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港南区には、かつて炭鉱がありました。
まずは現在の上大岡周辺を当時の地図で確認してみましょう。
明治時代の地図には炭鉱標記が見られませんので、明治末期から大正期に出来た炭鉱であることがわかります。
(上大岡駅周辺はまだまだ田んぼと畑が広がっていたのです)
また、米軍の地図にも記載されていることから戦後暫く採掘されていたようです。
(地形図・戸塚・大正10(1921)年測量,大正14年発行)
(米軍Army Map Service: Japan City Plans TypeF 1946 / Lignite mineの標記があります)
炭鉱といっても良質の石炭が生産されたわけではなく、亜炭と呼ばれる木質系の燃料です。
亜炭(あたん、英: lignite)とは石炭の中でも、最も石炭化度が低いものをいう。地質学上の用語としては褐炭が正しいが、日本においては行政上の必要からこの語が用いられる。
品質に関しては褐炭同様、石炭化が十分に進んでいないために不純物や水分を多く含み、得られる熱量が小さいことから、製鉄などの工業用途には向かない。日本では明治年間から1950年代まで全国各地で採掘され、主に家庭用燃料として重宝された。特に、第二次世界大戦中および直後においては、燃料の輸送事情が極端に悪化したため、仙台市・名古屋市、または長野市など大規模?中規模の都市の市街地などでも盛んに採掘が行われて利用された。亜炭は着火性が悪く、燃焼時にも独特の臭気や大量の煤煙を出すため、燃料事情が好転すると早々に都市ガスや石油などへの転換が進められた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
港南区内には最戸、日野、野庭町など炭鉱がありました。
神奈川新聞(平成8年6月4日版)にはそれぞれの炭鉱について次のような体験談が掲載されています。
最戸の炭鉱⇒「千手院のがけで大正のころ掘っていた。炭鉱員が仕事を終え帰った後、ひそかに坑内のトロッコで遊んだ」「戦中もよそから来た親子二人が別のがけ(県戦没者慰霊堂前)で数年間掘った」「低温で石炭のように炎が出ない。燃えかすが多くて、臭かったな」
野庭の炭鉱⇒「明治のころ、上野庭(現野庭町の南側)で掘った。日野の吉原(現日野二丁目)でも大正期のころ掘った。知る人は地元でももうわずかだ」「祖父から、穴は奥で2つか3つに分かれていると聞いた。コウモリがいた。私は怖くて奥まで入れなかった」
港南区の亜炭炭鉱についての特徴をまとめると次のとおりです。
(1)港南区最戸、日野、野庭町、戸塚区下倉田町に広がっている
(2)亜炭の採掘は大正7、8年ごろ及び戦時中が最盛期
(3)つるはしを使っての手掘り。
(4)亜炭層は30-35センチの厚さ。空気穴(立て坑)を二本掘り、横穴を約1000メートル掘った。
(5)亜炭層は緩傾斜にあり坑道は横穴だった
(6)亜炭を運び出すため農道拡張、トンネル掘りも行われた
(7)明治末から大正期に採掘されたが、一部は戦時中に燃料不足のため再び掘られた。
このうち、戦時中の横浜鉱山(最戸町)についてさらに詳細を紐解いてみます。
大正期にも採掘が行われていたが、さらに拡大生産するため昭和15年試掘開始、昭和17年より操業
鉱山主は東燃料工業株式会社
神奈川県では最初の大規模な亜炭鉱山
坑道の入口は大久保新地。
左坑道100間、右坑道 30間の2つの水平坑道があった
鉱夫10名が日産10トンの亜炭を産出
当時使われていたトロッコは木枠の箱で車輪は鉄だったようです。
写真は昭和17年に撮影された横浜鉱山坑道の入口(最戸町大久保新地)です。
昭和17年当時の新聞には「横濱の眞中に鉱山?亜炭が続々・注文殺到」との見出しが付けられています。
(昭和17年に東燃料工業が)掘出すと同時に石炭の殆ど手に入らぬ現在、各方面から注文が殺到する。
県では亜炭が産出するといふのは初めてのため、マル公(注1)はもとより9・18停止価格令(注2)にも載っていないため、亜炭の二大産地に問合わせ慌てていまマル公算出中だといふ。
ここから産出する亜炭は木質で4200カロリー、平均で3700カロリーで、石炭の6000カロリー以上と比べて遥かに及ばぬが、常磐炭の四級品程度、普通工場のボイラー程度なら十分使用できるし、山形、岐阜等から高い輸送費をかけて移入するのと違ってリヤカーで20分もすれば市の中心地に運べるのだから採算は十分とれるとあり、鉱夫10名とは一寸飯事のような鉱山ながらなかなか活気づいているのは正に燃料国策時代、現場監督談。(注1 マル公:日中戦争下の価格等統制令および第二次大戦後の物価統制令による公定価格)
(注2 価格等統制令=昭和14年勅令第703号)
