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坐蒲棚製作記でご紹介してきました、孟宗竹で作成した棚ですが、竹の切り出しより約3ヶ月経過が経過しました。
今のところ、割れやカビは発生していません。
さて、孟宗竹といえば、道元禅師が中国から日本に持ってきたという説があります。
平安時代初期に創建された、海印寺の十院の一つである寂照院(京都府長岡京市)には、「日本孟宗竹発祥之地」の碑があり、道元禅師が中国・杭州より孟宗竹を持ち帰り当地に植えられたのが日本の孟宗竹の起源とされています。
まあ、真偽のほどは定かではありませんが。
けれども、日本における孟宗竹の歴史というのは、それほど古くはないのですね。
孟宗竹の語源となったのは、孟宗という人物です。
孟宗(もうそう)は、幼い時に父を亡くし年老いた母を養っていた。病気になった母は、あれやこれやと食べ物を欲しがった。ある冬に筍が食べたいと言った。孟宗は竹林に行ったが、冬に筍がある筈も無い。孟宗は涙ながらに天に祈りながら雪を掘っていた。すると、あっと言う間に雪が融け土の中から筍が沢山出て来た。孟宗は大変喜び、筍を採って帰り熱い汁物を作って母に与えると、たちまち病も癒えて天寿を全うした。これも深い孝行の思いが天に通じたのであろう。(孟宗竹の語源と言われる)Wikiペディア
この、二十四孝は、中国の模範にすべき24名の優れた人物です。
落語にも二十四孝のお話がありますね。
この孟宗竹は、その強い繁殖力により、日本のいたる所に見られるようになりました。
しかしながら、その繁殖力ゆえに、広葉樹林の成長が阻害され、竹林に変貌してしまうという被害をもたらし始めています。
次のようなニュースもあります。
紀南地方で世界遺産の熊野古道や天然記念物になっている神社の森に竹林が侵入し、害を及ぼしている。白浜町の大辺路「富田坂」では、イノシシがタケノコを掘るため、大きな穴が開いたり、石畳が動いたりしている。町は「このままでは貴重な文化財が壊れてしまう」と本年度から本格的な対策に乗り出す。
竹林は、禅に限らず、日本文化に大きく関わってきました。
その竹林が日本の文化遺産をも破壊しつつあるということ、とても皮肉な現象です。
この写真は、天童寺から古天童への道の途中にある孟宗竹の林。
道元禅師が日本に持ち帰ったとしたら、この竹の先祖の種を持ち帰ったのでしょうか。
> kameno先生
この道元禅師の逸話、以前興味があって調べてみたのですが、正直、良く分からないんですよね・・・まぁ、以前当方にて、「道元禅師と竹」という記事を書いてみた際には、説法の中に、「竹」に関する様々な提唱があるのを見付けておりますので、まったく無縁とも思えませんが、伝記的記述がないようですので、なんとも言えないのが難しいところです。
投稿者 tenjin95 | 2007年5月15日 09:26
tenjin95さん、コメントありがとうございます。
そうですよね、私も出典を知りたいと思っているのですが見つかりません。
もし寂照院の寺伝があるのなら、一度拝見したいものです。
日本に持ち帰ったとしたら、まさか株を持って帰ったわけではないし、数十年に一度だけ実るという竹の種でしょうか・・・・
また、日本全国へ広まったのは1746年の薩摩藩による移入(琉球王国から)によってと考えられているとのことですから、本格的に孟宗竹が増えたのは僅か250年ほど前なのですね。
凄まじい繁殖力に驚かされるばかりです。
投稿者 kameno | 2007年5月15日 20:16
> kameno先生
> 凄まじい繁殖力に驚かされるばかりです。
禅の語録では、無用なのに数多く存在するモノを喩えまして、「稲麻竹葦」なんて言い方をしておりますので、この増え方をするのも諾なるかな、という感じもいたします。
投稿者 tenjin95 | 2007年5月16日 09:26
tenjin95さん
私は、稲麻竹葦については、敵陣をびっしりと取り囲む整然とした十重二十重の兵隊というイメージでしたが・・・・野放図に繁茂する様子というのは、まさに放ったらかしの竹林そのものですね。
http://wiki.livedoor.jp/turatura/d/%B0%F0%CB%E3%C3%DD%B0%B1
貞昌院の裏山も、10年前はうっそうとした竹林となっていました。今は竹林を伐採し、その後に枝垂桜と梅を植えておりますが、本当に大変な作業でした。
数年間は竹の根が生きていて、筍との格闘だったことを思い出します。
投稿者 kameno | 2007年5月16日 12:13