松ケ崎横穴古墳群の現状

松ヶ崎古墳群の現状については港南歴史協議会でも度々話題になっており、一度詳しく見てみたいと思っていましたが、なかなか 現地に赴くことが出来ず、昨日になってようやく叶いました。

まずは、松ヶ崎古墳に関する2つの調査報告をまとめてみます。
両者の記述に差異がみられます。
その原因は周辺の土地開発や道路拡張、自然環境の変化による古墳の崩落のほか、かなり草木が生い茂っている場所であるために見つけることができなかったということがあるのではないでしょうか。

 

『神奈川県埋蔵文化財調査報告・港南台』 (昭和51年刊)の記述 『港南の歴史』 (昭和54年刊)の記述
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注・写真と調査古墳の図をkamenoにより合成

相模湾に流入する柏尾川の支流に、水源を円海山の丘陵に求めて流れ込む。鼬川やその上流の稲荷川がある。これらの川が開いた沖積低地を生産の場として利用しながら、旧鎌倉郡鍛冶ヶ谷村の集落が形成されていった。

松ケ崎横穴古墳のあるところは、この鍛冶ヶ谷村と宮ヶ谷村の境で、古くより松ケ崎と呼ばれる舌状地形の南側斜面である。現在は港南区日野町榎戸3801番地の山林で、この台地上には、県立港南高等学校が建設されている。
<中略>
松ケ崎の南斜面に分布する横穴古墳群は、不揃いだが上、下二段に分列して、8穴が開口している。斜面一帯は雑木に覆われ更に雑草が級密に繁茂しているために、他に埋没しているものもあると思われるが、探査することはできなかった。
外部より開口していることが確認出来たものでも、斜面の表層が崩壊浸蝕されて横穴の中へ流入し、僅かに覗くことができる程度のものであった。
<中略>
外部より観察した結果、下段に横列する5穴のうち、その中央部にある1穴は、複式玄室の構造をもつ横穴で羨門の部分は欠失していたが、前室と玄室の区別が明瞭であり、前室は方形で流入した土砂、岩塊によって半ば埋没していた。
他の横穴は複式のものではないようであったが覗き見る程度では、確証は出来ない。
然しこの斜面に分布する横穴古墳群は、比較的古い形式のものと、それより新しい形式のものとの2形態に分類できるようであり、方形で復式の玄室をもつものは、横穴古墳の編年上古い形式に属するものではないだろうか。

最近現地を再度訪れる機会があったが、この傾斜面の上端部に補壁工事が施されているのを見た。開発地域内の遺跡保存が、いかに困難であるかのあかしともなろう。横穴古墳は傾斜面に残されても、外側に石垣の補壁工事が施された場合は、遺跡は消滅したことに等しいであろう。

松ケ崎横穴古墳群は、古墳時代後半期の墳墓であり、この墓群が成立するためには、この附近にその母体ともなる集落址が存在しなければならない。古墳時代後半期と考えられる集落址は、この横穴群より北の直線距離で図上480mの地点に榎戸第2遺跡の集落地がある。更に南へ図上500mの位置に稲荷森部落があり、その裏手の台地に土師器片が散布していることが確められている。この両遺跡が松ケ崎横穴古墳群に最も近い距離にあると思われる。なお、稲荷川に臨む台地上には、他にも士師器、須恵器などの散布する場所があり、いずれがこの横穴古墳群と有機的な関係があったかは論断できないが、鼬川や稲荷川の形成した沖積低地を生産のきばんとして成立発展してきた古墳時代後半期の集落が、この横穴古墳群の近くに多数存在していた事実は、この水系とそれに伴う沖積低地の生活圏に所属して活動していた部落集団のいずれかが構築したものと考えることが出来よう。

所在地 港南区日野町榎戸3801番地の山林

神奈川県立港南台高校のある丘陵上の西側、東京電力の鉄塔のある舌状台地南斜面の裾の部分に松ケ崎横穴古墳群は立地する。この地域一帯は港南区と戸塚区の区境にあたる部分で東の方へ流れ出る川は日野川となり大岡川を経て東京湾に注ぐ。西の方へ流れ出る川は稲荷川・鼬川・柏尾川となり相模湾に流出する。この分水嶺の両側にある集落が戸塚区鍛治ケ谷であり、港南区日野町の宮ヶ谷であった。

この付近は現在では開発のためかっての樹枝状の丘陵地形は削平され平担地となったが、横穴古墳の現存するこの地域は現状のまま保存する計画になっている。

写真の松ケ崎横穴古墳は上下2段に8穴が確認(港南台遺跡調査報告書1978)されている。この中の5穴を調査したがそのうちの2穴は中に入ることができるが他は入り口付近がくずれ、また、開発工事による土砂が中に流入したり、水が溜り中に入ることはできない。この調査は1979年2月編集委員と笹下中学校社会研究部員が行なったが8穴のうち、3穴は確認できなかった。開発工事による消滅と思える。

