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踊念仏で知られる時宗の開祖一遍上人は、法然の弟子西山義の証空の弟子、聖達を師とし、法然上人からは法系上曾孫にあたります。
まずは『一遍聖繪』より第五の部分を引用いたします。弘安5(1282)年春に一遍上人の一行が奥州江刺の祖父河野通信の墓に参った後、松島小泉、常陸より武蔵国石濱を経て鎌倉向かう部分です。
武蔵国石濱にて。時衆四五人病ふしたりけるを見給いて。
のこりゐて むかしを今と かたるへき こころのはてを しるひとそなき
弘安五年の春。鎌倉にいりたまふとて。ながさごという所に三日とどまり給う。
聖の給はく。鎌倉入の作法にて。仮益の有無を定べし。利益たゆべきならば。是を最後とおもふべき由。
時衆に示して。三月一日小袋坂よりいりたまふに。今日は大守山内へ出給ふ事あり。此の道よりはあしかるべき由人申しければ。聖思ふやうありとてなを入りたまふ。
武士むかひて制止をくはふといへども。しひて通りたまふに。
小舍人をもて時宗を打擲して。聖はいづくにあるぞと尋ねければ。聖爰にありとて出むかひ給ふに。武士いはく。御前にてかくのごときの狼藉をいたすべきやうやある。なんぢ徒衆を引具する事。偏に名聞の為なり。制止にかかへられず。乱入すること心得がたし云々。
『時宗聖典』巻下2(時宗宗学林編)「一遍聖繪」第五 より一部引用
引用文中、下線を引いた「ながさご」について、長後(ちょうご・古くは長郷)と推定するものが多く(例:えのしま・ふじさわポータルサイト:藤沢市運営) 、「長後説」が有力となっています。
ところが、様々な資料を付き合わせると、長後ではなく、永谷の永作(ながさく)と考えるほうが自然であるという見方もできそうです。
文中の武蔵国石濱は、現在の石濱浜神社(上地図の右上端)です。
鎌倉時代には、現在より約2メートルほど海水面が高く、海岸線や川幅がだいぶ違いました。
(上図参照)
参考までに、時宗の元本山「当麻無量光寺」は 嘉元元(1303)年、二代他阿真教により念仏道場として開山。現本山の 「清浄光寺(遊行寺)」は 正中2(1325)年、四代呑海上人による開山ですので、弘安5(1282)年にはまだ両堂宇はありません。
一遍上人一行の石濱から鎌倉までのルートは、海岸沿いに南下し、多摩川を渡ったあと、
(1)三ツ沢~和田~岩間宿~石名坂~弘明寺~餅井坂~永谷~舞岡~小袋坂~鎌倉
(2)三ツ沢~和田~保土ヶ谷宿~境木~柏尾~舞岡~小袋坂~鎌倉
のどちらかのルートを通って鎌倉入りを試みたと考えられます。
⇒大畠洋一著作集さんのサイト 保土ヶ谷宿の成立と交通路の変遷 がとても参考になります。
なお、(2)よりも(1)の方が古くから成立していた道(鎌倉古道下之道:鎌倉初期)であると推定されます。
そうであれば武蔵国石濱から鎌倉への当時の街道を考慮すると、『一遍聖繪』に記載される「ながさご」は餅井坂と舞岡の間にある「永作(ながさく)」と考えるほうが自然です。
さらに言えば、一遍上人が3日間留まったのが永作であったのならば、当時永作にあった貞昌院の前身の天性寺上之坊であった可能性もあります。
天神社別当貞昌院、天神山と号す、曹洞宗(後山田村徳翁寺未)。旧は上之坊下之坊と号せし台家の供僧二宇在りし が共に廃亡せしを天正十年に至り、其廃跡を開き、当院を起立す、開祖は文龍(天正十九年四月十六日寂す)と云ふ、本尊は十一面観音(長八寸行基作)。神明宮二、羽黒社、浅間社、以上貞昌院持
「注」上の坊は上永谷町5358番地附近(永作公園)一帯、現、田辺氏宅東方地域、下之坊は上永谷町3400番地附近一帯、現、鈴木氏宅西方の山腹、故に鈴木家を寺下と呼称す、両坊共に七堂伽藍を具備せしと。
『新編相模風土記』永野項より引用、下線と「注」はkamenoが付記
永谷郷の永作に逗留した一遍上人一行は、3月1日、鎌倉での踊り念仏の布教が成功するかしないかに自分の教えの当否を掛け、鎌倉に向かいます。
しかし、鎌倉に入ろうとした際に、丁度落慶に向けて工事の進む円覚寺に居た北条時宗により警固の武士に行く手を遮られてしまいます。
(北条時宗は念仏を鎌倉から追放する政策をとっていました)
鎌倉入りを拒まれた一遍上人の一行は、小袋坂から鎌倉に入ることを止め、片瀬の浜に回り、そこで舞踊台を作り踊り念仏を行いました。
周囲に多くの人びとが集まっていますね。
自らの教えの当否を掛けた舞台の答えが、明確に現れています。
今日の記事は檀家さんとの雑談の中で出た話を元に検証を加えて作成してみました。
「ながさご」は果たして長後なのか、永作なのか。
検証が進みましたら、また追記します。