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生まれてから死に至るまで、人の一生の長さをあらわすことばに、享年とか行年というものがあります。
お位牌や、墓石によく刻んであることばですね。
行年(ぎょうねん)生まれてから経た年数。特に仏教語というわけではない。例えば、『荘子』天運に「孔子、行年五十有一にして道を聞かず」とある。日本ではしばしば<享年>と同一視し、天から享けた寿命の年数、亡くなった時の年齢を指す。なお、<行年書>は、書画の落款に行年と氏名を記したもの。
「園寺の長吏に補せられて、寺務年久しく、行年七十五にして滅せられけり」『粉河寺縁起』
岩波 仏教辞典 岩波書店・中村元 他編より
このように、行年・享年とは、「天・大自然から享(う)けた年数」という意味で、この世に存在した年数のことです。
また行年とは「この世で修行した年数」の意味で、すなわち娑婆世界に於いて修行した年数という意味としても用いられたりします。
結論としては、同じ長さを指し、通常は次に述べる方法で計算しますが、この年数が数え年と、かなりの確率で一致しますから享年=数え年という誤解も生じてきます。
もちろん、慣習により実年齢で記載する場合もありますので、その点は予めご了解ください。
さて、数え年の数え方ですが、昭和25年12月22日に「年齢計算ニ関スル法律」が施行されるまで使用されていた数え年の計算方法、
【生れた年を1歳とし、以後、正月元旦毎に1歳ずつ加えて数える】
という方法をとります。
対して、享年(行年)は、
【誕生日の十月十日前の日から、死を迎えるまでの年を数えたもの】
なのです。
どういうことかお分かりですね。
すなわち、精子と卵子が出会い受精し、いのちが誕生した瞬間から、一人の「人間」として捉え、その瞬間から享年・行年を数えることが正式な数え方なのです。
(繰返しますが、数え方に慣例がある場合はそちらを優先しますのでご了承ください)
ちょっと判りづらいと思いますので、図にしてみました。
参考までに、法律上では
民法 第3条 私権の享有は、出生に始まる。 ※出生=生きている胎児が母体から全部外に出たとき
とあり、胎児が体内にあるうちは、人としては扱われません。
胎児には人権も何もないのです。
蛇足になりますが、享年=誕生日から十月十日前の日から、死を迎えるまでの年を数えたものというのは、実は科学的には正確ではありません。
妊娠期間の数え方は、WHO(世界保健機構)によると、次の通りです。
・最終月経初日を妊娠0週0日とし、順次妊娠日数、妊娠週数を計算する。
・正常妊娠持続日数は280日とする
・28日を妊娠歴の1ヶ月と定め、妊娠持続を10ヶ月とする
・7日を一週と定め、妊娠持続を40週とする
・妊娠満週数で数えることとする(妊娠月数のみは従来の慣用により「かぞえ」が用いられることがある)
すなわち、正確にいのちが誕生した日というのは、誕生日から280日引いた日(この日は月経初日)から排卵日までの日数と、受精に至るまでの期間を考慮しなければなりませんから、通常は二週間ほど短く(十月十日ではなく、265日くらい)しないといけないかもしれませんね。
いずれにせよ、大自然(大宇宙)から私たちが誕生して、そしてまた大自然に帰っていく、その意味が享年・行年に込められているのです。
享年・行年=【この世に「生」を受けた日から、死を迎えるまでの年を数えたもの】
いのちが誕生した瞬間から、一人の「人間」として捉える。そして、一生を全うして、死を迎え亡くなってから四十九日までの、新しいほとけさまには戒名の前に「新帰元(しんきげん)」=あたらしく、もとに かえる と記載される・・・・
大自然(大宇宙)から私たちが誕生して、そしてまた大自然に帰っていく・・・・・素晴らしい考え方ですね。
【関連トピックス】
http://teishoin.net/blog/000123.html
行年に関する、ご意見と知識、とても参考になりました。
母体から生まれ落ちる前に、すでに生命は誕生してるという考え方ですね。
行年とは娑婆世界での修行年数であるという捉え方も素晴らしいと思います。
命は、大自然(大宇宙)から生まれ、大自然に帰っていく。
本当に素晴らしい考え方です。
投稿者 りょう | 2005年11月12日 12:17
私たちの年齢の数え方は、数え年にしても、今の年齢の数え方にしても、どちらも母体から生まれ落ちた日から数え始めますが、行年の数え方で年齢をあらわしても良いかもしれませんね。
