星条旗の下に生きた日系人たち

8月には戦争に関連した番組が多く放映されていますが、今晩テレビをつけると見覚えのある光景が広がりました。
その場所はロサンゼルス・ボイルハイツにあるエバグリーン日系人墓地。


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番組はエバグリーン日系人墓地のシーンから始まります。
すっかり見入ってしまいました。

『渡辺謙アメリカを行く 星条旗の下に生きたヒバクシャたち』(NHK総合)


冒頭のエバグリーン墓地には、一面芝生が植えられており、そこに整然と平板の墓石が整然と並んでいます。
そこに刻まれた出身地には広島県の文字が目立ちます。
明治から大正にかけて米国に渡った日本人移民には広島県出身者が多く、太平洋戦争が始まる前に家族と共に日本に一時帰国したものの中には米国により投下された原爆に被爆したものも少なからず居りました。
うち、戦後日系二世となる子どもたちのかなりの割合が戦後、生まれ故郷の米国に戻りました。
現在米国に居住する被爆者の数は1000人にものぼります。
なぜ、被爆しながら原爆を投下した国に帰ることを選択したのか、その理由を内面から探る番組でした。

番組の中で印象に残った詩がありました。
アメリカで生まれた22才の女性が、被爆者である祖母と広島を訪れた体験を元に書いた詩 "An Empty Urn" です。
原文は英語、それを番組中渡辺謙氏が日本語訳詩を朗読されていましたので、それを文字におこしてみました。



『空の骨壷』

私は 日本語の文字で覆われた壁を見上げている

私は 泣いている

その何一つ読めないけれど
でも これらがみな 小学校の年齢で亡くなった原爆犠牲者の名前だと知って

彼らは 想像を越えた痛みの中で死に至り
短すぎた命の最後の瞬間に 本当の地獄を目撃した

彼らは 1945年8月6日 日本の広島で亡くなった

私の祖母の妹もその中の一人

私はどんな時でも 公の場所で泣くのを恥ずかしいと思ってきた
しかし ここでは余りにもたくさんの涙が流され 私の涙が気づかれることは無い

私は最初に日本を旅したとき6歳だった

母 叔母 姉妹と私は広島の平和記念資料館に入った
なぜか祖母は外で待っていた

幾つか部屋を過ぎると、まるで悪夢の世界に突き落とされたようになった
究極の痛みと苦しみの写真
人々の体には洋服の模様が焼きこまれ、その肌は蝋燭が流れたように融け、骨から滴っていた

私たちは 泣いた

そして 私は思った

なぜ おばあちゃんは一緒に外で待たせなかったんだろう
なぜ わざと私にこのような苦痛を与え 意地悪をするのだろうと

それから数週間、私は悪夢にうなされ真夜中に眼を覚ました
私はその経験が人生において大きな変化をもたらしたと感じている

怒りを許しみに
敵意を思いやりに
憎悪を愛へと
変えるように心がけている


いま 祖母は泣いている
私 姉 母も泣いている
公園中にいる何百人もの人が泣いているのだ
なくした兄弟 息子 母 父のことを思って泣いているのかもしれない
友人 近所の人 先生 同窓生のことを思って泣いているのかも知れない

しかし もしかしたら 私のように
それは すべての人のために 泣いているのかも知れない



 



 


もう11年も前になりますが、1998年に研修旅行として訪問した際、エバグリーン日系人墓地の戦没者慰霊塔において皆で慰霊法要を営みました。

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日本人の海外移民は、明治元(1868)年にハワイへの移民153名が、非合法ながら渡航したのが最初とされます。
その後、政府公認として、1885年のハワイ移民を皮切りに第二次世界大戦後暫くの間まで日本政府も積極的に関わって行われました。
しかし、米国への移民は多くの場合、開墾に二の足を踏む様な劣悪な場所が多く、まだ多くの面で差別を受ける事も多く筆舌にしがたい苦労を強いられることとなります。


