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港南区役所に隣接する横浜刑務所敷地に「赤誠隊及図南報国隊殉職者碑銘」が祀られています。
太平洋戦争直前、日本統治下のテニアン島などに飛行場建設を行なった所謂「囚人部隊」の慰霊碑です。
しかし、石碑の裏側には看守・職員11人の名が刻まれているものの、受刑者については全く触れられていません。
ここに、横浜刑務所とテニアン北飛行場、横浜大空襲、広島長崎原爆の一連の流れをまとめてみました。
横浜刑務所は、根岸にあった刑務所が関東大震災で被害を受け、また周囲の都市化が進んだため、現在の上大岡周辺地元の誘致を受けて現在の地(港南区役所の隣)に昭和11年5月竣工した刑務所です。
竣工してまもなく、日本が戦争へと突入する情勢の中で、南方へ受刑者たちを派遣することが決定されます。
国のため…信じた囚人 北マリアナ・テニアン島広島、長崎に原爆を投下した米軍B29爆撃機の発進基地テニアン。太平洋戦争直前、その飛行場建設に網走や札幌、函館各刑務所はじめ全国から約千人の「囚人部隊」が動員された。日本の南洋進出を担った北マリアナの小島は米軍占領後、本土空襲の拠点に転じる皮肉な運命をたどった。
1939年(昭和14年)、対米開戦をにらみ飛行場建設を急ぐ海軍の要請で、司法省は前例のない受刑者二千人の南洋派遣を決めた。テニアン島と、マーシャル諸島ウオジェ島の二島に各1000人。
戦時中の刑事行政をまとめた「戦時行刑実録」(矯正協会編)によると、道内の刑務所は網走の136人を筆頭に札幌30人、函館22人、旭川(支所)19人の計207人を選抜。刑期の残りが1年半以上ある約300人の希望者の中から、50歳以下で猛暑の重労働に耐えられる頑健な者に絞り込んだ。
予想外に南洋希望者は多かった。「罪人でなく、一兵卒として国のために働くことに誇りを感じたと思う。任務を果たして仮釈放の期待もあっただろう」。元札幌刑務所看守長で、著書「北海道行刑史」にテニアン派遣を記述した重松一義さん(77)=東京都府中市、元中央学院大教授=は言う。
厳寒の北海道を出発、横浜港発の輸送船で40年2月、上陸した。炎熱下の密林で巨木を倒し、砕いたサンゴなどを敷いて舗装した。
網走勢は人数も多く、美幌飛行場建設の経験から手際の良さは群を抜いていたという。当時小学生の宜野座朝憲(ぎのざちょうけん)さん(77)=那覇市、沖縄テニアン会会長=は、遠くから受刑者を見た。「粗末な小屋が並び、網走の重罪人がいると父から聞いて子供心にどきどきした」
集団赤痢や腸チフスで24人の死者を出しながら、飛行場は真珠湾攻撃直前の41年10月、完成した。
(北海道新聞より)
昭和6年9月18日満州事変が勃発、上海事変、日華事変へと日本を取り巻く状況は戦時体制一色に染められてていきました。
横浜刑務所においても、他の刑務所と同様に軍服の肩章、暴雨外套、敷布、軍用石鹸等の軍需製品を主に海軍から受注して大量に生産していました。
また、構外作業として飛行場建設といった大規模なものが、全国から受刑者を集めて行なわれました。
横浜刑務所では、昭和13年7月から4ヶ月間北海道網走郡の飛行場建設作業に30人を派遣しています。
しかし、横浜刑務所の特筆すべきところは国内のみならず、南方の島に職員・受刑者を派遣しているということです。横須賀海軍鎮守府に近いということが理由です。
昭和14年10月、司法省は横浜刑務所を拠点として、全国から受刑者を集め、受刑者2000人の南方諸島・テニアン、ウオジェ両島飛行場等の建設作業への派遣出役を決定します。
派遣部隊は「南方赤誠隊」と命名されました。
全国からの受刑者の結集後、
昭和14年12月18日ウオジェ島へ先遣隊(職員9名・受刑者20名)
昭和14年12月22日テニアン島へ赤誠隊(職員56名・受刑者300名)
昭和14年12月22日ウオジェ島へ赤誠隊(職員43名・受刑者300名)
以降、両島にはそれぞれ約1000名が派遣されています。
両島における作業は南方の灼熱、繁茂する密林、高低差の激しい地形、数々の風土病といった悪条件下のものであり、その中で職員・受刑者を問わず赤誠隊一丸となっての突貫工事でした。
ウオジェ島は昭和16年1月16日に就業延人員284,180名をもって、テニアン島は昭和16年10月23日に就業延人員387,807名を持って全工事が竣工。両島の工事期間中に病気・事故等で職員10名、受刑者50名が犠牲となりました。
