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昨日のブログ記事で、根岸線の路線構想図の中で、新大船(現在の本郷台)から大船に直線で結ばれる構想があったことがわかります。
この路線は具体的にどのような路線を想定していたのでしょうか。
航空写真と地図から検証してみましょう。
まず、現在の状況から。
環状4号線(県道23号線)「笠間十字路」に立つと、東北東方向に斜めに伸びる直線道路が眼に入ります。
この道路は、戦後まもなくに撮影された航空写真にもはっきりと写っています。
太平洋戦争中、現在の本郷台駅周辺は、旧大日本帝国海軍の第一海軍燃料廠がありました。
したがって、戦時中はこの道路はとても重要な役割を果たしていたことがわかります。
栄区役所のホームページには次のような記述があります。
1938年(昭和13年)から、現在の本郷台を中心とする、小菅ケ谷、公田、桂地区の大水田地帯をつぶして、海軍の燃料廠が建設されました。この地域は本郷村の穀倉地帯で、春はレンゲ草が咲き乱れ、夏は一面の青田が広がり、秋ほ稲穂の黄金の波が美しい豊かな田園地帯でした。
今の城山橋の手前が正門。柏陽高校の運動場の東づめが東門。警察学校横のT字路が西門で、現在柏陽高校、消防学校、警察学校、栄区役所、野村コーポ、本郷台駅及び駅前高層住宅群、栄土木事務所、下水処理場、信光社等のところがその本部。栄警察署、南農協本郷支所、公会堂・栄スポーツセンター、消防署、保健所、地区センター、本郷中学校は工員宿舎・養成工寮・購買部等の付帯施設でした。共済病院は付属病院で、このほか鎌倉女子大は分室、笠間の公務員宿舎は将校クラブ、小菅ケ谷住宅や岩井口付近のほとんどが職員宿舎でした。
大船から笠間十字路を経て警察学校への道路もこの時に造られ、それによって水道が初めて本郷に引き込まれました。この道路は水道みちと呼ばれました。また、この道路に沿って、大船駅から鉄道の引込線が敷かれ小型のSLが貨車をひいて走り、電気も高圧線が引き込まれ、周辺の住宅にも昼間の通電がされました。原宿六浦線もこれと関連して、追浜の海軍航空隊と燃料廠と厚木の航空隊を連結する道路として建設されましたが、笠間大橋は完成しないうちに終戦となりました。これら燃料廠関係の施設の建設は本郷村の開発についての方向付けをしたことになり、今日の本郷の基本図となっています。便利になった事や所がたくさんありますが豊かで美しい本郷村は歴史の彼方へ消え去ってしまったのです。
第一海軍燃料廠と横浜市との合併(栄区役所)より引用 下線はkameno付記
つまり、海軍の戦艦、航空機、ロケット戦闘機「秋水」などに使用する燃料、潤滑油を研究、製造していた施設が現在の本郷台にあり、そこに結ばれる貨物船が引かれていたのです。
第一海軍燃料廠が建設されたのは1938年(昭和13年)。
航空写真を判読すると、現在の大船駅北口出口あたりにプラットホームが見え、ここから笠間十字路~第一海軍燃料廠まで線路が延びています。
笠間大橋はまだ出来ていませんね。
(1946/03/05米軍により撮影 国土変遷アーカイブより)
※鉄道の線路を赤線でなぞってみました。なお、南側に見える工場は、三菱の工場と思われます。
第一海軍燃料廠内部には
第一~第六研究室、第一~第九実験室、特殊潤滑油製造所、ヘックマン式真空蒸留室、グリース製造所、耐爆熱実験室、第一過酸化水素連接濃縮工場、第二過酸化水素連接濃縮工場、過酸化水素フラスコ濃縮工場、第一航空発動機実験場・実用機械、第二航空発動機実験場・ロケット燃料テスト、特殊燃料実験場、高圧燃料実験、潤滑油試験機関室 ディーゼルエンジン実験場・31型単箱ディーゼル及61型高速試験機関、ボイラー燃焼実験場、石炭液化実験場、低温低圧実験場、揮発油重合実験場、原油蒸留実験場、化学工業研究室や、それに付随する宿舎、病院などの施設があったようです。
ここからトラックにより追浜の海軍工場とを結ぶ軍用道路(現在の環状4号線)を通り、貨物列車により工場引込線から大船を通って物資が追浜や横須賀方面へ物資が運ばれました。
第一海軍燃料廠は、1952年(昭和27年)に駐留軍により接収され「米軍大船PX」となります。
根岸線建設計画において、新大船(本郷台)駅の設置場所については、この米軍大船PXが最適であると検討されます。
PXの全敷地面積は35万平米あり、米軍から払い下げされる目処がついたこと、周辺地区と併せて新しい街の形成が見込まれることにより、PX敷地北側を駅用地として確保できるように交渉が開始されました。
また、大船ー本郷台間は飯島を回り込み半円状に結ばれる路線が選定されました。
根岸線建設の時期と同時期には、東海道線の増線工事も同時進行で行なわれており、そのために根岸線の本郷台?大船間を先に行い、大船で一部根岸線を東海道線増線工事の切替に使用するということがなされたようです。
そのために、根岸線は横浜?港南台、本郷台~大船の部分が先に出来、港南台土地区画整理事業との兼ね合いがあった港南台~本郷台の部分が最後に竣工することとなりました。(昨日のブログ参照)
同一範囲の地図を並べてみました。
(左)地形図「戸塚」昭和20年部改・昭和22年発行 (右)地形図「戸塚」平成13年改測・平成14年発行
※なお、左側地図には史料をもとに第一海軍燃料廠の施設名称をkamenoが付記しています。
戦時中
昭和40年代前半
昭和50年代
参考文献
栄区の歴史「38 昭和のころ」 - 横浜市栄区役所
いたちかわらばん(通算30号)- 横浜市栄区役所
『根岸線工事記録』(昭和49年3月 日本鉄道建設公団東京支社)
おはようございます!
