまりいらっしゃいませんが、沖縄などで行われているようです。
■月遅れの新暦8月15日(旧盆)
・・・古くからの檀家さん、農業をされている檀家さんは旧盆の方が多いです。貞昌院では6割くらいが旧盆でしょうか。ニュースを見ても、8月中旬をお盆として報道することが多いようです。日本で言うお盆といえば、今は、この旧盆がスタンダードになっています。
このほか、7月1日(釜蓋朔日)にお盆を迎える地方、7月7日(七夕)からお盆が始まる地方・・・・・さまざまな風習が残されています。
これほど生活に密着した仏教行事はないといえます。
いずれにせよ、仏さまを敬い、ご先祖さまを尊ぶという気持ちや、すべての人やものに感謝するこころは共通しますから、7月盆、8月盆でも、各家庭の状況に合わせて、皆様のお参りしやすい、集まりやすい時期にお盆を行うのが宜しいかと存じます。
さて、彼岸は、太陽が真西に沈むということ、昼夜が同じ長さになる(正確には違いますが)ことが重要でした。
対して、お盆は、もともと、満月の日に祖先の霊が子孫のもとを訪れて交流する行事が原形になったとも言われています。
もしかして、「出た出た月が・・・盆のような月・・・」というのは、お盆の語源と結びついているのでしょうか?
とにかく、お盆の行事が月の満ち欠けに関係することは明白です。
旧暦(太陰暦)でいうところの16日は、満月。
そして、上記でご紹介した釜蓋朔日は、新月。
残念ながら、現在は新暦(太陽暦)を採用しているため、盆の時期と月の満ち欠けは無関係になってしまいました。
(今日は月齢2ですから、お月様は出ません・・・・)
ただ、このお盆の起源をみることによって、昔は、まんまるい満月の明るい夜の元、お盆でご先祖様をお迎えし、そしてご先祖様をお送りした・・・・
盆踊りも、明るい夜の先祖供養のお祭りだったのでしょうね。
そんな思いを馳せながら、(7月盆をお迎えした方は)今夕、送り火を焚いてみてはいかがでしょうか。
Yahoo!キッズにある月齢カレンダーをご紹介します。
新暦と旧暦の関係もよくわかると思います。
新暦(太陽暦)は生活には便利ですけれど、なにか風情が失われてしまっているような感じがします。
本日、新潟県中越地方・長野県北部で震度6強の地震が発生しました。
被災された方には心よりお見舞い申しあげます。
ここ数日、複数の方から、(内容は多少異なってはいますが)次のようなメールをいただきました。
定型部分のみ引用させていただきます。
This photo was taken with the aid of NASA telescope, and
it only happens every 3000 years. It is called the eye of
G-d. A lot of miracles happened to those that have gazed
upon this, so make 7 wishes, even if you do not believe in
it, and see what happens, what changes in your life.
「7つの願いをこめて」「この写真はNASAの天体望遠鏡で撮影されたもので、
3000年に一度と言われている大変珍しい現象です。
これは「神の目」と呼ばれています。
この目を見つめる者には多くの奇跡が訪れるといわれており、見るものがこれを信じる信じないは関係なく、7つの願いが聞き届けられ ると言われています。とにかく試してみて、どのような変化があるか、見てみてください。」
この知らせを、「そのかたの願いが叶いますように」と思いを込めて、
大切な親友に教えてあげてください。
以上です。
たくさんの方にシェアして下さったら素敵です。
3000年に一度!
なんてロマンチックなんでしょう。
しかも、本当に願いを叶えてくださる神秘的な瞳に見えます。
この七夕の時期に、たくさんの人により、チェーンメール的に配信されているのでしょうね。
ただ、少し夢を壊すようですけれど、3000年に一度というのは間違いですね。
この写真の星雲は、日本名で「らせん状星雲」という、結構有名な星雲です。 (Helix Nebula: NGC7293)
7.3等ですから、ちょっとした望遠鏡なら見ることも可能です。
ですから、3000年に一度しか見ることができないのはなく、いつでも(僅かに広がってはいるはずですが)見ることのできる星雲なのです。
今まさに死を迎えた恒星と、爆発により周囲に広がった色とりどりのガス雲・・・・・・
神秘のブルーの瞳は、星を構成していた酸素が創り出す光。
周囲の赤は、水素と窒素による光です。
このような鮮やかな色の写真が撮影できるのは、ハブル望遠鏡ならではといえます。
地上からではこのよう鮮やかにはとても見えません。
星雲の中心には、白い矮星となる星(13.5等)が、最後の白い光できらめいています。
星の一生も生物の一生も同じようなドラマを見ることができ、とても幻想的ですね。
宇宙空間には、まさにこれから生まれようとする星、まさに死を迎える瞬間の星・・・さまざまな星たちがあります。
このらせん状星雲の残した鮮やかなガス雲は、やがてはまた新しい星を生み出していくことでしょう。
3000年に一度という記述は間違っていますが、けれども、この画像が届いた方々には、、「そのかたの願いが叶いますように」という思いを込めて送ってくれた人の心が伝わって、7つの願いが届けられているのかもしれませんね。
素敵なメールをくださった方々、ありがとうございました。
そして、このブログでこの写真をご覧になった皆さまの七つの願いも叶いますように・・・・・
追記:写真の版権は NASA, NOAO, ESA, the Hubble Helix Nebula Team にあります。
もっと大きな解像度の高い、出典元となった写真は、こちらから見ることができます。⇒HubbleSite
追記2:NASAのギャラリー、オススメです。見ているだけで心が洗われるよう。それこそ願いが叶いそうな神秘的な写真がたくさんあります。⇒こちらをクリック
昨日は、大船観音でのアジアフェスティバルについて書きましたが、この観音様、昭和4年に建造がはじまり、それ以降小高い丘から街を見守る、いわゆる大船のシンボル的な存在となっています。
また、近年はアジア各国からの信仰をあつめ、熱心な信者たちが数多く参拝を重ねています。
大船観音といえば、この一帯にお住まいの方であれば、ご存じない方はいらっしゃらないでしょう。
さて、日本には、あちらこちらに巨大なすがたをしておられる仏様(あるいは観音様=以下、巨大仏と書きます)が建立されています。
そういえば、昨年は、加賀温泉の観音様を参拝し、そのことをブログで紹介いたしました。
このような巨大仏は、どれくらいあるのか。
いろいろな資料をもとに、わかる範囲で高さの順に並べてみました。
名称 | 所在地 | 高さ(m) | 完成年 | 備考 |
牛久阿弥陀大仏 | 茨城県牛久市 | 120 | 1993 | 浄土真宗東本願寺派 |
小豆島大観音 | 香川県小豆郡 | 108 | 1995 | 真言宗仏歯寺 |
仙台大観音 | 宮城県仙台市 | 100 | 1991 | 真言宗智山派大観密寺 |
淡路観音 | 兵庫県津名郡 | 100 | 1982 | 豊清山平和観音寺 |
北海道大観音 | 北海道芦別市 | 88 | 1989 | 芦別レジャーセンター |
加賀大観音 | 石川県加賀市 | 73 | 1987 | ユートピア加賀の郷 |
救世慈母大観音 | 福岡県久留米市 | 62 | 1983 | 成田山新勝寺 |
会津慈母大観音 | 福島県河沼郡 | 57 | 1987 | 芳賀曻之助氏が建立 |
東京湾観音 | 千葉県富津市 | 57 | 1961 | 個人が世界平和を祈願して建立 |
うさみ大観音 | 静岡県伊東市 | 50 | 1982 | うさみ観音寺 |
釜石大観音 | 岩手県釜石市 | 48.5 | 1970 | 曹洞宗石応禅寺 |
高崎白衣大観音 | 群馬県高崎市 | 41.8 | 1936 | 真言宗慈眼院 |
親鸞聖人大立像 | 新潟県北蒲原郡 | 40 | 1990 | 越後の里親鸞聖人 |
七つ釜聖観音像 | 長崎県西彼杵郡 | 40 | 1990 |
西海楽園 |
大釈迦坐像 | 熊本県玉名市 | 38.5 | 1979 | 真言宗弘泉寺 |
田沢湖金色大観音 | 秋田県仙北郡 | 35 | 1987 | ホテルタザワ |
長崎観音 | 長崎県長崎市 | 35 | 1979 | 福済寺 |
白雲山鳥居観音 | 埼玉県飯能市 | 33 | 単立鳥居観音 | |
純金開運寶珠大観音 | 三重県一志郡 | 33 | 大観音寺 | |
谷山大観音 | 鹿児島県鹿児島市 | 33 | 妙円寺 | |
子安弘法大師尊像 | 愛知県蒲郡市 | 30 | 1938 | |
おびんずるさま | 熊本県山鹿市 | 30 | ||
琵琶湖大仏 | 滋賀県長浜市 | 28 | 1994 | |
七寳寺大観音 | 大阪府能勢町 | 28 | 2002 | |
香山昇龍大観音 | 福岡県朝倉郡 | 28 | 1987 | |
平和観音 | 山梨県甲府市 | 27 | 1982 | |
琵琶湖大仏(初代) | 滋賀県長浜市 | 27 | 1937 | |
大谷平和観音 | 栃木県宇都宮市 | 26 | 1954 | |
龍女神像(乙姫像) | 大阪府堺市 | 26 | 2000 | |
大牛蟹 | 鳥取県日野郡 | 26 | ||
大船観音 | 神奈川県鎌倉市 | 25.4 | 1960 | |
日蓮聖人像 | 新潟県佐渡市 | 25 | 2001 |
では、これらがどの時期に建立されたのか。
時系列に並べ、高さごとにプロットしてみたのが下図です。
これを見ると、日本の高度成長期?バブル時期に合わせて、一気に巨大仏が建立されている事がわかります。
巨大仏が何故建立されたのか。
その由緒を探ってみますと、興味深い事がわかります。
個人や企業が、その財を投じて、世界平和のために建立されたもの、レジャー施設の目玉として建立されたもの・・・・・
その由緒はさまざまですが、歴史が浅く、あまりにも独善的に建立されたものは、街の光景になじまず、街の方々の視界にいやがおうでも入っているにも関わらず、「無いもの」として扱われたりというように、必ずしも街に受け入れられていないという事例も少なくありません。
「必然性のない物は存在感が増す」
「存在感が過剰なものはないものとして扱われる」
『晴れた日は巨大仏を見に』の著者、宮田珠己氏は、この状況を逆手に取って、ありふれた街に聳え立つ巨大仏のある風景の「おかしみ」の感覚を表現し、出版されています。いわゆる『日本「マヌ景」論』です。
巨大という異様さによりそれが打ち消され、遠近感の感覚を否定された超異次元感覚により沸き起こる「ヘンな感触」により、「世界平和」や「観音信仰」という純粋な動機、ありがたさが打ち消されてしまっているというのです。
バブル時期に建立された巨大仏の中には、既に参拝される方も無く、廃墟と化してしまっている所もあります。
しかし、逆に、当初の建立の目的を生かして街に溶け込み、信仰を集めている巨大仏もあります。
その違いは何か。
そのあたりを突き詰めると、信仰とは何かという答えが見つかると思います。
実に興味深いところであります。
玄奘三蔵法師がが7世紀に目の当たりにしたバーミヤンの巨大黄金仏は、大乗仏教に大きな影響をあたえた世界的な仏教遺産であったことは確かですし、東大寺盧舎那仏像や鎌倉の大仏は国宝なのですから。
■関連の書籍
珍寺大道場 (単行本)
小嶋 独観 (著)
晴れた日は巨大仏を見に (単行本)
宮田 珠己 (著)
坐蒲棚製作記でご紹介してきました、孟宗竹で作成した棚ですが、竹の切り出しより約3ヶ月経過が経過しました。
今のところ、割れやカビは発生していません。
さて、孟宗竹といえば、道元禅師が中国から日本に持ってきたという説があります。
平安時代初期に創建された、海印寺の十院の一つである寂照院(京都府長岡京市)には、「日本孟宗竹発祥之地」の碑があり、道元禅師が中国・杭州より孟宗竹を持ち帰り当地に植えられたのが日本の孟宗竹の起源とされています。
まあ、真偽のほどは定かではありませんが。
けれども、日本における孟宗竹の歴史というのは、それほど古くはないのですね。
孟宗竹の語源となったのは、孟宗という人物です。
孟宗(もうそう)は、幼い時に父を亡くし年老いた母を養っていた。病気になった母は、あれやこれやと食べ物を欲しがった。ある冬に筍が食べたいと言った。孟宗は竹林に行ったが、冬に筍がある筈も無い。孟宗は涙ながらに天に祈りながら雪を掘っていた。すると、あっと言う間に雪が融け土の中から筍が沢山出て来た。孟宗は大変喜び、筍を採って帰り熱い汁物を作って母に与えると、たちまち病も癒えて天寿を全うした。これも深い孝行の思いが天に通じたのであろう。(孟宗竹の語源と言われる)Wikiペディア
この、二十四孝は、中国の模範にすべき24名の優れた人物です。
落語にも二十四孝のお話がありますね。
この孟宗竹は、その強い繁殖力により、日本のいたる所に見られるようになりました。
しかしながら、その繁殖力ゆえに、広葉樹林の成長が阻害され、竹林に変貌してしまうという被害をもたらし始めています。
次のようなニュースもあります。
紀南地方で世界遺産の熊野古道や天然記念物になっている神社の森に竹林が侵入し、害を及ぼしている。白浜町の大辺路「富田坂」では、イノシシがタケノコを掘るため、大きな穴が開いたり、石畳が動いたりしている。町は「このままでは貴重な文化財が壊れてしまう」と本年度から本格的な対策に乗り出す。
竹林は、禅に限らず、日本文化に大きく関わってきました。
その竹林が日本の文化遺産をも破壊しつつあるということ、とても皮肉な現象です。
この写真は、天童寺から古天童への道の途中にある孟宗竹の林。
道元禅師が日本に持ち帰ったとしたら、この竹の先祖の種を持ち帰ったのでしょうか。
以前の記事
で、享年と数え年の歳の数え方について考えてみました。
享年(行年)は、
【誕生日の十月十日前の日から、死を迎えるまでの年を数えたもの】
数え年は、
【生まれた年を1歳とし、以後、正月元旦毎に1歳ずつ加えて数える】
ということが概略なのですが、詳細はこちらをご覧下さい。
ところで、法律上、この年齢の規定について調べると、さまざまな面白いことが見えてきます。
民法 第3条 私権の享有は、出生に始まる。
のように、基本的には法律上の誕生は、出生(=生きている胎児が母体から全部外に出たとき)時に始まるわけですが、もっと細かく見ていくと、実は法律上の誕生日というのは、誕生日当日ではないのです。
つまり、例えば1月1日生まれの人が、法律上1歳になるのは、1月1日ということではないのです。
民法 第6章 期間の計算(期間の計算の通則) 第138条 期間の計算方法は、法令若しくは裁判上の命令に特別の定めがある場合又は法律行為に別段の定めがある場合を除き、この章の規定に従う。 (暦による期間の計算) 第143条 週、月又は年によって期間を定めたときは、その期間は、暦に従って計算する。 2 週、月又は年の初めから期間を起算しないときは、その期間は、最後の週、月又は年においてその起算日に応当する日の前日に満了する。ただし、月又は年によって期間を定めた場合において、最後の月に応当する日がないときは、その月の末日に満了する。
私たちは、普通、誕生の日に誕生日を祝います。
1月1日生まれの人は、1月1日に誕生日を祝いますね。
ところが法律上では、12月31日の一番最後の瞬間に年齢が加算されるわけです。
ところが、民法の付属法である年齢計算ニ関スル法律によると、年齢は出生の日よりこれを起算し(民法第3条下線部)、暦に従って年数又は月数によって計算する(民法143条1項下線部)こととなり、毎年、誕生日の前日の午後12時をもってその年齢は満了するから、その瞬間に1歳歳をとることになります。
この条文は、たいしたこと無いように思えますが、実は日常生活の様々な場面で影響が出ます。
その端的な例が、就学の際のいわゆる「就学の早生まれ」とか、「選挙権の有無」とか、「年金受給資格」などです。
学校教育法
第22条 保護者(子女に対して親権を行う者、親権を行う者のないときは、未成年後見人をいう。以下同じ)は、子女の満6才に達した日の翌日以降における最初の学年の初めから、満12才に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校又は盲学校、聾学校若しくは養護学校の小学部に就学させる義務を負う。ただし、子女が、満12歳に達した日の属する学年の終わりまでに小学校又は盲学校、聾学校若しくは養護学校の小学部の課程を修了しないときは、満15歳に達した日の属する学年の終わり(それまでの間において当該教育を修了したときは、その修了した日の属する学年の終わり)までとする。
この規定中の満6歳になるのがいつなのかということで、就学が一年ずれてしまうのです。
前述のように、4月1日生まれの子どもは、法律上は3月31日をもって満6歳ということになり、「早生まれ」として就学が一年早まってしまいます。
判りやすくいうと、法律上の誕生日は、日常感覚でいう誕生日の前日ということですね。
1日生れの人は、法律上の誕生月が一ヶ月前になってしまうため、年金の満年齢計算も、一ヶ月のずれが生じます。
年金を、19歳11ヶ月から支払い義務が生じますし、その分年金受給が一ヶ月早まります。
選挙の例を見ると、投票日に丁度20歳の誕生日を迎える国民は、もちろん選挙権があるわけですが、投票日の翌日に誕生日を迎える人も選挙権を有するのです。
ちょっと、頭の隅においておくと何かと便利かもしれません。
法律上の誕生日は、日常感覚でいう誕生日の一日前となる
寺社の屋根は、なぜ曲線なのかということについて、先日の お寺の屋根が美しいのには理由があります という記事で考えてきました。
今日は、それを一歩進めて、別の視点から、なぜ曲線なのかという理由について考察してみます。
話は、一旦飛躍しますけれど、今から300年以上前の1696年、ヨハン・ベルヌーイ(一世)が、自分が解くことが出来た数学の難問を、「挑戦状」として世界中の数学者に送りつけた問題をご紹介します。
その問題とは、
「高低差のある二点を通る斜面を作り、そこに玉を転がしたとすると、どのような斜面の時に一番早く二点間を転がり落ちるか」
という問題です。
二点間を結ぶ線は無限通りの方法が考えられます。
ただし、玉が自然落下していくのですから、最高点の高度が出発点よりも低い位置にある連続線でなければなりません。
思いつく条件はこれくらい。
問題文は実に簡潔です。
けれども、その答えをどう導くか・・・
ちょっと数学をかじった程度では歯が立たない問題です。
難問とは、得てしてこういうものです。
さて、ヨハン・ベルヌーイは、何故挑戦状を数学者たちに送ったのでしょうか。
そこには、当時数学の論争をしていたライプニッツとニュートン、そのライプニッツ側に立って応援していたヨハン・ベルヌーイが、ライバル・ニュートンの鼻をあかしてやろうという意図があったのです。
世界中の数学者に向けた挑戦状でしたが、期限内にその問題を解くことができたのは・・・・ニュートン、ライプニッツ、ヤコブ・ベルヌーイ、ロピタルだけでした。
とりわけ、ニュートンは当時勤務していた造幣局の激務の中、独自の解法により僅か一晩で解いてしまいます。
しかもニュートンは無記名で解答を送り返し、ヨハン・ベルヌーイはその無記名の解答を見るや、その解法からニュートンからの答案であるということを覚り、とても悔しがったというエピソードがあります。
ニュートン、かっこ良過ぎです。
・・・・この問題を解くには、斜面の関数を f (x) で表し、玉がどれだけの時間を掛けて転がるのかを求める訳ですが、単にポテンシャルエネルギーから落下速度を求めるだけでは駄目で、変分法を用いなければなりません。
詳しい解法は長くなるので割愛しますが、興味のある方は 数学のいずみ さんのサイトをご参照下さい。
さて、得られる解(一例)は
x = - sin u + u
y = cos u - 1
となります。
これは、サイクロイドの一種で、具体的には、円を直線上に滑らずに回転させたとき、円周上の一点が描く曲線の軌跡です。(uは媒介変数)
わかりやすくするために簡単な図を作成してみました。
直線(AOを延長した直線)の上を薄緑色の円が回転するとします。
その円の円周上の点Pは、青い曲線の軌跡を描いていきますね。
この青い線がサイクロイドです。
ここで、冒頭のヨハン・ベルヌーイの問題は、図中のAB間を結ぶ無数の斜面のうち、AB間を最も早く転がり落ちるのはどのような斜面かという問題でした。
図では、AOの長さは円周の1/2、OBの長さは円の直径となっているのでAB間の平均勾配は定まってしまいますが、X軸Y軸を適宜変倍することにより平均勾配は幾らでも変えることが出来ます。
参考として、AB間を結ぶ直線をピンク、放物線を緑、カテナリーを赤、サイクロイドを青で描いて図中で重ねました。
このうちの、どの斜面を転がした場合に一番早くAB間を通過するのか・・・・
答えは、先の解答のとおり、青のサイクロイドなのです。
さて、前置きが長くなりましたが、ここで本題に戻ります。
屋根の果たす一番の役割って何でしょうか。
それは、雨を凌ぐこと。
すなわち、降った雨水を可及的速やかに排除することが、屋根には求められるわけです。
ということは、屋根の勾配は、雨水排除の目的からすれば、サイクロイドにするのが最適であるというわけです。
先日のトピックスでは、寺社の屋根はカテナリーになっていることが多いということを書きました。
ここで、屋根を設計・施工するという観点でカテナリーとサイクロイドを比較してみます。
力学的安定度はカテナリーが有利
雨水排除の面からはサイクロイドが有利
設計のしやすさでは紐などで簡単に曲線を描けるカテナリーが有利
施工のしやすさでは頂付近の勾配が緩いカテナリーが有利
あとは美的感覚の問題もあろうかと思いますが、寺社の屋根が古来からカテナリーが多く使われてきたというのは、上記のようなさまざまな条件による結果なのだと考えています。
それに、下に凸の曲線屋根の方が直線屋根よりも雨水が早く落下することは経験上わかっていたとしても、その最適解がサイクロイドであるということは、ニュートンの時代以前の日本では理解していなかったと思われます。
ということで、私の結論としては寺社の屋根はサイクロイドではなく、カテナリーということになります。
また、一般家庭の屋根には直線屋根が多いというのは、屋根の面積がそれほど大きくなく、雨水排除時間にさほど差異は発生しないため、むしろコストを重視して直線を採用しているのでしょう。
