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| どんど焼き・左義長 »
2009年1月13日
先日の歴史カフェの際に、参加された方により、戦時中の永谷地区の思い出が語られました。
その中の幾つかをご紹介いたします。
永谷地区は幸いなことに、大規模な空襲を受けることは無かったのですが、東京、川崎方面より多くの疎開を受け入れていました。
貞昌院にも境内に十数人の家族と、やはり十人前後の兵隊さんが生活をしておりました。
兵隊さんたちは主に何をしていたかというと、山から松の木と根を堀り出してきて、それを下野庭に作られた釜で乾溜し、飛行機の燃料を作っていたということなのです。
これは松根油と呼ばれるもので、村人たちはその松の根の掘り出しと製造の手伝いをしていたそうです。
松根油︵しょうこんゆ︶は、マツの伐根︵切り株︶を乾溜することで得られる油状液体である。松根テレビン油と呼ばれることもある。太平洋戦争中の日本では航空ガソリンの原料としての利用が試みられ、戦時中の日本の窮乏ぶりを語る例としてしばしば取り上げられる。
松根油はよく樹液や樹脂︵松やに︶あるいはそれらからの抽出物と混同されるが、このうち樹液は木部を流れる水および師部を流れる糖などを含む水溶液であり関係ない。松根油はテレビン油の一種であり、上質なテレビン油は松やにを水蒸気蒸留して得るが、松根油はマツの伐根を直接乾溜して得られるものであり、採取した松やにから得るものではない。戦前は専門の松根油製造業者も存在し、塗料原料や選鉱剤などに利用されていた。昭和10年頃の生産量は6,000キロリットルほどであった。
︵Wikiペディアより引用︶
しかし、200本分の松の大木の根から製造される松根油をもって、ようやく航空機が一時間飛行できるかどうかというところであり、しかも精製がうまくされていないとエンジントラブルを起こす原因にもなりました。
フィリピンからの原油輸送経路を断たれた日本にとっては最終手段ともいうべきものだったのでしょうが、村の人々も﹁こんなことで日本は大丈夫だろうか﹂と心中で感じていたということです。
昭和20年5月29日には、横浜大空襲へ向かうB29の整然と編隊を組んだ集団が、次から次へと現われ天神山を掠めて飛行していき、豪雨のような大音響とともに黒煙が立ち込め、横浜中心部は焦土と化します。
この詳細は、太平洋戦争空襲?終戦の日 という記事も併せてご参照くださればと思います。
8月15日、B29一機が撃墜を受け、飛行機は現在の南高校の付近へ墜落、飛行士は芹ケ谷の付近へと落下傘で降下しました。
住民たちは一斉に飛行士の降下した辺りにわ?っと押し寄せたそうですが、両手を挙げて投降する兵士を丁重に抱え危害を加えることなく三輪自動車に乗せて警察に届けたそうです。
折りしもその後まもなくポツダム宣言受諾、無条件降伏の玉音放送が流れ終戦の時を迎えました。
歴史カフェの最後に、総代さんより﹁神風特別攻撃隊﹂を編成したとされる大西瀧次郎中将が割腹自殺した際の遺書が掲載されている﹃文藝春秋﹄1月号をご紹介いただきました。
大西中将は、特攻隊戦死者及び遺族への謝罪を次のように書き遺しています。
特攻隊の英霊に曰す。善く戦いたり、深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。然れども其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。吾、死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。
次に一般青壮年に告ぐ。我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い、聖旨に副い奉り、自重忍苦するの戒とならば幸なり。隠忍するとも日本人たるの矜持を失うなかれ。
諸子は国の宝なり。平時に処し、猶を克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を尽せよ。
︵下線はkameno記︶
大西中将は終戦の翌日に割腹自殺を図りました。
割腹の際には、通常介錯を頼むものですが、大西中将は、割腹自殺の際に特攻隊として死んで行ったものの苦しみを分かち合うため、介錯をつけなかったとのことです。そして医者を呼ぶなと厳命し6?7時間苦しみを味わいながら息を引き取りました。
﹁日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を尽せよ﹂
そして、特攻隊、義烈空挺隊員たちの遺された
﹁戦争はもう続けるべきではない﹂
﹁戦争を二度と繰り返してはしてはいけない﹂
これらの言葉を私たちは重く受け止めていく必要があると感じます。