武相国境と鑪(たたら)場

鎌倉古道下之道-2と同様の手法で、武蔵国と相模国との国境、武相国境を検証してみます。

武相国境は、追浜?瀬谷までの間は分水嶺(=山稜線)を通っています。

busou4.jpg


武相国境のうち港南区の部分は「七里堀」とも称されており、この国境によって港南区のエリアは分断され東半分=武蔵国、西半分は相模国に属しておりました。
『新編武蔵風土記稿』には「水流れる境」として七里掘(武相国境沿の道)について次のような記述があります。

山堺に七里堀と云あり 爰より吉原、松本、久保、最戸、別所、中里の六ケ村を経て引越村(六ッ川)に通じる里程七里許を以って七里堀と唱ふ。この古道は鎌倉海道なりしか東海道開けてよりこの道は廃し、今は小径残れり、......
『新編武蔵風土記稿』


国境線が分水嶺でありますので、東側(武蔵国側)に降った雨は大岡川を通って東京湾へ、西側(相模側)に降った雨は永谷川、柏尾川を通って相模湾へ注ぎます。

横断断面図を作成してみると分水嶺であることが一目瞭然です。
3か所について断面図を作成し付記しました。


busou1.jpg busou2.jpg

なお、武相国境は瀬谷以北は分水嶺ではなく境川が国境線となっています。


武相国境には製鉄の拠点という重要な役割もありました。
すなわち、大和朝廷の勢力が鉄器文明を広めながら通過した動脈路であったわけです。

busou5.jpg

港南区から栄区に入った鼬川流域には「金」のつく地名が多いのです。
鍛冶ヶ谷はその代表的な製鉄の地であり、たたら場でもありました。
製鉄関連の炉が18か所、鉄精錬の炉が14か所、製銅の炉が1か所、砂鉄を出した竪穴遺構、鍛冶ヶ谷式の横穴古墳などさまざまな製鉄関連の遺跡が点在しており、7世紀?9世紀前半にかけてこの丘陵地域一体を掘削して平地をつくり、大規模な製鉄操業を行っていたと考えられます。


踏鞴製鉄(「鑪(たたら)」 せいてつ、英:tatara iron making method)とは、世界各地でみられた初期の製鉄法で、製鉄反応に必要な空気をおくりこむ送風装置の鞴(ふいご)がたたら(踏鞴)と呼ばれていたためつけられた名称。
日本列島においては、この方法で砂鉄・岩鉄・餅鉄を原料に和鉄や和銑が製造された。こうして製造された鉄や銑は大鍛冶と呼ばれる鍛錬によって脱炭された。この方法で和鋼が製造されたこともあったが現在では行われていない。他には和銑を再度溶融し、鉄瓶などの鋳鉄製品を製造する原料ともした。
(出典: ウィキペディア)

金井村、カナクソ(鉱滓)、金沢、金谷(横須賀)、金谷(房州)・・・・これらの地点を結ぶと、日本武尊東征路、武器の輸送、製造、修理の足跡を辿ることができます。
また、港南区から栄区、たたら場のあった周辺には白山神社が多くあります。
白山神社は鉱滓と関係が深い神社です。

粉金(こがね)七里に、炭三里

たたらの立地条件は大量の炭を確保するために広大な面積の山林を必要としました。
「粉金七里」は、原料の砂鉄を仕入れるのは七里先までという言葉です。

七里堀の七里は、ここから来ているのかもしれません。
 
 


武相国境についてもムービーとして作成してみました。
(ネット上ですので画質を落としています)
高低差を5倍強調していますので分水嶺であることを体感できると思います。
クリックしてご確認ください。


 ⇒ムービーを再生(WindowsMediaVideo)

投稿者: kameno 日時: 2009年2月21日 02:21

コメント: 武相国境と鑪(たたら)場

> kameno先生

このようなことからも、旧来の地名というのは大事にしておく必要があると感じますね。地名から、その地域がどのような位置付けになったのかを知ることが出来ます。最近の風潮で変わってしまっても、記録と記憶に残しておきたいところです。

投稿者 tenjin95 | 2009年2月21日 08:36

tenjin95さん
このあたりは朝鮮半島からの技術集団が住んでいた集落もあったようで、それを連想させる地名も残されています。
地名から昔に思いを馳せるということは何かロマンを感じますね。
それ故に大切にしたいものです。