(昭和17年6月の新聞記事より引用、脚注kameno付記)
日本には資源はまだまだ豊富にあるのだという大本営発表的な意図も含まれている可能性はありますが、資源入手が困難な時期にあっての亜炭産出はよほど貴重なことであったことがうかがい知れます。
亜炭の生産を見ていくと、その背景には戦争の影、戦局が常につきまといます。
これだけ亜炭が産出された背景には、工業化の進展による燃料の確保、そして戦中に有っては燃料の輸送事情が悪化したことによるものです。
日本が大東亜戦争に突入せざるをえなくなった主因は、米軍などにより石油など工業生産に不可欠な石油輸送を封鎖されてしまったことにあると言えましょう。
例えば、1920年代から1930年代において立案された米国海軍による オレンジ計画(War Plan Orange) では、米国が制海権を握り、日本の海路を抑える作戦が取られています。
大東亜戦争開戦に至るまでににおいては、日本の石油供給を止めるために米国は
1939(昭和14)年 米国航空用ガソリン製造設備、製造権の対日輸出禁止など徹底的な資源封鎖を講じました。
1940(昭和15)年 航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸
1941(昭和16)年 日本の対米資産を凍結、石油が禁輸となる
さて、もう1つの石油に代わる資源の入手手段として有力視されたのが人造石油です。
昭和12年「人造石油製造事業法」「帝国燃料興業法公布」が制定され、石炭から人造石油を製造する方法が研究され、一部実用化されました。
しかし、その生産量は僅か70万キロリットル程度に留まり、充分な燃料を供給するには程遠い状況でした。
大戦における戦術として、連合軍は徹底的に南方から輸送される日本軍のタンカーを攻撃していきましたので、この石油資源の枯渇が戦争の敗因の大きな要因となったといっても過言ではないでしょう。
戦時中は稀少な石炭石油資源は主に戦争のために使われることとなったため、資源が不足し、工業生産の補助資源として、家庭用として亜炭が着目されたのです。
戦局がさらに悪化すると、亜炭のみならず松根油の生産まで行うようになりました。
港南区にあった亜炭炭鉱という局所的な史実から、大東亜戦争・太平洋戦争のマクロ的局面の一端も伺い知ることができました。
すなわち、エネルギー供給の動向が戦争を行う主要な契機となりうり、また戦局を決定付ける大きな要因となったということは、現代社会においても、いや現代社会だからこそ深刻に受け止めなければならない教訓であるといえます。
現状、日本はどれほどのエネルギーを自給しているのでしょうか。
日本の経済を支えているエネルギーは、どのように賄われているのでしょうか。
他の国々、特に隣接国は?
エネルギー政策は一国の運命、ひいては地球全体の運命も左右するということを心しておく必要がありそうです。
平和な世の中を支えている土台は意外に脆いものなのかも知れません。
亀野さん、こんにちは
素晴らしい記録を掲載して頂き、有難う御座いました。
昭和17年の横浜炭鉱の写真は大変貴重且つ珍しい写真です。
この記事は早速、港南歴史協議会HPへリンクさせて下さい。
又、この話を元に歴史講座をお願い致します。
有難う御座いました。
投稿者 ちのしんいち | 2009年8月 7日 12:36
ちの様
港南区の亜炭炭鉱については、徐々に資料を集め纏めているところです。
馬場先生お持ちの産出された亜炭の実物も含め、いつか歴史講座を行いたいですね、その節はよろしくお願いいたします。
投稿者 kameno | 2009年8月 8日 01:54
茅野様からメールをいただき、この記事がある事を知りました。今まで疑問に思っていた事が判り感激しております。
身近な小さな事象から世界的歴史(第二次世界大戦)の一場面が、より歴史を実感される事のできる証明となると思っております。
私も亜炭については興味があるのでお手伝いさせていただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。
投稿者 ハマちゃん | 2009年10月18日 09:32
ハマちゃんさん
今日はいろいろと有難うございました。
湘南電気鉄道についてのお話しも伺えてとても参考になりました。
港南区で採れた亜炭は場所によって品質にばらつきがあったようです。大久保の亜炭はまだ良い方ですが、日野、野庭の亜炭は色も薄く、とてもそのままでは燃えなかったとのことでした。それでも当時は貴重な資源として必死に採掘していたのでしょう。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
投稿者 kameno | 2009年10月18日 22:26