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以前のブログ記事の続報です。
『110年のアルバム』?日本人ペルー移住110年記念誌 が今月末刊行の運びとなりました。
編集者 太田宏人
発行所 現代史料出版
発 売 株式会社オメガコム
印 刷 亜細亜印刷株式会社
定 価 2200円(+税)
ISBN 978-4-87785-201-6
写真は、記憶である
ペルーに移住した日本人とその子孫たちが生き抜いてきた激動の110年を、日常を刻み込んだ膨大な写真から浮き彫りにする
MEMORIA DE FOTO
海外で移民として暮らした方々は、一部成功した者はあったようですが、多くの方々は厳しい自然環境や荒れ果てた土地での農作業、激しい差別偏見の中でマイノリティーとして苦しい生活を強いられました。それでも力強く生き抜いていきました。
その「生活」の記録です。
一般書店、インターネット書店で8月30日から発売(予定)となります。
となっております。書名は『110年のアルバム』です。
日系ペルー移民略史
ペルーの日系人の物語は1899年に始まります。日本からやって来た最初の移民の集団は中央沿岸部の渓谷地帯の砂糖や綿農園で働きました。その多くはやがてリマやカリャオの都市部へ移動し、散髪屋やレストランなど、小さな商売を営むようになります。それは1920年代の前半のことでした。
農村から都市への移住
1924年から1936年にかけて、日本人移民の第2の波が訪れますが、この時には農場よりも都市部へ向かい、移民達は商売や、近郊農業での可能性を追求しました。1920年代に向けて、リマでは日系コミュニティが目立ってまとまりを見せるようになりました。このエスニックコミュニティの強固さがかえって災いし、日系コミュニティは嫉妬の目で見られ、差別されるようになりました。これが、母国日本がアジアで軍事的侵略を展開するにつれ、さらにその度合いを増し、1936年には日本人移民は断絶、1940年5月にはリマで反日暴動が起こります。
第2次大戦:海外への強制収容と本国での制限
太平洋戦争が始まると状況はさらに悪化。ペルー政府は米国政府と協調し、1800名の日系の非戦闘員を北米に移送しました。このうちほとんどの人は戦後日本へ強制送還されました。ペルーに残った日本人には厳しい制限が課され、私有財産の没収など大変な目に会いました。1947年に戦中の制限が廃止されると、日系コミュニティは日本協会や日本語学校などを再建し少しずつかつての活況を取り戻していきました。
(日系ペルー移民略史 Discover Nikkei Wiki より引用)
著者が編集された写真の一部をご紹介いたします。
FOTOS, NIKKEI PERUANO ペルーの日本人とその子孫たちの写真帖から
ペルーには当時神社は無く、日系人の心を支えていたのはたった一つの寺院、曹洞宗・慈恩寺でした。
各地に残された墓碑は、荒れ果ててしまっていたり、現存すらしていないものも多いのですが、その一つひとつに、知られざる「生活」があったのです。
Cementerio japonés en el Perú, ペルーの日本人墓地
永い間住職の居なかった慈恩寺に、正式に国際布教師が住職として入ることになりました。
ペルーの国際布教史に新たなページが刻まれることとなります。
詳細は、年末に発行されるSOTO禅インターナショナル会報にで紹介できればと考えております。
■追記
今日は64回目の長崎原爆の日です。
田上長崎市長は宣言文に於いて、オバマ大統領のプラハでの演説「核なき世界」を支持し、核保有国代表の長崎訪問を呼び掛ける平和宣言文を読み上げます。
まずは広島、長崎へのオバマ大統領訪問が実現されることを望みます。
それが核兵器無き世界実現への第一歩となることでしょう。
長崎原爆により命を奪われた多くの方々に哀悼の意を捧げ、そして今も後遺症に苦しんでいらっしゃる多くの方々にお見舞い申し上げます。
亀野さん、こんばんは
今春、「みんなで作る横浜写真アルバム」のキックオフシンポジュウムの佐野眞一さんが基調講演で「記録されたものしか、記憶にとどめられない」とのお話をされした。「記憶は、消えてしまうが、記録は後世まで伝えられ、残る。」私達は、「記憶に留めずに、写真として記録すること」に心掛けたいと思います。
投稿者 ちのしんいち | 2009年8月12日 00:28
ちの様
まさに、先の佐野氏の講演の言葉がアーカイブの本質を突いていると感じています。
それにしても、記録されずに忘れ去られてしまっていることが何と多いことでしょう。
歴史というものは私たちが積み上げてきたもののホンの一角を概観しているだけであることがよくわかります。
投稿者 kameno | 2009年8月12日 11:15