投稿者 kameno | 2009年2月21日 17:14

亀野さん、こんばんは
本当に、作業が早いですね。先日「武相国境についても、同様の手法でやってみましょう」とおっしゃっておられて、未だ2日しか経っていません。この方法によると、確かに武相国境が分水嶺になっている事が、一目瞭然として理解できます。
これぞ、IT力を活用したデジタルア?カイブと思います。
地名の由来も大変勉強になりました。
有難うございました。これからも宜しくお願い致します。

投稿者 ちのしんいち | 2009年2月22日 01:40

亀野さん 有り難く感謝いたします。
 解り易くて参考になります。

 永作の分水嶺は本当に誰が見てもはっきりと分かりますね!。
 相武山小学校の水系は、本当は永谷川・柏尾川・相模湾へ、流がさなければいけないのに、大岡川に流しています。開校当時に永作が開発されづにいたので流す事が出来ずに、大谷町内の開発の方が先きに開けていた為に、止もうえずに日野川・大岡川東京湾に流す事になったわけです。
 相武山小学校・室の木幼稚園の所に、上永谷、野庭、日野、笹下の境界がありました。時代と共に変って行きます。歴史は大事だと思います。今後共宜しくお願い申し上げます。

投稿者 吉富正和 | 2009年2月22日 16:44

ちの様
28日の図書館での資料にするためについでに作ってみました。
今度、地形図の作成方法の勉強会を行ってみたいですね。
先日話の出た城郭の立地なども面白い結果が出そうです。

投稿者 kameno | 2009年2月22日 16:46

吉富様
下水道雨水管の設置により流域が微妙に変化していく事例ですね。
貴重な情報をありがとうございました。

投稿者 kameno | 2009年2月22日 17:00

亀 野 様

 栄区の鼬川のことですが、鎌倉時代、いざ鎌倉とゆう時は、エイエイオー と川のそばで、勝どきを上げて、『いでたち』で出発し、鎌倉に向かって、いったんじゃないでしょうか。
 本当は鼬じゃなくて、いでたち川がいつの間にか『鼬』川に
変わったと思います。
笹下も佐々木氏族がなまって笹下になったと知りました。
 地名等は特に大事にしなくては、いけないとつくづく考えられた次第です。

投稿者 吉富正和 | 2010年1月16日 22:40

吉冨様
鼬川は「いでたち」→「いたち」でしたか。
地名の由来を紐解いていくことは楽しいですね。
字、屋号、消えていきつつあるそれぞれの中に深い意味があるということがよくわかります。

投稿者 kameno | 2010年1月17日 10:43

ついに武相国境がハッキリして大感激です。三鷹市に住まいしているので、数十年前に近くの府中市の大国魂神社の5月の例大祭で杉山神社の神輿の渡御に遭遇しましたが、それがキッカケで、なんと川崎、横浜、それに三浦半島の東半分も武蔵国なんだと驚くとともに認識をあらたにしたものです。

ところが、どうにも三浦半島に至っては、今ひとつハッキリせず、人と話すときは口を濁さざるを得ませんでした。

本当にありがとうございました。

投稿者 卯杖 | 2014年11月24日 11:59

卯杖様
お役に立てて何よりです。
武相国境については、1:20000地形図(明治36年測図)をはじめ、戦前の地形図に記載されていますので、より詳細に調べることができます。
かつての境界線を辿るとさまざまなことが見えてきます。

投稿者 kameno | 2014年11月24日 22:59

島根大学の客員教授である久保田邦親博士らが境界潤滑(機械工学における摩擦の中心的モード)の原理をついに解明。名称は炭素結晶の競合モデル/CCSCモデル「通称、ナノダイヤモンド理論」は開発合金Xの高面圧摺動特性を説明できるだけでなく、その他の境界潤滑現象(機械工学における中心的摩擦現象)にかかわる広い説明が可能な本質的理論で、更なる機械の高性能化に展望が開かれたとする識者もある。幅広い分野に応用でき今後48Vハイブリッドエンジンのコンパクト化(ピストンピンなど)の開発指針となってゆくことも期待されている。

投稿者 地球環境直球勝負 | 2017年8月12日 19:17

コメントを送る