「眠雲」考

貞昌院客間に掲げられている勝海舟による「眠雲」の扁額について、よくその意味を尋ねられます。
折角の機会ですので、出典を辿りながら考えてみましょう。


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扁額を書かれた勝海舟は、幕末から明治時代にかけて活躍した幕臣の三舟(勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟)の一人です。

幕末、徳川慶喜から戦後処理を一任された勝は、官軍の西郷隆盛との交渉役に高橋を推薦するが、高橋は遊撃隊(慶喜の身辺警護にあたる)の隊長を務めており、江戸を離れることができなかった。代わりに推薦されたのが、高橋の義弟にあたる山岡であった。
慶応4年(1868年)3月9日、山岡は西郷との会談で、江戸城開城の基本条件について合意を取り付けることに成功した。その後、勝が単身で西郷と交渉、同年4月11日、江戸城は無血開城されることとなる。
江戸を戦火から救った勝、山岡、高橋の名前にいずれも「舟」がつくことから、この3人を「幕末の三舟」と称するのである。
(出典:Wikiペディア)


江戸城無血開城の年、徳川慶喜の家臣、陸軍総裁であった勝海舟の手下であった平野玉城が朝廷方官軍に追われ、この永谷の地に逃れる時点から歴史年表としてまとめてみました。



■永谷学校と勝海舟の書の年表

慶応 4(1868)年(明治元) 徳川慶喜の家臣、陸軍総裁勝安房(海舟)の手下、平野玉城が朝廷方官軍に追われたところを、現在の横浜市港南区下永谷で醤油醸造を行っていた福本宅にて助けられる。
明治 9(1876)年、一命を助けられた平野玉城は、命の恩人福本輿四郎宅を再び訪れた。その際村人よりに当地に滞在するよう懇願された。
明治10(1877)年 村民に推されて棲心庵学舎に第三級訓導として教職に就く。平野玉城が就任するや入学者が殺到し、庵が手狭になった。
明治12(1879)年 水田の権田ケ谷戸に永谷学校が新築された。平野玉城はその落成記念にかつての師、勝海舟に「永谷学校」の書をお願いし快諾の上贈与された。現在は永野小に保存。
明治22(1889)年 町村制が執行され、永谷、上野庭、下野庭の3村が合併して永野村となる。
明治22(1889)年 永谷学校と野庭学校が併合、永野学校(本校)、野庭学校(分校)。
明治24(1891)年 小学校設備準則により永谷学校が現在の永野小学校の位置に移転。
明治24(1891)年 平野玉城、鎌倉の長谷にて死去。
明治25(1892)年 野庭学校が村役場として永谷学校の隣に役所として移転。
明治30(1897)年 平野玉城7回忌の時、子息平野直吉(第一代永野小学校長)より玉城の分骨を得、貞昌院墓地に埋葬。
明治36(1903)年 平野玉城の徳を慕う人々により、13回忌が盛大に行わた。列席した直吉は感激し、貞昌院28世住職・亀野源量和尚(第四代永野小学校校長)に勝海舟の書「眠雲」を記念として贈呈。
現在その書は貞昌院の寺宝となっている。



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永野小学校、貞昌院と平野玉城の密接な関係がわかると思います。


この関連として、以前書いたブログ記事や、貞昌院のホームページ勝海舟の書―永谷学校―(港南歴史協議会)でも勝海舟の書に関する記録を掲載していますので、是非あわせてご覧ください。


 

貞昌院に掲げられている勝海舟の書は「眠雲」と書かれています。

眠雲・・・山中に住むこと、雲の中や上で眠ること 『新大字典』(講談社)


眠雲とは、雲の中に眠ることということで、自然に囲まれた山深い地で、雲の中に眠り、大自然の懐に抱かれて俗世間の喧騒から離れた生活を送るという意味であります。


その出典の1つに「臥月眠雲」が挙げられます。

師紹定二年五月一日。在靈隱。受請入寺陞堂祝聖畢。就座。
僧問。呼猿洞口。無心臥月眠雲。長水江頭正好。?綸擲釣。只如靈山密付。還許學人咨參也無。
師云。崑崙嚼生鐵。・・・<以下略>
『虚堂録』巻1「興聖寺語録」


