川を挟んだ港南中学校

ハマちゃんのがらくた箱というサイトに興味深い記述がありました。

【上大岡資料集】川を挟んで港南中学校!?


実は昭和24年に学校が出来た時は校地の真中を幅5m・長さ300m・深さ10mに亘って日野川が流れ、教室移動の度に生徒達は校庭内に架かっていた橋を渡っていたのだそうでした。
あまりにも不便・危険であった為昭和26年に河川改修して現在の形状になったそうです。
(ハマちゃんのがらくた箱より一部引用)

さっそく、地図と航空写真で検証してみましょう。


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迅速測図 昭和初期


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昭和22年6月製版 横浜市復興局 (当時)作成 (横浜開港資料館所蔵)

終戦後まもなく作られた横浜市復興局による地図では、川の形状がだいぶ省略されて描かれています。
ほぼ同時期に撮影された↓航空写真では、川は明治初期とほぼ変わらず蛇行していますから、そこまで詳細に描く余裕が無かったのでしょうか。


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昭和22年11月5日撮影 米軍


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昭和23年1月18日撮影 米軍

↑↓この2枚の写真を比べると、この間に港南中学校の校舎ができたことがわかります。
  (校舎完成は昭和24年6月20日)

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昭和24年2月28日撮影 米軍

校庭の真ん中を川が横切るというよりは、端をかすめる形になっていますね。
ハマちゃんのがらくた箱に記載されている「教室移動の度に生徒達は校庭内に架かっていた橋を渡っていたのだそうでした」という状況は、この写真からは読み取れないようです。


↓の地図を見ると、川の向こう(西側)に校舎ができています。
この西側校舎が建てられた時期が川が改修されたとされる昭和26年以前であったとするのなら、その時期が「教室移動の度に橋を渡って・・・」ということになると考えられます。

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昭和29年12月測図 昭和36年11月修正測図 横浜市作成


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昭和31年3月10日撮影 (国土地理院)

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昭和38年6月26日 (国土地理院)

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昭和43年6月6日

まさにハマちゃんのがらくた箱に書かれているように、地図はタイムカプセルです。
時系列で同一場所を追っていくと様々な発見があります。

ちなみに、港南区は1969 (昭和44 )年に南区より分区いたしましたので、ここで紹介した地図や航空写真には当然港南区役所は写っていません。
(現在の港南区役所の位置は、鎌倉街道を挟んで港南中学校の向かい側です)


蛇足ですが、学校の校庭を川が横切っている例は幾つか他にもあるのです。
下の航空写真は東京の井荻小学校の例です。
現在でも教室移動の度に川に架けられた橋を渡るという光景が見られます。
川には安全のために網が被せられています。

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Google Mapより


■おしらせ

「映像(写真)で見る「港南区の歴史」講座」


港南歴史協議会では、港南図書館と共催で歴史講座を開催いたします。
地図や航空写真を用いて地域の歴史の変遷をたどっていきます。
皆さまのご参加をお待ちいたしております。


日時 :2月28日(土)午後2時から4時
会場 :港南図書館 会議室
講師  :亀野哲也 (私が担当します)
参加費:無料
定員 :先着40名 (2月12日(木)午前9時30分から港南図書館カウンタ?、または電話(045-841-5577)、FAX(841-5725)にて受付)


(同時に、貞昌院で撮影した航空写真の時系列展示も行います)

投稿者: kameno 日時: 2009年1月10日 23:00

コメント: 川を挟んだ港南中学校

茅野様からメールいただきましたハマちゃんです。

「がたくた箱」をご覧いただきましてありがとうございます。
港南中学構内の橋の写真は何処かの本に載っていたものをたまたまコピーしていたものを使用したので、出展元がはっきりしません。図書館か子供達が港南中学に通っていた時分の資料のどちらかだとは思うのですが?

