本当のラストコマンドポスト

サイパンの最北端、バンザイクリフの直ぐ近くに ラストコマンドポスト があります。
マッピ山の岩肌を刳り貫いて造られた日本軍最後の司令部の跡とされている史跡です。
しかし、そこは本当のラストコマンドポストではありません。

サイパン北西海岸のタナパグ(現在のサンローク)から内陸に1キロほどほど入った峡谷が日本軍最後の司令部の置かれた本当のラストコマンドポスト、通称「地獄谷」であり、南雲忠一中将自害の地でもあります。
自由行程の日に行ってみました。

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ここが通称「地獄谷」の入口です。
奥に見える山の斜面の洞穴群が本当のラストコマンドポストです。
地獄谷に入るためには、民家の畑と鶏舎、豚舎があるこの場所を通らなければなりません。
バンザイ突撃が行われた1944年7月6-7日には、戦場は「死の谷」と呼ばれるほど死体が累累と積み重なっていた場所です。

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牛が道を塞いでいました。

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鬱蒼としたジャングルを分け入って進むこと20分ほど・・・・
途中から急斜面を登ったところでようやく洞穴群にたどり着きます。
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洞穴は悉くアメリカ軍の火炎放射器による攻撃のため、内部が焦げ付いています。
雨季ということもあり、むっとする湿気と暑さ、そして独特の場の雰囲気があります。
大本営本部との通信も困難となり、兵器、弾薬そして食料も消費しきってしまった中で、指揮官をも失った3000名もの日本軍兵士たちは太平洋最後の防波堤として故郷を守る思を抱きながら、無念の最期をここで迎えることとなりました。

一つひとつの洞穴に日本酒を注ぎ、読経させていただきました。

 


1944(昭和19)年6月16日、アメリカ軍第27歩兵師団はサイパンに上陸後、直ちにアスリート飛行場に向け進撃しました。
アメリカ軍は火炎放射器で一気に畑を焼き払っては進むという作戦によりその日の夜には飛行場に到達します。
飛行場を死守したい日本軍は戦車第9連隊を中心に約8000名が総攻撃を行ないましたがアメリカ軍の圧倒的戦力の前に全滅してしまい、翌18日にはアスリート飛行場がアメリカ軍の手に渡ってしまいました。
6月27日、日本軍第317大隊はアスリート飛行場奪回の為に600人規模の夜襲をかけましたが、アメリカ軍に包囲され全滅。
タポチョ山を拠点に置いていた日本軍はサイパン北部へ後退を余儀なくされ、6月29日から地獄谷の洞穴内に拠点をおきます。
最大の街、ガラパンでは6月28日から5日間に亘り激しい市街戦が行われ、約2万人もの民間人、日本軍部隊は日本軍は島の北端マッピ崎に追い詰められます。1万人を越える日本人が、最北端のマッピ岬の断崖から80メートル下の海に次々と身を投じました

 

サイパン島の皇軍将兵に告ぐ。米軍進攻を企画してよりここに二旬余、全在島の将兵及び軍属はよく協力一致、善戰敢闘、随所に皇軍の面目を発揮し負荷の重任を完遂せんことを期せり。 然るに天の時を得て、地の利を占むる能はず、人の和を以て今日に及びたるも、今や戦ふに資材なく、攻むるに砲類悉く破壊し、戦友相次いで倒る。無念七生報復を誓ふ暴虐なる進攻依然たり。サイパンの一角を占領するといえども熾烈なる砲撃下に散華するにすぎず、今や止まるも死、進むも死、生死須らくその時を得て帝国男子の真骨頂あり。今や米軍に一撃を加へ太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く、生きて虜囚の辱めを受けず勇躍全力を尽くして従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし。茲に将兵とともに聖壽の無窮皇国の彌栄を祈念すべく敵を索めて発進す。続け。(『中部太平洋方面艦隊司令長官訓示』)

 

7月6日、南雲中将は陸軍最高指揮官・斎藤義次中将と連盟で「中部太平洋方面艦隊司令長官訓示」を出し、地獄谷の洞穴で自害します。
南雲中将らが自害した夜、残った日本軍兵士約3000名(歩兵第118連隊・歩兵第135連隊・歩兵第136連隊・43師団司令部・43師団野戦病院・独立山砲第3連隊・船舶工兵16連隊・海軍各種部隊などとされる)は、将校、士官無しの「バンザイ突撃」を開始。

この戦闘でアメリカ軍に死傷者658名の損害を与えたものの、日本軍はほぼ全滅。
7月9日にアメリカ軍はサイパン島の占領を宣言しました。


 

地獄谷の洞穴から戻ると、地元の方がそこに生えていた椰子の実を採ってご馳走してくれました。
椰子ジュースがこんなに美味しいとは。
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この付近にはまだ様々な遺物が転がっています。
地獄谷の入口にある民家には地獄谷から集めた砲弾が無造作に置かれています。

この地も、不発弾が多いそうなので充分な留意が必要でしょう。

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そして、この地獄谷も民有地を通った先にあり、地元の方々の温かい協力をいただいています。
サイパンにはこのような場所が残されているということ、そしてサイパン攻防の歴史を私たちは知っておく必要があります。


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投稿者: kameno 日時: November 21, 2011 3:27 AM

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