秋葉原で男女7人が死亡、10人が重軽傷を負った通り魔事件が発生してしまいました。
犠牲となられたみなさまに、まずは心より哀悼の意を表します。
丁度その事件が発生する数日前、とある会合で理容業を営む方とのお話の中で、次のようなことが話題に出ました。
︵街のみなが集まり、さまざまなアイデアを持ち寄り、一つの行事を行う会合の中で出た話です。
一見、経済的には何のメリットもないような場からこそ、新たなムーブメントが生まれてくる、その胎動を感じさせる会合でした︶
サロンは、本来、地元の方が集まって、お客さんどうしが控室で談話し、街の情報を交換する場になっていた。
数十分の散髪時間にも、お客さんとの理容師さんとの会話があった。
それが、近年、○分で○円というシステムのサロンが出てきた。
確かに、店にとっても効率的であり、お客さんにとっても短時間で散髪という用事を済ますことができる。
従業員にとっても、数さえこなせば、従前のシステムよりも数割り増しの給与が貰える。
一見いいこと尽くめのようだけど、そこには人間相互の会話も触れ合いもなく、単純な機械的流れ作業の日々が続くだけ。
これでは、人は﹁壊れて﹂いくんだよね。。。。
仮に、従業員が壊れたとしても、給与は他のサロンよりも比較的高いので、新しい従業員はは簡単に﹁補給﹂できるわけです。
短期的には、そのサロンも、従業員も、お客さんもそれぞれにメリットがあるように見えますが、けれども本当にそうなのでしょうか。
経済的効率を突き詰めたシステムの中に﹁人間性﹂が排除されてしまうと、その先に何が生まれるのでしょうか。
このことは、サロンに限らず、どの業種、社会の仕組みにもいえることです。
加藤容疑者は、犯行の前から継続的にインターネット掲示板に自分のコーナーを開設。
そこには仕事への不満や、人との付き合いが苦手な自分に対する嘆きがつづられていました。
それでも、人が足りないから来いと電話がかかってくる
俺が必要だから、じゃなくて、人が足りないから
︵6/5 02:55の書込︶