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貞昌院は、横浜市南部に位置していますが、近隣の寺院でグループが作られています。
これを「教区」といいます。
貞昌院が所属する「神奈川県第二宗務所第五教区」は、次の地区にある21か寺で構成されています。
(1) 横浜市泉区新橋町
(2) 横浜市瀬谷区本郷
(3) 藤沢市亀井野
(4) 鎌倉市植木
(5) 横浜市泉区岡津町
(6) 横浜市戸塚区上倉田町
(7) 横浜市戸塚区俣野町
(8) 横浜市港南区上永谷 ←貞昌院はここです
(9) 横浜市泉区下飯田町
(10)横浜市栄区鍛冶ヶ谷
(11)横浜市戸塚区川上町
(12)横浜市栄区公田町
(13)横浜市戸塚区矢部町
(14)鎌倉市岡本
(15)横浜市戸塚区東俣野町
(16)藤沢市西俣野
(17)藤沢市渡内
(18)藤沢市村岡
(19)鎌倉市岡本
(20)横浜市戸塚区川上町
(21)横浜市港南区日野中央 ※
※このうち、(21)横浜市港南区日野中央の寺院は、戦後建立された比較的新しい寺院です。
さて、この分布は横浜・瀬谷から藤沢、鎌倉までの範囲に亘っておりますが、なぜこのような分布なのか・・・・・
その理由は、市町村合併の推移を見ていくと判ります。
地図で見るとこのような感じです。
是非、最新の地図と比較してみてください。
赤く塗られた部分は横浜市。随分狭かったんですね。
また、赤線で囲まれた部分が、旧鎌倉郡のエリアであり、「神奈川県第二宗務所第五教区」の範囲となる訳です。
具体的には、武相国境(現在の横浜横須賀道路の付近)の西側、境川の東側となります。
ご存知ですか?あなたのまちの変遷図 (神奈川県のサイト)より
貞昌院の位置する上永谷は、今は横浜市港南区上永谷でありますが、
鎌倉郡永野村 ⇒ 横浜市中区(昭和11年10月1日編入) ⇒ 横浜市南区(昭和18年12月1日分割) ⇒ 横浜市港南区(昭和44年10月1日分割)
というように推移してきているわけですね。
今の市町村の状況からは、なぜ寺院のグループ分けがこのような形になっているかは見えづらくなっておりますが、市町村合併の推移を見ると、その理由が明白に見えてくるのです。
【参考】
「徳川時代の沿革、管轄、所属、石高」
本村「永野村」現永野地域は三大字共往昔、相模国東郡山の内の荘に属し永谷郷(永谷、平戸、品濃、山田、秋葉、名瀬、柏尾、舞岡)永谷村、野場村と称せられしを後(年代不詳)小坂郡に属し、天正十八年庚寅、徳川氏の所領となり、旗下彦坂小刑部、支配す。延宝年間、鎌倉郡に編貫せられ、分割して、永谷村は永谷上、永谷中、永谷下、野場村は上野庭、下野庭の両村となる。
以下・・・・
http://teishoin.sakura.ne.jp/nagano/08.html
拙寺が属する教区では、同じ村なのに一方は私達と同じ教区、もう1か寺は別の教区に属しています。
教区分けでは、本来こちらのはずなのですが、古くから他所の教区との付き合いがあるのでそちらを選択されたと聞きました。
そういう理由さえあれば、自分の希望する教区に編入できるということなのでしょうか?
投稿者 usagi | 2006年9月27日 08:24
教区が編成されたときに、当時の各寺院の状況に鑑み区分けされているはずです。
ですから、貞昌院も、当時の郡のエリアが教区の範囲と同じになっています。
新寺建立とか移転があった場合には、寺院の希望と教区での承認を経て教区に編入されます。(直轄という選択肢もありますね)
また、神奈川ですと、教区という組織的なつながりのほかに、法要組合というグループも存在していますので、usagi老師のおっしゃる「古くから他所の教区との付き合い」と共通すると思います。
投稿者 kameno | 2006年9月27日 09:14
港南区と武相国境の関係は住居表示対照表に添付された昔の野庭町との境界線を死す地図でわかりましたが、昔の久良岐郡と鎌倉郡との境界線のうち日野南7丁目と6丁目の西側は鎌倉郡に属すると思いますが文献がみつかりません。
投稿者 湯山 | 2008年2月26日 14:09
湯山さん
コメントありがとうございます。
永野村が横浜市に編入されたのは昭和11年ですから、それ以前の2万5千分の1地形図「戸塚」(陸地測量部)を国土地理院で入手すれば武相国境が明確に分かると存じます。
http://www.gsi.go.jp/cgi-bin/zureki/25man.cgi?76-8-4
投稿者 kameno | 2008年2月26日 19:21