なお、一昔前はサイクロイドでの設計は曲線出しが困難でしたが、コンピュータの発達した現代では問題にはなりません。
サイクロイドが美的感覚としてしっくりくるのであれば、サイクロイド屋根を寺社の屋根として積極的に取り入れるのも一案かもしれません。
※でも、よく考えたら、屋根頂上付近で勾配がきつくなる為、やはり施工性に劣るという欠点。これが一番のネックなのかも。
追記:
サイクロイドには、いろいろと面白い性質があります。
その一つが、「サイクロイドのもつ等時性」というものです。
サイクロイド曲線の屋根があるとします。
その屋根に降った雨粒は、たとえ屋根の頂上付近に降った雨粒だとしても、真ん中あたりに降った雨粒だとしても、軒先付近に降った雨粒だとしても、同時刻に降った雨は、屋根を滑り落ちて同時刻に軒先に達するというものです。
ちょっと不思議な性質ですが、その証明も 数学のいずみ さんのサイト、問題2に掲載されておりますので、興味のある方は併せてご参照下さい。
五行思想
五行思想(ごぎょうしそう)は、古代中国に端を発する自然哲学の思想で、万物は木・火・土・金・水の 5 種類の元素から成るという説である。
又、5種類の元素は、互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する、という考えが根底に存在する。
西洋の四元素説(四大元素説)と比較される思想である。四神相応
四神相応(しじんそうおう)は、中国・朝鮮・日本において、天の四方の方角を司る「四神」の存在に最もふさわしいと伝統的に信じられてきた地勢や地相のことをいう。四地相応ともいう。なお四神に中央に「黄龍」(おうりゅう)、あるいは麒麟を加えたものが「五神」(ごじん) と呼ばれている。
中国や朝鮮での風水における四神相応は、背後に山、前方に海、湖沼、河川の水(すい)が配置されている背山臨水の地を、左右から砂(さ)と呼ばれる丘陵もしくは背後の山よりも低い山で囲むことで蔵風聚水(風を蓄え水を集める)の形態となっているものをいう。この場合の四神は、背後の山が玄武、前方の水が朱雀、玄武を背にして左側の砂が青龍、右側が白虎である。
Wikiペディア
北 | ||||||
黒 玄武 水 |
||||||
西 |
白 白虎 金 |
黄 皇帝 土 |
青 青龍 木 |
東 | ||
朱 朱雀 火 |
||||||
南 |
また、 四神相応により方角と色が上図のようなものが最適であると考えられており、その日本にも大きな影響を与えています。
例えば、日本の色に関する古語は、明(あか)、顕(しろ)、暗(くろ)、漠(あお)でしたし、高松塚古墳には、東に青龍、北に玄武、西に白虎が描かれていました(南の朱雀は盗掘されてしまっています)。
大相撲の吊天井に付けられている四色の房の色は、まさに四神相応そのもの(中央の黄色=土俵)といえます。
また、端午の節句に揚げる鯉のぼりの吹流しの色もこれ基づいています。
(なお、青は緑、黒は紫までの領域を含み、同じ色として扱われます)
さて、ここで思い出すのは、中国の寺院の壁の色が黄色だったということ。
上図のように、黄色は皇帝の色。すなわち、建物では宮殿でしか使えませんでした。
中国の寺院の壁の色が黄色になっているのは、皇帝の色だからです。
すなわち、皇帝が擁護した高貴な建物である証でもあります。
もう一つ、この四神相応は、都市や巨大建築物を造る時に用いられました。
大宰府や、姫路城、江戸などが、その例だといわれています。
都市や建物を中心に下記表のような地勢となる地点を選ぶのです。
表:四神と地勢の例
方角 | 東 | 西 | 南 | 北 |
---|---|---|---|---|
四神 | 青龍 | 白虎 | 朱雀 | 玄武 |
地勢 | 流水 | 大道 | くぼ地 湖沼 |
丘陵 |
天童山景徳寺を改めてみると、手前の放生池、背後の丘陵、法堂東側にある青龍門・・・・・・四神相応の影響が表れているといっていいのでしょう、きっと。
【ここからは補足】
御施餓鬼(施食)会法要には五色の幡を掲げたりします。
陰陽道の五行思想とは異なり、「地水火風空」の五行によります。
詳細はこちらをご覧下さい。
要は、あらゆる方向に向けてご供養を行うという事ですね。
※前述のとおり、漠=青と緑、暗=黒と紫は同色とみなされますので、左右どちらの幡も同じ意味です。
【さらに蛇足】
寺院によく掲げられる仏旗は、1950年に開かれた第1回世界仏教徒会議で、「国際仏旗」として採択されたものです。
青・黄・赤・白・樺の五色の配置は下記のとおり定められています。
こちらは、ユニオンカラーとして色の指定がされていますので、青・黄・赤・白・樺 の組合せとなります。
http://www.jbf.ne.jp/m_buddhistFlag.html
なお、この幡は、五色+輝きの六色で構成されるということから、「六色仏旗」と呼ばれます。
「五色仏旗」ではアリマセン。
また、某新宗教の(三色)旗とも似てますが、全く異なるものです。
阿羅漢 (あらかん、arhat ?????? (sanskrit)、arahăn ???????(Thai Language))サンスクリット語「arhat」の主格「arhan」の音写語。略称して羅漢(らかん)ともいう。
漢訳は応供(おうぐ)であり、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者という意味である。
もとは仏陀の尊称の一つであった。
Wikiペディア
中国や日本では仏法を護持することを誓った仏陀の弟子を十六羅漢と呼び尊崇しました。
日本の禅宗寺院では、山門楼上(山門の上層部)に、十六羅漢を安置し、毎月二日には朝課罷山門楼上で応供諷経(おうぐふぎん)を行います。
十六羅漢<例>は、次の通りです。
『羅漢拝』 曹洞宗日課緒経要集より
番号 | 尊者名 | 読み |
第一 | 賓度羅跋羅堕闍 | Pindolabharadrāja |
第二 | 迦諾迦伐蹉 | Kanakavatsa |
第三 | 迦諾迦跋釐堕闍 | Kanakabharadrāja |
第四 | 蘇頻陀 | Suvinda |
第五 | 諾矩羅 | Nakula |
第六 | 跋陀羅 | Bhadra |
第七 | 迦哩迦 | Kālika |
第八 | 伐闍羅弗多羅 | Vajraputra |
第九 | 戎博迦 | Jīvaka |
第十 | 半託迦 | Panthaka |
第十一 | 羅怙羅 | Rāhula |
第十二 | 那伽犀那 | Nāgasena |
第十三 | 因掲陀 | Ańgaja |
第十四 | 伐那婆斯 | Vanavāsin |
第十五 | 阿氏多 | Ajita |
第十六 | 注荼半諾迦 | Cūdapanthaka |
ところが、中国の阿羅漢は、十八羅漢である場合が多いです。
その理由として、古来、中国人は「9」という数字を、縁起の良い数字と考え、阿羅漢の数を、9の倍数である「18」に合わせたという説があります。
具体的に加えられた阿羅漢は、「迦叶尊者」と「弥勒尊者」である場合が多く、天童山景徳寺など中国の禅宗寺院には法堂裏の羅漢堂や、大雄宝殿に十八羅漢が祀られています。
また、中国の禅宗様式の影響を受けた、京都の萬福寺の十八羅漢のように、第一尊者の「賓頭盧」を別の阿羅漢としてカウントし、十六羅漢思想を創始したとされる慶友とあわせ十八羅漢とする例もあります。
番号 | 尊者名 | 別名 | 萬福寺(日本・参考) |
第一 | 賓度羅跋囉惰闍 | 賓度羅跋囉惰闍 | |
第二 | 迦諾迦伐蹉 | 迦諾迦伐蹉 | |
第三 | 迦諾迦跋釐堕闍 | 迦諾迦跋釐駄闍 | |
第四 | 蘇頻陀 | 蘇頻陀 | |
第五 | 諾矩羅 | 諾矩羅 | |
第六 | 跋陀羅 | 跋陀羅 | |
第七 | 迦哩迦 | 迦哩迦 | |
第八 | 伐闍羅弗多羅 | 伐闍羅弗多羅 | |
第九 | 戎博迦 | 戎博迦 | |
第十 | 半託迦 | 半諾迦 | |
第十一 | 羅怙羅 | 羅怙羅 | |
第十二 | 那伽犀那 | 那伽犀那 | |
第十三 | 因掲陀 | 因掲陀 | |
第十四 | 伐那婆斯 | 伐那婆斯 | |
第十五 | 阿氏多 | 阿氏多 | |
第十六 | 注荼半諾迦 | 注荼半託迦 | |
第十七 | 嘎沙鴉巴 | 迦叶 | 慶友 |
第十八 | 納答密答喇 | 弥勒 | 賓頭廬 |
伽藍配置における決定的な違いは、日本の禅宗様式では山門楼上に安置する阿羅漢が、中国の禅宗様式では、山門には安置しないという点です。
【中国禅宗様式の例】
大雄宝殿・・・・・・・・釈迦如来、十八羅漢
天王殿・・・・・・・・・・弥勒菩薩(布袋)、韋駄天、四天王
山門・・・・・・・・・・安置しない
↑写真は、天童山景徳寺の十八羅漢 (宋代・竹禪(1824-1900)画作)
法堂裏の羅漢堂にあります。
■突然クイズです。
(1)昆虫は、さなぎの時期に、その中身はどうなっているでしょうか。
こたえ:さなぎの中身はドロドロの液体です。幼虫の時にあった器官や、筋肉、脂肪などが無くなってしまい、細胞がアミノ酸のレベルまで分解されてしまっています。(2)おたまじゃくしがカエルになるときに、シッポはどこへいってしまうのでしょうか。
こたえ:おたまじゃくしのシッポは、先端の細胞から徐々に萎縮して死んでいき、剥がれていき、どんどん短くなっていきます。(3)人間の手の指は、胎児の段階で、どのようにできてくいのでしょうか。
こたえ:胎児の手は、最初はグローブのようなぶくぶくした形をしていますが、指以外の部分の細胞がだんだんと死んでいき、剥がれていきます。結果として、まるで木から彫刻刀で手の平の形に削り出していくように指が形成されていきます。
※クイズの答えは、それぞれの問題文のすぐ下を、マウスで左クリックでなぞると出てきます。
このクイズのこたえの裏には、ある共通した細胞の神秘的な仕組みがあります。
その共通の仕組みとは、アポトーシスとよばれるものです。
アポトーシス
アポトーシス (apoptosis) とは、多細胞生物の体を構成する細胞の死に方の一種で、個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる、管理・調節された細胞の自殺のこと。これに対し、血行不良、外傷などによる細胞内外の環境の悪化によって起こる細胞死は、ネクローシス(necrosis)または壊死(えし)と呼ばれ、これと区別される。Apoptosis の語源はギリシャ語の「apo-(離れて)」と「ptosis(下降)」に由来し、「(枯れ葉などが木から)落ちる」という意味である。
wikipediaより
この、アポトーシスは、プログラム細胞死の一種です。(下の表にまとめています)
プログラム細胞死
プログラム細胞死(プログラムさいぼうし、Programmed cell death、略称PCD)は多細胞生物における不要な細胞の計画的(予定・プログラムされた)自殺である。組織傷害で炎症を起こす壊死と異なり、PCDは生物の生命に(一般には)利益をもたらす調節されたプロセスである。PCDは植物、多細胞動物、一部の原生生物で正常な組織形成や病原体などによる異常への対処として働く。
wikipediaより
これを簡単にいうと、細胞ごとに遺伝的に計画的にプログラムされており、その細胞が、生物の生存に邪魔になったら、その時に自殺(=プログラム細胞死) するという仕組み です。
たとえば、冒頭のクイズにおいて、
(1)の幼虫⇒さなぎ⇒成虫への完全変態の過程において、幼虫の期間を、ひたすら養分を摂取して大きく成長する段階とすれば、成虫は、オスとメスが次の世代を残す生殖的な段階であり、まったく次元がことなるものです。
そこで、さなぎの期間で、成虫において不要な器官の細胞が、プログラム細胞死であるアポトーシスを起こし、死んだ細胞は、いったんアミノ酸レベルまで分解されて、成虫で必要な器官(生殖器とか、羽とか、複眼など)に再構築されます。
(2)の場合もそうです。カエルになると、尻尾は不要となります。成長の段階で、自らが不要となることが分かると、その細胞はアポトーシスを起こし、自ら死を選びます。
(3)の指の形成も、胎児が羊水の中にいるときには、手がぶくぶくの状態でも構わないでしょう。けれども、生まれでて来た後、指としての機能が必要になりますから、指にならない部分(
指と指の隙間の部分など)の細胞は、アポトーシスを起こし、死んでいきます。
先ほど、アポトーシスは、プログラム細胞死の一種と書きましたが、プログラム細胞死を分類すると、以下のようになります。
タイプ1細胞死 | アポトーシスによるもの。クロマチンが凝縮して細胞核が断片化する(細胞が縮んで行って死ぬ)という形態上の特徴を示す 。 動物におけるPCDの重要な一形式である。 |
タイプ2細胞死 | オートファジーを伴う細胞死である。 細胞質内にオートファゴソームと呼ばれる小胞が形成されるという形態上の特徴を示す。 細胞核の萎縮が見られるが、断片化はあまり見られない。 |
タイプ3細胞死 | ネクローシス型のプログラム細胞死であり、細胞内小器官や細胞質膜の膨化(細胞が膨張して破裂して死ぬ)を形態上の特徴とする。 |
参考:Wikiペディア
表 プログラム細胞死の具体例
役 割
|
具体的な役割
|
例
|
邪魔になった細胞を取り除く |
生物に有害な細胞を除く |
癌細胞など、遺伝子が傷ついた細胞 |
生物を攻撃する免疫細胞 | ||
余剰の細胞を除く | 脳の発達段階で余剰となった細胞 | |
役割を終えた細胞を除く | オタマジャクシのシッポとか、人間の手の指以外の部分とか、 さなぎ段階での幼虫の器官などの細胞 |
|
生物の機能を維持するための |
表皮の細胞 | |
免疫系の細胞 |
生物は、その成長する過程において、無数の細胞の死が繰返されています。
例えば、 成人の人間では、毎日約3000億個の細胞が、プログラム細胞死によって死んでいるといわれています。
このような、個々の細胞の死(プログラム細胞死)は、全体の統合性のために、つまり個体として生きるために必要になった仕組みであるといえます。
「生」と「死」は、一つの生物個体から見ると、一体のもので分断がないし、「死」ぬことは、全ての終わりのように思えますが、実はそうではなくて、「生」の中にもたくさんの積極的かつ自発的な死が引き起こされているということを理解しておくことは重要なことであると思います。
また、多細胞生物の大部分が、有性生殖による種の保存方法を選択したことにより、生物種が存続・維持され続けていくためには、生殖と何世代にもわたる世代継承が不可欠となりました。
生物個体を構成する細胞は、生きている中でさまざまな外敵と出会い損傷を受けますが、それを逐一完全に修復して維持していくには限界があります。だから、生物個体はまるで遺伝子の乗り物として、遺伝子のみを次代に伝えていき、寿命が来れば生物個体は廃棄していくのだという考え方もあります。これが「体細胞廃棄説」です。
生物個体が「遺伝子を載せた乗り物である」(※補足註)とすれば、「遺伝子は子孫に乗り移る」ことによって、種が維持されていくというわけです。
【関連図書】
死の起源 遺伝子からの問いかけ (単行本)
田沼靖一 著
出版社: 朝日新聞社 (2001/06)
ISBN-13: 978-4022597786
なぜ、私たちは死ぬのか? 生物はみな死から逃れられないのか? 最新の遺伝子研究の成果を踏まえて、有性生殖をする生物は必ず死ぬという理論を分かりやすく説きあかす。
【関連リンク】
細胞の生死を制御する
by Inohara, Naohiro,
PhD Research Associate Professor Department of Pathology, University of Michigan
Medical School
このトピックスでは、日本における年回法要がなぜ今のように定められたのかをさかのぼって考えてみます。
【インド】
インドにおける「中有」「中陰」の死生観では、輪廻で、来世へ転生するまでの期間であって、これが仏教思想に取り込まれていきました。
『倶舎論』では、この「中有」の期間を、七日の間ごとに来世へ転生する期間と考えました。
初めの七日間に転生できなければ、もう七日間、さらに転生できなければもう七日間・・・・と、これが七七日の四十九日間まで繰返され、四十九日間で、必ずどこかに転生することになっています。
この四十九日を「満中陰」と呼びます。
この満中陰までが、表の■の部分です。
【中国】
仏教が中国に伝わり、道教の影響を受け、死後に冥官の裁きを受けるとして、十王思想(十王信仰)が生まれます。
『仏説閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経』(中国・唐代末期)による十王は、表の■の部分です。
なお、三回忌が、亡くなってから二年目(つまり、ここから数え年)となりますが、その理由は、大祥忌が、亡くなってから二十五か月目 (つまり数えの三年目) に行なう祭儀であり、また、葬儀の法要を1回目、そこから1年ごとに「回」を重ねるという考えによります。
【日本】
『仏説閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経』が日本に影響を与え、『地蔵菩薩発心因縁十王経』(日本・鎌倉時代)となります。
、『地蔵菩薩発心因縁十王経』では、十王信仰の各王に本地となる仏菩薩を擬定し、閻魔王の本地仏として地蔵菩薩が定義されます。
さて、日本では、古来、死者の魂は生前の罪により穢れているものと考えられていました。
この穢れを、祭りによって清め、「アラミタマ」から「ニギミタマ」へと鎮められ、最終的には「カミ」へ昇華すると考えました。
神道では、死の直後の死者の霊を"死霊"と呼びます。 この死霊は個性をもち、死穢(しえ)をもっています。 子孫がこの死霊を祀ることによって、死霊はだんだん個性を失い、死穢がとれて浄化されて行きます。 一定の年月が過ぎて、完全に浄化された死霊は、"祖霊"となります。 死霊の段階では山の低いところにいるのですが、これが昇華、浄化されて祖霊となるにしたがって、山の高いところに昇って行くわけです。 高山の上に昇るにつれて、死霊は少しずつ穢や悲しみから超越して、清い和やかな神(祖霊)になります。 民俗学者の柳田国男は、そのような祖霊の山上昇神説を展開しました。 この祖霊がさらに昇華されると、祖先神になります。 それが氏神です。
じつをいえば、死霊の死穢がとれて祖霊に浄化されるまでには、三十三年から五十年かかるわけです。 かってわたしは、三十三回忌というのは仏教の考え方だと思っていたのですが、そうではないのですね。 仏教が神道の考え方を採用したわけです。 自己の不明を大いに恥じたことがあります。
『仏教と神道』(ひろさちや著・新潮選書)
このように、死霊が祖霊に昇華されるのが三十三回忌であり、日本に伝来した仏教が、神道と融合して、「死霊の鎮魂をするための祭り」が仏教化したものが年回法要として行事化したものと考えられます。
つまり、 『地蔵菩薩発心因縁十王経』にさらに、死霊が祖霊に昇華される三十三回忌までの法要を加え、十王 プラス 三 の 十三仏 となりました。十三仏信仰は、鎌倉時代に始まり、室町?江戸時代にはある程度広まったようです。
十三仏は出典により多少異なりますが、もっとも一般的と思われるものが、 『十三仏本地垂迹簡別釈』による十三仏であり、表の■の部分です。
その後、時代が下るに連れて、七回忌・十三回忌に引き続き、三と七のつく節目の年に年回法要を行うようになり、現在に至っています。この背景には寺請制度の影響があることは否めません。
二十五回忌と五十回忌も、神道の影響でしょう。
表にまとめてみました。
表:日本における忌日・法要名と、それに対応する仏名
忌 日
|
法要名
|
十三仏
|
十王名
|
由 来
|
||
初七日
|
初願忌
|
不動明王
|
秦広王
|
印 | 中 | 日 |
二七日
|
以芳忌
|
釈迦如来
|
初江王
|
|||
三七日
|
洒水忌
|
文殊菩薩
|
宋帝王
|
|||
四七日
|
阿経忌
|
普賢菩薩
|
五官王
|
|||
五七日
|
小練忌
|
地蔵菩薩
|
閻魔王
|
|||
六七日
|
檀弘忌
|
弥勒菩薩
|
変成王
|
|||
七七日
|
大練忌
|
薬師如来
|
泰山王
|
|||
百か日
|
卒哭忌
|
観世音菩薩
|
平等王
|
|||
一周忌
|
小祥忌
|
勢至菩薩
|
都市王
|
|||
三回忌
|
大祥忌
|
阿弥陀如来
|
五道転輪王
|
|||
七回忌
|
休広忌
|
阿しゅく如来
|
(蓮華王)
|
|||
十三回忌
|
称名忌
|
大日如来
|
(祇園王)
|
|||
十七回忌
|
慈明忌
|
|||||
二十三回忌
|
思実忌
|
|||||
二十五回忌
|
大士忌
|
|||||
二十七回忌
|
忍光忌
|
|||||
三十三回忌
|
本然清浄忌
|
虚空蔵菩薩
|
(法界王)
|
|||
五十回忌
|
阿円忌
|
このように、亡くなってからたくさんの仏様にお会いするのですが、tera日記さんは 十三仏信仰?仏教随話(5)
の中で、「十王を、次の世に生まれる裁きの裁判官とすれば、十三仏は仏に導く弁護士の役」と例えていらっしゃいます。
言い得て妙だと思います。
もう一つ、中陰の間のことで分かりやすく面白い玄侑宗久師の文がありますのでご紹介いたします。
『十王経』の世界観に関する記述です。
三途の川に死者が差しかかるのは二七日である。このときは既に初七日の秦広王の審判を経ており、次には初江王の審判が待っている。たぶん秦広王のところは書類審査だけという感じだが、それでも三途への道行きをしなければならないことは決定している。
三途の川を渡り終えるとまた七日ごとに別な審判王の審査をうけ、五七(=三十五)日にはあの有名な閻魔大王の前に立つことになる。そこには浄玻璃(じょうはり)という、水晶玉だろうか、生前の悪行が残らず映しだされる画面があり、うっかり嘘をつこうものなら舌を抜かれるわけである。
それにしてもその審判の経過はじつに念入りである。詳細を書くことはここでの主題から逸れるから記さないが、それは主に五戒への侵犯を微に入り細にわたって調べ上げ、来世の行き先を決めるわけだ。
ここでも不思議なのは、これほどに念入りに調べるなら、そのあとで三途の川を渡せばいいと思う。なぜなら川には渡る場所が三カ所あり、そのどこを渡ることになるかは罪の軽重で決まるからである。先程書いた強深瀬(江深淵)は悪人が渡り、水量が膝下までという浅水瀬(山水瀬)は罪の浅い者、そして善人は金銀七宝でできた橋を渡る(有橋渡)という。書類選考だけでその違いを弁別するのだろうか?
