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2005年8月15日
太平洋戦争空襲?終戦の日
横浜の空襲は、昭和十九年の中頃から次第にその数を増して来た。始めは、極めて上空を、恐らく偵察か、又は空中写真撮影でもあらうか、相模湾から上陸、永野上空をかすめ、一直線に東北東に横浜の中央部を、一機又は少数機が通過する、ラジオはかけっぱなしである。
最初は敵機は余りにも上空なので、永野地区周辺の高地から、発射される高射砲陣地からの砲撃も、その砲弾の爆発というのであらうか、全く敵機には届かなかったので、その当時防空濠から半身乗り出して見ていた学童は歯ぎしりして悔やしがる。
憶か、本土空襲の二、三十分前には、警戒警報が先づ出され、敵機の数と進路が明確にラジオで放送される。
サイレンは直ちに全市に鳴り響く、警戒警報発令と同時に、小学校への登校は中止、登校途中でも直ちに家に引き返し、警戒警報解除まで、待機の姿勢に在ることは、学童自身もよく心得、父兄もよく承知している。本土南方数百粁の地点に空襲に備えての偵察網があったものと推察される。
警戒警報発令時々刻々敵機の進路が報道される。途中進路が海上、東又は西に偏向すると、間もなく解除の報道となるが、依然として相模湾を目指してとなると必ず東京、川崎、横浜の空襲警報と変わる。
学童の登校姿は、必ず防空づきんを肩にかけ、万一の機銃砲弾による怪我の応急処理、ガス弾による応急マスク代わりに手拭所持の点検は特に厳しかった。
永野地区は当時未だ、昔ながらの純農地帯で、民家も疎で、むしろ疎開学童の受入れ地区であったので、次第に疎開家族、学童が日増しに増加の一途をたどる。市街地の親戚の者は、皆挙って頼って来たため、どの家庭も、大家族でひしめくようになった。曽て田圃等へ入ったことのない、親戚の婦女子の方も、田植草取りに精出す姿に﹁ヒル﹂に足を喰われて悲鳴を挙げる光景等随所に見られる。
永野地区の建物で最も目立つのは、永野小学校なので市防衛部の指示により、学校校舎の屋根は、迷彩といって、種々取交ぜた色に塗り換えられる。全職員と初等科三年以上の、警報の合い間を縫って、農協脇には百立方米、校庭の片隅に六十立方米の防火貯水槽の構築、警防団が、天神山下馬洗川からポンプで、一日掛りて貯水槽への満水作業、同じく職員と初三以上の学童で、校庭一杯に、避難防空壕を、市防衛部の指導で構築等やら、﹁ひま﹂栽培、﹁葛﹂﹁ちょ麻﹂﹁すすきの穂﹂﹁松脂﹂採取等の作業で、学業には殆んど就けなかった。
いざ学習となると、疎開学童の激増のため、一つの机に腰掛は空箱を利用して、四、五人宛坐席するという状態であった。然し学童には常に、横浜市内の大部分の学童は皆親下を離れて、遠く箱根、小田原方面へ、不自由をしのんで、集団疎開をしていることを知らせ、幸いにも当地区では、両親の下で過ごせることの有難さを考えさせ、ガンバラせていた。
偵察的な敵機の来襲の中には、超上空で爆弾、焼夷弾投下もなく、ただ高射砲陣地からは盛んな砲撃が目撃された程度であったが、続いて、夜間空襲に変った。
青年訓練夜学教室、職員室、使丁室、便所等は急遽黒布で作られた暗幕装置が施され、警防団の指導監督も極めて厳重となる。煙草を喫うにも、細心な考慮と注意を要した、之を燈火管制と称した。
