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いよいよ日吉台地下壕のトンネルに入ります。
入口は慶應義塾大学日吉キャンパスの蝮谷体育館多目的コート脇 (a) にあります。
入ってしばらくは緩やかな下り勾配。
両側に排水溝が設けてあります。
明るく写っていますが、実際はそうとう暗く、各自懐中電灯持参が必須です。
このあたりは、天井はコンクリート、壁面は大谷石でした。
下り坂を進み、左に曲がると、(b)地点にある竪穴式空気孔が見えます。
竪穴式空気孔の地上部分にはこのようなキノコ型の構造物があります。
爆撃にも耐えるよう、耐弾式竪穴坑となっています。
終戦後、アメリカ軍は、この施設を見て「キノコ型の出入り口を持った迷路の地下大要塞」と称したそうです。
日本の技術の総力を投じて一年ほどでこのような施設を造り上げたのです。
さらに進みます。
トンネルの脇には、(c)機械室、(g)バッテリー充電室などがあります。
このフェンスの先は、軍令第三部(現在の高等学校校舎)、航空本部、東京通信地下壕方面へ続きます。
(立入禁止)
いよいよ中枢部へ。
ここが海軍司令長官室です。(e)
コンクリート壁面の造りが丁寧ですね。
当時は和室で、畳が敷かれていたそうです。
また、天井には、当時としては画期的な蛍光灯が灯っていました。
司令長官室脇からは、地上司令部(寄宿舎南寮・中寮・北寮)への126段の階段(f)がありました。
地上司令部は慶應義塾大学寄宿舎に設けられました。
寄宿舎は、東洋一の建物と称され、谷口吉郎氏設計により1937年に完成。
各棟40の洋室の個室があり、床暖房、食堂、水洗の洋式トイレが備わっていました。
別棟にはローマ風呂があり、寄宿舎は現在も慶應義塾大学の学生に利用されています。
話を地下壕に戻します。
中枢部近辺のトンネルは壁面がとても美しい。
(h)地点の先は民有地であり、倉庫として利用されています。
当時は食糧倉庫と、水洗式便所がありました。
(J)通信室 (K)暗号室
このあたりのトンネルは角型をしています。
通信室・暗号室には200名を超える隊員が交代で受信に当たり、暗号室では電文解読が行なわれました。
昭和20(1945)年4月7日には、沖縄に向かう戦艦大和が撃沈され、その船体が傾いていく様子が刻々と入電され、通信員たちは涙ながらに受信していたそうです。
(l)作戦室
天井には蛍光灯が灯され、昼間のように明るかったそうです。
レイテ沖海戦、硫黄島戦、戦艦大和の沖縄出撃、沖縄戦などの指揮は、この指令本部で行なわれました。
電源は地上から引かれ、停電に備えてバッテリー室も地下壕各所に設けられていました。
地下壕内部を巡った後、元の道を通り、地上へ。
地下壕内部は、終戦後70年近く経過を感じさせないほどよく保存されていました。
通気や排水もよく考えられて設計されているため、トンネル内部独特の不快な感覚もそれほどありません。
日吉台の地下壕建設が始まったのは、サイパン島が陥落した一週間後、昭和19(1944)年7月15日のことです。
絶対国防圏の重要拠点が突破され、日本の敗戦が濃厚となる中、一発逆転をねらう作戦、そして戦争末期にはいよいよ地上戦に備えるために地下壕が建設されました。
第300設営隊、第3010設営隊が編成され、超特急突貫工事が進められました。
当時の最新土木技術が投入され、民間の鉄道工業株式会社を協力作業隊として、延長2600mにも及ぶ地下壕工事が進められたのです。
今回の研修は「日吉台地下壕の保存をすすめる会」の皆様のご案内によって実施することができました。
会では、旧帝国海軍が遺した日吉台地下壕の連合艦隊司令部壕の保存活動をすすめています。
地下壕のうち、慶應義塾大学敷地部分については、大学側の理解もあり、保存されておりますが、民有地の部分については、住宅開発や土砂の流入、放置されたままといったことで、次第に失われつつあります。
「日吉台地下壕」坑口が解体へ、戦争伝える貴重な遺構/横浜第2次大戦末期に旧日本海軍が建造した横浜市港北区の地下壕遺跡のうち、民有地にある坑口が宅地開発に伴い解体されることが16日、分かった。壕は海軍の中枢機関が置かれた第一級の戦争遺跡として知られ、専門家は「戦争の実相を伝える貴重な遺構が消える」と危惧している。
