八月盆も最終日を迎えました。
今夕︵地域によっては16日の夕方︶送り火をして、お盆の間お迎えしていたご先祖様、あまねくみ魂をお送りします。
そして、今日は終戦の日でもあります。
2005年のブログ記事太平洋戦争空襲~終戦の日において、貞昌院の先代住職 亀野寛量大和尚が記録した﹁太平洋戦争終戦の日の記録﹂をご紹介しましたが、今日は、その記述に補足を加えて改めてご紹介したいと思います。
囲み青い文字の部分が原文=永野連合町内会発行﹃永野郷土誌﹄︵編纂委員長 ・貞昌院先代住職 亀野寛量︶=よりの引用です。
また、黒文字は、今回私が補足した部分です。
『太平洋戦争空襲-終戦の日』
横浜の空襲は、昭和十九年の中頃から次第にその数を増して来た。始めは、極めて上空を、恐らく偵察か、又は空中写真撮影でもあらうか、相模湾から上陸、永野上空をかすめ、一直線に東北東に横浜の中央部を、一機又は少数機が通過する、ラジオはかけっぱなしである。
最初は敵機は余りにも上空なので、永野地区周辺の高地から、発射される高射砲陣地からの砲撃も、その砲弾の爆発というのであらうか、全く敵機には届かなかったので、その当時防空濠から半身乗り出して見ていた学童は歯ぎしりして悔やしがる。
憶か、本土空襲の二、三十分前には、警戒警報が先づ出され、敵機の数と進路が明確にラジオで放送される。
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サイパン・テニアンを拠点としたアメリカ軍による日本への空襲に対し、その想定ルートの高台や建物の屋上には﹁防空監視哨﹂が設置されました。
防空監視哨は軍の施設ではなく神奈川県警察部の管下にあり、上永谷の近辺では日野公園墓地の高台には﹁十五番﹂防空監視哨がありました。
防空監視の任務は、見張り台に上り双眼鏡で飛んで来る飛行機が敵機か味方機か、その方向・高度と機数を瞬時に判断し、その旨を早急に 警察電話で県庁にあった横浜監視隊本部に連絡するもので、監視哨長以外は全て地域の日野・日下・桜岡・永野・大岡青年学校の15-19歳の生徒がその任務に当たっていました。
︵﹃街づくりの歴史物語﹄︵港南歴史協議会編︶に防空監視哨の写真が掲載されています︶
サイレンは直ちに全市に鳴り響く、警戒警報発令と同時に、小学校への登校は中止、登校途中でも直ちに家に引き返し、警戒警報解除まで、待機の姿勢に在ることは、学童自身もよく心得、父兄もよく承知している。本土南方数百粁の地点に空襲に備えての偵察網があったものと推察される。
警戒警報発令時々刻々敵機の進路が報道される。途中進路が海上、東又は西に偏向すると、間もなく解除の報道となるが、依然として相模湾を目指してとなると必ず東京、川崎、横浜の空襲警報と変わる。
学童の登校姿は、必ず防空づきんを肩にかけ、万一の機銃砲弾による怪我の応急処理、ガス弾による応急マスク代わりに手拭所持の点検は特に厳しかった。
永野地区は当時未だ、昔ながらの純農地帯で、民家も疎で、むしろ疎開学童の受入れ地区であったので、次第に疎開家族、学童が日増しに増加の一途をたどる。市街地の親戚の者は、皆挙って頼って来たため、どの家庭も、大家族でひしめくようになった。曽て田圃等へ入ったことのない、親戚の婦女子の方も、田植草取りに精出す姿に﹁ヒル﹂に足を喰われて悲鳴を挙げる光景等随所に見られる。
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現在の港南区︵当時は中区︶エリアにあった4つの小学校のうち、日野・日下・永野小学校︵当時は国民学校︶は東京・川崎・横浜中心部からの疎開児童を受け入れていました。
逆に、桜岡小学校︵当時は国民学校︶は、児童56名が箱根に集団疎開しました。
