武相国境越えの変遷

以前のブログ記事 永野村、鎌倉郡から横浜市へ において、港南区を南北に走っている武相国境の稜線が如何に地域を分断してきたかについて書きました。


当時、武蔵側と相模側を結ぶ道路は、いわゆる尾根道の古道だけでありました。
自動車が永野村に初めて入ることができたのは、実に昭和4年に平戸と吉原を結ぶ道路の完成を待つこととなります。
それまでは、横浜の隣りでありながら道路整備が不完全で、いわゆる陸の孤島のような状態であったわけです。
横浜市への出入が遠い町村にすら及ばず、自ら別天地のごとき生活状態でありました。
生活習慣も総てが鎖国的であったという中、国境の丘陵を越えるということの障害が、横浜市への編入の遅れの主因となったようです。
昭和4年、平戸と吉原を結ぶ道路が開通することにより、永野村はようやく「開国」の日の目をみることになりました。

今回は、その状況を地図の変遷で検証してみます。

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(1:20000地形図戸塚明治36年測図)

鎖線にて武相国境が標記されています。
明治時代の武相国境を越える道らしい道は、現在の環状2号線(県道平戸吉原線)のルートではなく、現在の港南図書館前の道?港南台ゴルフセンター?日野病院へ抜ける山道だったことがわかります。


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(地形図 大正10年測図 大正14年発行)

吉原?永作?馬洗橋に抜ける道が出来ました。
永作にトンネルがあることが目に付きます。
分水嶺はそれだけ険しく、人道トンネルがあったのでしょう。
車の通行は出来なかったと思われます。


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(地形図戸塚 昭和6年修正 昭和8年発行)


『港南の歴史』によると、平戸?永作?馬洗橋の武相国境を車で越えることが出来るようになったのは昭和4年以降です。
上の地図は、車の通行が出来るようになってまもなくのものです。
人道トンネルが切通しとなり、ようやく車の通行が可能となったものと推測されます。
この切通しにより、ようやく永野村は「開国」の日の目をみるようになったのです。


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(地形図戸塚 昭和20年修正 昭和22年発行)


戦時中は軍需物資を運ぶ道路が整備され、県道平戸吉原線の原型が出来たことがわかります。


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(地形図戸塚 昭和41年改測 昭和42年発行)

宅地化が進み、大規模な開発が行われた時期です。
県道平戸吉原線には造成地の土砂を積んだトラックが往来しました。

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(地形図戸塚 昭和51年ニ改 昭和52年発行)

市営地下鉄上永谷駅の開業は昭和51年です。
丸山台の造成がほぼ終わり、横浜横須賀道路の工事が進行しています。
住宅地が面状に広がったため、かつての武相国境線が明確に分からなくなってしまいました。


このようにしてみると、武蔵と相模の国を分断していた稜線を結ぶ道路(県道平戸吉原線)により港南区として両国が一体となっていく様子が良く分かります。
地図はその変遷を雄弁に物語ってくれるのです。

※今回の地図資料は『今昔マップ』首都圏版を使用して作成しました。

投稿者: kameno 日時: 2009年7月 2日 01:12

コメント: 武相国境越えの変遷

この地図で、昔を思い出させていただきした。
昭和44年から52年まで住んでいた場所がはっきり映し出されています。この吉原小学校まで土手をくだって7?8分? くらいの場所に住んでいました。宿舎の並びもはっきりしています。ここから霞ヶ関まで1時間40分くらいかけて通勤していました。残業の連続で帰宅はいつも夜中でした。
 通勤時間中に「新平家物語」24巻?を読み終えた読書記録を残したことを懐かしく思い出します。
 
 ところで、遠山啓著「数学の学び方・教え方」、「数学入門上・下」の三冊を楽しく読み終えました。(私の読書場所はいつもスーパーの中のマクドナルド店内です。)50年間も大切に保管している高校時代の数学の公式集を参考にしながら、久しぶりに微分方程式の醍醐味を味わいました。