そう思って各審判王の審査内容を見てみると、どうも各王の連携が足りないように思える。例えば第二法廷の初江王は、主に殺生戒の罪を裁き、第三法廷の宋帝王は邪淫戒への抵触を裁く。第四法廷の五官王は特別な秤で死者の言動の悪を一瞬にして裁くらしい。そして第五法廷の閻魔王である。
それぞれが違った罪を裁くように、一瞬思えるかもしれない。しかし考えてみれば人間が犯す罪は複合的である。複合的な罪を各方面から分析するというわけだが、なぜか各王は自分の判断で最終決定をしない。次々と先送りにしていくだけなのである。
第六法廷では変成王の裁きがあるが、これはそれまでの分析をとりまとめる場所に思える。当然五官王の秤による計量結果や閻魔王の浄玻璃に映っていたものも報告される。そこで総合的に合理的に判断すればいいような気がするのだが、ここでも最終決定は下されない。
これがじつに面白いのだが、最終の第七法廷、つまり四十九日目の判定が全く可笑しい。これまで念には念を入れて調べてきた挙げ句に、第七法廷の泰山王は六つの鳥居を指し示し、どの鳥居をくぐって進むかを自由に選ばせるというのである。
当然六つの鳥居の先には地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道世界がある。行く先は三悪道だったはずなのに六道に増えている。これは時代がくだり、また日本に来て、緩んだ結果と云えるだろう。大抵の宗教は時代と共に裁きが緩んでくる。キリスト教が懺悔すれば許すというのも後代のことだ。
それはともかく、最終的に大事な審判を、勝手に選ばせるとはどういうことだろう。最後の最後を偶然にゆだねることは、これまでの審査を無駄にすることのように思ってしまうのだが、それは偶然とは認識されていないようだ。生前にその人が作ってきた「業」が、自ずと然るべき鳥居を選ばせると云うのだ。
そこまで来て再び三途の川に戻ってみよう。いわば秦広王の「勘」で渡り場所を決められ、そこを渡りきると、岸には「衣領樹」という木があり、奪衣婆と懸衣翁という二人の鬼形の爺婆が待っている。二人は連携し、奪衣婆が脱がせた衣服を懸衣爺が衣領樹に投げあげる。その際、死者の生前の罪の軽量によって枝のしなり具合が違い、また罪が重いほど上の方の枝に懸かるという。その結果を資料として次の法廷に送る、というのだ。
最終結審の四十九日までを俯瞰してみると、じつに多種多様な判断が入り組んでいる感じがする。勘に頼ってみたり、合理的に分析しようとしたり、あるいはロシアン・ルーレットのように天命に任せたり、それはまるで、大勢で相談しながら全員の意見を採用したようにも見えるし、時代と共に書き加えられていった部分も感じる。『三途の川の日本的変質』(玄侑宗久・東北建設協会「東北河川紀行」3月号 )
このように、中有の間に裁かれる内容は、生前の善悪についてなのですが、「お釈迦様との約束(=五戒への侵犯)」について念入りに調べたかと思えば、結局最後、四十九日目の泰山王は、「あそこに六つの鳥居が見えますね、その先はそれぞれ六道のどこかに通じている。どこでもお好きな鳥居をどうぞ。その先があなたの来世です」と自由に選ばせてしまうというわけです。
このいい加減さがいい味だしてますね。(ただし、生前の行いの善悪によって、結局は行くべきところに行くことになるようですが)
そして、その先、来世で私たちを救ってくれるのが十仏の残りの仏様であり、仏に導く弁護士の役の十三仏なのです。
最後に、年回法要は、仏教的には四十九日までで満中陰を迎えるから、それ以降は必要ないのではないのではないかと考えがちですが、四十九日以降は、供養の意味合いから、だんだんと報恩の意味合いに変化していくものだと思います。
例えば、私たち曹洞宗僧侶は、毎日お釈迦様、両祖様に対して献飯をし、報恩の法要を行っていますが、それと同じことであると思います。
亡き方を偲び、その遺徳に感謝することが年回法要に臨む上で大切な心構えなのではないでしょうか。
平成19年2月1日、官報にて平成20年(2008)暦要項を発表しました。
主な内容は「春分の日」、「秋分の日」は、それぞれ3月20日、9月23日になります。
「みどりの日」(5月4日)は日曜日になりますが、翌5月5日も「国民の祝日」(こどもの日)であるため、更に翌日の5月6日(火曜日)が「休日」となります。
日食は2回、月食は2回ありますが、日本では日食が1回、月食が1回だけになります。
http://www.nao.ac.jp/koyomi/yoko/
春分の日、秋分の日は、法律により、次のように定められています。
国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)第2条 「国民の祝日」を次のように定める。
春分の日 春分日 自然をたたえ、生物をいつくしむ。
秋分の日 秋分日 祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。
私としては、春分の日も秋分の日も「自然をたたえ、生物をいつくしむみ、祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。」として欲しいところですが、同じ定義にすることはできなかったのでしょうか。
まあ、法律としては、意味が分けられてしまっていますが、春彼岸にも、祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ風習は、当然あるわけです。
さて、「春分の日」及び「秋分の日」は、法律で具体的に月日が明記されておらず、天文用語である春分日、秋分日を元に定められていますから、毎年2月に翌年の「春分の日」及び「秋分の日」を国立天文台が計算し、官報で発表されることになっているわけです。
その暦要項は、以下のとおりです。
http://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou.html
なぜ、来年の分までしか「春分の日」「秋分の日」が分からないのか。そのあたりの詳細な考察は
■関連トピックス
お彼岸のトリビア(1)
でまとめてありますので、併せてご参照下さい。
暦に関するもう一題。
来年の二十四節気もあわせて発表されました。
立春は、太陽黄経が 315度 になる時点を元に定義されますから、来年の立春の日は2月4日(太陽黄経315度=20時00分)となります。
なお、今年の立春は昨年2月1日に発表され、2月4日となっております。
春の節分は、立春の前日ですから、今年の節分は2月3日、明日ということですね。
豆撒きと併せて太巻き寿司の「丸かぶり」を行う風習もすっかり定着しました。
全ての災いを取り除き、吉をもたらすとされる歳徳神さまがいらっしゃる方角が恵方です。
今年は2007年ですから、恵方は「壬」の方向。
すなわち北北西に向かって「丸かぶり」を行うわけです。
なぜ2007年の恵方が「壬」の方向なのかは下記トピックスをご参照下さい。
■関連トピックス
幸せをもたらす方角
先日、静学堂の内藤様より、自ら著された 『狩野松栄筆 三十六歌仙絵額 大生郷天満宮蔵』 を戴きました。
この本は、茨城県常総市(旧水海道市)大生郷天満宮に428年間眠っていた三十六歌仙絵額を、5年間にわたり調査研究した報告書となっています。
大生郷天満宮は、太宰府天満宮(福岡県太宰府市)・ 北野天満宮 (京都府京都市)と共に、日本三大天神として挙げられています。
(ちなみに、貞昌院の隣の永谷天満宮は、日本三体の天神さんです)
日本三大天神 : 太宰府天満宮、北野天満宮、大生郷天満宮日本三体天神 : 太宰府天満宮、河内道明寺天満宮、永谷天満宮
その由緒ある大生郷天満宮に保存されているのが、紙本著色 三十六歌仙絵なのです。
三十六歌仙額とは
http://seigakudo.my.coocan.jp/profile2.htm
茨城県指定文化財 絵画紙本著色 三十六歌仙絵 管理者 大生郷天満宮 制作時期 室町時代末期
三十六歌仙は、藤原公任(960-1041)によって、万葉・古今後撰和歌集におさめられたる奈良朝から平安朝の名歌人の中から、特に優れた36人が撰されたことに始まる。
鎌倉時代には歌仙絵として定着し、和歌の流行と似絵(肖像画)の隆盛とともに画帖・絵巻物などに多く仕立てられるが、室町時代に入ると扁額として描くというまったく異なった様式を創り出すことになる。
この背景には、当時の和歌と神仏を結び付けるという信仰が神社に扁額を奉納するという流行現象を生んだことも関連しよう。
この三十六歌仙は、もとは下妻城主多賀谷政経の愛蔵品と伝えられ、1576年(天正4)10月、大生郷に立て籠もる北条氏堯を討った戦いにおいて天満宮を消失させてしまったため、その罪滅ぼしに鎧太刀とともにこれを奉納したという。
歌を上段に書き表し、その下段に人物を彩色をもって描いてあり、その筆・画とも極めて優れている。土佐流の筆と思われる
https://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/kaiga/2-25/2-25.html
なお、三十六歌仙とは、藤原公任の『三十六人撰』に載っている和歌の名人36人の総称であり、その三十六人の家集を集大成した現存する最古の写本は、『本願寺本三十六人家集』とされています。
これに影響されて、中古三十六歌仙や女房三十六歌仙などが後世に次々と出てきました。
この絵を描いた狩野松栄は、狩野永徳の父であり、狩野松栄作の三十六歌仙絵額は、大生郷天満宮にしか現存していないそうです。
古さでいうと、日本で10番目に古いとのことで、この三十六歌仙絵額がなぜ、大生郷に伝えられているのかを、東国の天満宮の由緒縁起と比較しながら、その交流を体系的にまとめられた本となっています。
ご興味がお有りの方は是非ご一読ください。
さて、この本に記載されている 永谷天満宮 の内容を、新編相模風土記と比較してみましょう。
天神社、村の鎮守なり、神体は(長一寸八分)縁起に拠るに延喜二年菅公筑紫に在りて宝鏡に向ひ躬づから模刻して令子敦茂に興へられし真像なりとぞ、後菅原文時藤原道長上杉金吾等相伝せしを明応二年二月当所の領主藤原乗国(当国八郷を領し永谷郷に居城せしと云ふ)霊夢の告により此地に始て宮社を営み安置すと云ふ、其後天文十二年領主宅間伊織綱頼修造を加へ天正十年同氏規富再造せしとなり。末社妙義白山。妙見。稲荷。別当貞昌院、天神山と号す、曹洞宗(後山田村徳翁寺未)旧は上之坊下之坊と号せし台家の供僧二宇在りしが共に廃亡せしを天正十年に至り、其廃跡を開き、当院を起立す、開祖は文龍(天正十九年四月十六日寂す)と云ふ、本尊は十一面観音(長八寸行基作)。神明宮二、羽黒社、浅間社、以上貞昌院持
「注」上の坊は上永谷町5358番地附近一帯、現、田辺達雄氏宅東方地域、下之坊は上永谷町3400番地附近一帯、現、鈴木義雄氏宅西方の山腹、故に鈴木義雄家を寺下と呼称す、両坊共に七堂伽藍を具備せしと」( 『新編相模風土記』 より)
相模国鎌倉郡永谷郷(横浜市港南区上永谷)に所在する永谷天満宮の縁起も興味深い。
明和八(1771)年の縁起書では、明応二 (1492)年に上杉(藤原・詫間)乗国が創設したとありながら、延喜二年に道真が自身の像(道真木像)を彫って敦茂に与えたと記している。
また同形の像は道明寺や大宰府安楽寺にもあり、その後の永谷天満宮の御神体(道真木像) は、菅原文時・藤原道長・上杉金吾・上杉乗国と伝世されたという(遠藤泰助・1981)。
この道真木像は、相模に配流された敦茂が起居した天台宗寺院を継承したとされる、曹洞宗・天神山貞昌院に普段は安置され、12年(丑年)毎に永谷天満宮に遷座されて開帳されている (住職の御教示による)。
さて永谷天満宮における史実の起点は、上杉乗国による明応二年の創設であろう。
ここから藤原氏の血族という論理で先ず道長まで遡り、次に道長との同時生存という論理で菅原文時 〔高視の子で、貞元元 (976)年に北野天満宮を菅氏領知にした〕に横滑りし、菅原氏の血族という論理で叔父の淳茂に辿りついている。
ただし淳茂は 「敦茂」と誤記ざれるように、道真に到達する一通過点に過ぎず、淳茂が相模に配流されなかった史実は、永谷天満宮の縁起では熟知されていたと推測される。
そして乗国→道真と遡上したことと並行して、永谷天満宮の道真木像は菅原(土師)氏創建の道明寺(土師寺) の本尊と同形の像になりえたのだが、ここで自己矛盾が発生している。
道明寺の本尊の一つは九世紀代制作の十一面観音像である。
ところが永谷天満宮の御神体はあくまでも道真木像であって、貞昌院本尊の伝行基作の十一面観音ではない。すなわち永谷天満宮と道明寺の間に同体説は成立しえないのである。
こうした自己矛盾は十一面観音と天神の霊力をもってすれば、縁起上は何ら問題はないだろうが、乗国に降る系譜にしても、大生郷天満宮や谷保天満宮・入間郡の天満天神社の各縁起よりも新しそうな印象を与える。( 『狩野松栄筆 三十六歌仙絵額 大生郷天満宮蔵』 第二章 史実から演技への構築過程、第三節 延長年間を重視する背景、第二項 東国の他の天神社の縁起との比較 より、永谷天満宮に関連する部分を抜粋)
ここで、出てくる人物を整理してみましょう。
【系図】
菅原清公(770年?842年)
|
菅原是善(812年?880年)
|
菅原道真(845年?903年 )――――┐
| |
菅原高視(876年?913年) 菅原淳茂(?年??年)
| |
菅原文時(899年?981年) 菅原淳祐(890年?953年)
藤原道長(966年?1028年)
上杉金吾(1416年・鎌倉を以って畔く)
上杉乗国(1493年永谷天満宮創建)
※太字は、『新編相模風土記』による道真尊像伝承の流れ
----------------------------------------
由緒縁起としてつたわっていることを、史実と照らし合わせて、歴史学的に考証していく作業というのは大切なことです。
その中で、天満宮の由緒縁起として、相模風土記に記載されていることについて、いくつかの指摘がこの本によりなされています。
由緒縁起を史実に基づいて修正していく必要があるかどうかは、今後の検討課題となりますが、貞昌院に安置されている菅原道真公が自ら彫った尊像がどのように伝わったのか、そのあたりについて、『狩野松栄筆 三十六歌仙絵額』は、重要な資料をたくさん示していただきました。
この場をお借りして心より感謝申し上げる次第です。
二つの命題p及びqに相関関係が無い場合、もしくは、関係があるのかどうか分からない場合、命題の真理値を求めることはさらに困難を極めます。
しかし、実際の人間の思考を考えると、話のつじつまは合わない場合が多いし、前後の相関関係もわからない場合が多はずです。
「Aが真であること、そうでないこと」は、「Bが真であること、そうでないこと」とは次元の異なる論理なのです。
「雨が降るか降らないか」といったような同じ次元の論理であれば、簡単に検証することができますが、「雨が降るか雷がなるか」といった場合には、次元が異なると言って良いでしょう。
複雑を避ける意味から、簡単のために三値の真理表についてまず作成してみます。
pが1である確率(可能性)をa、 pとqとの相関関係をγとすると
(0<a<1、?1<γ<1)
※相関係数は、負の値をとるので、0?1の値に置き換えるため r=(γ+1)/2 とします。
表1 真偽値不明の命題がとりうる真偽値
命題 p 命題q 確 率
命題 p |
命題q |
確 率 |
1 |
1 |
ar |
1 |
0 |
a(1-r) |
0 |
1 |
(1-a)(1-r) |
0 |
0 |
(1-a)r |
当然全ての確率を合計すると、
ar+a(1-r)+(1-a)(1-r)+(1-a)r=ar+a-ar+1-a-r+ar +r-ar =1
となります。
pという命題はaだけ確からしいとし、qはpとの相関がγである(Pとqと同じになる確率がr)とうことであるから、それぞれの確率と値は次の表のようになります。
表2
命題 p 命題 q 確 率 p∧q p∨q p⊃q p≡q
命題 p |
命題 q |
確 率 |
p∧q |
p∨q |
p⊃q |
p≡q |
1 |
1 |
ar |
1 |
1 |
1 |
1 |
1 |
0 |
a(1-r) |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
1 |
(1-a)(1-r) |
0 |
1 |
1 |
0 |
0 |
0 |
(1-a)r |
0 |
0 |
1 |
1 |
表1と表2から、三値の真理表が次のようにできます。
表3 p∧q
p| q |
1 |
r |
0 |
1 |
1 |
r |
0 |
a |
a |
ar |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
表4 p∨q
p| q |
1 |
r |
0 |
1 |
1 |
1 |
1 |
a |
1 |
1+am-m |
a |
0 |
1 |
r |
0 |
表5 p⊃q
p| q |
1 |
r |
0 |
1 |
1 |
r |
0 |
a |
1 |
1-a+am |
1-a |
0 |
1 |
1 |
1 |
表6 p≡q
p| q |
1 |
r |
0 |
1 |
1 |
r |
0 |
a |
a |
r |
1-a |
0 |
0 |
r |
1 |
以上の表3?6ように作ることができました。
a,rにそれぞれ任意の値を代入することによって、命題が真である確率が求められます。
この値が1となれば、真である確率が1ですから、命題自体が真、真である確率が0であれば、命題自体は偽であると確定できます。
興味深いことに、ここで算出された真理表は、前回提示した、ルカシェビッチ、ポスト、ゲーテル、ハイティングのどれとも異なっています。
ちなみに、p∨?p を計算してみると、 p=a , γ=-1 (r =0)となりますから
p∨?p= 1+ar-r = 1+0-0 = 1
となり、p∨?p が 真となる確率は1。すなわち命題は真であると考えられます。(排中律が成立する)
もう事例を考えてみましょう。
「英語が好きならば、数学が好きである」という命題があり、「英語が好きか判断不明、数学が好きかも判断不明」だとします。
英語がどの程度好きかは判断不明でありますが、真と偽の間にあることは間違いありません。
数学にしても同様です。「英語が好き」と「数学が好き」との関係はわかりません。
このような場合は、 p⊃q = 1-a+ar = 不定値 となりますから、命題の真偽不明のままよいでしょう。
確率論的に論じれば、数学と英語の相関関係の度合いによって、真偽値はそれに応じて変化していきます。
なお、今回考えた表は、三値の表ですが、b= (1-a) を追加し、mに 0、1 を代入すれば、四値以上の真理表を作成することができます。
(以下続く)
確率論からのアプローチ
これまで考えてきたことをここで、確率論的に考えてみましょう。
p∧q、p∨q、p⊃q 、p≡qについて、それぞれ考えてみます。
ここで、pという命題が真である可能性をa、qという命題が真である可能性をa’とします。
また、偽である可能性はそれぞれb、b’とします。
当然 a+b=1、a’+b’=1ですね。
(ここでは可能性を検討していきますので、様相論理学の可能命題の領域とはなりますが、一応このまま論議を続けていくことにします)
まずは簡単のために、pとqとの相関係数が1または?1の場合を考えてみましょう。
pの命題とqの命題の間に矛盾関係はないですから、pが真でqが偽であるということは考えられません。
1、連言 p∧q
表1: p∧qの真偽表 (p、qの相関係数r=1 or r=-1の場合)
p | q |
1 |
a |
b |
0 |
1 |
1 |
a |
b |
0 |
a |
a
|
1:a*1 0:b*1 |
1:a*0 0:b*0 |
0
|
b |
b
|
1:b*0 0:a*0 |
1:b*1 0:a*1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
表中の値は命題が1である確率を表します。
たとえば、p=1、p=0は実然命題の場合であり、pの真偽値1となる確率は各々1、0となります。
また、p=a、p=b は、それぞれpが1となる確率はa、b (0<a<1、0<b<1)です。
pが実然である場合、命題p∧q の真偽値はqによって定まります。
qが1である確率はaですから、例えば p∧qで、 pが実然1 、qが確率aで真であるとすると、aの確率で p∧q は1∧1=1 となり、bの確率で
1∧0=0 となります。
これは a であることと同値なので、p∧q=a という結果になるのです。
同様に考えて、表をうめると上の表1:のようになります。
ここで、pとqが可能命題となる場合については上下2段にそれぞれ命題が1となる確率、命題が0となる確率を記しました。まだ途中段階です。
この作業を進め、p∧q、p∨q、p⊃q、p≡qについて表を完成させたものが下の表2?5です。
表2: p∧qの真理表
p|q |
1 |
a |
b |
0 |
1 |
1 |
a |
b |
0 |
a |
a |
a |
0 |
0 |
b |
b |
0 |
b |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
表3: p∨qの真理表
p|q |
1 |
a |
b |
0 |
1 |
1 |
1 |
1 |
0 |
a |
1 |
a |
1 |
a |
b |
1 |
1 |
b |
b |
0 |
1 |
a |
b |
0 |
表4: p⊃qの真理表
p|q |
1 |
a |
b |
0 |
1 |
1 |
a |
b |
0 |
a |
1 |
1 |
b |
b |
b |
1 |
a |
1 |
a |
0 |
1 |
1 |
1 |
1 |
表5: p≡qの真理表
p|q |
1 |
a |
b |
0 |
1 |
1 |
a |
b |
0 |
a |
a |
1 |
0 |
b |
b |
b |
0 |
1 |
a |
0 |
0 |
b |
a |
1 |
以上のように、確率論からのアプローチから四値の真理表を算出することができることがわかりました。
ただしここで注意するべきは、pとqとで相関係数が1または?1の場合に限られるということです。
つまり、pとqとの相互間系が明白な場合でなければ適用されません。
たとえば、 「明日雨が降るか、雷がなる」という命題や、
「明日雨が降るならば、雷がなる」という命題を考えてみると、これらの命題をそれぞれ p∨q 、 p⊃q とおいて、上記の真理表より
p∨q=a∨a =a 、 p⊃q=a⊃a=1 とすることはできそうにありません。
雨が降ることと雷が鳴ることの間の相互関係において、相関はあるとも言えないし、無いともいえないからです。
科学的事実としての確率論として考えることができるだけです。
また、たとえば「わたしは英語が好き」といった場合に、100%はっきり好きであると言うことができれば別ですが、「やや好き」などといった場合にはまさに個人の主観に左右されます。