また私の題材を話題にしていただきまして感謝しております。現在米軍地図について興味が集中しておるところですが、米軍写真を実にみごとにご利用されているのには敬服いたしました。米軍になりかわりお礼いたします。
戦後直後に全国の航空写真を撮影した米軍は、軍事的な目的もあったのでしょうが、現在になると貴重な歴史的資料としての多大な価値を持ったものとなっております。

2月28日は所用で講座に伺う事ができませんが、後日お会いできればと思っております。私も個人的な興味でやった事ですので、学問的には何も分りませんそれでよろしければと思っております。その節はよろしくお願いいたします。

投稿者 ハマちゃん | 2009年1月11日 14:48

ハマちゃん様
この度はありがとうございます。
港南中学校は、住職も副校長として勤めていたことがありますし、檀家さんの中でも校舎完成時に通学されていた方もいらっしゃいます。
当時は現在の正門とは反対側から通う方も多く、どうやら大岡川を渡り学校に入る橋が貴サイトで掲載されていた橋のようでもあります。
このあたりのところは、もう少し詳細に検証してみたいとおもっています。
それにしても米軍の情報収集能力はとてつもなく大きいです。
それが徐々に公開されてきていますので、史実を振り返る上で大きな手助けになります。
お目にかかれます日を楽しみにしております。

投稿者 kameno | 2009年1月12日 14:31

亀野さん、この過去からの地図記録の対比で探るデジタルア?カイブは素晴らしい検証手法であり、凄いと思います。
日野川が吉原から港南中央の間で昭和24年までの地図の上で、あれだけ大きく蛇行しており、昭和29年の地図の上では直線的に改修されています。当にこの5年間の歴史です。
私達の知らない歴史であり、驚きました。この間の街の姿を知っている人達のお話を伺いたいですね。
港南区には、この他の大きな街の変化は上大岡駅周辺の大岡川沿いの「かまくら道」から現在の「鎌倉街道」の敷設もあります。
区制40周年、港南区役所が出来た昭和44年には鎌倉街道は港南中央までが片側2車線道路で、吉原から南は片側2車線道路でした。40年かかって栄区の鍛治ケ谷まで、やっと4車線道路に拡幅された事になります。
貞昌院の前の環状2号線の変化も大きいですね。
これからも宜しく、お願い致します。

投稿者 ちのしんいち | 2009年1月12日 18:00

茅野様
地図と航空写真を時系列に並べると興味深い考察ができます。そこに実際にいらした方の証言が加わると貴重な資料が出来上がりそうですね。
最近完成した鎌倉街道、最後までかかった七曲は難所だったようです。当初の東海道線敷設計画として上大岡?七曲?大船という「鎌倉街道」沿いに通る計画が断念されたのも七曲を通すのが困難だったからのようですから。
鎌倉街道も拡幅によりずいぶん便利になりました。

投稿者 kameno | 2009年1月13日 00:01

亀野さん、ハマちゃん、とご一緒に鎌倉街道の拡幅の歴史を、当初の東海道線敷設計画と合わせて、発表して頂くと大変興味ある報告になると思います。最近では港南区から七曲の切通しを抜けた先の鍛治ケ谷も山の法地斜面の樹木が伐採され、その法地に住宅やマンションが出来、すっかり景観が変わりました。
戦後昭和25年以降の港南区の大規模宅地開発により、港南区内の里山の景観は全く変わりました。是非、港南台や野庭地域だけでなく、港南区内の地形(等高線)の変わった様子を再度、ビジアル画像で持って、皆さんへご説明をして下さい。
地図と航空写真、当時の景観写真を時系列に並べて報告する事は、そこに実際にいらした方々の証言(「声」を聞く)を引き出す、キッカケつくりになると思います。今後とも宜しくお願い致します。

投稿者 ちのしんいち | 2009年1月13日 09:46

ちの様
根岸線の港南台駅計画にしても、東海道線敷設計画にしても興味深い歴史があります。地図を使って概観していくのこともおもしろいですね。
2月28日、港南図書館での講演にむけて資料を整えていきたいと思います。

投稿者 kameno | 2009年1月13日 12:22

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