横浜にあった飛行場

下の写真は国道16号線、八幡橋交差点付近から見た光景です。
パノラマで撮影してみました。
流れる川は掘割川、中央に根岸プールセンターが見えます。
その左側の高架は首都高湾岸線とJR根岸線です。

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このあたりに、戦前から戦後にかけて根岸飛行場がありました。
プールセンター入口交差点には次のような看板が設置されています。

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根岸飛行場跡

昭和15年(1940)この埋立地に大日本航空株式会社により日本発の飛行艇専用民間飛行場がつくられました。南洋諸島パラオ島への定期航空路が開設されたのです。川西航空機製の97式という大型飛行艇が15年3月6日に根岸湾からサイパン経由パラオに向け飛び立ちました。
発動機4基、翼長40メートル、「綾波」「磯波」「黒潮」「白雲」など海や空にちなんだ愛称の優美な巨人機で、サイパンまで10時間、パラオまではさらに7時間かかりました。客席は18あり運賃はサイパンまで235円で東京・大阪間の7倍でした。戦時中は人員と機材すべてが海軍に徴用され南方の島々との連絡や人員・物資の輸送の任務にあたりました。
昭和17年には世界最優秀機の名も高い2式大艇が登場しましたが、全備重量24.5トンの日本最大の新鋭機で乗員以外に26?64人も収容でき、離着水時には家々の屋根をかすめて轟音を響かせました。
2式大艇の最終飛行は同じ年11月にアメリカへ試験機として引き渡すため香川県の詫間基地からここに飛来したのが最後です。
根岸には飛行艇の乗員や空港関係者が大勢下宿し子供たちに南方の珍しい果物の味を運んでくれました。鳳町の名は巨大な翼にちなみ未来に羽ばたくようにという意味でつけられたそうです。
(看板に記載されている説明)


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根岸飛行場を発着していた飛行艇(看板より)
(左)97式大艇 (右)2式大艇「晴空」

これだけの巨体が轟音を響かせて水上を離着陸する光景はさぞかしダイナミックだったことでしょう。

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(左)看板に記載されている地図
(右)米軍により撮影された昭和22年の航空写真=接収後の根岸飛行場

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根岸飛行場が運用されていたときの貴重な写真(戦後・接収後)
アプローチから海に出る飛行艇が写っています


第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)で敗北するまで、日本は世界的な航空技術先進国であった。これは民間航空も同様であり、1929年(昭和4年)に設立された日本航空輸送株式会社(現在の日本航空とは直接のつながりはない)が、日本本土と大陸を結ぶ航空路を運航しており、中心的存在であった、
しかし日本政府は中華民国との間の日中戦争の勃発により中国大陸と日本本土との航空路による連絡が戦略的に重要になったため、1938年に日本航空輸送は国策会社へと改組され、満州航空傘下の国際航空を合併させて新たに発足したのが「大日本航空株式会社」であった。
航空路線としては、海軍の九七式飛行艇を民間輸送機型によってサイパンやパラオといった南洋群島への長距離路線が運航されたほか、後世日本の傀儡国とされた満州国の首都新京(現在の長春)を結ぶ航空路も開設されていた。またタイのバンコク線によって欧州系航空会社の極東線との連絡が可能となり、日本と欧州を結ぶ航空路が連結されていた。
だが、太平洋戦争の開戦とともに、大日本航空が運航する路線は軍の管理下に置かれ、さらに新たに占領した東南アジアにおけるネットワークを拡大し、戦争中は軍事的に重要な輸送手段となっていた。大日本航空の機材や乗員の多くは開戦直前に陸軍が編成した「特設第十三輸送飛行隊」に編入され南方地域をへの運航を担い、さらには「南方航空輸送部」に組織改変された。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) 大日本航空 項)

 

根岸飛行場をはじめ、横浜にはいくつかの飛行場がありました。

・富岡飛行場(飛行艇・日本が運用)
・根岸飛行場(飛行艇/終戦までは日本が運用、戦後接収され米軍が運用)
・伊勢佐木町飛行場(戦後/米軍/セスナ機用)
・間門飛行場(戦後/米軍/低翼単発軽連絡機・セスナ機用)

まずは、時系列に整理してみます。
(間違いがあれば指摘ください)