ここでは、ファジー理論に立ち入る考察はしませんが、pとqとの相互関係が分からない場合について検証を進めていくことにしましょう。
(以下続く)
いよいよ本題に入ります。
ある不明確な命題を考えてみましょう。
「あした雨が降る」
これは今日という時点においては真偽の判定が不可能です。
しかし、明日という時点においては真偽が明確になります。
そこで、1/2と矛盾関係にあるもう一つの不明確な1/2を導入し、それぞれをa,bとします。
つまり、
b = ?a 、 a ∨ b = 1
となる関係です。
ここで本質的に、現在時点と将来(不明確な事象が明確になる時点)時点とで考えた時に、
( a = 1 ∧ b = 0 ) ∨ ( a = 0 ∧ b = 1 )
すなわち、a = 1 となりかつ b = 0 となるか、または a = 0 かつ b = 1 のいずれかに帰結されるということになります。
このことから、将来時点に於いては四値問題も二値問題に帰結されるということになります。
四値問題における a ∨ b = 1 というのは将来時点における
( 1 ∨ 0 ) ∧ (0 ∨ 1 ) = 1
と同値であると考えられます。
なぜならば、将来的には雨が降ったか降らなかったかのいずれかの結果がでているからです。
将来的には p1 か p2 のいずれかになるのです。
p(現在時点) |
p1(将来時点1) |
p2(将来時点2) |
1 |
1 |
1 |
a |
1 |
0 |
b |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
これを整理すると、現在真偽不明値 a は、将来真偽値 1 or 0 に帰結され、結局のところ二値論理を考えればすむという話になります。
この理由は、四値論理学が二値論理学と同様にブール束構造をもつからであり、二値論理学の延長線上に位置するからなのです。
「あした雨が降るか降らない」
という命題を考えると、「雨が降る」と「雨が降らない」の間には、互いに否定関係にあることは明白です。
p = a ∨ b において、a と b との間には、相関係数 -1 が成り立ちます。
つまり、次のようなベン図を見ると明白な様に、全ての可能性を網羅しているがゆえに、命題は真であることがいえるのです。
この事は確率論的に考えると更に明白になります。
(以下続く)
三値論理体系を構築したルカシェビッチ・ポスト・ゲーテル・ハイティングは、三値体系について真と偽の中間に真偽不明と言う中間真理値を加えて体系を構築しました。
これを表にまとめるとこのようになります。
しかし、表を見て分かるとおり、その新しく加わった真偽不明値についての解釈が一意的に定まってはいませんでした。
ここで全ての体系について検証してみましょう。
1:真 、 0:偽、 1/2:真偽値不明 とおくと
「あした雨が降る(1/2)か 降らない(1/2)」
でありますが、ルカシェビッチ・ポスト・ゲーテル・ハイティングそれぞれの体系について、全て P∨?p = 1/2∨1/2=1/2 となり、命題そのものが真偽値不明であるとの結果が得られます。
<ここで、前回書いたことを振り返ってみましょう>
この命題は排中律の命題です。
すなわち、「明日雨が降る」か「降らないか」という個々については真偽値自体は不明でありますが、私たちの思考過程において「明日雨が降るか降らない」は必ず結果としてどちらかが真となるものであって、命題は真であるとの結果が導かれるはずなのです。
<つまり、どこかが矛盾している???>
このことについて永井成男は次のように分析しています。
「彼(ルカシェビッチ)は語用論的確証概念と意味論的真理概念とを混同している。この点、直観主義論理学を構想するに際してヘイティングが真理概念と構成可能という語用論概念とを混同したのとまったく共通の誤解である。
したがって、意味論的真理概念から出発する純粋意味論としての形式論理学では三値論理学は成り立たない。
ただ、純粋語用論の視点から、真理でなく真理の認識としての確証を問題とするとき、解釈者xと時間tとに依属・相関的に確証される(1)と、反証される(0)との中間に、確証も反証もされない第三値(1/2)が区別される。それらの概念は意味論的概念でなく語用論的概念である。
したがって、三値論理学は純粋語用論の視点に立つもので、純粋な形式論理学ではない。」『哲学的認識の論理』 永井成男 早稲田大学出版部
さて、直観主義はブローウエルにより提唱された数学基礎論上の代表的立場であります。
その源流はカントに認められますが、この派の思想を受け継ぎ、記号論理学的に展開して直観主義論理学としたのがハイティングです。
ここでは数学とは純粋直観により構成されます。
「あした雨が降るか降らないかのいずれかである」という排中律による思考は、現在時点からみて「あした雨が降る」というのは、「あした雨が降らない」という可能性によって非構成的であるとして拒否されてしまうのです。
・・・・・つまり、「あした雨が降る」という命題をもって「あした」を構成して示すことができないのです。
「あした雨が降る」をpとすると、排中律によりpは真か偽のいずれかに還元されます。
?pが矛盾であれば、pが偽であることは不可能となり、排中律によってpは真とならざるを得ません。
これは非構成的思考であって、直観主義的には理論的に正当化されないのです。
すなわち、直観主義においては「真」という意味論的な概念を拒否して、「構成可能」な概念で置き換えてしまいます。
「あした雨が降ることは真である」は「あした雨が降るは構成可能である」と置き換わるのです。
直観主義とは数学的認識における客観的側面を無視する点で誤解であって、意味論を無視し、「真」という意味的概念と「構成可能」な語用的概念を混同しているものだと主張しているのでしょう。
このことを踏まえて、多値論理のあり方について考えていくことにしましょう。
(ようやく本題へ。以下続く)
ようやくタイトルの内容に入っていきます。
まずは、多値論理学としての三値論理について基本を整理してみましょう。
論理学は、形式的な真偽(経験によらない真偽)を扱うことから、形式論理学ともよばれます。
私たちは、直接的・間接的に観察した事実に基づき、自分の意識的もしくは無意識的に思考し、推論し、判断を行います。
この思考過程の合理的部分を普遍的に推論できるようにしようとの試みが論理学の原点なのです。
弁証法論理学のように経験的な真偽も論理学の範疇で取り扱おうとする立場もありますが、形式論理学自体は普通、命題論理と述語論理にわけて考えます。
命題とは、真偽を与えることのできる文章のことであり、命題のもつ真偽いずれかの値を真理値とよびます。
つまり、「明日の天気」「今日私が通るべき順路」などは、真偽値以外の値をとるのであるから、命題とはいえないし、また、「臓器移植は倫理的である」「○○さんはかわいい」などは、個人の信念や嗜好に左右され、命題とは言い難いものです。
しかし、いわゆる命題の本質を考えると、命題のとりうる値が真偽二値に限るという立場は、必ずしも絶対ではなく、ここに真偽不明という可能性を残した多値論理学への発展も考えられるのではないかというのが本論の目指すところです。
さらに、曖昧さを強調したファジー論理などがあもありますが、ここでは多値論理学について考えていきましょう。
記号論理学では、文によって示された論理を記号で表現し、それを機械的な操作によって推論を進めていきます。
この部分普遍的な推論という意味で重要なところです。
操作の対象は記号により表されている論理式が中心となります。
この論理式の対象は形式規則により定められ、推論の記号操作は推論規則により規定されます。いわば代数学の式の変形に該当するものです。
真理値が真か偽しか無い場合、例えば
「あした雨が降るか降らないか」
という文があった場合、これを二値問題として判定することはできません。
なぜならば現在において雨が降ることが真であるか偽であるかは判定不能だからです。
しかし、我々の直感として、この文は正しい(真)ということがわかります。
なぜならば雨が降る降らないは不明であるが、降るか降らないかのいずれかになることは排中律から明白であるからです。
つまり、個々の真偽が不明確であるからといって命題そのものが必ずしも真偽値不明であるとは限らないのです。
真偽の他に第三の真理値をとるという三値論理学はこのような観点から生まれました。
三値論理学として様相論理学を構成したルカシェビッチは次のように述べています。
私は二値の原理を克服しようと試みた。すなわち私は、次に示すごとき思索によって、それを行ったのである。 私は、自分が来年のある時点、たとえば12月21日の正午にワルシャワにいることは、今日においては、肯定的にも否定的にも決まっていない、と矛盾なく考えることができる。したがって、私が所定の時刻にワルシャワにいるであろうことは、可能とはいえ、必然的ではない。かかる前提のもとで、「私は来年の12月21日の正午にワルシャワにいるだろう」という言明は、今日の日において、真でも偽でもありえない。なぜなら、万一その言明が現在真であるとしたならば、そのとき、私が将来ワルシャワにいることは必然的とならざるをえず、これは前提と矛盾する。また万一その言明が現在偽であるとしたならば、そのとき私が将来ワルシャワにいることは不可能とならざるをえず、これもまた前提と矛盾するのである。
それゆえ、考察されている命題は、今日という日においては真でも偽でもなく、第三の“0”ないし偽と“1”ないし真とのいずれとも異なる値を取らなければならない。わたしはこの値を“1/2”と表すことができる。これは「まさに可能なもの」であり、第三の値として「偽」「真」に匹敵するようになるのである。『命題多値の体系についての考察』 ヤン・ルカシェーヴィッチ 『論理思想の革命』 石本新訳 東海大学出版会
ルカシェビッチは、このように、真理概念を主観と時間に依属・相関的なものと解釈しています。つまり、真偽値不明な命題も主観・時間によりある真偽値をとる可能性があるとの主張です。
そこで、この主張に則り
「あした雨が降るか降らない」 p ∨ ? p
という文を三値問題として考えてみましょう。
(以下続く)
私たちの言語化の基礎にはこのような人類としての種に共通な生理学的なレベルでの認識があルことが分かりました。
生理学的なレベルを基層として、異なったレベルに先の意味論的な認識の層があるのです。
色と対応する表現方法としての語彙を調べ、ざっと並べると、赤系統の色については以下のようになります。
「牡丹色・赤紫・マゼンダ・躑躅色・石竹色・撫子色・鴇色・一斤染・薄色・今様・苺色・チェリー・ワインレッド・ボルドー・海老色・葡萄染・紅色・紅・韓紅・深紅・退紅・薄紅・暗紅色・薔薇色・オールドローズ・ローズピンク・薄紅梅・紅梅・桃色・桜色・灰桜・ピンク・ベビーピンク・サーモンピンク・珊瑚色・ストロベリー・茜色・臙脂・蘇芳・浅蘇芳・赤・紅赤・シグナルレッド・緋色・そひ・猩々緋・浅緋・マルーン・マホガニー・桧皮色・小豆色・鳶色・印度赤・金赤・朱色・スカーレット・銀朱・洗朱・潤朱・東雲色・赤丹・丹・黄丹・真赭・赭・代赭色・錆色・べんがら色・赤銅色・煉瓦色・土器色・バーントシェンナ」『色名の由来』 江幡潤 東書選書より
ざっと列挙するだけで、これだけ存在します。
(もちろんこれ以外にもたくさんあります)
みなさんは、それぞれの色が、どんな色かを、色名だけからイメージできますか?
また、イメージされた色が人によって異なるということも容易に想像できますね。
【色名と色の対照】については下記のサイトでご確認ください。想像していた色とぴったりでしたか?
Le moineau さんのサイト
http://moineau.fc2web.com/color/color.html
↑
オススメ。
眺めているだけで心が和みます。
赤系統では上記のとおりとなりますが、茶系・黄系・青系・紫系・モノトーンについてもそれぞれ、色名は存在します。
これらは、時代の変遷によって移り変わっていくものですが、実際にどれだけのターム(語彙)があれば事足りるのかは、普段どれだけ色に接しているかによっても変わるでしょう。
色名については、例えば、「この色が朱色である」とある人が表現しても、それが真であるかは分かりません。
たとえ三属性による規定をおこなって、機械的に測定したとしても、その名称は人により異なるし、時代や文化背景によっても移り変わりうるからです。
従って、例えば 「このりんごは茜色である」という命題があったとしても、これまで検討してきたように、将来真偽が判別できる種類のものではないのです。
『色名の由来』には次のような引用もあります。 昭和55年3月28日付の各朝刊中、公開捜査の記事についての比較です。
<日本経済新聞>
「行方不明時の服装はえび茶色のコートに濃紺のセーター、茶色のブーツをはき、コールテン地のショルダーバッグをかけていた」
<朝日新聞>
「丸と角の白い模様が入った濃紺のセーター、ピンクのモヘアのカーディガン、茶色の毛の襟がついた黄緑っぽい七分コートを着て、はだ色のアメリカンブーツをはき、薄茶色のコールテン地のショルダーバッグを下げていた」
<サンケイ新聞>
「行方不明になった当時の服装は、襟に毛のついたウグイス色の七分コート、ピンクのカーディガン、濃紺のセーター、チェックのギャザースカート、茶色のアメリカンブーツというスタイルで、黄土色のショルダーバッグを持っていた」
これを表にまとめると次のようになります。
新聞記事による色の表現の違い
日経新聞【セーター】濃紺【カーディガン】? 【コート】えび茶色 【ブーツ】茶色 【バッグ】?
朝日新聞【セーター】濃紺【カーディガン】ピンク【コート】黄緑っぽい 【ブーツ】はだ色【バッグ】薄茶色
サンケイ【セーター】濃紺【カーディガン】ピンク【コート】ウグイス色 【ブーツ】茶色 【バッグ】黄土色
私たちは、例えば交通信号のように、実際は緑であっても青と認識したり表現したりすることがあります。
日本の古来の色名が明・顕・暗・漠だけであったことは前述した通りですが、この時代においては、青は、漠(あお)のなかに含まれ、緑や青を含んだ領域の「あお」を用いていたと考えられます。その名残りなのです。
前述の新聞記事に見られる色名の差異は、記者会見場という同じ場所においてしめされた同じ見本をみた記者が、その色を認識して、表現を行った結果でてきた差異です。
さらに、この新聞記事を読んだ読者は、各人ともまた様々な認識をするでしょう。
新聞記事の中に表現されている色は、差異があるとはいえ「コートはえび茶色である」は偽であるとは言えません。
同時に「コートはウグイス色である」も成り立つのです。
形式論理学を拡張して、語用論の立場から考察すると、「えび茶色」という性質が真であるためには、そのことを経験的に検証してみなければなりません。
意味論と語用論との区別は、カルナップによって行われましたが、彼の方法論的な現象主義では、感覚に起因する世界は、世界を認識するための可能な多くの方法としての言語的枠組みの中の一つに過ぎない感覚与件言語の枠組みを通して描写・認識された世界であるに過ぎないと考えるのです。
そこに得られるものは世界観ではなく一つの認識を通して得られた世界像に過ぎないのでしょう。
感覚与件の言語の枠組みだけでは、排他的にその枠組みの正当化が不可能であることをカルナップは論証したのです。
再び新聞記事の例を検証すると、「えび茶色」は記者という、日本語を解し、正常に色覚を有する人間によって「観察可能」なものであって、「コートがえび茶色」であることの真偽を記者会見場という状況下での観察に基づいて意思決定されたものです。
これは、総合経験的メタ言語の言明(語用論的言明)であると言えます。
「えび茶色」は「観察可能」という点から語用論の範囲に属し、我々が日常において対象物を「コートがえび茶色」であるという場合は、知覚内容としての「えび茶色」を指すのではなく、その「コート」という認識主観から独立した物の性質を指すものなのです。
(以下続く)
これって何色?
一つの例として、色相のうち、黄:Yを例にとって考えてます。
(どの色名を例にとってもよいけれど・・・)
マンセルの色環によると、10の大分類のうち、Yに属するものは、スペクトル波長571?579オングストロームとなっています。
また、オストワルドによれば、6の大分類および8の中分類においてYに属するものは569?584オングストロームです。
同様に、日本色彩研究所による分類では562?583オングストロームです。
580オングストロームの光は、オストワルドの分類ではYに属すけれども、マンセルによる分類ではYR10に分類されます。このように、どの色名を例にとってみても微妙に範囲が異なっているのです。
また、ある調査では「さえた黄色」を提示して、様々な人に「何色として感じるのか?」と質問したところ、同じ色でも様々な色名の回答が得られました。
概念図で表わすと、
という感じです。
人により提示された色を表現する、その認識範囲が異なるという事例といえます。
(よくあることですね)
このような色彩範疇の差違や色彩認識の差違は、異なる一般的解釈をもつ世界間における、言語表現の内包に係わる部分に起因ものといえます。
内包について、オールウド・アンデソン・ダールは次のように述べています。
「世界について語るために我々が言葉を使うことを可能にしているのは一体何なのか。(中略)この問いに関する古典的な回答は『名指し』『ラベル貼り』の関係というものである。それらは対象あるいは対象の集合を名指している。名指し関係には別に問題はなく、問題はまさに、いかにして言語内のすべてのものがある種の名前に還元できるのかというところにある、と考えられている(ことである)。われわれはここで別のアプローチの仕方を取り上げよう。それは内包を、言語を世界に結び付けるために我々が捜し求めていた一種のニカワとして用いることである。内包とは、言語表現の外延に関係づける何かに他ならない。内包は外延を決定する。われわれがある表現の内包に関する知識を持っているならば、それゆえ、その表現が外延としてもつ世界内の諸対象を選び出すための道具―御望みならば原理と言っても良い―を持っているのである。前記の用法に従えば、内包とは関数、すなわちそこに与えられた表現の外延を形作る諸対象を、おのおの可能な状況や世界に対して正確に選び出す何者かだ、ということができる。集合論や様相論理を持ち込むことによって、内包を可能世界から外延への関数へと解釈できるのである。」「もし、真理値を文の外延と考えるならば(おそらく、いささか奇妙な仮定ではあるが、外延を事実や事態と仮定するのと同じくらい優れた、しかもはるかに単純なことが分かる仮定なのである)、これこそまさに、我々が文の内包に期待していたものに他ならない。文の内包の通例の名称である命題は、それゆえ可能世界から真理値への関数なのであり、他方述語や固体明辞の内包は、それぞれ可能世界から対象の集合および対象への関数なのである。
内包のこのような分析が内包の概念を本質的に言語から独立なものとしている、ということは指摘しておく価値がある。内包はその変域(可能世界)および値域(対象と真理値)として言語外の実在物を持っている。ここで再びわれわれは真理値に結び付ける抽象的非時間的実在物であるのか、それともまた概念論者の見解のように、何らかの心的構成物であるかを決定するという古典的問題に直面する。この問題をどのような形で解くにせよ、我々はともかくも内包を言語に結び付けなければならない。これはあらゆる言語表現に対して適当な内包を我々に与えてくれる一般的解釈関数Iを導入することによって行われる。そこで次のような一般的な表示がえられる」『日常言語の論理学』 オールウド・アンデソン・ダール著 公平珠躬・野家啓一訳 産業図書 P141
以上の見解から、先ほどの色環におけるY(ここでは黄と表現する)の例を考えてみると、
I (黄)=内包黄
Int黄(Wn)=ExtWn(黄)
ここで、
Wn=指標nをもつ可能世界
I =一般的解釈関数
Int黄=黄に対する内包
Ext黄=Wnにおける黄に対する外延
一般的解釈関数は、黄に対する内包(これ自身一つの関数である)を選び出すと、その場合、黄の内包は任意の可能世界Wnに対してその世界における黄の外延を我々に与えます。そのことを表現すると
となります。
このように、オールウド・アンデソン・ダールの主張する図式を利用すると、色彩について内包と言語表現が結びつけることができます。
つまり、一般的解釈関数の違いであるマンセルの分類やオストワルドの分類といった差違が言語表現の内包に影響を与え、結果として異なった外延として認識されるという構図なのです。
(以下続く)
光の3原色は赤・緑・青に限定されたものではないということは、昨日のトピックスで述べました。
人間の進化の過程で、たまたま赤・緑・青の錐体が発達した事により光の三原色が生じたわけですが、当然のごとく、他の3つでも色の識別は可能です。
まあ、私たちは結果として赤 ・緑・青 その3つの錐体からの信号を混成させて形成して、色として認識し、その感覚を「ことば」に変換する時点で、時代的・地域的な背景によって異なる色の系統を生み出してきました。
このあたりのところが、非常に興味深い点であります。
つまり、同じような感覚器官を持ちながら、それを表現する際に、異なった表現をするという現象です。
国・地域、文化の中で、基本的な一般色名のほかに様々な固有色名を生み出し、そこから慣用句が定着し、時代とともに変遷をしていきました。
米国の人類学者Brenf Berlin, Paul Key の研究によれば、色彩言語の発達過程は次のようになります。
ここで、色相に関して、どれだけの語彙を持つかということを調べると大変興味深い結果が得られます。
例えば、ニューギニアやアフリカの一部人種では、言語にWhite, Black, Redに相当する語をもつのみです。
さらにジャワやスマトラではGreen, Yellow,Blue, Brownが加わり7種。
最も文化水準の高い人種ではさらにPurple, Pink, Orange, Grayが加わり11種となるとしています。
日本の古語においては明(あか)、顕(しろ)、暗(くろ)、漠(あお)という表現がありましたから、Berlinの研究をある程度裏付けているといえます。
しかし、色を表す語彙が少なくても、豊かな色を認識していることは、そのような時代・地域に於いても色彩感覚豊かな装飾や絵画があることから明白です。
それを表現する語彙が無いというだけです。
時代が進み、色に対する感性が高度になると、例えば室町時代のように「墨の五彩」や利休色といった微妙な色合いや、さらには「事物の数」だけ固有の色名があるような勢いとなります。
(この「事物の数」だけ固有の色名があるというのは、かえってズボラなだけのような気がしないでもないですが)
人間の能力として、実際にスペクトルの中に現れる色を人間がどの程度識別できるのか。
その答えは、120から200との見解が一般的です。
また、明度差による識別は500種くらい。
彩度による区別は70から170とされています。
この感覚的な識別能力に関しては、時代や人種によらず、ほぼ同じであると考えてよいでしょう。
