高浜虚子一行の永谷村探勝

俳人、高浜虚子先生が、昭和11年11月1日、句会の仲間と一緒に貞昌院を訪問された記録があります。

虚子先生が自ら手配され、国鉄戸塚駅に集合。2台の貸切バスにて永谷村に至り、天神山貞昌院、天満宮、日限地蔵尊を歩かれました。

以下、その様子を『武蔵野探勝』より引用してご紹介します。


永谷の秋(第75回) (佐藤漾人)

今度の武蔵野探勝会は全く虚子先生御自身が一切斡旋せられたのであった。といふのは常任幹事のわが蚊杖君が、安田邸とかで催すべく、ちゃんと段取が決ってあったのに間際になって遽な同家の不幸のために駄目となり、勿論蚊杖さんも係って居られない事となったので先生も尠からず面食ったが、急に今度の場所に決められたのである。
それは、元先生のお宅に勤めてゐた女中さんの周旋で其女中さんの近所のお寺とせられたのである。



高浜虚子が貞昌院に来訪されたということは、以前に先代住職から様々なエピソードを聞いたことがありましたが、きちんと文献として残されていました。
それにしてもひょんな経緯で上永谷へと来ることになったのですね。





記事の順序が前後するが、実は私は・・・・恐らく私ばかりでなく多くの諸君もさうであらうと思ふが・・・その事情を、先生や水竹居翁とたまたま一緒となった帰路の、、ハスの車で翁から聞かされたのである。
成程云はれて見れば一々思ひ当る。先生は只例の如く黙々としてゐられたが、戸塚の駅に既に己に早く来られてゐて、東京からの吾等一行を駅頭に迎へて居られたりバスの世話を一々なされたり、又お寺でも皆の中食の指示などをされてもゐられた。
それにその寺の書院の坐にご馳走を運び茶を汲んだりしてまめやかにたち働いて呉れる二十歳ばかりの眉目のさつぱりした娘さんがゐたが・・・・私などはお寺のものかなァとばかり思ってゐた・・・今聞けばそれはその先生のお宅の元女中さんであったのである。
ハスの中で、先生が水竹居さんに 「あの灯のともってゐる家ですよ」と窓外を指す彼方の丘の麓の森の中に、夕闇をこめてぽかりと灯ってゐるその女中さんの家が見えた。車中の私達は皆首を伸べてその灯影を懐しく顧みるのであった。

さて、その日は薄曇った時雨でも来さうな小寒い天気であった。一行の分乗した二台の貸切のバスが坦々たる横浜街道を東に、左右に豊の秋を展じた中を二十分程走って上永谷村に到った。
天神山貞昌寺は丘がかりの小高みにあった。本堂は大震災に倒壊したさうで、近年漸く新築が成ったばかりのやうであったが、庫裡は元のままに藁葺き屋根もいと古りてゐた。
門前に小川がせせらいでをり、そこらには穂芒が群がり萩が枯れそめ菊畑を持った小屋などがあった。
お寺の住職さんは大層篤志の方で又此村の小学校の校長さんである由、先の先生の女中さんも其教へ子であるとの事。
永谷村は、かの菅相丞の旧跡であって、菅公筑紫への遠流の時その子秀才も東なるこの地に遠ざけられ、後菅公の罪あらざる事明らかになるに及んで秀才は京洛に呼び戻されたが、その没するに当っての遺言によりその遺髪をこの里に送り埋祭されたといふ故事がある。
永谷鎮座の天満宮には、寺の裏山になってゐる老杉繁る中にあり、そこには歌碑、菅秀塚などが存する。



貞昌院での一行の光景が目に浮かぶようです。
虚子のところで働いていらした「女中さん」というのがどなたかはよくわかりませんが、永野小学校出身の地元の方のようですので、調べてみたいと思います。
探勝において詠まれた俳句が並べられていますが、そのうち、虚子によって詠まれたものを抜粋してみます。
明治時代の永谷ののどかな光景が描かれています。
季節もちょうど今くらいだったのでしょう。




瘦菊に 立てたる杖や 稲架の下  虚子
いちじくに 屈みて稲を 運びをり 同
鴉二羽 とびもつれをり 稲運ぶ  同
むかご蔓 流るゝ如く かゝりをり 同
稲芒に 川流れをり 稲の中    同
心静かに 桜落葉を 踏みて立つ  同
見るうちに はづし終りぬ 稲架の稲 同


寺の門前の小川に臨んだ一軒の茶屋に婆さんが住んでゐた。
婆さんは小さい髷をちょこなんと結んで著ぶくれた背を丸め喉に何か黒い巾を巻き付けて何処か病身らしく見えた。
水車の爈ほとりに蹲って何か煮え立つ鍋を守っていつまでも動かない。見てゐると一疋の、これも年を食ったらしい虎毛猫が、その婆さんの丸い背中に上ったり小さい膝に這入って見たりする。
が、婆さんは猫のなすがまゝに任せてぢつと動かない。
茶色のズボンを穿き古い毛系のシャツを著た爺さんはでっぷり肥えてゐた。店のそこらの物形づけをしてゐたが、やがて、土間のテーブルの上の、二三輪黄菊を投げ挿した瓶の下に置いてあった帽子をちょっと頭に乗せて、「行って来るよ」と婆さんに一寸言葉をかけて、店の入口のガラス戸をがたがたと開けて何処かに出て行くのであった。
が、爈辺の婆さんは尚いつまでも蹲ってゐた。
茶店の外は直ぐ芋畑で、そこらに菊なども咲いてゐた。



貞昌院から永野小学校方面を写した写真がありますので、併せてご紹介します。

20081028.jpg

これは大正12年に撮影されたものですので、時代は少し下りますが、大体同じ様な光景を高浜虚子一行は眺めていたのだと思います。
写真では、田んぼがずっと広がっているあたりも、今は環状2号線が通り、すっかり様子が変わってしまっています。


絵地図と写真にみる貞昌院の変遷で見られるような時代のお話でした。


『武蔵野探勝』
(編者・高浜虚子,有峰書店,昭和44年発行限定版)

投稿者: kameno 日時: 2008年10月28日 13:48

コメントを送る