1929(昭和4) 日本航空輸送株式会社発足
1929(昭和4) 日本航空輸送による運行開始
1930(昭和5) タコマ号が根岸・市電埋立地より太平洋横断に挑戦
1935(昭和10) 根岸飛行場完成
1936(昭和11) 金沢区富岡に横浜海軍航空隊の富岡飛行場が開港 飛行艇の運行
1938(昭和13) 大日本航空海洋部発足 (日本航空輸送株式会社消滅)
1939(昭和14) 横浜?サイパン方面の定期便が運行開始 月2便ほど 
   横浜 5:30発 ⇒サイパン 15:30着 翌7:00発⇒パラオ14:00 (この他ヤルート、ポナペなど)
1940(昭和15) 根岸飛行場拡張、サイパン航路の発地が富岡から陸根岸飛行場へ移転、週1便に増発
1941(昭和16) 映画『南海の花束』公開、97式大艇運行開始
1941(昭和16) 航路がチモールまで延びる
1941(昭和16) 大日本航空海洋部は海軍に徴用され横須賀鎮守府第七輸送機隊となる
-----------開戦-----------------------
1941(昭和16) 日本軍真珠湾を空襲、マレー半島上陸、米英宣戦布告
根岸飛行場の人員・機材は南方との連絡や人員・物資の輸送を担う
-----------終戦-----------------------

1945(昭和20) 米軍に接収され、大日本航空は解散
1946(昭和21) 伊勢佐木町に飛行場が出来る
1948(昭和23)  BOAC(イギリス海外航空)ロンドン横浜(根岸飛行場)
  ロンドン⇒アウガスタ(泊)⇒アレクサンドリア(泊)⇒バーレーン⇒カラチ(泊)⇒カルカッタ(泊)⇒ラングーン⇒バンコク(泊)⇒ホンコン(泊)⇒上海(泊)⇒横浜
1952(昭和27)  間門飛行場が完成、伊勢佐木町の飛行場が間門に移転
1958(昭和33) 根岸飛行場が役割を終える

 


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タコマ号が市電埋立地より太平洋横断に挑戦
『横浜の100年(上巻)』(郷土出版社・P146・1930年)   

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『Yokohama City Map』(米第8軍作成・1949年・赤色はkamenoが着色)

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戦後の横浜の飛行場の姿

■伊勢佐木町飛行場
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(左)米軍により撮影された1947年の航空写真
(右)伊勢佐木町飛行場 『敗戦の哀歌』(写真:奥村泰宏・1949)より


■間門飛行場 
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(左)米軍により撮影された1956年の航空写真
  ※冒頭にある米軍により撮影された昭和22年の航空写真(1947年)には、間門飛行場の滑走路が写っていないことがわかります。
(右)間門飛行場 『敗戦の哀歌』(写真:奥村泰宏・1950)より

 

日本が1945年(昭和20年)8月14日にポツダム宣言受諾を決定したため、軍隊は即日武装解除されることになった。民間航空についても飛行機の所有・運用も一切禁止され、飛行活動に従事する組織も廃止・解散させられることになった。そのため大日本航空も解散させられることになり、戦後処理のために日本国内で運航されていた緑十字飛行も10月7日に終了し、11月18日にGHQが布告した 「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」(SCAPIN-301)によって日本人による航空活動は一切禁止され、1952年に再開が認められ日本航空の初号機が飛行するまで日の丸を付けた航空機が日本の空に飛ぶことは無かった。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) 大日本航空 項)


なんとも残念なことです。



今日のブログ記事は 横浜に水上飛行場があった!?(ハマちゃんのひとり言)を併せてお読みください。


■関連ブログ記事

氷川丸、最後のイルミネーション

投稿者: kameno 日時: 2009年6月27日 00:39

コメント: 横浜にあった飛行場

茅野様から飛行艇の話題についてのメールをいただき、亀野様のブログ拝見いたしました。また私のブログ記事をご紹介いただきまして、ありがとうございました。

根岸の飛行場が掲載されている米軍地図を茅野様へ送ってあります。もしよろしければ参考にしてください。

またBOAC機が就航したのは昭和23年11月だそうです。これは当時の神奈川新聞(昭和23年11月15日付)に記載されております。この記事についても茅野様に送ってあります。

ブログに紹介されております米軍地図は私が調べております戦後新宿伊勢丹に駐留しておりました第64工兵地形大隊が作成したものです。

この「Yokohama City Map」の原本が横浜開港記念館に所蔵されております。

終戦前後の日本の姿を今に伝える重要な地図情報がこの米軍地図類だと思われます。皆様にもっと知っていただきご利用していただければと願っております。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