永野地区の建物で最も目立つのは、永野小学校なので市防衛部の指示により、学校校舎の屋根は、迷彩といって、種々取交ぜた色に塗り換えられる。全職員と初等科三年以上の、警報の合い間を縫って、農協脇には百立方米、校庭の片隅に六十立方米の防火貯水槽の構築、警防団が、天神山下馬洗川からポンプで、一日掛りて貯水槽への満水作業、同じく職員と初三以上の学童で、校庭一杯に、避難防空壕を、市防衛部の指導で構築等やら、﹁ひま﹂栽培、﹁葛﹂﹁ちょ麻﹂﹁すすきの穂﹂﹁松脂﹂採取等の作業で、学業には殆んど就けなかった。
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永谷地区は幸いなことに、大規模な空襲を受けることは無かったのですが、東京、川崎方面より多くの疎開を受け入れていました。
貞昌院にも境内に十数人の家族と、やはり十人前後の兵隊さんが生活をしておりました。
兵隊さんの主な任務は、山から松の木と根を堀り出してきて、それを下野庭に作られた釜で乾溜し、飛行機の燃料︵松根油︶の製造を行うことでした。
村人や子どもたちはその松の根の掘り出しと製造の手伝いをしていました。
貞昌院の釣鐘と本堂前にあった天水桶は、戦時中鉄の供出のため撤去されていましたが、戦後になって、上記の松根油を煮出した鉄釜が戦後不要になったため、貞昌院の本堂に天水桶として設置されました。
︵現在の貞昌院の天水桶は、ブロンズ製の新しいものです︶
いざ学習となると、疎開学童の激増のため、一つの机に腰掛は空箱を利用して、四、五人宛坐席するという状態であった。然し学童には常に、横浜市内の大部分の学童は皆親下を離れて、遠く箱根、小田原方面へ、不自由をしのんで、集団疎開をしていることを知らせ、幸いにも当地区では、両親の下で過ごせることの有難さを考えさせ、ガンバラせていた。
偵察的な敵機の来襲の中には、超上空で爆弾、焼夷弾投下もなく、ただ高射砲陣地からは盛んな砲撃が目撃された程度であったが、続いて、夜間空襲に変った。
青年訓練夜学教室、職員室、使丁室、便所等は急遽黒布で作られた暗幕装置が施され、警防団の指導監督も極めて厳重となる。煙草を喫うにも、細心な考慮と注意を要した、之を燈火管制と称した。
小学校は、夜間空襲が激しくなると、校舎防衛のために、全職員宿直勤務の態勢に入る、万一の焼夷弾落下に備えて、校舎の到る処に満水のバケツ、﹁火はたき﹂を備え、空襲警報と同時に防空壕に入る。男子職員は、鉄カブトに身を固め、樹下に待機し、敵機襲来の状況を見守る、敵機の爆音が響くや、永野地区周辺を囲む舞岡、日野高地の高射砲陣地から、サーチライトが夜空を、射走る。サーチライトの交叉点に、飛行機の姿がハッキリ写る。飛行機の進路を追って共にサーチライトが動く、高射砲弾の炸烈の音が、耳をつんざく。時には舞岡上空に火の玉となった飛行機の姿が目につく。
敵機か身方機かは全く知るよしもなかったが、その時永野地区のあちこちから、高射砲弾の音に交って万才を叫ぶ声が谺する。夜間空襲では、編隊空襲で、丁度永野空の上に差しかかるや、一方は分れて横須賀方面へ、一方は直進して横浜、精々北方に向きを変えて、川崎、東京方面へと向っていたような気がする。さすがに軍港横須賀を思わせるものがあった。多分、横須賀近く到着と思われる頃、横須賀方面の夜空はサーチライトと高射砲弾の飛び交う光で、昼をあざむかと思われる光景が、永野小学校校庭の木陰から望まれた。空襲が激しくなるにつれて、何かと皇軍の不利がそれとなく伝ってくる。
今までは、常に本土上空へは、一機たりとも敵機は近寄せぬと、力強い報道を耳にしていただけに、不安に襲われることを禁じ得なかった。我が空軍の戦力が次第に衰えてきたため、夜間空襲は、次第に昼間の空襲へと変ってきた。
昭和二十年二月中旬頃と記憶する。
極めて上空を敵機が来襲するB29と思われる敵機の周囲を、姿は見えぬが飛行機雲の先端に、光るものがあって、数条のその先端が互いに機銃の打ち合いかと思われる様相を呈して、永野上空は、飛行機雲の大回旋模様で色どられる。爆弾も焼夷弾も投下なく、退散せしめられたようであった。警戒警報ははしきりに発令される。
