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2012年10月16日
大本山總持寺での行持、御征忌会で5日間ほど世間喧騒を離れた生活をしていた間に、以前、朝日新聞から取材を受けていた記事が掲載されていました。
短い文章にコンパクトに纏められているので、補足を加えながらご紹介させていただきます。
︻発見!かながわ ヒストリート︼上大岡駅周辺
京急、横浜市営地下鉄の上大岡駅︵横浜市港南区︶は、1日10万人が乗降する横浜南部の拠点駅だ。そこから10分ほど歩いた住宅地に、鎌倉時代に尼将軍と呼ばれた北条政子が通った古い街道がある。
駅前のささやかな商店街を抜けて大岡川を渡ると、目の前に小高い丘の連なりが見えてくる。この丘の尾根筋には、徒歩なら細道や階段で上がれるが、車で行くには山裾を迂回︵う・かい︶して﹁餅井坂﹂を上るしかない。急坂を上りきると、みなとみらいのビル群が見晴らせる眺望が待っている。
この餅井坂から続く尾根道は、関東各地から鎌倉に至る鎌倉古道﹁下ノ道﹂の一部。道の両側にマンションが立ち並ぶ今の様子からは想像しにくいが、1800年代初頭に編まれた﹁新編武蔵風土記稿﹂にも載っており、往時には﹁下ノ道﹂と﹁金沢道﹂の分岐点だった。坂の上り口にある石の道標が、交通の要所だったことを示している。
それにしても、なぜこんな山道なのか。貞昌院︵横浜市港南区︶の副住職で地元の歴史に詳しい亀野哲也さん︵47︶によると、源頼朝が整備した鎌倉街道は﹁いざ鎌倉﹂の早駆け用。雨が降ればぬかるむ低地を避け、見晴らしの良い尾根伝いを最短距離で結んでいた。
﹁下ノ道は、武蔵と相模の国境になった分水嶺︵ぶん・すい・れい︶をたどる。貞昌院がある上永谷周辺は相模側で、“山向こう”の上大岡とは近年まで文化圏が違い、行き来も少なかった﹂︵亀野さん︶。古い街道は、自然地形の中で人々が暮らした時代の記憶をとどめる貴重な歴史遺産だ。
貞昌院近くの下ノ道沿いには、北条政子が愛馬を休ませたことに由来する﹁馬洗橋﹂が残る。数ある鎌倉古道の中でも、鎌倉から弘明寺に至り、保土ケ谷へと続く下ノ道は政子との関わりが深い。鎌倉時代の歴史書﹁吾妻鏡﹂に、源家累代の祈願所と定めるとあり、弘明寺は頼朝や政子の信仰対象だった。
郷土史家がつくる港南歴史協議会の茅野眞一さんは、下ノ道を﹁政子の涙道﹂と呼ぶ。﹁弘明寺に実朝を暗殺した公暁を祭った、という言い伝えがある。反逆者となり死んだ孫を政子は悼んだはず﹂。実朝は政子の次男、公暁は政子の長男頼家の子ども、つまり政子の孫だった。
明治期の廃仏毀釈︵はい・ぶつ・き・しゃく︶で多くの古文書が失われ、弘明寺は﹁確認できない﹂。それでも、気丈な女性の涙を思って歩くのは、悪くない。
︵朝日新聞神奈川版 2012年10月12日朝刊︶
﹁餅井坂﹂は、港南区最戸2丁目と南区別所3丁目の境を基点とする坂ですが、バス通りから裏路地に入った所となるため、現在では知る日とぞ知る場所となっています。
しかし、かつては主要街道の要所ともいえる重要な場所でした。
餅井坂の登り口に、﹁ミナミかまくら道最戸村﹂﹁とつかミちくミようし道﹂と標された百万遍念仏塔が設置されていて、鎌倉古道下之道︵弘明寺道︶は、ここから下之道︵餅井坂を登り鎌倉方面へ向かう戸塚道︶と金沢道︵笹下釜利谷道路方面より鎌倉に向かうかねさわみち︶に分岐することを示しています。
餅井坂の由来はよく分からないそうですが、川崎の王禅寺近辺にも餅坂(餅井坂︶という地名があり、祭りや縁日に餅をついて露天で売っていた﹁餅屋﹂という屋号の家があったことに由来する︵﹃川崎の地名﹄より︶ということですので、同様の理由でしょう。
実際に、餅井坂を登り切った場所には甘酒台という地名が残されています。
餅井坂にまつわる中世の逸話として、文明18(1486)年に京都からこの地に巡行して来た道興准后師が﹃廻国雑記﹄に次のような句を残しています。
坂の上からの眺望
行きつきて
見れどもみえず
もちひ坂
ただわらぐつに
あしを喰はせて
餅井坂という名前から、餅屋があることを期待したけれども、尾根筋の坂道を登っても餅屋は見つからずがっかりした様子が描かれています。
この句にあるように、現在の鎌倉街道は大岡川沿いの谷戸を通るルートを辿りますが、鎌倉時代の鎌倉古道下之道は、主に尾根筋を通るルートとなっています。
車両の通行を目途とする現在の道とは異なり、人が足で通行する道は、見通しがよく乾いて歩きやすい道の方が好ましいということが、その理由です。
山の上の道を通ると見通しが良いので敵や獣に対して有利である。乾いていて歩きやすい。一方川沿いの道は湿地が多いので歩きにくい。どうしても大小の川を渡る必要があり、渡る橋がもしあっても木橋の寿命は7年ほどである。しかも度々壊れる。履物が﹁わらじ﹂や藁でできた靴では始末が悪い。熊・猪・オオカミ・まむし・ヒル・蜂・毒虫などと出会いやすい
﹃忘れられた街道﹄︵中根洋治・風媒社︶
﹁古道﹂と呼ばれる道は、現在では、何故こんな場所を辿るのか、と一見疑問を持つようなルートでありますが、そこには必然的な理由があるのです。
新聞記事の中にある﹁武相国境﹂と﹁鎌倉古道 下之道﹂の位置関係は下図のようになります。
赤い線が﹁武相国境﹂、青い線が﹁鎌倉古道 下之道﹂です。
より大きな地図で 鎌倉古道 を表示
この近辺の武相国境は、大岡川水系︵武蔵国︶と柏尾川水系︵相模国︶を分ける分水嶺の尾根筋の線となります。
それを斜めに超えていくのが鎌倉古道下之道です。
餅井坂から永作にかけては、﹁武相国境﹂と﹁鎌倉古道 下之道﹂が交錯する地点ですので、さまざまな物語がここから生まれました。
それらについては、これまでもブログで記載して参りましたし、今後も期を見て書いていきたいと思います。
先人たちが往来していた街道をかつての情景に思いをはせながら散歩すると、新しい発見があるかもしれません。
鎌倉古道下之道
鎌倉古道下之道-2
一遍上人逗留の地﹁ながさご﹂