« 伊都伎島神・厳嶋神社・嚴島神社 | 最新記事 | 呉 点描 »

 広島駅前からは広島電鉄市電に乗り、原爆ドーム前で降りると、相生橋から広島平和公園に渡ることができます。 
相生橋からの光景。左が原爆ドーム︵広島県物産陳列館として開館、原爆投下当時は広島県産業奨励館︶、右側が広島平和公園。 
相生橋は現在T字型になっているので、直接広島平和公園に繋がっています。
広島駅前からは広島電鉄市電に乗り、原爆ドーム前で降りると、相生橋から広島平和公園に渡ることができます。 
相生橋からの光景。左が原爆ドーム︵広島県物産陳列館として開館、原爆投下当時は広島県産業奨励館︶、右側が広島平和公園。 
相生橋は現在T字型になっているので、直接広島平和公園に繋がっています。
 
 昼間は多くの人が行き交う公園内ですが、この時間帯は他にほとんど人が居らず、ゆっくりと散策することができました。 
広大な公園内ですが、冒頭で書いた通り、原爆投下直前までは市内有数の繁華街であり、多くの方々が生活されていた場所だったのです。
昼間は多くの人が行き交う公園内ですが、この時間帯は他にほとんど人が居らず、ゆっくりと散策することができました。 
広大な公園内ですが、冒頭で書いた通り、原爆投下直前までは市内有数の繁華街であり、多くの方々が生活されていた場所だったのです。 


 レストハウス︵当時は大正屋呉服店︶
レストハウス︵当時は大正屋呉服店︶
 
 平和の灯。 
ここには、広島原爆の残り火が灯されています。 
原爆投下数日後に、市内の書店地下室倉庫でくすぶっていた火を発見した方が、カイロに火を移し、九州の自宅に持ち帰られたものです。 
その残り火は、平和の灯火として、福岡県八女市旧星野村役場で現在も絶やすことなく灯され続けています。 
現在、広島平和公園のほか、大船観音寺など全国十数カ所で大切に灯されています。関連ブログ記事→神聖なる平和の灯火
 
 
平和の灯。 
ここには、広島原爆の残り火が灯されています。 
原爆投下数日後に、市内の書店地下室倉庫でくすぶっていた火を発見した方が、カイロに火を移し、九州の自宅に持ち帰られたものです。 
その残り火は、平和の灯火として、福岡県八女市旧星野村役場で現在も絶やすことなく灯され続けています。 
現在、広島平和公園のほか、大船観音寺など全国十数カ所で大切に灯されています。関連ブログ記事→神聖なる平和の灯火
 

 平和の池には、慰霊碑があります。原爆犠牲者のみ霊を雨風から守るという意味で屋根が掛けられていて、設計は丹下健三氏によります。 
慰霊碑からは、原爆の火、原爆ドームが一直線に見渡せるように設計されています。
平和の池には、慰霊碑があります。原爆犠牲者のみ霊を雨風から守るという意味で屋根が掛けられていて、設計は丹下健三氏によります。 
慰霊碑からは、原爆の火、原爆ドームが一直線に見渡せるように設計されています。
 
 平和の池に映る原爆ドーム。
 
広島平和公園から元安川の対岸に原爆ドームがあります。 
ちょうど昇り始めた月が周囲をやさしく照らしていました。
平和の池に映る原爆ドーム。
 
広島平和公園から元安川の対岸に原爆ドームがあります。 
ちょうど昇り始めた月が周囲をやさしく照らしていました。
 

 原爆ドームは、当時は広島県産業奨励館と呼ばれていました。建築家ヤン・レッツェルによる設計で三階建てのネオ・バロック風の建物です。 
ほぼ、真上に原爆が炸裂し、中央のドームとその周囲の枠組み、外壁だけを残して建物は破壊されました。 
爆風を真上から受けたことにより、建物は奇跡的に全壊を免れました。1996年にユネスコ世界遺産に登録された理由もその一つです。
原爆ドームは、当時は広島県産業奨励館と呼ばれていました。建築家ヤン・レッツェルによる設計で三階建てのネオ・バロック風の建物です。 
ほぼ、真上に原爆が炸裂し、中央のドームとその周囲の枠組み、外壁だけを残して建物は破壊されました。 
爆風を真上から受けたことにより、建物は奇跡的に全壊を免れました。1996年にユネスコ世界遺産に登録された理由もその一つです。
 


 


 

 (Wikipediaより画像を引用︶
 
かつての街の様子や生活されていた方々に思いを馳せながらゆっくりと時間は過ぎてきました。
(Wikipediaより画像を引用︶
 
かつての街の様子や生活されていた方々に思いを馳せながらゆっくりと時間は過ぎてきました。