後に,Paul Keyの弟子のマクダニエル(C.K.McDaniel)は,語彙化される色は,人間の生理学的な機構の反映であるとの説を提示しました。
すなわち,人間の眼というものは,白,黒を除くと赤,黄,青,緑の4色を基本的な色として知覚するようになっていて、他の色は,これら6色のいろいろの組合せからなるというものです。
彼らの主張するところは、サピア=ウォーフの仮説(言語が認識を規制する)の裏返しであり、〈認識(知覚)が言語を規制する〉ということにあります。
確かに、私たちの言語化の基礎にはこのような人類としての種に共通な生理学的なレベルでの認識があり、その認識は人類にとって普遍的であるという主張は十分に認められるものです。
生理学レベルでの認識を基層として、その上に、異なったレベルの意味論的な認識が層を成す構造になっているのです。
「青は失恋」、「赤は怒り」などというような意味をもつレベルはさらに,国・地域、文化、ひいてはその人の生い立ちに密着したレベルの認識であります。
(以下続く)
「この花は赤い・・・・」
「赤」という概念は「赤いもの」に共通の概念です。
この場合、抽象的思考作用において「赤とは、○○は赤いという個体△が共有する性質である」と分析しているわけです。
この概念は、自然数の「1」を認識する抽象的思考とは性質が異なります。
分かりやすくいえば、赤いかそうでないのかは人の主観によって異なり、その真偽のつけようがないからです。
数学的に言えば、次のようになります。
ある集合 a , b を元とする集合 {a,b} と一対一の対応がある集合を考えた場合、例えば物の数としての自然数の場合は、特殊性を排除した共通性のみを抽象すると、物の性質としての定義ができる。しかし、「赤い」の場合は、主観が入る以上、定義となり得ない・・・・・
さらに言えば
「数学的自然科学が最も強く代表している法則的普遍化認識の型、社会科学や歴史的文化科学に多く用いられている理想的ないし統一的個性化認識の型等、これら全ての現実認識を通じて、結局、自然や社会や歴史の中にある現実の感覚的事実に対して、それぞれ相応した何らかの個性の秩序づけか施されているのを見るのである。要するに、認識とは現実の感覚的事実と理性の思考的秩序との何らかの関係づけに外ならない。」 (大江精三)
ということです。
そこで、色彩感覚について、どのように感覚的事実として受け止められ、理性の思考過程の中において秩序付けられて、認識されていくのかを考察してみることにします。
色彩を系統立てて分類する方法についてはさまざまな方法がありますが、その歴史を見ていくと
■アイザック・ニュートン(1642?1727)により太陽光線をプリズムによって分解し、スペクトルとして7色程度に分解されることが見出された。
■ル・ブロン(1670?1741)により赤・黄・青の基本的なカラーチャートが作成された。
■ヘルムホルツ(1821?1894)によりさらに発展した体系が作成された。
という流れです。
色の種類はいくつあるかという事を考えると、それは、色がアナログ的に連続する性質上、理論的には無限の種類があるといえます。
無限に存在する色であるとはいえ、自然界に存在する色は、「虹の七色」に代表して表現されます。
これは上記のようにニュートンがその連続したスペクトルに7つの色を対応させたことに由来するのです。
さらに、工業的にはスペクトルを120?200程度に分類するのが一般的になっています。
これらを主要な5?8色のカテゴリーに分類して扱っているのです。
その一例を波長の範囲で表すと、赤(700nm?610nm)、橙(610?590)、黄(590?570)、緑(570?500)、青(500?450)、紫(450?400)となっています。
さて、私たちがこのような色を感じる時には、これらの光が眼のレンズを通り、網膜の視細胞(錐体)によって色として感じています。
この細胞の興奮が視神経により大脳視覚中枢に伝えられ、はじめて色として認識するのです。
人間の目の網膜のなかには、「赤」・「緑」・「青」の波長に特に対応する3種の錐体が存在します。
いわゆる光の三原色ですね。
この錐体への光の刺激が脳に送られ、脳はその信号の混ざり具合を元に様々な色を識別するのです。
光の3原色は赤・緑・青に限定されたものではなく、他の3つでも色の識別は可能でありますが、人間の進化の過程で、自然界の最も際立った原色を元に視覚系が形成されたと考えられています。
【ポイント】 光の三原色が「赤」・「緑」・「青」である必然性はなかった。たまたま人間の進化の過程でそうなっただけ。
結果として人間は、赤・緑・青に対応する錐体が発達してきました、
このことは、連続した虹のスペクトルの中に際立った色の帯をみる原因となっています。
私たちは連続したスペクトルから赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の七色を抽出し、色に関する識別を行っているのです。
【ポイント】 虹が連続した色として見えず、特定の色の帯(虹の七色など)として見えるのは、3種の錐体のため。
以下、追って、色が人間にどのように認識され、その感覚を「ことば」に変換していったかを考えていく事にしましょう。
(続く)
♪出た出た月が……盆のような月が
小学唱歌「月」の作詞者の観察眼に、月の写真で知られる写真家の白尾元理(もとまろ)さんは感心する。
月は空に平面をぺたりと張り付けたように見える。その奇妙さに、しっかり気づいていたのではないか。
たとえば、木星は違う。探査機が撮った写真を見ると周辺部は反射光が減って暗くなっている。「周辺減光」現象だ。このせいで立体的、つまり球に見える。
「月が盆のようにみえるのは、ただ丸いからではない。秘密はこれ」。清水建設の吉田哲二研究開発部長がびんに入ったさらさらの黒っぽい粉を見せてくれた。
月の表面を覆っているレゴリスと呼ばれる月の土を模したものだ。将来の月での活動に備え、水を作る実験や、工事用機械の試験のために富士山の砂などから作ったそうだ。
レゴリスは光を乱反射する性質がある。このため、真ん中でも端でも明るさがあまり変わらない。だから、月は平面に見える。
レゴリスは月ならではの産物だ。大気がほとんどないため小さい隕石(いんせき)が無数に降り、土をたたきつぶしてとがった細かい粒にする。地球なら泥になって沈むところだが、月に水はない。
光をあまり反射せず、月面全体の反射率も約7%と低い。雲や雪で白く輝く地球とは好対照だ。「月は、暗くて寂しい天体なんです」と白尾さん。
それでも満月になると急激に明るさを増す。半月の10倍にもなってまばゆいばかり。レゴリスはなかなかの演出家でもある。
http://www.be.asahi.com/be_s/20061001/20060920TROS0013A.html
月は岩で覆われたイメージがありますが、実際は、レゴリス(regolith)という細かい砂で覆われています。
堆積の厚さは比較的古い地形のところで20?30m、「海」で2?8m、新しいクレーターの周辺では数cmとみられます。
これは、新しい地形ほど砂が少なく、古い地形ほど砂が多く堆積しているということであり、宇宙からの高速微粒子が直接月面にぶつかって生成されたレゴリスが、次第に溜まっていく様子がうかがい知れます。
月は太陽の光を受けて、明るく光りますが、レゴリスによって真ん中でも周辺部でもあまり反射光量に差異が無いために、盆のように、平面的に丸く見えるというわけです。
今週末の6日は中秋の名月。
特に、今年は約19年周期で月が最も低く見える年でもあります。
虫の声を聴きながらゆっくりとお月見というのも良いですね。
写真は数年前に貞昌院で撮影した、裏山(天神山)の木々の隙間から登る満月。
本当に美しかったです。
追伸:月はチーズで出来ているというロマンがある考えも素敵です。
http://teishoin.net/blog/000183.html
貞昌院は、横浜市南部に位置していますが、近隣の寺院でグループが作られています。
これを「教区」といいます。
貞昌院が所属する「神奈川県第二宗務所第五教区」は、次の地区にある21か寺で構成されています。
(1) 横浜市泉区新橋町
(2) 横浜市瀬谷区本郷
(3) 藤沢市亀井野
(4) 鎌倉市植木
(5) 横浜市泉区岡津町
(6) 横浜市戸塚区上倉田町
(7) 横浜市戸塚区俣野町
(8) 横浜市港南区上永谷 ←貞昌院はここです
(9) 横浜市泉区下飯田町
(10)横浜市栄区鍛冶ヶ谷
(11)横浜市戸塚区川上町
(12)横浜市栄区公田町
(13)横浜市戸塚区矢部町
(14)鎌倉市岡本
(15)横浜市戸塚区東俣野町
(16)藤沢市西俣野
(17)藤沢市渡内
(18)藤沢市村岡
(19)鎌倉市岡本
(20)横浜市戸塚区川上町
(21)横浜市港南区日野中央 ※
※このうち、(21)横浜市港南区日野中央の寺院は、戦後建立された比較的新しい寺院です。
さて、この分布は横浜・瀬谷から藤沢、鎌倉までの範囲に亘っておりますが、なぜこのような分布なのか・・・・・
その理由は、市町村合併の推移を見ていくと判ります。
地図で見るとこのような感じです。
是非、最新の地図と比較してみてください。
赤く塗られた部分は横浜市。随分狭かったんですね。
また、赤線で囲まれた部分が、旧鎌倉郡のエリアであり、「神奈川県第二宗務所第五教区」の範囲となる訳です。
具体的には、武相国境(現在の横浜横須賀道路の付近)の西側、境川の東側となります。
ご存知ですか?あなたのまちの変遷図 (神奈川県のサイト)より
貞昌院の位置する上永谷は、今は横浜市港南区上永谷でありますが、
鎌倉郡永野村 ⇒ 横浜市中区(昭和11年10月1日編入) ⇒ 横浜市南区(昭和18年12月1日分割) ⇒ 横浜市港南区(昭和44年10月1日分割)
というように推移してきているわけですね。
今の市町村の状況からは、なぜ寺院のグループ分けがこのような形になっているかは見えづらくなっておりますが、市町村合併の推移を見ると、その理由が明白に見えてくるのです。
【参考】
「徳川時代の沿革、管轄、所属、石高」
本村「永野村」現永野地域は三大字共往昔、相模国東郡山の内の荘に属し永谷郷(永谷、平戸、品濃、山田、秋葉、名瀬、柏尾、舞岡)永谷村、野場村と称せられしを後(年代不詳)小坂郡に属し、天正十八年庚寅、徳川氏の所領となり、旗下彦坂小刑部、支配す。延宝年間、鎌倉郡に編貫せられ、分割して、永谷村は永谷上、永谷中、永谷下、野場村は上野庭、下野庭の両村となる。
以下・・・・
http://teishoin.sakura.ne.jp/nagano/08.html
ほっと一息。さんの地図のお話に関連した話題です。
【地図の問題】
(1)日本の海岸線の長さは何Kmでしょうか。
(2)都道府県で一番海岸線が長いのはどこでしょうか。
その答えは後ほどとして、こんな逸話があります。
20世紀初め、スペインとポルトガルが、国境線の長さをそれぞれ測量しました。
その結果
スペインの測量では 987km。
ポルトガルの測量では 1,214km。
実に200km以上の差が生じています。
この原因はなんだろう・・・ということを研究したのが、イギリスの気象学者、リチャードソンでした。
国境線にしても海岸線にしても、遠くから見る分には、単純な曲線のように見えますが、それを拡大してみた時には、だんだんと複雑に入り組んだ曲線が見えてきます。
このように、どれだけ細かい単位で測量を行ったのかにより、長さの測量結果が異なってしまうのです。
理論的には精度を極限まで上げれば、長さは無限大となってしまいます。
つまり、ポルトガルのほうが細かい精度で測定していたということになります。
リチャードソンは、この精度と得られる長さに、法則を見い出します。
例えば海岸線を r という精度で測量し、r よりも小さい入り組みの部分は無視すると、その測量された線分の長さL(r)は
L(r) = rN(r)
ここで、実際に様々な精度で測定した長さを両対数プロットすると、直線状に乗ることを発見しました。
プロットの直線の傾きを-Dfとすると
-Df=logL(r)/logr
のような法則があるのです。
(Df は、フラクタル次元)
フラクタルは、フランスの数学者ブノワ・マンデルブロが導入した幾何学の概念です。
フラクタル図形は自己相似性をもつ訳ですが、海岸線は、完全な自己相似性を持っているとはいえません。
どういうことかというと、例えば、三浦半島の海岸線を拡大しても、完全に三浦半島と同じ形は見えてこない、というように、コッホ曲線のような完全な相似形が、国境線や海岸線には見い出せないからです。
ただし、海岸線も国境線も、縮尺を変えても、曲線の特徴は、あまり変わらないため、海岸線なら海岸線の、海岸線らしい曲線であるという特徴は持っています。
完全な自己相似形ではないけれども、自己相似に近い性質を持っているということは言えそうです。
自然界の草木や、雪の結晶なども、完全な自己相似ではないけれども自己相似に近い性質をもっているということです。
つづきはこちらなどをご覧ください。
http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/paradigm/furactal.htm
さて、冒頭の答えです。
(1)の答え・・・・・・
29,751 km (米国CIA)
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9400.html
35,00 km
http://www.surfrider.jp/info/info.asp?no=46
約3万5,000 km(国土交通省)
http://www.mlit.go.jp/kowan/coast/12/-123_bunseki.htm
34,000 km(日本財団)
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2000/01293/contents/011.htm
34,000 km (建設コンサルタンツ協会)
http://www.jcca.or.jp/invitation/sihon/page2.html
34,810?(アジア太平洋地域インフラデータベース)
http://www.ap-infra.org/cgi-local/inter/country_top.pl?fnm=japan-j.htm
34,390km
http://www.ne.jp/asahi/outback/buokaburra/column/statistics01.html
約2.4万 km (北東アジア環境情報広場)
http://www.npec.or.jp/northeast_asia/social/page02.html
33,889 km
http://www.tanihama.jorne.ed.jp/area/u_about.html
ああ、やっぱりバラバラでした。
(2)の答えも、北海道とするもの、長崎県とするものがあります。
上記、どの答えも正解です。
測量精度により答えが一義的に決められないからです。
<太陽系惑星>冥王星を除外 賛成多数で最終案採択 IAUチェコのプラハで総会を開いている国際天文学連合(IAU)は最終日の24日、全体会議で惑星の定義案を議決、1930年の発見以来76年間、第9惑星の座にあった冥王星を惑星から降格する最終案を賛成多数で可決した。太陽系の惑星は一つ減って8個になった。全体会議に出席した数百人の科学者による投票で、教科書を書き換える歴史的問題が決着した。
可決された定義は、太陽系惑星を(1)太陽を周回する(2)自らの重力で球状となる(3)軌道周辺で、圧倒的に支配的な天体――と規定。「水金地火木土天海」の八つが惑星となる。軌道周辺に同規模の天体があり3番目の条件を満たさない冥王星は、惑星から外れた。
冥王星や03年に発見された冥王星より大きい2003UB313、小惑星セレスは、惑星とは異なる「矮(わい)惑星」となる。
水星から海王星までの八つを「古典的惑星」とする一方、冥王星などの矮惑星も惑星の一種とする対案も提出されたが、否決された。
惑星の定義案とは別に、冥王星を海王星以遠にある天体群の典型例と位置づけることも可決された。ただ、その名称を「冥王星系天体」とすることは否決された。IAUで名称の議論を続ける。
観測技術の進歩で冥王星周辺で新天体の発見が相次ぎ、「惑星とは何か」を巡る議論が盛んになったため、IAUは2年前に惑星の定義づくりを始めた。惑星を専門とする天文学者には最終案支持が多かったが、冥王星の社会的認知度を重視する人々など、他分野の専門家にはさまざまな見解があり、複数の案を提示して決着を図った。
◇ ◇
アニメ「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」では、冥王星は敵の前線基地が置かれたり、人間の墓地として利用されるなど、太陽系の重要な惑星として描かれた。
原作者である漫画家の松本零士さん(68)は「冥王星こそが太陽系の果てで、そこを離れることが太陽系から外宇宙に旅立つことだと描いてきた。今回の決定は、論理的には正しいのだろうが、多くの人が少年のころから抱いていた夢、心情的なものにも配慮してほしかった。心構えができていないうちに突然決まってしまった感じがする」と残念そう。そのうえで「冥王星はこれからも太陽系の一族だ」と強調し、存在感が低下しないよう何らかの形で配慮してほしいと訴えている。
▽観山正見・国立天文台長の話 他の八つの惑星とは形成過程が明らかに違う冥王星が惑星に入らなかったことは、適切な結果だ。冥王星がなくなったわけではなく、残念に思う話ではない。今回の議論の内容を国民の皆さんに正確に伝えていきたい。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060824-00000122-mai-soci
1930年2月18日にアメリカ・ローエル天文台のトンボーによって発見された冥王星は、当初考えられていた大きさが、その後の観測技術の向上と共にだんだんと小さく修正されていきました。
結果、大きさは地球の約6分の1、重さも500分の1と、月よりも小さいとされる冥王星は、やはり惑星のカテゴリーからは外されるべきでしょう。
最近は、海王星?冥王星の距離に、エッジワース・カイパーベルト天体として、冥王星に近い大きさの天体がいくつか発見されています。
したがって、冥王星を惑星としてしまうと、太陽系の惑星は数十個・・・・・・ということにもなりかねません。
その意味で、今回のIAUの決定は、妥当なものでしょう。
さて、冥王星の英語名は Pluto(プルート)ですが、ミッキーマウスの愛犬もプルートです。
プルートの誕生日は 1930年9月5日 (『ミッキーの陽気な囚人』の公開日:ただし、この時は名前は無く、1931年に初めてプルートという愛称が登場)ですから、冥王星発見から約一年ということになりますね。
これは偶然ではなく、発見されたばかりの星の名前からキャラクターの名称が付けられている訳です。
当時のアメリカで新惑星発見のニュースが如何にビックニュースであったかを示しています。
冥王星は、まだ探査機が到達したことのない魅惑の天体。
SFの世界でも、占星術の世界でも、これだけ愛着のある天体が、今回の決定によって存在感が低下することは無いと思います。
【おすすめコンテンツ】 JSTバーチャル科学館 : 惑星の旅
http://jvsc.jst.go.jp/universe/planet/index.html
7月盆の棚経2日目。
街を廻っていて駅前の建設中の東棟側のマンションのクレーンが降ろされている光景に気づきました。
以前、高層マンションで景観はどう変わるか
http://teishoin.net/blog/000394.html
の時と比べて、かなり進捗が進んでいることが分かりますね。
さて、皆さん、疑問に思ったことはありませんか?
高層ビルを建設する時に欠かせないタワークレーンは、建物が完成したときにはどうやって降ろすのだろうか・・・と。
その答えは、
石川島運搬機械株式会社のタワークレーンのひみつ
http://www.iuk.co.jp/howto/t_crane.html
に詳細に解説されています。
簡単にいうと
■クレーンを使って屋上に一回り小さなクレーンを組立てる。
■その小さなクレーンで元のクレーンを解体し地上に降ろす。
■さらに一回り小さなクレーンを組立てる。
■以下繰返し。
■人の手で分解され、エレベータで地上に降ろされる。
ということになります。
・・・・・・・・・・・・ところが・・・・・・・・・・・・
かの駅前マンションは、L字型をしており、その中の空洞部分にタワークレーンのタワーがあります。
従って、分解するまでも無く、そのまま降りてきて終了ですね。
うまく出来ているものです。
先日、一番使われる不要なもの というトピックスで、ご紹介しました、トリビア
■大本山永平寺には日本で2番目に古いエレベーターが現役で稼動している
の写真を撮ってきました。
どうですか、この威風堂々とした存在感。
このエレベーターは、大庫院の地下1階から4階までを貫くエレベーターで9人乗り。
昭和5年当時のもので、日本で2番目に古いエレベーターです。現在でもしっかりと稼働中なのです。
稼動しているエレベーターでは日本一古いとのことです。
なお、大庫院の2階は「瑞雲閣」「瑞展」などの和室や応接間があります。
3階は大講堂「菩提座」。昨年の永平寺講演会はここで開催されました。
4階には知庫寮があり、その奥を進んだところに監院寮があります。
問題 : エレベーターの中で、一番押される回数の多いボタンは何でしょう
ほとんどの人は一階から乗り込み、一階に戻るから、一階のボタンかな??
いえ、正解は「閉」ボタンです。
エレベーターに複数の人が乗っている場合、同乗している人を観察していると、停止階ごとに必ずといって良いほど「閉」ボタンを押しています。
時間を無駄にしたくないという気持ちもあるでしょうし、同乗者に対する停止階あたり数秒間の心使いかもしれません。
ところが、欧米では、この日本で一番使われている「閉」ボタン自体、付けられていないことが多いのです。
また、「閉」ボタンがあったとしても、余程のことが無い限り使用することはない。
時間に対する考え方の違いなんでしょうね。
まあ、「閉」ボタンを押すのと押さないのでは、最終目的階に到着するまでどれだけの違いがあるのか・・・・といえば、一分も違わないでしょう。
操作盤にしがみついてタイミングよく「閉」を押していくことに集中したり、余計な神経をつかうのなら、のんびりいった方がいいのかと感じます。
エレベータの「閉」ボタンは不要だと思う理由がもう一つあります。
それは、「開」「閉」ボタンのデザインが紛らわしく間違えやすいということ。
例えばドアが閉まる間際にエレベーターに乗ろうとした時に、「開」ボタンを押すべきところを間違えて「閉」ボタンを押されてしまい、ドアに挟まれたことがしばしばあります。
いろいろ研究室
http://www.geocities.jp/shuuchan56/kaiheibutton.html
によると、
Q: 三角形を組み合わせた開閉ボタンは紛らわしいと思いますか?