茅野様からのメールでこの記事の事を知りました。
これだけの内容充実したブログを早々に作成されたのには、驚嘆しております。
ひとつ教えていただきたいのですが、地理院の航空写真は閲覧は出来てもコピーは出来ないと思っていたのですが、亀野様の写真を見ると、コピーしたのではと思いますが、もしコピーできるのでしたら教えていただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
投稿者 ハマちゃん | 2009年11月30日 09:47
ハマちゃん様
笠間十字路をSLが横切っていたということですが、軍需物資を運ぶものだったために記録写真が見つかっていません。
大船駅北口付近に有ったはずの貨物用プラットホームについては、もう少し詳細な記録があるかもしれません。もう少し調べてみます。
さて、空中写真の件ですが、非営利の場合は版を購入し出典を明記すればWebや印刷物に自由に使ってよいとのことです。
空中写真の取扱は(財)日本地図センターで、密着焼印画 23cm×23cm一枚で 1,150円 となります。
http://www.jmc.or.jp/index.html
投稿者 kameno | 2009年11月30日 10:48
ネット上の写真からコピー&ペーストで使用する事は出来ないのでしょうか?やはり購入しないとダメでしょうか?
以前の地理院の米軍写真はコピー出来ましたが、現在の国土変遷アーカイブは出来ない様になっているのではないかと思いますが、いかがでしょうか?教えていただければ幸いです!
大船の離山にある三菱電機(私が鎌倉学園にバス通学していた時は引込線のある所は確か社宅の様な建物がありました!)に引込線があった事は初めてしりました。ありがとうございました。
引込線の廃線跡を追っかけるのも楽しいものです!
鉄ちゃんより
投稿者 ハマちゃん | 2009年11月30日 17:45
亀野先生!
相変わらず......綿密ですね(笑)
脱帽もんです(京都残念です・泣)
投稿者 叢林@Net | 2009年11月30日 23:23
ハマちゃん様
国土変遷アーカイブが直接コピー出来ないようになっているのは、国土地理院側の「そうされたくない」意図があると思います。
廃線跡を辿るのは夢がありますよね。
大船近辺に限ってみても大船駅北側の住友電工への引込線の名残は現在も見ることができますし、JR大船工場の線路はまだそのまま残されています。
そういえば、大船駅南側には「平面交差」する珍しい線路もあったようです。
叢林@Net様
こんな感じでたまにトリビアネタを書いていきたいと思います。
京都は残念でした、又別の機会を楽しみにしています。
投稿者 kameno | 2009年12月 1日 12:56
親父が海軍燃料廠で従事していて、玉音放送のあと、慶応大学日吉に書類をはこんだと言っていました。もっといろいろと聞いておけばよかったと思います。先日27日朝に亡くなり、今日告別式を終え、父の昔を知りたく、さまよいここを見つけた次第です。
投稿者 池尾 | 2017年12月31日 23:25
池尾様
コメントありがとうございます。ブログをお読みいただき有難うございます。
玉音放送の後、日吉に書類を運ばれたというのは、海軍司令本部へ届けたのかもしれませんね。
関連の記事をこちらに書いております。
http://teishoin.net/blog/005074.html
http://teishoin.net/blog/005075.html
投稿者 kameno | 2018年1月 2日 13:03