鎌倉古道下之道-2と同様の手法で、武蔵国と相模国との国境、武相国境を検証してみます。
武相国境は、追浜?瀬谷までの間は分水嶺︵=山稜線︶を通っています。
武相国境のうち港南区の部分は「七里堀」とも称されており、この国境によって港南区のエリアは分断され東半分=武蔵国、西半分は相模国に属しておりました。
『新編武蔵風土記稿』には「水流れる境」として七里掘(武相国境沿の道)について次のような記述があります。
山堺に七里堀と云あり 爰より吉原、松本、久保、最戸、別所、中里の六ケ村を経て引越村(六ッ川)に通じる里程七里許を以って七里堀と唱ふ。この古道は鎌倉海道なりしか東海道開けてよりこの道は廃し、今は小径残れり、...... 『新編武蔵風土記稿』
|
国境線が分水嶺でありますので、東側︵武蔵国側︶に降った雨は大岡川を通って東京湾へ、西側︵相模側︶に降った雨は永谷川、柏尾川を通って相模湾へ注ぎます。
横断断面図を作成してみると分水嶺であることが一目瞭然です。
3か所について断面図を作成し付記しました。
なお、武相国境は瀬谷以北は分水嶺ではなく境川が国境線となっています。
武相国境には製鉄の拠点という重要な役割もありました。
すなわち、大和朝廷の勢力が鉄器文明を広めながら通過した動脈路であったわけです。
港南区から栄区に入った鼬川流域には﹁金﹂のつく地名が多いのです。
鍛冶ヶ谷はその代表的な製鉄の地であり、たたら場でもありました。
製鉄関連の炉が18か所、鉄精錬の炉が14か所、製銅の炉が1か所、砂鉄を出した竪穴遺構、鍛冶ヶ谷式の横穴古墳などさまざまな製鉄関連の遺跡が点在しており、7世紀?9世紀前半にかけてこの丘陵地域一体を掘削して平地をつくり、大規模な製鉄操業を行っていたと考えられます。
踏鞴製鉄(「鑪(たたら)」 せいてつ、英:tatara iron making method)とは、世界各地でみられた初期の製鉄法で、製鉄反応に必要な空気をおくりこむ送風装置の鞴(ふいご)がたたら(踏鞴)と呼ばれていたためつけられた名称。 日本列島においては、この方法で砂鉄・岩鉄・餅鉄を原料に和鉄や和銑が製造された。こうして製造された鉄や銑は大鍛冶と呼ばれる鍛錬によって脱炭された。この方法で和鋼が製造されたこともあったが現在では行われていない。他には和銑を再度溶融し、鉄瓶などの鋳鉄製品を製造する原料ともした。 (出典: ウィキペディア) |
金井村、カナクソ︵鉱滓︶、金沢、金谷︵横須賀︶、金谷︵房州︶・・・・これらの地点を結ぶと、日本武尊東征路、武器の輸送、製造、修理の足跡を辿ることができます。
また、港南区から栄区、たたら場のあった周辺には白山神社が多くあります。
白山神社は鉱滓と関係が深い神社です。
たたらの立地条件は大量の炭を確保するために広大な面積の山林を必要としました。
﹁粉金七里﹂は、原料の砂鉄を仕入れるのは七里先までという言葉です。
七里堀の七里は、ここから来ているのかもしれません。
武相国境についてもムービーとして作成してみました。
︵ネット上ですので画質を落としています︶
高低差を5倍強調していますので分水嶺であることを体感できると思います。
クリックしてご確認ください。
⇒ムービーを再生(WindowsMediaVideo)
吉富様
下水道雨水管の設置により流域が微妙に変化していく事例ですね。
貴重な情報をありがとうございました。
投稿者 kameno | 2009年2月22日 17:00