に対して、54%の人が「そう思う」と回答しています。
押し間違いを防ぐために
大きさに差をつけた開閉ボタン。
開閉ボタンの大きさを違えて、開ボタンを大きくしました。また、「日本人はピクトグラム(絵文字)より文字表記」が、「外国人はピクトグラム」の方が分かりやすいという調査データを反映して、それぞれに「ひらく」「とじる」の文字を表記しました。
Hitachi, Ltd
「開」「閉」ボタンのデザインについては、判りやすいデザインを工夫したり、大きさを変えたりしているようですが、抜本的な解決策として、「閉」ボタンを無くしてしまうというのも良いのではないでしょうか。
それは極論としても、少なくとも「閉」ボタンを押したとしても、数秒間押し続け、かつドア部分に障害物が無い状態をセンサーで確認できなければ動作しないよう工夫して欲しいものです。
「閉」ボタンは無くても困らないボタンなのですから。
【蛇足トリビア】
■間違って押してしまった階のボタンを取消す方法
⇒取消したい階数ボタンを連続数回押すか、数秒押し続ける
エレベーターの到着時間短縮の上で、安全性を損なわず有効性の高い豆知識です。
覚えておいて損は無いでしょう。
・・・・・・・76閉(へェ)
【蛇足トリビア2】
■大本山永平寺には日本で2番目に古いエレベーターが現役で稼動している
大庫院の地下1階から4階までを貫くエレベーターは昭和5年当時のもので、日本で2番目に古いエレベーターです。現在でもしっかりと稼働中なのです。
・・・・・・・82閉(へェ)
エレベーター突然上昇、高2男子挟まれ死亡…区民住宅
少年がエレベーターに挟まれ死亡した区民向け住宅(3日午後10時20分、東京・港区で) 3日午後7時30分ごろ、東京都港区芝1、区民向け住宅「シティハイツ竹芝」(地下2階、地上23階建て)の12階で、エレベーター出入り口の天井部分と、エレベーターの床部分との間に少年が挟まれた、と119番通報があった。
少年は、救急隊員によって約40分後に救出され、近くの病院に搬送されたが、頭の骨を折るなどして、間もなく死亡した。
警視庁捜査1課と三田署の調べによると、少年は、同住宅12階に住む都立小山台高校2年(16)。同課は、エレベーターの設計や管理などに何らかの過失があったとみて、業務上過失致死容疑で捜査を始めた。
1階からエレベーターに乗って、12階で、自転車と一緒に後ろ向きで降りようとしたところ、エレベーターがいきなり上昇を始め、前かがみの状態で自転車とともに挟まれたという。市川さんと一緒にエレベーター内にいた女性(57)は「エレベーターが勝手に動き出した」と話しているという。
同課は、エレベーターがドアを開けたまま、何らかの原因で上昇、エレベーターとともに持ち上げられ、挟まれたとみている。
エレベーターは定員28人乗りで、「シンドラーエレベータ」(本社・江東区)が1997年に製造。複数の住民によると、数年前からエレベーターが途中で停止したり、ドアが開かなくなったりするトラブルが相次いだという。20階に住む主婦(40)は「これからはエレベーターを使うのが不安です」と話した。
エレベーターは、今年4月から「エス・イー・シーエレベーター」(同・台東区)が管理しており、「4、5月の点検では、異状はなかった。原因はわからない」としている。
同住宅は、区が所有しており、一般住宅のほか、区の福祉施設などもある。区によると、事故を起こしたエレベーターについてはトラブルの報告はなかったという。武井雅昭・港区長は「心からご冥福(めいふく)をお祈りする。事実関係を含めて、情報を早急に把握したい」とコメントした。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060603i113.htm
一昨日、東邦大学医学部生理学教授・有田秀穂先生の講演を拝聴する機会がありました。
とても興味深い講演でしたので、自らの覚え書きとしてまとめてみました。
演題 『禅が脳に効く』
宗教と科学
この研究のきっかけは、生まれてオギャーと最初にする呼吸から、息を引き取る時の最後の呼吸まで、生きるために必須となる呼吸がどのようなものかを調べることだった。
しかし、次第に、生きるためではない呼吸の研究にテーマの主題が移り、呼吸が変われば心が変わる・・・
例えば坐禅を行じたときに、坐禅の呼吸方法が体と心に効くこと、これを科学的に説明できないかということを検証して来た。
結論を先に言えば、セロトニンによって坐禅の効能を説明できると言える。
釈尊は、実験家であった。
ドイツの哲学者のニーチェや板橋興宗禅師のことばに「釈迦は偉大なる生理学者だ。その教えは衛生学だ」、というものがあるが、自らの身をもって、生理学的実験を行い、苦行の局地というストレスの中に身を投じた。
また、出家する前の裕福な生活は、快についても体現していたといえる。
釈尊は、快も苦も知り尽くしたからこそ、坐禅による呼吸法がどれだけ体に効くかを知ることが出来たのであろう。
それだけに説得力があるといえる。
「弟子たちよ、入息出息を念ずることを実習するがよい。かくするならば、身体は疲れず、目も患まず、観へるままに楽しみて住み、あだなる楽しみに染まらぬことを覚えるであろう。かように入息出息法を修めるならば、大いなる果と、大いなる福利を得るであろう。かくて深く禅定に進みて、慈悲の心を得、迷いを絶ち、悟りに入るであろう」
(雑阿含経)
セロトニン神経は、一言で言えば「元気の神経」といえる。
150億の脳細胞のうち、数万個がセロトニン神経。
これは、脳の一番奥の、原始的部分にある。
役割としては、オーケストラの指揮者をイメージすると良い。
すなわち、セロトニン神経自体は、(バイオリンとかピアノのような)具体的仕事はしないが、全体の雰囲気を作り出す、全体(=心全体、筋肉、雰囲気)に影響を与える重要な役割を担っている。
極端な例だが、引篭もり、じっとしてテレビとかゲームに没頭する生活。これは、セロトニン神経を弱らせ、セロトニンの発生量を減少させてしまう。
セロトニン欠乏症はキレる、鬱を引き起こす原因となる。
・鬱病、自殺傾向
・パニック傷害
・過食症、拒食症
・慢性疲労症候群
・キレる子ども
上記の治療薬としてセロトニン再吸収阻害剤(SSRI)というものがある。
セロトニンは、発生したものはやがて再吸収されるものであるが、脳神経の活動(インパルス)が少なくなり、セロトニンの発生が少なくなると、ただでさえ少ないのに、さらにそれが再吸収されてしまい、セロトニンが不足してしまう。
これが、セロトニン欠乏症の原因であると考えている。
セロトニン再吸収阻害剤は、再吸収を防ぐ役割をするために、セロトニン不足に効果がある。
しかし、それよりはむしろ、セロトニンの発生量を増やすようにしたほうが根本的な治療になるのではないかと考える。
セロトニン神経活動は、歩行、咀嚼など、基本的運動により活性化する。
意識的なリズム運動が効果的である。
それの最たるものが、坐禅の呼吸法なのでる。
禅と弓・・・・弓道を行う人が坐禅を毎日行っていた。
心と弓の成長過程。セロトニン神経の活性化による説明が可能。
坐禅の呼吸と通常の呼吸の違いは、腹筋を使うか否かである。
通常の呼吸は横隔膜を使う。生きているための呼吸であるから、無意識に寝ている時でも呼吸が可能である。
坐禅の呼吸は、意識的に吐く(欠気一息)、これは腹筋を使う意識的な運動である。これによりセロトニン神経は活性化される。
脳波の実験により、坐禅の呼吸から4分から10分後にα波の成分が脳全体に広がるが、単純に眼を閉じたときに発生するα波と、異なるα波であると考えている。伝達の経路が異なるのである。
また、坐禅と併せて、読経もセロトニン神経を活性化させる。
読経の中では、暗証した繰り返しがセロトニン神経の活性化に良い。
セロトニン神経の活性化をもたらし、爽快な状態を作ってくれる。
最後に心の三原色を紹介する。
「心の三原色」
・ドーパミン神経 (快の情動回路)
・ノルアドレナリン神経(脳内の危機管理センター)
・セロトニン神経 (舞い上がりもせず、不安にならず、平常心をもたらす)
セロトニン神経は、ドーパミン神経、ノルアドレナリン神経を、脳内の指揮者として、抑制させるという役割を担っている。
以上、私が講演内容をメモしたものからまとめたものです。
-------------------------------------
なお、日本財団のサイトにに詳細内容が記載されております。
併せてごらんください。
脳科学を教育に活かす!Part2 「セロトニン欠乏脳」?キレる脳を鍛え直す?
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2005/00004/contents/0002.htm
大本山總持寺では、毎月25日に常照殿(じょうしょうでん)において無際大師月忌(むさいだいしがっき)法要が営まれます。
【常照殿に於いて無際大師月忌 差定】
・前後三拝
・参同契
・回向(上慈恩)
(正当十二月は九拝差定・逮夜有)
常照殿は、仏殿の左手にある放光堂(ほうこうどう)の、さらに奥にあった納骨堂です。
昭和44年に、不審火により焼失しましたが、その2年後に再建されました。
その後、耐震工事の一貫で建物は無くなりましたが、無際大師の法要が、この常照殿で営まれていたということには、特別な意味があります。
かつて常照殿に掲げられていた説明板には
「中国禅宗第8祖・石頭希遷禅師と伝えられる即身仏(ミイラ仏)が祀られています」
とありました。
けれども、実際にミイラ仏が祀られていたことを知らない方は多いのではないでしょうか。
まずは、石頭希遷大和尚(無際大師)がどのような方なのかを見てみましょう。
石頭希遷大和尚(せきとうきせん: 700-790年)は、無際大師の号でも呼ばれ、中国唐代の禅僧。六祖慧能大和尚の弟子である青原行思大和尚の弟子であります。
曹洞宗で毎日読まれる経典に『参同契(さんどうかい)』がありますが、『参同契』は石頭希遷大和尚により撰せられた経典です。
【南方禅宗の系統図】
六祖慧能┳南嶽懐譲━馬祖道一━百丈懐海┳為山霊佑━仰山慧寂 → 仰宗
┃ ┗黄薜希運━臨済義玄 → 臨済宗
┗青原行思━石頭希遷┳薬山惟厳...洞山良介━曹山本寂 → 曹洞宗
┗天皇道悟...雪峰義存┳雲門文偃 → 雲門宗
┗玄沙師備 → 法眼宗
達磨大師によって現在の中国に伝えられた仏法の流れが、「中国禅」として確立したのは六祖慧能大和尚の時代といえます。
上図のように、慧能大和尚から青原行思大和尚と南嶽懐譲大和尚に分かれ、それぞれが曹洞宗、臨済宗として日本に伝わっています。
さて、このような重要な祖師のミイラ仏が何故大本山總持寺に祀られているのか。
その理由については『日本のミイラ仏』 松本昭著 臨川書店 に記載されています。
それをまとめると次のようになります。
■石頭希遷大和尚は、湖南省南岳(衡山)の南台寺で790年に91歳で入寂。勅命で無際大師と謚された。遺体はミイラ仏とされ、湖南省の寺院に安置された。
■辛亥革命(1911)の時にミイラ仏を祀った寺が革命軍により焼かれたが、石頭希遷大和尚の研究家・山崎彪氏が火の中からミイラ仏を救い出し、三井物産の船で日本に運んだ。
■山崎彪氏は「大師奉讃会」を結成。日本各地でミイラ仏の御開帳を行い、その一環として大正博覧会(大正5年)にも出品された。その折の絵葉書は現存。
■「大師奉讃会」の平野氏によりミイラ仏は昭和5年に青梅市の山寺に祀られ、山名を石頭山とした。
■戦時中、このミイラ仏を祀った寺は陸軍の結核病棟となり、石頭山は荒廃した。
⇒現在、石頭山の場所には「太陽聖髪教団」という宗教法人が設立され、天寿塔(納骨堂)が建られています。
■戦後、松本昭氏が平野氏の息子からミイラ仏を譲り受け、日本ミイラ研究グループのものとして早稲田大学・安藤更生教授の研究室に安置された。
■人類学者・小片保博士の鑑定により、「頬と膝の辺に漆布を貼った断片が残っており、人類学的にみても、長頭で中国人の相当古い時代のミイラと思われる」とされた。漆布を貼るのは、中国独自のミイラ製造法で、他国にはその例がない。
■その後曹洞宗大本山總持寺がこの事実を知り、副貫首であった乙川瑾英禅師が再三再四松本氏に要請し、昭和50年より大本山總持寺常照殿に永久に祀られることになった。
・・・というように、実にドラマチックな歴史があったのですね。
『参同契』
竺土大仙の心、東西密に相附す、人根に利鈍あり、道に南北の祖なし、霊源明に皓潔たり、
支派暗に流注す、事を執するも元これ迷い、理に契うも亦悟にあらず、......
『参同契』の意味は
『参』=千差万別などの意とそれが常に変転極まりなき状態の現象界(現実)
『同』=同一、同等、合同、和同など・・・差別・区別が無い不二一如、不二同体、本来同根一体であるという実相真理
『契』=諸法と実相が契んで融和すること
『参同契』こそ、曹洞宗の哲理の根源だとされます。
霊源 ←→ 支派
明 ←→ 暗
事 ←→ 理
という対照的な言葉を用いて、宇宙人生の本来は昏冥として平等な存在であるという原理と、その一面、顕然として差別ある様相を語って、共に真理であることを示しています。
また、石頭希遷大和尚の教えを発展させ確固たるものにしたのが洞山良介大和尚(807-869年)であり、『宝鏡三昧』という経典をまとめました。
曹洞宗門では、『参同契』と『宝鏡三昧』を共に重んじて、続けて読経することが多いのです。
【ダイヤモンド富士の定義】
■ダイヤモンド富士が、手前の湖面に映って逆さ富士となり、二つのダイヤモンドが輝く状態(元来の定義)
↓
■富士山頂から太陽が出る瞬間、まるでダイヤモンドが光り輝くような光彩が見られる状態
↓
■太陽の一部が山頂の一角にさしかかっている状態(広義のダイヤモンド富士)
ということで、今は富士山頂に太陽が輝く状態をダイヤモンド富士ということが一般的になっています。
「ダイヤモンド富士」、高尾山頂から100人が撮影東京都八王子市の高尾山頂(599メートル)で20日、約55キロ離れた富士山の頂に沈む太陽が輝く「ダイヤモンド富士」と呼ばれる現象が見られた。
日の出・日の入りの際に観察できる「ダイヤモンド富士」は、場所によって見える時期が異なり、富士山の東北東にある高尾山からは、冬至前後の20?25日に眺められる。
この日は、雲一つない絶好の撮影日和。午後4時10分ごろ、夕日が富士山頂に重なり、鮮やかにきらめくと、約100人の写真愛好家が一斉にカメラのシャッター音を響かせていた。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20051220i519.htm
当然ながら、ダイヤモンド富士には、日の出の際に見られるものと、日の入りの際に見られるものの2通りがあります。
富士山の東側の地域では、日の入のダイヤモンド富士になる訳ですね。
では、このダイヤモンド富士、いったい何時に見られるのでしょうか。
パソコンがあれば、カシミールというソフトで簡単にシミュレーションできます。便利ですね。
ということで、ここ港南区上永谷の天神山からのダイヤモンド富士がみられる日時を計算してみました。
天神山は
北緯 35度24分10.33秒
東経139度34分13.49秒
ですから、これを元に来年の日没をシミュレーションしてみます。
2006年3月17日、午後17時34分にみられるはずという結果が出ました。
12月24日のトピックス、上永谷からの富士山の写真に合成してみましょう。
元写真:http://teishoin.net/blog/000316.html
来年の3月17日、晴れていればこのようなダイヤモンド富士が見られるはずです。
■貞昌院の裏山からは、彼岸の入りを迎えるダイヤモンド富士を見ることができることがわかりました。
来年の彼岸の入りは、3月18日。
お彼岸のトリビアも併せてご参照ください。
年の瀬も迫ってきました。だんだんと慌しさを実感するようになった今日この頃です。
さて、年の瀬には、本屋さんに数多くの「易断」「運勢暦」などが平積みされるようになります。
この本をパラパラと開いてみると、裏表紙あたりに、女神様の絵が描かれています。
この神様が、歳徳神であり、その神様がいらっしゃる方角は、「明の方(あけのかた)」もしくは「恵方(えほう)」と呼ばれるようになりました。この方向は、全ての災いを取り除き、吉をもたらすと信じられてきました。
歳徳神の由来については多くの説があります。須佐之男神(=素戔嗚尊 すさのおのみこと)の妃・櫛稲田姫(くしなだひめ)という説は『内伝』(ほき)に「歳徳頗梨采女也、八将神母也、容顔美麗忍辱慈之躰也」とあるのが根拠ですが、異論もあるようで頗梨采女(はりさいじょ)は牛頭天皇の后とも伝えられています。 いずれにせよ「魔訶陀国(印度)から南海の沙竭羅と呼ばれる竜宮に住む竜王の三女で、頗梨釆女と呼ばれ、「容貌は美麗で、忍辱と慈悲を体現している。」という意味の内容です。
歳徳神はなににつけても神秘的な作用をおよぼすとされ、歳徳神のいる方位を選んで家屋の建築・造作・結婚・移転・取引などをおこなえばすべて吉とされます。
では、どの方角が吉をもたらす「恵方」なのか。
歳徳神様はきまぐれで、毎年そのいらっしゃる方角を変えます。
また、その方角は、それぞれの人から見た方向ですから、相対的なものであるということが特徴的です。
西暦年の末尾 | 干支 | 恵方の方角 | |
4 または 9 | 甲・己の年 | 甲(寅と卯の間) | 東北東 |
0 または 5 | 乙・庚の年 | 庚(申と酉の間) | 西南西 |
1 または 6 | 丙・辛の年 | 丙(巳と午の間) | 南南東 |
2 または 7 | 丁・壬の年 | 壬(亥と子の間) | 北北西 |
3 または 8 | 戊・癸の年 | 丙(巳と午の間) | 南南東 |
ということで、今年の恵方は「西南西」、来年の恵方は「南南東」となります。
恵方といえば、節分に行われる太巻き寿司の「丸かぶり」という風習があります。
恵方巻(えほうまき)
節分に巻き寿司を食べる風習は、福を巻き込むという意味と、縁を切らないという意味が込められ、恵方(えほう)に向かって巻き寿司を丸かぶりするようになった。
節分に巻き寿司を食べる風習は、主に関西地方で行われていたものだが、大阪海苔問屋協同組合が道頓堀で行った「巻き寿司のまるかぶり」の行事をマスコミが取り上げ、それを見た全国の食品メーカーが便乗し全国へ広まっていった。
【語源由来辞典】
http://gogen-allguide.com/se/setsubun.html
とあるように、もともと関西での風習が、ごく最近になって全国的に流行するまでになりました。
全国に広がる 節分の“恵方巻き”
大々的な“恵方巻き”の事前予約・告知を行うなど、流通各社がその普及に力を入れていることもあり、“恵方巻き”を知っている人の割合は全国で02年53%から04年は77%へとアップ。特に関東以北では、最近に知った人という人が15%もおり、発祥の地・近畿の2%と比べると高く、関東以北の認知率のアップが“恵方巻き”市場を牽引していることがうかがえます。
また、喫食率をみると、「“恵方巻き”を知ってはいるが、食べたことがない」人が、まだまだ多いことがわかります。特に、最近知った人の多い関東以北では、今後“恵方巻き”に挑戦する人が増えると予測され、更なる市場拡大の可能性があります。
関西発の食習慣ですが、いずれは地域性にかかわらない、共通の行事食となる日も近いのではないでしょうか。
http://www.mizkan.co.jp/company/newsrelease/2005news/050127_01.html
私は、マスコミというより、コンビニエンスストアの大々的な宣伝による効果の方が大きいと思います。
今年の節分も、 セブンイレブン 丸かぶり寿司キャンペーン のようなコマーシャルが節分の直前までかなり集中的に流されていた記憶があります。
幸せを求める心は、どの時代もどの地域も同じなのですね。
生まれてから死に至るまで、人の一生の長さをあらわすことばに、享年とか行年というものがあります。
お位牌や、墓石によく刻んであることばですね。
行年(ぎょうねん)生まれてから経た年数。特に仏教語というわけではない。例えば、『荘子』天運に「孔子、行年五十有一にして道を聞かず」とある。日本ではしばしば<享年>と同一視し、天から享けた寿命の年数、亡くなった時の年齢を指す。なお、<行年書>は、書画の落款に行年と氏名を記したもの。
「園寺の長吏に補せられて、寺務年久しく、行年七十五にして滅せられけり」『粉河寺縁起』
岩波 仏教辞典 岩波書店・中村元 他編より
このように、行年・享年とは、「天・大自然から享(う)けた年数」という意味で、この世に存在した年数のことです。
また行年とは「この世で修行した年数」の意味で、すなわち娑婆世界に於いて修行した年数という意味としても用いられたりします。
結論としては、同じ長さを指し、通常は次に述べる方法で計算しますが、この年数が数え年と、かなりの確率で一致しますから享年=数え年という誤解も生じてきます。
もちろん、慣習により実年齢で記載する場合もありますので、その点は予めご了解ください。
さて、数え年の数え方ですが、昭和25年12月22日に「年齢計算ニ関スル法律」が施行されるまで使用されていた数え年の計算方法、
【生れた年を1歳とし、以後、正月元旦毎に1歳ずつ加えて数える】
という方法をとります。
対して、享年(行年)は、
【誕生日の十月十日前の日から、死を迎えるまでの年を数えたもの】
なのです。
どういうことかお分かりですね。
すなわち、精子と卵子が出会い受精し、いのちが誕生した瞬間から、一人の「人間」として捉え、その瞬間から享年・行年を数えることが正式な数え方なのです。
(繰返しますが、数え方に慣例がある場合はそちらを優先しますのでご了承ください)
ちょっと判りづらいと思いますので、図にしてみました。
参考までに、法律上では
民法 第3条 私権の享有は、出生に始まる。 ※出生=生きている胎児が母体から全部外に出たとき
とあり、胎児が体内にあるうちは、人としては扱われません。
胎児には人権も何もないのです。
蛇足になりますが、享年=誕生日から十月十日前の日から、死を迎えるまでの年を数えたものというのは、実は科学的には正確ではありません。
妊娠期間の数え方は、WHO(世界保健機構)によると、次の通りです。
・最終月経初日を妊娠0週0日とし、順次妊娠日数、妊娠週数を計算する。
・正常妊娠持続日数は280日とする
・28日を妊娠歴の1ヶ月と定め、妊娠持続を10ヶ月とする
・7日を一週と定め、妊娠持続を40週とする
・妊娠満週数で数えることとする(妊娠月数のみは従来の慣用により「かぞえ」が用いられることがある)
すなわち、正確にいのちが誕生した日というのは、誕生日から280日引いた日(この日は月経初日)から排卵日までの日数と、受精に至るまでの期間を考慮しなければなりませんから、通常は二週間ほど短く(十月十日ではなく、265日くらい)しないといけないかもしれませんね。
いずれにせよ、大自然(大宇宙)から私たちが誕生して、そしてまた大自然に帰っていく、その意味が享年・行年に込められているのです。
享年・行年=【この世に「生」を受けた日から、死を迎えるまでの年を数えたもの】
いのちが誕生した瞬間から、一人の「人間」として捉える。そして、一生を全うして、死を迎え亡くなってから四十九日までの、新しいほとけさまには戒名の前に「新帰元(しんきげん)」=あたらしく、もとに かえる と記載される・・・・
大自然(大宇宙)から私たちが誕生して、そしてまた大自然に帰っていく・・・・・素晴らしい考え方ですね。
【関連トピックス】
http://teishoin.net/blog/000123.html
今日の横浜は、台風の影響で、晴れ間が見えたり土砂降りになったり目まぐるしい天気でした。
台風14号はナービーと名づけられています。
この台風の名前の付け方について、仲間内でちょっと話題になっていましたので調べてみました。
台風には従来、米国が英語名(人名)を付けていましたが、北西太平洋領域で発生する台風防災に関する各国の政府間組織である台風委員会(日本ほか14カ国が加盟)は、平成12年(2000年)から、北西太平洋領域で発生する台風には同領域内で用いられている固有の名前(加盟国の言葉で動植物や自然現象に関係する名前)をつけることになりました。 平成12年の台風第1号にカンボジアで「象」を意味する「ダムレイ」の名前が付けられ、以後、発生順にあらかじめ用意された140個の名前を順番に用いて、その後再び「ダムレイ」に戻ります。台風の年間発生数の平年値は26.7個ですので、おおむね5年で台風の名前が一巡することになります。
ということで、今回大きな被害をもたらした台風14号は「ナービー」(韓国語)Nabi :ちょう(蝶)ですから、次の15号は「カーヌン」(タイ語)というわけですね。
しかし、日本名に選ばれた名前は、全て星座に由来するものですが、もう少し台風らしい名前を選ぶ事は出来なかったのでしょうか?