この犠牲者を弔うため昭和17年11月21日、横浜刑務所において赤誠隊及び図南報国隊の殉職者11名の合同慰霊碑が旧庁舎正門前に建立され、岩村司法大臣、中尾刑務所長の参列により序幕慰霊法要が営まれました。
それが冒頭の石碑です。
(左)炎天下、広大な飛行場用地を手作業で整地する「囚人部隊」=『日本行刑史散策』から
(中)テニアン北飛行場の現在。ジャングルの中に東西に貫く4本の滑走路が見えます。kameno撮影
(右)砂を敷詰めた2500m級の滑走路。エノラゲイはここから飛立ちました。kameno撮影
サイパン・ウオジェでの工事竣工後、トラック島への派遣要請により、トラック島春島図南報国隊と名を変えましたが、昭和16年に勃発した太平洋戦争の局面悪化で本国から次第に孤立し、凄惨な状況に追い込まれます。
昭和19年にはトラック島からの帰還船が米国の魚雷攻撃を受け撃沈、トラック島への大空襲により作り上げた滑走路、宿舎等は損壊、焼失。赤誠隊、図南報国隊員として南方に派遣され、その地に倒れた刑務官は40名、受刑者は442名にのぼり、その大半の遺骨はトラック島に仮埋葬されました。
日本の大きな誤算は、太平洋上での主力艦隊同士の一大決戦によって勝敗が決すると信じていたことであると思います。
従って、南洋の小島の防備が後手に回されてしまいました。
一方、連合軍は先ずは海兵隊を駆使して南洋の小島を制圧し、その飛行場拠点として日本本土に攻撃を行なう作戦を重点的に行ないます。
これにより、南洋群島では太平洋戦争後半において連合軍の上陸を許す結果となり、サイパン・テニアンの飛行場から日本各地への空襲の拠点となってしまいました。
B29が並ぶサイパン・アイズリー飛行場・CC:Wikiペディア
折りしも、あと数日で横浜大空襲の日、5月29日を迎えます。
横浜は日本各地に比べてかなり遅い時期に空襲が始まっています。
しかし、それは歓迎すべきことではなく、横浜が原子爆弾投下の候補地となっていたために空襲が行なわれなかったという、ただそれだけの理由に過ぎません。
1945(昭和20)年5月10日に行なわれた第2回目標選定委員会での原子爆弾の投下目標は下記の通りでした。
1.京都市:AA級目標
2.広島市:AA級目標
3.横浜市:A級目標
4.小倉市:A級目標
横浜大空襲は1945(昭和20)年5月29日に始まります。
理由はその前日に行なわれた第3回原爆投下目標標選定委員会で横浜が目標から外されたことによるものでした。
横浜大空襲も、1945(昭和20)年8月6日広島へ、8月9日長崎へ落とされた原子爆弾も横浜刑務所からの「赤誠隊」により建設された飛行場を拠点として行なわれました。
生き残った「赤誠隊」の方たちはどのような気持ちでこの報道に向かい合ったのでしょうか。
原子爆弾はテニアン島でB-29に搭載され、広島と長崎に投下されました。
・・・横浜刑務所の「赤誠隊及図南報国隊殉職者碑銘」は、敗戦後「戦争協力の責任を問われる可能性のある文書、証拠の物品」の一として連合軍の進駐を配慮し、砕かれ地中深く埋められてしまいました。
約20年の時を経て、昭和39年6月石碑は再び掘起こされ補修復元の上、再慰霊祭が行なわれました。
冒頭の石碑の写真随所に見られる大規模な補修跡、上部左が欠けた姿・・・・・砕かれ地中に埋められていたことを生々しく物語っています。
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横浜刑務所の戦時中の史実をまとめていただき、ありがとうございました。
受刑者で南方の送られ亡くなられた人達の記録を掘り起こしていければと願っております。「矯正図書館」には殉職者(職員)の写真帳は残っていますが、受刑者に関しては一切記録されていません。きっと終戦時に全て焼却されている事でしょう!公文書の保存が大事ですね!
投稿者 ハマちゃん | 2010年5月26日 18:13
ハマちゃん様
この度はいろいろな資料の所在をお教えくださりありがとうございました。
埋もれてしまっている史実は多いですね。それらをどのように掘起こして纏めていけるか。課題は多いですが出来る限り進めていきたいと思います。
投稿者 kameno | 2010年5月27日 23:46