この横穴古墳の成立年代は古墳時代の終末期にあたる、7世紀後半のものであろう。図上の写真の傾斜地の樹林の中に図のような配置で構築されている。1・2は単式の羽子板状の平面を示し3~5は前室と奥室のある複式の横穴古墳である。
5号横穴は複式のものである。<中略>この羨門は斜面の土砂の流入がある。前室は奥行き2.7m・幅1.8m・高さ1.56m、前室の奥壁中央には写真中の幅0.7m高さ0.5mのアーチ型の入口がある。奥行き2.18m・幅1.5m・高さ1mの遺骸を納めたと思われる奥室がある。
1号古墳は高さ0.7m・幅1mの羨門から奥行1.7mの羨道、更に奥行3.2m・幅2.5m・高さ1.95mの奥へ行くに従って広がる羽子板状の平面をもつ。

このような横穴古墳が成立するためにはこの付近に古墳時代の集落が存在しなければならない。北側に榎戸第二遺跡、南に稲荷森遺跡があり、周辺には土師器片が散布している。またこの松ケ崎の西方には戸塚区の鍛治ケ谷横穴古墳群。七石山横穴古墳群・滝ケ久保横穴古墳群が続く。
鼬川・稲荷川の流域に広がる沖積地で水田耕作がおこなわれ、生活の舞台となり、このような古墳文化をはぐくんだものと考えられる。



下の写真は、昨日撮影した前述の報告書と同じ場所(松ヶ崎古墳全景)です。
高圧電線の鉄塔の形の変化や周辺の住宅の様子に約40年もの時代の変遷を感じます。
それでも、古墳群は県立港南台高校(現在は県立立野高校が管理)敷地にあるために開発から逃れることができました。舌状地形の輪郭もかつての形を残しています。

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GoogleMapの航空写真で『港南の歴史』に記載されている1~5の横穴をプロットしてみました。
【下の航空写真参照】
右下の矢印は、松ヶ崎横穴古墳群全景を撮影した場所です。
なお、①②③④⑤がそれぞれ『港南の歴史』に記載されている1号~5号の横穴です。
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『港南の歴史』によれば、①②が単式、③④⑤が複式とのことですが、③④⑤は草に覆われていたためか、既に失われてしまっているか、発見できませんでした。
しかし、⑤は本文にあるように相当大きな複式横穴墓とのことですから、草が無くなる冬の時期に丹念に調べればきっと見つかるでしょう。

 

■航空写真①の位置

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直ぐに見つけることができたのは↑こちら。
航空写真でいう②の位置です。位置口が狭く半ば埋まっていたので良くわかりませんが、単式羽子板状のように見えます。

 

■航空写真②の位置

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2番目に見つけた横穴は、①の横穴墓の直ぐ右横にある横穴墓です。航空写真でいう②の位置です。
位置関係と状況から判断して『神奈川県埋蔵文化財調査報告』にある「下段に横列する5穴のうち、その中央部にある1穴 」は、この横穴墓と見て良さそうです。
『神奈川県埋蔵文化財調査報告』『港南の歴史』によると、これよりさらに右側に3つの横穴墓がありそうですが、びっしりとヤブカラシなどの草に覆われていて、とても入ることはできません。
草の無くなる時期に、立野高校の許可を取った上で丹念に調べてみたいものです。

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以下は『港南の歴史』では記載の無い横穴墓です。

 

■航空写真⑥の位置

下写真の横穴墓は①の横穴墓の直ぐ西側にあり、航空写真では⑥と記載しました。この⑥が昨日見た中で一番大きなものでした。
なぜ、港南の歴史編集委員と笹下中学校社会研究部員による調査でこれだけ大きな横穴墓が見逃されていたのか不思議です。
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前室の奥壁中央にはアーチ型の入口があり、遺骸を納めたと思われる奥室もきちんと残されています。
保存状態も良く、前室天井の鑿岩模様も、奥室入口の淵取模様もはっきりしています。


■航空写真⑦の位置

⑥の直ぐ西には、↓崩壊し埋没している横穴=航空写真の⑦=がありました。
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ということで、この日見つけることが出来たのは4穴=航空写真でいうところの①②⑥⑦でした。
松ヶ崎横穴古墳群は、運良く開発から逃れて現状保存されてかつての姿を残していますが、今後適切な保存が為されないと失われてしまうでしょう。

投稿者: kameno 日時: 2010年9月22日 01:27

コメント: 松ケ崎横穴古墳群の現状

亀野さん、こんにちは

お忙しい中、詳しい報告を揚げて頂き、有難う御座いました。
この残暑厳しい中、お一人で調査されたのでしょうか?
この記事を基に、「埋蔵文化財センタ-」のご協力、ご指導を受けながら、更なる調査・保存に向けて活動を続けて参りたいと思いますので、今後ともご協力を宜しく お願い申し上げます。
ご指摘の様に、この場所は元港南台高校があった土地で、現在尚、神奈川県所有地である事が幸いしています。縦割り行政の枠を超えた文化財保存の仕組み作りが、求められると思います。

投稿者 ちのしんいち | 2010年9月22日 12:41

ちの様
当該の土地は、現状県立立野高校が一時的に管理している状態のようですが、数年後には民間に売却される可能性もありますね。
今のうちに保存活動を進めなければ、開発の波に飲み込まれてしまいそうです。

投稿者 kameno | 2010年9月22日 18:36

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