昭和二十年五月二十九日午前七時半過ぎ、本土南方海上を飛行中の、敵機の大編隊が、梯段で、本土を目ざしている情報を聴取、直ちに学童登校中止の伝令は飛ぶ、続いて相模湾上空を目指しているとの情報が刻々と伝えらる。
やがて午前八時少し過ぎと思われる頃、学校校庭から見て舞岡方面から、突如として、B29の巨体の先頭機が、籠森天神山の上空を、低空で飛来し、続いて、整然と編隊を組んだ集団が、次から次えと現われ、丁度現在の美晴台渡戸の上空を過ぎたと思われる頃、第一梯段の飛行機から一斉に、黒色に見えた砲弾のようなものが次々と落下し始め、一時に大豪雨でもあるかのような響きが聞える。
更に第二、第三と、永野地区の上空を横浜の中心部目指して進む、大編隊の目撃には、唯駈然と恐怖とに身は固く何等なすすべを知らない。間もなく、小学校の東北の空は黒煙濠々と立ち上がり、大爆音が鳴り響く、横浜市街地の大部分は焦土と化してしまったのである。
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横浜大空襲は1945︵昭和20︶年5月29日に始まります。理由はその前日に行なわれた第3回原爆投下目標標選定委員会で横浜が目標から外されたことによるものでした。
アメリカ軍が、昭和20︵1945︶年5月10日に行なった第2回原子爆弾目標選定委員会での原子爆弾投下目標は下記の通りでした。
1.京都市‥AA級目標
2.広島市‥AA級目標
3.横浜市‥A級目標
4.小倉市‥A級目標
︵選定理由・直径3マイルを超える大きな都市地域にある重要目標であること、爆風によって効果的に破壊しうるものであること、来る8月まで爆撃されないままでありそうなもの︶
ここまでは横浜市が原爆投下目標都市の一つとされ、目標とされた都市は空襲が行なわれませんでした。
空襲が行なわれなかった理由は、原爆を目標の都市中心に投下し1発で完全に破壊することと、原爆のもたらす効果を正確に測定把握できるようするためです。
1945年5月29日昼間、アメリカ軍によって行われた横浜市中心部への空襲はB-29爆撃機517機、P-51戦闘機101機による無差別焼夷弾攻撃となり、横浜はわずか1時間余りで鶴見・神奈川・西・中・南・保土ケ谷区が壊滅、市域の34%が焦土と化し、人口の3分の1の31万人が被災、推定8,000~10,000人が命を落とされました。
八月十五日、敵機一機が撃墜を受け、飛行士は芹ケ谷町地区内へ落下傘で降下、機体は大破損して、現、南高校の東南山間に墜落した。
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その前八月十二日には、敵の艦載機が来襲、折しも小学校前道路の葬列行進中を、機銃掃射らしきを受けたが、突差に全員付近の民家の軒下や影に陰れ、死傷者は一人もなかった。その前八月六日広島市、八月九日長崎市に夫々爆弾が投下され、遂に実に、昭和二十年八月十五日正午、ポツダム宣言受諾、無条件降伏となったのである。 ︵﹃太平洋戦争空襲-終戦の日﹄引用ここまで︶
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■ポツダム宣言︵要旨︶
1.吾等︵合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣︶は、吾等の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を終結する機会を与える。
2.3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意を既に整えた。
3.世界の自由な人民に支持されたこの軍事力行使は、ドイツとドイツ軍が完全に破壊されたと同様、日本と日本軍が完全に破壊される事を意味する。
4.日本が軍国主義者の指導を引き続き受けるかそれとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。
