« 名取を見守る三一一観音 |
最新記事
| 宮戸島・月浜・山根旅館 »
2012年6月18日
ご縁をいただいたいる東松島市宮戸島を訪問しました。
東松島市は、宮城県内で一番被害が大きかった地域といわれています。
津波で浸水した地域は市内の73%にも及び、人口に対する死者の割合が1番高かったのです。
宮戸島も、東松島市に位置します。
島には主に4つの集落︵里浜・大浜・室浜・月浜︶があり、震災当時は約1,000人の人口の島でした。
津波により家屋に甚大な被害が出たのですが、しかし、津波による死者はほとんどありませんでした。
それは何故なのでしょうか。
今回、私たち横浜からの町内会災害対策委員会8名を迎えてくださったのは、宮戸コミュニティー推進委員会会長さん、月浜・室浜・里浜・大浜の組合長さん。
それぞれの地区代表と島全体の代表の方に、お忙しい中ではありますが同席いただきました。
震災時には防災無線が機能せず、津波警報のお知らせも流れなかったそうです。
しかし、地震の直後には避難所へ、という防災意識が徹底されており、さらに向こう三軒両隣すべてわかりきっている集落のこと、誰かが避難してこないと直ぐに確認することが出来ました。
人的な被害を最小限に食い止めた要因、それは
・常日頃の防災意識の高さ
・向こう三軒両隣の地域力
・大自然に対しタカをくくらない心
・不幸中の幸いなことに、明るい時間の地震であった
等々、様々なことが重なったことによるものでしょう。
震災直後、宮戸島は本州と結ぶ連絡橋が崩壊したため、交通手段が途絶した孤島となってしまいました。
津波により家屋に甚大な被害が出たため、被災されたかたは家財を一切無くした方が多く、初期には宮戸小学校の体育館や津波の被害を免れた家屋に寄り添って過ごしました。
半月後、仮架橋が完成したことで、車による支援物資の運搬や、瓦礫の片付けが少しづつ進むようになるのですが、それまでの期間はその中で、震災直後には自衛隊の航空機が支援物資を運搬したり、仮架橋を建設するなど、自衛隊の多大なる力がありました。
宮戸小学校は、地域の方々による賛助会員制度があり、その御蔭で地域の方が学校を避難所として優先的に使用することがスムーズに進んだということです。
普段からの地域と学校の連携も大切なことです。
また、避難所ではペットは︵自らの手元に置きたいものですが︶必ず離れた場所に区分けすること、そして、アルコールは厳禁だということを強調されていました。
それが、避難所での集団生活に欠かせない最低限のルールだということです。
また、食料の分配については細心の注意が必要となります。
そこには、会長さん、各地区の組合長さんの役割が重要であり、まずは組合長さん同士が普段からの連携を深め、意思疎通を常に保っておくことが大切です。
これが、物資が公平に、かつ必要な場所にきちんと行き渡るために最低限必要なことだということです。
和気藹々とした雰囲気からも普段の連携の良さがよく伝わってきました。
宮戸市民センターは里浜・縄文村の一角にあります。
質実剛健なユニットハウスは、さすがBOSCH製です。
支援物資は世界各国から届いて活用されていることを実感します。