虚堂智愚禅師(1185?1269)は南宋時代、臨済宗松源派の禅僧です。
運菴普巌の法を嗣ぎ229年に霊隠寺より興聖寺(浙江省嘉興府)に晋住。その際の最初の上堂における問答の部分が上記の句です。
霊隠寺の呼猿洞で無心に「臥月眠雲」の修行を続けてこられた禅師の教えを受けることが出来る興聖寺の僧侶たちの様子がよく表れています。

虚堂智愚禅師はその後、報恩寺、顕孝寺、瑞巌寺、延福寺、宝林寺、阿育王寺、浄慈寺などに歴住されました。
日本臨済宗各派の法系につながる南浦紹明禅師(1235-1309)の師匠でもあることから、特に茶道界ではこの虚堂智愚禅師がとても重んじられております。


 

例えば、江戸・大崎(現在の御殿山)に在った大崎茶苑(大崎苑)の邸内には11の茶室があり、その1つに「眠雲庵」がありました。
この大崎苑は、松江藩七代藩主・松平治郷公(号は「不昧」)の所有していた1万8千坪の大茶苑です。
「眠雲庵」の扁額は、現在東京国立博物館(東京都台東区)に所蔵されています。


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(『臥月眠雲』額・写真は">山陰中央新報の記事より)
 

また、伊豆半島の湯ヶ島には、国指定有形文化財に登録されている「眠雲樓」 (後に「落合樓」と改名)があります。
こちらには、幕臣の三舟、山岡鉄舟、高橋泥舟らが集い、高橋泥舟による「眠雲」の書が残されているそうです。
(いつか実際に見てみたいものです)

 


このように、「眠雲」を辿ると、さまざまな繋がりが見えてきました。


最後に「眠雲」について、もう1つ出典をご紹介いたします。

蘆花被下 臥雪眠雲 保全得一窩夜気
竹葉杯中 吟風弄月 躱離了萬丈紅塵
『菜根譚』後集38

 
『虚堂録』は「臥月」でしたが、こちらは「臥雪」です。


躱離了萬丈紅塵・・・萬丈の紅塵を躱離たりし了わる


雪が吹き込む質素な庵で、蘆の入った布団に横になり、雲の中で眠れば、気が満ちてきて元気が漲ってくる。
竹の葉の杯を飲みながら 風に詩を吟じ、名月を愛でれば 俗世間の塵芥は落ち清浄となる

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そのような意の扁額を寺宝として大切に守っていきたいと思います。

投稿者: kameno 日時: 2009年7月16日 13:06

コメント: 「眠雲」考

11年前に公開のPhotoLogに大変ビックリさせられました。湯ヶ島の落合楼の泥舟扁額”眠雲”はいかがでしたでしょうか?私は山形県の清川八郎生家に近い庄内地方を郷里としており、家の座敷には高橋泥舟揮毫の扁額”眠雲”が飾ってありました。最近まで”眠雲”と読むことができませんでしたが、山形県河北町の高橋泥舟顕彰会理事の方に撮影画像を見て頂きましたところ”眠雲”と読んで下さいました。とても風格のある立派な扁額で、泥舟が明治22年頃清川八郎生家、庄内にこられた折揮毫されたものと推測していました。書体は違いますが、掲載されてる勝海舟の扁額とよく似ています。印譜3点も河越著泥舟(邑心文庫)に符合しています。今の私の心境としては、遠い郷里の縁として家に伝えるべきか、郷里の八郎記念館に寄贈すべきかなど思いを巡らしています。

投稿者 蓮池 牧雄 | 2020年5月25日 20:43

蓮池さま
コメントありがとうございます。
山形県河北町にも眠雲の書が残されているのですね。不思議なご縁だと感じます。是非大切になさってください。
湯ヶ島の書は、未だ拝見することができていません。
是非いつか、全国に残されている眠雲の書を巡ってみたいと思っています。

投稿者 kameno | 2020年5月26日 21:02

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