テンビン、ヤギ、ウサギ、カジキ、カンムリ、クジラ、コップ、コンパス、ワシ・・・・・
まもなくお盆(旧盆)の時期を迎えます。
お盆については、まず、こちらをご覧ください。
お盆は、古来より各家庭で毎年行われており、日本人の風物詩としてこれほど生活に密着した仏教行事はないでしょう。しかし、一方で地域差や各家庭によって様々な形式が見られるのです。それは、長年に渡る幾多の変遷があったからです。
そのような中で、お盆の行事に関して、お寺によく質問される問題を列記してみたいと思います。
1.新盆と旧盆
最初に、お盆を「新盆=7月盆」で行うのか「旧盆=8月盆」で行なうかという質問です。これは、まず御盆の元来の時期を知らなければなりません。
インドの仏教教団が、雨期に集団で修行を行なった際、その終わりの日に阿難尊者が亡き母のために修行中の僧侶の供養を行ったのが、その始まりといわれています。ですから、この安居とよばれる集団修行の最後の日、つまり7月15日に行なうのが正式でした。しかも、この時期は、日本では農閑期でもあり、古来から伝わる祖霊信仰と結びつき、仏教伝来と同時に盛んに行われるようになりました。
ところが、これは旧暦と呼ばれる「太陰暦」の7月で、明治以降の新暦「太陽暦」では一月遅れの8月に該当します。
多くの農家では、田の仕事が忙しい7月ではなく、一段落つく8月のお盆を「旧暦」のまま行う伝統が続いていたのです。
近年では、都会に住んでいるので「新盆」で行い、夏休みの取れる8月には田舎で「旧盆」を迎える方も多いようです。
2、お盆棚の祀り方
御先祖様を迎えるためにお盆棚(精霊棚)を作りますが、仏壇で祀ってはいけないのですか、と質問されます。
皆様は、各御寺院で「施食会(施餓鬼会)法要」を行うとき、大きな精霊棚を見たことがあるでしょうか。各家庭に準備する物は、あの棚を小さくした物が基本となります。古くは、縁側に机を出して、まこも等を掛け、竹を正面に立てたりしました。縁側の無い家庭も増えましたので、部屋の隅、または仏壇の脇などに作る方もいます。
また、仏壇の前に小さな、机を出して祀ったり、仏壇をそのまま利用する場合もあります。
それぞれの家庭の事情もありますので、必ずこうしなければならない、ということはありません。要は、御先祖様を迎える気持ちと、そのための準備をしっかりと行う事が中心なのであり、その形式に引きずられる心配は無用です。
お盆棚の実例につきましては、T寺さんのブログが参考になります。
3、迎え火
迎え火の焚き方についてです。
時期は、12または13日の黄昏時と言うのが一般的です。玄関先において、麻幹(おがら)を焚きます。また、墓前で焚いたり、墓地まで提灯を持って迎えに行く地方もあります。いずれにせよ、御先祖様が帰ってくる道を間違えないようにという意味で焚きます。
さて、最近では団地やマンション住まいで迎え火が焚けない、という話を聞きます。火災の危険が有りますので、無理にとは申しませんが、素焼きの鉢(ほうろく)等を用意して少量の麻幹で結構ですから、迎える気持ちを表してみてはいかがでしょうか。
4、送り火
次に送り火についてです。
この時期に関しては、地域差がありますが、このあたりでは、15日の夕方という風習が多いようです。また、京都の大文字焼きに代表されるように16日の夜という地方も多いですし、15日の深夜という場合もあります。このように送り火の時期に関しては様々ですので、その御家庭の伝統を重視するのがよいでしょう。
また、迎え火と同様に麻幹を焚きますが、送り提灯と言って、墓地までお盆棚に掲げた提灯や灯籠をお供えに行く地域もあります。さらに、灯籠流し(精霊流し)も送り火の一種です。
5、お供え物
お供え物で代表的なのが、ナスの牛とキュウリの馬でしょう。これは、御先祖様の乗り物として、迎え火の時に玄関先に用意し、焚いた後でお盆棚まで持ってきます。さらに送り火の時に外に出します。
その他、灯明に模したホオズキを供えたり、季節の野菜・果物等をお供えします。
この様な物を供えなければならないという決まりは特にありません。仏様の喜ぶ物、好きだった物をお供えし、その感謝の気持ちを表しましょう。
* * * * *
お盆の諸行事に関する様々を述べてみました。しかし、地域や御家庭、寺院によって様々な考え方や風習があります。分からないことは、お寺に気軽に御相談下さい。また、その家や地域の伝統やしきたりも大事にして頂ければと思います。
トンパ文字って知っていますか?
トンパ文字は、実際に使われている生きた文字の中で、唯一かつ最後の象形文字といわれています。
中国雲南省の奥地に住むナシ族によって現在も使われている象形文字が、このトンパ文字です。
トンパ文字は神聖な文字で、主に占いや信仰の記録に使われます。
デザイン性の高い文字は、見ているだけで楽しくなるとてもユニークな文字です。
最近は、このデザイン性に注目され、日本でも数年前から流行しています。
まるで携帯の絵文字を扱うように、フィーリングで意思を伝達できる魅力が受けているのかもしれませんね。
トンパ文字については下記サイトを御参照ください。
■超漢字トンパサイト
中国雲南省に住んでいるナシ(納西)族のあいだで、なんと約1000年も前から使われ続けている、世界でたったひとつの生きている象形文字。それが「トンパ(東巴)文字」なんだ。「トンパ」というのは、そのナシ族の中の、祭司とか歴史を記録する書記官にあたる人たちのことで、結婚式やお葬式、病気の時のおはらい、占いなどの場面で活躍しているんだよ。
このトンパが、村の人々に神話や説話を話して聞かせるために、トンパ文字でその物語の内容を書き記しておいたんだって。象形文字っていうと、エジプトのヒエログリフとか、漢字のもとになった甲骨文字が有名だけど、トンパ文字はより絵文字に近いから、一目見ただけで、文字の意味を推測できるのが魅力なんだよ。
さて、このような楽しいトンパ文字で実際に文章を作ってみることができるトンパボードを作ってみました。
トンパ文字で遊んでみてください。
【使用方法】右の文字を左クリックで選択、左のボードの好きな位置にドラッグ&ドロップするだけ。
※大きいボードで遊んでみたい方は こちらをクリック ください。
※適当に作ったFLASH、しかも、文字はマウスで描いていますので、その点はご容赦ください :-)
ソメイヨシノは、緑の若葉が出る前に、木全体を覆うようにみごとな淡いピンク色の花をつけます。
オオシマザクラとエドヒガンザクラの交配によって生まれたものが、このソメイヨシノです。
日本の国花でもありますね。
ソメイヨシノと言うけれど… 名は吉野実は江戸っ子
http://www.asahi.com/kansai/densetsu/OSK200503040025.html
このように、ソメイヨシノは交配された植物ですので、いわゆるクローンといえます。
つまり、実をつけることはあっても、その実からは芽が出てきません。
一代限りの樹なのですね。
したがって現在桜の名所に見事な花を咲かせるソメイヨシノは、一本の原木から、挿木や接木によって増やされたもの(いわゆるクローン)です。
このことは、遺伝子が全く同じ樹が各地に植えてあるということでもあり、その一斉に咲く咲き方、散り方、ソメイヨシノであれば全国まったく同一であるわけですね。
花見は元来、梅などを鑑賞するものだったそうですが、桜にその座を奪われる事になった主因は、このソメイヨシノ独特の咲き方にあると思うのです。
数十年前には、ソメイヨシノの植樹がかなり盛んに行われました。
その結果、桜の名所が全国に誕生したのですが、このソメイヨシノはクローンがゆえに、その寿命の短さが懸念されています。
通常のヤマザクラなどは、何百年何千年もの寿命がありますが、ソメイヨシノは60年程度しか寿命が無いといわれています。
これが本当だとすると、あと何十年かすると、桜の名所の光景が一変してしまう可能性もあります。
つまり、桜の名所を維持していくためには、定期的に若木を植樹して、次の世代(といっても同じ遺伝子のクローンですが)を育てていく必要があるのかもしれません。
貞昌院の裏山は、嘗て桜の名所でありましたが、戦時中に一旦畑になり、その後杉が植林されています。
近年、数百本単位で様々な種類の桜を植樹していますが、桜山を後世に残すという意味では、却って良かったのかもしれません。
全国の桜の名所が、いつまでもその光景を残してくれますように。
【おすすめの関連図書】
桜が創った「日本」―ソメイヨシノ起源への旅 佐藤 俊樹 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4004309360/intermezzo-22/249-7049994-3834760
日本のサクラが死んでゆく ソメイヨシノの寿命に挑む男たち 平塚晶人(著)
http://www.rakuten.co.jp/net-poo/449640/603744/
【関連トピックス】
貞昌院花いっぱい運動
http://teishoin.net/blog/000061.html
境内の芝生の中に、ポツリポツリとネジバナが咲いています。
ごくありふれた、いわば雑草の類ですが、ランの仲間だけあって近くでよく見ると本当に美しい花です。
ネジバナは文字通り花が巻いて咲くのですが、この写真のように、巻き方が逆になっていたりしていて、巻き方には決まりが無いことが分かります。
ところで、この写真のネジバナ、どっちが右巻きで、どっちが左巻きなんでしょうか。
いろいろと調べてみると、右巻き、左巻きの呼び方は、人によって違うようです。
感覚的には、つる性の植物が、根っこのほうから見て右回り(時計回り)にのびていく巻き方を右巻きと呼ぶのが自然のように感じます。
実際にもそう呼んでいる図鑑の方が多いようです。
けれども、この、右巻きという定義は、上から見ると、当然左回りになります。つまり、反時計回りです。
また、つるが左へ、左へと成長すると、上から見て左回りになりますから、こちらが自然と感じる人もいるでしょう。
視点により巻き方の呼び方が、まったく逆に表現されており、その使い方が統一されておらず、混同されているわけです。
(書いていて私も混乱してきました)
ここでは、便宜上、根っこから見て、右回りに伸びるものを右巻きとして話を進めます。
右巻きと左巻きは、ほとんどの場合は植物の種類により決まります。
具体的には次のような感じです。
【根から見て右巻き】
ヤマフジ・ナツフジ・クズ・ツルマメ・アケビ・ミツバアケビ・ムベ・アサガオ・ネナシカズラ・ヒルガオ・マタタビ・キウイフルーツ・アオツヅラフジ・ハスノハカズラ・スナヅル・ヤマノイモ・ウマノスズクサ・ツルニンジン・クロヅル・クロキタカズラなど
【根から見て左巻き】
フジ・スイカズラ・チョウセンゴミシ・マツブサ・ヘクソカズラ・カナムグラ・ホップ・カラハナソウ・ツルリンドウ・バアソブ・オニドコロなど
さて、冒頭にご紹介したとおり、ネジバナに限ってはこれには当てはまらないのです。
自然界には、巻き方の方向が定まった植物は多いのですが、ネジバナに限っては、まったく気まぐれのようです。
まったく巻かないネジバナもあるというのが面白いですね。
この、ネジバナの巻き方については、中学生の研究小論がありますのでご紹介します。
県知事賞
上越市立直江津中学校3年 「ネジバナのねじれに関する研究」
http://www.niigata-nippo.com/ikiwaku/2003/work/4.pdf
以前、六曜についての考察を行いました。
http://teishoin.net/blog/000019.html
今回は、現在もっとも使われている七曜について見てみましょう。
【七曜の歴史】
歴史上、最初にみられるのは、紀元前19世紀、メソポタミアの統一国家・古代のバビロニアで、占星術師が週のそれぞれの日に、太陽と月、そして惑星の神の名をあてはめていったことが始まりのようです。天体信仰により、5惑星+日月を重要な神として祭っていたことによるわけです。
日、月は言うまでもなく、以下次のように続きます
火曜日 Tiw=軍神
水曜日 Woden=主神
木曜日 Thor=雷神
金曜日 Freya=愛と美と豊穣の女神
土曜日 Saturnus=農耕神
古代バビロニアでは天文学の知識もかなり進んでいました。
天体の観測の中で、きれいな日周運動をする恒星の他に、この動きに当てはまらない動きをする星をいくつか見つけます。
それが、太陽、月、水星、金星、火星、木星、土星 です。
この7つの天体を順番に日にあてはめ、現在のような7つの区切りが出来たわけです。
次に七曜の名前と順序についてですが
ローマ人は、七つの惑星が順ぐりに毎日の最初の1時間を「支配する」と考えたが、われわれになじみぶかい1週間の曜日は、それらの惑星の順番に由来する。
当時の天文学者は、地上からの推定距離による惑星の「順位」を利用し、それぞれの惑星が地上の出来事に及ぼす「影響力」を計算した。
彼らが信じていたところでは、各惑星は 1 時間だけ支配力をふるい、そのあとの1時間はそれに次いで地球に近い惑星に支配がゆだねられる。
このようにして、七つの惑星すべてが順番に支配力をふるうのである。七時間かかて一巡すると、この惑星の支配は最初からまったく同じ順序でくりかえされることになっていた。
したがって、それぞれの日を「支配する」惑星は、その日の第1時間をつかさどる惑星ということになり、こうして週の曜日は最初の1 時間を支配する惑星の名で呼ばれるようになった。このような算定方法から、誰でも知っている現行の順序が生まれたのである。
D、バスティン「大発見(1)」集英社文庫 p. 43
当時の宇宙観は、天動説(プトレマイオス体系)が定説となっていましたから、それに基づくものとなっています。
7つの天体(太陽、月、水星、金星、火星、木星、土星)の動きや位置を一応数学的に説明できることから、天動説は16世紀までヨーロッパの宇宙観を支配してきました。
「支配する」惑星をプトレマイオス体系を元に影響力を当時考えられていた天文学の知識から計算し、その影響力の少ない順番(地球から遠い順)で並べています。
その順番は以下のようになります。
(1)土星 (2)木星 (3)火星 (4)太陽 (5)金星 (6)水星 (7)月
・・・・・ん?
曜日の並びと違いますね。
ここで、「最初の1時間を支配」ということがポイントになってきます。
週の初めを仮に土曜日とすると、最初の1時間を土星、次の1時間を木星が支配していきます。
・・・・すると、1日は24時間ですから、1日目は24÷7=3あまり3で、火星までで終わり。
次の日の1時間目は、太陽から始まりますね。
同様に、1日ごとに3づつ進んでいきますから、土、日、月、火、水、木、金、そして土の順番となりました。
【では、週の始まりは何曜日?】
グーグルでイメージ検索してみると
http://images.google.com/images?q=calendar&hl=ja&lr=&rls=GGLD,GGLD:2003-50,GGLD:en&sa=N&tab=wi
やはり、日曜日で始まっているものが多いようです。
このブログのカレンダーもそうなってますね。
日曜日が休日という習慣はキリスト教の「神は天地創造に6日を費やし、最後の1日を安息日とした」により広まりましたし、イエスが日曜日の朝復活したとの伝承により、日曜日を週の始めとすることが多いようです。
ところが、
あんそく-にち 4 【安息日】 〔「あんそくじつ」「あんそくび」とも〕 (1)ユダヤ教で一週の七日目の聖日。現在の金曜の日没から土曜の日没まで。一切の業務・労働を停止し、休息をとる。 (2)キリスト教で、日曜日。仕事を休み、儀式を行う。イエスが日曜日の朝復活したとの伝承に起因する。 大辞林 第二版 (三省堂)
このように、安息日は宗教によって異なり、イスラム教が金曜日、ユダヤ教が土曜日、キリスト教が日曜日です。なお、イスラム教・ユダヤ教の1日はキリスト教の暦でいうところの前日の日没から始まり、その日の日没で終わります。
どこに週の始めを持って来るのかは、習慣によってある程度ばらつぎがあり、普遍的な決まりはないようですね。
辞書を見てもばらばらです。
【週末】 一週間の末。土曜日から日曜日にかけてをいう。ウイークエンド。〔金曜日を含めていうこともある〕【週明け】 新しい週に入ること。普通、月曜日をいう。
【週】 日・月・火・水・木・金・土の七日を一区切りとした日時の単位。一週間。
【週間】 (1)一週の間。すなわち日曜日から土曜日までの七日間。週。
大辞林 第二版 (三省堂)
【week】1 a : any of a series of 7-day cycles used in various calendars; especially : a 7-day cycle beginning on Sunday and ending on Saturday
【国際標準化機関(ISO)】A week begins with a Monday・・・・
ISO 8601:1988 Date/Time Representations
さらに、日本のカレンダーで日曜日始まりが多いのは、宗教的な意味合いの他に、単純にデザイン的な要素で決められていることもあるようです。
日曜始まり、玉横並びのルールほとんどのカレンダーが玉は横並び、日曜始まりになっています。
縦並びの数字を考えてみて下さい。
仮にデザイン的にうまく配列できたとしても、人間の目は横の視野を見るほうが得意です。
玉デザインの、横並びは人間の目にとって自然な運びなのですね。
日曜始まりはどうでしょうか。
ビジネス手帳には月曜始まりのものがありますが、カレンダーはほとんど日曜始まりです。
これは長年の利用者の慣れによるものと思われます。
一週間の真中は水曜日という感覚が身についていますよね。
使いにくいカレンダーは生き残れないということでしょうか。
七曜の起源をたどれば日曜始まりにたどり着きますが、それとは別にデザイン的な意味もあるようです。
土曜と日曜を色変えするなら、ちょうど平日をサンドするような感じになりますね。
暦.com
最近は週休二日も多くなり、土日を連続して休みとすることが多くなりました。
会社でも学校でも同様です。
ましてや、寺院の場合は元々土日に様々な行事や法事などが集中します。
そこで、声を大にして言いたい!
固定概念に縛られず、週の始めは月曜日としたほうが、ずっと便利だと思うのです。
・・・と、このブログを書きながら、ふと子どもの学習教材に目をやると、月曜日始まりになっているではないですか。
やはり、月曜日始まりのカレンダーは便利です。
ぜひぜひ月曜日始まりのカレンダーが標準になって欲しいものです。
追記
日本に七曜をもたらしたのは弘法大師と言われています。
宿曜経のなかに、七曜の記述があり、七曜が取り入れられたというものです。
西洋の七曜と独自に、日本において七曜の計算がされていきました。
その後、1000年の時を経て、西洋の暦と再び出合った日本の七曜は、一日の狂いもなくぴったり合致していたということです。
六曜もそうですが、七曜も大切に受継がれてきたという事実に驚かされます。
今日は彼岸の入りです。
春分の日(20日)を中心とした一週間が、彼岸となります。
このあたりは、お彼岸のトリビア(1)をご参照ください。
この行事は、日本独自のもので、聖徳太子の時代に始まり、平安時代初期から朝廷で行われ、江戸時代に年中行事化したものです。
彼岸とは、この世(此岸)に対して、悟りの岸(悟りの世界)であり、仏道精進の意とも解されます。
また、彼岸の時期には太陽が真西に沈みますが、この西に沈む太陽を通して西方浄土を観じる、観無量寿経の「日想感」と、日本の古来からの先祖崇拝とが結びついて、日本独自の彼岸の行事が形成されたといわれています。
参考:『岩波仏教辞典』(中村元 他編)岩波書店
前述したように、聖徳太子の時代から始まった彼岸は、蜻蛉日記や源氏物語などにも「彼岸の入り」「彼岸のはて」としての記述があるため、少しづつ広まっていったことが伺えます。
彼岸の歴史を紐解いてみると、その行事の時期は少しづつ変化しています。暦の日を太陽暦に換算して変遷を見てみましょう。
9世紀?18世紀 宣明暦・貞享暦 この時期の彼岸は、春分(秋分)の日から2日後が彼岸の入りで、それから一週間が彼岸とされた。
18世紀?19世紀 宝暦暦・寛政暦 彼岸の時期は定められておらず、年によって変化する。
19世紀? 天保暦 春分(秋分)の日を中心に前後3日間を彼岸とした。
参考:『暦と日本人』(内田正男著) 雄山閣出版
つまり、現在のような彼岸の時期が定まったのは、天保暦以降といえます。
行事そのものの歴史は深いのですが、その時期は変遷していることはあまり知られていません。
さて、冒頭に述べたように、春分(秋分)の日は、太陽が真東から昇り、真西に沈む日であり、その語源は、春(秋)の昼夜平分の日=「昼夜平」を省略したものです。
つまり、昼と夜の長さが等しくなるのが春分、秋分の日であるわけです。
では、今年の春分の日(2005年3月20日)の日の出、日の入りの時間は・・・・・
国立天文台 天文情報公開センター暦計算室
http://www.nao.ac.jp/reki/hdni/hdnih/hdni00h/hdni36051.html
によると・・・
平成17年(2005年)3月20日 横浜 (東経 139度39分 北緯 35度27分 高さ 0m)
日の出時刻 5:46
日の入時刻 17:53
ん???
