亜炭を運ぶトロッコ

まずは、次の写真をご覧ください。

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昭和6(1930)年当時の上大岡、和田山から弘明寺・最戸耕地方面を望む
CC by 港南歴史協議会


戦前の、炭鉱から亜炭を運び出すトロッコとその線路が写っている貴重な写真です。
付近には広大な水田が広がっていました。
稲藁が干されていますから丁度秋の収穫シーズンですね。
影の状況から察するに午後2時くらいに撮影されたものでしょう。

以前の記事 港南区の炭鉱と戦争の影でご紹介した炭鉱坑口の写真から延びる線路が見えます。


さらに詳細に写真を見ていきます。
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赤い線でトロッコの線路をなぞってみました。
線路脇には、トロッコが幾つか見られます。トロッコは青丸で囲いました。
茶色の線は道路です。
写真の右上(緑丸)には湘南電気鉄道(現・京浜急行電鉄)の車両が見えます。一両編成ののんびりした電車ですね。
黄金町 - 浦賀間に湘南電気鉄道として鉄道が開通したのは昭和5(1930)年ですから開通したてですね。
この写真の撮影時期から数ヵ月後、横浜から野毛山のトンネルで敷設された京浜電鉄延長線と日の出町で接続、横浜・浦賀間の相互運転となります。

写真ではよくわかりませんが、このような車両だったのでしょう。


和田山(慰霊堂近辺)からの眺望をカシミールで再現したものを並列配置していました(上段右側)。
赤線で囲った四角の範囲が写真の範囲と一致します。
丘の稜線、道路の形など現在の地形から偲ぶことが出来ますね。

写真が撮影された場所「和田山」は、最戸2丁目、現在の戦没者慰霊堂の丘です。
なお、「和田山」の地名の由来は、近辺の急な坂道を利用して鎌倉幕府の要職にあった和田義盛が関所を設けたことによります。

このことからわかるように、鎌倉古道下之道が通っておりますので、古来から交通の要所でありました。


大正時代から戦中にかけて貴重な燃料資源としての亜炭が採掘されていたという事実を物語る貴重な資料です。

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地形図戸塚(昭和6年修正・昭和8年発行)



冒頭の写真には右部分をパノラマで写した続きの写真があります。

20091017-01.jpg20091017-05.jpg

右側の写真は上大岡駅方向を映しています。
こちらの写真にも左から5番目の架線柱の付近に湘南電気鉄道の車両が見えますね。


20091017-06.jpg


一枚の写真から得られることが沢山あることを実感できる写真です。


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投稿者: kameno 日時: 2009年10月17日 13:40

コメント: 亜炭を運ぶトロッコ

亀野さん、こんにちは
流石です。1枚の記録写真をIT技術を活用して、丹念に検証をすると沢山の史実が明らかになってくる事を教えて頂きました。当に、デジタルア?カイブとは、如何にしてIT技術を活用して、検証をするかだと思います。その技術力の凄さだと思います。一枚のポジ写真では、拡大鏡で見る以外には、この様に拡大も出来ません。デジタル画像にしてこそ、大変に細かい部分の映像も読み取る事が出来ます。有難うございました。

投稿者 ちのしんいち | 2009年10月17日 17:05

ちの様
コメント有難うございます。
映像の拡大については、どう逆立ちしてもやはりオリジナルには敵いません。
実は、一枚目の写真で湘南電気鉄道の車両・・・と書きましたが、疑問も残ります。
それは、電車に必要な架線が見えないことです。
上大岡近辺を写した写真ではかなり大きな架線と架線を支える電柱が見えますが、それが無いのです。
理由としては
(1)霞んでしまい写真にはっきりと写っていない
(2)一枚目の写真は電車開通前に撮影されたものであった
などが考えられますが、そうだとすると二枚の写真は同時期に撮影されたものでない可能性も出てきます。
いずれにしてもその検証を行なうためにオリジナル写真を再度精査してみたいものです。

投稿者 kameno | 2009年10月17日 18:44

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