大師線のレールから広がる雑学

京急の線路、落札しました!!! ということで、折角落札したレールですからそれに関連して、京急の歴史を辿ってみました。

落札したレールは、大師線に設置されていたレールです。
現在の京浜急行電鉄は、川崎大師への参拝路線としての旧大師電気鉄道(日本で3番目、関東では最初の電気鉄道会社)がその嚆矢でありました。
つまり、京急で一番古い路線が大師線。


大師線は京浜急行電鉄のルーツである。当初は川崎大師への参詣路線として建設され(1) 、1899年に開業した。
営業運転を行う鉄道としては日本で初めて標準軌を採用し、また電車による運行は関東で初めてのものである。
人力車組合の反対で遅れていた現在の京急川崎駅への乗り入れは、開業から3年後の1902年に果たした。
なお、大師駅から先、総持寺駅(京急本線の京急鶴見駅 - 花月園前駅間にあった駅)まで当初京浜電気鉄道(当時)自ら建設する予定であったが、別会社で建設されることになり、子会社の海岸電気軌道の手で1925年10月16日に大師 - 総持寺間が全通した。(2)
海岸電気軌道は鶴見臨港鉄道(現・JR鶴見線)に買収された上に1937年12月1日に廃止となった。海岸電気軌道線の大師 - 大師河原間は現在の川崎大師駅 - 産業道路駅間とほぼ一致しているが、産業道路駅からは産業道路に並行して総持寺へ向かっていた。同駅の手前から産業道路横浜方面へ伸びる細い道が海岸電気軌道線の跡である。
同線の開通以降川崎大師へは毎年各地からの参詣客で大いに賑わうこととなり、それまで初詣といえば地元の神社仏閣へ参拝するのが習慣であったものを、各地の有名社寺まで電車に乗って初詣をするという習慣に変えた歴史的にも意義のある路線である。(3)
開業後、会社の予想を大幅に超える収益を上げたことから京浜間に路線網を拡大する基礎を築くとともに、各地の電気軌道計画に影響を与えることとなった。
(ウィキペディア「京急大師線」項より一部引用)

海岸電気軌道(かいがんでんききどう)は、神奈川県横浜市の総持寺駅(京急本線の京急鶴見駅 - 花月園前駅間にあった駅)から川崎市の大師駅までを結んでいた軌道線(路面電車)(4) 、およびそれを運営していた京浜電気鉄道(現、京浜急行電鉄)の子会社の名称である。
臨海地区の工業地帯の通勤輸送を目的に1925年に開業。しかし世界恐慌の影響で利用客数が伸び悩み、1930年にJR鶴見線の前身にあたる鶴見臨港鉄道に譲渡されたが、鶴見臨港鉄道が本線で旅客営業を始めた影響を受け、産業道路建設を機に1937年に全線が廃止された。
その後、戦時下の1944年に大師 - 出来野付近(現在の産業道路)間の線路跡を利用して、現在の京急大師線(当時は東急大師線)が延長された。(5)
(ウィキペディア「海岸電気軌道」項より引用)


このことから分るように

(1)京浜急行の嚆矢は、川崎大師への参拝のための鉄道であった。
(2)(4)京浜地区の大寺院、「川崎大師」と曹洞宗の大本山「總持寺」が、京急の子会社、海岸電気軌道によって結ばれた。
(3)京急、および海岸電気軌道は、地元の寺社だけでなく、少し足を伸ばして大きな仏閣に初詣をするという習慣を作り上げた路線である。
(5)現在の大師線は、大師電気鉄道の路線(川崎ー大師)と、海岸電気軌道の路線(大師ー小島新田間)の部分から成っている。

ということになります。
京急(特に大師線)とお寺とは想像以上に密接な関係があったのでした。

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左は、京急レッドトレインガーデンに展示されていた路線図。
右は、總持寺にあった2つの駅でご紹介した路線図。
どちらも昭和10年代のものと思われますが、沿線に「川崎大師」も「總持寺」も大きく描かれています。
寺社への参拝、初詣などが鉄道の輸送の中で大きな役割を果たしていたことが、この路線図からも伺えます。