昼の長さは 17:53 - 5:46 = 12:07
ということは、夜の長さは 11:53 ですね。
その差は実に14分ほどあります。
トリビア:春分の日は、昼の長さが夜よりも約14分長い ・・・ 56へぇ
-------------------------------------------
実は、これには理由があります。
第一の理由は、日の出と日の入りの時刻の取り方にあります。
ひので 0 【日の出】
(1)朝、日が東の空に現れ出ること。また、その時刻。天文学的には、太陽の上縁が東の地平線に接する時。ひのいり 0 【日の入り】
夕方、日が西に沈むこと。また、その時刻。天文学的には、太陽の上縁が西の地平線に接する時。日没。『大辞林』第二版 (三省堂)
つまり、太陽が少しでも地(水)平線から顔を覗かせた瞬間が日の出であり、太陽が完全に沈んで見えなくなる瞬間が日の入りと定義しているので、単純計算で太陽の直径分、昼の長さが長くカウントされるわけです。
第二の理由は、大気による光の屈折現象によるもの。
これは、「大気差」と呼ばれ、地平線ぎりぎりにある天体は、大気を斜めに通過していくため、ゆがんで見えます。計算上見えないはずの天体も、光が曲がって到達するために見えるようになります。
大気差により、やはり太陽の直径分ほどの誤差が生じます。
この第一、第二の理由により、合計太陽の直径約2個分、昼が長くカウントされ、約14分の差になって現れるわけです。
ということは、昼夜平分の日はいつなのだろうか????
国立天文台 天文情報公開センター暦計算室
http://www.nao.ac.jp/reki/hdni/hdnih/hdni00h/hdni36051.html
を再び調べてみます。
すると・・・
平成17年(2005年)3月17日 横浜 (東経 139度39分 北緯 35度27分 高さ 0m)
日の出時刻 5:50
日の入時刻 17:50
なんと、本当に昼夜平分の日は今日だったのでした! ・・・ 83へぇ
明日(17日)は彼岸の入りです。
彼岸とは、ご存知の通り、春分の日を中心に前後3日間、つまり7日間が彼岸です。
今年は20日が春分の日(彼岸の中日)ですから、17日が彼岸の入りというわけです。
彼岸は仏教行事のように思われていますが、他の仏教国にはありませんから、むしろ日本の先祖崇拝(ご先祖様を敬う習慣)が、浄土思想と結びついて培われてきた、日本独自の伝統行事というべきものでしょう。
ご先祖様を敬い、お墓参りをしてぼた餅、おはぎ、お団子などを仏壇に供える良い習慣であります。
ところで、この春分の日は毎年日付が一定していませんよね。
再来年の春分の日は何日なのですか?
再来年のお彼岸っていつからいつまで?
このような質問に答えられる人は誰もいません。
なぜかというと、まだ決定されていないからです。
ん?どういうこと???
「国民の祝日に関する法律」では、春分の日は「春分日」、秋分の日は「秋分日」と定められています。
http://www.houko.com/00/01/S23/178.HTM
ここでいう「春分日」は天文用語であり、次のように定められます。
太陽は星々の間を移動していて、その通り道を「黄道」といいます。また、地球の赤道を天にまで延長したものを「天の赤道」といいます。 黄道と天の赤道は、お互いが傾いているために2点で交わり、その交点のうちの一方を「春分点」、もう一方を「秋分点」と呼びます。 そして、太陽が春分点・秋分点の上を通過する瞬間がそれぞれ「春分」「秋分」と定義され、「春分」「秋分」を含む日のことを、それぞれ「春分日」「秋分日」と呼ぶのです。
この概念は、↓ASTRO ARTSのサイトが参考になります。
http://www.astroarts.co.jp/alacarte/kiso/kiso02-j.shtml
つまり、天球上の黄道と赤道とが交わる点のうち、太陽が南から北へ通過する点の方が春分点であり、この位置に太陽がくる日を「春分の日」としているのです。
ただし、これはあくまでも天文学的な概念で、それを決定するのは政府です。
春分の日と秋分の日は、国立天文台・天文情報公開センター 暦計算室で計算された結果を元に、政府(大臣官房企画調整課)が春分の日をどうするかを決定します。
来年の分は、ようやく平成17年2月1日付官報に掲載されました。
http://www.nao.ac.jp/reki/youko/youko06/rekiyou061.html
つまり、まだ来年までの春分・秋分の日しか決定されておらず、再来年以降の春分・秋分の日は未定ということになります。
なぜ、2年先以降の予定が分からないのかという理由は後で書くとして、まず、春分の日が20日または21日になっている理由から考えていきます。
一年の長さは何日かご存知ですよね。
365日。
しかし、正確な365日ではなく、半端が出ます。
地球が太陽の回りを一回りする日数は、365.2421・・・・・日です。
この半端分ををどう修正するかというのが、古来からいろいろと苦労してきたところですね。
現在使われている暦はグレゴリオ暦法です。
グレゴリオ暦法では、次のようにうるう年を設け、一日プラスすることで、半端分の調整をおこなうように決めました。
■西暦が4で割り切れる年をうるう年とする。 (4年に1回、1日を追加)
■上記の例外として、西暦が100で割り切れる年は平年とする(100年に1回足すのをやめる)
■上記の例外として、西暦が400で割り切れる年はうるう年とする。(400年に1回、1日を追加)
これで一年の長さの平均を計算すると、365+(1/4)-(1/100)+(1/400) = 365.2425日になります。
ほぼ近くなりました。
けれども、まだ数千年程度で1日程度の誤差があります。(このあたりは適当なところで補正されるのでしょう)
-------------------------
このように、現在の暦は太陽暦ですから太陽の運動と暦は、ほぼ一致します。
そして、一年は365日と約6時間ですから、春分点を太陽が通過する日時は、毎年6時間づつ次の日の方向にずれていきます。
4年に一度、閏年に一日が挿入されますから、春分の日は、一気に24時間分、前日の方向に戻されます。
ここで、感の良い方はお気づきだと思いますが、
閏年の春分の日は、ほぼ20日になります。
そして、閏年の翌年は、かなり高い確率で20日。
閏年の2年後はかなり高い確率で21日。
閏年の3年後はほぼ21日。
そして閏年を迎え、一気に1日戻され、20日となる。
ということなんですね。
じゃあ、暦の法則もはっきりしているのに何故数年先の春分の日が分からないのか!と疑問がわきます。
その答えは、地球の自転・公転などの運行は、常に変化している(一定ではない)ためということにあります。
地球の自転・公転は微妙に早くなったり遅くなったりしています。
他の天体の影響もあるし、地球内部のマントルなどの影響もあるし、歳差運動の影響もあるでしょう。
(歳差運動についてはASTRO ARTS 天球の回転コマの「首振り運動」をご参照ください)
つまり、さまざまな微妙な要因が影響するため、数年後の状況は概ねの予測はつくけれども、間近にならないと確定できないのです。
太陽暦を採用しているのだから、割り切って3月20日に決定してしまうという方法もあるのに、あくまでも天体現象に忠実に、春分の日をその都度決定するという、そのこだわりは(良い意味で)日本ならではなのででしょうね。
医療環境が整った現在では、死亡原因として以前のように伝染病(結核やコレラ)が問題になることはあまりありません。
逆に、死亡原因で大きな割合を占めてきているのは「生活習慣病」と呼ばれる、ガンや脳卒中、糖尿病、心臓病等です。
死因順位(第5位まで)別にみた死亡数・死亡率(人口10万対)の年次推移(厚生労働省)
これらの「生活習慣病」は文字通り、食事や飲酒、喫煙等の生活習慣が主な要因と考えられています。そして、その予防には、バランスの良い食生活、さらに1日30品目以上の食品を取ることが理想とされています。
そのためには、自分自身の歯で食事をすることが大切であり、歯の健康が重要になってきているのです。
歯が悪ければ食べられるものも限られてきますし、美味しく食べることも出来なくなります。食べることは、年を取っても楽しみであり、心の健康を保つために必要です。
自分の歯が20本以上あれば、ほとんどの食べ物をおいしく食べることができます。
しかし、多くの歯を失えば、噛めないばかりではなく、全身の健康に大きな悪影響を及ぼすため、厚生労働省と歯科医師会では、「80歳になったとき20本以上の自分の歯を残そう」という8020運動を呼びかけています。
しかし、歯の健康というのは一朝一夕に出来上がるものではありません。年を重ねてから、あるいは実際に歯が悪くなって始めたのでは遅いのです。
また、乳歯の健康がその後の永久歯に与える影響も強く指摘されています。ですから、年老いてから慌てないためには、小さい頃から歯磨きの習慣を付け、さらに年齢と共にこまめな手入れを欠かすことができないのです。
歯磨きの大切さについては、永平寺を開かれた、道元(どうげん)禅師も指摘していました。
道元禅師の著書、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』「洗面」の巻で、洗面の仕方、歯の磨き方をこと細かく解説しています。
また「洗浄」の巻では、爪を切ることや、トイレの入り方などに関して説明しています。
『正法眼蔵』「洗面」にか書かれている歯の磨き方について、具体的に見てみましょう。
〔楊枝を〕よくかみて、歯の上、歯の裏を磨くがごとく洗うべし。
たびたび磨いて洗いすすぐべし。歯のもとの肉の上もよく磨き洗うべし。
歯の間もよく掻いて清らかに洗うべし。
口を漱ぐことをたびたびすれは、漱ぎ浄められる。
その後、舌をこそぎ洗うべし。
そして、何よりも鎌倉時代においても今と殆ど変わらない磨き方の指示をしている事にも驚かされます。
ここでいう、歯のもと(歯茎)を磨くというのは、現在では歯槽膿漏の予防として大きな効果があるともいわれています。
歯磨きの習慣なんて、何をいまさら、とおっしゃる方もおられるでしょう。しかし、その当たり前のことが出来ないのが、残念ながら人間なのです。
ムシ歯を持っている子供たちは、徐々に少なくなっているとはいえ、まだまだとても多いことに気が付きます。統計によれば、小学生の70%以上がムシ歯にかかっています。これだけ、多くの場面で歯の大切さが言われ、テレビでは終日歯磨き粉や歯ブラシの宣伝をしているのに・・・・・
健康な生活というのは、どこか遠くにあるもの、もしくは特別の環境でなければ求められないもの、という訳ではありません。日常の生活をきちんと行うことこそが重要なのです。
豊かな生活を送るためにはまず健康でなければならない、そのためには歯が丈夫でなければならない。そのことを道元禅師は800年近く前から知っておられたのでしょう。
※なお、あくまでも結論は宗門の決定見解ではありませんので予めお断りしておきます。
涅槃会・降誕会・成道会に関する記述のまとめ
三仏会という表現は見られない | ||
『入衆須知』 |
1263 | 「仏三節」と表現 |
『校定清規』 |
1274 | 「仏涅槃・仏生辰・仏成道」とあり、その法要の中に「並同仏忌」とある ⇒三仏忌の混同の一因? |
『備用清規』 |
1311 | 仏涅槃・仏生日・仏成道とあり、三つの法要を総称する語は見られない |
『幻住庵清規』 | 1317 | 同上 |
『勅規』 | 1335 | 仏降誕日・仏成道日・仏涅槃日と呼称 |
『大鑑清規』 | 清拙正澄 | 三仏忌の呼称は見られない |
三仏忌という表現が現れる | ||
『普済寺日用清規』 | 1527 | 達磨忌・永平忌・東洲忌を「三忌」と呼称する (仏忌ではないが言い回しの参考) |
『諸回向清規式』 | 1566 | 「三仏忌疏語回向文」の項目あり |
三仏忌という表現が広まる | ||
『椙樹林清規』 | 1674 | 「二祖三仏忌献粥、並びに五大尊献粥諷経」等「三仏忌」の呼称が散見 |
『禅林象器箋』 | 1741 無着道忠 | 誕生会(降誕会)と成道会は忌日ではない |
三仏忌という表現の混用の原典 | ||
『洞上僧堂清規考訂別録』巻八 | 面山瑞方 |
三仏二祖忌の表現が散見。 「三仏は、誕生仏と、涅槃仏と、成道仏」とされるのみで、「忌」「会」に関する考察はない |
『小叢林清規』 | 「三仏及諸祖忌」「仏祖忌及楞嚴會」という表現 | |
三仏忌という表現の混用の進行 | ||
『永平寺小清規』 | 1803 玄透即中禅師 | 「三仏会」「三仏及諸祖忌」 |
『明治校訂 洞上行持規範』 | 1889 | 「三仏会」 |
『昭和改訂 曹洞宗行持規範』 | 1952 | 「三仏会」と「三仏忌」が混同 |
『昭和訂補 曹洞宗行持規範』 | 1967 | 混同状態。「二祖三仏忌」の記述 |
[参考]
二祖三仏忌考 伊藤 俊彦 宗学研究 第11・14号
三仏忌について 尾崎 正善
tenjin95さんの投稿
他
導き出される結論
■三仏忌は三仏二祖忌という短縮形で呼称したものが混用されたものである。 ■ 本義ならば「三仏会」または「三仏節」が適当である。 ・・・・・かも。 |
今月の15日はお釈迦さまが入滅された(亡くなった)日とされています。
この日に涅槃会の特別法要を厳かに行ったりするのですが、このような大きな意味を持つ仏教行事は年に3回あります。
この3つの日を「三仏忌」といい、具体的には次の3つです
4月 8日 釈尊降誕会(ごうたんえ=誕生の日)
12月 8日 釈尊成道会(じょうどうえ=悟りを開いた日)
2月15日 釈尊涅槃会(ねはんえ=入滅された日)
ところが、この日付で降誕会の行事を行う国は日本・中国など大乗仏教の国の一部であります。
これは、例えば釈尊降誕の日を、『ブッダチャリタ(Buddhacarita)』(=『仏所行讃』)の「4月8日」をそのまま太陽暦に当てはめてしまっていてこの月日したとか、その程度の理由だと思われます。
ちなみに、ヴェサック月(太陽暦の5月付近)を元に
降誕会を ヴェサック月の第8日
成道会を ヴェサック月の満月の日
涅槃会を ヴェサック月の満月の日
とする資料もあり、スリランカなどの上座部仏教国のように、ヴェサック月の旧暦15日(満月の日)に三仏忌(降誕・成道・涅槃会)を一度に行ったりする国もあります。
そこで、各国の祝祭日を元に、釈尊降誕の日がいつなのかを調べてみました。
ヴェサック月の日付は太陽暦に直すと毎年変化しますのでご了承ください。昨年の月日を基にしています。
タイ | 6月2日 | 仏誕節 Wisakha Bucha Day |
バングラデシュ | 5月3日 | 仏誕祭 Buddha Purnima (月齢により変わる) |
香港 | 5月26日 | 仏誕 The Buddha's Birthday |
インド | 5月4日 | 釈迦誕生日 Buddha Pournima |
インドネシア | 6月3日 | 釈迦記念日 Libur Hari Raya Waisak |
韓国 | 5月26日 | 釈迦誕生日 Budda's Birthday |
マレーシア | 5月3日 | 釈迦誕生日 Wesak Day |
スリランカ | 5月4日 5月5日 |
ヴェサック満月祭 Vesak Full Moon Poya Day ヴェサック第二日 Day Following Vesak Full Moon Poya Day |
このように、日本、中国の4月8日のほかに実に様々です。
まあ、こういうことは仏教に限らずキリスト教でもみられることであるわけです。
例えば、キリスト降誕の日は「クリスマス」として12月25日があたりまえと思われがちですが、単にローマ帝国の農業神サターンのサトゥルナリア祭、あるいは太陽神の冬至祭に併せて同じ日をキリスト降誕の日にしただけの理由です。この日を境に昼の長さがどんどん増えていく(=太陽が甦る日)という意味もあるようです。
それまでは、キリスト降誕の日はばらばらで、ユダヤ暦の1月6日とか3月21日とか12月25日とかの任意に行われていたようです。
ということで、お釈迦様にしてもキリストにしても、降誕の月日は分からないわけですね。
そもそも暦自体が違うわけですから、正確な誕生日がいつか(生誕年さえはっきりしませんね)ということよりも、それをどのような心構えで迎えているかが大切になると言えるのでしょう。
さて、先ほど出した祝祭日に見られる釈尊降誕の日の一覧ですが、お気づきのように、アジア諸国では国の祝日として指定されています。
ところが、日本では4月8日が国の祝日に指定されている訳でもありませんし、残念ながらあまり盛大に祝うということもありません。
ほとんどの国で、国の祝日として仏教、キリスト教、イスラム教のいずれか一つ以上の祝祭日があるのと対極的です。
宗教に関わる祝日が指定されていない国は共産主義国家と日本くらいなものでしょう。
その点、インドはすごいですよ。
さすが多宗教多言語の国といえます。(下記は2004年の月日です)
1月26日 | 共和国記念日 |
2月2日 | イスラム教謝肉祭 |
2月18日 | ヒンドゥー教シバラトリー祭 |
3月7日 | ヒンドゥ教春祭 |
3月2日 | イスラム教新年祭 |
3月30日 | ヒンドゥー教ラーマ誕生日 |
4月3日 | ジャイナ教教祖誕生日 |
4月9日 | キリスト教イースター祭 |
4月14日 | ババサへーブアンベーディカル博士誕生日 |
5月4日 | 釈迦誕生日 |
8月15日 | 独立記念日 |
8月20日 | ゾロアスター教新年 |
9月18日 | ヒンドゥ教ガネーシャ祭 |
10月2日 | マハトマ・ガンジー誕生日 |
10月22日 | ヒンドゥー教デュサラ・ラーマ祭 |
11月12日 | ヒンドゥー教新年祭ラクシュミー祝福 |
11月14日 | ヒンドゥー教新年祭バウビージ祝福 |
11月15日 | イスラム教断食明け祭 |
11月26日 | シーク教ナナック誕生日 |
12月25日 |
キリスト教クリスマス |
参考資料 : フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
他
最後になりましたが、三仏忌の「忌」は、なぜこの字を用いるのでしょうか。
涅槃会は分かるにしても、他の2つは何故?
大安、仏滅、友引などのことを六曜といいますが、六曜は特に冠婚葬祭に携わるものにとっては日取りをきめる重要な決め手として用いられてきました。
事実、仏滅の日の披露宴会場はバーゲン価格ですし、友引の日に多くの火葬場が休業しています。
けれども、本来、日取りの吉凶を表す六曜という迷信は、廃して然るべきであるという論議もあります。
例えば「友引」は、しばしば葬儀の日取りに関係して「友引の葬儀は友を引ぐ」から縁起が悪いといわれますが、もともと語源を辿ると「留連」「流連」と称されていたものが、後に発音の近似な「友引」へと変化したものに過ぎません。
昨日、このような新聞記事がありました。
六曜記載、人権配慮欠く 大津市が手帳全面回収
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050211-00000079-kyodo-soci
良い機会なので、六曜について考えて見ましょう。
六曜については、SOTO禅インターナショナルの会議でもたびたび論議され、その成果が会報21号に掲載されています。
そこに、六曜の成立ちの記述がありますので、引用します
-------------------------------
六曜の起源は中国宋時代の六壬時課と称する時刻の吉凶占いに求められ、これは入学・求師・任官・赴任等の吉凶に関する迷信であるとされています。
毎日を機械的に小吉・空亡・大安・留連・速書・赤口の日として充当していき、これを参考にして一日の行動を律していくものでありました。
六曜は順番通りに毎日に充当されますが、月ごとに仕切り直しされ、今日でも太陰暦の毎朔日には次のように各月によって決められた六曜が充てられています。
正月朔日・七月朔日 ・・・先勝
二月朔日・八月朔日 ・・・友引
三月朔日・九月朔日 ・・・先負
四月朔日・十月朔日 ・・・仏滅
五月朔日・十一月朔日・・・大安
六月朔日・十二月朔日・・・赤口
ただし上記の名称と順番は、現行のものであり、日本に六曜が鎌倉時代末に伝来して以来、時代を経てその名称も順番も次のように変化しているのです。
鎌倉・室町期 大安・留連・速書・赤口・小吉・空亡
江戸中期 泰安・流連・則吉・赤口・周吉・虚亡
江戸末期 先勝・友引・先負・物威・大安・赤口
現在 先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口
---------------------------------引用ここまで
意外なことに、六曜の割付については、科学的な根拠にもどづいています。
分かりやすく説明すると、旧暦は月の満ち欠けによりますし、六曜はその旧暦の月日によって決定されます。
1月と7月は1日が先勝で始まり、2日以降、友引→先負→仏滅→大安→赤口となります。
2月と8月は友引から。3月と9月は先負から・・・・・
つまり、次のような法則に基づいています。
旧暦(月+日)を6で割った余りが、赤口は1、先勝は2、友引は3、先負は4、仏滅は5、大安は0。 どうです、実に明確な法則だと思いませんか?
あまりにも明確な法則なので、以前プログラムを組んだものがあります。宜しければ遊んでみてください。
http://teishoin.sakura.ne.jp/i/rokuyou/
さて、このように考えると、六曜は、いわゆる六壬時課とか陰陽道というよりは、むしろ日、月、火・・・の七曜と同様に、日の並びに名前をつけて、ただ並べたけと考えるのが妥当でしょう。
そこに、語呂合わせの言葉遊びが加わって、
先勝 万事 あさよりひるまでにすればさわりなし ひるすぎより日暮まではわるし
友引 うまのときわろし 此日 そうれいいたすべからず 大にいむべし
先負 万事あさよりひる迄わるし ひるすぎより日ぐれまでさわりなし
仏滅 悪日なり よろずもちゆべからず
大安 大吉日なり なにごともよろずよし
赤口 此日もあく日也 よろずいむべし ただし うまのとき一ときさわりなし
このような意味づけが為されました。
人々を惑わしたり、社会に実害をもたらすのであれば廃さなくてはなりませんが、六曜の問題点を、その成り立ちから考えるに、六曜そのものが問題なのではなく、その語呂合わせにより、後付で妙な意味づけをしてしまう部分にあるといえます。
伝統的な英知を探ることなくして短絡的に「迷信だ」「適切でない」と見徹すことば、あまりにも乱暴すぎますね。
興味のある方は、日、月、火・・・の七曜の歴史についても調べてみるとよいでしょう。