小学校は、夜間空襲が激しくなると、校舎防衛のために、全職員宿直勤務の態勢に入る、万一の焼夷弾落下に備えて、校舎の到る処に満水のバケツ、﹁火はたき﹂を備え、空襲警報と同時に防空壕に入る。男子職員は、鉄カブトに身を固め、樹下に待機し、敵機襲来の状況を見守る、敵機の爆音が響くや、永野地区周辺を囲む舞岡、日野高地の高射砲陣地から、サーチライトが夜空を、射走る。サーチライトの交叉点に、飛行機の姿がハッキリ写る。飛行機の進路を追って共にサーチライトが動く、高射砲弾の炸烈の音が、耳をつんざく。時には舞岡上空に火の玉となった飛行機の姿が目につく。
敵機か身方機かは全く知るよしもなかったが、その時永野地区のあちこちから、高射砲弾の音に交って万才を叫ぶ声が谺する。夜間空襲では、編隊空襲で、丁度永野空の上に差しかかるや、一方は分れて横須賀方面へ、一方は直進して横浜、精々北方に向きを変えて、川崎、東京方面へと向っていたような気がする。さすがに軍港横須賀を思わせるものがあった。多分、横須賀近く到着と思われる頃、横須賀方面の夜空はサーチライトと高射砲弾の飛び交う光で、昼をあざむかと思われる光景が、永野小学校校庭の木陰から望まれた。空襲が激しくなるにつれて、何かと皇軍の不利がそれとなく伝ってくる。
今までは、常に本土上空へは、一機たりとも敵機は近寄せぬと、力強い報道を耳にしていただけに、不安に襲われることを禁じ得なかった。我が空軍の戦力が次第に衰えてきたため、夜間空襲は、次第に昼間の空襲へと変ってきた。
昭和二十年二月中旬頃と記憶する。
極めて上空を敵機が来襲するB29と思われる敵機の周囲を、姿は見えぬが飛行機雲の先端に、光るものがあって、数条のその先端が互いに機銃の打ち合いかと思われる様相を呈して、永野上空は、飛行機雲の大回旋模様で色どられる。爆弾も焼夷弾も投下なく、退散せしめられたようであった。警戒警報ははしきりに発令される。
昭和二十年五月二十九日午前七時半過ぎ、本土南方海上を飛行中の、敵機の大編隊が、梯段で、本土を目ざしている情報を聴取、直ちに学童登校中止の伝令は飛ぶ、続いて相模湾上空を目指しているとの情報が刻々と伝えらる。
やがて午前八時少し過ぎと思われる頃、学校校庭から見て舞岡方面から、突如として、B29の巨体の先頭機が、籠森天神山の上空を、低空で飛来し、続いて、整然と編隊を組んだ集団が、次から次えと現われ、丁度現在の美晴台渡戸の上空を過ぎたと思われる頃、第一梯段の飛行機から一斉に、黒色に見えた砲弾のようなものが次々と落下し始め、一時に大豪雨でもあるかのような響きが聞える。
更に第二、第三と、永野地区の上空を横浜の中心部目指して進む、大編隊の目撃には、唯駈然と恐怖とに身は固く何等なすすべを知らない。間もなく、小学校の東北の空は黒煙濠々と立ち上がり、大爆音が鳴り響く、横浜市街地の大部分は焦土と化してしまったのである。
八月十五日、敵機一機が撃墜を受け、飛行士は芹ケ谷町地区内へ落下傘で降下、機体は大破損して、現、南高校の東南山間に墜落した。
その前八月十二日には、敵の艦載機が来襲、折しも小学校前道路の葬列行進中を、機銃掃射らしきを受けたが、突差に全員付近の民家の軒下や影に陰れ、死傷者は一人もなかった。その前八月六日広島市、八月九日長崎市に夫々爆弾が投下され、遂に実に、昭和二十年八月十五日正午、ポツダム宣言受諾、無条件降伏となったのである。
永野連合町内会発行 永野郷土誌︵編纂委員長 亀野寛量︶より
<文> 貞昌院先代住職 亀野寛量
文中の地名につきましては下記をご参照ください。
終戦の日の話を父に話しましたら
当日、6歳だった父は墜落現場を
見に行ったことを話してくれました。
なかなか昔の事を聞く機会がない
のですがいいきっかけを作って頂
けて感謝しております。
投稿者 YK | 2012年10月29日 10:34