 

 

さて、大正14(1925)年~昭和12(1937)年の間に営業され、「川崎大師」と「總持寺」を結んでいた海岸電気軌道(昭和5年より鶴見臨港鉄道)は

設置駅: 総持寺 - 鶴見川 - 下野谷 - 潮田 - 入船 - 寛政 - 下新田 - 富士電機前 - 田辺新田 - 田島 - 浅野セメント前 - 池上新田 - 塩浜 - (仮)競馬場前 - 出来野 - 大師河原 - 大師
運行本数: 川崎大師方面:総持寺発5時13分 - 22時30分まで10-20分間隔、総持寺方面:川崎大師発5時37分 - 22時56分まで10-20分間隔
所要時間:総持寺 - 川崎大師間24分

ということで、電車の速度はかなり遅いながらも、相当の本数が運行されていたようです。

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↑昭和7年の地形図から、鉄道路線をトレースしてみました。

大正14(1925)年に開業した海岸電気軌道は、昭和5年にJR鶴見線の前身にあたる鶴見臨港鉄道に譲渡され、昭和12(1937)年には廃線となってしまいます。
戦後にあった川崎市電との環状線構想も夢のまま終わりました。

 

なお、蛇足ですが、東日本で初めて土地造成分譲事業を行った鉄道会社も京急電鉄(当時は京浜電気鉄道)でした。
その土地分譲により掘削されたのが、上図の黄色で示した部分にあった「川崎運河」です。現在の横浜市と川崎市の境界にあたる場所です。
大正7(1918)年に土地買収が完了、京浜電気鉄道が川崎運河を掘削し、大正11(1922)年には運河の工事と工業用地の造成が完了、土地の分譲がはじまります。
当初は、川崎運河に沿って鉄道を敷設する計画もあったようですが、関東大震災などの影響もあり結局実現しませんでした。
その後川崎運河は1950年代から80年代にかけて徐々に埋戻され、現在の京町小学校、住宅地、緑道などになっています。


話を戻します。
昭和初期の「總持寺」駅を撮影した貴重な写真はこちらです。
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(『京急の駅 今昔・昭和の面影』(JTBキャンブックス)より引用)


ということで、京急の歴史とともに歩み、日本の近代産業を支え、仏閣参拝に大きな役割を果たしてきた大師線のレールや枕木が貞昌院にやってくることになったのことも、何かのご縁なのかもしれません。

※なお、落札したレールは1989年製、枕木は1987年製で、昨年まで使用されていたものだそうです。


■関連ブログ記事
總持寺にあった2つの駅

投稿者: kameno 日時: 2011年12月24日 01:52

コメント: 大師線のレールから広がる雑学

はたまた事後報告ながらfbにシェアしちゃいました(笑)

お許し下さいm(__)m

最近は気軽さも手伝ってか、blogの更新は滞りもっぱらfbのみです(汗)

投稿者 Eibun Aki | 2011年12月24日 13:19

大正11年修正測量の地形図に書かれていた、謎の水路について以前から不思議に思っておりましたが、京浜電鉄が開発したものとは知りませんでした。
運河は工場用の物資輸送目的と、掘った土を宅地造成時の盛土用にと一石二鳥だったのかも知れませんね!

投稿者 ハマちゃん | 2011年12月24日 18:22

Aki様
シェア有難うございました。
fbは携帯端末からでも気軽に使えるところが便利ですね。機能が豊富であるところも魅力です。

ハマちゃん様
川崎運河の水路は、現在でも跡地を辿ることができます。
京浜電鉄はさまざまなことの先駆けとなっていることが凄いですね。
ある意味先見の目があるのかも。

投稿者 kameno | 2011年12月25日 10:04

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