投稿者 zazen256 | 2009年7月 2日 04:26

zazen256さん
今回は道路の変遷から、道が街の形成にどのような影響を与えているかを見てみました。
実際にその場に住んでいたり、その道を通ったことがあればより実感できると思います。

50年間保管されている公式集ですか。
式を改めて見直してみると当時の思い出などが蘇りますよね。
遠山先生の著書は、そのような使い慣れた公式に、新しい視点や発見を与えてくれますね。

投稿者 kameno | 2009年7月 2日 09:49

相模の国に属する鍛冶が谷の一部が港南区に編入されているようですが、当時の戸塚区が野村不動産の宅地造成の計画に従って区境を変更したように思われます。南斜面の上質な宅地を失った事になって栄区は損をしたように思われます。

投稿者 湯山洋三 | 2009年9月28日 18:34

湯川様
現在の港南区日野南七丁目付近のエリアが栄区⇒港南区エリアに取り込まれたようですね。
区域の変遷を見ていくと、逆に今栄区にある横浜市立小山台小学校、中学校は港南区エリア(当時は横浜市中区)だったものが現在の栄区エリアになっています。
面積の差異はあれ、港南区エリアと栄区エリアでお互いプラスマイナスの部分があるということは興味深いことですね。
いずれさらに詳細に調べてみたいと思います。

投稿者 kameno | 2009年9月28日 23:25

湯川様
日野南7丁目地籍の港南区と栄区との区境については、宅地造成による事だけではありません。宅造地の不動産会社の区割りで決めました。理由は、夫々の宅地面積、道路幅等の基準に差があったためです。現在、ロ?レルスクエア?マンションの地域の住居表示は、地籍は日野南6丁目にありながら、栄区へ編入されました。理由は栄区の人口減少に伴う、選出議員定数の減に繋がる事からでした。其処の児童は近くの日野南小学校へ通っておりますが、災害時非難拠点は本郷小学校です。災害発生時の「いざ」の時の対応はどうするのでしょうね。栄区の人達の衆議員選挙区は横浜市の中ではなく、鎌倉市と一緒ですね。行政区割りについては、便宜的に決めるものではなく、確かな設定ル?ルを設ける事が大切と思います。

投稿者 ちのしんいち | 2009年9月29日 00:44

KAMENO様
ちの様
情報有り難うございました。鎌倉郡と久良岐郡との境界線を調べている過程で経済地図社の地図から宅地造成時の区域変更前の境界線が示されてる事からこのコメントをさせて頂きました。固定資産税の獲得に深刻な影響を与える事から例えば東京都中央区と千代田区の間の外堀の上の高速道路下の帰属は未だに決着しておりません。

投稿者 湯山洋三 | 2009年9月29日 13:33

湯山様、
区境等の境界線、原則は河川、崖等の自然条件の他、広い幅の道路等都市環境条件でもって、設定する事になっていますが、更に開発不動産区画や選挙区画等の人為的配慮がされている事には、問題を感じます。加えて「街のブラド」化が更に奇異な地名関係を発生させています。地籍の上では、明らかな栄区地籍にあるマンションの多くが「・・・港南台」との名称を付けています。確かに、港南台の方が、不動産業者にとっては、販売しやすいのです。この様な人為的な事によって、地名と俗称が歪曲されています。

投稿者 ちのしんいち | 2009年9月29日 23:34

湯山様
ちの様
区域を何処に盛り込むかということは有権者数、固定資産税、事業税などの思惑も絡んでくるようですね。
河川や海面を埋め立てて新たに出来た土地についてもご指摘の通りです。東京湾の埋立地が東京都か、千葉か、あるいは東京だと何区に属するか、いつも揉めています。
そういえば、富士山山頂も静岡県なのか山梨県なのか明確にされていませんね。

投稿者 kameno | 2009年9月30日 08:30

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