5.吾等の条件は以下のとおりであり、これについては譲歩しない。執行の遅れは認めない。
6.日本を世界征服へと導いた勢力を除去する。
7.第6条の新秩序が確立され戦争能力が失われたことが確認されるまでの日本国領域内諸地点の占領
8.カイロ宣言の条項は履行されるべき。又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに吾等の決定する諸小島に限られなければならない。
9.日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る。
10.日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではない。一切の戦争犯罪人は処罰されること。民主主義的傾向の復活を強化すること。言論、宗教及び思の自由並びに基本的人権の尊重は確立されること。
11.日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段のみを保有出来る。戦争と再軍備のためのそれは認められない。
12.日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立。これが確認されたら占領は解かれる。
13.全日本軍の無条件降伏。以上の行動に於ける日本国政府の誠意について、同政府による保障が提供されること。これ以外の選択肢は、迅速且つ完全なる壊滅のみ。
■日本を救ったお釈迦様のことば
1951年9月6日﹁サンフランシスコ対日講和会議︵Treaty of San Francisco︶﹂での場面です。
サンフランシスコ対日講和会議といえば、敗戦国日本をどのような処遇にするべきかを関連国が集まって協議した会議です。
特に、ソ連はアメリカ・ソ連・イギリス・中国で日本分割を決定するべきであると強固に主張します。
もしも会議の流れがそちらの方向に進んでいたら、北海道・本州・四国・九州がばらばらに分割されていた可能性もあります。
JRジャヤワルデネ元大統領の演説中、﹁セイロンに於ける我々は、幸い侵略を受けませんでしたが、空襲により引き起された損害、東南アジア司令部に属する大軍の駐屯による損害、並びに我国が連合国こ供出する自然ゴムの唯一の生産国であった時に於ける、我国の主要産物のひとつであるゴムの枯渇的樹液採取によって生じた損害﹂は、主に日本帝国陸軍による印度洋作戦・セイロン島コロンボ空襲のことです。
この空襲により、連合軍の航空部隊、船舶に大損害を与え、さらにトリンコマリー基地空襲により空母ハーミスを撃沈、インド洋東西海域の制海制空権を日本帝国軍が掌中に収めます。
しかし、この後の拙攻により日本は敗戦への道を歩みます。
少なからずセイロン島に損害をもたらした日本に対し、JRジャヤワルデネ元大統領は﹁日本の掲げた理想に、列強国からの独立を望むアジアの人々が共感したことを忘れないで欲しい﹂と述べた上で、冒頭の﹃法句経﹄を引用し、日本に対する賠償請求を放棄し、日本が再び国際社会に復帰する道筋を作ってくれたのです。
何故アジアの諸国民は、日本は自由であるべきだと切望するのでしょうか。それは我々の日本との永年に亘るかかわり合いの故であり、又アジア諸国民が日本に対して持っていた高い尊敬の故であり、日本がアジア緒国民の中でただ一人強く自由であった時、我々は日本を保護者として又友人として仰いでいた時に、日本に対して抱いていた高い尊敬の為でもあります。
私は、この前の戦争の最中に起きたことですが、アジアの為の共存共栄のスローガンが今問題となっている諸国民にアピールし、ビルマ、インド、インドネシアの指導者の或人達がそうすることによって自分達が愛している国が開放されるという希望から日本の仲間入りをした、という出来事が思い出されます。