特に、僧侶の年齢は行年表記の方が、適切なような気がします。
投稿者 kameno | 2005年11月15日 01:31
こちらでははじめまして。昨日は失礼を致しました。きちんとご挨拶ができませんでしたので、失礼をしてしまい恐縮しております。
ご教授有り難うございました。とてもわかりやすくご説明して頂き勉強になりました。
今後とも宜しくお願い致します。
投稿者 風月 | 2007年10月19日 10:30
風月さん
昨日はお疲れ様でした。こちらこそ挨拶が十分にできず済みませんでした。
享年の考えは、至極当然ではありますが、実生活の中ではこのことを知らない方が多いことも事実です。
分かる方には分かるのでしょうけれども。
仏教の考え方がいかに自然の摂理に適っているのかということがよく分かります。
こちらこそ、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
合掌
投稿者 kameno | 2007年10月19日 23:06
対して、享年(行年)は、
【誕生日の十月十日前の日から、死を迎えるまでの年を数えたもの】なのです。』と、「なのです。」と言い切っておられますが、どこから、引用されましたか?、どこの辞典に載っておったのでしょうか?根拠をお知らせください。お尋ねいたします。よろしくお願い申し上げます。 qzm05261@nifty.ne.jp かんチャン
投稿者 かんチャン | 2008年7月19日 11:58
かんチャンさん
コメントありがとうございます。
まず、「享年」は、天から享けた年ということで、これは岩波『仏教辞典』のとおりです。
人の生が、母親の胎内に宿った時からはじまるという根本的な考え方を元に、それを制度化したものが数え年であろうと考えます。
数え年の考え方が、どのような考えを元にできた制度なのかを調べると、自ずとご質問の回答が得られると存じます。
なお、インドでは数え年が現在でも用いられております。
ですから、生物学的、根源的には、生命としての始まりの時点から数えるのが享年の考え方だと存じます。冒頭に述べたように、この世に「生命として」存在した年(数)が享年なのですから。
ただし、本来的な意味とは異なる運用をされる場合もあることは、当然ありえると思います。
投稿者 kameno | 2008年7月19日 13:23
【人の生が、母親の胎内に宿った時からはじまるという根本的な考え方を元に、それを制度化してものが数え年であろうと考えます。】【生物学的、根源的には、生命としての始まりの時点から数えるのが享年の考え方だと存じます。】以上のお答えありがとうございました。
以上2点とも、『数え年であろうと考えます。』『享年の考え方だと存じます。』と、ご自分の考えのように読みとれますが、ご自分の考えですか?それとも、誰かに聞いた話ですか?どこかの書籍に記載されていたのですか??わたくしは、上記の2点の根拠を知りたいのです。よろしくお願い申し上げます。かんチャンqzm05261@nifty.ne.jp
投稿者 かんチャン | 2008年7月20日 19:13
論拠の一つとなるのは『倶舎論』でしょう。
antaraa-bhava=中有 (死から次の生を受けるまでの期間)
upapatti-bhava=生有 (生を享けた瞬間、母親の胎内に宿ったとき。)
puurva-kaala-bhava=本有 (生を享けてから死までの期間)=享年
maraNa-bhava=死有 (死の瞬間)
『正法眼蔵』「道心」では
また中有の身を受けて、七日あり、
いかに久しと云えども、 七日をば過ぎず、
<中略>
既に中有を過ぎて、
父母のほとりに近づかんときも、
あいかまいて正智ありて託胎せん
これは一例ですが、一つの論拠だけでなく、さまざまな考えが元となって、享年や数え年の考えに結びついている (先の回答で書かせていただいたとおり、数え年の起源についてはそれこそたくさんの文献がありますから、ここでは逐一あえてご紹介しません)のです。
実際問題として、社会一般的に誕生日を「母親の胎内に宿ったとき」として、規定することは困難だと思います。ですから、「生有」の考えを元に制度的に1月1日を誕生日とするシステムが数え年だという意味で書かせていただきました。
かんチャンさんは享年をどのようにお考えですか?
投稿者 kameno | 2008年7月20日 21:33