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天正10年(1582年)、宅間藤原規富が天神社を再建するにあたり、川上(戸塚区川上町)徳翁寺の 四代目住職明堂文龍大和尚を請し、上永谷町字籠森(現在の市営地下鉄上永谷駅付近)に建立されたのが貞昌院の由緒縁起であります。
天正10年といえば、同年6月2日、明智光秀が謀反を起こし、京都・本能寺に宿泊していた主君織田信長を自刃させた本能寺の変の年です。
この本能寺の変に際し、明智光秀が引いたおみくじのエピソードがあります。
そもそも、おみくじは政治の世界でも、鶴岡八幡宮で天皇を決めるのに籤を引き後嵯峨天皇が即位(1242年)や、足利幕府の後継者を決めるため岩清水八幡宮でくじを引き足利義教が即位(1394年)など、度々用いられたようです。
さて、明智光秀が本能寺に出陣する前に、京都府左京区の愛宕権現堂において愛宕百韻を開催、参詣後神前にて熱心に祈願してからおみくじを引いたそうです。
その結果がこちら。
なんと、凶でした。
「愁悩損忠良」 (忠義をつくしても、その功が現れぬがゆえに憂い悩む…)
しかも生死は七、八分まで死すべし。
光秀は、その結果に愕然として、再度おみくじを引きます。
・・・やはり凶でした。
「このおみくじに遭う人は、万事我たのみに思うものに裏切りせらるる形なり、油断すべからず・・・・」
生死は八、九分は死すべし.
光秀は相当がっくりとしたようです。
そこで、三度目のおみくじを。
恐らく、2度目のおみくじを引き終わった段階では、謀反を起こすかどうか相当迷ったのではないでしょうか。
2度の凶を経て、三度目の正直、「大吉」が出たことで信長を撃つことを決心したとしたら・・・運勢項目の「生死は死すべし」 の項目が悲しすぎます。
2度目に出た「このみくじに遭う人は、万事我たのみに思うものに裏切りせらるる形なり油断すべからず・・・」の通り、光秀は本能寺の変の後、盟友であった細川幽斎、高山右近らに裏切られることとなります。
明智光秀は本能寺の変から11日後の6月13日、山崎の戦いにおいて、その生涯を終えました。
参考文献
『かながわおみくじ散歩』 島武史著・かもめ文庫・1999年
【補足】
たとえ、おみくじで大吉が出ても油断は禁物ですし、また、凶が出ても、凶はいずれ吉にかわる可能性もあるので、落込むことはありません。
(なにしろ、貞昌院の天神おみくじは半分以上が凶です。)
もしも凶が出たときには、神仏に守護をお願いし、自らも注意し、努力するという心構えが大事です。
『易経』では、不満足な結果が出たからといって、何度も占い直すことを戒めています。
> kameno先生
この、光秀のくじ引きは有名ですね。まぁ、なんとなく、あまりに出来すぎた話でもありますので、作られた話かな?とも思いますが、しかし、光秀の境遇を示しているようで、興味深いです。
「くじ」については、現代の視点だからこそ、考えるべきではないか?という発想があります(柄谷行人『日本精神分析』)。今度、拙ブログでも採り上げてみます。
投稿者 tenjin95 | 2008年8月13日 09:48
tenjin95さん
歴史的逸話には脚色の部分もあるかもしれませんね。
しかしながら、改めてくじの内容を検証すると、奥が深いです。
柄谷先生およびtenjin95さんの視点からのブログ記事を楽しみにしております。
投稿者 kameno | 2008年8月14日 05:33