曹洞宗 貞昌院 Teishoin Temple, Yokohama, Japan
こちらも併せてご参照ください
施餓鬼法要雑考
施餓鬼法要雑考2
ビデオ記録(令和6年7月26日)
◇曹洞宗では施食会(せじきえ)といいますが、貞昌院では伝統的に施餓鬼会(せがきえ)またはお施餓鬼(おせがき)としています。
(以下一般的に施食会と表記)
◇この地域では、お盆の季節になると、お寺で施食会が行われます。施食会とは、お釈迦様から伝わる経文を唱えることによって何百億倍にも膨れ上がった食べ物を、ありとあらゆる霊に施す法要です。
◇「~あまねく十方窮尽虚空周遍法界微塵刹中所有国土の一切の餓鬼に施す~」
先祖代々の法要が始まる前に読まれる「甘露門(かんろもん)」の一節です。和文と呪文で構成されているので、親しみやすいのではないでしょうか。本堂には、須弥壇(しゅみだん)と向かい合って施食棚が設けられ、「三界萬霊」すなわち欲界・色界・無色界のありとあらゆる霊に数多くの食事や供え物が施されるのです。呪文を唱えながら方丈様が次々とお焼香してまいります。
◇古来から災害の多かった日本では、御先祖様たちは地震や台風、冷害に襲われ、飢えや疫病に苦しみ、犠牲となった多くの方々の追善供養が河原や大寺院などで繰り返し行われてきました。これが施食会の原形です。
◇お経中の「餓鬼」という言葉から何を連想するでしょうか。やせ細った手足、どす黒い風貌、お腹だけが膨らんでいて飢えに苦しんでいる・・・そんなイメージでしょうか。けれども、元々はあまねく「死せるもの」を意味しました。そして、御先祖さまの霊はもとより、供養に恵まれないあらゆる霊に施しをしてきたのです。御先祖さまばかりでなく、総ての霊を救済すること、その願いが亡き人を喜ばせ、同時に私たちの生命が周りの多くの生命によって支えられていることを改めて感じます。その根底には我が身を支えてくれている多くの生命に感謝するという意味があります。
◇「餓鬼」には、別の意味が入ってきました。それは六道輪廻思想の「餓鬼世界」の住人です。こちらについても考えてみましょう。仏典によれば餓鬼には、無財餓鬼、少財餓鬼、多財餓鬼の三種類あるそうです。無財餓鬼は、貪欲に飢えているけれども、いざ食べようとすると炎となり、食べることができない餓鬼。少財餓鬼は、ごく僅かだけ食べることが許されている餓鬼。
◇しかし、最後の多財餓鬼は富める餓鬼であります。人間世界にすんで、美味贅沢を許された餓鬼です。なぜ多財餓鬼が餓鬼なのか。餓鬼の特徴は、すさまじいまでの食欲です。とすれば、飢えによって象徴されるよりも、むしろ満足を知らず、無尽蔵の欲望によって特徴づけるほうが自然です。風貌はどうであれ、何処にいようがガツガツと貪欲であれば餓鬼なのです。山のようなごちそうを前にして満足を知らなければ餓鬼なのです。私利私欲にとらわれ、ましてや他への施しなど考えも及ばないことでしょう。
◇お盆の語源「ウランバナ(孟蘭盆)」は逆さ吊りの苦しみという意味だそうです。この世は一つも思い通りにならない四苦八苦の世界です。終戦から50年経過し、日本人は懸命に働いて飢えの無い社会を築きあげてきました。けれども気がついて省みると、施しの心を、思いやりの心を失いつつあるのかもしれません。
◇昔から日本人が大切にしてきた亡き人との交流の場、お盆。久しぶりに我が家に帰ってくる御先祖さまをもてなすために、家の内外を清め、仏壇の前には精霊棚を設け、ご馳走を供えました。13日の夕刻から目印の迎え火を焚き、なすの牛やきゅうりの馬に乗っていただき、お経を上げて感謝の気持ちを表しました。盆踊りもご先祖さまたちに楽しんでいただくことから始まりました。そして、自分のご先祖さまだけでなく、これまでに費やされてきた多くの尊い犠牲と、今も支えてくれる多くの存在に感謝してきたのです。施食会は本来一年中行われる行持なのですが、お盆の風習と融合したことによってその意味は一段と深まりました。
◇私たちはとても忙しい毎日を過ごしています。そして、古来から培われてきた大切な風習を忘れてしまいがちです。けれどもこの孟蘭盆の季節にふと思い返してみることは必要なことではないでしょうか。これが施食会の真髄であると思うのです。
神奈川県第二宗務所第五教区出版委員会発行
「生きる力」平成8年(通巻第19号)より
文責・亀野哲也