投稿者 ハマちゃん | 2009年7月 2日 14:37

ハマちゃん様
BOAC機就航の情報有難うございます。
こちらの拠り所とした航空会社時刻表より、就航は数ヶ月ほど早かったのですね。早速昭和23年に訂正しました。
地図は必ずしも正確な情報を反映しているわけでないということが戦中戦後の地図から良くわかります。

この時期の地図情報は米軍作成の地図に拠らないと正確な情報がわかりませんね。
横浜にあった飛行場は米軍作成地図から見て取れます。けれども、日本の地図には殆ど記載がありません。
戦時中は情報統制、戦後は地図を更新する余裕が無いことと、接収エリアを記載する制限。
平和な時代だからこそ様々な情報源から総合的な記述が出来るという有難さを実感します。

投稿者 kameno | 2009年7月 3日 08:30

伊勢佐木町から間門への米軍飛行場の移転は昭和27年7月であった事が判りました。

これは港南図書館で借りた”占領下の10年・伊勢佐町界隈”(1986年 有隣堂発行)という有隣堂社長だった松信泰輔氏がお書きになった小冊子に記載がありました。

参考にしていただければ幸いです。

投稿者 ハマちゃん | 2009年7月12日 10:32

ハマちゃん様
門間への移転は昭和27(1952)年だったのですね。
有難うございます。
接収されていた横浜松坂屋(野澤屋)の1階を除く部分が返還された時期や、地図航空写真などの様々な資料から1950年台前半であることはわかっておりましたが、具体的な出典を元に確定できました。心より感謝申し上げます。
戦後永い間伊勢佐木町界隈の大部分が占領されていました。その姿は今の街の様子からは想像もできないですね。

投稿者 kameno | 2009年7月12日 11:47

こんにちは。敗戦直後の掘割川河口一帯の航空写真、興味深く拝見いたしました。出自を教えていただけませんか。この空撮の空の下で、昭和の戦後に生まれ成人するまで住んでいた者です。この写真、不鮮明ですが、PCで拡大すると大格納庫周辺に生き残りの97大艇や2式大艇らしい機体が、たくさん写っています。わたしにとっては”スプーク写真”ものです。現在、堀割川河口の自分史を作成中で、この写真の内容によっては、訂正しなければならないところが出てくるようです。よろしければ原稿ラフ、お送りいたします。このなかに、サルベージされた2式大艇も登場します。

投稿者 マーシャル松本 | 2018年11月 2日 10:34

マーシャル松本様
コメントありがとうございます。

航空写真の出典は「国土地理院の空中写真閲覧サービス」です。
ほぼ日本全土を、数年おきに撮影された空中写真が戦時中の陸軍によるもの、戦後の米軍によるものを含め公開されております。
https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1

投稿者 kameno | 2018年11月 4日 11:49

根岸飛行艇飛行場のご紹介、懐かしく拝見。
飛行場から歩いて10分程の海岸に面した家に住み、目の前の海を離着水する
高翼軽快な97艇やずんぐりした低翼2式大艇、複葉水艇赤トンボの練習機等が
我が家の上を飛ぶ様子を良く覚えており、悪童仲間の親父さんが海軍士官で、
此の飛行艇でサイパンから帰宅した時は、椰子の実や南方の果物等のお土産を
一緒に賞味しました。此の親父さんも後にサイパンで戦死し、地元最初の戦死者でしたが、爆弾直撃で遺骨も何も無く、骨箱を振ると軽くてかたかた音がするので開けた所、写真1枚が入っていただけでした。此の飛行場が住民に開放される
時が有り、大きな飛行艇の操縦席に乗せて頂いた事も有ります。
立方体の格納庫が飛行艇用で前に蒲鉾建物が有り、赤トンボは此の中に格納してたのではないかと思います?お陰で戦時中はカーチスを追い掛ける零戦が屋根の上を飛び越したり、流れ弾が家の鴨居を貫通したり、庭には高射砲弾の破片や
焼夷弾の空ケースが落ちて来たりしました。
戦後打瀬網の漁師の網に飛行艇の残骸が引っ掛かったり、掘り割り川河口に
海底から引き揚げられた大艇の残骸が、暫く放置されてました。
尚終戦後の間門(根岸?)飛行場はセスナのみように記されてましたが、低翼
単発軽連絡機が殆どでした。以上ご参考まで。

投稿者 稲垣豊郎 | 2018年11月18日 15:36

稲垣さま
実体験に基づく詳細かつ貴重なな情報、ありがとうございました。
本文中の終戦後の間門飛行場については、補足修正させていただきました。

投稿者 kameno | 2018年11月21日 01:23

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