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七月盆と八月盆の間には、旧鎌倉郡に位置する21か寺の組寺がそれぞれ大施食会(大施餓鬼:おせがき)法要の日程を組んでおり、それぞれのお寺に随喜しています。
以前書いたブログ記事を併せてご参照いただけるとわかりやすいと思います→ 鎌倉郡から横浜市へ
今日は戸塚区東俣野の龍長院様での大施食会が行われました。
(なお、貞昌院は7月26日。今年は水曜日です)
龍長院様の本堂には、天井から吊るされた殿鐘があり、その傍に由来書が掲示してあります。
殿鐘之由来
此の殿鐘は宝暦8年5月(1758)江戸四谷坂町の市川泰立親行が先祖並びに諸精霊(戒名を併記)の菩提を弔う為に寄進、相模国鎌倉郡東俣野村天王山龍長禅院八世宗峯代と銘が有る
處が横浜市港南区上野庭町内会館に保管されて有り、郷土の歴史に造詣深い斉藤庄八 同町内会長の斡旋により返還が決まり、昭和55年9月15日 當山住職世話人6名が上野庭町内会館での返還式に臨み、無事元の古巣に帰還、現に龍長院護持の殿鐘たり
昭和55年9月15日 當山29世光匡書
由来書に書かれている上野庭は、貞昌院からほど近い場所です。
永野は永谷と野庭が合併してできた地名であり、野庭のうち鎌倉に近い「上」の地区が上野庭ということになります。
それにしても、戦中戦後を乗り越えて、良く上野庭町内会館に保存されていたものです。
さらに、元々あった龍長院に変換されるためには多くの方のご尽力があったからこそでしょう。
近年、例えば路傍の石仏など地域に遺されている文化的価値のある様々なものが散逸したり失われたりということが多いようです。
地域の歴史を知る上でも、それを後世に残す意味でも、この殿鐘のようにきちんと元の場所に変換され、その経緯を記録として残すことはとても重要なことであると感じます。