地下壕は大戦末期の1944~45年、旧海軍が慶大日吉キャンパスの台地を借用して建設し、内部に連合艦隊司令部や航空本部を置いた。慶大敷地内の壕は現在、同大が保存している。
今回問題になっているのは、台地の端に位置する民間業者の所有地。地下壕の坑口が4カ所あるが、3月下旬からの宅地造成のため一部の解体が進む。坑口の存在は50年代から知られていたが、民有地でもあり、専門家による調査は進んでいなかった。
市民や研究者でつくる「日吉台地下壕保存の会」の大西章会長(慶応高校教諭)は「地下壕の構造がしっかり残っており、この一帯が海軍の中枢だったことが分かる」と遺跡の意義を説明。慶大の安藤広道教授(考古学)は「地元の横浜市が十分な調査をすべきだった。誰にも知られずに解体されることは、文化財行政にとって大問題だ」と話している。
近代以降の戦争遺跡を保全する行政の枠組みは十分でない。文化庁は15年にわたり全国で調査を続けているものの、遺跡の役割や意義の「公式記録」となる報告書は、歴史認識をめぐる議論などを背景に、刊行されないままだ。遺跡が開発などで損なわれかねない現状に、懸念の声が上がっている。
今回の件で、横浜市の文化財担当は「貴重な遺跡であることは認識しているが、法的な規制がない」と説明。戦争遺跡を市の文化財などに位置づけ、保護することについても「国の調査動向をにらみながら検討したい」と慎重だ。
背景には、国による戦争遺跡の位置づけの曖昧さがある。文化庁は1998年度から、500超の「政治・軍事に関する遺跡」を調査、うち51件は詳細な現地調査も行ったが、報告書は未刊。同庁記念物課は「まとめる作業に時間がかかっている」と説明する。 調査の事情を知る関係者は、こうした背景には「集団自決」が強制かどうかが議論になっている沖縄戦などを念頭に、歴史の「負の側面」を文化財とすることに消極的な「政治的判断」もある、と指摘する。
しかし、国ではなく地元自治体が保存を主導する方策はある。専門家らでつくる「戦争遺跡保存全国ネットワーク」の代表を務める十菱駿武・山梨学院大客員教授(考古学)は「文化財は国の動向に左右されず、地域が主体となって守るべきだ」と訴えている。
(神奈川新聞 2013/4/17)
このような貴重な遺産がきちんと保存され、後世に受継がれていくことを望みます。
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亀野様、urlをようやく開くことができました。戦争遺跡を詳細に調査され、感服いたしました。私も数年前サイパン、テニアンに行きましたが、アメリカでは既に30年以上前に調査・保存がほぼ完了し、観光レベルでもかなり高い調査が出来るようになっていると感じました。金属製の案内板が各所にあって日本語と英語で写真付きで説明が書かれています。研究書も売られていて私も購入してきました。英文なのでパラパラとしか読んでませんが・・日本との差が痛感されます。国レベルのアジア太平洋戦争の遺跡は沖縄に多くがあり、そこには集団自決や従軍慰安婦の問題が絡み、文化庁、国はこれらの記述に神経質になり、全国51箇所の戦争遺跡の詳細報告書がゲラまで出来ているにもかかわらず凍結された状態です。県や市は国の動向を伺い、独自の保存、史跡文化財指定が出来るにもかかわらず、行おうとしてきませんでした。日吉台地下壕は県の埋蔵文化財周蔵地の指定をこの秋にようやく受けましたが、より高い法の保護が必要です。曹洞宗のご住職の方々が高い関心を持ってくださって心強い限りです。一度戦争が起きればそこには戦争遺跡が残されます。アジア太平洋全体にアジア太平洋戦争の遺跡が数知れず残されています。私は日本に、世界に戦争遺跡をこれ以上増やさないためにも戦争遺跡の保存の活動を微力ながら続けていきたいと思っています。また是非ご一緒に活動できれば幸いです。
投稿者 谷藤基夫 | 2013年12月24日 19:57
谷藤さま
このたびは詳細なご案内をいただきまして有難うございます。
おかげさまで、これまで行なってきたサイパン・テニアンなどの戦跡と結びつけることができました。
来年、それをさらに確かめに、再びサイパン・テニアンに行く予定です。
いずれに致しましても、今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。
投稿者 kameno | 2013年12月25日 23:09