« チューリップ | 最新記事 | 花まつり・檀信徒総会 »
花まつりを前にして、ソメイヨシノの花は風が吹くたびに花を散らせています。
貞昌院では6日に釈尊降誕会法要を営みますが、どの程度花が残されているでしょうか。
桜は、ナショナリズムと結合し、心ならずも不幸な役割を演じさせられた時期もありました。
しかし、逆に日本と他国を結ぶ友好の絆を深める大きな役割も果たしています。
その物語を2つご紹介します。
友好の桜2題
その1
伊豆・網代湾を見渡す熱海の丘に、冬の時期に咲く桜の巨木があります。
これは、ヒマラヤザクラという種類で、1968年(昭和43)に東京大学への留学経験のあるネパールのビレンドラ元国王(当時はネパール皇太子)から贈られた種から育ったものです。
11月末?12月初旬にかけて美しいピンク色の花を咲かせ、日本・ネパールをつなぐ「ビレンドラ国王のさくら」として、友好のシンボルとなっています。
少し分かりづらいところにあるのですが、県立熱海高校校門を目印にすると見つかると思います。熱海へ訪問する機会がありましたら是非どうぞ。
ヒマラヤザクラは、CO2の吸収力がソメイヨシノの3-5倍もあり、環境浄化木としても注目されています。
写真は2001年12月7日に撮影した満開のヒマラヤザクラです。
その2
米国・ワシントンD.C.のポトマック河畔への桜植樹に貢献したジャーナリスト、エリザ・R・シドモア女史(1856-1928)に由来する桜のお話です。
明治期に日本に滞在した彼女は、日本を愛し、桜の美しさに魅せられ、人力車を使い日本各地を巡りながら、その桜の美しさを是非アメリカにも伝えたいとの思いで20年以上に亘りワシントンでの植樹を訴え続けました。
米国へ帰国した際、女史はポトマック河畔の埋立地が公園となる計画があることを聞き、当時のタフト大統領夫人に桜の植樹を提案、米国から打診された尾崎崎行雄東京市長は、日露戦争時に日本を支援してくれた米国へ桜を贈呈することとなりました。
第一弾として贈られた桜2000本は残念ながら病害虫のために焼却処分の憂き目にあいますが、再度1912年に贈られた3000本は、シドモア女史立会いの下、ポトマック河畔への植樹が実現しました。
その後、残念ながら1924年に米国連邦議会は移民法を改正し、「帰化不能の外国人の移民を認めない」という、いわゆる「排日移民法」を成立させました。
シドモア女史は、これに抗議し、スイスへと移住します。
女史はスイスでまもなく亡くなりますが、日本政府は彼女の死を悼み、家族の眠る横浜外人墓地へと埋葬しました。
アメリカに贈られた苗木はワシントン・ポトマック河畔の桜として全米に知れ渡る名所となっています。
ポトマック河畔への桜の植樹から約70年、1991年にこのポトマックの桜が「シドモア桜・里帰り桜」として、女史が眠る横浜の外人墓地に植樹されました。
シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー
講談社学術文庫
著者: エライザ・ルアマー・シッドモア /外崎克久
出版社: 講談社
サイズ: 文庫 ページ数: 476p
発行年月: 2002年03月
この本の著者・外崎克久氏は、私が都庁・世田谷桜新町の設計課にて勤務していた時の直属の上司でした。
とてもお世話になりました。インドへ旅行するために長期休暇届けを出した際にも理解いただき、送り出していただきました。
桜新町の八重桜もまもなく見頃を迎えることでしょう。
風月庵さんのブログにポトマック河畔より日本に里帰りした桜が紹介されていますのでリンクさせていただきます ⇒衆生病むが故に