セイロンに於ける我々は、幸い侵略を受けませんでしたが、空襲により引き起された損害、東南アジア司令部に属する大軍の駐屯による損害、並びに我国が連合国こ供出する自然ゴムの唯一の生産国であった時に於ける、我国の主要産物のひとつであるゴムの枯渇的樹液採取によって生じた損害は、損害賠償を要求する資格を我国に与えるものであります。
我国はそう︵損害賠償を要求︶しようとは思いません。何故なら我々は大師︵釈尊︶の言葉を信じていますから。
大師のメッセージ、﹁憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む﹂はアジアの数え切れないほどの人々の生涯︵生活︶を高尚にしました。仏陀、大師、仏教の元祖のメッセージこそが、人道の波を南アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、シャム、インドネシアそれからセイロンに伝え、そして又北方へはヒマラヤを通ってチベットへ、支那へそして最後には日本へ伝えました。これが我々を数百年もの間、共通の文化と伝統でお互いに結びつけたのであります。この共通文化は未だに在続しています。それを私は先週、この会議に出席する途中日本を訪問した際に見付けました。又日本の指導者達から、大臣の方々からも、市井の人々からも、寺院の僧侶からも、日本の普通の人々は今も尚、平和の大師の影の影響のもとにあり、それに従って行こうと願っているのを見いだしました。我々は日本人に機会を与えて上げねばなりません。︵JRジャヤワルデネ元大統領の演説・1951年9月6日 サンフランシスコ対日講和会議にて︶
この演説を日本人は知っておかなければなりませんし、決して感謝の心を忘れてはならないでしょう。
実に この世においては およそ怨みに報いるに怨みを以ってせば ついに怨みのやむことがない。
堪え忍ぶことによって 怨みはやむ。これは永遠の真理である。
怨みは怨みによっては決して静まらないであろう。怨みの状態は 怨みのないことによって静まるであろう。
怨みにつれて次々と現れることは ためにならぬということが認められる。それ故にことわりを知る人は 怨みをつくらない。
﹃ブッダの真理のことば 感興のことば﹄︵中村元訳・岩波文庫)
釈尊のことばを伝える経典﹃ダンマパダ︵法句経︶﹄にある一句です。
終戦の日を迎え、この釈尊のことばが改めて心に沁みます。
句中の﹁ウラミ﹂という言葉には﹁怨み/恨み﹂両方の漢字が当てられます。
不平不満への﹁恨み﹂と違って、﹁怨み﹂には更に強く激しい人に対する感情が籠められています。
もしも戦いによって勝者には驕りが、敗者には怨みがもたらされるとすれば、そこからの離脱はかなり困難です。 戦後67年経った今でも完全なる解決がなされていないことからも判ります。
また、世界の恒久平和が人類共通の願いであっても、その共通であるはずの同じ目的を達することが如何に難しいかは、戦後からこれまでの間に世界各地でどれ程の戦争、紛争が起こっているかということを見ても明白です。
近代国家の多くは、巨大な軍事力を誇示することによって自らの安全を確保しています。
そして、自らの国・民族・宗教の安全を守り自らの平和を守るという大義名分の下、戦争、紛争が繰り返されてきました。
敵対を生み出す源は、自己中心のエゴイズムに他なりません。
私たちが自己中心的なエゴイズムを他人に押し付けるのと同じように、国家間、民族間でも自国・同胞の都合によって敵と味方という区別を作り出しているともいえます。
それゆえ、自国中心の国家エゴイズムから脱却すること無しに平和の実現は不可能でしょうし、ひいては自らの安全を守ることも出来ないでしょう。
戦後の日本は、確かに様々な問題を孕んいることは否めませんが、67年に亘り戦争・紛争を引き起こすことの無かった数少ない国です。 この事実は大きな意味を持ちます。 誇るべき事実です。
終戦の日にこそ、先人の記録、そして釈尊の教えを改めて噛み締めたいものです。
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