The History of Japanese Immigrants 日系移民の歴史
米国日系移民史

さらに、

1906年 連邦政府、帰化法を改正。司法省、全裁判所に対し日本人の帰化申請を拒否するよう訓令を発布。
1907年 2月に施行された大統領令により、ハワイ、メキシコ、カナダからアメリカ本土への日系人の移住禁止。
1908年 日米両政府間で前年から7度に亘り行われた書簡交換により、紳士協定に基づく日本人の移民制限開始。
1908年 カリフォルニア州で、Japanese Association of America(在米日本人会)設立。
1911年 アリゾナ州で国籍を持たない外国人(=1世)の土地の所有および一定年数以上の借地が禁じられる。
1913年 カリフォルニア州で、上記アリゾナ州と同様の法律(対外国人土地法1913)施行。1世の土地の購入および一定年数以上の借地が禁じられる。同時期、アリゾナ州では期限を問わず1世による一切の借地が禁じられる。その後他州に拡大。
1920年 2月、日本政府が「写真花嫁」に対する旅券発行を禁止。
1921年 連邦議会、The Quota Immigration Act(移民割当法)施行。
1923年 ワシントン州で、対外国人土地法修正法により、アメリカ国籍を持つ未成年の日系人の土地所有も禁止され、未成年2世を抜け道的に土地所有者にする手段も絶たれる。
1924年 埴原正直駐米大使の書簡により連邦議会が排日に傾き、5月の合衆国移民法1924 (排日移民法)成立により、正式には7月1日以降、実質的には6月24日、移民船「シベリア丸」でサンフランシスコ港に到着した移民を最後に日本人の移民が全面的に禁止される。
1941年 真珠湾攻撃による日米開戦。日系人社会の主だった人々が逮捕される。 (真っ先に逮捕されたのは僧侶)
1942年 2月19日、フランクリン・ルーズベルト大統領による大統領令9066号の発令。「保護」の名目で西海岸地域に住む日系人全員、およびハワイの日系人のうち主だった人々計約11万人が収容所に送られる(日系人の強制収容)。

というように日系人にとって受難の時代を迎えます。


日系人の強制収容


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⇒(全米日系人博物館japanese american national museumにおいて日系人強制収用の体験を伺う)


戦時中、日本に帰国したものも、強制収用されてたものもどちらも計り知れない苦悩があったのです。

米国により行われたこのような日系人の強制収容に至る歴史は、米国の歴史においてタブー視されるようで、表立って論議されることはあまりありませんが、このような史実はきちんと語り継いでいく必要があります。

原爆の日、終戦の日に限ってこのような番組が放送されがちなのですが、平素においても定期的に放送していただきたいものです。

投稿者: kameno 日時: 2009年8月 8日 01:31

コメント: 星条旗の下に生きた日系人たち

日本人に対しての差別、迫害は異常ともいえますね。
アメリカ人は、自分たちがインデアンから土地を強奪した経緯の反動なのでしょうか?
折を見てこのことについて勉強してみます。

ところで質問です。
エバグリーン日系人墓地の慰霊法要について、だれも(埋葬者の関係者が)故障を申し立てる人は居なかったのでしょうか。
宗教が違う、信条が違うとの理由で靖国神社での合祀祭礼に対して異議申し立てをするのは、日本人だけなのでしょうか?
(彼らには彼らなりの主張は有るのだと思いますが・・・)

投稿者 うさじい | 2009年8月 8日 10:31

うさじい様
コメント有難うございます。
番組中、移民2世の被爆者が「父親、母親がどれだけ苦労したかを考えると自分の苦労は何でもない。いくらで頑張れる」と語っていたのが印象的でした。

強制収容施設の記録を展示している「全米日系博物館(元西本願寺羅府別院)」はあまり知られていない施設ですが、是非多くの方に訪問いただきたい場所です。禅宗寺の直ぐ近くにあります。
面している道路を西へまっすぐ進むとエバグリーンの墓地にたどり着きます。

なお、エバグリーンの件ですが当然に勝手に突然訪問したわけではなく、LA禅宗寺、全米日系博物館、エバグリーン墓地管理事務所などを通し、元国際布教師とともに訪問しました。
個々の墓碑に対して慰霊法要を営むことは、それぞれほとんどが仏教徒であるとはいえ問題があると思いますが、記事中の慰霊法要は合同慰霊碑に対して営みました。
歓迎こそあれ異議申し立てはありませんでした。
その背景には、日系アメリカ人社会の中に寺院が中心的役割を果たして来た(いる)こと、この墓地において定期的に現地の各宗派寺院により合同法要が営まれていることによる信頼関係が構築されていることがあるのでしょう。

投稿者 kameno | 2009年8月 8日 10:46

お答え戴き有難うございました。
件の番組は、本日視聴したします。その番組の前にも広島長崎の特別番組があるので、そちらも視るつもりで居ります。

投稿者 うさじい | 2009年8月 9日 08:50

うさじい様
ご返信有難うございます。
年月が経過するに従って記憶は風化してしまいがちですが、決して風化させてはならないと強く思っています。
今日の放送は拡大版ということで、私ももう一度観るつもりです。番組最後の渡辺謙氏によることばが心に響きました。

投稿者 kameno | 2009年8月 9日 10:34

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