絵地図と写真にみる貞昌院の変遷

昨日の記事でご紹介した『新編相模風土記』の中に、貞昌院の前身である「上之坊」「下之坊」について、「両坊共に七堂伽藍を具備せし」という記述がありました。


禅宗様式でいう七堂伽藍は、山門、仏殿、法堂、僧堂、庫院、東司、浴司ですが、当時は天台宗であったはずですので、金堂、塔、講堂、鐘楼、経蔵、僧坊、食堂のことを指すのでしょう。
(参考:『古今目録抄』)

安土桃山以前に、七堂伽藍を具備していたということに驚かされますが、本当にそうだとしたら凄いことです。


「上之坊」「下之坊」は一時廃寺となりましたが、天正10年(1582年)に当時の領主であった宅間伊織綱頼修造および宅間藤原規富により再建されます。
戸塚・後山田村の徳翁寺第四世・明堂文龍大和尚が貞昌院の開山であります。

開創当時は天神社と山を挟んだ位置(昨日の記事参照)でしたが、文化14年(1817年)に、現在の位置である永谷天満宮の隣に移転されました。

移転当時の絵地図がこちらです。
貞昌院に残されている絵地図としては、この江戸時代のものが最も古いものです。

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絵地図に見られるように、茅葺屋根の本堂でしたが、明治19年(1886年)の火災(明治34年再建)、関東大震災による倒壊を経て、関東大震災翌年には茅葺から亜鉛葺きの本堂として再建されました。

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昭和初期に撮影された貴重な写真をご紹介します。
永谷川のむこう側から貞昌院方面を撮影した写真です。
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左に永谷天満宮の鳥居、中央に山門、その奥に鐘楼堂、亜鉛葺本堂、右に庫裏の屋根が見えます。
鳥居の奥に、ひときわ大きな杉の木がありますが、これが永谷天満宮のシンボルであった御神木の大杉です。
落雷や環境の変化により、残念ながら昭和49年に地上2メートルの位置で伐採され、現在は切り株が銅板で覆われています。
伐採の日は、宮司が伐採奉告の祝詞を奉上したとたんに俄に雨が降り出し、伐採が終わると直ちに止みました。不思議なものです。
切株の年輪から、大杉の樹齢は450年ほどと推定されています。

比較のために、だいたい同じアングルから写真を撮影してみました。

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比較してみて気がつくことは、境内のシンボルである2本の銀杏の木が昭和初期の写真にはまだ樹高2・3メートルしかないということです。
従って、銀杏の木は樹齢100年程度であるということが分かります。
樹木の成長は早いですね。
境内の様相が一変してしまいます。

投稿者: kameno 日時: 2008年1月30日 12:53

コメント: 絵地図と写真にみる貞昌院の変遷

> kameno先生

失礼いたします。
江戸時代の絵図や、写真など、こういうのが残っているというのは、色々と調べる上でありがたいですよね。何より当時の建築方法が分かるというのが、貴重です。

それにしても、以下のようなブログの記事を見付けました。既に、確認済みかもしれませんが、ご参考までにアドレスを置いていきます。

ttp://blogs.yahoo.co.jp/imoimochan1911/31828788.html

投稿者 tenjin95 | 2008年2月 1日 16:11

tenjin95さん
当院は創建時から幾度かの建直しがなされて来ましたが、そのたびに屋根構造が変わるということが興味深いです。
その時代時代の斬新な設計手法を取り入れていったのかもしれません。
また、ブログのご紹介ありがとうございました。このように紹介されると嬉しいです。数日前に別の方から同様の別のサイトをご紹介いただいたところですが、そのうちお寺を★で格付けするサイトとか出来たりするかもしれませんね。

投稿者 kameno | 2008年2月 1日 21:05

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